特攻隊兵士の手記考その1



 更新日/2017.3.7日
 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、主として特攻隊兵士の手記、遺書を判明する限りの戦死日順に確認する。何となく流れが見えてくる気がするからである。注釈は必要な限りとして、原文の含意を汲みとることにした。

 「神風遺書」その他を参照する。これによれば次のように分類整理されている。「我が子への遺書」、「両親への遺書」、「父親への遺書」、「母親への遺書」、「兄弟・恋人への遺書」、「外国の遺書・手紙」。付け足すとすれば、これらの「家族親族宛遺書」の他に「武闘派ジハード戦挺身遺書」、「人生、生命観遺書」の項も要るであろうが、「武闘派ジハード戦挺身遺書」が削除されている気配がある。これにより、れんだいこは、「家族親族宛遺書」、「武闘派のジハード戦挺身覚悟遺書」、「人生、生命観遺書」に大別することにする。実際には複合しているが、重点によって識別する。但し、手記、遺書の日付け順に確認して行くことにする。これにより初めて「武闘派ジハード戦挺身遺書」を遺した戦士の坐り心地が良くなっただろうと思う。「特攻隊員の手記「英霊の言乃葉」(靖國神社編集・発行))」、「特攻隊員の遺書」その他を参照する。参考文献として靖国神社編「散華の心と鎮魂の誠」、神坂次郎「今日われ生きてあり」、真継不二夫「海軍特別攻撃隊の遺書」等々。「ユーチューブ神風特攻隊員たちの遺書」、「ユーチューブ特攻隊の遺書」。 

 2008.12.13日 れんだいこ拝


 1941年11月11日、真珠湾攻撃に参加する甲標的の部隊が特別攻撃隊と命名される。
【堀毛・陸軍大尉/「書簡」】
 (1943(昭和18).5.18日付けが残る遺書)
 「 弟妹ヘ 身体第一充分健康ニ注意サレヨ 兄妹仲良ク御両親様ニ孝養ヲタノム 兄ラシイコトモ出来ズ誠ニスマナカツタ 大イニ勉学修養ニ勉メ立派ナル日本人 母ニナツテクレ 身ハ亡ンデモ魂ハ永遠ニ止マツテ 國ヲ守リ皆ヲ見守ツテ居ル デハ元氣デ」。

 1944年2月26日、海軍は脱出装置を条件に人間魚雷の試作を命じた。
 1944年春、陸軍航空関係者が特攻の必要に関して意見を一致し研究が開始した。
 1944年4月、海軍艦政本部で各種水中・水上特攻兵器の特殊緊急実験が開始した。
 1944年5月、陸軍で体当たり爆弾桜弾の研究が第3陸軍航空技術研究所で開始される。
【伊藤甲子美・陸軍衛生伍長/「妻宛書簡」】
 (1944(昭和19).5.3日、マリアナ島にて戦死。亨年26歳。)
 「季代子 こう呼びかけるのも最後になりました。短かかったけど優しい妻でした。有り難く御礼申し上げます。まこと奇しき縁でしたけど、初めて幸福が訪れた様な気がして嬉しく思っていました。折角永遠の誓いを致しながら最後になりますのは、何かしら心残りですけど、陛下の御盾として果てる事は、私にとりましても光栄と存じます。短い生活で、もう未亡人と呼ばれる身を偲ぶとき、申し訳なく死に切れない苦しみが致しますが、すでに覚悟しての事、運命として諦めて頂きたいと思います。若い身空で未亡人として果てる事は、決して幸福ではありませんから佳き同伴者を求めて下さい。私は唯、幸福な生活をして頂きますれば、どんな方法を選ばれませうとも決して悲しみません。さようなら季代子、何一つの取り柄のない夫を持って、さぞ肩身の狭き思いでありませう。至らない身、お詫びを致します。何日の日か幸福な妻にさして上げたく思いながら、その機会もなく心残りでなりません。どうぞ御健やかに御暮らし下さいます様、お祈り致しています。さやうなら 」。

 1944年6月25日、元帥会議が行われ特攻が示唆された。
【篠崎眞一・海軍少佐/「妻宛書簡」】
 (1944(昭和19).6.29日、内南洋方面にて戦死。亨年24歳。東京都出身。横須賀海軍航空隊。)
 「玲子 玲子は日本一、否世界一の妻なりと思っている。苦勞のみかけ、厄介ばかりかけ、何等盡し得なかった事済まなく思っている。四月十五日以来僅な月日であったが、私の一生の半分に價する月日であった。父母に孝養を盡してくれ、私の分迄。私に逢い度くば空を見よ、飛行機を見よ、軍艦旗を見よ。私は其処に生きている。結婚のすべての手續き、六月十二日に横空で完了して置いた。くれぐれも後を賴むよ。私の出来なかった事も玲子には出来る。後顧の憂い一つなく征ける身の幸福を感謝してゐる。最愛の玲子、御身を常に見守ってゐるよ」。

 1944年7月1日、大森仙太郎少将が海軍特攻部長に発令された(正式就任は9月13日)。
 1944年8月、海軍は航空特攻に動き出し特攻兵器桜花の開発を始める。
【富田修・中尉/「父ちゃん!母ちゃん!」】
 (1944(昭和19).9.3日、台湾にて殉職。亨年23歳。長野県出身。日本大学卒。海軍第十三期飛行予備学生。富田中尉は特攻隊員ではなかった。)(引用:「英霊の言乃葉(6)」)
 「我一生ここに定まる。お父さんへ、云うことなし。お母さんへ、ご安心ください。決して僕は卑怯な死に方をしないです。お母さんの子ですものそれだけで僕は幸福なのです。日本万歳、万歳、こう叫びつつ死んでいった幾多の先輩たちのことを考えます。お母さん、お母さん、お母さん! こう叫びたい気持ちで一杯です。いかに冷静になって考えても、何時も何時も浮かんでくるのは御両親様の顔です。父ちゃん! 母ちゃん! 僕は何度も呼びます。(中略) 『お母さん、決して泣かないでください』 修が日本の飛行軍人であったことについて、大きな誇りを持ってください。勇ましい爆音を立てて先輩が飛んでいきます。ではまた」。

 1944年9月28日、大本営陸軍部から航空本部に航空特攻に関する大本営指示が発せられる。
 1944年10月17日、日本軍は捷一号作戦を発動。
【「神風」生みの親の大西瀧治郎中将の訓示】
 1944(昭和19).10.20日朝、大西瀧治郎中将が第一航空艦隊司令長官に着任(発令は10月5日)し、特攻隊員達を集め次のように訓示している。豪胆で知られていた大西は話の間中、体が小刻みにふるえ、顔面が蒼白で引きつっていたという。この日、大本営陸軍部から鉾田教導飛行師団に編成命令が下される。
 「日本はまさに危機である。この危機を救いうるものは、大臣でも軍令部総長でも、自分のような地位の低い司令官でもない。したがって、自分は一億国民にかわって、みなにこの犠牲をお願いし、みなの成功を祈る。みなはすでに神であるから、世俗的な欲望はないだろう。が、もしあるとすれば、それは自分の体当たりが成功したかどうか、であろう。みなは永い眠りにつくのであるから、それを知ることはできないだろう。我々もその結果をみなに知らせることはできない。自分はみなの努力を最期までみとどけて、上聞に達するようにしよう。この点については、みな安心してくれ。(涙ぐんで)しっかり頼む」。

 1944年10月21日、海軍、第一次神風特別攻撃隊初出撃。(空振りに終わるも大和隊隊長、久納好孚中尉未帰還。)
 1944年10月25日、神風特攻隊敷島隊(零戦6 隊長:関行男大尉)、突入に成功、米護衛空母「セント・ロー」を撃沈。他に零戦10、彗星1が突入。米艦船5隻を撃破。特攻における初戦果となる。
【関行男・大尉/「遺書」】
 1944(昭和19).10.25日、比島レイテ湾にて特攻戦死。亨年23歳。愛媛県出身。海軍兵学校卒(第70期)。神風特別攻撃隊敷島隊。最初の特攻隊指揮官である関大尉の遺書である。詳細は「最初の特攻」「最初の特攻 隊長関大尉」にある。「敷島隊五軍神の志るべ」より引用)
 「父上様、母上様 西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけ致し、不幸の段、お許しくださいませ。今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以て君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐これにすぐるものはありません。鎌倉の御両親におかれましては、本当に心から可愛がっていただき、その御恩に報ずることもできず征くことを、お許しくださいませ。本日帝国のの為、身を以て母艦に体当たりを行い、君恩に報ずる覚悟です。皆様御体大切に。

 満里子殿 何もしてゆることもできず散り行くことはお前に対して誠にすまぬと思っている。何も云わずとも、武人の妻の覚悟は十分できていることと思う。御両親様に孝養を専一と心がけ生活して行くよう。色々と思いでをたどりながら出発前に記す。恵美ちゃん坊主も元気でやれ。教え子へ。教え子よ散れ山桜この如くに」。

【谷暢夫・海軍少尉/「遺書」】
 1944(昭和19).10.25日、スルアン島海域ニテ戦死。享年20歳。神風特別攻撃隊敷島隊戦士。
 母親と面会して

 子を思う御国の母は有難し 千里万里もわれを訪ぬつ
 山よりもはるかに高し 海よりもはるかに深き 親の恩かな

 家郷への最後の書簡

 親を惟ひ 国を憂ふる心あらば 身を桜花となりて 散りゆかん

 辞世

 身は軽く つとめは重きを思ふとき 今は敵艦に ただ体当り
 身はたとひ 機関もろとも沈むとも 七たび生れ撃ちてしやまん
 「遺言 昭和18年8月23日 谷暢夫 龍人 曰く 始めありて終りある 者 鮮(すく)なし。 聖訓五ケ条 一、軍人は忠節を尽すを本分とすべし。一、軍人は礼儀を正しくすべし。一、軍人は武勇を尚(たっと)ぶべし。一、軍人は信義を重んずべし。一、軍人は質素を旨とすべし。長らくの御厚恩を謝す。何一つ孝行らしき事なき小生も最初の最後の親孝行を致します。忠孝一致とは、古人実に良く云ったものと感心します。御両親様の長命を、切に祈ります。日の本の 空征く者の 心なれ 散るを惜しまぬ 桜花こそ 御国の為に死ねる 身の幸福さ 言葉を得ず 尽忠報国」。

【永峰 肇・海軍曹長/時世の句】
 1944(昭和19).10.25日、神風攻撃隊敷島隊四番機として出撃、護衛空母「セント・ロー」を発見し撃沈。その戦闘中散華。享年19歳。
 「南溟に たとえこの身が 果つるとも いくとせ後の 春を想へば」

【植村真久・海軍大尉/「愛児への便り」】
 1944(昭和19).10.26日、比島海域にて戦死。亨年25歳。東京都出身。立教大学。海軍第十三期飛行科予備学生。神風特別攻撃隊大和隊隊員として「爆装零戦」に搭乗、比島セブ基地を出撃、スリガオ海峡周辺洋上にて戦死。
 素子、素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入ったこともありました。素子が大きくなって私のことが知りたい時は、お前のお母さん、佳代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。私の写真帳もお前の為に家に残してあります。素子という名前は私がつけたのです。素直な、心の優しい、思いやりの深い人になるやうにと思って、お父様が考えたのです。私は、お前が大きくなって、立派な花嫁さんになつて、仕合せになったのを見届けたいのですがも若しお前が私を見知らぬまま死んでしまっても、決して悲しんではなりません。

 お前が大きくなって、父に會ひたい時は九段(注、靖國神社)へいらっしやい。そして心に深く念ずれば、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ。父はお前は幸福ものと思います。生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちやんを見ると真久さんに会ってゐる様な気がするとよく申されてゐた。またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一つの希望にしてお前を可愛がって下さるし、お母さんも亦、御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。必ず私に万一のことがあっても親なし児などと思ってはなりません。父は常に素子の身辺を護って居ります。優しくて人に可愛がられる人になって下さい。お前が大きくなつて私の事を考へ始めた時に、この便りを讀んで貰いなさい。

 昭和十九年○月吉日 父 植村素子へ

 追伸、素子が生まれた時おもちやにしてゐた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。だから素子はお父さんと一緒にゐたわけです。素子が知らずにゐると困りますから教えてあげます。

【塩田寛・海軍一飛曹/「遺書」】
 1944(昭和19).10.26日、レイテ沖にて特攻戦死。亨年18歳。神風特別攻撃隊 大和隊員。
 「戦いは日一日と激しさを加えて参りました。父母上様、長い間お世話になりました。私も未だ十九才の若輩で、この大空の決戦に参加できることを、深く喜んでおります。私は潔く死んでいきます。今日の海の色、見事なものです。決してなげいて下さいますな。抑々海軍航空に志した時、真っ先に許されそして激励して下さったのは、父母上様ではなかったでしょうか。既に今日あるは覚悟の上でしょう。私も魂のみたてとして、ただただ大空に身を捧げんとして予科練に入り、今日まで猛特訓に毎日を送ってきたのです。今それが報いられ、日本男子として本当に男に花を咲かせるときが来たのです。この十九年間、人生五十年に比べれば短いですが、私は実に長く感じました。数々の思出は走馬燈の如く胸中をかけめぐります。故郷の兎追いしあの山、小鮒釣りしあの川、皆懐かしい思出ばかりです。しかし父母様にお別れするに当たり、もっと孝行がしたかった。そればかりが残念です。随分暴れ者で迷惑をおかけし、今になって後悔しております。お身体を大切に、そればかりがお願いです。親に甘えた事、叱られた事、皆懐かしいです。育子、昌子の二人は私の様に母に甘えたり叱られたり出来ないかと思うとかわいそうです。いつまでも仲良くお暮らし下さい。私も喜んで大空に散っていきます。平常あちこちにご無沙汰ばかりしておりますから、何卒よろしくお知らせ下さい。お願いします。御身大切にごきげんよう」。

【連合艦隊司令長官布告】
 機密聯合艦隊告示(布)第五十九号 布告   
  戦闘第301飛行隊分隊長  海軍大尉        関  行男
  戦闘第301飛行隊附     海軍一等飛行兵曹  中野 盤雄
  戦闘第305飛行隊附      同           谷   暢夫
   同                海軍飛行兵長     永峰   肇
  戦闘第311飛行隊附     海軍上等飛行兵曹  大黒 繁男

 神風特別攻撃隊敷島隊員トシテ昭和十九年十月二十五日1045スルアン島の30度30浬ニ於テ 中型航空母艦四隻ヲ基幹トスル敵艦隊ノ一群ヲ捕捉スルヤ 必死必中ノ体当タリ攻撃ヲモッテ 航空母艦一隻撃沈同一隻炎上撃破、巡洋艦一隻轟沈ノ戦果ヲ収メ 悠久ノ大義二殉ズ忠裂万世二燦タリ 仍テココニ其ノ殊勲ヲ認メ 全軍二布告ス

 昭和十九年十月二十八日 聯合艦隊司令長官 豊田副武

【松尾勲・一等飛行兵曹/「両親宛遺書 ああ玉と砕けん」】
 1944(昭和19).10.29(27?)日、ルソン島東方にて戦死。亨年23歳。丙種飛行予科練6期。第二神風特別攻撃隊義烈隊。
 「父母上様 喜んでください。勲はいい立派な死に場所を得ました。今日は最後の日です。皇国の興廃この一戦にあり、大東亜決戦に南海の空の花と散ります。大君の御楯となって、分隊長をはじめ共に潔く死につき、七度生まれ代わり宿敵を撃滅せん。ああ男子の本懐これに過ぐるものがまたとありませうか。これもみな長い歳月強くなれよと育ててくださった父母上と、また我が子のように育て御指導くださった分隊士先輩方々の賜と、あるいはまた血のにじむような訓練の賜と深く深く感謝いたしております。二十三年の幾星霜、良く育ててくださいました。厚く御礼申し上げます。今度がその御恩返しです。勲は良くも立派に皇国の為に死んでくれたとほめてやってください。本当に兄弟の中で私は幸せ者でした。喜んでおります。弟も立派な軍人として御奉公できるようにしてください。お願い致します。もう何も思い残すことはありません。

 父母上様 こんど白木の箱で帰ります。靖国神社で会いませう。長い間ありがとうございました。くれぐれも御身大切になさいますよう。

 ああ雄々しき名も彗星艦爆隊、我ら第五義烈隊特別攻撃自爆隊、向かうところは敵空母へ急降下。最後の影をカメラにおさめていただきましたので、いずれゆっくりニュース映画で見てください。笑って艦爆隊一六勇士の姿を見てやってください。ああ玉と砕けん特別攻撃。最後の夜 十月二十八日 0100 於マニラ 勲 父上様母上様 咲くもよし 散るも又よし 桜花」。

【広田幸宣・海軍少尉/「かあちゃんよ」】
 1944(昭和19).10.30日、比島方面にて戦死。亨年21歳。新潟県出身。海軍甲種飛行予科練習生第十期。第一神風特別攻撃隊葉桜隊。初期の頃の特攻で、予科練同期3名を含む8名で出撃した。アメリカ側の資料によっても空母フランクリン、軽空母ベロー・ウッドの2隻に大損害を与えている。引用「英霊の言乃葉(2)」
 「拝啓 たびたびのお便りうれしく拝見致しました。この前の便箋7枚の手紙を見ては涙がとめどなく頬を伝わりました。金送りましたが、こんなに喜んでいただけるとは思いませんでした。神様などへ備えなくともよろしいですから、すぐ用立ててください。少し金持ちらしくやってください。財布が底抜けにならぬよう一ケ月に一回は必ず補給します。(中略) 私は貯金はこちらでたくさんやっていますから、送った金はぢゃんぢゃん使ってください。(中略) みかん着いたそうで何よりです。できたらもっと送りませう。玉ちゃんにも小遣いできるだけ送りますからお嫁に行く日の貯金に、

 お母さんの書いて寄越されたことも近い中にあるかも知れません。今度、金が自由になったらゆっくりと面会に来られないですか。やがては泊りもありますし、来ますし、共に寝ることもできるわけです。汽車は酔わなければ良いのだがなぁ。トランク要るなら送っても良いです。ではお体大切に。 ベッドの中で   懐かしい母上様、かぁちゃんよ!!」。

 1944年11月7日、陸軍、特別攻撃隊"富嶽隊"初出撃。(山本中尉機未帰還。)
 1944年11月20日、海軍、回天特攻隊"菊水隊"4基、ウルシー環礁で初出撃。戦果未確認。初の水中特攻
 1944年11月24日、B-29による東京初空襲。陸軍、震天制空隊第10飛行師団第47戦隊見田義雄伍長、B-29ラッキー・アイリッシュ号に体当たりによる空中特攻。ラッキー・アイリッシュ号撃墜。初の組織的空中特攻。
 1944年11月26日、義号作戦。ブラウエン飛行場に"薫空挺隊"降下。戦果未確認。初の空挺特攻。
【富澤幸光・海軍中尉/「絶筆 靖國神社で待つてゐます」】
 1945(昭和20).1.6日、比島にて戦死。亨年23歳。北海道桧山郡江差町出身。北海道第二師範学校卒。海軍第十三期飛行科予備学生。神風特別攻撃隊第十九金剛隊。引用:「英霊の言乃葉(2)」
 「お父上様、お母上様、益々御達者でお暮らしのことと存じます。幸光は闘魂いよいよ元気旺盛でまた出撃します。お正月も来ました。幸光は靖国で24歳を迎えることにしました。靖国神社の餅は大きいですからね。同封の写真は**で猛訓練時、下中尉に写していただいたのです。眼光を見てください。この拳(こぶし)を見てください。

 父様、母さまは日本一の父様母様であることを信じます。お正月になったら軍服の前にたくさん御馳走をあげてください。雑煮餅が一番好きです。ストーブを囲んで幸光の思いで話しをするのも間近でせう。靖国神社ではまた甲板士官でもして大いに張り切る心算です。母上様、幸光の戦死の報を知っても決して泣いてはなりません。靖国で待っています。きっと来て下さるでせうね。本日恩賜のお酒を戴き感激の極みです。敵がすぐ前に来ました。私がやらなければ父様母様が死んでしまう。否日本国が大変なことになる。幸光は誰にも負けずきっとやります。

 ニッコリ笑った顔の写真は父様とそっくりですね。母上様の写真は幸光の背中に背負っています。母様も幸光と共に御奉公だよ。何時でも側にいるよ、と云ってくださっています。母さん心強い限りです。幸雄兄、家のことは万事頼む。嘉市兄と共に弟嘉平、久平、保則君を援けて仲良くやってください。恩師に宜しく申し上げてください。十九貫の体躯、今こそ必殺轟沈の機会が飛来しました。小樽の叔父、叔母様に宜しく。中野の祖母様に宜しく。国本師顕殿、お世話を謝します。叔父さん、幸光は立派に大戦果をあげます」。

 1945.1.9日、リンガエン湾にて陸軍海上挺身隊第12戦隊(戦隊長:高橋攻大尉)40隻(一説には70隻)が米上陸部隊に対してマルレ、震洋による挺身攻撃。戦車揚陸艇など撃沈6隻、撃破10隻の戦果を挙げる。
 1945.1.12日、在フィリピン陸軍航空部隊、最後の特攻出撃。
【石川誠三・海軍中尉】
 海軍中尉/海軍金剛隊イ五八潜乗組員。1945(昭和20).1.12日、グアム島アブラ港で人間魚雷「回天」に乗り込み特攻戦死(享年21歳)。
 「母上よ 消しゴム買ふよ 二銭給(たま)へと 貧をしのぎし あの日懐かし」
 (お母さん、出撃に当って、消しゴム代の二銭をねだった、あの貧しかった少年の日が、今とても懐かしいです)

 1945年1月25日、在フィリピン海軍航空部隊、最後の特攻出撃。
 1945年2月19日、連合軍、硫黄島に上陸作戦開始。硫黄島戦始まる。海軍、硫黄島周辺の艦船に向け特攻作戦開始。
【小松武・海軍上等飛行兵曹/「遺詠」】
 1945(昭和20).2.21日、硫黄島周辺の艦船攻撃中戦死。高知県。神風特別攻撃隊/第二御盾隊。
 「待ちに待った晴れの出陣を、明日に控えました。突然でいささかあわてましたが、大いに張り切っておりますので、何とぞご安心下さい。生を享けて、ここに二十二年になります。何の恩返しも出来ず誠に申し訳ありません。何とぞお許し下さい。国家のために散って征くことを、最大の孝行としてお受け下さい。私が戦死したと聞きましたら、赤飯を炊き、黒い着物など着ず、万歳と叫んで喜んで遺骨を迎えてください。多分骨はないものと思いますから、体操シャツを一枚送ります。これは昭和十七年七月十一日土浦航空隊に天皇陛下が行幸されたときに使用した記念すべき品です。私と思って大切にしてください。今となっては別に言い残すことはありません。とにかく、命のあるうちは徹底的に頑張り抜く覚悟でおります。必ずや、敵空母の一隻や二隻は沈めてみせるつもりです。取り急ぎ乱筆になりました。感無量で何もかけません。これでペンを置きます。ずいぶんとお元気で、いつまでも暮らしてください。 小父さん、小母さんたちによろしく。ではご機嫌よう。さようなら。母上様」。

 1945年3月18日、九州沖航空戦始まる(〜21日)。
 1945年3月21日、第一神雷桜花隊(桜花15機)出撃。特攻兵器桜花初出撃。進撃中、米戦闘機に迎撃され戦果無し。
【緒方襄・海軍中尉/「遺詠」】
 1945(昭和20).3.21日、九州南方洋上にて戦死。亨年23歳。熊本県出身。関西大学卒。海軍第十三期飛行科予備学生。第一神風桜花特別攻撃隊。神雷部隊桜花隊。学徒出陣し海軍に入り、そして特攻を志願した。ロケット特攻機「桜花」搭乗員として母機一式陸上攻撃機に搭乗し鹿屋基地を出撃した。兄も学徒出陣で海軍中尉であった。引用「英霊の言乃葉(6)」
 「遺詠 出撃に際して 懐かしの町 懐かしの人 今吾れすべてを捨てて 国家の安危に赴かんとす。悠久の大義に生きんとし 今吾れ ここに突撃を開始す。魂*国に帰り 身は桜花のごとく散らんも 悠久に護国の鬼と化さん いざさらば われは栄ある山桜 母の御もとに帰り咲かなむ」。

 1945年3月26日、天号作戦発動。
【伊舎堂用久・大尉/「遺歌」】
 1945(昭和20).3.26日、戦死。陸軍特別攻撃隊「誠第17飛行隊」
 「指折りつ 待ちに待ちたる 機ぞ来る 千尋の海に 散るぞ楽しき」。

 1945年4月1日、連合軍、沖縄に上陸作戦開始。
【大橋春男・少尉/「遺書」】
 1945(昭和20).4.1日、出撃戦死。亨年26歳。岐阜県。
 「母上様 お達者でお暮らしの御事と存じ上げます。二十八年間は夢のようでした。この二十八年間の母上様の御苦心、御辛抱、肝に銘じて居ります。されば今日の日を勇んで征きます。綾子の事に付いては、父上様と共に大変お世話になり、今日まで無事人並に立って来ました。これも皆父上様、母上様の御力の賜と深く厚く御礼申し上げます。綾子の事に関しては母上様今後とも一層御面倒を見てやって下さい。あれも正式なる式も挙げ得ず、常に二人で一度でよいから帰郷したいと申して居りましたが、それは出来ませんでした。それ故隣り近所の方々とは未だ親しくいたして居らず、突然一人ボッチでは随分苦労すると思います。女は女と、綾子の事は、母上様くれぐれもお頼み申し上げ、最後に母上様の御健康をお祈りいたして失礼いたします。母上様 治男」(巻紙にペンで走り書き)。(知覧特別攻撃隊隊員の手記)

【伍井井芳夫・中佐/「遺歌」】
 1945(昭和20).4.1日、出撃戦死。亨年32歳。埼玉県。
 「人生の総決算 何も謂うことなし 伍井大尉 印」(一枚の紙に墨書) 。(知覧特別攻撃隊隊員の手記)

【前田啓・大尉/「遺歌」】
 1945(昭和20).4.3日、出撃戦死。亨年23歳。北海道。
 「俺が死んだら 何人泣くべ 北海道 前田(花押)」。(知覧特別攻撃隊隊員の手記)

 1945年4月6日〜7日、菊水一号作戦開始。菊水作戦(沖縄への大規模航空特攻作戦)、坊ノ岬沖海戦において海上特攻が行われた。
【込茶章・少尉/「遺歌」】
 1945(昭和20).4.6日、戦死。陸軍特別攻撃隊「第62振武隊」
 「君が代の 只やすかれと ひたすらに いざやうちなむ 醜が戦を」
 「天皇陛下のご安泰を一途に思います いざ、醜い敵を陛下の下僕である私が打ち払いましょう」。

【小林敏男・大尉/「遺書」】
 1945(昭和20).4.6日、出撃戦死。亨年23歳。茨城県。
 「死出の旅 古郷の梅をながめてさまよひぬ これもついに最後となりぬ 死出の旅と知りても母は笑顔にて 送りてくれぬ我くに去る日 広き広きホームに立ちて見送るは 母と妹と共二人のみ 捧げたる生命にあれど尚しかも 惜しみてついに究め得ざりき 我が生命捧ぐるは易し然れども 国救ひ得ざればああ如何にせん」。(知覧特別攻撃隊隊員の手記)

【浅川又之・大尉/「遺書」】
 1945(昭和20).4.6日、出撃戦死。亨年23歳。長野県。
 「母様、兄よ姉よ、外皆々様 御元気で「必勝」目ざしてまん進せられ度し。長い間御世話になりました。笑って征きます。天皇陛下万歳 又之」(巻紙に墨で走り書き)。(知覧特別攻撃隊隊員の手記)

【浅田晃一・海軍一等飛行兵曹/「遺書」】
 1945(昭和20).4.7日、南西諸島東方ニテ出撃戦死。亨年20歳。神風特別攻撃隊神雷部隊第四建武隊戦士。
 「一、謹みて御皇恩に感謝し奉る。一、父母様には生前の不幸御許しくだされたく御両親長寿のほど。一、常郎、順治には一層孝養を尽すこと。一、吉川様**大府始め知己の皆様御厚恩に感謝す。一、金銭婦女関係なし。一、晃一の本懐遂げたるの報ありますれば大した手柄も立てませぬが泣かずに誉めていただきたく。天皇陛下万歳」。

【松尾巧・海軍一等飛行兵曹/「遺書」】
 1945(昭和20).4.7日、出撃戦死。亨年20歳。佐賀県出身 乙飛17期。神風特別攻撃隊第二御盾隊銀河隊。
 「謹啓 御両親様には、相変わらず御壮健にて御暮しのことと拝察致します。小生もいらい至極元気にて軍務に精励いたしております。今までの御無沙汰致したことをお詫び致します。本日をもって私もふたたび特攻隊員に編成され出撃致します。出撃の寸前の暇をみて一筆走らせています。この世に生をうけていらい十有余年の間の御礼を申し上げます。沖縄の敵空母にみごと体当りし、君恩に報ずる覚悟であります。男子の本懐これにすぎるものが他にありましょうか。護国の花と立派に散華致します。私は二十歳をもって君子身命をささげます。お父さん、お母さん泣かないで、決して泣いてはいやです。ほめてやって下さい。家内そろって何時までもいつまでも御幸福に暮して下さい。生前の御礼を申上げます。私の小使いが少しありますから他人に頼んで御送り致します。何かの足しにでもして下さい。近所の人々、親族、知人に、小学校時代の先生によろしく、妹にも......。後はお願い致します。では靖国へまいります。 四月六日午前十一時記す」。

【清水雅春・海軍二飛曹/「遺書」】
 1945(昭和20).4.7日、神風特別攻撃隊第三御盾隊として、沖縄海域にて特攻戦死。亨年18歳。
 「今度攻撃命令を拝して、出撃することになりました。日本男子の本懐これに過ぐることなく、喜びに耐えません。父上様方も聞かれましたら、さぞかしご満足されることでしょう。今更言う事はありませんが、一寸の孝行もせず、ただただ二十年の人生を育てて下された父上様、母上様、祖母様方に何とお詫び申し上げてよいか判りません。まだ戦争に行ったことがないので不安な点もありますが、弾が命中したら、必ずや敵の空母を撃沈します。突然でさぞかし驚かれると思いますが、立派に男子の本懐を全うします。出発まで時間がありません。一言、最後の言葉を」。

 1945年4月10日、菊水二号作戦開始。
【清水雅春・海軍二飛曹/「遺書」】
 1945(昭和20).4.11日、神風特別攻撃隊の一員として台湾宜蘭から沖縄中城湾へと出撃し還らず、(享年22歳)。本句は飛び立つ直前に詠んだ辞世の句である。
 「散るために 咲いてくれたか 桜花 散るこそものの 見事なりけり」
 (散ることがわかっているのに、それでも咲いてくれたか桜の花よ有難う。桜も人も散っていく姿に本当の美しさがある。私はそれをやってみせる)

【穴沢利夫・海軍少尉/「前田笙子さん」】
 1945(昭和20).4.12日、沖縄周辺洋上にて戦死。亨年23歳。福島県出身。中央大学卒。陸軍特別操縦見習士官1期。陸軍特別攻撃隊。第20振武隊。穴沢少尉には智恵子さんという婚約者がおられた。また、知覧基地で特攻隊員の身の回りの世話をしていた知覧高女の女生徒達の内、当時3年生の前田笙子さんの日記の中に心優しい隊員達と穴沢少尉の事が出ている。
 「二人で力を合わせて努めて来たが終に実を結ばずに終わった。希望を持ちながらも心の一隅であんなにも恐れていた“時期を失する”と云うことが実現してしまったのである。去年十月、楽しみの日を胸に描きながら池袋の駅で別れたが、帰隊直後、我が隊を直接取り巻く情況は急転した。発信は当分禁止された。転々と処を変えつつ多忙の毎日を送った。そして今、晴れの出撃の日を迎えたのである。便りを書きたい、書くことはうんとある。しかしそのどれもが今までのあなたの厚情に御礼を言う言葉以外の何ものでもないことを知る。

 あなたの御両親様、兄様、姫様、弟様、みんないい人でした。至らぬ自分にかけてくださった御親切、全く月並みの御礼の言葉では済み切れぬけれど、『ありがとうございました』と最後の純一なる心底から言っておきます。今は徒に過去における長い交際のあとを辿りたくない。問題は今後あるのだから。常に正しい判断をあなたの頭脳は与えて進ませてくれることと信ずる。しかしそれとは別個に、婚約をしてあった男性として、散ってゆく男子として、女性であるあなたに少し言って征きたい。

 『あなたの幸を希う以外に何ものもない。徒に過去の小義に拘る勿れ。あなたは過去に生きるのではない。勇気をもって過去を忘れ、将来に新活面を見出すこと。あなたは今後の一時々々の現実の中に生きるのだ。穴沢は現実の世界にはもう存在しない。極めて抽象的に流れたかも知れぬが、将来生起する具体的な場面々々に活かしてくれるよう、自分勝手な一方的な言葉ではないつもりである。純客観的な立場に立って言うのである。

 当地は既に桜も散り果てた。大好きな*葉の候がここへは直に訪れるだろう。今更何を云うかと自分でも考えるが、ちょっぴり欲を言ってみたい。1、読みたい本。『万葉』 『句集』 『道程』 『一点鐘』 『故郷』 2、観たい画。ラファエル『聖母子像』 芳崖『非母観音』 3、智恵子。会いたい、話したい、無性に。

 今後は明るく朗らかに。自分も負けずに朗らかに笑って征く。昭20.4.12 智恵子様」。

【林市造/母へ最後の手紙】
 (1945(昭和20).4.12日、特別攻撃隊員として沖縄(南西諸島方面)にて戦死。亨年23歳。福岡県宗像郡赤間町出身。京都帝國大學 経済学部学生。海軍第14期飛行科予備学生。)
 「お母さん、とうとう悲しい便りを出さなければならない時が来ました。親思う心にまさる親心今日のおとずれなんときくらん。この歌がしみじみと思われます。ほんとに私は幸福だったです。わがままばかりとおしましたね。けれども、あれも私の甘え心だと思って許してくださいね。晴れて特攻隊員として選ばれて出陣するのは嬉しいのですが、お母さんのことを思うと泣けてきます。(でも私は技量抜群として選ばれるのですから、喜んでください。私はお母さんに祈って突っ込みます) 母チャンが私をたのみと必死でそだててくれたことを思うと、何も喜ばせることができずに、安心させることもできずに死んでいくのがつらいです。私は至らぬものですが、私を母チャンに諦めてくれ、と言うことは、立派に死んだと喜んでください、と言うことは、とてもできません。けどあまりこんなことは言いますまい。母チャンは私の気持をよく知っておられるのですから」(原文精査の要あり)。
 「母マツヘさんの手記。泰平の世なら市造は、嫁や子供があつて、おだやかな家庭の主人になつていたでしょう。 けれども、国をあげて戦つていたときに生まれ合わせたのが運命です。日本に生まれた以上、 その母国が、危うくなつた時、腕をこまねいて、見ていることは、できません。そのときは、 やはり出られる者が出て防がねばなりません。 一億の人を救ふはこの道と母をもおきて君は征きけり」。

【**達郎/「遺書」】
 (1945(昭和20).4.12日、与論島東方に於いて出撃戦死。亨年24歳。京都大学。神風特別攻撃隊神雷部隊第四建武隊戦士。)
 「立派にお役に立ちますよう最後までお守りくださった母上の愛とお祈りに心から有難うを申し上げます。今日からは御国の子皆の母として変わらぬ愛とお祈りにより一人々々をお守りください。くれぐれもお身大切に。達郎 母上様」。

【松土茂伍長/「遺書」】
 4/13出撃、突入戦死。享年20歳。
 悠久三千年皇国は今鬼畜共の為に危急存亡の憂うべき秋(とき)に到りました。帝国の精鋭なる皇軍が断じて之を撃滅すべく今大作戦を展開せんと致して居ります。茂も此の昭和の元冠とも云うべき大国難を背負って彼の河野通有の如き大敢闘をすべく作戦に参加致します。思えば今に至る迄よく育てよく成らせて下された御恩徳に対し、何ら成すところもなく散り行くを返すぐも残念に又申し訳なく思って居ります。早くから父母様の許を離れ、只余計な御心配を御掛け申したとえ身は異郷の海に捨つるとも絶対忘れは致しません。先に不幸にして病の為に兄様を失い、悲憤の涙未だ去らぬ中に、又小生の悲報に接する父母様の心境実に察するに余りありと思います。然し乍ら総てが皇国護持の為であり、又取りわけて考えますれば、皆様が後世を安楽にお暮らし出来る為なのであります。どうか茂が戦死の報に接しましても、絶対不覚をとるが如きことなく、父母様始め一同笑って万才を唱えて下されば茂は幸甚の至りと思い、あの世できっと喜んで居ります。今更何とて言い置くことも御座居ませんが、之が茂の運命にて最初古河航空機乗員養成所に入所致しました時は、民間航空の操縦者として奉公致す心算で居りましたが、其の後の戦局の為に何も彼も一切を皇国に捧ぐべき秋(とき)に至ったのですから、此の事に関しては十分御承知の事と私は信じて居ります。今大邸を出る時、神電号に乗せた桜は満開です。此の桜の散る頃一緒に茂は立派に散って征きます。どうか父母様皆様私の事は総てを諦めて、只管(ただひたすら)心身に御留意下されて御世を安楽に暮らされんことをお祈りして擱筆(かくひつ)します。祈 四月八日 茂 父母上様 外御一同様 合掌。。。

【佐々木八郎/「遺書」】
 (1945(昭和20).4.14日、特攻隊員として沖縄海上にて戦死。亨年23歳。東大経済学部生)
 「我々がただ、日本人であり、日本人としての主張にのみ徹するならば、我々は敵米英を憎みつくさねばならないだろう。しかし、僕の気持ちはもっとヒューマニスチックなもの、宮沢賢治の烏と同じようなものなのだ。憎まないでいいものを憎みたくない、そんな気持ちなのだ。正直な所、軍の指導者たちの言う事は単なる民衆扇動のための空念仏としか響かないのだ。そして正しいものには常に味方をしたい。そして不正なもの、心驕れるものに対しては、敵味方の差別なく憎みたい。好悪愛憎、すべて僕にとって純粋に人間的なものであって、国籍の異るというだけで人を愛し、憎むことは出来ない。もちろん国籍の差、民族の差から、理解しあえない所が出て、対立するならまた話は別である。しかし単に国籍が異るというだけで人間としては本当は崇高であり美しいものを尊敬することを怠り、卑劣なことを見逃すことをしたくないのだ」。

【中根久喜・少尉/「遺書」】
 (1945(昭和20).4.14日、沖縄東方に於いて出撃戦死。亨年23歳。日大。神風特攻隊 第6建武隊)
 「人の世に生れて死を厭うことは今昔変わりありません。故に万人が長寿を願い、いろいろの昔話しを今日まで残しています。けれども予期せざる生は、予期せずして死するのが当然です。ですから若冠25歳を以て戦死しても決して驚いてはなりません。悲しんではなりません。例え私が敵の艦諸共に砕けなくても私の運命はその時に止まっているのです。父上にはそのことが充分に解って戴けると思いますが、お母さん 優しいお母さんでした。ある時は、私の寝顔に夜具をかけてくださいました。久喜はあれほどに可愛がられ、何の報もせず散るのが母上に済まなく思います。しかし私の胸の奥底には大きな願いがあるのです。大義に生きることです。お母さん決して悲しんではくださるな。今母上が悲しんでいるように、その悲しみに打ち耐えて強く生きる一億の母のあることを思い起こして下さい。

 一億の悲しみは一億の怒りとなって強く逞しく宿敵破砕の泉とならねばなりません。至らぬ私でさえ軍隊生活をしているうちに死生観の輪郭を知り得ました。そして母上が男の子を大君に捧げた光栄を思う日こそ私は本当に幸福だと思います。淋しい日があったら、夜空の星の世界を御覧なさい。雄大な宇宙を眺めたらきっとふっ飛んでしまいますよ。相談相手がなかったら、猪田さんの御母さんとお話しなさい。母上がいつも云われるように母子共やさしい御方ですからお母の心も慰むることでせう。

 久喜の心は晴れ、身を大君に捧げ、桜咲く靖国に帰る日を楽しく思います。あああの桜、萬だと咲くあの桜が私帰るその肩に降り注ぐのです。ふみし日の よとせも今ぞ 去りならむ 永久に栄ゆる 桜花美わし 久喜拝 母上様」

 1945年4月16日、菊水三号作戦開始。
【佐藤新平・海軍曹長/「お母さん江」/「父上様へ」】
 (1945(昭和20).4.16日、沖縄西方洋上にて戦死。亨年23歳。岩手県出身。仙台乗員養成所7期。陸軍第79振武隊。佐藤曹長は「留魂録」という日記を残している。その中に「昨年より特別攻撃隊の熱望三度にして、漸く希望入れらる。神我を見捨て給わず」という文章がある。引用:「特攻隊員の日記」(特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会))
 「お母さんへ 幼い頃から思えば随分と心配ばかしお掛けしましたね。腕白をしたり、又何時も不平ばかし言ったり。目を閉じると子供の頃のことが、不思議なぐらいありありと頭に浮かんで参ります。悪いことなどすると神様に謝らせられたり、又幼いころ『今日の良き日を有難うございました』と毎日拝神のことをやかましく言われたお母さんでした。今日になり本当にあの頃からお母さんの教育がどんなにか新平の為になったことでせう。病気で心配をかけたり、又苦学の時も随分と心配をかけたり。

 苦学と云えば、家を出発する時、台所でお母さんが涙を流されたのが、東京にいる間中頭に焼きついて、あの頃どんなにか帰りたかったことか知れませんでした。お母さんの本当の有難味が解ったのは東京へ出てからでした。あれから余り家に居ることもなく、ゆっくりお母さんに親孝行をする機会のなかったことだけ残念です。軍隊に入ってお母さんにお会いしたのは三度ですね。一度は去年の休暇、二度目は去年の暮近く館林まで来ていただいた時。あの時は新平嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。態々長い旅をリュックサックを背負って会いに来てくださったお母さんを見、何か言うと涙が出そうで、ついついわざわざ来なくても良かったのに等と口では反対のことを言ってしまって申し訳ありませんでした。あの時、お母さんと東京を歩いた思いでは極楽へ行ってからも、楽しい懐かしい思いでとなることでせう。

 あの大きな鳥居のあった靖国神社へ今度新平が祀られるのですよ。(中略) 手を繋いでお参りしましたね。今度休暇で帰った時も、お母さんは飛んで迎えに出てくださいましたね。去年の時もそうでした。

 父上様へ お父さん 新平、日露戦争へ行かれたお父さんの子供として恥ずかしくない死場所を得ました。お喜びください。我がまま者の新平、子供の頃から何時も心配ばかりかけ申し訳ございませんでした。御恩返しに、うんと親孝行しようと思っていましたが、結局何もできずにしまいましたことをお許しください。随分大きくなるまでお父さんと一緒に寝た新平は、幼い頃お母さんに、お前はお父さんの子、文吾は俺の子等と云われたものでした。厳格な半面、子供の時から人一倍可愛がっていただいた新平は本当に幸福でした。酒に酔われて義太夫や踊りをやられたお父さんの昔の姿が懐かしく思い出されます。どうぞお父さん、何時までも御壮健で文夫や洋治を可愛がってください。書きたいことは幾らでもありますが、今日はこれで止めます。

 日本一のお母さんを持った新平は常に幸福でした。小雨の降る夕方、お母さんと一緒にかこちゃんのお母さんのお墓参りを一緒に歩いた事、天神様へ成績の御知らせに行った事等楽しい思い出は次々と尽きません。特攻隊の事も早く知らせてくれれば、手紙でも出して激励してやったのに、お母さんは残念がるかも知れませんが、お母さんの気持ちは新平解り過ぎるぐらい解って何時も感謝しておりますから、余計なことを心配しないでください。私としてはどうせ直ぐ解ることですから、早く知らせて心配かけてはと思って知らせなかったのですから、悪く思わないでください。りウマチや、神経痛に充分注意して、天から与えられた寿命だけは絶対に生き延びなければいけません。

 文夫、洋治もお母さんがよく見守って立派な子供になるよう鍛えてください。決して気を落としたりして、体を損ねられないようご注意ください。お父さんの方が後になり変になりました。一足先に失礼します。今晩、隊の壮行式があり、一寸酔っておりますので字も乱れております。河野、小林先生にも宜しくお出で願いいたします。小生必ずや大きな戦果をあげて店ます。沖縄沖の戦果に御期待下さい!!」。
 「遺書 天皇陛下万歳、大命を拝し、新平只今特別攻撃隊の一員として醜敵艦船撃滅の途につきます。日本男子としての本懐これに過ぐるものはございません。必中必沈以て皇恩に報い奉ります。新平本日の栄誉あるは二十有余年にわたる間の父上様、母上様の御薫陶の賜と深く感謝致しております。新平肉体は死すとも魂は常に父上母上様のお側に健在です。父上様母上様も御老体ゆえくれぐれも御体を大切に御暮らしください。決して無理をなさらぬよう。では日本一の幸福者、新平最後の親孝行に何時もの笑顔で元気で出発します。親類の皆様方近所の人たちに宜しく。新平拝 御両親様」。

 1945年4月17日、バギオ近郊イリサンにて、丹羽治一准尉以下11名が九五式軽戦車、九七式中戦車各一両で米M4中戦車に体当り陸上特攻。三両撃破(戦車の頭突き)。
 1945年4月22日、菊水四号作戦開始。
【片岡喜作・海軍中尉/「遺書」】
 (1945(昭和20).4.22日、戦死。陸軍特別攻撃隊「第81振武隊」)
 「生まれ出る子 お父様は特攻隊長として敵艦に飛行機と共に衝突命中米英ともに打ち滅ぼします。年少にして父と別れたがお母様は本当により母でありお父様と同じ心なのだからよくお母様の教えを守りよい子になるんですよ。病気をせずにお父様の幸福の裡にお前たちと別れます さようなら」。

【上成義徳・少尉/「遺書」】
 (1945(昭和20).4.22日、出撃戦死。亨年25歳。鹿児島県)
 「特攻の首途に 上成曹長 大君のみたてとなりて吾征かん 南西に散るこころうれしや 国家之危急 親をもかへり見ず 吾亦征かん南西の海」(美濃紙に草書で墨書)。
 「君がため雄々しく散らん桜花」(便箋に楷書墨字)。(知覧特別攻撃隊隊員の手記)

【永尾博・海軍中尉/「靖國の社頭で」】
 (1945(昭和20).4.28日、沖縄近海にて戦死。亨年22歳。佐賀県杵島郡武雄長大字武雄出身。西南学院卒。海軍第十三期飛行科予備学生。神風特別攻撃隊第三草薙隊)(引用:「英霊の言乃葉(1)
 一、生を享け22年の長い間、小生を育まれた父母上様に御礼申し上げます。
 一、親不孝の数々お許しください。
 一、小生の身体は父母のものであり、父母のものでなく、天皇陛下に捧げたものであります。小生入隊後はなき者と御覚悟ください。
 一、小生も良き父上、良き母上、良き妹二人を持ち心おきなく大空の決戦場に臨むことができます。
 一、父上も好子、壽子を小生と心得御育みください。
 一、母上、父上のこと末永くくれぐれもお願い申し上げます。
 一、父、母上の、また妹の御健康をお祈り致します。

 父さん 大事な父さん 母さん 大事な母さん 永い間、色々とお世話になりました。好子、壽子をよろしくお願い致します。靖国の社頭でお目にかかりませう。では参ります。お身体お大事に。

【長沢徳治・大尉/「遺書」】
 (1945(昭和20).4.28日、出撃戦死。亨年24歳。石川県。)

 「召され来て空の護りに花と散る 今日の佳き日に逢ふぞうれしき」(美濃紙に三行書き・墨書)。
 「来る年も咲きて匂へよ桜花 われなきあとも大和島根に」(色紙に五行書き・墨書)。(知覧特別攻撃隊隊員の手記)

【溝川慶三・小尉/「遺書」】
 (1945(昭和20).4.28日、出撃戦死。亨年**歳。飛行第105戦隊。)
 「御両親様 いよいよ本日、出撃の命令がありました。ご安心ください。必ずや立派に成功致します。今は出撃二時間前です。我々一行皆な朗らかです。私もニッコリ笑って行きます。今はもう総ての俗念も去ってすがすがしい気持ちです。数時間後には、この世を去るとは思えないほど、抱える爆弾はどす黒く光っています。しっかり爆発するぞと云わんばかりに。では行って来ます。皆様、お元気で」。

【市島保男・海軍大尉/最後の日記】
 (1945(昭和20).4.29日、沖縄東南海上にて戦死。亨年23歳。神奈川県出身。早稲田大学。神風特別攻撃隊第五昭和隊。)
 「四月二十四日 傍の小川で洗面をす。敵機動部隊未だ見えず。十一時より二時間待機。チャート(航路)にコースを入れたり符号を調べたりして何時でも出撃できる用意をなす。ただ命を待つだけの軽い気持である。隣の室で「誰か故郷を思わざる」をオルガンで弾いている者がある。平和な南国の雰囲気である。徒然なるままにれんげ摘みに出掛けたが、今は捧げる人もなし。梨の花と共に包みわずかに思い出を偲ぶ。夕闇の中をバスに行く。

 隣りの室では酒を飲んで騒いでいるが、それもまたよし。俺は死するまで静かな気持でいたい。人間は死するまで精進しつづけるべきだ。まして大和魂を代表する我々特攻隊員である。その名に恥じない行動を最後まで堅持したい。私は自己の人生は人間が歩み得る最も美しい道の一つを歩んで来たと信じている。精神も肉体も父母から受けたままで美しく生き抜けたのは神の大いなる愛と私を囲んでいた人々の美しい愛情の御蔭であった。今限りなく美しい祖国に我が清き生命を捧げ得る事に大きな誇りと喜びを感ずる」。

 1945年5月3日、菊水五号作戦開始。
【相花・少尉/「母上 お許し下さい」】
 (1945(昭和20).5.4日、沖縄周辺洋上にて特攻戦死。亨年18歳。宮城県出身。少年飛行兵14期。陸軍特攻第七十七振武隊。少年飛行兵出身の純真な若者の父、母に捧げた遺書。継母であったらしく、自分の幼いときからの無礼をわびている)。

 「攻撃隊振武隊に加えられ、国恩に報ずることができました。父母上、信夫は勇躍征途につきました。父母上、兄上の写真を飛行服に入れて。父母上、信夫は子としてあるまじき無礼な言葉遣いを遂に最後まで矯正せず、ただただ慙愧に堪えません。母上、6歳の時より育て下されし、生母以上の母上に対し『お母さん』と呼ばなかった信夫。母上はいかほど淋しかったでせう。呼ぼうと幾度も思いましたが、面と向かっては、恥ずかしいようで言えませんでした。今こそ大声で以て呼ばして頂きます『お母さん』と。中支の兄の心境また恋しいでせう。母上、我ら兄弟をお許しください。今、特攻の征途につくに際し、心に掛かるは以上の二つのみです。あとは、思い残すことはありません。人生五十年、自分は二十歳まで長生きしました。残りの三十年は父母上に、半分づつさしあげます。同封の金は母上の好きな煙草代に使ってください。父母上、では征きます。信夫は莞爾として敵艦必殺へ征きます」。

【茂木三郎・海軍少尉/「特攻出撃に際して」】
 (1945(昭和20).5.4日、沖縄周辺にて特攻戦死。亨年19歳。福島県出身。予科練乙飛第18期生。神風特別攻撃隊第5神剣隊。引用:英霊の言乃葉(6))
 「遺言(昭和20年3月、母への言葉) 僕はもう、お母さんの顔を見られなくなるかも知れない。お母さん、良く顔を見せてください。しかし、僕は何んにも『カタミ』を残したくないんです。十年も二十年も過ぎてから『カタミ』を見てお母さんを泣かせるからです。お母さん、僕が郡山を去る日、自分の家の上空を飛びます。それが僕の別れのあいさつです」。

【宮崎勝・海軍少尉/「妹へ」】
 (1945(昭和20).5.4日、沖縄海域にて戦死。亨年19歳。三重県松阪市出身。乙種飛行予科練18期。神風特別攻撃隊第五神剣隊。宮崎少尉はまだ会っていない自分の妹「ヤスコチャン」に遺書を残した。妹たちを想う兄の気持ちが伝わってくる遺書である。引用:英霊の言乃葉(3) )
 「やすこちゃん。特攻隊の兄さんは知らないだろう。兄さんも、やすこちゃんは知らないよ。毎日、空襲で怖いだろう。兄さんが、敵(かたき)を討ってやるから、でかい母艦に体当たりするよ。その時は、ふみこちゃんと、轟沈轟沈を歌って、兄さんを悦ばせてよ」。

【相花信夫・少尉/「遺書」】
 (945(昭和20).5.4日、出撃戦死。亨年18歳)
 「母を慕いて 母上様御元気ですか。永い間本当に有難うございました。我六歳の時より育て下されし母。継母とは言え世の此の種の母にある如き。不祥事は一度たりとてなく 慈しみ育て下されし母。有難い母 尊い母。俺は幸福であった。ついに最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺。幾度か思い切って呼ばんとしたが 何と意志薄弱な俺だったろう。母上お許し下さい。さぞ淋しかったでしょう。今こそ大声で呼ばして頂きます。お母さん お母さん お母さんと」(ノート二頁に楷書ペン書)。(知覧特別攻撃隊隊員の手記)

【稲田光男/「遺書」】
 (1945(昭和20).5.10日、戦死。亨年18歳。「特攻第29号14頁掲載」の知覧高女なでしこ会編「知覧特攻基地」鳥濱礼子の手記では、特攻兵舎を去る特攻隊員の手紙が記載されている)

 「皆さんさようなら。僅かな時間で急いでかいています。私たちは何時までも知覧にいたいのですが上からの命令でいたし方ありません。私達の事は死んでも忘れないで居てね。花の都の靖国神社に先に行っております。席も私達の横にちゃんと空いておりますよ。皆さんも死んだら靖国神社だね。いいなあ。敵を徹底的に撃滅するまでは死んでも死ねないからね。皆さんたちとこの知覧で愉快に過ごしたことは一生忘れません。吾身はたとえ此の世を去らんとも、乙女心で咲いてくれ。---かわいいマスコット、見れば忘れはせぬよ、知覧の町。まずい文ね。頭がいたくて文なんてつくれないよ。愈愈明日は出発です。お元気でね。皆さんたちの御健康をお祈りしています。出撃のときは知覧の上空を飛んで行きますから送ってね。私たちもいざという時は喜んで死んで行きます。ではさようなら。くれぐれも御身大切に。光男より」。

【伊東勲・海軍一等飛行兵曹/「遺書」】
 (1945(昭和20).5.10日午后5時48分、戦死。亨年20歳。大分県九重町町者原出身。乙飛18期。神風特別攻撃隊第六菊水隊。)
 「何も書く事はありません。 只御両親様及び久美子の健在を祈るのみ、勲は決して人におくれはとりません。潔よく散るのみです。目標は正規空母です。十日位したら徳島海軍航空隊第14分隊5班、上野功君に便りして下さい。 写真は受けとったと泣かずにほめて下さい。幸多かれと祈るなり、親戚の皆様に宜敷く。孝養を頼むぞ久美子、安よ頑張れ。宮崎航空基地にて御両親様」。

 1945年5月11日、菊水六号作戦開始。
【小川清・海軍中尉/「最後の便り」】
 (1945(昭和20).5.11日、南西諸島方面にて特攻戦死(バンカーヒルへ突入。亨年24歳。群馬県出身。早稲田大学卒。海軍第十四期飛行科予備学生。神風特別攻撃隊第七昭和隊)(引用:「英霊の言乃葉」小川清御遺族)

 「最後の便り 海軍中尉 小川清 お父さんお母さん。清も立派な特別攻撃隊員として出撃することになりました。思えば二十有余年の間、父母のお手の中に育ったことを考えると、感激の念で一杯です。全く自分ほど幸福な生活を過ごした者は他にないと信じ、この御恩を君と父に返す覚悟です。あの悠々たる白雲の間を越えて、坦々たる気持ちで私は出撃して征きます。生と死と何れの考えも浮かびません。人は一度は死するもの、悠久の大義に生きる光栄の日は今を残してありません。父母上様もこの私の為に喜んでください。殊に母上様には御健康に注意なされお暮らし下さるよう、なお又、皆々様の御繁栄を祈ります。清は靖国神社に居る居ると共に、何時も何時も父母上様の周囲で幸福を祈りつつ暮らしております。清は微笑んで征きます。出撃の日も、そして永遠に」。
 時世

 身はたとへ 敵艦船と砕くとも 七度生きむ あすきこころは

 ありがたき 御代にうまれて やくだてる そのよろこびに われはゆくなり

 御両親様へ

 うみやまに まさるめぐみにむくひなむ 道をゆくなり いさみいさんで

 亡き兄さんえ

 極楽の 兄弟酒を 偲びつつ

【齋藤幸雄・海軍少尉/「絶筆」】
 (1945(昭和20).5.11日、沖縄方面にて戦死。二十歳宮城県出身。神風特別攻撃隊第六神剣隊)
 「何も思ひ残すことはありません。ただ、万歳あるのみです。お母さん、きつと桜咲く靖國神社に来て下さいね。いつまでも、元気でゐて下さい」。

【西田高光・海軍中尉/「民族の誇り」】
 (1945(昭和20).5.11日、南西諸島洋上にて戦死。亨年22歳。大分県出身。大分師範学校。神風特別攻撃隊第五筑波隊)
 「(西田中尉は、現在ここにいる人々は皆自分から進んで志願した者であることと、もはや動揺期は克服していることを述べてこう言った) 学鷲(注、学徒航空兵)は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどとは思っていません。しかし負けたとしても、そのあとはどうなるのです・・・おわかりでしょう。われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。そう、民族の誇りに・・・」。

 (右記の言葉は、西田中尉が出撃二日前の昭和二十年五月九日鹿児島県の鹿屋基地に於て、海軍報道班員・山岡荘八氏の質問「この戦を果して勝抜けると思っているのかどうか? もし負けても悔いはないのか? 今回の心境になるまでにどのような心理の浪があったか?」に対し返答したもの)」(日本時事評論 第1598号(H17.12.16)より転載。株式会社 日本時事評論TEL:083-932-6665)。

【古谷眞二・少佐/「遺言」】
 (1945(昭和20).5.11日、沖縄周辺の南西諸島洋上にて戦死。亨年23歳。東京都出身。慶応大学卒。海軍第十三期飛行科予備学生。第八神風桜花特別攻撃隊神雷部隊攻撃隊。この遺書は古谷中尉が繰り上げ卒業式の前に書いたものである。引用:「いざさらば我はみくにの山桜」。作家三島由紀夫が自殺の一ヶ月前に江田島の海上自衛隊第一術科学校教育参考館でその遺書を読み、「すごい名文だ。命がかかっているのだからかなわない。俺は命をかけて書いていない」と言って、声をあげて泣き出したとの伝がある)
 「御両親はもとより小生が大なる武勇を為すより身体を毀傷せずして無事帰還の誉を担わんこと、朝な夕なに神仏に懇願すべくは之親子の情にして当然也。しかし時局は総てを超越せる如く重大にして彼に一命を計らんことを望むを許されざる現状にあり。大君に対し奉り忠義の誠を致さんことこそ、正にそれ孝なりと決し、すべて一身上のことを忘れ、後顧の憂いなく干*を執らんの覚悟なり」。

【上原良司(うえはらりょうじ)・海軍少尉/「遺書」】
 (1945(昭和20).5.11日、陸軍特別攻撃隊員として沖縄嘉手納湾の米機動部隊に突入戦死。陸軍大尉。享年22歳。1922(大正11)年9月27日、長野県北安曇郡七貴村(現・池田町)に医師の上原寅太郎の三男として生まれる。旧制松本中学校を卒業後、慶應義塾大学予科を経て、1943(昭和18)年、同大学経済学部入学。1943.12.1日、松本第50連隊に入隊。最後の日は、陸軍特別攻撃隊第56振武隊員として愛機の三式戦闘機「飛燕」に搭乗して知覧から出撃した。「きけ、わだつみのこえ」(岩波文庫)の冒頭に掲載されている、あまりにも有名な名文である)
 「所感 栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊ともいうべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ、身の光栄これに過ぐるものなきを痛感いたしております。思えば長き学生時代を通じて得た、信念とも申すべき理論万能の道理から考えた場合、これはあるいは、自由主義者と言われるかも知れませんが、自由の勝利は明白の事だと思います。人間の本性たる自由を滅ぼす事は絶対に出来なく、例えそれが抑えられているがごとく見えても、底においては常に闘いつつ最後には必ず勝つということは、彼のイタリアのクローチェ(注:イタリアの哲学者。1986-1952)も言っているごとく真理であると考えます。

 権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも、必ずや最後に敗れることは明白な事実です。我々はその審理を今次世界大戦の枢軸国家(日本・ドイツ・イタリア。つまり、三国同盟を結んだ国)において見ることが出来ると思います。ファシズムのイタリアは如何、ナチズムのドイツはまた、既に敗れ、今は権力主義国家は土台石の壊れた建築物のごとく、次から次へと滅亡しつつあります。

 真理の普遍さは今、現実によって証明されつつ、過去において歴史が示した如く、未来永久に自由の偉大さを証明して行くと思われます。自己の信念の正しかったこと、この事はあるいは祖国にとって恐るべき事であるかも知れませんが、吾人(引用者注:「我々」の意)にとっては嬉しい限りです。現在のいかなる闘争もその根底を為すものは必ず思想なりと思う次第です。既に思想によって、その闘争の結果を明白に見る事が出来ると信じます。

 愛する祖国日本をして、かつての大英帝国のごとき大帝国たらしめんとする私の野望はついに空しくなりました。真に日本を愛する者をして立たしめたなら、日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います。世界どこにおいても方で風を切って歩く日本人、これが私が夢見た理想でした。

 空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人が言ったことは確かです。操縦桿を採る器械、人格もなく感情もなく、もちろん理性もなく、ただ敵の航空母艦に向って吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬのです。理性を持って考えたなら実に考えられぬ事で、強いて考うれば、彼らの言うごとく自殺者とでも言いましょうか。精神の国、日本においてのみ見られる事だと思います。一器械である吾人は何も言う権利もありませんが、ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を、国民の方々にお願いするのみです。

 こんな精神状態で征ったなら、もちろん死んでも何にもならないかも知れません。故に最初に述べたごとく、特別攻撃隊に選ばれたことを光栄に思っている次第です。飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、いったん下りればやはり人間ですから、そこには感情もあり、熱情も動きます。愛する恋人に死なれたとき、自分も一緒に精神的には死んでおりました。天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思うと、死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。

 明日は出撃です。勿論発表すべきことではありませんでしたが、偽らぬ心境は以上述べたごとくです。なにも系統だてず、思ったままを雑然と並べた事を許して下さい。明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後ろ姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。言いたいことだけを言いました。無礼をお許し下さい。ではこの辺で。出撃の前夜記す」。
 「生を享(う)けてより二十数年、何一つ不自由なく育てられた私は幸福でした。

 栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊ともいうべき陸軍特攻隊に選ばれ、身の光栄これに過ぐるものなきと痛感いたしております。思えば、長き学生時代を通じて得た、信念と申すべき理論万能の道理から考えた場合、これは、あるいは、自由主義といわれるかもしれませんが、自由の勝利は明白な事だと思います。人間の本性たる自由を滅ぼす事は絶対に出来なく、例えそれが抑えられているごとく見えても、底においては常に闘いつつ最後には必ず勝つということは、彼のイタリアのクローチェも云っているごとく真理であると思います。権力主義、全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも、必ずや最期に敗れる事は明白な事実です。

 我々はその真理を、今次世界大戦の枢軸国家において見る事が出来ると思います。ファシズムのイタリアは如何、ナチズムのドイツまた、既に敗れ、今や権力主義国家は土台石の壊れた建築物のごとく、次から次へと滅亡しつつあります。真理の普遍さは今、現実によって証明されつつ、過去において歴史が示したごとく、未来永久に自由の偉大さを証明していくと思われます。自己の信念の正しかった事、この事はあるいは祖国にとって恐るべき事であるかもしれませんが、吾人にとっては嬉しい限りです。

 現在のいかなる闘争も、その根底を為すものは必ず思想なりと思う次第です。既に思想によって、その闘争の結果を明白に見る事が出来ると信じます。愛する祖国をして、かつての大英帝国のごとき大帝国たらしめんとする私の野望は遂にむなしくなりました。真に日本を愛する者をして、立たしめたなら日本は現在のごとき状態にあるいは、追い込まれなかったと思います。

 世界どこにおいても肩で風を切って歩く日本人、これが私の夢見た理想でした。空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人がいったことは確かです。操縦桿を採る器械、人格ももなく感情もなく、もちろん理性もなく、ただ敵の航空母艦に向って吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬのです。理性をもって考えたなら実に考えられぬ事で、強いて考うれば、彼らがいうごとく自殺者とでもいいましょうか。精神の国、日本においてのみ見られることだと思います。一器械である吾人は何も云う権利もありませんが、ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を、国民の方々にお願いするのみです。

 こんな精神状態で征(い)ったならもちろん、死んでも何にもならないかもしれません。故に最初に述べたごとく、特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思っている次第です。飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、いったん下りればやはり人間ですから、そこには感情もあり、熱情も動きます。愛する恋人に死なれた時、自分も一緒に精神的には死んでおりました。天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思うと、死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。

 明日は出撃です。過激にわたり、もちろん発表すべき事ではありませんでしたが、偽らぬ心境は以上乃べたごとくです。何も系統だてず、思ったままを雑然と並べた事を許して下さい。明日は自由主義者が一人この世から去っていきます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。云いたい事を云いたいだけ云いました。無礼をお許し下さい。ではこの辺で。出撃の前夜記す。
 「悠久の大義に生きるとか、そんなことはどうでも良い。あくまで日本を愛する。祖国のために独立自由のために闘うのだ。人間にとっては一国の興亡は、実に重大な事でありますが、宇宙全体から考えた時は、実に些細な事です。驕れる者久しからずの譬(たと)え通り、若(も)し、この戦に米英が勝ったとしても彼等は必ず敗れる日が来ることを知るでしょう。若し敗れないとしても、幾年後かには、地球の破裂により、粉となるのだと思うと、痛快です。(376頁) 天国における再会、死はその道程にすぎない。愛する日本、そして愛する冾子(きょうこ)ちゃん。(374頁) きょうこちゃん さようなら 僕はきみがすきだった しかしそのとき すでにきみは こんやくの人であった わたしはくるしんだ そして きみのこうフクをかんがえたとき あいのことばをささやくことを だンネンした しかし わたしはいつも きみを あいしている (378頁) 戦争を肯定するすべての思想を私は全否定する」。
 「人の世は別れるものと知りながら 別れはなどてかくも悲しき」(出撃直前の走り書き。手紙に)(知覧特別攻撃隊隊員の手記)。

 上原良司手記につき、「日本が真に永久に続くためには自由主義が必要です。全体主義的な気分に包まれているが、真に大きな眼を開き、人間の本性を考えた時、自由主義こそ合理的になる主義です」と紹介されているが原文が見いだせない。改竄文だとしたら許されまい。なるほど自由の価値を賛美しているが、賛美しつつ「陸軍特別攻撃隊員として沖縄嘉手納湾の米機動部隊に突入戦死」したメンタルは何なのか、ここを解き明かさねばなるまいに。

時岡鶴夫・海軍少尉/「遺書」】
 (亨年24歳。神風特別攻撃隊第六筑波隊。鹿屋航空基地から投函された絶筆。)
 「父上様母上様御一同様 愈々明日出撃です。もう準備萬端整ひ防空壕で寝台に臥せり乍らこの便りを書いています。一昨日の攻撃に出陣する筈でしたが、飛行機の整備が悪く、残念にも取残されました。岡部中尉、森少尉、福田少尉、中村少尉は戰死されましたが、黒崎少尉、伊東少尉、西野少尉私の四人は明日一緒に征きます。昨日も出發する予定で飛行場に行き、既に飛行機に乗ってゐたのに急に中止になりがっかりしました。然し明日は出られますので断然張切ってゐます。明鏡止水といふ所です。明日こそは必ず必ず見事に命中して見せます。目指すは正規空母です。敵機動部隊の眞只中に櫻の花を咲かしませう。明日一緒に征く連中が皆夫々里へ便りを書いたり作戰を練ったりしてゐます。美しく勇ましいそして静かな光景です。皆偉いです。しかし皆に出来る事が私にだけ出来ない筈はありませうか。やるぞ断乎やる。

 さて、二十四年間の私の生活は実に幸福なものでした。良い家族で良い両親と良い兄弟に包まれ、自由に楽しく過して来ました。本当に満足して死ねます。お父様には筑波で会へるし、お母様は苦労して遠い所を訪ねてくださいましたし、二晩もゆっくり話をして、私の氣持も私達の生活もよく知って戴きましたし、実に幸運に恵まれてゐます。最后迄この幸運が続いてうまく命中する様祈る許りです。佐々木にも会ひました。彼は少々遅れるので口惜しがってゐます。鹿屋荘には二度程行きました。西野と福田と三人で雛一羽と玉子十ケをもって飲みに行き、風呂へ入り、一晩ゆっくり語りました。とても有意義な一夜でした。明日征ったら、森や福田が一升さげて待ってゐる事でせう。また皆で痛飲します。

 今日迄何の孝行もせず申訳なき次第ですが、お役に立った事をもって許して下さい。時岡家の長男として父祖代々の家をつげず、残念といふより申訳ありませんが、国なくして家もなしですが、その代わり沖縄だけは必ず勝ちます。安心して下さい。(中略) 福田の恋人の○○○子さんが林田区東尻池○丁目○○ノ○○石井様方宛で便が付きますから、福田の元気だった様子でも知らせてあげて下さい。今十一時、もう寝なくては明日の出撃に差支へますから止めます。感謝しつつ征きます。死を知らんとす、また楽しからずや そうそう藤田少尉の奥さんが家に来られたかも知れません。藤田も一緒に行きます。佐藤はまだ當高にゐます。では皆様、いや、おばあさん、お父さん、お母さん、○子、お元氣で頑張って下さい。○○の宛名がわかったら知らせて下さい。頑張って、張切って、行きます。さよなら

 五月十三日午后十一時十九分 鶴夫拝 

 お祖母様 お父様 お母様 ○子様(良い奥さんになれよ、我儘禁物)」。

【中村憲二・大尉/「遺書」】
 (1945(昭和20).5.18日、出撃戦死。亨年23歳)
 「我れ南十字星の下大海原を越え空の決戦場へ征かんとす。母上様 憲二生まれて今日まで一度として母上様に満足なことをなさず御苦労を御掛け致し申し訳なく存じます。母上様憲二は大命により征かんとして居ります。門の外まで憲二の門出を喜び御見送り下さる母上様の顔が見えます。憲二はどうして死ぬことなど恐れましょう。桜の花の散る校庭にに学び育ちました憲二です。兄上姉上様には父なき後、常に範を示し御指導下され心より御礼致します。千鶴子、俺の分まで母上様に孝行してくれ。兄が死した聞かば、立派にお国の為に大空に華と散りましたと父上様に御報告してくれ。俺の前には若鷲の香りする香をたいてくれ。11月8日 憲二」(巻紙に墨書)。 (知覧特別攻撃隊隊員の手記)

 1945年5月24日、菊水七号作戦開始。義烈空挺隊、沖縄の米飛行場に強行着陸(空挺特攻)。
【久野正信・海軍少尉/「正憲 紀代子へ」】
 (1945(昭和20).5.24日、戦死。亨年29歳。義烈空挺隊の第3独立飛行隊)
 「正憲 紀代子へ 父は姿こそ見えざるもいつでもお前たちを見ている。よまお母さんの云いつけを守ってお母さんに心配をかけないようにしなさい。そして大きくなったなれば自分の好きな道に進み立派な日本人になることです。ひとのお父さんを羨(うら)やんではいけませんよ。正憲、紀代子のお父さんは神様になって二人をじっと見ています。二人仲良く勉強をしてお母さんの仕事を手伝いなさい。お父さんは正憲、紀代子のお馬にはなれませんけども二人仲良くしなさいよ。お父さんは大きな重爆に乗って敵を全部やっつけた元気な人です。お父さんに負けない人になってお父さんの仇(かたき)を討ってください。父より。正憲 紀代子二人へ」。

【坂内隆夫・大尉/「遺書」】
 (1945(昭和20).5.25日、戦死。陸軍特別攻撃隊「第54振武隊」)
 「我行カム 唯ダ一途ニ誠心ニ 散リテ花咲ク 学鷲ノ魂」。

【松本真・海軍二等飛行兵曹/「遺書」】
 (1945(昭和20).5.25日、沖縄周辺にて戦死。亨年19歳。神風特別攻撃隊菊水部隊白菊隊戦士)
 「父母様 いよいよ待ちに待った体当りの日が参りました。血湧き肉躍る感じがします。今では心も落ち着き毎日はな歌にて出撃の日を待っています。父母様 見ていてください。キットキット成功して御覧に入れます。私には日本の神々様ついていてくださるのです。飛行服に白の丸つけて、日ノ丸の鉢巻きした男の中の男の姿を一度父母様方や兄上弟達に見て貰いたいです。父母様行って参ります。くれぐれも御身大切に、一日もご長寿せられ御多幸あらんことを沖縄の空にてお祈りしております。ではさようなら。真より 父母様」。

【荒木幸雄・陸軍伍長→少尉/「遺書」】
 (1945(昭和20).5.27日、沖縄本島沖で戦死。亨年17歳。1928.3.10日、群馬県桐生市宮前町で生れる。1943年秋、陸軍の少年飛行兵に応募。陸軍特別攻撃隊第72振武隊員操縦士当初の出撃予定日だった5.26日、出撃予定時刻の2時間前に記念撮影を行うが、その日は悪天候で出撃中止となった。5.27日、九九式襲撃機の隊員は万世飛行場を出撃後、沖縄本島中部に広がる金武湾の東約50kmの位置でアメリカ海軍のレーダーピケット駆逐艦「ブレイン」(USS Braine, DD-630)に突入したと推測されている。)
 「最后の便り致します 其後御元気の事と思ひます。 幸雄も栄ある任務をおび 本日出発致します。 必ず大戦果を挙げます。 桜咲く九段で会う日を待って居ります どうぞ御身体を大切に 弟達及隣組の皆様にも宜敷く さようなら」。

 1945年5月28日、菊水八号作戦開始。
 1945年6月1日、菊水九号作戦開始。
【枝幹二・大尉/「遺書」】
 (1945(昭和20).6.6日、出撃戦死。亨年22歳。富山県)
 「あんまり緑が美しい。今日これから死にいくことすら忘れてしまいそうだ。真青な空 ぽかんと浮かぶ白い雲 6月の知覧はもうセミの声がして夏を思わせる。(作戦指令を待っている間に)
 「小鳥の声がたのしそう 俺もこんどは小鳥になるよ 日のあたる草の上にねころんで 杉本がこんなことを云っている 笑わせるな 本日13時35分 いよいよ知覧を離陸する なつかしの祖国よ さらば 使いなれた万年筆を”かたみ”に送ります」(知覧特別攻撃隊隊員の手記)。

【渋谷健一・陸軍大尉/「出撃に際して倫子、生れる愛子へ」】
 (1945(昭和20).6.11日、陸軍特別攻撃隊振武隊隊長として沖縄海域にて戦死。戦死後大佐。亨年31歳。山形県出身。少候22期。渋谷大尉は仙台飛行学校で特操1期の区隊長をしていた。自ら特攻精神を説き、そして特攻隊員に志願した。幾度目かの志願でやっと認められ若い搭乗員8名を連れて出撃散華されたとのことである)。
 父は選ばれて攻撃隊長となり、隊員11名、年歯僅か20歳に足らぬ若桜と共に決戦の先駆となる。死せずとも戦に勝つ術あらんと考うるは常人の浅はかなる思慮にして、必ず死すと定まりて、それにて全軍敵に総体当たりを行い、尚且つ、現戦局の勝敗は神のみぞ知り給う。真に国難というべきなり。父は死するにあらず、悠久の大儀に生るなり。

 一、寂しがりやの子に成るべからず母あるにあらずや、父も叉幼少にして父母を病に亡したれど決して明るさを失わずに成長したり。まして戦に出て壮烈に死すと聞かば日の本の子は喜ぶべきものなり。父恋しと思わば、空を見よ、大空に浮かぶ白雲にのりて父は常に微笑で迎う。
 二、素直に育て、戦勝っても国難は去るにあらず、世界に平和がおとづれて万民太平の幸をうけるまで懸命の勉強をすることが大切なり。二人仲良く母と共に父の祖先を祭りて明るく暮らすは父に対して最大の孝養なり。父は飛行将校として常の任務を心から喜び、神明に真の春を招来する神風たらんとす。皇恩の有り難さを常に感謝し世は変わるとも忠孝の心は片時も忘るべからず。

 三、御身等の母はまことに良き母、父在世中は飛行将校の妻は数多くあれども、母ほど婦人としての覚悟ある者少なし。父ハ常に感謝しありたり。

 戦時多忙の身にして真に母を幸福あらしめる機会少なく、父の心残りの一つなり。御身等成長せし時には父の分まで孝養つくさるべし。之父の頼みなり現時敵機爆撃の為大都市等にて家は焼かれ、父母を亡ひし少年少女限りなし。之を思へば父は心痛極まりなし。御身等は母、祖父母に抱かれて真に幸福に育ちたるを忘るべからず。

 書置くことは多かれど、大きくなったる時に良く母に聞き母の苦労を知り決して我儘せぬよう望む。

 1945年6月21日、菊水十号作戦開始(最後の菊水作戦)。
【山口輝夫・海軍少尉/「「父上の名を呼んで突入します」】
 (1945(昭和20).6.21日、沖縄周辺洋上にて戦死。亨年23歳。國學院大學卒。飛行科予備生徒1期。神風特別攻撃隊第十二航空戦隊二座水偵隊。演劇中の遺書のモデルにもなっている有名な遺書である。引用「神風特別攻撃隊」)
 御父上様 なんらの孝養すらできずに散らねばならなかった私の運命をお許しください。急に特攻隊員を命ぜられ、いよいよ本日沖縄の海へ向けて出発いたします。命ぜられれば日本人です。ただ成功を期して最後の任務に邁進するばかりです。とはいえ、やはりこの麗しい日本の国土や、人情に別離を惜しみたくなるのは私だけの弱い心でせうか。死を決すればやはり父上や母上、祖母や同胞たちのの顔が浮かんでまいります。誰もが名を惜しむ人となることを願ってやまないと思うと、本当に勇気づけられるような気が致します。必ずやります。それらの人々に向かって私はそう叫ばずにはいられません。

 しかし死所を得せしめる軍隊に存在の意義を見出しながら、なお最後まで自己を減却してかからねばならなかった軍隊生活を、私は済み良い世界とは思えませんでした。それは一度娑婆を経験した予備士官の大きな不幸といえませう。いつか送っていただいた大坪大尉の死生観も、実は徹し切っているようで、軍隊の皮相面をいったに過ぎないような気がします。生を受けて二十三年、私には私だけの考え方もありましたが、もうそれは無駄ですから申しません。特に善良な大多数の国民を欺瞞した政治家たちだけは、今も心憎い気が致します。しかし私は国体を信じ愛し美しいものと思うが故に、政治家や統帥の補弼者たちの命に奉じます。

 実に日本の国体は美しいものです。古典そのものよりも、神代の有無よりも、私はそれを信じてきた祖先たちの純真そのものの歴史の姿を愛します。美しいと思います。国からだと派祖先たちの一番美しかったものの蓄積です。実在では、我が国民の最善至高なるものが皇室だと信じます。私はその美しく尊いものを、身をもって守ることを光栄としなければなりません。

 沖縄は五島と同じです。私は故郷を侵す者を撃たねば止みません。沖縄は今の私にとっては揺りかごです。あの空あの海に、必ず母や祖母が私を迎えてくださるでせう。私はだから死を悲しみません。恐ろしいとも思いません。ただ残る父上や、多くのはらからたちの幸福を祈って止みません。父上への最大の不幸は、父上を一度も父上と呼ばなかったことです。しかし私は最初にして最後の父様を、突入寸前口にしようと思います。人間の幼稚な感覚は、それを父上にお伝えすることはできませんが、突入の日に生涯を込めた声で父上を呼んだことだけは忘れないでください。

 天草は実に良い所でした。私が面会を父上にお願いしなかったのも、天草の持つ良さのためでした。隊の北方の山が杉山と曲り坂に良く似た所で、私はよく寝ころびながら、母の死を漠然と母と知りつつ火葬場へ車で行った曲り坂のことなど、想わずにはおれませんでした。私が死ねば山口の方は和子一人になります。姉上もおりますし心配ありませんが、万事父上に一任しておりますからお願い致します。

 歴史の磋鉄てつは民族の滅亡ではありません。父上立ちの長命を御祈り致します。必ず新しい日本が訪れるはずです。国民は死を急いではなりません。ではご機嫌よう。輝夫 出発前 名をも身をもさらに惜しまず もののふは 守り果さむ 大和島根を」。

 1945年6月23日、沖縄での組織的戦闘が終結。以後、兵力、機材、燃料の枯渇及び本土決戦のための兵力温存の為散発的な特攻攻撃となる。
【池淵信・海軍中尉/「遺書」】
 (1945(昭和20).6.28日、マリアナ海域にて戦死。回天特別攻撃隊)
 「母上様 軍務は一寸不明のため遂に面会できず申し訳ありません。お母さんも既に覚悟はしてくださったことと信じますが、特攻隊員の母として強く強く生き抜いてください。国難に際し、国恩に報ずるは臣たるの道であり、家門の誉れであります。お母さんは私の幼い時のことを言って時折涙を流すそうですが、信夫は決してお母さんの考えるような可哀そうな子ではありませんでした。信夫は日本一の幸福者であつたと信じています。いらぬ気はつかわずにいてください。信夫の身は再びお母さんのもとに還らずとも、何時までもお母さんの心の中に生きて行きます。信夫にとっては日本一のお母さんでした。親孝行もできず、お許しください。しかし信夫は最高の孝の道を選んだと信じます。雪さんが母のもとに居ます。信夫も安心して征けます。どうか何時までも御達者で御暮しください」。

 1945年7月1日、第180振武隊が都城より出撃し、陸軍の沖縄航空特攻終わる。
【水知創一・海軍大尉/「遺書」】
 (1945(昭和20).7.16日、本邦東南海面にて戦死。亨年21歳。兵庫県出身。早稲田大学。回天特別攻撃隊「轟隊」。)
 「愼二様 急に休暇が許され、又余りにも短かったので呼ぶ事が出来ず悪い事をしました。愼二は私のたった一人の弟です。早く立派な人になって父上、母上を喜ばしてあげて下さい。兄の様な親の心配を掛けてばかりゐる様な男になってはなりません。今に兄達が必ず敵をやっつけますから後は、愼二達が一所懸命勉強して日本をますます良い国にして下さい。では元気でしっかりやって下さい。創一」。

【林尹夫・海軍少尉/「遺書」】
 (1945(昭和20).7.27日、戦死。亨年23歳。三高 京都大学から学徒出陣。第13期海軍飛行予備学生)
 「必敗の確信 ああ実に昭和17年よりの確信が今にして実現するこのさびしさ 誰が知ろう さらば さらば みんななくなる すべては消滅する それでよいのだ いわばそれは極めて自然なる過程ではないか 亡びるものは亡びよ 真に強きもののみ発展せよ それで よいではないか しかし我々は盲目だ ただ 闘うこと それが我々に残された唯一の道 親しかりし人々よ・・・・・闘わんかな 南九州の制空権 すでに敵の手中にあり われらが祖国まさに崩壊せんす 生をこの国に享けしもの なんぞ 生命を惜しまん 愚劣なりし日本よ 優柔不断なる日本よ 汝いかに愚かなりとも 我ら この国の人たる以上 その防衛に奮起せざるをえず」。
 「オプティミズムをやめよ 眼を開け 日本の人々よ 日本は必ず負ける そして我ら日本人は なんとしてもこの国に 新たなる生命を吹き込み 新たなる再建の道を 切りひらかなければならぬ 若きジェネレーション 君たちは あまりにも苦しい運命と闘わなければならない だが 頑張ってくれ 盲目になって 生きること それほど正しいモラルはない 死ではない 生なのだ モラルのめざすものは そして我らのごとく死を求むる者を インモラリストと人は言わん」。

【高須孝四郎・海軍一飛曹/「遺書」】
 (1945(昭和20).8.9日、本州東南洋上にて戦死。亨年23歳。神風特別攻撃隊第七御盾隊第二次流星隊員)
 「攻撃直前記す。御姉上様、合掌、最後に当たり何も言うことはありません。僕が常夏の国南米伯国より日本の国へ帰って、何も知らない僕を、よく教え導いてくださったことは、心から感謝しております。身を海軍に投じて以来未知の生活、日本の兵隊生活は最後の魂の道場でした。海軍に入営してより、日夜の訓練によって心身共に磨き清めて来ました。今、国のために散って行く私です。日本に帰るときに母様より呉々も言われた事、頼まれたことを果さずに散ってゆくのは心が残ります。最後に年老いた両親に迷惑かけたことを、深く悔やんでおります。今私は澄んだ気持ちです。白紙の心です。皆々様もお元気に。では私は只今より攻撃に行きます。再合掌」。

 1945年8月11日、喜界島から海軍第2神雷爆戦隊2機が沖縄の連合軍艦船群に突入。沖縄への航空特攻終結。
 1945年8月15日、木更津から流星艦上攻撃機1、百里原から彗星8が特攻出撃。最後の組織的特攻となった。正午に玉音放送があり終戦する。午後(夕刻)、宇垣纒海軍中将、計11機を指揮して大分基地から沖縄に特攻出撃。8機突入、戦果無し。
【**・海軍/「遺書」】
 (1945(昭和20).8.16日、戦死。亨年**歳。第五航空艦隊司令長官宇垣纏中将指揮下の七〇一航空隊に所属し、艦上爆撃機の偵察員として、 フィリピン方面で活躍した。)

 宇垣長官の突入に先立つ「決別の辞」。「過去半歳ニ亘リ麾下各隊将士ノ奮戦ニ拘ワラズ、驕敵ヲ撃砕、皇國護持ノ大任ヲ果タスコト能ハザリシハ、本職不敏ノ致ス所ナリ。本職ハ皇國ノ無窮ト天航空部隊特攻精神ノ昂揚ヲ確信シ、部下隊員ノ櫻花ト散リシ沖縄ニ進攻、皇國武人ノ本領ヲ発揮シ、驕敵米艦ニ突入轟沈ス。指揮下各部隊ハ本職ノ意ヲ体シ、凡ユル困難ヲ克服シ、精強ナル皇軍ノ再建ニ死力ヲ竭シ、皇國ヲ萬世無窮タラシメヨ。大元帥陛下萬歳。彗星機上にて」。


 昭和20年8月15日の終戦の日、海軍の特攻隊指揮官2人が相前後して自らの生命を絶った。1人は特攻の生みの親と言われる大西瀧治郎、もう1人は第5航空艦隊長官として沖縄方面の航空特攻作戦を指揮した宇垣纏(ともに海軍)。
【宇垣纏・海軍中将/「遺書」】
 (第5航空艦隊長官として沖縄への特攻作戦を指揮。終戦の日の午後、自ら特攻機に乗って戦死)

【大西瀧治郎・海軍中将/「遺書」】
 (1945(昭和20).8.16日未明、自決。亨年54歳。第一航空艦隊司令長官として、レイテ島方面の作戦で初めて「体当たり攻撃」の 実施を命じ、その後、 軍令部次長の職にあって終戦を迎えた。)
 「遺書 特攻隊の英霊に申す。善く戦いたり深謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。しかれども、その信念は遂に達成し得ざるに至れり。吾死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす。次に一般青年に告ぐ。我が死にして軽挙は利敵行為なるを思い聖旨に副い奉り、自重忍苦するの誠ともならば幸いなり。陰忍するとも日本人たるの矜持を失う勿れ。諸士は国の宝なり。平時に処しなお克く特高精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為、最善を尽せよ。海軍中将 大西滝治郎」

【大石清・海軍伍長/「妹への手紙」】
 (大阪府出身 飛行学校卒 戦死。大石伍長は大阪大空襲で父を失い、つづいて重病だった母親も亡くした。小学生の妹(静恵)一人が残され、伯父の元に引き取られていった。引用:今日われ生きてあり)
 「静(せい)ちやん お便りありがたう。何べんも何べんも読みました。お送りしたお金、こんなに喜んでもらへるとは思ひませんでした。神だな(棚)などに供へなくてもよいから、必要なものは何でも買つて、つかつて下さい。兄ちやんの給料はうんとありますし、隊にゐるとお金を使ふこともありませんから、これからも静ちやんのサイフが空つぽにならない様、毎月送ります。では元気で、をぢさん、をばさんによろしく」。
 「なつかしい静(しい)ちやん!おわかれの時がきました。兄ちやんはいよいよ出げきします。この手紙がとどくころは、沖なはの海に散つてゐます。思ひがけない父、母の死で、幼い静ちやんを一人のこしていくのは、とてもかなしいのですが、ゆるして下さい。

 兄ちやんのかたみとして静ちやんの名であずけてゐたうびん(郵便)通帳とハンコ、これは静ちやんが女学校に上がるときにつかつて下さい。時計と軍刀も送ります。これも木下のおぢさんにたのんで、売つてお金にかへなさい。兄ちやんのかたみなどより、これからの静ちやんの人生のはうが大じなのです。もうプロペラがまはつてゐます。さあ、出げきです。では兄ちやんは征きます。泣くなよ静ちやん。がんばれ!」。

 大野沢威徳からの手紙(万世基地にて)
 「大石静恵ちやん、突然、見知らぬ者からの手紙でおどろかれたことと思ひます。わたしは大石伍長どのの飛行機がかりの兵隊です。伍長どのは今日、みごとに出げき(撃)されました。そのとき、このお手紙をわたしにあづけて行かれました。おとどけいたします。

 伍長どのは、静恵ちやんのつくつたにんぎやう(特攻人形)を大へんだいじにしてをられました。いつも、その小さなにんぎやうを飛行服の背中につつてをられました。ほかの飛行兵の人は、みんなこし(腰)や落下さん(傘)のバクタイ(縛帯)の胸にぶらさげてゐるのですが、伍長どのは、突入する時にんぎやうが怖がると可哀さうと言つておんぶでもするやうに背中につつてをられました。飛行機にのるため走つて行かれる時など、そのにんぎやうがゆらゆらとすがりつくやうにゆれて、うしろからでも一目で、あれが伍長どのとすぐにわかりました。

 伍長どのは、いつも静恵ちやんといつしよに居るつもりだつたのでせう。同行二人・・・・仏さまのことばで、さう言ひます。苦しいときも、さびしいときも、ひとりぽつちではない。いつも仏さまがそばにゐてはげましてくださる。伍長どのの仏さまは、きつと静恵ちやんだつたのでせう。けれど、今日からは伍長どのが静恵ちやんの”仏さま”になつて、いつも見てゐてくださることゝ思ひます。伍長どのは勇かんに敵の空母に体当たりされました。静恵ちやんも、りつぱな兄さんに負けないやう、元気を出してべんきやうしてください。さやうなら」。

【塚本太郎/「遺書」】
 (特別攻撃用一人乗潜水艦「回天一号」に乗り勇敢に米艦に体当たり攻撃を敢行した。靖国神社「遊就館」にある)
 「父よ、母よ、弟よ、妹よ。そして永い間はぐくんでくれた町よ、学校よ、さようなら。本当にありがとう。こんなわがままなものを、よくもまあ本当にありがとう。僕はもっと、もっと、いつまでもみんなと一緒に楽しく暮らしたいんだ。愉快に勉強し、みんなにうんとご恩返しをしなければならないんだ。春は春風が都の空におどり、みんなと川辺に遊んだっけ。夏は氏神様のお祭りだ。神楽ばやしがあふれている。昔はなつかしいよ。秋になれば、お月見だといってあの崖下に「すすき」を取りにいったね。あそこで、転んだのは誰だったかしら。雪が降りだすとみんな大喜びで外へ出て雪合戦だ。昔はなつかしいなあ。こうやってみんなと愉快にいつまでも暮らしたい。喧嘩したり争ったりしても心の中ではいつでも手を握りあって――。

 然し僕はこんなにも幸福な家族の一員である前に、日本人であることを忘れてはならないと思うんだ。日本人、日本人、自分の中には三千年の間受け継がれてきた先祖の息吹が脈打ってるんだ。鎧兜に身をかため、君の馬前に討死した武士の野辺路の草を彩ったのと同じ、同じ匂いの血潮が流れているんだ。そして今、怨敵撃つべしとの至尊の詔が下された。十二月八日のあの瞬間から、我々は、我々青年は、余生の全てを祖国に捧ぐべき輝かしき名誉を担ったのだ。人生二十年。余生に費やされるべき精力のすべてをこの決戦の一瞬に捧げよう。怨敵撃襄せよ。おやじの、おじいさんの、ひいおじいさんの血が叫ぶ。血が叫ぶ。全てを乗り越えてただ勝利へ、征くぞ、やるぞ。

 年長けし人々よ、我等なき後の守りに、大東亜の建設に、白髪を染め、齢を天に返して健闘せられよ。又幼き者よ、我等の屍をふみ越え銃刃を閃めかして進め。日章旗を翻して前進せよ。至尊の御命令である。日本人の気概だ。永遠に栄あれ祖国日本。我等今ぞいかん、南の海に北の島に全てをなげうって戦わん。大東亜の天地が呼んでいる。十億の民が希望の瞳で招いている。みんなさようなら!元気で征きます」。

【村田玉男二・飛曹/「遺書」】
 (昭和**年*月**日、戦死。亨年19歳。)
 「お母様、驚き遊ばされた事で御座いましょう。長い長い年月、手しおにかけてお育てくださいまして今日に到りましたが、何のご恩もお返しせず残念に存じます。お年を召されたお母様や、やさしい兄、姉妹を思いますれば、この決意も鈍りますが、なんのなんの畏れおほくもこの度の聖戦にて数知れぬ赤子を御奪われなされた陛下の御心に比しますれば、このくらいのこと、物の数では御座いますまい。この身は異国の海に果てようとも、泣かずにほめて下さい。お母様玉男を思い出しました時は大空を御覧遊ばしませ。そこにはきっと大空を飛べる飛行機の蔭に玉男の姿が見えるでしょう。最後にお願いとしてお母様身体に無理なき様、長寿遊ばせ。兄、姉妹よ老いたる一人の母を玉男の分まで親孝行する様に・・・・・・(玉男は死んだのではありません。姿は皆様の御前におらずとも、必ず皆様の許におり、楽しき我が家をなき父、靖国の兄と共に見守っております)」。

【田中哲郎・上飛曹/「遺書」】
 (昭和**年4月7日、戦死。亨年20歳。)
 「早苗ちゃん 風邪をひかないか、元気で、毎日、日参に又学校に行って居りますか。寒いから気をつけなければいけないよ。早苗ちゃんが病気になると兄さん、うんと心配しちゃうからね病気になんか成るんじゃないよ。雪が降ったことがあるかい。兄さんの居る処は時々降るよ。此処には高い高い山が有るんだよ。ホラあすこに見えるタイトウミサキの山を、二十くらい積んだ山がね。こんな高い山、早苗ちゃん見たこと有るかい。なに、有る、どこで、なあんだ、ユメでかい。・・・・そしてねこの山はずっと前から、雪の着物を着て真っ白だよ。だからずいぶん寒いよ。だけど兄さんなんか平気だよ。どうして、それはね、どんどん駆け足やったり、体操やったりするからだよ。だから早苗ちゃんもどんどん運動するんだよ。そうするとあたたかくなるし、病気なんかにもならなくなるよ。だけど、早苗ちゃんは女だから、あばれたりしちゃだめだよ。喜久ちゃんをたたいたり、おとうさんやおかあさんの言ふことはよく聞くね。それからもうひとつ幹ちゃんをよく見てやるんだよ。ずいぶん大きく成っただろうね。かはいいだろう。早苗ちゃん勉強するんだよ。もうじき三年生になるんだものね。この間、愛子ちゃんから、かはいい手紙が来たよ。早苗ちゃんも喜久ちゃんと書いて、くださいね。兄さん、待っているよ。

 兄さんはね毎日元気で赤いトンボのような飛行機にのって飛んで居るよ。小さな舟や白いホを上げたホカケブネやいろんな形をした島のういた青い青い海の上や村の上町の上をブンブンとね。 では早苗ちゃん手紙を待って居るよ」。

【重信隆丸・少尉/「遺書」】
 (昭和**年*月*日、戦死。亨年22歳。)
 「妙子、全く意地悪ばかりして申訳ない兄だったね、許してくれ。愈々明日は晴の肉弾行だ。意地悪してむくれられたのは、今から思へばみんな懐かしい思い出だ。お前も楽しかった思い出として笑ってくれ。兄さんが晴の体当たりをしたと聞いて、何もしんみりするんぢゃないよ。兄さんは笑って征くんだ。おおむね人間とはだねエッヘン!大きな或るものによって動かされているのだ。小さな私達の考えも及ばない大きな力を持つ或るものだ。それは他でもないお前の朝夕礼拝する御仏様なのだ。

 死ぬということはつらいと云うが「何でもない。御仏様の為されることだ」と思えば、何も問題でもなくなるのだ。欲しいと思うものが自分のものにならなかったり、別れたくないもの、例えば兄さんに別れたくなくったって、明日は兄さんはお前なんかまるで忘れでもしたかのように平気であっという間に散ってゆくのだ。そして丁度お前のような境遇の人は、今の日本は勿論世界中のどこにでも一杯なのだ。又兄さんは特攻隊に入って暫く訓練したが、兄さんの周囲では、特攻隊と関係のない長命すべきように思える人がぽつりぽつりと椿の花のように死んで行った。大体わかるだろう。

 この世は「思ふがままにゆかないのが本当の姿なのだ」といふことが。簡単に云えば、一寸まずいが、無常が常道の人世ともいえよう。兎に角何も心配することなんか此の世にはないのだ。明るく朗らかに仕事に励み勉強し、立派な人間になってくれ。それがとりも直さず御国への最も本当のご奉公なのだ。兄さんはそれのみを祈りつつ征く。

 難しそうなことを色々書いたが、兄さんも色々これまで考えた挙句、つひ最近、以上書いたような心境になったのだ。お前もなかなか本当の意味は分り難いと思ふが、折に触れてこんなことを考えていたらいつか分ることだ。朝夕お礼をすることを忘れないように。しみじみ有難く思ふ時が必ず来る。お父さん初めお母さん、相当年もとられたことだから、よくお手伝いをしてあげてくれ。姉さん、昭を頼む。元気に朗らかにやるんだよ!

 仏様のことを時々考えろと云ったって、仏様とはしんみりしたものとは全く関係のないものだよ。以下取り急ぎ断片的に書く。一、運動は必ずやるべきだ、精神爽快となる。一、守神を頼んではあったが、手に入らなくとも何の心残りも無し 雨降れば天気悪しだ ワッハッハハ 一、よく読書すべし 幾ら書いても際限なし ではさようなら お元気で」。

【成田金彦・大尉/「遺書」】
 (昭和**年*月*日、戦死。亨年23歳。)
 「前略 盆だね 皆すぐ墓参の準備していて下さい 私の分も忘れなく 草々」。

【広田幸宣・一飛曹/「」】
 (昭和**年*月*日、戦死。亨年20歳。)
 「たびたびのお便り嬉しく拝見しました。この前の便箋七枚の手紙を見ては涙がとめどなく頬を伝わりました。何回も何回もくりかへして読みました。金送りましたがこんなに喜んで頂けるとは思いませんでした。神様などそなへなくとも宜しいですから、すぐ用立ててください。少し金持ちらしくやって下さい。財布が底抜けにならぬよう一ヶ月に一回は必ず補給します。前にも云ったとおり、もう誰の点検も要せず、すぐ自分で封切って見るのですから、財布がからになりさうでしたら、すぐ知らせて下さい。俸給三十五円、加俸三十円、二十二日に貰います。食費、被服代はいらぬのですぞ。小遣いだけで六十五円ですぞ。古い者は女郎買ひになど行きますが、我輩は絶対行かぬつもりです。酒は飲むが煙草やビールは好かんですよ。

 私は貯金はこちらでたくさんやっていますから、送った金はじゃんじゃん使って下さい。底抜け財布にならぬようにですね。 甘い物などは十分配給になりますが、出来た時は、即ちあるときは作ったついでに郷土を思い出す餅やぼたもち、ちまきだんごなど、折にふれ無理せぬ程度に隊宛お送り下さい。 又下宿でもよろしいですが、十日に一辺の外出ではちょっと長いです。隊なら夕食後は果汁のんだり、菓子食べたりする時間があります。この間戦友からするめを貰いました。送ってもらったのだそうです。小包などは自分で受取りに行きます。みかん着いたようで何よりです。出来たらもっと送りましょう。玉ちゃんにも小遣い出来るだけ送りますからお嫁に行く日の貯金に(以下不明)

 今度、金が自由になったらゆっくりと面会にこられないですか。やがては泊まりもありますし、二十四時間のやすみもありますからゆっくり話も出来ますし、共に寝ることも出来るわけです。汽車に酔わなければよいのだがなぁ、トランク要るなら送ってもよいです。ではお体大切に、ベッドの中で なつかしの母上様 かあちゃんよ・・・」。

【佐藤章・少尉/「妻への手紙」】
 (昭和**年*月*日、戦死。亨年26歳。回天特攻で戦死)
 「 まりゑ殿 かねて覚悟し念願していた「海征かば」の名誉の出発の日が来た。日本男子として皇国の運命を背負って立つは当然のことではあるが、然しこれで「俺も日本男子」だぞと、自覚の念を強うして非常にうれしい。短い間ではあったが、心からのお世話に相成った。俺にとっては日本一の妻ではあった。

 小生は何処にいようとも、君の身辺を守っている。正しい道を正しく直く生き抜いてくれ。子供も、唯堂々と育て上げてくれ、所謂偉くすることもいらぬ。金持ちにする必要もない。日本の運命を負って地下百尺の捨石となる男子を育て上げよ。小生も立派に死んでくる。充分身体に気をつけて栄え行く日本の姿を小生の姿と思ひつつ強く正しく直く生き抜いてくれ」。

【藤井一少尉・候補生/「遺書」】
 (昭和**年*月*日、戦死。亨年28歳。特攻隊は妻子持ちは原則として外された、しかし藤井は部下ばかり行かせるわけにはいかない、自分も行くと強く主張、妻は自分と子が夫の足枷にならないようにと入水自殺をする。 )
 「冷え十二月の風の吹き飛ぶ日 荒川の河原の露と消し命。母とともに殉国の血に燃ゆる父の意志に添って、一足先に父に殉じた哀れにも悲しい、然も笑っている如く喜んで、母とともに消え去った命がいとほしい。父も近くお前たちの後を追って行けることだろう。嫌がらずに今度は父の暖かい懐で、だっこしてねんねしようね。 それまで泣かずに待っていてください。千恵子ちゃんが泣いたら、よくお守りしなさい。ではしばらく左様なら。父ちゃんは戦地で立派な手柄を立ててお土産にして参ります。では、一子ちゃんも、千恵子ちゃんも、それまで待ってて頂だい」。

【山下孝之・伍長/「遺書」】
 (昭和**年*月*日、戦死。年齢不詳。 )
 「只今元気旺盛、出発時刻を待って居ります。愈々此の世とお別れです。お母さん、必ず立派に体当たり致します。昭和二十年五月二十五日八時。これが私が空母に突入するときです。今日も飛行場まで遠い所の人々が、私達特攻隊の為に慰問に来てくださいました。丁度お母さんの様な人でした。別れの時は、見えなくなるまで見送りました。二十四日七時半、八代上空で偏向し故郷の上空を通ったのです。では、お母さん、私は笑って元気で征きます。永い間お世話になりました。妙子姉さん、緑姉さん、武よ。元気で暮らしてください。お母さん、お体大切に。私は最後にお母さんが何時も言われる御念仏を唱えながら空母に突入します。南無阿弥陀仏」。

【大石清/「」】
 (昭和**年*月*日、戦死。年齢不詳。万世基地より出撃? )
 「なつかしい静ちゃん! お別れのときがきました。兄ちゃんはいよいよ出撃です。この手紙が届く頃は、沖縄の海に散っています。思ひがけない父、母の死で、幼い静ちゃんを一人残していくのは、とても悲しいのですが、許してください。兄ちゃんの形見として静ちゃんの名であづけていた郵便通帳とハンコ、これは静ちゃんが女学校に上がるときにつかってください。時計と軍刀も送ります。 これも木下のをじさんに頼んで、売ってお金にかえなさい。兄ちゃんの形見などより、これからの静ちゃんの人生のほうが大事なのです。もうプロペラがまわっています。さあ、出撃です。ではお兄ちゃんは征きます。泣くなよ静ちゃん。がんばれ!」。

【富澤健児・少尉/「遺書」】
 (昭和**年*月*日、戦死。亨年23歳。 )
 「その後皆々様お元気の事と存じます。この間はお忙しい所、わざわざお出で下され、心から有難く思って居ります。傷の方はもう大丈夫ですから御心配なく。健児もいよいよ最後の御奉公の時が参りました。いままでの一方ならぬ御養育、深く深く感謝致して居ります。意気地が無かった健児でしたが、どうぞ褒めてやって下さい。

 仇敵殲滅の為、健児は渾身の勇を奮ってぶつかって行きます。今の危機を救ふ者は私達です。この誇りをもって必ずやります。すでに戦友がやっています。今の今でも私の戦友は、後に続くものを信じてぶつかっているのです。黙っていられるでしょうか。これが黙って見ていられるでしょうか。

 お父さん、お母さん、褒めてやって下さい。弟よ、妹よ、お父さんお母さんを大事にしてあげてください。お兄さんは死なない、遠い南西諸島の空よりきっときっと皆様を護っています。この身体は死んでもきっときっと皆様を護っています。この身体は死んでもきっとお護り致します。近所の方々にくれぐれも宜しくお伝え下さい。それから本庄の海老原様とはいつまでも御交際ありますように。忙しいのでなかなかお手紙書けない(途中不明)います。西ヶ谷様にも宜しくではこれでお別れ致します。いろいろありがとうございました。 さようなら さようなら。」。

【西山典朗・二飛曹飛行兵/「遺書」】
 (昭和**年3月18日、九州の海に戦死。亨年20歳。 )
 「段々と暮しよくなり皆様御元気で御暮らしのことと思います。祖父様、お元気でお暮らしのことと思います。 帰郷中は色々と御世話になりました。私は毎日元気にやっています。 我々もやがて一生懸命に敵と一騎打が出来る日が来ると思います。家の名誉にかけて働きます。 どうか御大事に。父上様、先日は有難う御座いました。 無事御帰りになられた事と思います。私は元気一杯やっております。 父上の教訓を守って一生懸命にやって来ます。幸朗の入学の事やその他弟妹のことはお願い致します。 そして無事幼年学校にやって下さい。中学校時代の私の都合の悪い物がないとも限りませんが、後で辱かしくない様なものがありましたら処理して下さい。 御別れしてから一寸も淋しくはありませんでした。

 母上様、先般の休暇で皆様の事もよくわかり、又元気でいられる姿を見てすっかり安心しました。弟妹達とも心ゆく限り遊べて何の悲しみ、悩みも、毛頭ありません。 母上の心も日本晴れとの事で喜んでおります。 今から実際に一騎打ちが出来るのです。考えただけでも愉快です。又玉中から来た者も8名おります。山口、牧島も決して心配には及びません。

 思う存分世の中を駆け回って来ます。 祖父も日露戦争後の軍人、父上も軍人、それに私も軍人で実際に役立つ家門の名誉と思って下さい。 どうか御病気になりませぬ様御祈り致します。

 幸朗君、今、目前或いは最中か、一大難関を突破せよ、そして、まず幼年学校に突撃されよ、一番大切なのは体だ、体なくては何の用にも立たぬ。一、父上母上に兄さんに代わって孝行すること。二、兄弟仲良くすること、決して洋光、紀光を泣かせるな。三、身体を無理せぬ様勉強する事。但し一番にならなければ何にもならぬ。四、家の手伝いをすること。 (終)

 雅子ちゃん、お元気で勉強して下さい。 母ちゃんの言われることをよくきいて一生懸命に。洋光、紀光と仲良く遊んでやりなさい。 母ちゃんが心配せぬ様お手伝いするんですよ。

 洋光サン、ユビヲ五ツカゾエルト一年生デスネ。トウチャンヤ、カアチャンノイフコトヲキイテベンキョウシテイルデショウ。ノリミツトナカヨクアソンデクダサイ。キュウチョウニナリ、カアチャンヲヨロコバセテクダサイ。オゲンキデ、サヨナラ。

 ノリミツサン、ニイサントスモウヲトッテ、ニイサンヲナゲタノリミツサンハ、ナカナイデオリマスカ。ニイチャンタチト、ナカヨクシテクダサイネ。マタニイサンガカエッテ、スモウヲトリマショウ。コンドハ、アメリカノヒコウキヲモッテキマス。カアチャンヲコマラセナイヨウニ。

 先般司令官少将朝融王殿下が臨席になり、隊内から数名の練習生選ばれ御前にて参謀より試問をうける光栄に浴しました。 母上様どうか喜んで下さい。 この新たなる感激を受け、又一層頑張るつもりです。では皆様御元気で、私の事は一切心配されませぬ様くれぐれもお願い致します。

 二伸 如何なる難事も最後まで沈着に、いつまでも体を無駄にせず思う存分落着いてやります故御安心下さい。 又軍刀は脇差で結構です」。

 注)幸郎(弟) 雅子(妹) 洋光(弟) 紀光(弟)」。

【 本井文哉・少尉/「遺書」】
 (昭和**年1月10日後、。亨年19歳。 )
 「 私死すとも先祖代々の墓のほか、決して他の墓(私だけの)を造らざるようお願い申上げます。なお葬るべきもの一つとして無き故に、私の毛髪をここに入れて置きます。これを本井家の墓に収めて下さい。必ず私の魂は御先祖様の下にかえります。そして永久に皇国の隆盛を祈ります。 敬具

 ー 昭和二十年一月十日の夜、妹昌子さんに書き残した手紙 ー

 今自分が征くにあたり、唯一つ気がかりになるのは家のことです。お父様は若い頃から随分苦労されました。私の軍人志望は小学校時代からの私の望みでありましたが、私が中学校に入って、よりその決心を強くさせたものが一つありました。 それは、その当時すでに父は老いて来ておられました。私はこれ以上父を働かせて大学にまで行く気にはどうしてもなれなかった。また家としてもその余裕がないのをよく知っていました。軍人は一人前になることの早いものでした。そして父もまた、早く私が一人前になるのを望んでおられました。以上はすべて平和時代の夢でした。

 昭和十六年遂に大東亜戦争になりました。一国の興亡をかけての戦い、我が祖国の戦い、私はその時にもう家なんかどうなってもよいと思いました。 長男としてあまりにも無責任だったかも知れません。私の父母は本当に立派な父母でした。私に「自分の進みたい方へやりたいままやれ、家の事は考えないで存分にやりなさい。」 いつも私を励ましてくれました。 私はそれ故、安心してここへ来ました。

 人情は浮薄なものです。人に頼るな。これから本井家はますます困苦となるでしょう。しかし、軍国の家は雄々しくそれに堪えて下さい。本井家をお前がついでも、弟文昭がついでも兄としてどちらでもよい。 ただ一言、後を頼む。 小さな文昭を立派に育ててくれ。最後に長男として、兄として家に何等為すことなく、お前に何も出来なかったのを残念と思う。おわびする。いつか「少女の友」で見たのに、南洋島の人は雨降りの日を喜ぶそうだ。それはその後には、必ず晴天の日が来るから。それは何日後、何年後に来るか知れない。しかし必ず来る。苦しさはこれから来る。よく堪えて頑張れ。 昭和二十年一月十日」。

【 大村俊郎・陸軍少尉/「遺書」】
 (昭和**年*月**日、。亨年18歳。菊水特別攻撃隊。 )
 「お父様、長らく御無沙汰致しております。その後お変わりなく、お働きの事と存じます。俊郎も至極強健、操縦任務に献身致しておりまする故、なにとぞ御安心下さい。内地の報を耳に致す度に、我が胸中裂けん思いで一杯です。馬来の状況も、日一日と悪化致し愈々我が、今に生まれし特攻隊として、敵空母戦艦撃沈さすその時期を、待つのみです。

 お父様俊郎は、鎌倉に生まれし事を嬉しく且つ、幸福に存じます。俊郎、生を受けてより今日まで何一つ孝をなさず。子としての、務めに非ずと思いしも致せず。しかしながら俊郎、ひと度び特攻機と、運命を共に致した時はどうかこれが、俊郎の最初で最期の孝行と思って下さい。皇民と生まれし我の幸せ、人間一度は死するものなり、黒か白か二つの内一つなり。白き箱にて、帰りました暁にはどうぞ、花の一枝でも上げて下さい。男の本懐之に過ぐるにあらん。敵、本土上陸せば親も子も非ず、ただ国に身を尽すのみ。暫くすれば俊郎と、靖国の社にて親子の対面なり。

 ああ壮なる歳、十八歳にして特攻隊として死せるか、悠久の大義に生きるか、我、笑って死なん。馬来の夕暮れ椰子の葉、夕日が西に沈まんと欲す。我一人、遠き郷里の母の顔を瞼に浮かべ、父母の健在を祈る。願くば靖国に来りて。俊郎より

 時枝に告ぐ 我が妹なりと思えば何か、筆を走らさん。兄として何一つ、面倒を見ずして死するは実に、悔むるところなり。 しかしながら我が志、何か通はん。十五なりといえども、今は子供に非ず。兄無き後はよく、父母に使へ兄の分まで孝をなしてくれ。妹、勝子の指導又大なり。私心に走ること無かれ、本性を理解せよ。兄より

 国(君)の為、何が惜しまん我が命、死して護国の神と化しなん」。

【海野馬一・陸軍少佐/「遺書」】
 (昭和二十三年四月三日、ボルネオ島にて法務死。岡山県出身。歩兵第五十四聯隊。)
 「愛児へ  児等よ嘆ずること勿れ。父の死は決して汝等を不幸にはしない。汝等は父の死によって何でもよいから一つの教訓を得よ。他の人の得ることの出来ぬ教訓を得よ。そして立派な人間となれ。汝等よ。汝等の母は日本一の母なることを汝等に告げる自身あり。母の言をよく守れ。母の言は即ち父の言だ。和幸君瑞子様誠子様仲よくよき母の許にてよく勉強して立派な人となれ。人間は何も高位高官の人となる義務はない。国家のため人にためになる人になるのが人間の義務だ。和幸君よ父は汝に将来如何なる職業に進めと云ふ権能はない。又汝の性格も判らぬから申さぬ。然し弱きを助けるのが男だ。父は軍隊生活中この気概を持してやって来た。(中略)「弱きを助ける人となれ」これが父の言葉だ。汝未だ五才と雖も父の言を忘るる勿れ。瑞子様はお姉さまだから父の心がよく判るであらふ。和幸や誠子が成長するに従ひ父の心を傳へて下さい。(後略)」。

【宇佐美輝夫・少年飛行隊14期/「遺書」】
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 「御母様 いよいよこれが最後で御座います。小さい時より御母様には御心配ばかり御掛けして来た私ではありますが、今こうして出撃命令を受け取ってみますと何だか一人前の男になったような満足感が全身を走ります。いよいよ一人前の戦闘操縦者として御役に立つ時が来たのです。前にも書いた通り一家の名誉にかけても必ず頑張ります。お優しい、日本一の御母様 今日トランプの占いをしたならば、御母様が一番良くて、将来、最も幸福な日を送ることができるそうです。御父様も日は長くかかるが帰ってきて一緒に暮らすことができそうです。輝夫は本当は35歳以上は必ず生きるそうですがろ、しかし大君(おおきみ)の命によって国家の安泰の礎(いしずえ)として征きます。御両親様の御写真は一緒に沈めることはいけないことなのだそうで、今ここに入れて御返し致します。

 毎日、輝夫の行動、操縦等を残らず見ていてくださった御優しい御写真と今日、別れると思うと、実に淋しいものがあります。御写真と御別れしても天地に恥じざる気持ちにて神州護持に力(つと)めます。短いようで長い19年間でした。良いことも悪いこともすべて諦め忘れてただ求艦必沈に努めます。発表は御盆の頃でせう。今年の御盆は初盆でする。山を眺めると福島の景が想い出されます。日本一の御母様、何時までも御元気で居てください。御父様には別に書きません。蒙古には連絡が取れないと思うからです。では元気に、輝夫は征きます。永久にサヨーナラ。

 翼折れ操縦桿はくだくとも 求めて止まじ敵の空母を
 沖縄に身ごと突っ込み散るさくら 空母は冥土の道づれに
 特攻と散りゆく桜花吹雪 晴れの初陣生還を期せず」。

 
 「僕はもう、お母さんの顔を見られなくなるかも知れない。お母さん良く顔を見せて下さい。しかし、僕は何んにも「カタミ」を残したくないんです。十年も二十年も過ぎてから「カタミ」を見てお母さんを泣かせるからです。お母さん、僕が郡山を去る日、自分の家の上空を飛びます。それが僕の別れのあいさつです。(19歳 江田島)」。

 
 「待ちに待った晴れの出陣を、明日に控えました。突然でいささかあわてましたが、おおいに張切っておりますので、何とぞご安心下さい。生を享けてここに22年になります。なんの恩返しもできず誠に申し訳ありません。なにとぞお許し下さい。国家のために散って征くことを最大の孝行とお受け下さい。私が戦死したと聞きましたら赤飯をたき、黒い着物など着ず、万歳と叫んで喜んで遺骨を迎えて下さい。たぶん骨はないものと思いますから体操シャツを一枚送ります。これは昭和十七年七月十一日土浦航空隊に天皇陛下が行幸されたときに使用した記念すべき品です。私と思って大切にして下さい。今となって別に言い残すことはありません。とにかく、命のあるうちは徹底的に頑張り抜く覚悟でおります。必ずや、敵空母の一隻や二隻は沈めて見せるつもりです。取急ぎ乱筆になりました。感無量で何も書けません。これでペンを措きます。お元気でいつまでも暮らして下さい。小父さん、小母さんたちによろしく。ではご機嫌よう、さようなら。母上様(22歳 江田島)

 
 「謹啓 御両親様には、相変わらず御壮健にて御暮しのことと拝察致します。小生もいらい至極元気にて軍務に精励いたしております。今までの御無沙汰致したことをお詫び致します。本日をもって私もふたたび特攻隊員に編成され出撃致します。出撃の寸前の暇をみて一筆走らせています。この世に生をうけていらい十有余年の間の御礼を申し上げます。沖縄の敵空母にみごと体当りし、君恩に報ずる覚悟であります。男子の本懐これにすぎるものが他にありましょうか。護国の花と立派に散華致します。私は二十歳をもって君子身命をささげます。お父さん、お母さん泣かないで、決して泣いてはいやです。ほめてやって下さい。家内そろって何時までもいつまでも御幸福に暮して下さい。生前の御礼を申上げます。私の小使いが少しありますから他人に頼んで御送り致します。何かの足しにでもして下さい。近所の人々、親族、知人に、小学校時代の先生によろしく。妹にも…後はお願い致します。では靖国へまいります。(20歳) 江田島 」

【塚本太郎・陸軍少佐/「遺書」】
 (特別攻撃用一人乗潜水艦「回天一号」に乗り勇敢に米艦に体当たり攻撃を敢行した。)
 「父よ、母よ、弟よ、妹よ。そして永い間はぐくんでくれた町よ、学校よ、さようなら。本当にありがとう。こんなわがままなものを、よくもまあ本当にありがとう。僕はもっと、もっと、いつまでもみんなと一緒に楽しく暮らしたいんだ。愉快に勉強し、みんなにうんとご恩返しをしなければならないんだ。

 春は春風が都の空におどり、みんなと川辺に遊んだっけ。夏は氏神様のお祭りだ。神楽ばやしがあふれている。昔はなつかしいよ。秋になれば、お月見だといってあの崖下に「すすき」を取りにいったね。あそこで、転んだのは誰だったかしら。雪が降りだすとみんな大喜びで外へ出て雪合戦だ。昔はなつかしいなあ。こうやってみんなと愉快にいつまでも暮らしたい。喧嘩したり争ったりしても心の中ではいつでも手を握りあって――。

 然し僕はこんなにも幸福な家族の一員である前に、日本人であることを忘れてはならないと思うんだ。日本人、日本人、自分の中には三千年の間受け継がれてきた先祖の息吹が脈打ってるんだ。鎧兜に身をかため、君の馬前に討死した武士の野辺路の草を彩ったのと同じ、同じ匂いの血潮が流れているんだ。そして今、怨敵撃つべしとの至尊の詔が下された。十二月八日のあの瞬間から、我々は、我々青年は、余生の全てを祖国に捧ぐべき輝かしき名誉を担ったのだ。人生二十年。余生に費やされるべき精力のすべてをこの決戦の一瞬に捧げよう。怨敵撃襄せよ。おやじの、おじいさんの、ひいおじいさんの血が叫ぶ。血が叫ぶ。全てを乗り越えてただ勝利へ、征くぞ、やるぞ。

 年長けし人々よ、我等なき後の守りに、大東亜の建設に、白髪を染め、齢を天に返して健闘せられよ。又幼き者よ、我等の屍をふみ越え銃刃を閃めかして進め。日章旗を翻して前進せよ。至尊の御命令である。日本人の気概だ。永遠に栄あれ祖国日本。我等今ぞいかん、南の海に北の島に全てをなげうって戦わん。大東亜の天地が呼んでいる。十億の民が希望の瞳で招いている。みんなさようなら!元気で征きます」。

【出陣学徒戦没学生の手記】

【松原成信/「遺書」】
 (同志社大学在学中戦死)
 「生あらば、いつの日か、長い長い夜であった、星のみにくい夜ばかりであった、と言い交わしうる日もあろうか」(わだつみ会編「戦没学生の遺書による15年戦争」)。
【住吉胡之吉/「遺書」】
 (東大生)
 「灰塵(*)の中から新たなる日本を創り出すのだ。万世一系の皇統を云々する心微塵もない。その皇統・国体の故に、神勅あるが故に、現実を無視し、人間性を蹂躙し、社会の赴くべき展開を阻止せんとした軍部。固陋なる愛国主義者。自分はもうかかる封建的な、人間性を無視したことを抹殺したい。本当に感謝し、隣人を愛し、肉親と睦び、皆が助け合いたい」(日本戦没学生手記編集委員会編「きけわだつみの声」)。

【林*夫/手記】
 (京大生)
 「僕は、この戦争で死ぬことが、我等世代の宿命として受け止めねばならんような気がする。一体恨むといっても、誰を恨むのだ。世界史を恨みとおすためには、我々は死ぬほかない」。

【長谷川信/手記】
 (1945(昭和20).4.12日、沖縄にて戦死。亨年23歳。1922年生まれ。明治学院高等部入学)

 「歩兵の将校で長らく中支の作戦に転戦した方の話を聞く。女の兵隊や、捕虜の殺し方、それはむごいとか残忍とかそんな言葉じゃ言い表わせないほどのものだ。俺は航空隊に転科したことに、一つのほっとした安堵を感じる。つまるところは同じかもしれないが、直接に手をかけてそれを行なわなくてもよい、ということだ。人間の獣性というか、そんなものの深く深く人間性の中に根を張っていることをしみじみと思う。人間は、人間がこの世を創(つく)った時以来、少しも進歩していないのだ。今次の戦争には、もはや正義云々の問題はなく、ただただ民族間の憎悪の爆発あるのみだ。敵対し合う民族は各々(おのおの)その滅亡まで戦を止めることはないであろう。恐ろしき哉(かな)、浅ましき哉。人類よ、猿の親類よ」。

【中村徳郎/「手記」】
 (1944年、フィリピンで行方不明。亨年25歳。東大理学部生)

 「(1943年)4月28日 穂高の岩場ですんでのところで死ぬべかりし命、しかもそれは結局4年とはもたなかった。色々とあの晩のことが思い合わされる。恐らく彼もまた戦車の中に屍を埋めたのではあるまいか。私の生活に切実に近似した、遠いけれども迫った事象ではある」。
 「(1943年)5月15日 そういうことを考えると、またしても歴史を読みたくなる。広く深く私たちは歴史を探って見なければならぬ。そうすれば必ず他愛ない自己礼賛や自己満足の夢に耽っておられなくなるはずだ。この夢ほど国を殆くするものはない。自惚れた国で興隆した国はない」。

【山根明/】
 (1945(昭和20).7月、華南長沙にて戦病死。東大文学部社会科学科学生)。

 「昭和18年(1943年)10月11日 一体私は陛下のために銃をとるのであろうか、あるいは祖国のために(観念上の)またあるいは私にとって疑いきれぬ肉親の愛のために、更に常に私の故郷であった日本の自然のために、あるいはこれら全部または一部のためであろうか。しかし今の私にはこれらのために自己の死を賭すると言う事が解決されないでいるのである。二年前の今頃のように死の恐怖に襲われて真夜中に起き出して鏡に映った自分に死の影を見出していた頃ならば、そしてその唯一の救いの道として私が選んだ殉教者の道に憧れていた頃ならば、ただ命を投げ出すという事のためにだけでも喜んで飛行機に乗り潜水艦にも乗ったと思うのだが、先日亡くなった老作家のように、「自分のようなものでもどうかして生きたい」と言う感じを持っている現在の私にどうして銃を持って戦線に赴くことができるのだろうか。灯を消して部屋の窓からますます冴えきった十三夜の月をながめ、凍りついた雪のような白い夜の雲を見ていると私の飛行機へのろうとしていた覚悟が実際夢のように思われる」。

【川島正/】
 (1945(昭和20).1月、華中にて戦死。亨年29歳。昭和15年東京農大卒業。同年12月入営。華北部隊に編入。)

 「昭和18年1月31日晴 夜中1時半本部よりの電話に接し5時半凍てつく寒夜を残雪踏んで討伐に出動。中沢隊の一兵が一支那人を岩石で殴打し、頭蓋骨が割れて鮮血にまみれ地上に倒れた。それを足蹴にし、また石を投げつける。見るに忍びない。それを中沢隊の将校も冷然と見ている。高木少尉の指図らしい。冷血漢。罪無き民の身の上を思い、あの時何故後れ馳せでも良い、俺はあの農夫を助けなかったか。自責の念が起こる。女房であろう、血にまみれた男にとりついて泣いていた。しかし死ななかった。軍隊が去ると立ち上がって女房に支えられながらトボトボ歩き去った。俺の子どもはもう軍人にはしない、軍人にだけは、、、、、平和だ、平和の世界が一番だ」。

【平井聖/「情けある母の哀訴嘆願」】
 (1945(昭和20).7.9日、仙台にて爆死。亨年20歳。東北大法学部学生。19年10月、豊橋陸軍予備士官学校入校。) 

 「昭和一九年九月二五日 福島氏の柴生田宅で優待になり、日曜朝帰宅ーー母より、理科方面への転向をすすめられる。いままで経験をつんできた学生としての最善の道をたどれ、とのありがたい親心ではあるが、そのすすめのごとく医科にまた農科へいくことも心に染まず、つい憤慨する。文科学生としての行き方を求めてせっかく苦労して飛び込んできた道である」。
 「一一月三〇日 またしても母の転科をすすむるますます激しくなった。ただひとりの息子――その成長ばかりを願ってきた母は、わが子をみすみす戦場に死なせるのはけだし“願わざるのはなはだしき”ものであろう! この憂いその心配はまるで狂気のごとく、母としてはほとんど泣かんばかりの真剣な態度で自分に哀訴するのであった。説き去り説き来たりためつなだめつ一生懸命説得するのであった。最初理科方面への転向慫慂は、「将来大学を出よ」との打算的な考えにすぎなかったようであるが、今や母親の本能は敏感に 我が子の血の臭いを嗅いでいる! 的確に“死”の予想をしていたようであった。もちろん飛行機に乗れば当然生命はなく、「仙台青葉師団」の戦闘幹部にでもなれば、これまた当然生還の目算は立たぬのである。そぞろ母親は感慨深く、「お前の性格からしても猪突猛進してついには生命を失くすであろう」という。いかに我が性格はわざわいなるかな、自分もそう思っていたところをズバリ言い当てられたので愕然とした。しみじみ自分の一徹な性格をば嘆く! しかもこの若さにおいて散ることこそ、自分の最も本望とするところ――だが両親の考えは、一概に自由主義思想の残滓的感情とばかりはいい切れない。心中で泣いて合掌しながらも表面ではただただ微笑をたたえて、情けある母の哀訴嘆願に対さねばならない。この矛盾そしてこのジレンマ、自分は二つの相反した魂の葛藤に、心苦しくも泣き、果ては慟哭したのであった! ……お母さん、お気持ちはようくわかります。しかし時代とわれわれの教養がお言葉にそうのを許さないのです。どうぞ先立つ不幸はおゆるしください。……」。

・「人間の本性として、FREEDOMに憧れるという真実さを、兵営に来て初めて身にしみて知った。失うまい。何時までもこの美しい心根を」(上村元太・中央大卒・沖縄にて戦死・24歳)
・「虐げられた人々の群。鎖の音の聞こえそうな真昼。重たい足、大きな靴、笑いのない哲学」(浅見有一・九州大卒・千葉にて戦死・27歳)
・「軽井沢に見たような富豪の生活、近時見聞きする軍人の時を得顔の振舞、官吏、資本家の実情を見るにつけ、我々は胸の煮えくりかえるのを覚える。しかし、なるようにしかなるまい。『世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない』という句に集約される宮沢賢治の思想。深みのある東洋的な香りの高い、暖かみのこもったその思想が、僕自身の中に育まれていた人間や社会の理想にぴったりあう。国籍が異なるというだけで、人間として崇高であり美しいものを尊敬することを怠り、醜い、卑劣なことを見逃したくない」(佐々木八郎・東大学生・沖縄にて戦死・23歳)
・「政府よ、現在の戦いは、勝算あるのか。空漠たる勝利を夢みて戦っているのではないか。国民に向かって必ず勝つと断言できるのか。国家は激情にかられることなかれ。落ち着いて理性の名刀を振って混乱をとくべし」(松岡欣平・東大学生・ビルマにて戦死・21歳)
・「私たちは広く眼を注がねばならぬ。よく省みなくてはならぬ。安っぽい感傷やブリキ細工のような独善を排しなければならぬ。くどすぎる自己礼賛をきくと反吐をはきたくなる。人々の邪悪さと運命の酷薄さとの間にありながら、善良であり、いつまでも善良であらねばならぬ。苦しいいさかいのうちにも温和と親切とを失わず、戦いの最中にも平静でありたい」(中村徳郎・東大学生・フィリピン島にて行方不明・25歳)
・「日本人の死は日本人だけが悲しむ。どうしてこうなければならないのか。なぜ人間は人間で共に悲しみ喜ぶようにならないのか」(岩ヶ谷治禄・静岡第一師範卒・ルソン島沖にて戦死・21歳)
・「自分の飯をもらう時、腹が減って飯を前にした時、人間の姿や表情は一変する。明日から食堂の食卓に坐る時、お念仏をしよう。いやな眼つきを自分もしていると思ったらゾーッとする。眼を閉って、お念仏しよう。人間は、この世を創った時以来、少しも進歩していない。この戦争には、正義云々の問題はなく、民族間の憎悪の爆発あるのみだ。恐ろしきかな、あさましきかな、人類よ、猿の親類よ」(長谷川信・明治学院学生・沖縄にて戦死・23歳)
・「もう何も要らない。慰めとか、励ましとか、それが軍国調やハッタリ多きものであるならば、腹立たしさ以外の何物でもない。何という安っぽさの群れであることか」(和田稔・東大学生・人間魚雷訓練中戦死・23歳)
・「努力したい。本当に自分の為すべきことに全力を尽くしたい。明るく元気よく」(井上長・東大学生・江田島付近にて戦死・23歳)
・「軍人の中に偉い人はいなかった。軍服を脱いだ彼らの言動は、実に見聞するに耐えなかった。この程度の将を戴いての戦勝は望み薄。これらの軍人の存在を許容し、養ってきたことを国民は知らねばならない。すべての望みを失った人間の気持ちは実に不思議なもの。いかなる現世の言葉をもってしても表わし得ない。すでに現世より一歩超越した。死の恐ろしさも感じなくなった」(木村久夫・京大学生・シンガポールにて戦犯刑死・28歳)

【出征兵士を送り出した母親の手記】

【出征兵士を送り出した母親の手記】
 「召集令状が届いた時から、家の中の様子はすっかり変わってしまいました。次々と人々がお祝いに訪れ、その接待に追われました。我が子を戦地に送り出したという実感が湧いてきたのは、暫く日が経ってからでした」()。

 出征する若者は親類縁者総出で見送られた。国家の為に死んだ夫の後を守り、子供達にその意味を伝えること、お国の為に役立つ子供に育て、国から求められれば我が子をも黙って国に指し出すこと。そうすることが良妻賢母とされた。

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(私論.私見)