軍律について
 更新日/2018(平成30).5.17日
 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで「軍律について」を記しておく。

 2012.10.17日 れんだいこ拝


 【軍律考
 義和団事件の際、北京に出動した柴五郎中佐の指揮する日本軍は北京市民から「大日本順民」と書いた布や紙で歓迎されるほどであった。参謀本部の「明治33年清国事変史」は次の用に記している。

 「他国の軍の占領区域は荒涼、寂莫たるに関わらず、ひとり我が占領区域内は人心安堵し、ところどころに市場開設し、売買日に盛んに至れり」と記録されている。

 これによれば、義和団事件の頃までは日本軍の軍規の厳しさが確かめられる。列強諸国の中でも「折り紙付き」であった。その後次第に軍紀が弛緩し始める。その端初を1928.6 月に起こった河本大作大佐による張作霖爆殺事件と、その後の処理に確認できる。同事件を河本大佐など関東軍の一部軍人による 暴走と見るか、関東軍全体の謀略であったと見るのか意見が分かれているが、軍紀弛緩の構造が垣間見える。事件の真相は今日に至るも封印されている。事件後、河本大佐の秘密を守る努力はたいへんなもので、 うわ言でさえ真相を漏らすのを恐れ、盲腸の手術で麻酔すら拒んだほどであったと伝えられている。事件当時、元老の西園寺などは、事件の報をうけとると「どうも 怪しいぞ、人には言えぬが、どうも日本の陸軍あたりが元凶ぢやあるまいか」 と疑いをもっていたと伝えられている。
 
 これを裏づける証言を河本大佐本人がしていたことが読売新聞により明らかにされた。同社は最近、河本大佐が中国に捕らえられたときの供述書を公表した。それによると、「(事件は)関東軍が全責任を負うべきであり、私には主たる責任がある」、「誰を首謀者に仕立てるかで関東軍司令官がひどく悩んでいたので私が責任をかぶると自分から申し出た」、「爆殺は 関東軍の総意であることを中国当局者に供述した」云々。この河本大佐証言を鵜呑みにすることはできないが関東軍の主導が垣間見える。


 当時、田中首相は張作霖を利用し満州での利権を拡大しようとしたのに対し、関東軍は張作霖を排除し 満州を日本の直接的な支配下におこうとして対立していた。当時の関東軍の動向を伝える参謀長の斉藤日記は、閣議決定を受けた5月20日と思われる村岡軍司令官の訓示「満蒙の治安維持に害あると認めるものは直ちに武装解除し、若しこれに応ぜざるものは断固その侵入を阻止し、殊に南軍は絶対に其侵入を阻止する」で 書き始まり、張作霖軍をも阻止して満州を中国本土から切り離し、日本の強い影響下に置こうとする考えを示している。斉藤等関東軍は、「あれを生かしておけば仕事ができると云う考へがある様だ」と田中首相の考えを批判し、「要するに司令官の考えは可なるも、首相が不決断なることが結局虻蜂(あぶはち)取らずとなるならん 噫(ああ)!」と憤っている。結局武装解除を実行する「奉勅命令」 は出されず、張の奉天到着の日を迎えている。 そのため関東軍は、蒋介石の北伐に追われた張作霖の奉天侵入阻止のための出動命令が出されなかったので政府方針に逆らって凶行に及んだのではないかと推定されている。

 横浜市立大学の遠山茂樹名誉教授はこう記している。


 「張作霖の下野ないしは抹殺をめざした軍部の動きには、大きな誤算があった。張が日本の要求をなかなか容れなかったのは、張の意志によるよりも、む しろその背後にある民族運動につきあげられたものであったからである。しかも張の爆殺の背景には日本軍閥があるのではないかという疑惑は、中国をはじめ世界にただちにひろまった。満州における対日感情はさらに悪化していった。ただ日本国民だけが報道を統制されてつんぼさじきにおかれていた」。

 この事件は対日感情をさらに悪化させ、小川平吉鉄相のいうように 「有害無益の結果」に終わった。

 問題は南京大虐殺事件である。巷間言われる如くの大虐殺事件が存在したとするならば、これも軍律弛緩の観点から考えることが可能であろう。南京大虐殺事件の前段階に於いて、既に満州事変を契機に日本軍内に軍律弛緩が認められる。1932年、関東軍の石原莞爾らは軍中央の方針にそむき中国東北地方で戦火を勝手に拡大している。これが罰せられるどころか、この暴走が成果をおさめるや逆に殊勲賞が与え られ、彼らは中央の要職に栄転している。このような結果主義の論功行賞がその後の日本軍の気風を左右した。すなわち、軍人は戦果を挙げ結果さえ良ければ暴走はすべて許されるという風潮が軍にはびこることになった。 その弊害について、「満州事変」当時、参謀本部作戦課長で関東軍の独走 に手を焼いた経験をもつ今村均は、その回顧録で次のように述べている。
 「満州事変というものが、陸軍の中央部参謀将校と外地の軍幕僚多数の思想に不良な感作を及ぼし、爾後(じご)大きく軍紀を紊(みだ)すようにしたことは争えない事実である。これとても、現地の人々がそうしたというよりは、 時の陸軍中央当局の人事上の過失に起因したものと、私は感じている。板垣、石原両氏の行動は、君国百年のためと信じた純心に発したものではある。が、中央の統制に従わなかったことは、天下周知のことになっていた。 にもかかわらず、新たに中央首脳者になった人々は満州事変は、成功裏に 収め得たとし、両官を東京に招き、最大の讃辞をあびせ、殊勲の行賞のみでは不足なりとし、破格の欧米視察までさせ、しかも爾後、これを中央の要職に栄転させると同時に、関東軍を中央の統制下に把握しようと努めた諸官を、一人のこらず中央から出してしまった。

 これを眼の前に見た中央三官衙や各軍の幕僚たちは『上の者の統制などに服することは、第二義のもののようだ。軍人の第一義は大功を収めることにある。功さえたてれば、どんな下剋上の行為を冒しても、やがてこれは賞され、それらを抑制しようとした上官は追い払われ、統制不服従者がこれにとってかわって統制者になり得るものだ』というような気分を感ぜしめられた。又、上級責任者たる将官の中にも、幾らかは『若い者の据えたお膳はだまって箸をつけるべきだ。下手に参謀の手綱をひかえようとすれば、たいていは 評判をわるくし、己の位置を失うことになる』と思うような人を生じさせ、軍統率の本質上悪影響を及ぼした」 (今村均「私記・一軍人60年の哀歓」扶養書房、1971)。

 さて南京大虐殺事件である。下村作戦部長によれば杭州湾上陸、白茆口上陸以外の作戦は現地の企画、出先の意見によるものであったという(回想応答録「現代史資料」)。南京大虐殺事件が実際に発生していたとすれば、このような軍部全体の恐るべき綱紀の弛緩というなかで起きたものといえよう。近衛首相は軍から戦線拡大の報告すら受けることができなかったと云われており、そうであるとすれば由々しき政治体制上の構造的欠陥が認められる。現地軍隊は中央の甘い統制を軽視し、中央が指示した制令線などを次々に無視し、独善的な判断により戦線を急速に拡大していった。軍中央は、この暴走を追認した。この頃、戦線の拡大が常備兵の不足をきたし、予備兵や後備兵さらには補充兵などを大量にかり出すようになっていた。彼らは突然赤紙で召集された臨時兵であった故に規律や戦闘意欲が十分ではなく、志気や軍紀は「満州事変」当時の日本軍とは比べるべくもなかった。

 この召集兵こそ軍紀退廃の原因であるという見方が軍中央にさえあっ た。陸軍省軍務局軍事課長・田中新一大佐は、「軍紀粛正問題」と題してこう 所見を書いている。

 「軍紀退廃の根源は、召集兵にある。高年次召集者にある。召集の憲兵下士官などに唾棄すべき知能犯的軍紀破壊行為がある。現地依存の給養上の措置が誤って軍紀破壊の第一歩ともなる。すなわち地方民からの物資購買が徴発化し、 掠奪化し、暴行に転化するごときがそれである。・・・補給の定滞(停滞)から 第一線を飢餓欠乏に陥らしめることも軍紀破壊のもととなる」 (田中新一「支那事変記録、其の三」)。  

 高年次召集兵もさることながら、そもそも軍幹部の資質、能力にも問題があった。戦争の正義性が見出されないこと、戦争の戦略戦術に分裂があったこと、軍幹部間に派閥的な抗争があり指揮が混乱していたこと等々が次第に軍律を群立を弛緩させていったものと思われる。これに戦局の泥沼化が加わる。  

 そもそも、近衛内閣が37年に発表した戦争目的の声明は「支那軍の暴戻 (ぼうれい)を鷹徴(ようちょう)し、以て南京政府の反省を促す為」とする「支那鷹徴」論であった。しかし誤算となり支那の抗戦が次第に活性化した。日本は首都の南京さえ落とせば戦争はほぼ終わるとみていた節があるが結果は火に油を注ぐことになった。加えて、上海派遣軍と第十軍は先陣争いをしながら南京に進撃したが、その際、兵站補給問題を軽視していたため必然的に徴発という名の略奪を日常茶飯事に繰り返して行くことになった。これが南京大虐殺事件の下地になったことは十分に考えられる。

 これを煽った当時のマスコミの責任を確認しておく。当時、マスコミは南京陥落を熱狂的伝えた。新聞の見出しは次のように報じている。「はやる歓喜!、大祝賀の催促!、神速の皇軍・紫金山占領の快報をうけて 早くも銀座に戦勝飾」 (読売新聞、37.12.8)、「踊出した提燈(ちょうちん)行列 、昨夜・雨の帝都の賑ひ(にぎわい)、 ”陥落公表”を待ち祝賀の大行進、畫夜・歓喜の坩堝(るつぼ)へ」(朝日新聞、37.12.11)、「百万人の旗行列 」(東京)「府市が公電着次第催し種々 」(読売新聞、37.12.12) 。これらをみると、日本中を南京攻略に沸き立たせていたことが分かる。報道は次第に過熱化し、「人殺し競争」をあおる新聞まで登場した。毎日新聞の 前身で三大紙のひとつである東京日日新聞は、「百人斬り競争!」 (37.11.30)、「両少尉早くも80人、”百人斬り”大接戦、勇壮!向井、野田両少尉」 (37.12.6) を伝え、「勇壮な」向井、野田両少尉が軍刀を前にして写真入りで大きく紹介された。

 これにつき、作家の安岡章太郎氏は次のように記している。


 「昭和12年12月13日から、翌13年1月末まで、6週間のうちに日本 兵は中国人を15万5千人以上を殺し、5千人以上の女性に暴行をはたらいた うえに、市民の財貨を掠奪し、街を焼き払ったということは、戦後になるまで、 日本人のほとんどが知らなかったことだ。しかし、いまになって思うのだが、もしこれをあの当時、日本の新聞やラジオでこのとおりに報道されていたとしても、果たして僕らはそれを信じる気になったかどうか、僕には自身がない。 たしかに僕らは、南京虐殺事件というものについては知らされていなかったし、細かい数字や何かは無論、全然知らなかった。しかし、15万5千人と いうような数字を聞かされても、それだけでは何も驚かなかったのではないか。すくなくとも、それだけの数の死体が街に転がっているということがどう いうことなのか、自分の眼でそれを見てみるまで、何のことだか見当もつかな かったに違いない。--要するに、チャンコロが死んでいる。ただそう思っただけだったかもしれないのだ。だいいち僕自身は、その頃、日本人の将校が二人で中国人の「百人斬り競 争」をやったという新聞記事が出ていたことを、全然憶えていないのである。『百人斬り、”超記録” 向井、百六 -- 野田、百五 両少尉さらに延長戦』  こういう記事が、昭和12年12月13日づけの東京日日新聞にでていた というのだが、僕はそんなものをまったく見過ごしてしまっていた。僕の家では、新聞は朝日と日日とをとっていたが、日本の将校がシナ人の首をいくつ切 ろうが、そんなことには少しも興味が持てなかったからであろう。この僕の無関心は当時の新聞に軍部の検閲が加えられていたということと は直接関係のないことだ 」。

戦陣訓
 1941(昭和16)年、陸軍大臣東条英機の名で将兵向けの戦陣訓が出された。その第8は、『生きて虜 囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか)の汚名を残すこと勿(なか)れ』は有名で、全将兵に死を強制する役割を果した。これにより、戦死者は英雄だが、捕虜になることは最大の屈辱という価値観の形成が促された。それゆえ、生きて捕虜になった場合、「非国民」と非難された。「戦陣訓の歌」、捕虜第1号
 それ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍く皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威の尊厳を感銘せしむるところなり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず。惟ふに軍人精神の根本義は、畏くも軍人に賜はりたる勅諭に炳乎として明かなり。而して戦闘竝に練習等に関し準拠すべき要綱は、又典令の綱領に教示せられたり。しかるに戦陣の環境たる、ともすれば眼前の事象に促はれて大本を逸し、時にその行動軍人の本分に戻るが如きことなしとせず。深く慎まざるべけんや。乃ち既往の経験に鑑み、常に戦陣に於て勅諭を仰ぎて之が服行の完璧を期せむが為、具体的行動の憑拠を示し、以て皇軍道義の昂揚を図らんとす。これ戦陣訓の本旨とするところなり。
 本訓其の1
 第1、皇国
 大日本は皇国なり。万世一系の天皇上に在しまし、肇国の皇謨を紹継して無窮に君臨し給ふ。皇恩万民に遍く、聖徳八紘に光 被す。臣民亦忠孝勇武祖孫相承け、皇国の道義を宣揚して天業を賛し奉り、君民一体以て克く国運の隆昌を致せり
 戦陣の将兵、宜しく我が国体の本義を体得し、牢固不抜の信念を堅持し、誓つて皇国守護の大任を完遂せんことを期すべし。
 第2、皇軍
 軍は天皇統帥の下、神武の精神を体現し、以て皇国の威徳を顕揚し皇運の扶翼に任ず。常に大御心を奉じ、正にして武、武に して仁、克く世界の大和を現ずるもの是神武の精神なり。武は厳なるべし仁は遍きを要す。苟も皇軍に抗する敵あらば、烈々た る武威を振ひ断乎之を撃砕すべし。
 仮令峻厳の威克く敵を屈服せしむとも、服するは撃たず従ふは慈しむの徳に欠くるあらば、未だ以て全しとは言ひ難し。武は驕らず仁は飾らず、自ら溢るるを以て尊しとなす。皇軍の本領は恩威並び行はれ、遍く御綾威を仰がしむるに在り。
 第3、皇紀
 皇軍軍紀の神髄は、畏くも大元帥陛下に対し奉る絶対随順の崇高なる精神に存す。上下斉しく統帥の尊厳なる所以を感銘し、 上は大意の承行を謹厳にし、下は謹んで服従の至誠を致すべし。尽忠の赤誠相結び、脈絡一貫、全軍一令の下に寸毫紊るるなき は、是戦捷必須の要件にして、又実に治安確保の要道たり。
 特に戦陣は、服従の精神実践の極致を発揮すべき処とす。死生困苦の間に処し、命令一下欣然として死地に投じ、黙々として 献身服行の実を挙ぐるもの、実に我が軍人精神の精華なり。
 第4、団結
 軍は、畏くも大元帥陛下を頭首と仰ぎ奉る。渥(アツ)き聖慮を体し、忠誠の至情に和し、挙軍一心一体の実を致さざるべからず
 軍隊は統率の本義に則り、隊長を核心とし、鞏固にして而も和気藹々たる団結を固成すべし。
 上下各々其の分を厳守し、常に隊長の意図に従ひ、誠心を他の腹中に置き、生死利害を超越して、全体の為己を没するの覚悟 なかるべからず。
 第5、協同
 諸兵心を一にし、己の任務に邁進すると共に、全軍戦捷の為欣然として没我協力の精神を発揮すべし。
 各隊は互に其の任務を重んじ、名誉を尊び、相信じ相援け、自ら進んで苦難に就き、戮力協心相携へて目的達成の為力闘せざ るべからず。
 第6、攻撃精神
 凡そ戦闘は勇猛果敢、常に攻撃精神を以て一貫すべし。
 攻撃に方りては果断積極機先を制し、剛毅不屈、敵を粉砕せずんば已まざるべし。防禦又克く攻勢の鋭気を包蔵し、必ず主動 の地位を確保せよ。陣地は死すとも敵に委すること勿れ。追撃は断々乎として飽く迄も徹底的なるべし。
 勇往邁進百事懼れず、沈著大胆難局に処し、堅忍不抜困苦に克ち、有ゆる障碍を突破して一意勝利の獲得に邁進すべし。
 第7、必勝の信念
 信は力なり。自ら信じ毅然として戦ふ者常に克く勝者たり。
 必勝の信念は千磨必死の訓練に生ず。須く寸暇を惜しみ肝胆を砕き、必ず敵に勝つの実力を涵養すべし。
 勝敗は皇国の隆替に関す。光輝ある軍の歴史に鑑み、百戦百勝の伝統に対する己の責務を銘肝し、勝たずば断じて已むべからず。
 本訓其の2
 第1、敬神
 神霊上に在りて照覧し給ふ。
 心を正し身を修め篤く敬神の誠を捧げ、常に忠孝を心に念じ、仰いで神明の加護に恥ぢざるべし。
 第2、孝道
 忠孝一本は我が国道義の精粋にして、忠誠の士は又必ず純情の孝子なり。
 戦陣深く父母の志を体して、克く尽忠の大義に徹し、以て祖先の遺風を顕彰せんことを期すべし。
 第3、敬礼挙措
 敬礼は至純の服従心の発露にして、又上下一致の表現なり。戦陣の間特に厳正なる敬礼を行はざるべからず。
 礼節の精神内に充溢し、挙措謹厳にして端正なるは強き武人たるの証左なり。
 第4、戦友道
 戦友の道義は、大義の下死生相結び、互に信頼の至情を致し、常に切磋琢磨し、緩急相救ひ、非違相戒めて、倶に軍人の本分 を完うするに在り。
 第5、率先躬行
 幹部は熱誠以て百行の範たるべし。上正しからざけば下必ず紊る。
 戦陣は実行を尚ぶ。躬を以て衆に先んじ毅然として行ふべし。
 第6、責任
 任務は神聖なり。責任は極めて重し。一業一務忽せにせず、心魂を傾注して一切の手段を尽くし、之が達成に遺憾なきを期すべし。
 責任を重んずる者、是真に戦場に於ける最大の勇者なり。
 第7、生 死 観
 死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。
 生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。
 第8、名を惜しむ
 恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の 汚名を残すこと勿れ。
 第9、質実剛健
 質実以て陣中の起居を律し、剛健なる士風を作興し、旺盛なる士気を振起すべし。
 陣中の生活は簡素ならざるべからず。不自由は常なるを思ひ、毎事節約に努むべし。奢侈は勇猛の精神を蝕むものなり。
 第10、清廉潔白
 清廉潔白は、武人気質の由つて立つ所なり。己に克つこと能はずして物慾に捉はるる者、争でか皇国に身命を捧ぐるを得ん。
 身を持するに冷厳なれ。事に処するに公正なれ。行ひて俯仰天地に愧ぢざるべし。
 本訓其の3
 第1、戦陣の戒
1 一瞬の油断、不測の大事を生ず。常に備へ厳に警めざるべからず。敵及住民を軽侮するを止めよ。小成に安んじて労を厭 ふこと勿れ。不注意も亦災禍の因と知るべし。
2 軍機を守るに細心なれ。諜者は常に身辺に在り。
3 哨務は重大なり。一軍の安危を担ひ、一隊の軍紀を代表す。宜しく身を以て其の重きに任じ、厳粛に之を服行すべし。哨 兵の身分は又深く之を尊重せざるべからず。
4 思想戦は、現代戦の重要なる一面なり。皇国に対する不動の信念を以て、敵の宣伝欺瞞を破摧するのみならず、進んで皇 道の宣布に勉むべし。
5 流言蜚語は信念の弱きに生ず。惑ふこと勿れ、動ずること勿れ。皇軍の実力を確信し、篤く上官を信頼すべし。
6 敵産、敵資の保護に留意するを要す。徴発、押収、物資の燼滅等は規定に従ひ、必ず指揮官の命に依るべし。
7 皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし。
8 戦陣苟も酒色に心奪はれ、又は慾情に駆られて本心を失ひ、皇軍の威信を損じ、奉公の身を過るが如きことあるべからず 。深く戒慎し、断じて武人の清節を汚さざらんことを期すべし。
9 怒を抑へ不満を制すべし。「怒は敵と思へ」と古人も教へたり。一瞬の激情悔を後日に残すこと多し。
軍法の峻厳なるは特に軍人の栄誉を保持し、皇軍の威信を完うせんが為なり。常に出征当時の決意と感激とを想起し、遙か に思を父母妻子の真情に馳せ、仮初にも身を罪科に曝すこと勿れ。
 第2、戦陣の嗜
1 尚武の伝統に培ひ、武徳の涵養、技能の練磨に勉むべし。「毎事退屈する勿れ」とは古き武の言葉にも見えたり。
2 後顧の憂を絶ちて只管奉公の道に励み、常に身辺を整へて死後を清くするの嗜を肝要とす。屍を戦野に曝すは固より軍人の 覚悟なり。縦ひ遺骨の還らざることあるも、敢て意とせざる様予て家人に含め置くべし。
3 戦陣病魔に斃るるは遺憾の極なり。特に衛生を重んじ、己の不節制に因り奉公に支障を来すが如きことあるべからず。
4 刀を魂とし馬を宝と為せる古武士の嗜を心とし、戦陣の間常に兵器資材を尊重し、馬匹を愛護せよ。
5 陣中の徳義は戦力の因なり。常に他隊の便益を思ひ、宿舎、物資の独占の如きは慎むべし。「立つ鳥跡を濁さず」と言へり 。雄々しく床しき皇軍の名を、異郷辺土にも永く伝へられたきものなり。
6 総じて武勲を誇らず、功を人に譲るは武人の高風とする所なり。他の栄達を嫉まず己の認められざるを恨まず、省みて我が 誠の足らざるを思ふべし。
7 諸事正直を旨とし、誇張虚言を恥とせよ。
8 常に大国民たるの襟度を持し、正を践み義を貫きて皇国の威風を世界に宣揚すべし。国際の儀礼亦軽んずべからず。
9 万死に一生を得て帰還の大命に浴することあらば、具(ツブサ)に思を護国の英霊に致し、言行 を慎みて国民の範となり、愈 々奉公の覚悟を固くすべし。
 結
 以上述ぶる所は、悉く勅諭に発し、又之に帰するものなり。されば之を戦陣道義の実践に資し、以て聖諭服行の完璧を期せざ るべからず。
 戦陣の将兵、須く此趣旨を体し、愈々奉公の至誠を擢んで、克く軍人の本分を完うして、皇恩の渥きに答へ奉るべし。
 (陸軍省、昭和16年1月)

参考文献

  1. 作戦要務令 -現代企業に生かす軍隊組織軍隊内務令戦陣訓:日本文芸社 (1962.10)
  2. 戦陣訓読本―斉藤瀏/編:三省堂 (1941.3)
  3. 独逸戦陣訓―ハンス・エレンベック/[]//木暮浪夫/訳:肇書房 (1942.1)
  4. ビジネスに活かす古典の知恵-知っておきたい心の戦陣訓:藤田公道/著日本文芸社 (1986.11)
陸軍刑法(1908年制定)
第9章掠奪の罪
第86条戦地または帝国軍の占領地において住民の財物を掠奪したる者は、一年以上の有期懲役に処す。前項の罪を犯すにあたり、婦女を強姦したるときは、無期または七年以上の懲役に処す。

「戦功をたてし将兵に対し余りに迎合的態度」

【五省】
 五省(ごせい)とは、旧大日本帝国海軍の士官学校である海軍兵学校(現在は海上自衛隊幹部候補生学校)において、生徒がその日の行いを反省するために自らへ発していた5つの問いかけのこと。その内容は次の通り。

一、 至誠(しせい)に悖(もと)る勿(な)かりしか 真心から尽す誠に至らぬことはなかったか。
一、 言行に恥づる勿かりしか 言うこと行うことに責任を持てたか。言行不一致でなかったか。
一、 気力に缺(か)くる勿かりしか 精神力は十分であったか。
一、 努力に憾(うら)み勿かりしか 十分に努力したか。
一、 不精に亘(わた)る勿かりしか 物事に十分に取り組んだか。

【軍人勅諭】
 「軍人勅諭」。
 「この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表された「 Wikisource/陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」を素材として二次利用しています。 お恥ずかしい話だが、私は軍人勅諭を初めてまともに読んだ。 意外だったのは、この勅諭が軍部の暴走をきつく戒める内容だったことだ。 武勇を嵩に着て荒ぶるなど軍人のあるべき姿ではない。軍人たるものは平素は温和にして質素な暮らしぶりを心がけ、民から尊敬され慕われる存在でなければならない。 また、有事においては冷静沈着な判断を失わず、出来もしないことを見栄や激昂で出来ると言い張り暴走するようなことは、国や民に大過をもたらす基であるから厳に慎まなければならない、と懇懇と説いている。 さすがに西周が草稿を書いただけのことはあって、理の通った名分だったのには驚いた。太子が十七条の憲法によって官僚の不徳をきつく戒め、撫民の心を忘れぬようにと説いたのと双璧をなす名分だということが今さら分かった」。

 陸海軍軍人に賜はりたる勅諭(軍人勅諭)

 我國の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある。昔、神武天皇躬つから大伴物部の兵ともを率ゐ中國のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座に即かせられて天下しろしめし給ひしより二千五百有餘年を經ぬ此間世の樣の移り換るに隨ひて兵制の沿革も亦屢なりき。

 古は天皇躬つから軍隊を率ゐ給ふ御制にて時ありては皇后皇太子の代らせ給ふこともありつれと大凡兵權を臣下に委ね給ふことはなかりき中世に至りて文武の制度皆唐國風に傚はせ給ひ、六衞府を置き左右馬寮を建て防人なと設けられしかは兵制は整ひたれとも打續ける昇平に狃れて朝廷の政務も漸文弱に流れけれは兵農おのつから二に分れ古の徴兵はいつとなく壯兵の姿に變り、遂に武士となり兵馬の權は一向に其武士ともの棟梁たる者に歸し世の亂と共に政治の大權も亦其手に落ち凡七百年の間武家の政治とはなりぬ。

 世の樣の移り換りて斯なれるは人力もて挽回すへきにあらすとはいひなから且は我國體に戻り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき降りて弘化嘉永の頃より徳川の幕府其政衰へ、剩外國の事とも起りて其侮をも受けぬへき勢に迫りけれは朕か皇祖仁孝天皇皇考孝明天皇いたく宸襟を惱し給ひしこそ忝くも又惶けれ。

 然るに朕幼くして天津日嗣を受けし初征夷大将軍其政權を返上し大名小名其版籍を奉還し年を經すして海内一統の世となり古の制度に復しぬ是文武の忠臣良弼ありて朕を輔翼せる功績なり。歴世祖宗の專蒼生を憐み給ひし御遺澤なりといへとも併我臣民の其心に順逆の理を辨へ大義の重きを知れるか故にこそあれされは此時に於て兵制を更め我國の光を耀さんと思ひ此十五年か程に陸海軍の制をは今の樣に建定めぬ

 夫兵馬の大權は朕か統ふる所なれは其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を存して再中世以降の如き失體なからんことを望むなり。

 朕は汝等軍人の大元帥なるそされは朕は汝等を股肱と頼み汝等は朕を頭首と仰きてそ其親は特に深かるへき朕か國家を保護して上天の惠に應し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を盡すと盡さゝるとに由るそかし。

 我國の稜威振はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ我武維揚りて其榮を耀さは朕汝等と其譽を偕にすへし汝等皆其職を守り朕と一心になりて力を國家の保護に盡さは我國の蒼生は永く太平の福を受け我國の威烈は大に世界の光華ともなりぬへし。 

 朕斯も深く汝等軍人に望むなれは猶訓諭すへき事こそあれいてや之を左に述へむ

 一 軍人は忠節を盡すを本分とすへし

 凡生を我國に稟くるもの誰かは國に報ゆるの心なかるへき况して軍人たらん者は此心の固からては物の用に立ち得へしとも思はれす。軍人にして報國の心堅固ならさるは如何程技藝に熟し學術に長するも猶偶人にひとしかるへし其隊伍も整ひ節制も正くとも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の衆に同かるへし

 抑國家を保護し國權を維持するは兵力に在れは兵力の消長は是國運の盛衰なることを辨へ世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く、死は鴻毛よりも輕しと覺悟せよ其操を破りて不覺を取り汚名を受くるなかれ。

 一 軍人は禮儀を正くすへし 

 凡軍人には上元帥より下一卒に至るまて其間に官職の階級ありて統屬するのみならす同列同級とても停年に新舊あれは新任の者は舊任のものに服從すへきものそ下級のものは上官の命を承ること實は直に朕か命を承る義なりと心得よ。

 己か隷屬する所にあらすとも上級の者は勿論停年の己より舊きものに對しては總へて敬禮を盡すへし。又上級の者は下級のものに向ひ聊も輕侮驕傲の振舞あるへからす。公務の爲に威嚴を主とする時は格別なれとも其外は務めて懇に取扱ひ慈愛を專一と心掛け上下一致して王事に勤勞せよ。若軍人たるものにして禮儀を紊り上を敬はす下を惠ますして一致の和諧を失ひたらんには啻に軍隊の蠧毒たるのみかは國家の爲にもゆるし難き罪人なるへし。

 一 軍人は武勇を尚ふへし

 夫武勇は我國にては古よりいとも貴へる所なれは我國の臣民たらんもの武勇なくては叶ふまし况して軍人は戰に臨み敵に當るの職なれは片時も武勇を忘れてよかるへきか。さはあれ武勇には大勇あり小勇ありて同からす血氣にはやり粗暴の振舞なとせんは武勇とは謂ひ難し軍人たらむものは常に能く義理を辨へ能く膽力を練り思慮を殫して事を謀るへし。

 小敵たりとも侮らす大敵たりとも懼れす己か武職を盡さむこそ誠の大勇にはあれ。されは武勇を尚ふものは常々人に接るには温和を第一とし諸人の愛敬を得むと心掛けよ由なき勇を好みて猛威を振ひたらは果は世人も忌嫌ひて豺狼なとの如く思ひなむ心すへきことにこそ。 

 一 軍人は信義を重んすへし 

 凡信義を守ること常の道にはあれとわきて軍人は信義なくては一日も隊伍の中に交りてあらんこと難かるへし。信とは己か言を踐行ひ義とは己か分を盡すをいふなりされは信義を盡さむと思はゝ始より其事の成し得へきか得へからさるかを審に思考すへし。

 朧氣なる事を假初に諾ひてよしなき關係を結ひ後に至りて信義を立てんとすれは、進退谷りて身の措き所に苦むことあり悔ゆとも其詮なし。始に能々事の順逆を辨へ理非を考へ其言は所詮踐むへからすと知り、其義はとても守るへからすと悟りなは速に止るこそよけれ。

 古より或は小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り或は公道の理非に踏迷ひて私情の信義を守りあたら英雄豪傑ともか禍に遭ひ身を滅し屍の上の汚名を後世まて遺せること其例尠からぬものを深く警めてやはあるへき。

 一 軍人は質素を旨とすへし

 凡質素を旨とせされは文弱に流れ輕薄に趨り驕奢華靡の風を好み遂には貪汚に陷りて、志も無下に賤くなり節操も武勇も其甲斐なく世人に爪はしきせらるゝ迄に至りぬへし。其身生涯の不幸なりといふも中々愚なり此風一たひ軍人の間に起りては彼の傳染病の如く蔓延し士風も兵氣も頓に衰へぬへきこと明なり。

 朕深く之を懼れて曩に免黜條例を施行し畧此事を誡め置きつれと猶も其悪習の出んことを憂ひて心安からねは故に又之を訓ふるそかし汝等軍人ゆめ此訓誡を等閑にな思ひそ右の五ヶ條は軍人たらんもの暫も忽にすへからす。 

 さて之を行はんには一の誠心こそ大切なれ抑此五ヶ條は我軍人の精神にして一の誠心は又五ヶ條の精神なり心誠ならされは如何なる嘉言も善行も皆うはへの裝飾にて何の用にかは立つへき心たに誠あれは何事も成るものそかし。况してや此五ヶ條は天地の公道人倫の常經なり行ひ易く守り易し汝等軍人能く朕か訓に遵ひて此道を守り行ひ國に報ゆるの務を盡さは日本國の蒼生擧りて之を悦ひなん朕一人の懌のみならんや。

 明治十五年一月四日御名

 参考現代語訳

 わが国の軍隊は代々天皇の統率したまう所にある。昔、神武天皇みずから大伴物部の兵たちを率い、国中の帰順せぬ者どもを討ちたいらげ、皇位につき天下を治められてから、二千五百年余りを経た。この間、世の移り変わりに従い、兵制の改革もまたしばしばであった。古くは天皇がみずから軍を率いられる制度であり、時には皇后皇太子が代ることもあったが、およそ兵権を臣下に委ねることはなかった。中世に至り、政治軍事の制度をみな唐にならわせ、六の衛府を置き左右の馬寮を建て、防人などを設けて兵制は整った。しかしうち続く平和になれ、朝廷の政務もしだいに文弱に流れたため、兵と農はおのずから二つに分かれ、古代の徴兵はいつとなく志願の姿に変わり、ついには武士となった。

 軍事の権限は、すべて武士たちの頭領である者に帰し、世の乱れとともに政治の大権もまたその手に落ち、およそ七百年のあいだ武家の政治となった。世のさまの移りでかくなったのは、人の力では挽回できなかったともいえるが、それはわが国体に照らし、かつわが祖先の制度に背く、嘆かわしき事態であった。時が下って、弘化嘉永の頃から徳川幕府の政治は衰え、あまつさえ外国との諸問題が起こって国が侮りを受けかねない情勢が迫り、わが祖父仁孝天皇、先代孝明天皇をいたく悩ませられたことは、かたじけなくも又おそれ多いことであった。しかるに朕が幼くして皇位を継承した当初、征夷大将軍が政権を返上し、大名小名は版籍を奉還した。年を経ずに国内が統一され、古代の制度が復活した。これは文武の忠臣良臣が朕を補佐した功績であり、民を思う歴代天皇の遺徳であるが、あわせてわが臣民が心に正逆の道理をわきまえ、大義の重さを知っていたからこそである。そこでこの時機に兵制を改め国威を輝かすべしと考え、この十五年ほどで陸海軍の制度を今のように定めたのである。軍の大権は朕が統帥するもので、その運用は臣下に任せても、大綱は朕がみずから掌握し、臣下に委ねるものではない。子孫に至るまでこの旨をよく伝え、天皇が政治軍事の大権を掌握する意義を存続させ、再び中世以降のように、正しい体制を失うことがないよう望む。

 朕は汝(なんじ)ら軍人の大元帥である。朕は汝らを手足と頼み、汝らは朕を頭首とも仰いで、その関係は特に深くなくてはならぬ。朕が国家を保護し、天の恵みに応じ祖先の恩に報いることができるのも、汝ら軍人が職分を尽くすか否かによる。国の威信にかげりがあれば、汝らは朕と憂いを共にせよ。わが武威が発揚し栄光に輝くなら、朕と汝らは誉れをともにすべし。汝らがみな職分を守り、朕と心を一つにし、国家の防衛に力を尽くすなら、我が国の民は永く太平を享受し、我が国の威信は大いに世界に輝くであろう。朕の汝ら軍人への期待は、かくも大きい。そのため、ここに訓戒すべきことがある。それを左に述べる。

 一 軍人は忠節を尽くすを本分とすべし。

 我が国に生をうける者なら、誰が国に報いる心がないことがあろう。まして軍人となる者は、この心が固くなければ、物の役に立つとは思われぬ。軍人にして報国の心が堅固でないならば、いかに技量に練達し、また学術に優れても、なお木偶(でく)人形にひとしいのだ。隊伍整い規律正しくとも、忠節の存在しない軍隊は、有事にのぞめば烏合の衆と同じである。国家を防衛し、国権を維持するのは兵の力によるのであるから、兵力の強弱はすなわち国運の盛衰であることをわきまえよ。世論に惑わず、政治に関わることなく、ただ一途におのれの本分たる忠節を守り、義務は山より重く、死は羽毛より軽いと覚悟せよ。その志操を破り、不覚をとって汚名をうけることのないように。

 一 軍人は礼儀を正しくすべし。

 軍人は上は元帥から下は一兵卒に至るまで、階級があって統制に属すだけでなく、同じ階級でも年次に新旧があり、年次の新しい者は、古い者に従うべきものだ。下級の者が上官の命令を受ける時には、実は朕から直接の命令を受けると同義と心得よ。自己の所属するところでなくとも、上官はもちろん年次が自己より古い者に対しては、すべて敬い礼を尽くすべし。また上級の者は下級のものに向かい、いささかも軽侮し傲慢な振るまいがあってはならぬ。公務のため威厳を主とする時は別、そのほかは努めて親密に接し、慈愛をもっぱらに心がけ、上下が一致して公務に勤めよ。もし軍人たる者で礼儀を破り、上を敬わず下をいたわらず、一致団結を失うならば、ただ軍隊の害毒であるのみか、国家のためにも許しがたき罪人である。

 一 軍人は武勇を尊ぶべし。 

 武勇は我が国において古来より尊ばれてきたところであるから、我が国の臣民たるものは、武勇なくしてははじまらぬ。まして軍人は戦闘にのぞみ、敵に当たる職務であるから、片時も武勇を忘れてよいことがあろうか。ただ武勇には大勇と小勇があり同じではない。血気にはやり、粗暴に振るまうなどは武勇とはいえぬ。軍人たるものは常によく義理をわきまえ、胆力を練り、思慮を尽くして物事を考えるべし。小敵も侮らず、大敵をも恐れず、武人の職分を尽くすことが、まことの大勇である。武勇を尊ぶ者は、常々他人に接するにあたり温和を第一とし、人々から敬愛されるよう心がけよ。わけもなく蛮勇を好み、乱暴に振舞えば、果ては世人から忌み嫌われ、野獣のように思われるのだ。心すべきことである。

 一 軍人は信義を重んずべし。 

 信義を守ることは常識であるが、とりわけ軍人は信義がなくては一日でも隊伍の中に加わっていることが難しい。信とはおのれの言葉を守り、義とはおのれの義理を果たすことをいう。従って信義を尽くそうと思うならば、はじめからその事が可能かまた不可能か、入念に思考すべし。いまいな物事を気軽に承知して、いわれなき係わりあいを持ち、後になって信義を立てようとしても進退に困り、身の置き所に苦しむことがある。後悔しても役に立たぬ。始めによくよく事の正逆をわきまえ、理非を考えて、この言はしょせん実行できぬもの、この義理はとても守れぬものと悟ったならば、すみやかにとどまるがよい。古代から、あるいは小の信義を貫こうとして大局の正逆を見誤り、あるいは公の理非に迷ってまで私情の信義を守り、あたら英雄豪傑が災難にあって身をほろぼし、死後に汚名を後世まで残した例は少なくない。深く警戒しなくてはならぬ。

 一 軍人は質素を旨とすべし。

 およそ質素を心がけなければ、文弱に流れ軽薄に走り、豪奢華美を好み、ついには貪官となり汚職に陥って心ざしもむげに賤しくなり、節操も武勇も甲斐なく、人々に爪はじきされるまでになるのだ。その身の一生の不幸と言うも愚かである。この風潮がひとたび軍人の中に発生すれば、伝染病のように蔓延して武人の気風も兵の意気もとみに衰えることは明らかである。朕は深くこれを危惧し、先に免黜条例を施行してこの点の大体を戒めた。しかしなおこの悪習が出ることを憂慮し、心が静まらぬため又この点を指導するのである。汝ら軍人は、ゆめゆめこの訓戒をなおざりに思うな。 

 右の五か条は軍人たらん者は、しばしもゆるがせにしてはならぬ。これを行うには誠の一心こそが大切である。この五か条はわが軍人の精神であって、誠の心一つは、また五か条の精神なのである。心に誠がなければ、いかに立派な言葉も、また善き行いも、みな上べの装飾で何の役に立とうか。誠があれば、何事も成しとげられるのだ。ましてこの五か条は、天地の大道であり人倫の常識である。行うにも容易、守るにも容易なことである。 汝ら軍人はよく朕の教えに従い、この道を守り実行し、国に報いる義務を尽くせば、朕ひとりの喜びにあらず、日本国の民はこぞってこれを祝するであろう。

 通称: 軍人勅諭/法令全書における名称: 軍人訓誡ノ勅諭
 明治十五年陸軍省達乙第二号 底本: 法令全書(明治十五年)







(私論.私見)