2008.12.13日 れんだいこ拝
特攻隊兵士の手記考その1 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、主として特攻隊兵士の手記、遺書を判明する限りの戦死日順に確認する。何となく流れが見えてくる気がするからである。注釈は必要な限りとして、原文の含意を汲みとることにした。 「神風遺書」その他を参照する。これによれば次のように分類整理されている。「我が子への遺書」、「両親への遺書」、「父親への遺書」、「母親への遺書」、「兄弟・恋人への遺書」、「外国の遺書・手紙」。付け足すとすれば、これらの「家族親族宛遺書」の他に「武闘派ジハード戦挺身遺書」、「人生、生命観遺書」の項も要るであろうが、「武闘派ジハード戦挺身遺書」が削除されている気配がある。これにより、れんだいこは、「家族親族宛遺書」、「武闘派のジハード戦挺身覚悟遺書」、「人生、生命観遺書」に大別することにする。実際には複合しているが、重点によって識別する。但し、手記、遺書の日付け順に確認して行くことにする。これにより初めて「武闘派ジハード戦挺身遺書」を遺した戦士の坐り心地が良くなっただろうと思う。「特攻隊員の手記(「英霊の言乃葉」(靖國神社編集・発行))」、「特攻隊員の遺書」その他を参照する。参考文献として靖国神社編「散華の心と鎮魂の誠」、神坂次郎「今日われ生きてあり」、真継不二夫「海軍特別攻撃隊の遺書」等々。「ユーチューブ神風特攻隊員たちの遺書」、「ユーチューブ特攻隊の遺書」。 2008.12.13日 れんだいこ拝
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【堀毛・陸軍大尉/「書簡」】 | |
(1943(昭和18).5.18日付けが残る遺書)
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【伊藤甲子美・陸軍衛生伍長/「妻宛書簡」】 | |
(1944(昭和19).5.3日、マリアナ島にて戦死。亨年26歳。)
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【篠崎眞一・海軍少佐/「妻宛書簡」】 | |
(1944(昭和19).6.29日、内南洋方面にて戦死。亨年24歳。東京都出身。横須賀海軍航空隊。)
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【富田修・中尉/「父ちゃん!母ちゃん!」】 | |
(1944(昭和19).9.3日、台湾にて殉職。亨年23歳。長野県出身。日本大学卒。海軍第十三期飛行予備学生。富田中尉は特攻隊員ではなかった。)(引用:「英霊の言乃葉(6)」)
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【「神風」生みの親の大西瀧治郎中将の訓示】 | |
1944(昭和19).10.20日朝、大西瀧治郎中将が第一航空艦隊司令長官に着任(発令は10月5日)し、特攻隊員達を集め次のように訓示している。豪胆で知られていた大西は話の間中、体が小刻みにふるえ、顔面が蒼白で引きつっていたという。この日、大本営陸軍部から鉾田教導飛行師団に編成命令が下される。
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【関行男・大尉/「遺書」】 | ||
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【谷暢夫・海軍少尉/「遺書」】 | ||
1944(昭和19).10.25日、スルアン島海域ニテ戦死。享年20歳。神風特別攻撃隊敷島隊戦士。
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【永峰 肇・海軍曹長/時世の句】 | |
1944(昭和19).10.25日、神風攻撃隊敷島隊四番機として出撃、護衛空母「セント・ロー」を発見し撃沈。その戦闘中散華。享年19歳。
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【植村真久・海軍大尉/「愛児への便り」】 | |
1944(昭和19).10.26日、比島海域にて戦死。亨年25歳。東京都出身。立教大学。海軍第十三期飛行科予備学生。神風特別攻撃隊大和隊隊員として「爆装零戦」に搭乗、比島セブ基地を出撃、スリガオ海峡周辺洋上にて戦死。
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【塩田寛・海軍一飛曹/「遺書」】 | |
1944(昭和19).10.26日、レイテ沖にて特攻戦死。亨年18歳。神風特別攻撃隊 大和隊員。
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【連合艦隊司令長官布告】 | |
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【松尾勲・一等飛行兵曹/「両親宛遺書 ああ玉と砕けん」】 | |
1944(昭和19).10.29(27?)日、ルソン島東方にて戦死。亨年23歳。丙種飛行予科練6期。第二神風特別攻撃隊義烈隊。 | |
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【広田幸宣・海軍少尉/「かあちゃんよ」】 | |
1944(昭和19).10.30日、比島方面にて戦死。亨年21歳。新潟県出身。海軍甲種飛行予科練習生第十期。第一神風特別攻撃隊葉桜隊。初期の頃の特攻で、予科練同期3名を含む8名で出撃した。アメリカ側の資料によっても空母フランクリン、軽空母ベロー・ウッドの2隻に大損害を与えている。引用「英霊の言乃葉(2)」
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【富澤幸光・海軍中尉/「絶筆 靖國神社で待つてゐます」】 |
1945(昭和20).1.6日、比島にて戦死。亨年23歳。北海道桧山郡江差町出身。北海道第二師範学校卒。海軍第十三期飛行科予備学生。神風特別攻撃隊第十九金剛隊。引用:「英霊の言乃葉(2)」 |
「お父上様、お母上様、益々御達者でお暮らしのことと存じます。幸光は闘魂いよいよ元気旺盛でまた出撃します。お正月も来ました。幸光は靖国で24歳を迎えることにしました。靖国神社の餅は大きいですからね。同封の写真は**で猛訓練時、下中尉に写していただいたのです。眼光を見てください。この拳(こぶし)を見てください。 父様、母さまは日本一の父様母様であることを信じます。お正月になったら軍服の前にたくさん御馳走をあげてください。雑煮餅が一番好きです。ストーブを囲んで幸光の思いで話しをするのも間近でせう。靖国神社ではまた甲板士官でもして大いに張り切る心算です。母上様、幸光の戦死の報を知っても決して泣いてはなりません。靖国で待っています。きっと来て下さるでせうね。本日恩賜のお酒を戴き感激の極みです。敵がすぐ前に来ました。私がやらなければ父様母様が死んでしまう。否日本国が大変なことになる。幸光は誰にも負けずきっとやります。 ニッコリ笑った顔の写真は父様とそっくりですね。母上様の写真は幸光の背中に背負っています。母様も幸光と共に御奉公だよ。何時でも側にいるよ、と云ってくださっています。母さん心強い限りです。幸雄兄、家のことは万事頼む。嘉市兄と共に弟嘉平、久平、保則君を援けて仲良くやってください。恩師に宜しく申し上げてください。十九貫の体躯、今こそ必殺轟沈の機会が飛来しました。小樽の叔父、叔母様に宜しく。中野の祖母様に宜しく。国本師顕殿、お世話を謝します。叔父さん、幸光は立派に大戦果をあげます」。 |
【石川誠三・海軍中尉】 | ||
海軍中尉/海軍金剛隊イ五八潜乗組員。1945(昭和20).1.12日、グアム島アブラ港で人間魚雷「回天」に乗り込み特攻戦死(享年21歳)。
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【小松武・海軍上等飛行兵曹/「遺詠」】 | |
1945(昭和20).2.21日、硫黄島周辺の艦船攻撃中戦死。高知県。神風特別攻撃隊/第二御盾隊。
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【緒方襄・海軍中尉/「遺詠」】 | |
1945(昭和20).3.21日、九州南方洋上にて戦死。亨年23歳。熊本県出身。関西大学卒。海軍第十三期飛行科予備学生。第一神風桜花特別攻撃隊。神雷部隊桜花隊。学徒出陣し海軍に入り、そして特攻を志願した。ロケット特攻機「桜花」搭乗員として母機一式陸上攻撃機に搭乗し鹿屋基地を出撃した。兄も学徒出陣で海軍中尉であった。引用「英霊の言乃葉(6)」
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【伊舎堂用久・大尉/「遺歌」】 | |
1945(昭和20).3.26日、戦死。陸軍特別攻撃隊「誠第17飛行隊」
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【大橋春男・少尉/「遺書」】 | |
1945(昭和20).4.1日、出撃戦死。亨年26歳。岐阜県。
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【伍井井芳夫・中佐/「遺歌」】 | |
1945(昭和20).4.1日、出撃戦死。亨年32歳。埼玉県。
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【前田啓・大尉/「遺歌」】 | |
1945(昭和20).4.3日、出撃戦死。亨年23歳。北海道。
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【込茶章・少尉/「遺歌」】 | ||
1945(昭和20).4.6日、戦死。陸軍特別攻撃隊「第62振武隊」
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【小林敏男・大尉/「遺書」】 | |
1945(昭和20).4.6日、出撃戦死。亨年23歳。茨城県。
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【浅川又之・大尉/「遺書」】 | |
1945(昭和20).4.6日、出撃戦死。亨年23歳。長野県。
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【浅田晃一・海軍一等飛行兵曹/「遺書」】 | |
1945(昭和20).4.7日、南西諸島東方ニテ出撃戦死。亨年20歳。神風特別攻撃隊神雷部隊第四建武隊戦士。
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【松尾巧・海軍一等飛行兵曹/「遺書」】 | |
1945(昭和20).4.7日、出撃戦死。亨年20歳。佐賀県出身 乙飛17期。神風特別攻撃隊第二御盾隊銀河隊。
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【清水雅春・海軍二飛曹/「遺書」】 | |
1945(昭和20).4.7日、神風特別攻撃隊第三御盾隊として、沖縄海域にて特攻戦死。亨年18歳。
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【清水雅春・海軍二飛曹/「遺書」】 | ||
1945(昭和20).4.11日、神風特別攻撃隊の一員として台湾宜蘭から沖縄中城湾へと出撃し還らず、(享年22歳)。本句は飛び立つ直前に詠んだ辞世の句である。
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【穴沢利夫・海軍少尉/「前田笙子さん」】 | |
1945(昭和20).4.12日、沖縄周辺洋上にて戦死。亨年23歳。福島県出身。中央大学卒。陸軍特別操縦見習士官1期。陸軍特別攻撃隊。第20振武隊。穴沢少尉には智恵子さんという婚約者がおられた。また、知覧基地で特攻隊員の身の回りの世話をしていた知覧高女の女生徒達の内、当時3年生の前田笙子さんの日記の中に心優しい隊員達と穴沢少尉の事が出ている。
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【林市造/母へ最後の手紙】 | ||
(1945(昭和20).4.12日、特別攻撃隊員として沖縄(南西諸島方面)にて戦死。亨年23歳。福岡県宗像郡赤間町出身。京都帝國大學 経済学部学生。海軍第14期飛行科予備学生。)
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【**達郎/「遺書」】 | |
(1945(昭和20).4.12日、与論島東方に於いて出撃戦死。亨年24歳。京都大学。神風特別攻撃隊神雷部隊第四建武隊戦士。)
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【佐々木八郎/「遺書」】 | |
(1945(昭和20).4.14日、特攻隊員として沖縄海上にて戦死。亨年23歳。東大経済学部生)
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【中根久喜・少尉/「遺書」】 | |
(1945(昭和20).4.14日、沖縄東方に於いて出撃戦死。亨年23歳。日大。神風特攻隊 第6建武隊)
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【佐藤新平・海軍曹長/「お母さん江」/「父上様へ」】 | ||
(1945(昭和20).4.16日、沖縄西方洋上にて戦死。亨年23歳。岩手県出身。仙台乗員養成所7期。陸軍第79振武隊。佐藤曹長は「留魂録」という日記を残している。その中に「昨年より特別攻撃隊の熱望三度にして、漸く希望入れらる。神我を見捨て給わず」という文章がある。引用:「特攻隊員の日記」(特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会))
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【片岡喜作・海軍中尉/「遺書」】 | |
(1945(昭和20).4.22日、戦死。陸軍特別攻撃隊「第81振武隊」)
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【上成義徳・少尉/「遺書」】 | ||
(1945(昭和20).4.22日、出撃戦死。亨年25歳。鹿児島県)
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【永尾博・海軍中尉/「靖國の社頭で」】 | |
(1945(昭和20).4.28日、沖縄近海にて戦死。亨年22歳。佐賀県杵島郡武雄長大字武雄出身。西南学院卒。海軍第十三期飛行科予備学生。神風特別攻撃隊第三草薙隊)(引用:「英霊の言乃葉(1)
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【長沢徳治・大尉/「遺書」】 | ||
(1945(昭和20).4.28日、出撃戦死。亨年24歳。石川県。)
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【溝川慶三・小尉/「遺書」】 | |
(1945(昭和20).4.28日、出撃戦死。亨年**歳。飛行第105戦隊。)
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【市島保男・海軍大尉/最後の日記】 | |
(1945(昭和20).4.29日、沖縄東南海上にて戦死。亨年23歳。神奈川県出身。早稲田大学。神風特別攻撃隊第五昭和隊。)
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【相花・少尉/「母上 お許し下さい」】 | |
(1945(昭和20).5.4日、沖縄周辺洋上にて特攻戦死。亨年18歳。宮城県出身。少年飛行兵14期。陸軍特攻第七十七振武隊。少年飛行兵出身の純真な若者の父、母に捧げた遺書。継母であったらしく、自分の幼いときからの無礼をわびている)。
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【茂木三郎・海軍少尉/「特攻出撃に際して」】 | |
(1945(昭和20).5.4日、沖縄周辺にて特攻戦死。亨年19歳。福島県出身。予科練乙飛第18期生。神風特別攻撃隊第5神剣隊。引用:英霊の言乃葉(6))
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【宮崎勝・海軍少尉/「妹へ」】 | |
(1945(昭和20).5.4日、沖縄海域にて戦死。亨年19歳。三重県松阪市出身。乙種飛行予科練18期。神風特別攻撃隊第五神剣隊。宮崎少尉はまだ会っていない自分の妹「ヤスコチャン」に遺書を残した。妹たちを想う兄の気持ちが伝わってくる遺書である。引用:英霊の言乃葉(3)
)
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【相花信夫・少尉/「遺書」】 | |
(945(昭和20).5.4日、出撃戦死。亨年18歳)
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【稲田光男/「遺書」】 | |
(1945(昭和20).5.10日、戦死。亨年18歳。「特攻第29号14頁掲載」の知覧高女なでしこ会編「知覧特攻基地」鳥濱礼子の手記では、特攻兵舎を去る特攻隊員の手紙が記載されている)
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【伊東勲・海軍一等飛行兵曹/「遺書」】 | |
(1945(昭和20).5.10日午后5時48分、戦死。亨年20歳。大分県九重町町者原出身。乙飛18期。神風特別攻撃隊第六菊水隊。)
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【小川清・海軍中尉/「最後の便り」】 | ||
(1945(昭和20).5.11日、南西諸島方面にて特攻戦死(バンカーヒルへ突入。亨年24歳。群馬県出身。早稲田大学卒。海軍第十四期飛行科予備学生。神風特別攻撃隊第七昭和隊)(引用:「英霊の言乃葉」小川清御遺族)
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【齋藤幸雄・海軍少尉/「絶筆」】 | |
(1945(昭和20).5.11日、沖縄方面にて戦死。二十歳宮城県出身。神風特別攻撃隊第六神剣隊)
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【西田高光・海軍中尉/「民族の誇り」】 | |
(1945(昭和20).5.11日、南西諸島洋上にて戦死。亨年22歳。大分県出身。大分師範学校。神風特別攻撃隊第五筑波隊)
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【古谷眞二・少佐/「遺言」】 | |
(1945(昭和20).5.11日、沖縄周辺の南西諸島洋上にて戦死。亨年23歳。東京都出身。慶応大学卒。海軍第十三期飛行科予備学生。第八神風桜花特別攻撃隊神雷部隊攻撃隊。この遺書は古谷中尉が繰り上げ卒業式の前に書いたものである。引用:「いざさらば我はみくにの山桜」。作家三島由紀夫が自殺の一ヶ月前に江田島の海上自衛隊第一術科学校教育参考館でその遺書を読み、「すごい名文だ。命がかかっているのだからかなわない。俺は命をかけて書いていない」と言って、声をあげて泣き出したとの伝がある) | |
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【上原良司(うえはらりょうじ)・海軍少尉/「遺書」】 | ||||
(1945(昭和20).5.11日、陸軍特別攻撃隊員として沖縄嘉手納湾の米機動部隊に突入戦死。陸軍大尉。享年22歳。1922(大正11)年9月27日、長野県北安曇郡七貴村(現・池田町)に医師の上原寅太郎の三男として生まれる。旧制松本中学校を卒業後、慶應義塾大学予科を経て、1943(昭和18)年、同大学経済学部入学。1943.12.1日、松本第50連隊に入隊。最後の日は、陸軍特別攻撃隊第56振武隊員として愛機の三式戦闘機「飛燕」に搭乗して知覧から出撃した。「きけ、わだつみのこえ」(岩波文庫)の冒頭に掲載されている、あまりにも有名な名文である)
上原良司手記につき、「日本が真に永久に続くためには自由主義が必要です。全体主義的な気分に包まれているが、真に大きな眼を開き、人間の本性を考えた時、自由主義こそ合理的になる主義です」と紹介されているが原文が見いだせない。改竄文だとしたら許されまい。なるほど自由の価値を賛美しているが、賛美しつつ「陸軍特別攻撃隊員として沖縄嘉手納湾の米機動部隊に突入戦死」したメンタルは何なのか、ここを解き明かさねばなるまいに。 |
【時岡鶴夫・海軍少尉/「遺書」】 | |
(亨年24歳。神風特別攻撃隊第六筑波隊。鹿屋航空基地から投函された絶筆。)
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【中村憲二・大尉/「遺書」】 | |
(1945(昭和20).5.18日、出撃戦死。亨年23歳)
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【久野正信・海軍少尉/「正憲 紀代子へ」】 | |
(1945(昭和20).5.24日、戦死。亨年29歳。義烈空挺隊の第3独立飛行隊)
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【坂内隆夫・大尉/「遺書」】 | |
(1945(昭和20).5.25日、戦死。陸軍特別攻撃隊「第54振武隊」)
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【松本真・海軍二等飛行兵曹/「遺書」】 | |
(1945(昭和20).5.25日、沖縄周辺にて戦死。亨年19歳。神風特別攻撃隊菊水部隊白菊隊戦士)
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【荒木幸雄・陸軍伍長→少尉/「遺書」】 | |
(1945(昭和20).5.27日、沖縄本島沖で戦死。亨年17歳。1928.3.10日、群馬県桐生市宮前町で生れる。1943年秋、陸軍の少年飛行兵に応募。陸軍特別攻撃隊第72振武隊員操縦士。当初の出撃予定日だった5.26日、出撃予定時刻の2時間前に記念撮影を行うが、その日は悪天候で出撃中止となった。5.27日、九九式襲撃機の隊員は万世飛行場を出撃後、沖縄本島中部に広がる金武湾の東約50kmの位置でアメリカ海軍のレーダーピケット駆逐艦「ブレイン」(USS
Braine, DD-630)に突入したと推測されている。)
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【枝幹二・大尉/「遺書」】 | ||
(1945(昭和20).6.6日、出撃戦死。亨年22歳。富山県)
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【渋谷健一・陸軍大尉/「出撃に際して倫子、生れる愛子へ」】 | |
(1945(昭和20).6.11日、陸軍特別攻撃隊振武隊隊長として沖縄海域にて戦死。戦死後大佐。亨年31歳。山形県出身。少候22期。渋谷大尉は仙台飛行学校で特操1期の区隊長をしていた。自ら特攻精神を説き、そして特攻隊員に志願した。幾度目かの志願でやっと認められ若い搭乗員8名を連れて出撃散華されたとのことである)。
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【山口輝夫・海軍少尉/「「父上の名を呼んで突入します」】 | ||
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【池淵信・海軍中尉/「遺書」】 | |
(1945(昭和20).6.28日、マリアナ海域にて戦死。回天特別攻撃隊)
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【水知創一・海軍大尉/「遺書」】 | |
(1945(昭和20).7.16日、本邦東南海面にて戦死。亨年21歳。兵庫県出身。早稲田大学。回天特別攻撃隊「轟隊」。)
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【林尹夫・海軍少尉/「遺書」】 | ||
(1945(昭和20).7.27日、戦死。亨年23歳。三高 京都大学から学徒出陣。第13期海軍飛行予備学生)
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【高須孝四郎・海軍一飛曹/「遺書」】 | |
(1945(昭和20).8.9日、本州東南洋上にて戦死。亨年23歳。神風特別攻撃隊第七御盾隊第二次流星隊員)
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【**・海軍/「遺書」】 | |
(1945(昭和20).8.16日、戦死。亨年**歳。第五航空艦隊司令長官宇垣纏中将指揮下の七〇一航空隊に所属し、艦上爆撃機の偵察員として、
フィリピン方面で活躍した。)
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【宇垣纏・海軍中将/「遺書」】 | |
(第5航空艦隊長官として沖縄への特攻作戦を指揮。終戦の日の午後、自ら特攻機に乗って戦死)
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【大西瀧治郎・海軍中将/「遺書」】 | |
(1945(昭和20).8.16日未明、自決。亨年54歳。第一航空艦隊司令長官として、レイテ島方面の作戦で初めて「体当たり攻撃」の 実施を命じ、その後、
軍令部次長の職にあって終戦を迎えた。)
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【大石清・海軍伍長/「妹への手紙」】 | |||
(大阪府出身 飛行学校卒 戦死。大石伍長は大阪大空襲で父を失い、つづいて重病だった母親も亡くした。小学生の妹(静恵)一人が残され、伯父の元に引き取られていった。引用:今日われ生きてあり)
大野沢威徳からの手紙(万世基地にて)
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【塚本太郎/「遺書」】 | |
(特別攻撃用一人乗潜水艦「回天一号」に乗り勇敢に米艦に体当たり攻撃を敢行した。靖国神社「遊就館」にある)
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【村田玉男二・飛曹/「遺書」】 | |
(昭和**年*月**日、戦死。亨年19歳。)
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【田中哲郎・上飛曹/「遺書」】 | |
(昭和**年4月7日、戦死。亨年20歳。)
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【重信隆丸・少尉/「遺書」】 | |
(昭和**年*月*日、戦死。亨年22歳。)
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【成田金彦・大尉/「遺書」】 | |
(昭和**年*月*日、戦死。亨年23歳。)
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【広田幸宣・一飛曹/「」】 | |
(昭和**年*月*日、戦死。亨年20歳。)
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【佐藤章・少尉/「妻への手紙」】 | |
(昭和**年*月*日、戦死。亨年26歳。回天特攻で戦死)
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【藤井一少尉・候補生/「遺書」】 | |
(昭和**年*月*日、戦死。亨年28歳。特攻隊は妻子持ちは原則として外された、しかし藤井は部下ばかり行かせるわけにはいかない、自分も行くと強く主張、妻は自分と子が夫の足枷にならないようにと入水自殺をする。
)
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【山下孝之・伍長/「遺書」】 | |
(昭和**年*月*日、戦死。年齢不詳。 )
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【大石清/「」】 | |
(昭和**年*月*日、戦死。年齢不詳。万世基地より出撃? )
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【富澤健児・少尉/「遺書」】 | |
(昭和**年*月*日、戦死。亨年23歳。 )
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【西山典朗・二飛曹飛行兵/「遺書」】 | |
(昭和**年3月18日、九州の海に戦死。亨年20歳。 )
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【 本井文哉・少尉/「遺書」】 | |
(昭和**年1月10日後、。亨年19歳。 )
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【 大村俊郎・陸軍少尉/「遺書」】 | |
(昭和**年*月**日、。亨年18歳。菊水特別攻撃隊。 )
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【海野馬一・陸軍少佐/「遺書」】 | |
(昭和二十三年四月三日、ボルネオ島にて法務死。岡山県出身。歩兵第五十四聯隊。)
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【宇佐美輝夫・少年飛行隊14期/「遺書」】 | |
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【塚本太郎・陸軍少佐/「遺書」】 | |
(特別攻撃用一人乗潜水艦「回天一号」に乗り勇敢に米艦に体当たり攻撃を敢行した。)
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【出陣学徒戦没学生の手記】 |
【松原成信/「遺書」】 | |
(同志社大学在学中戦死)
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【住吉胡之吉/「遺書」】 | |
(東大生)
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【林*夫/手記】 | |
(京大生)
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【長谷川信/手記】 | |
(1945(昭和20).4.12日、沖縄にて戦死。亨年23歳。1922年生まれ。明治学院高等部入学)
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【中村徳郎/「手記」】 | ||
(1944年、フィリピンで行方不明。亨年25歳。東大理学部生)
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【山根明/】 | |
(1945(昭和20).7月、華南長沙にて戦病死。東大文学部社会科学科学生)。
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【川島正/】 | |
(1945(昭和20).1月、華中にて戦死。亨年29歳。昭和15年東京農大卒業。同年12月入営。華北部隊に編入。)
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【平井聖/「情けある母の哀訴嘆願」】 | |||
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【出征兵士を送り出した母親の手記】 |
【出征兵士を送り出した母親の手記】 | |
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