特別攻撃隊の陸軍史を確認しておく。日露戦争において白襷隊といった決死隊が編成された事例がある。これは生還を期さない任務ではなく決死の覚悟で極めて困難で危険な任務を果たすというものであった。組織的な特攻が始まる前、自発的な特攻が現場で行われることがあった。1944年(昭和19年)4月14日、アンダマン諸島へ向かう陸軍輸送船「松川丸」を護衛中の陸軍飛行第26戦隊石川清雄曹長の一式戦闘機「隼」が、米潜水艦が発射した魚雷3本を発見。機銃掃射しつつ魚雷に突入し、戦死するも爆破に成功している。1944年8月20日B-29の八幡空襲で迎撃に出た陸軍第12飛行師団隷下飛行第4戦隊の二式複座戦闘機「屠龍」装備防空部隊所属野辺重夫軍曹、高木伝蔵伍長がガートルードCに対し体当たり攻撃を敢行し戦死している。
陸軍では1943年ごろには特攻の必要を訴えるものが現われていた。1943年3月初旬、ラバウルの飛行第11戦隊上登能弘准尉は、B17は全弾命中させても撃墜できないため体当たり攻撃が必要、体当たり攻撃機を整備すべきと現地司令部に上申している。5月上旬、同じ飛行第11戦隊の小田忠夫軍曹はマダン沖でB17に体当たりして戦死している。この頃、ビルマ方面防空戦闘で陸軍戦闘機隊は、彼我の戦力の量・質の差を痛感しB29に一式戦闘機で数次の体当たりを行っていた。他に1943年11月9日ビルマで陸軍重爆中隊長西尾常三郎は組織的な500キロ爆弾での体当たりを計画すべしと日記に記している例もある。1944年5月下旬飛行第5戦隊長高田勝重はビアク島への敵来攻に独断で4機率いて敵艦船に自爆攻撃をしかける。これは爆装戦闘機の体当たりで駆逐艦級を沈める例となった。
陸軍中央で1944年初頭に航空特攻の検討が始まった。1944年3月28日航空本部に特攻反対意見が多かったことから東條英機は航空総監兼航空本部長の安田武雄中将を更迭し後宮淳大将を後任に据えた。1944年春中央で航空関係者が特攻の必要に関して意見を一致した。当初は精鋭と器材で編成し一挙に敵戦意をそぐことを重視した。そこで四式重爆撃機と97式双発軽爆撃機を改修することになり中央で2隊の準備を進めた。軍政の不振を兵の生命で補う部隊を上奏し正規部隊として天皇、中央の名でやるのはふさわしくないとして現場指揮官の臨機に定めた部隊として要員、機材の増加配属だけを陸軍大臣の部署で行うことにした。また1944年5月体当たり爆弾桜弾の研究が第3陸軍航空技術研究所で開始される。
マリアナ沖海戦の敗北で1944年6月25日元帥会議が行われた。伏見宮博恭王より「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する」と発言がある。東條、嶋田はすでに考案中であると答えた。サイパンの玉砕を受け1944年7月7日の会議で参謀本部航空参謀からもう特攻を行う以外にないと提案した。1944年7月11日第4航空技術研究所長正木博少将は「捨て身戦法に依る艦船攻撃の考案」を起案し対艦船特攻の方法を研究した。
1944年7月、鉾田教導飛行師団に99式双発軽爆撃機の特攻隊、浜松教導飛行師団に四式重爆撃機の特攻隊を編成する内示がでた。8月中旬からは四式重爆撃機「飛龍」と九九式双発軽爆撃機の体当たり機への改修が秘かに進められた。9月28日、大本営陸軍部の関係幕僚による会議で「もはや航空特攻以外に戦局打開の道なし、航空本部は速やかに特攻隊を編成して特攻に踏み切るべし」との結論により、参謀本部から航空本部に航空特攻に関する大本営指示が発せられる。
陸軍では1943年ごろには特攻の必要を訴えるものが現われていた。1943年3月初旬、ラバウルの飛行第11戦隊上登能弘准尉は、B17は全弾命中させても撃墜できないため体当たり攻撃が必要、体当たり攻撃機を整備すべきと現地司令部に上申している。5月上旬、同じ飛行第11戦隊の小田忠夫軍曹はマダン沖でB17に体当たりして戦死している。この頃、ビルマ方面防空戦闘で陸軍戦闘機隊は、彼我の戦力の量・質の差を痛感しB29に一式戦闘機で数次の体当たりを行っていた。他に1943年11月9日ビルマで陸軍重爆中隊長西尾常三郎は組織的な500キロ爆弾での体当たりを計画すべしと日記に記している例もある。1944年5月下旬飛行第5戦隊長高田勝重はビアク島への敵来攻に独断で4機率いて敵艦船に自爆攻撃をしかける。これは爆装戦闘機の体当たりで駆逐艦級を沈める例となった。
陸軍中央で1944年初頭に航空特攻の検討が始まった。1944年3月28日航空本部に特攻反対意見が多かったことから東條英機は航空総監兼航空本部長の安田武雄中将を更迭し後宮淳大将を後任に据えた。1944年春中央で航空関係者が特攻の必要に関して意見を一致した。当初は精鋭と器材で編成し一挙に敵戦意をそぐことを重視した。そこで四式重爆撃機と97式双発軽爆撃機を改修することになり中央で2隊の準備を進めた。軍政の不振を兵の生命で補う部隊を上奏し正規部隊として天皇、中央の名でやるのはふさわしくないとして現場指揮官の臨機に定めた部隊として要員、機材の増加配属だけを陸軍大臣の部署で行うことにした。また1944年5月体当たり爆弾桜弾の研究が第3陸軍航空技術研究所で開始される。
マリアナ沖海戦の敗北で1944年6月25日元帥会議が行われた。伏見宮博恭王より「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する」と発言がある。東條、嶋田はすでに考案中であると答えた。サイパンの玉砕を受け1944年7月7日の会議で参謀本部航空参謀からもう特攻を行う以外にないと提案した。1944年7月11日第4航空技術研究所長正木博少将は「捨て身戦法に依る艦船攻撃の考案」を起案し対艦船特攻の方法を研究した。
1944年7月、鉾田教導飛行師団に99式双発軽爆撃機の特攻隊、浜松教導飛行師団に四式重爆撃機の特攻隊を編成する内示がでた。8月中旬からは四式重爆撃機「飛龍」と九九式双発軽爆撃機の体当たり機への改修が秘かに進められた。9月28日、大本営陸軍部の関係幕僚による会議で「もはや航空特攻以外に戦局打開の道なし、航空本部は速やかに特攻隊を編成して特攻に踏み切るべし」との結論により、参謀本部から航空本部に航空特攻に関する大本営指示が発せられる。