山本五十六考その3 |
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◎日本軍の中枢が米国派(ユダヤ・フリーメーソン)だった太平洋戦争◎ 投稿者 トラトラトラ 日時 2002 年 10 月 18 日 06:11:42: (回答先: Re:
昭和史は明治より社会としてははるかに劣っている 投稿者 hou 日時 2002 年 10 月 17 日 21:27:24) ●次々と無能な司令官ばかりを使う(本当に日本を守る為の自衛戦争を行ったのか!忍) 昭和17年8月7日に拾ったガダルカナル戦と翌八日の第一次ソロモン海戦に端を発したソモロン諸島海域での日米の衝突は双方に甚大な被害と多大な消耗を強いたが、結果として日本の戦略的失敗に終わった。日本軍は昭和18年2月のガダルカナル島撤収作戦を以て同島の奪還を諦め、以後南太平洋での制海あ及び制空あを一切失い米軍の攻勢に対して後退に後退を重ねるのである。 ガダルカナル戦及びソロモン海戦で特徴的な事は日本軍に戦略と云う物が全く存在しなかった事だ。山本長官はソロモン海戦に於ても南雲忠一中将、草鹿龍之助参謀長、原忠一少将、三川軍一中将更に後のレイテ沖海戦で「謎の反転」を演じた栗田健男中将等の無能な司令官を投入し日本艦隊の消耗を加速させた。其の分米国側の被害は最小限で済んだのである。 山本長官はソロモン海戦でも「大和」「武あ」等の大型戦艦を攻撃隊に加える事無く戦力の小出し投入を行った。此の為戦艦「大和」は遂に「大和ホテル」と呼ばれる有り様であった。ガダルカナルのヘンダーソン空軍基地からは山本長官の指揮下にあった全ての空母や戦艦等58隻から成る大艦隊と艦載機177機を駆使して全力投球しておれば充分奪還は可能であったのみならず、ソロモン海域全体で大きな勝利を手にする事が出来た筈であった。 戦後『大日本帝国海軍』の著者ポール・ダルは其の中で「山本長官は此の会戦をどう考えていたのか理解し難い」と指摘しているが、山本長官の行動は良心的な米国人にすら全く理解の出来ないものであった。 ハルゼー提督は各所に配置した航空偵察隊や通信解析、低レベル暗号解読、其れに沿岸監視員の偉大なる貢績を称え、「沿岸監視員がガダルカナル島を救った。其れにガダルカナルが太平洋を救った」と賞賛しているが、米軍の勝利に最も貢献したのが他ならぬフリーメーソン山本長官であった事は知らなかった様である。 ガダルカナル及びソロモン海戦で日本軍は約2万3千8百人に及ぶ地上部隊員の戦傷病死を出し、艦艇の喪失も空母1隻、戦艦2隻、巡洋艦5隻、駆逐艦等25隻其れに航空機の喪失は1053機にも及んだ。 一方、米軍は地上部隊員の戦傷病死5485人、空母2隻、巡洋艦9隻、駆逐艦等15隻であり、航空機の喪失は不明である。 昭和17年12月31日、昭和天皇はガダルカナル島からの撤退を裁下し、翌18年2月1日より7日に掛けて3回の撤収作戦を開始、同島に取り残され飢餓と熱帯病の為生死の境を彷徨いつつあった日本軍将兵一万余人を救出したのであった。 日本軍の撤退によりガダルカナル島を掌中にした米軍は、此の不沈空母を土台(ベース)に次はソロモン方面へと照準を合わせて来た。日本軍は米軍の侵攻を阻止する為ソロモン、ニューギニア方面の戦力を強化するべくラバウルから東部ニューギニアのラエへ増援部隊を送る事にしたが、此の輸送船団が米軍機の襲撃を受けて潰滅的打撃を受ける事になった。此れが「ダンピールの悲劇」と呼ばれる惨事である。 此のラエ輸送船団の潰滅で日本軍は駆逐艦4隻、輸送船団8隻、第51師団の将兵約3千名、火砲41門、車輛41輛、輜重89輛、大発38隻其の他貴重な物資を失った。此の戦闘は米軍側で「ビスマルク海戦」と呼ばれている。 トラック島に停泊していた連合艦隊「武あ」に本拠を置く連合艦隊司令部は此の事態を重大視し、南東方面にある航空兵力を結集して米軍の兵力を撃滅すべく「い」号作戦を計画した。先のソロモン海戦で数多くの航空機と優秀な航空飛行士(パイロット)を失った日本軍の手元に残されたのは、ラバウルを基地とする第21航空戦隊、其れにブイン及びブカを基地とする第26航空戦隊の稼働機160機のみであった。 これに第三艦隊の空母「瑞鶴」「瑞鳳」「隼鷹」「飛鷹」から空母艦載機を陸上に上げ、海軍航空隊の総力を挙げて航空撃滅作戦を行うと云う物である。作戦の総指揮は山本長官が取る事になった。 斯うして4空母からは零戦103機、艦爆54機、艦攻27機の合計184機がラバウルに進出、基地航空機からは零戦108機、艦爆16機、陸攻72機、陸偵9機の合わせて205機が加わった。海軍航空部隊の総力とは言っても389機が決戦兵力の全てであった。 山本長官は「い」号作戦を直接指揮する為、参謀長官宇垣纒中将以下連合艦隊の幕僚達と共に4月3日、トラック泊地から飛行場でラバウルに進出した。ラバウルの南東方面艦隊庁舎は臨時連合艦隊司令部となり、将旗が掲げられた。 「い」号作戦は次の通りである。 ◆ソロモン方面にX攻撃(4月5日~10日)・・・ガ島方面に母艦機と基地航空隊機の合同による攻撃。 ◆東部ニューギニア方面にY攻撃(4月11日~20日)・・ポートモレスビー方面に母艦機と基地航空隊機の合同に依る攻撃。 ◆同Y1攻撃・・・ラビ方面、基地航空隊機が担当 ◆同Y2攻撃・・・ブナ方面、母艦機が担当 こうしてガダルカナル、ポートモレスビー方面への5次に亙るX,Y攻撃を加える事になるのであるが結果は日本軍の航空機兵力の損耗を早めるだけであった。 山本長官は「い」号作戦は大成功であったとし、4月16日作戦終結を下命、北ソロモン諸島のバラレ、ショートランド、ブイン等に居る将兵の労を労い志気を鼓舞する為と称し、前線基地視察を計画した[実際は、攻撃隊はラバウルを離陸して1時間後、コーストワオッチャーに掴まる。そして其の監視に身を晒して2時間飛行して、万全の迎撃態勢で待ち構える敵の中に飛び込む。当然戦果は上がらず我方の受けた打撃は大きい。しかし報じられた戦果は大きい。山本長官はその幻の大戦果に浮かれた(実際は知っていながら嘘を付いていると考えられる!忍)。一例を上げよう。「い」号作戦の中のガダルカナル攻撃をX作戦と云う。そのX作戦の大戦果の内、撃沈の輸送船を見るなら25隻とある。現実に撃沈されたのは給油艦1隻である。大破を入れても、輸送船1・給油艦1に過ぎない。飛行機を見よう。撃墜134(含不確実・39)、地上撃破20がその戦果なるものである。現実に撃墜された米軍機は7機となっている。ポートモレスビー、オロ湾、ミルン湾、ラビ飛行場等に対する攻撃も、何れも実態とは雲と泥程異なった戦果が報じられた。海軍の戦果誤認症はラバウルの第11航空艦隊のみでなく、機動部隊も同様である。一体どうなっているのであろう。ニミッツがガダルカナル戦に当たって張った網は、依然としては良く機能している。日本機の群は懲りもせず次々に網の中に飛び込んで来る。カクタス基地の米軍は、只待っておるだけで良い。「い」号作戦の大勝利?で、海軍のみで無く日本国中が「勝った、勝った」と舞い上がった。陛下から御褒めの御言葉があった。・・・「い」号作戦の結果、ラバウルの基地航空隊は大消耗し、搭載機を激減した機動部隊は戦力回復の為内地に帰ってしまった。しかし連合艦隊は大勝利と思い込んで、敵は当分の間は立ち直れない等と楽観している。「い」号作戦に大勝利?した連合艦隊は山本長官死後(実は生き残っていた!忍)ソロモンに積極作戦を採り続ける。「ニューギニアに作戦の主力を注ぎ『其の要域の確保』を骨子とした消極作戦」は、ここに影を潜めてしまった。そしてソロモンの積極作戦が、海軍航空が自滅するまで続くのである。 戦後社会では嘘の代名詞に「大本営発表」なる辞がある。確かに当時の大本営発表はとてつもない大嘘である。しかし、大嘘吐きは「大本営海軍部」なのである。戦後社会では、陸軍も海軍も共に大嘘吐きと云う事になっているが、これは報道関係の大嘘に国民が騙された結果である。戦前から国民を戦争に駆り立てた元凶は、紛れもなく報道関係である(これは朝日新聞の記者であった尾崎秀美の証言で事実である!忍)。その報道関係が戦争犯罪の糾弾から逃れる為に、最大限に利用した隠れ蓑が、東京裁判史観による「唯一日本悪玉論」とそれを連動する「唯一陸軍悪玉論」である。戦後言論界の陸軍糾弾は、己の身を守るいわば背水の陣なのである。陸軍への悪行転嫁こそ報道関係の唯一の生存手段であった。報道関係が海軍の非を唱える時の言葉は必ず「軍部」とか「大本営」なるものにする。故に国民は陸軍も同罪と思い込む。報道関係の談合の前には、国民とは真に他愛ない者である。同様に暗号が傍受解読された件に就いての表現は、絶対に「海軍の暗号は・・・」とならずに「日本軍の暗号は・・・」となるのである。陸軍暗号が絶対に解読されなかった実態を知る国民も稀であろう。その他諸々概ねそんな調子なのである。報道関係のこの表現方法も又、大東亜戦争惨敗の構図を限りなく訳の分からぬ物にした大きな要因である。国民は、戦時中は大本営海軍部に騙され、戦後は報道関係に騙されて来たのである。報道関係と海軍、此の両者は或る意味では同じ穴の貉(むじな)である。『大東亜戦争「敗因」の検証ー「帝国海軍善玉論」の虚像』佐藤晃著 芙蓉書房出版から!忍]。 6 山本五十六は戦死していなかった ●疑問だらけの死体検案書 こうして昭和18年4月18日、ブーゲンビル島ブインの航空基地視察の為と称して山本長官は午前6時ラバウル東飛行場を一式陸攻で離陸した。宇垣参謀長等を乗せた2番機も粗同時に離陸したが、此れを護衛するのは第204航空隊の零戦僅か6機だけであった。 この日山本長官は何故か正式な連合艦隊司令長官の軍服では無く、生まれて初めて着る草色の略装である第三種軍装を身に纏い、護衛機の数を増やす事にも強く反対したと云う。 山本長官の前線基地視察日程(スケジュール)の情報は事前に暗号電報で前線基地に予報された。連合艦隊司令長官の詳細な行動予定が、視察の5日も前に前線基地に伝えられるのは異例の事だった。 ショートランド第11航空戦隊の城島少将は不用心な暗号に憤慨したと云われるが、御丁寧にも此の暗号電報を受け取った現地指揮官一人は、態々儀礼的に低水準(レベル)暗号の無電で関係先に知らせたとも云う。 米軍は此の暗号を解読して山本長官搭載機撃墜計画を練ったとされるが、寧ろ真相は山本長官自身及至は其の側近が事前に何等かの方法で米軍に詳細な行動予定を知らせていたと云うのが本当だろう。山本長官は全ての役目を終了し、ルーズヴェルト大統領との約束に基づいて姿を消す事にしたのである。 山本長官を乗せた一式陸攻は高度2千5百mでゆっくりと飛行、6機の護衛戦闘機は其の500m上空を飛行していたが、ブーゲンビル島南端のブイン基地上空に差し掛かった所、ガダルカナル島ヘンダーソン基地を飛び立ったミッチェル少佐の指揮するPー38米攻撃機16機が午前7時33分、正確に山本長官機と出合チた。ミッチェル隊はP38の航続距離からして僅か10分間と云う許容時間で攻撃を開始、山本長官を撃墜したのであった。 右エンジンに弾丸を受けた長官機は火災を発し、黒煙を吐きながらジャングルの中に落下していった。2番機はモイラ岬沖の海上に不時着、宇垣参謀長等3名は助かったが、長官機は翌19日午後2時あ陸軍の捜索隊に依って発見された。 山本長官の遺体は機外に投げ出された座席に腰掛け、軍刀を握り締めた儘であったとされているが、其の死には深い謎が付き纒う。 大本営海軍発表の「死体検案書」(死亡診断書)と「死体検案記録」(死亡明細書)に依れば死亡日時は「昭和18年4月18日午前7時40分」である。傷病名は「顔面貫通機銃創及び背部盲貫機銃創」であり、末尾には「右証明ス昭和18年4月20日海軍軍医少佐田淵義三郎」として著名捺印がある。 ところが墜落現場を最初に発見した砂浜陸軍少尉は次の様に証言している。 「長官は宛も遂先(さっき)迄生きていたかの様な風貌で、機外に抛出 された座席上に端然として死亡していた・・・其の顔面には創は無かっ たし、出血の痕も無かった。其の発見は墜落後実に30時間前後も経っ たあである」 同様の証言は陸軍軍医蜷川親博中尉は長官機遭難現場近くの歩兵第23連隊の次級軍医として勤務していた。此の為、中尉は救難捜索行動に参加し、長官死体の検視も行っている。 にも係わらず山本長官の秘あっ子と言われた渡辺中佐参謀は事故の後19日、ラバウルより現地に急行、20日夕刻掃海艇上に運び込まれた長官の遺骸を検視して大本営(海軍)と全く同一内容の証言している。渡辺参謀の証言内容とは「20日夕の時点で顔面貫通機銃創と背部盲貫機銃創は共にあった。4月18日、0740機上での戦死は間違いない」と云う物である。 前出の田淵軍医は「私が検死した時点では顔面に創はあった」「蛆の侵蝕とは考えられぬ」とし、更に重要な証言「死後の作為が加えられたかどうか判らない」と言いながらも其の可能性を強く示唆している。 ●戦死が狂言であった此れだけの証拠 山本長官の「死」は明らかに狂言であろう。其の隠された真相は次の如くであると推測される。 1、山本長官は太平洋戦争前半に於ける帝国海軍崩壊の為の全ての役割を完了した。 2、其の為急遽姿を隠す必要が生じ、側近の宇垣纒中将(連合艦隊参謀長)や渡辺中佐(参謀)と共謀し、予め暗号を米国側に漏洩した上で長官機撃墜の一大ペテン劇を演出した。 3、当日、山本長官は態々草色の第三種軍装を身に纏いジャングルを逃亡の際目立たぬ様略装にした。 4、米軍機攻撃の際、一早くパラシュートで脱出、地上より兼ねて打合わせの場所からガダルカナル島米軍基地へと逃亡した。 5、捜索班が事故機を発見した時、長官の身替わりとされた男(恐らくは風貌の似た人物)を座席に縛り付け毒殺した。 6、従って発見時には顔面の創も背部盲貫機銃創も存在しなかった。 7、其の後、山本長官を「機上死」であると捏造する為、遺体に拳銃か鋭利な刃物で人工的な死後損傷を加えた。 7、山本五十六が生存した証人 1994年6月、私はソロモン諸島ガダルカナルで、深夜土砂降りの雨をついて一人の地元民と出会った。男は山本機が撃墜されたブーゲンビル島ブインの密林の地主の後継者で41歳。ブイン周辺は独立戦争(パプア・ニューギニア政府と、ブーゲンヒル島の分離独立を求めるブーゲンヒル革命軍の戦い)の真っ只中にあった(1994年9月3日に和平交渉が成立した)。男の兄弟三人は最近、革命軍兵士に射殺され、彼は小舟を漕いで対岸のソロモン領ショートランド島に逃げ延びてガダルカナルにいるブイン出身の友人宅に身を隠していた。 「祖父と父から固く口止めされていた。撃墜機の山本は生きていた。祖父が彼を助け出した」 男は私にそう語った。内戦の実相はブーゲンヒル島の地下資源からあがる利益配分を争うもので、その背後には旧植民地支配国の英国、ドイツ、オランダなどの世界資本家群が控えているという。 事実、田淵軍医が検死をしていた最中長官のワイシャツを脱がせようとしたが、渡辺連合艦隊参謀から突然大声一喝され、「脱がすな、此れ以上触れてはならぬ!」と怒鳴られ制止されているのである。人工的な死後損傷であったとする証言も数多く存在するが、此れ等の全ては黙殺され、渡辺中佐の命令下、虚偽の「死体検案書」と「死体検案記録」は作成され、「機上壮烈なる戦死」と云う大本営(海軍!忍)発表となるのである。 ●「運良く」助かった宇垣纒中将とは何者か 此処で「運良く」助かった宇垣纒中将とは何者かを知らなければならない。 宇垣は明治23年2月、岡山県赤磐郡潟瀬村と云う地に生まれた。岡山一中を経て明治45年7月、海軍兵学校40期を卒業、大正7年、海軍大尉。11年12月~13年11月、海軍大学校甲種学生、13年12月、少佐、14年12月、軍令部一班二課、昭和4年1月、独国駐在、6年12月第二艦隊参謀。7年11月、海軍大学校教官兼陸軍大学校教官。10年10月、連合艦隊参謀兼第一艦隊参謀。11年12月海防艦八雲艦長。12年12月、戦艦日向艦長。13年11月、少将。13年12月、軍令部第一部長、16年8月連合艦隊参謀。 以上がインド洋作戦辺り迄の略歴である。宇垣の態度がデッカク、傲岸不遜、唯我独尊であった事はつとに有名であり、独国駐在の折りにはヒットラーのナチス・独国共直接接する機会を得、日独伊3国同盟時は軍令部第一部長と云う要職にあった。 3国同盟締結の折は賛成派に回った為山本長官に疎んじられている共言われたが、どう云う訳か昭和16年8月、連合艦隊参謀長に任命され、山本五十六大将を直接補佐する事になる。以後、連合艦隊の旗艦「大和」上の司令部内で山本長官の影武者に徹して常に其の意向を尊重し、補佐して来た。 彼れ程傲岸不遜な宇垣が何故山本長官に寄り添い続けたのか。其の訳は宇垣がユダヤ・フリーメーソンに入信した事であろう。 山本・宇垣の組合せ(コンビ)は真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル、ソロモンと呼吸を合わせ、日本海軍の崩壊に尽力した。 ブーゲンビル上空で山本長官逃亡の手筈を整えたのも宇垣である。宇垣もしっかりと生き延びており、昭和17年11月には中将に進級、昭和20年8月15日の終戦詔勅渙発を知るや沖縄の沖合に蝟集する米艦隊目がけて突入すると称して部下の操縦する飛行機に搭乗、其の儘行方を絶った。日本の敗戦を見届けて姿を消したと云うべきか。 戦後山本長官の姿を何処やら見かけたと証言する人も居り、太平洋戦争を敗北に導いた功労者の多くは「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソン陣営に依って手厚く保護されたのである。 ●ルーズヴェルトの命令を忠実に守ったから 此処で山本長官の果たした役割に就いてもう一度纒めて見よう。 真珠湾攻撃の計画は元々「世界支配層」及び米国其れに山本長官の深慮遠謀から生まれた計画である。 日本人フリーメーソン山本五十六は連合艦隊司令長官にあるずっと以前、恐らくは海軍次官のあから米国側と連絡を取り、若し日米が開戦になった時は先ず真珠湾を奇襲し、米国の対独戦を合理化させると同時に日本への米国国民の参戦気分を一気に高揚させると云う計画を練り上げたに違いない。 米国側で此の計画を推進したのは勿論フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領であった。そして此の計画にはヘンリー・スチムソン陸軍長官、フランク・ノックス海軍長官、ジョージ・マーシャル陸軍参謀長、ハロルド・スターク海軍作戦部長、そしてコーデル・ハル国務長官が加わっていた。 日本側で此の計画を知っていたのは山本五十六以外にはほんの一握りの人間であろう。其れは元首相や海軍大臣、そして外務省の高官達等最高度の機密を保てる者に限られていた。 山本長官は此の計画を実現させる為に色々な手を打った。開戦の年昭和16(1941)年夏の時点では真珠湾攻撃で使用する予定の軽魚雷は未だ開発中であったし、9月初旬に於ても攻撃用の直接部隊は不足していた。山本長官は画策の末、こうした戦術面での問題を11月の末には全て解決した。 ところが肝心の永野修身軍令部総長等海軍首脳部はこぞって反対であった。海軍上層部には尚未だ日米開戦への躊躇と真珠湾攻撃が実際に何れだけ効果を上げられるか疑問を持っていたのである日本が米国を仮装敵国としたのは明治40(1907)年4月に「帝国国防方針」が制定されてからであるが、日本の陸海軍が立案した正式な計画の中にはハワイ攻略は含まれていない。攻略の対象はせいぜいグアム島止まりだったのである。 昭和15(1940)年ルーズヴェルト大統領は米海軍首脳の反対を押し切って、其れ迄西海岸カリフォルニア州のサンディアゴ軍港にあった太平洋艦隊を年次演習の目的でハワイの真珠湾に進出させた。第二次大戦が勃発し、山本五十六が連合艦隊司令長官として対米戦を計画している最中であった。ルーズヴェルトは山本長官と共謀して、日本側に格好の攻撃目標を提供したのである。 ●日本を敗戦に導く山本の謀略とは 山本五十六連合艦隊司令長官が3年8ヶ月に及ぶ太平洋戦争の中で実際に艦隊を指揮したのは真珠湾攻撃の始まった昭和16年12月8日からブーゲンビ島上空で「戦死」する昭和18年4月18日迄の1年4ヶ月である。 此の間に山本長官は偉大為る貢献を「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソン陣営に行った。其の貢献とは何であったかである。山本長官は太平洋戦争が日本の敗北で終わる事を望んでいた。日本を敗北させる事がフリーメーソンである山本五十六の役目だったのである。 其の為には日本が圧倒的優位を誇る連合艦隊を速やかに壊滅させる必要があった。そしてもう一つは米国の太平洋艦隊に対し常に手心を加え、其の戦力を温存させる事であった。此の為山本長官が取った手段は次の通りであった。 ◆真珠湾攻撃を海軍軍令部の強い反対を押し切って強行。但し其の攻撃は不徹底なものとする。 忠実為る配下の指揮官・・南雲忠一中将(第一航空艦隊司令長官) 草鹿龍之助少将(第一航空艦隊参謀長) 源田実中佐(第一航空艦隊参謀) ◆珊瑚海海戦で米海軍に手心を加え驕B米空母「ヨークタウン」撃沈せず 忠実為る配下の指揮官・・井上成美中将(第4艦隊司令長官) 原忠一少将(第4艦隊空母指揮官) ◆ミッドウェー海戦で連合艦隊大敗北を画策 忠実為る配下の指揮官・・南雲忠一中将(機動部隊司令長官) 草鹿龍之助少将(機動部隊参謀長) ◆ソロモン海戦でガダルカナル大敗北の原因を作る 忠実為る配下の指揮官・・三川軍一中将(第八艦隊司令長官) 南雲忠一中将(機動部隊司令長官) 草鹿龍之助少将(機動部隊参謀長) 原忠一少将(軽空母「龍驤」指揮官) ◆「い」号作戦で日本の南東方面航空兵力を潰滅させた。 何れの海戦に於いても忠実為る配下の凡将、愚将、怯将である。南雲中将、草鹿少将、源田参謀、井上中将、原中将、三川中将等を長期に亙って使い続け、「攻撃の不徹底」及至は「手心」を加えさせている。 更に大事な要点は海軍が使用していた暗号電報を米国側に筒抜けにさせている事であろう。山本長官は米国が日本海軍の暗号電報を既に解読し、連合艦隊のあらゆる作戦行動を見抜いていた事も予め承知の上で、作戦を強行した節がある。真珠湾攻撃の時もそうであるし、モレスピー攻略作戦(MO作戦)に於ける珊瑚礁海戦は不充分な戦果に終わった。ミッドウェー海戦(MI作戦)の時も、米国側に充分な情報と対応の為の準備期間^えていたと考えられる[「情報収集と判断能力は相まちて、完璧に近付くものとする」と言う。情報収集能力の欠陥と判断能力の欠如は、競い合って海軍情報力に致命的悲劇を齎らした。大東亜戦争3年8ヶ月、海軍は敵の情報は取れず、我情報は取られっ放しで彼の戦争を戦った。戦後判明した所に依ると、戦争中の、米軍の日本暗号の解読状況は次の通りである。戦後判明した所に依ると、戦争中の、米軍の日本暗号の解読状況は次の通りである。 (外務省)誤字のないものは殆ど全部、全体の約95%が解読された。 (海軍)約70%が傍受され、其の70%が解読された。 (陸軍)戦争前半0%、19年・0.08%、19年末以降0.6%」(含終戦後暗号書をとらえて解読されたもの)が解読された(『昭和軍事秘話中』)!忍」 長期間に及んだソロモン海戦の時も日本の艦隊や輸送船、飛行隊の動きは全て米国に依っては把握されていた。結局日本海軍は山本五十六の意図に依って其の初期戦力を激滅させていたのである。 此の偉大為る「功績」により山本長官の役目は一通り終わった。そして姿を消す時期が遣って来たのである。ブーゲンビル島上空に於ける「戦死」がそれである。米国が暗号解読をしている事を承知の山本五十六は前線視察と称して連合艦隊司令部から一式陸攻に搭乗してブーゲンビル島のブイン飛行場に向かったのである。昭和18年4月18日の事である。 山本五十六連合艦隊司令長官はこうして戦線から姿を消すのであるが、山本長官と共に1年4ヶ月の海戦を戦った将官達は、其の極度な無能ぶりにも関わらず戦後様々な戦記作家に依って何れも名将、名参謀として称えられている。 戦後の日本が米国に占領され、民族心を盡く失う迄に洗脳された結果、「世界支配層」に迎合するフリーメーソン作家が此の様な日本民族に対する背信行為をするのも、いわば当然であろう。 日本が開戦した時の米国との国力は1対10の比率であったと云われる。 此の為に日本が戦争したのは無謀であったとか、軈ては負ける運命であった等と云う意見がある事も事実だ。だが、日本があらゆる海戦で勝利(するべき事をする!忍)を納めていれば(其れは可能であった)米国の戦意が喪失し、休戦、和平交渉の道も可能だったのである。 ●「Z作戦計画書」を米軍に渡す作戦(日本帝国海軍乙事件!忍) 米軍はミッドウェー海戦の勝利以降、ガダルカナル、ソロモン、ラバウルを制圧し、アドミラルティからニューギニア北岸を西進、更にパラオからマーシャル諸島のブラウンに到達した。当時パラオにあった連合艦隊司令部は米軍の急迫を避ける為フィリピンのミンダナオ島ダバオへ移転する計画を立てた。 昭和19年3月30日、米輸送船団がアドミラルティの北西を西航中であると云う重大なる情報が大本営より齎された。此の大本営通報が後になって誤報である事が判明したが、何故か確認もされない儘翌31日、連合艦隊司令長官に任命された古賀峰一大将は計画に基づいて31日、司令部の移転を開始した。3月31日当日、パラオとダバオ間約千Kmの洋上には大きな低気圧が発生していたが、移転は次の3機によって実行された。 ◆一番機(851空、機長・・難波正忠大尉)乗員・・古賀峰一大将(連合艦隊司令長官)、上野あ太大佐(艦隊機関長)、柳澤あ之助大佐(首席参謀)、内藤雄中佐(航空参謀)、大槻俊一中佐(航海参謀)、山口肇中佐(航海参謀)、柿原少佐(軍医)。 ◆2番機(802空、機長・・岡村松太郎中尉)乗員福留繁中将(参謀長)、大久保信大佐(艦隊軍医長)、宮本正光大佐(艦隊主計長)、山本祐二中佐(作戦参謀)、奥本善行大佐(機関参謀)、小池伊逸中佐(水雷参謀)、島村信政中佐(航空参謀・気象)、小牧一郎少佐(航空参謀)、其の他2名 ◆3番機(851空、機長・・安藤敏包中尉)乗員・・司令部暗号士及び暗号員 1番機は22時30分に出発、2番機はやや遅れてパラオを飛び発った。3番機は翌4月1日未明4時56分に出発した。ところが、先に出発した筈の1、2番機は到着予定時刻の4月1日午前3時を過ぎても消息は不明であり、3番機のみが午前7時40分無事にダバオに到着した。 1番機には古賀連合艦隊司令長官が座乗しA2番機には艦隊司令部用信号書及び暗号書、其れに「Z作戦計画書」が積まれていた。 「Z作戦計画」とは「あ」号作戦(マリアナ沖海戦)や「捷1号作戦」(レイテ海戦)の原案となるものであり、此の機密文書と暗号書は福留中将の手提げ鞄の中に収められていた。2番機は2時50分あセブ島ナガ沖に不時着、福留中将は此の鞄を抱いた儘泳いでいたが、数隻のカヌーが接近して来た為鞄を放棄した。ところが漁夫び一人がゆっくり沈んで行く手提げ鞄を拾い上げ収容した。 此の「Z作戦計画書」は防水ケース毎ゲリラの手に依ってセブ島南部へ送られ、米潜水艦に依ってオーストリアへ移送され、全頁が複写された。そして最終的に其れがハワイ真珠湾の米太平洋艦隊司令部に渡り、マッカーサー及びニミッツの許可の下編集、複写され、海上に出撃している全ての米艦隊司令官等に配布された。 「Z作戦計画書」は元の防水ケースに収められ、潜水艦に依って再びフィリピンの海に流した。計画書が米軍に依って奪われた事を悟られない為の周到な準備であった。 1番機の消息に就いては其の後何の情報も得られず、4月22日捜索は打ち切られた。 此の事件は「海軍Z事件」として秘匿され、何の追求もされない儘不問に付された。事件後の変更、作戦の見直しを訴えた情報参謀の意見も却下され、暗号は其の儘使い続けられ、マリアナ沖海戦もレイテ沖海戦も予定通り遂行されて大敗を喫するのである。 此の事件は海軍首脳部に依って最初から仕組まれていたものであろう。先ず3月30日、米輸送船団が西航海中と云う偽情報が大本営海軍部より意図的に流される。そして司令部移転の日は態々低気圧の発生した31日に指定され、「Z作戦計画書」も遭難不時着を予め想定して防水ケースに入れられた。 古賀長官を乗せた1番機は其の儘逃走、2番機は予定通りセブ島沖に不時着して暗号書及び作戦計画書がゲリラの手に渡る様仕組んだと見ていい。 セブ島のゲリラ討伐中の大西大隊長は4月10日、ゲリラ長のクーシン米軍中佐から福留中将以下10名の将兵引き渡しと交換条件に討伐を中止して欲しいとの手紙を受け取った。福留中将等は12日、セブ派遣隊に引き取られ、13日、セブ水行者に到着した。此の時、福留中将は出迎えの山本繁一第三南遣艦隊参謀に対し、「機密書は漁民の手に渡ったが、彼等には関心が無かった様だ」と語り、平静であったと言われる。 福留中将は18日、飛行機で羽田に帰着し、海軍大臣の官邸で口頭報告を行ったが、福留中将には何の咎めも無かった。結局、作戦構想も暗号も全く変更されなかったのである(此の時期は戦争最中であったから、当然作戦見直す必要があったなかろうか。漁夫が、敵の手に情報を渡さない保証は全く無く、最悪の状態を常に考える必要があったではないか!忍)。其の後福留中将は軍令部出仕となり、6月15日、第二航空艦隊司令官に補され、後にフィリピンで神風特別攻撃隊を指揮する事になる。 古賀長官と福留中将の関係は山本長官と宇垣中将の関係と酷似している。日本海軍売国集団のお得意パターンである ●山本は焦土と化す日本を高見の見物 志賀長官殉死後、南西方面艦隊司令長官高須四郎中将(当時インドネシアのスラバヤに本拠を置く)軍令承行令に依って連合艦隊の臨時指揮官となったが、中部太平洋方面の事情に疎い高須長官は拙劣な指揮で連合艦隊を混乱に陥れた。 5月3日、豊田副武大将が古賀長官の後任として正式に連合艦隊司令長官に就任した。だが、其の参謀長はどういう訳かあの草鹿龍之助少将であった。豊田長官就任と同時に大本営は「あ」号作戦の実施を命じた。此れは米機動部隊をマリアナ諸島のグアム、テニアン、サイパン島付近に誘き寄せて連合艦隊の総力を以て此れを撃滅しようと云う物だった。大本営では昭和18年9月末に決定した「絶対国防圏」上の要衝サイパンを死守する決意であったが、実際には未だ其れ程の切迫感は抱いていなかった。 米軍の攻勢は「飛び石作戦」に依ってニューギニアからフィリピンへと迫り、軈てマッカーサーは台湾、沖縄、九州南部に照準を当てていた。 とアろがニミッツ提督は其の矛先をトラックからマリアナ諸島に向けて来た。サイパンを失えば日本本土が直接攻撃に晒される。其の為「あ」号作戦に連合艦隊が集中した戦力は太平洋戦争中最大と言えるものであった。 其の編成は最新鋭の正規空母「大鳳」を中心ノ空母9隻、「大和」「武あ」等戦艦5隻、重巡10隻、軽巡3隻、駆逐艦29隻、空母搭載機は450機、艦載水上機43機に及び、其の他基地航空部隊、第一航空艦隊の約600機が参加した。 しかし、此れだけの大戦力を投入しながら、マリアナ諸島に於ける激戦は日本軍の大敗で終わった。サイパン守備隊は玉砕、マリアナ沖海戦でも連合艦隊は大被害を被り、日本の攻撃機は「マリアナの七面鳥射ち」に遭い潰滅した。 グアム、テニアンは其の後圧倒的な米軍の集中攻撃を受けて玉砕、陥落した。此のマリアナ諸島の獲得により、米軍は更に硫黄島へと進攻し、同島の飛行場から連日飛び立つB29爆撃機により日本本土は軈て焦土と化す事になる。 日本に2個の原爆を落したB29爆撃機「エノラ・ゲイ」(天皇陛下抹殺!忍)はテニアンの米軍航空基地を発進したものであった。 ヤコブ・モルガン著 忍野昭太郎訳『山本五十六は生きていた』第一企画出版から(途中で自分の調べの註釈がある) ●アメリカ海軍の日本海軍に対する評価 米国海軍長官ノックスが言った。 「日本軍とは近代戦を全く理解していないか、近代戦を戦う資格のない軍隊である」 。太平洋艦隊司令長官ニミッツが言った 。「日本は先っぽでは米国に勝ったが、戦略では無為にして負けた」、「古今の戦史に於て、主要な武器が、其の真の潜在能力を少しも把握されずに使用されたと云う稀有の例を求めるとすれば、其れは正に第二次大戦に於ける日本潜水艦の場合である」。南太平洋方面海軍司令官ハルゼーは言った。「心配するな。日本人は、勝ったと思ったら引揚げて行く。追撃して来はせぬ」。勿論、此等の全て帝国海軍に対する批評である。 そして、敗戦後日本海軍が設けた組織に「史実調査部」なるものがある。連合国が終戦直後始めた作戦の質問に対する、調査及び回答をする為設置した部である。会員は富岡定俊(軍令部作戦部長)を部長とし、以下軍令部・聯合艦隊の参謀からなる10余人である。此の史実調査部の会員に、此の仕事を通じて知り合った米国海軍士官のみならず、GHQの軍人でもが、一様に聞く質問があった。即ち次の質問である。 「日本海軍は何故同じ手を繰返して、其の都度叩き呑めされたのか」 。そしてこうも言われた。「日本海軍は、飛行機を向こう水に消費した。あれではどれ程あっても、足りない筈だ」 次へ 前へ フォローアップ:
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優柔不断な南雲司令官 トラトラさんへ 投稿者 hou 日時 2002 年 10
月 19 日 08:15:35:
(回答先: ◎日本軍の中枢が米国派(ユダヤ・フリーメーソン)だった太平洋戦争◎ 投稿者 トラトラトラ 日時 2002 年 10 月 18 日 06:11:42) はじめまして ハワイひとつとっても研究が甘すぎると思います。 >>ところで「攻撃の不徹底」であるが其れには二つの意味がある。 一つは真珠湾上の米国海軍艦船に対するものであり、もう一つはハワイ太平洋艦隊海軍基地の陸上軍事施設に対するものである。 真珠湾攻撃で受けた米国太平洋艦隊の実際の被害状況は当初発表された膨大きなものはではなかった。戦艦八隻の内アリゾナとオクラホマを除き残りの6隻は其の後全て水深15mと云う浅い海底から引き上げられ修理、復旧した後何れも戦線へ復帰して大活躍しているのである。 又陸上施設に就いては南雲第一航空艦隊司令長官による第一次、第二次攻撃隊は全く手を触れておらず、第三次攻撃隊を出す事も中止している。第三次攻撃に関しては殆どの艦隊幕僚が実行の提案をし、現に第二航空艦隊司令長官の山口多聞少将は第三波攻撃準備を完了していたが、南雲中将や草鹿第一航空艦隊参謀長や源田参謀は愚か、遥か後方の戦艦「長門」で高見の見物をしていた山本五十六連合艦隊司令長官迄が其の必要性を認めていないのである。 若し、此の時第三次攻撃を敢行し、艦隊に対するもっと徹底した攻撃と、陸上のハワイ空軍基地の格納庫、補給庫、給油施設、武器弾薬貯あ庫、更には米国海軍基地の補給、修理施設、工場郡、燃料タンク郡を破壊しておれば太平洋の戦局は大いに変ったものとなったであろう。 ハワイが米国の太平洋艦隊の最も重要な海軍基地であった事を考えるならば、此の攻撃不徹底はいかにも奇異な物であると言わなければならない。ハワイの燃料タンクに貯あされていた重油450万バレルを爆撃しておれば米国本土からの補給は数カ月間に亙って不可能となり、米国の太平洋艦隊は身動きが取れなかったのである。 更にもう一つ付け加えるばらば、ハワイ攻撃の日が何故12月8日であったかと云う事だ。勿論日米交渉の行き詰まり、最後通牒の日程上此の日になったと云うのは一つの説明であるが、山本長官が此の日は真珠湾に米国空母がいない事を予め知っていたからであろう。 山本五十六はハワイを徹底攻撃する気は最初から無かった。日本が米国を奇襲攻撃し、「卑怯な日本」と云う既成事実を作れば其れで良かったのである。 真珠湾攻撃にしぶしぶ、出て行った南雲司令官と草鹿参謀長 戦争の原則を忘れた。 ○緒戦に大勝すれば、敵を反復攻撃すべき。 ○緒戦に中勝すれば、目的達成した後直ちに帰投すべし。 ○緒戦に小勝すれば、目的達成せずとも直ちに帰投すべし。 0922 機動部隊は全攻撃機の収容を終わった。南雲長官は直ちに次回 攻撃準備を命じ、各兵力の報告を求めた。この報告により、 南雲司令長官は攻撃の成果は十二分に達成したと判断し、再 攻撃を下令せず北上を続けた。 この第二撃を下令しないのに対し、「赤城」では、搭乗員の間に”この 好機に乗じ再度攻撃すべし”の意見があったが、司令部に意見具申 した者はなかった。 山口2航戦司令官は「南雲長官の今までの言動から」再攻撃の意思 ないものと見て「第2撃攻撃準備完了」と信号してそれとなく催促した。 また搭乗員や航空参謀から再攻撃の意見が出されたが、「南雲さんは やらないよ。」と洩らして意見具申を行わなかった。 赤城では機動部隊次席指揮官三川第3戦隊司令官は更に攻撃を加える べきであると具申している。 南雲、草鹿コンビが再攻撃をしなかった理由は以下の通り。 (大東亜戦争戦訓調査会の報告) ・第一次攻撃により、所定の目的をほぼ達した。 ・再度の攻撃でも、大きな成果は期待できない。 ・第2回攻撃は純然たる強襲となり、戦果の割に成果が期待できない。 ・敵大型機が少なくとも50機程度が残存するのは確実である。 (攻撃機搭乗員の報告と矛盾する) ・敵空母、大順、潜水艦の所在は不明である。 ・我が方は250浬以上の索敵が出来ない。敵索敵圏内に長くいるのは 不利である。 ◇草鹿航空艦隊参謀長の回想・・・ 「そもそも真珠湾攻撃の目的は、敵の太平洋艦隊に大打撃を与え、 その侵攻企画をとん挫させることにあった。この目的は達成した。 敵はまだ一,二にとどまらない。いつまでも獲物に執着すべきでは なく、躊躇なく南雲長官に引き上げを進言した。」 ◇淵田赤城飛行隊長の回想・・・ 「事実上南方作戦の本格的渡洋来攻を封止しようとする所定の 作戦目的を達した。」 ◇「トラトラトラ」電を聞いた連合艦隊司令部の状況は。 連合艦隊司令部では、この際敵艦隊(空母を含む)を撃滅すべきである との意見の一致を見たが、南雲長官の今までの言動から彼がその様な 決心をするか否かに付き不安があった。 はたして機動部隊からは第2撃の報がない。ここで幕僚からは南雲長官 に対し、再攻撃を命令すべしとの議が起こった。(この再攻撃は第2撃 ではなく、敵空母と湾設備撃滅を目的とする夜間もしくは明朝の攻撃) 何しろ肝心の敵空母が攻撃できていない。港湾設備も無傷に近い。 ここは真珠湾の工廠破壊の為の再攻撃、又は敵空母を探し求めて 南下すべきとの意見の一致を見た。 山本長官は「おい、南雲に電報を打って、補足殲滅をやらせろ」 といったときに、 黒田参謀が「子供の使いでもあるまいし、そんな分かりきったことを催促する必要も無いでしょう」と答えた。 結局山本長官の判断により南雲長官の判断を尊重する事にした。 例外として佐々木参謀は敵空母の所在が不明である事、成果の見込み に不安があることなどから再攻撃に反対した。しかし同参謀は戦後の 回想で、後に山本長官の真意を知り、反対すべきではなかったと述べて いる。 ◇大本営海軍部は・・・ 「大本営にあっては、機動部隊が右のような大戦果を挙げて無傷で離脱 に成功した事を大いに喜んだ。そして安堵した。 また戦況の変化により指揮官の独断専行により戦果の拡大を図るべき だとの議論もあるが、当時敵空母の姿が見えかったし、一撃で予想外の 戦果をあげ得たのであるから、未練なく切り上げたのは指揮官の英断で ある。 指揮官の判断で、も一度だけ攻撃を繰り返していたら満点であったと 言える。それかと言って三回以上に及ぶのは、あの状況において行き 過ぎである。」 南雲長官の引き上げ決定を「英断」としながらも、かなり遠回しであるが、 再攻撃をすべきであったとの意見も見えるような文章である。もともと南雲 長官が早期引き上げを命じたのは軍令部からの艦船の損害を最小限に とどめる様にとの命令に大きく影響された事への配慮と見える。 この、南雲の情報能力収集能力の弱さや判断の鈍さ、運のなさも次のミッドウェーの戦いに反映される。 問題は、なぜ斯様な男が司令長官に居座り続けたのか? つまり、なぜ、大日本帝国海軍は、このような男を司令長官に任命しなくてはならなかったのか?この男に、投資する必要があったのか? この鍵とくほうが、合理的な回答が得られる。 自分もそこまで知らない。 どなたか、この方面で研究された方がいれば、ご助言お願い申し上げます。 次へ 前へ フォローアップ:
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(私論.私見)