●西部ニューギニア 見捨てられた戦場 ~千葉県・佐倉歩兵第211連隊~2007年 8月12日
南太平洋の島、ニューギニア。太平洋戦争中、およそ20万人の日本兵がここで亡くなった。昭和18年、日本兵は連合軍の進行ラインを食い止める防衛ラインをここに定めたが、連合軍の圧倒的な兵力により、密林に閉じ込められることになった。千葉県佐倉で編成された歩兵第221連隊。西部ニューギニアで、総員3300人の9割が死亡。その大半は敵と戦うことなく、飢えや病で命を落とした。なぜ、多くの将兵が戦うことなく、死んでいったのか?歩兵第221連隊の元兵士の証言から、ニューギニア戦の実態を描く。 |
●北部ビルマ 密林に倒れた最強部隊~福岡県・陸軍第18師団(2007年8月13日放送)
戦前の陸軍で、皇室の紋章である「菊」の名を名乗った唯一の師団があった。福岡県で編成された陸軍第十八師団、通称「菊兵団」。日中戦争さなかの中国大陸を転戦、ビルマ(現ミャンマー)攻略に参加する。ところが、ジャングルの戦いで、菊兵団は連合軍の反撃に苦しめられる。ジャングル戦に不向きな武器、届かぬ補給、熱病。絶対的に不利な状況の中で、戦い続けなければならなかった男たち。迫真の証言が、戦場の真実を明らかにする。 |
●マリアナ沖海戦 破綻した必勝戦法~三重県・鈴鹿海軍航空隊(2007年8月14日放送)
ミッドウェー海戦での敗北を隠し、日本軍優位という、うそをつき続けるしかなくなった日本海軍。そのつけが決定的な形で現れたのが、マリアナ沖海戦だった。鈴鹿海軍航空隊では、戦況の悪化とともに航空隊員の養成だけでなく実戦部隊としての機能も果たさざるを得なかった。そこでは、ミッドウェーの実態が経験した兵士から若い兵士に伝えられていたが、なんらその教訓はいかされることなく、日本は敗戦への道を進むしかなかった。 |
●ビルマ 退去戦の悲闘 ~福井県・敦賀歩兵第119連隊~2007年 8月20日
昭和19年、福井県敦賀市の歩兵第119連隊にある命令が下った。任務は“退却支援”。ビルマ戦線で壊滅状態にあった主力部隊を救出せよというものだった。味方の盾となり、連合軍の追撃を防ぐ第119連隊。補給もなく、マラリアや赤痢など病に倒れる兵士も続出した。第119連隊はおよそ2700人が戦死。生存者は1000人にも満たなかった。元兵士たちの証言から、無謀な作戦にほんろうされたビルマ戦線の実像に迫る。 |
●中国大陸打通 苦しみの行軍1500キロ~静岡県・歩兵第34連隊(2007年8月21日放送)
「大陸打通」。第二次世界大戦で、米軍の前に敗北を重ねていた日本が、南方との陸上交通路を確保すべく広大な中国大陸縦断を目指した陸軍史上最大の作戦。それは参謀本部内でも中止論が出るほど無謀なものだった。静岡県出身者で編成された陸軍歩兵第34連隊は、その先陣部隊として参加。兵士たちは、コレラや赤痢に倒れ、弾薬が尽きるなか突撃していった。静岡34連隊の元兵士たちの証言を基に、中国大陸打通作戦の実態を描く。 |
●フィリピン最後の攻防 極限の持久戦~岡山県・歩兵第10連隊(2007年8月22日放送)
昭和20年。敵の日本本土への進行を遅らせるため、補給も経たれた中でフィリピンのルソン島で持久戦を強いられた岡山歩兵第10連隊。元兵士の証言から戦争の実態を描く。太平洋戦争末期の昭和20年。日本の敗色が濃厚になるなか、敵の日本本土への進攻を遅らせるため、フィリピンのルソン島で壮絶な持久戦を強いられた部隊がある。岡山の陸軍歩兵第10連隊、3000人あまりの将兵たち。武器弾薬、食糧の補給もない状況での戦いだった。手りゅう弾や爆薬を抱えて敵の陣地に突っ込む「斬(き)り込み」と呼ばれる戦法で、多くの兵士が命を落とした。元兵士の証言をもとに、過酷な戦場の実態に迫る。 |
●満蒙国境 知らされなかった終戦~青森県・陸軍第107師団(2007年8月23日放送)
旧満州、中国東北部で強大なソビエト軍と終戦後も14日間にわたって戦い続けた部隊があった。陸軍第107師団。将兵の多くは東北地方出身の若者たち。青森県弘前市に集められ、満蒙(もう)国境のアルシャンに送られた。8月15日、終戦。しかし、圧倒的な火力と兵力を持つソビエト軍と、絶望的な戦いを続ける107師団に停戦命令は届かなかった。彼らはなぜ戦い続けなければならなかったのか。元兵士たちの証言でたどる。 |
●フィリピン 絶望の市街戦 ~マニラ海軍防衛隊~ 2008年 1月24日
1945年2月、フィリピンの首都マニラで繰り広げられたマニラ市街戦。圧倒的な米軍を相手に絶望的な市街戦を演じたマニラ海軍防衛隊の戦いを兵士たちの証言でつづる。1945年2月3日から1か月間、フィリピンの首都マニラで繰り広げられたマニラ市街戦。戦った「マニラ海軍防衛隊」は、急場しのぎで結成された部隊だった。米軍の無差別砲撃の中、ビルの地下室での持久戦を強いられ、一般人に銃が向けられる。戦後62年、わずかに生存する元兵士たちは、ようやくその重い口を開こうとしている。兵士たちの日記や記録なども交えつつ、元マニラ海軍防衛隊の兵士たちの証言を徹底して記録する。 |
●フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦~陸軍第1師団(2008年2月28日放送)
1945年2月、フィリピンの首都マニラで繰り広げられたマニラ市街戦。圧倒的な米軍を相手に絶望的な市街戦を演じたマニラ海軍防衛隊の戦いを兵士たちの証言でつづる。1945年2月3日から1か月間、フィリピンの首都マニラで繰り広げられたマニラ市街戦。戦った「マニラ海軍防衛隊」は、急場しのぎで結成された部隊だった。米軍の無差別砲撃の中、ビルの地下室での持久戦を強いられ、一般人に銃が向けられる。戦後62年、わずかに生存する元兵士たちは、ようやくその重い口を開こうとしている。兵士たちの日記や記録なども交えつつ、元マニラ海軍防衛隊の兵士たちの証言を徹底して記録する。 |
●ガダルカナル 繰り返された白兵突撃(2008年3月26日放送)
昭和17年、太平洋戦争で連戦連勝の日本陸軍はガダルカナル島で、飛行場の奪還をめぐり、陸海空一体の米軍と初めて戦闘を繰り広げた。先兵となったのは連隊長一木大佐率いる北海道・旭川歩兵第28連隊の精鋭「一木支隊」その兵士が初の大敗の真相を語る。 |
●沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場~山形県・歩兵第32連隊(2008年4月30日放送)
総員約3,000名のうち9割以上が戦死したという歩兵第32連隊(第24師団)の生存者からの取材。以下、特に印象に残った証言を箇条書きで。ただし、登場した生存者のうちもっとも階級が高いのが元曹長で将校は一人もいないため、個々の証言は現場の、生の体験を語っていてもどれくらい一般化できるかについては注意を要する。また、住民が被った被害にも言及されているが、基本的には元将兵からの聞き取りという趣旨の番組であるので、非戦闘員の証言者は登場しない。
- 沖縄派遣に先立ち、「全員死ぬんだから」と認識票を回収された
- 「斬り込み攻撃」を命令する隊長が(死ねという命令を出すつらさのため)グデングデンに酔っていた
- 兵士たちは「天皇陛下万歳」とも「お母さん」とも言わず、「大本営何やってる」などと言って死んでいった(「天皇陛下万歳」ではなく「お母さん」と言って死んでいった、という証言は度々目にするが、ここではむしろ援軍もない状況への恨みが前面に出ていた、ということだろう)
- 兵には住民と同じ壕に入るなと指導されていたが(住民を警戒していたため、防諜のためであろう、と)、実際には守られなかった
- 島民を壕の入り口付近に集めてアメリカ軍の攻撃を避けたこともあった(ただし米軍が兵士の存在を認識していたのかどうかは不明、また掃討作戦が本格化するともちろん住民のいる壕も攻撃対象となった)
- 食糧が足りないので「地方人」を壕の外に出したことが、生き残って思い返してみると「申し訳ない」
- 三俵の玄米、下はドブに漬かり上は白骨化した兵隊の死体が乗っていて「脂」がたれてきているのになんとも思わず食べた
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●ペリリュー島 終わりなき持久戦~茨城県・水戸歩兵第2連隊(2008年5月26日放送)
太平洋に浮かぶ、パラオ共和国ペリリュー島。太平洋戦争中の昭和19年秋。攻勢に出た米軍が上陸、日本軍は、米軍の圧倒的な火力を前に洞くつ陣地に閉じこめられ、絶望的な戦いを強いられる。茨城県水戸市で編成された陸軍歩兵第2連隊。総員3600人のうち、9割の人がペリリュー島で命を落とした。米軍に包囲され、狭い洞窟に何か月もの間、じっと身を潜め続けた兵士達。武器や食料の補給は一切絶たれ、病や飢えで息絶えていった。徹底的な掃討作戦を展開する米軍。日本兵達は、どうせ死ぬなら米軍に突撃し、せめて一矢報いて命を散らしたいと願うようになる。しかし大本営は、それまで賞賛してきた玉砕を禁じ、来るべき米軍との対決を前に、時間を稼ぐよう、将兵に持久戦を命じた。息も詰まるような洞くつに閉じこめられ、玉砕することさえも禁じられた兵士達。過酷な戦場を体験した元兵士の証言から、ペリリュー島での持久戦の実態に迫る。 |
●ニューギニア ビアク島 幻の絶対国防圏~陸軍歩兵第222連隊(2008年6月30日放送)
赤道直下、ニューギニア島の北西に位置するビアク島。太平洋戦争の激戦地である。この島で戦ったのは陸軍の歩兵第222連隊。ビアク島はこれ以上連合軍の進撃を許さない防衛ライン、いわゆる絶対国防圏の第一線にあり、その守備を任されたのだ。昭和19年5月、連合軍は島にあった飛行場を奪い取ろうと攻め込んできた。圧倒的な火力に対し、連隊は壮絶な戦いを繰り広げる。しかし守るべき島は、大本営の方針の転換により絶対国防圏からはずされてしまい、援軍も来ず、孤立した将兵は飢えや病で次々に死んでいく。援軍の到着を信じて、必死の交戦を続け壊滅した第222連隊の戦場を描く。 |
●インパール作戦・補給なきコヒマの苦闘~新潟県高田・陸軍歩兵第58連隊~(2008年7月28日放送)
日本から4500キロに位置するミャンマー。太平洋戦争中、かつてのビルマ(現ミャンマー)とインドの国境地帯に広がるこの密林地帯は、日本陸軍の苦闘と敗北の舞台となった。インパール作戦。日本が各地で敗北を重ねていた昭和19年、陸軍はインド東部の都市インパールを制圧し、一気に活路を開こうとする。しかし、日本軍は壊滅的な敗北、半数の将兵が死亡する。新潟県の出身者を中心に編成された陸軍歩兵第58連隊は、インパール作戦の成否を左右するコヒマの激闘を戦うが、作戦の補給計画はずさんで、3か月以上もの間、食糧や弾薬がほとんど届かなかった。英軍は圧倒的な物量で攻撃を加え、また、おとずれた雨季の激しい雨が、将兵を苦しめる。退却を命じられた将兵は、雨の中、飢えや病気で次々と倒れていく。補給のない絶望的な戦いの中で、兵士たちは何を見て、何を感じたのか。 |
●ビルマ 濁流に散った敵中突破作戦 ~徳島県・歩兵第143連隊~ 2008年 7月28日
太平洋戦争で、激しい戦闘が繰り広げられたかつてのビルマ。太平洋戦争終盤、攻勢に転じた連合軍を前に、日本軍は苦しい闘いを余儀なくされ、戦死者は16万人にのぼった。その中でも、過酷な退却戦を強いられた徳島県の郷土部隊、歩兵第143連隊。武器も食糧も補給されず、四方を連合軍に囲まれる中、決死の覚悟で、連合軍の包囲網を突破しようとした。「もう少しで味方の部隊に合流できる。」そこに立ちふさがったのが、川幅が200メートルを超えるシッタン河。雨季で増水した濁流に、多くの兵士たちが飲み込まれていった。部隊が孤立したのは、いち早く撤退した日本軍司令部によって、前線に置き去りにされたからである。退路を断たれたうえに、追い討ちをかける事態も進む。日本に味方していたビルマ軍が、連合軍側に寝返ったのだ。第143連隊の将兵の証言から崩壊していくビルマ戦線の実態に迫る。 |
●従軍看護婦が見た戦争 2008年 10月26日
広島市の護国神社。ここで撮影された1枚の写真がある。写っているのは、これから戦地へ向かう女性たち。けがや病に倒れた兵士の治療に当たる従軍看護婦である。太平洋戦争中、3万を越える看護婦が招集され、戦場に送り込まれた。中国を始め、東南アジアや太平洋の島々に、次々と戦線を拡大していった日本軍。それに伴い、傷病兵の数も増え続けていく。しかし、戦地には、十分とよべる医薬品はない。そうした状況の中で、看護婦たちは任務に当たらなければならなかった。太平洋戦争末期。連合軍の追撃にさらされた戦場では、看護婦たちに過酷な命令が下される。それは、連れて逃げることのできない重傷の兵士に劇薬を注射することだった。さらに、看護婦自身にも悲劇が訪れる。連合軍に包囲された戦場で、集団自決に追い込まれる看護婦もいたのだ。日本軍によって戦場に送り込まれた女性たちが目の当たりにしたものとは何だったのか。従軍看護婦たちが体験した、知られざる戦争の実態を描く。 |
●フィリピン・シブヤン海 戦艦武蔵の最期 ~横須賀海兵団~ 2008年 12月22日
太平洋戦争終盤の昭和19年10月。敗色が濃厚となった日本海軍は、フィリピン・レイテ沖海戦で起死回生の戦いに挑む。この戦いで、日本海軍の大きな期待を背負い、出撃した戦艦武蔵。しかし武蔵は、連合軍の一方的な攻撃にさらされる。当時、海での戦いの主役は、戦艦から航空機に移り代わり、戦艦に備えられた巨大な主砲は、もはや威力を発揮することはできなかった。何十発もの魚雷と爆弾を受け、沈みゆく巨大戦艦武蔵。兵士たちは、最後まで武蔵を守り抜くことを命じられ、退去命令が出たのは、沈没の直前だった。不沈艦と呼ばれながら、多くの兵士を巻き添えにしてフィリピンの海に沈んだ武蔵。絶望的な戦いを強いられた元乗組員たちの証言から、戦艦武蔵の最期に迫る。 |
●人間魚雷 悲劇の作戦 ~回天特別攻撃隊 2009年 1月25日
山口県周南市大津島。太平洋戦争末期、海軍が開発したある秘密兵器が次々と運び込まれた。その兵器に乗るために全国からやってきたのは、400人の若者たち。秘密兵器の搭乗員を募集するとだけ聞いて志願してきたと言われる。若者たちは大津島に来て初めて、その秘密兵器の真相を知ることになる。人間魚雷、回天。人間もろとも体当たりし、命と引き換えに敵艦を沈める極限の兵器である。搭載された爆薬は空母をも沈められる破壊力を持つと言われた。出撃すると二度と生きて帰れない。搭乗員は直径1メートルの暗い空間で出撃命令を待った。本土防衛のため若者の命を犠牲に行われた回天作戦。終戦までに104人もの搭乗員が海に散っていった。太平洋戦争末期に行われた海の中の特攻、人間魚雷、回天の真相に迫る。 |
●東部ニューギニア 絶望の密林戦 ~宇都宮・歩兵第239連隊~ 2009年 2月22日
太平洋戦争で他に例のない3年に及ぶ長い戦闘が続けられた東部ニューギニア戦線。補給が断絶し、飢餓と病に苦しみながら生き抜いた将兵17人の64年目の証言を記録する |
●重爆撃機 攻撃ハ特攻トス ~陸軍飛行第62戦隊~2009年 4月25日
太平洋戦争末期に日本軍が行った「特攻」では、大型の重爆撃機も投入された。1機に4人が乗り、巨大爆弾を積んで出撃した重爆撃機。証言を元に、その特攻の真実に迫る。昭和20年春、沖縄沖の米艦隊に対し、日本軍が行った体当たりの「特攻」。そこでは、大型の重爆撃機も投入された。1機に4人が乗り込み、1トンを超える巨大爆弾を積んで出撃した重爆撃機。陸軍飛行第62戦隊は、上空から爆弾を投下する重爆撃機部隊でありながら、この特攻部隊に指定された。重爆撃機の特攻機は速度が遅い上、軽量化のために機関砲等の武装がはずされていた。証言を基に、重爆撃機による特攻作戦の真実に迫る。 |
●中国戦線 大陸縦断 悲劇の反転作戦 ~福島県・若松歩兵第65連隊~2009年 5月30日
終戦間際の中国。大陸を貫く道を切り開こうと2000キロもの距離を歩き、多くの犠牲を出した部隊がある。福島の会津若松歩兵第65連隊。生き延びた兵士の証言を綴る。昭和19年、太平洋戦争末期の中国。広大な大陸を歩き続け、多くの犠牲者を出した部隊がある。福島県会津若松市で編成された「歩兵65連隊」だ。中国大陸を縦に貫き、東南アジアとの交通路を確保する「大陸打通作戦」に参加。激しい戦いを繰り返しながら1300kmの距離を進軍。その後に「反転」の命令を受け、同じ道を戻るという過酷な運命を強いられた。生き延びた人々の証言をもとにほんろうされた兵士たちの姿を伝える。 |
●戦場を駆けた少年兵たち ~沖縄県 鉄血勤皇隊~ 2009年 5月30日
太平洋戦争終盤の昭和20年3月、アメリカ軍の上陸が近づいた沖縄で、14歳から17歳の中学生たちが兵士として招集された。その名は、鉄血勤皇隊。軍国主義教育を受けてきた彼らは、軍服と銃を支給され、喜び勇んで入隊する。しかし、初めて体験する本物の戦場は、少年たちの想像以上に過酷なものだった。聞かされていた戦況とは異なり、圧倒的な戦力で沖縄に上陸したアメリカ軍は、日本軍の頭上に砲弾の雨を降らせる。激闘は続き、後方支援要員であった少年たちの命も、次々に奪われていった。本土決戦を遅らせる防波堤の役割も担わされた沖縄戦。番組では沖縄県立第一中学校の元少年兵の証言から、子どもたちが目の当たりにした地上戦の実態を描き出す。 |
●インパール作戦 補給なき戦いに散った若者たち ~京都 陸軍第15師団~ 2009年 6月27日
祇園祭にちなんで名付けられたといわれる部隊「陸軍第15師団」、祭兵団。昭和19年、この15師団は悪化する日本の戦局を打開しようと決行された「インパール作戦」に参加。当時、日本の占領下にあったビルマ、現在のミャンマー。その奪還を目指して攻勢を強める連合軍に対し、日本軍はインド東部にあった連合軍の拠点、インパールを攻撃し、活路を開こうとする。しかし、圧倒的な敵の兵力を前に、日本軍は惨敗。15師団の総勢2万人のうち、4分の3にあたる1万5千人が亡くなった。悲惨な戦場で連合軍の捕虜になることを恐れ、多くの若者が手りゅう弾などで自ら命を断つ。中には、やむを得ず仲間に手りゅう弾を渡し、自決に手を貸した人もいた。過酷なインパール作戦の戦場で15師団の若者たちに何があったのか、その実態に迫る |
●ガダルカナル島 最後の部隊 繰り返された失敗 ~名古屋・歩兵第228連隊~ 2009年 9月26日
ガダルカナル島。日本が領土とした最南にあたるオーストラリアの北側。日本軍に対す米軍の本格的な反攻は、この島から始まった。日本軍は米軍に奪われた島の奪回を期し、数度にわたり繰り返し部隊を大挙派遣した。しかし敵の兵力を見誤り、補給も途絶えた部隊はその都度敗北を重ねていった。その最終盤の派遣部隊としてガダルカナル島に送られたのが歩兵第228連隊だった。しかし228連隊はすでに派遣された部隊と同じ攻撃法を繰り返し、やがて補給が途絶えた戦場で兵士たちは飢餓や病に苦しめられていった。 |
●ベニヤボート”の特攻兵器 ~震洋特別攻撃隊~ 2009年 10月31日
太平洋戦争末期、敗色濃厚となった戦局を、一挙にばん回するために開発された秘密兵器、長さ5メートルほどのモーターボート。太平洋を震撼させるという意味で、震洋と名づけられた。船首に250キロの爆薬を搭載し、敵艦に体当たり攻撃をする特攻兵器である。船体を軽くし、量産を可能にするために、ベニヤ板で造られていた。搭乗員として集められたのは、予科練を卒業したばかりの若者たち。戦闘機乗りを志していた彼らを、ベニヤのモーターボートが待っていたのである。終戦までに震洋の体当たり攻撃で沈んだ連合軍の艦船は、アメリカ側の資料によれば4隻。その一方、命を失った震洋隊員は、基地隊員も含め、2500人にも上る。爆発事故や空襲などで、多くの若者たちが敵艦に突入することなく命を落としていった。出撃することもできず死んでいった多くの特攻隊員たち。太平洋戦争末期、モーターボートで行われた水上特攻作戦の真相に迫る。 |
●偽装病院船 捕虜となった精鋭部隊 ~広島 歩兵第11連隊~ 2009年 11月28日
陸軍の練兵場や兵舎、兵器庫などが立ち並び、戦前は軍都として栄えた広島市。ここから市民たちによって華々しく見送られ、戦場へと向かったのは、広島出身の兵士たちで構成された陸軍歩兵第11連隊でした。太平洋戦争では、開戦と同時にマレー作戦へ投入された11連隊。2か月足らずでシンガポールを攻略、名門として全国に名をはせました。しかし、その後は西部ニューギニアやその沖の小さな島々を転々とし、補給が来ない中、密林と離島での苦難の生活を終戦間際まで続けました。終戦直前、11連隊にある命令が下りました。それは傷病兵になりすまし、国際法で攻撃から守られている「病院船」に乗り込み、移動するというものでした。兵士たちに渡されたのは偽名のカルテや白衣。武器はこん包し、赤十字の印をつけるよう命を受けました。兵士たちはなぜ、「病院船」を偽装しなければならなかったのでしょうか。歩兵第11連隊の元兵士たちの証言をもとに、軍の命令に翻弄(ほんろう)され続けた人々の姿を描く。 |
●飢餓の島 ミレー島、味方同士の戦場 ~金沢 歩兵第107連隊~2009年 12月26日
日本から南東におよそ4600キロ。太平洋の中部、マーシャル諸島にあるミレー島。太平洋戦争中、ここに5700人の日本軍将兵が送られ、3100人が命を落とした。ミレー島は戦況の悪化とともに、アメリカ軍の支配地域に取り残される。2年近く補給は途絶え、兵士たちは飢えのために次々と倒れていった。最も多くの犠牲者を出した部隊が、石川県金沢市で編成された陸軍歩兵第107連隊。107連隊が派遣されたとき、島にはすでに3000人を超える海軍部隊が配置されていました。補給の途絶えた島に駐留した陸軍と海軍。食糧不足が深刻化すると、同じ日本軍でありながら、両者は激しく敵対するようになる。敵と戦うことなく、次々と命を落としていった兵士たち。日本から遠く離れた小さな島、ミレー島に取り残された歩兵第107連隊の戦争を描く。 |
●ポートモレスビー作戦 絶対ニ成功ノ希望ナシ 陸軍 南海支隊 2010年 1月30日
昭和17年、ガダルカナル島の戦い。太平洋戦争は大きな転換点を迎えていた。このころ日本軍は、ニューギニアでも激しい戦闘を展開していた。ポートモレスビー作戦。将兵の9割もの犠牲を出しながら、これまでこの作戦について語られることは、ほとんどなかった。ニューギニアで過酷な戦いを強いられた部隊、南海支隊の記録。 |
●フィリピン エンガノ岬沖 囮(おとり)とされた空母 瑞鶴 2010年 2月27日
太平洋戦争で、日本はアメリカに先駆け大規模な空母機動部隊を編成。戦艦の主砲に勝る攻撃力を持つ航空機部隊を、海のどこからでも放つことができる、日本の空母部隊は、世界に圧倒的な強さを見せつけた。なかでも最も多くの海戦に参加したのが、空母・瑞鶴。戦局が悪化するなかでも、大きな損害を受けることがなかった瑞鶴は、幸運な空母と呼ばれたのだった。しかし、昭和19年10月、レイテ沖海戦において、瑞鶴に命じられたのは、生還の見込みのない任務であった。おとりとなった瑞鶴。しかも、航空機搭乗員の多くが訓練を十分に受けていない。瑞鶴は自らアメリカ軍を引きつけ、そして、魚雷と爆弾が一斉に瑞鶴を襲う。乗組員と搭乗員のほとんどが、10代から20代の若者たち。なぜ、瑞鶴はおとりという絶望的な任務を強いられたのか。太平洋戦争を戦い続けた瑞鶴の軌跡をたどる。 |
●朝鮮人皇軍兵士 遥かなる祖国 2010年 3月27日
戦後にシベリアに抑留されたおよそ60万の日本軍兵士のうち、およそ1万人が朝鮮半島出身者であった。太平洋戦争の開戦当初、日本軍は朝鮮半島から志願兵募集や徴兵により戦力の確保を図った。朝鮮半島の若者たちは、ある者は貧しさや差別から逃れるため、またある者は皇民化教育によって疑問ももたずに日本軍の兵士となった。「皇軍兵士」になったことで過酷な運命にほんろうされた人々の戦争を描く。 |
●王道楽土を信じた少年たち ~満蒙開拓青少年義勇軍~2010年 4月24日
豊かな農村を夢見て「満蒙開拓青少年義勇軍」に入隊した少年たち。長野県出身者を中心とした「斎藤中隊」関係者の証言で少年たちの目指した「満州」の夢と悲劇を描く。 |
●昭和二十年八月十五日 玉音放送を阻止せよ ~陸軍・近衞師団~ 2010年 5月29日
毎年1月23日、皇居に集まる元陸軍・「近衞第一師団」の将兵。天皇を守るために集められた精鋭部隊であった。御所の近くに、近衞第一師団の兵舎があり、この日1月23日は、近衞兵が天皇から軍旗を授かった記念日である。天皇を守る、栄えある部隊「近衞師団」。全軍の花形。全国から厳しい選抜を経て、精鋭が集められ、天皇への強い忠誠心で結ばれていた。昭和20年8月。天皇が終戦を伝える玉音放送の10時間前。近衞第一師団に、玉音放送を阻止せよとの命令が下っていた。近衞兵は、現在の皇居、宮城を占拠する。しかし、その命令は捏造されたものであった。陸軍の青年将校たちが、終戦は天皇の真意ではないと考え、近衞兵を動員し、玉音放送を阻止しようとしたのである。ニセ命令で動かされた精鋭部隊、「近衞師団」。日本の命運を左右するクーデターに巻き込まれることになった将兵の軌跡を描く。 |
●生き延びてはならなかった最前線部隊 ~ニューブリテン島 ズンゲン支隊~2010年 6月26日
南太平洋のニューブリテン島。多くの兵士たちがここで、勝ち目がないにもかかわらず、絶望的な戦いをしいられ、命をおとしていく。ニューブリテン島のズンゲン支隊。連合軍が攻勢を強めていた太平洋戦争終盤、島の最前線へ送りまれた。昭和20年3月。部隊は、はるかに戦力に勝る連合軍の猛攻を受ける。二週間に及ぶ激しい戦闘の末に、隊長は死を覚悟の総攻撃を決行。ズンゲンの部隊は「全員玉砕」したと大本営に伝えられた。しかしその後、部隊の半数近くが生き残っていたことが発覚する。軍上層部にとってそれは、あってはならない事態であった。わずか400人で10倍を超える連合軍との戦いを強いられたニューブリテン島ズンゲン支隊。全員玉砕したとされながら、生き残ってしまった兵士たちの記録。 |
●「ルソン島 悲劇のゲリラ討伐作戦 ~秋田県・歩兵第17連隊~」 2010年 7月31日
太平洋戦争末期、敗色濃厚のフィリピン・ルソン島に派遣された秋田・歩兵第17連隊。米軍と連携した抗日ゲリラに苦しめられ、その粛清を命ぜられた兵士たちの悲劇に迫る。太平洋戦争末期、日本軍と米軍が激戦を繰り広げたフィリピンのルソン島。秋田・歩兵第17連隊は、米軍に圧倒され、食糧や武器の補給も断たれるなか、過酷な持久戦を強いられた。しかし、この戦いで第17連隊を最も苦しめたのは、米軍と連携し、ちょう報報活動や度重なる襲撃を加える抗日ゲリラの存在だった。兵士たちはゲリラの粛清を命ぜられ、今も苦しみを抱いている。元兵士たちの証言から、ルソン島の戦いの悲劇に迫る。 |
●「硫黄島 地下壕に倒れた精鋭部隊 ~鹿児島陸軍歩兵第145連隊~」 2010年 9月25日
約2万人の日本軍守備隊が戦死した硫黄島で、唯一、現役兵が多数を占めた鹿児島・陸軍歩兵第145連隊。最前線から生還した5人の兵士の証言をもとに、戦いの実態を描く。約2万人が犠牲となった東京・小笠原諸島の硫黄島。全国からの“寄せ集め部隊”が大部分を占めた守備隊の中で唯一、現役兵が多数を占めていたのが、鹿児島で編成された陸軍歩兵第145連隊であった。日本の敗色が濃厚となる中、武器弾薬のみならず、水一滴米一粒の補給さえ絶たれ、アメリカの本土進攻を遅らせるための“捨て石”とされた硫黄島の将兵たち。最前線から生還した5人の兵士の証言記録をもとに、硫黄島の戦いを描く。 |
●「人間爆弾“桜花” ~第721海軍航空隊~」2010年 10月30日
太平洋戦争の戦局が悪化するなか、大本営は特攻兵器の開発を進めていた。そのひとつが「桜花」。1トンを超える大型爆弾を積んだ飛行機型の兵器だ。茨城を拠点とする第721海軍航空隊(神雷部隊)が編成され、沖縄に侵攻するアメリカ軍の艦船への攻撃が始まる。しかし、重い桜花を運ぶ爆撃機は、十分な護衛もなく、目標に達する前に次々と撃墜されてしまう。生と死のはざまで兵士たちは特攻作戦をどう戦ったのか、証言から探る |
●ブーゲンビル、墓場と呼ばれた戦場 ~都城歩兵23連隊 2010年11月27日 パプアニューギニアの東部、ソロモン諸島の最北端に位置するブーゲンビル島。その島は“墓島”と称さるほどの激戦地で、多くの日本兵が犠牲となった。その最前線に送り込まれたのが宮崎の出身者を中心に編成された「都城・歩兵第23連隊」5千人の将兵たちだった。昭和18年以降、反撃に転じた連合軍の圧倒的な物量の前に苦戦を強いられ、23連隊は全滅の危機にさらされる。その時、いったん後方に下がり、態勢を立て直す必要を感じた連隊長は撤退を決断する。しかし、軍上層部はそれを“必死敢闘”の精神に背く行為として激しい非難を浴びせる。再び最前線に送り返された23連隊。その後も上層部と現場の指揮官の間で意見の相違があり、一貫しない指揮系統に兵士たちは翻弄され続ける。補給線のない中、2年半にも及び戦い続けた23連隊の戦争とはどのようなものだったのか。証言をもとに迫る。 |
●証言記録 兵士たちの戦争「敵は民の中にありて見えず~島根県 歩兵第163連隊」
日中戦争で、占領地の警備を担当していた島根県の歩兵第163連隊の元将兵たちの証言を伝えるドキュメンタリー番組。163連隊が課せられた治安維持活動の前に立ちはだかったのは、中国共産党の軍隊「八路軍」だった。163連隊は、八路軍の神出鬼没のゲリラ戦に苦戦する。年々激しさを増す戦いのなか、部隊は八路軍の大軍勢がこもる村の討伐を行う。しかし、終戦間近には、中国国民政府軍との最前線に立ち、壊滅状態に陥る
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★証言記録・市民たちの戦争
●B29墜落 敵兵と遭遇した村 熊本県阿蘇
昭和20年5月5日日本軍に撃墜されたB29から阿蘇地方に脱出した米兵のうち、1名自決、2名が殺害された。なぜ事件は起こったのか。口を閉ざされてきた真相に迫る。 昭和20年5月5日、日本軍に撃墜されたB29から熊本・阿蘇地方に脱出した米兵のうち、1人が自決し、2人が殺害された。当時、捕虜になれば命は助かると教育されてきたアメリカ人と、「鬼畜米英」と教え込まれてきた山奥の日本人との間に事件は起こった。さらに殺害後も遺体陵辱が行われていたことが戦後のGHQの調べで発覚した。固く口を閉ざされた事件の真相に、GHQ資料と生存する目撃者の証言を基に迫る。 |
●漁師は戦場に消えた ~静岡県・焼津港~
太平洋戦争中、日本有数の漁港である静岡県焼津港から、92隻の大型漁船と 大勢の漁師が日本海軍に徴用され、戦場の海域へ送られました。船舶不足と船員 不足を補うためでした。船と漁師のほとんどは生きて焼津へ戻ることはありませ んでした。船と漁師を失った焼津の水産業は壊滅的打撃を受けました。そこで焼 津の人々は、日本が占領したインドネシアやフィリピンに移住し、鰹節事業を興 そうとしました。しかし、まもなくそこは戦場となり、多くの人々が戦闘に巻き 込まれ死亡しました。戦争によってつぶされた漁業の町の記録です。 |
●戦火に引き裂かれた家族 フィリピン 2010.8.12
戦前、多くの日本人移民で栄えたダバオ。現地女性との間に多くの2世が生まれたが開戦で“敵国民”となり、過酷な戦後を強いられた。彼らの終わらない戦争を見つめる。 |
●戦場の漫才師たち わらわし隊の戦争 2010.8.11 60分
日中戦争が膠着化するなか、戦地奥深くまで「笑い」を届けていた一団がいた。朝日新聞社が企画し吉本興業の芸人たちが参加した「わらわし隊」。エンタツ・アチャコや柳屋金語楼、ミスワカナなど、当時の大スターたちの慰問団は、昭和13年から、戦局が悪化の一途をたどる昭和19年頃までの間、形を変えながら中国各地を訪れた。日本軍の侵攻直後の南京で。激戦のあとの上海で。そして、銃弾飛び交う最前線の漢口で……。明日をも知れぬ極限の戦地で「笑い」を提供した「わらわし隊」。大勢の日本兵が、彼・彼女らの芸に笑い、そして故郷を思い涙した。そして、つかの間の“人間らしい時間”ののち、再び戦場に戻り、多くが生きて還らなかった。
これまで「わらわし隊」に関する記録は、多くが不詳とされてきた。しかし専門家による資料の発掘が進み、また日中戦争当時の写真が多数見つかるなど、知られざる「わらわし隊」の全貌が明らかになりつつある。「戦争」と「笑い」という、相反する状況の中で苦悩し続けた「わらわし隊」。日米開戦後、戦局が悪化すると、「笑い」さえも「不謹慎」だとして、活動の自粛を強いられ、やがて芸人たち自らも徴兵されていった。番組では、現代の若手芸人や女優を起用し「わらわし隊」の足跡をたどる。 |