「大室寅之祐→明治天皇考」 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
れんだいこは、数々の裏歴史を考察してきた。既に数々のタブーに挑戦し、通説のウソを暴いてきたつもりである。この先どこまで辿り着くのか分からないが、こたびは「幕末維新の裏歴史」に波止場した。「幕末維新の裏歴史」とは、「明治天皇すり替えによる王朝交代秘史」のことを云う。 竹下義朗氏や大田龍・氏サイト上で早くよりが指摘していたが、れんだいこには何のことか良くは分からなかった。今漸く云われていたことが理解でき始めた。この話がどこまで本当なのか確証はない。ただ有り得る話だと思う。十分には解明できないが、ここで検証しておくことにする。 2004.11.14日 れんだいこ拝 |
(はじめに) | |
「明治天皇すり替えによる王朝交代秘史」は、鹿島昇・氏が著「裏切られた三人の天皇 ──
明治維新の謎」(新国民社刊、1999.2.26日初版)で論証している。れんだいこは、「鹿島説王朝交代論」として別サイトでこれを検証する。 これに加え、「太田龍の時事寸評」の2005.10.21日付け仮題「1469、大室寅之祐論」、2005.10.30日付け仮題「1477、柳原愛子の「地家作蔵」の位牌持ち去り説」、2005.11.13日付け仮題「鹿島曻氏の不滅の業績考」が興味深い考察をしている。 なお、竹下義朗氏も早くより「帝国電網省の歴史再考」の中でこの問題にコメントしている。竹下氏は、「№20.「明治天皇」は暗殺されていた!!」、「№20-11.大室寅之祐(明治天皇)の出自と近代皇室について 」、「№20-2.なぜ昭憲皇后ではなく、昭憲皇太后なのか? 」、「№20-3.「明治天皇」は暗殺されていた!! (追補・訂正)」、「№20-4.続・大室寅之祐(明治天皇)の出自と近代皇室について」で更に言及している。 2005.11.10日、地家寅吉大室寅之祐東京明治天皇の弟地家朝平の玄孫・地家ヤスマサ氏より、関連情報がメールされてきた(「地家ヤスマサ氏のメール文全文」)。これらを検証し、裏歴史的に流布されている諸説の概要を整理し、れんだいこ風にアレンジしながらその概要を記しておくことにする。 どなたの作か不明であるが、次の詩歌がこの問題の本質をうまく読んでいる。
2005.11.12日 れんだいこ拝 |
【「大室寅之祐→明治天皇考」をどう受け取るべきか】 |
以下、驚くべき「大室寅之祐すり替え明治天皇論」を考察する。見えてくるのは、明治天皇に纏わる皇統譜の不正である。我々は、この問題をどう受け止めるべきであろうか。これにより天皇制の根拠を突き崩すべきだろうか。以前のれんだいこであれば、そう理解したかも知れない。今のれんだいこは、ネオシオニズムの世界席巻を見て取っている。この観点に照らせば、天皇制はネオシオニズムの世界席巻対抗策として日本民族を束ねる貴重にして賢明なアイデンティティ保持制度のように映る。 従って、れんだいこの「大室寅之祐すり替え明治天皇論」は、万世一系の虚構を突き崩すことで天皇制廃絶の根拠にするのではない。むしろ、我が民族は何故にそれほどまでして天皇制を維持しようとしたのかにこそ関心が向く。北朝南朝のどちらの系譜が正系か論は他の方に任せ、北朝であれ南朝であれ、なぜそうまでして天皇制維持に拘ってきたのか、その歴史的根拠の是非を問いたい。 もう一つ、当時の伊藤博文ー岩倉具視派が策動した「すりかえ天皇問題」の背景を探るために為そうと思う。その理由を明らかにすることこそ「大室寅之祐すり替え明治天皇論」の本旨となるべきではなかろうか。伊藤博文ー岩倉具視派は、日本近代史上最初のネオシオニズム被れであった可能性が強く、この観点から検証してみたい。 なぜ、れんだいこは、わざわざこう書き記すのか。それは今やネオシオニズム被れのエージェントが我が「政官財学報司警軍」の八者機関を制圧し、いよいよ天皇制を足蹴りにし始めているからである。れんだいこは、かような「無慈悲なる上からの天皇制解体」を許さない。天皇制問題は、我が民族が自力で相当期間を要して解決させるべき問題だと心得る。 少なくとも、現行憲法的象徴天皇制は案外理に叶っているのではないかと見立てている。願うらくは、もう少し天皇の国事行為を減らし、文化的象徴としての立場を明確にさせていきたい。この点を割り引けば、現行天皇制の在り方に異存はない。特に、昭和天皇の戦前のみならず戦後に於いても要所での政治的発言が多過ぎたところ、現平成天皇は弁えを保持し、戦後憲法の理念に叶う天皇の在り方を願っているように見える。れんだいこは、この流れを尊重していきたいと思っている。 しかるに、小泉エージェント政権は、平成天皇のそういう在り方を愚弄し続けている。指摘されていないが、小ネズミの平成天皇足蹴り振りは目に余る。この動きはこれからもっと見えてくるであろう。 2005.11.12日 れんだいこ拝 |
【「大室寅之祐→明治天皇考概論」】 | ||||
「明治天皇の出自疑惑」については概要次のように整理できるようである。
以上のような指摘が更に深化させられ、最新では次のような見解が登場しつつある。竹下氏同様に太田龍・氏は、新著「長州の天皇征伐」(成甲書房、2005.10.20日初版)で、「明治天皇すりかえ説」には同調しつつも、「大室寅之祐が南朝の末裔という証明はない」と疑問を述べている。太田氏は更に新説を紹介し、次のように述べている。
これらに付随して、次のような奇説も発表されている。れんだいこは、あまりなこと故に判断を留保するが安易には退けがたい。
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【「大室寅之祐→明治天皇すり代わり考詳論」】 | |||||||||||||||
以下、地家寅吉→大室寅吉→(寅助)→寅之祐→明治天皇」に至る過程を追跡検証してみたい。 1、地家寅吉が大室寅吉になるまでの経緯
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【大室家とは】 | ||
大室家(後大室家)は、頼山陽によって家系図が整備されている。これによると南朝系の皇室系譜になる。天皇家は南北朝動乱の後、代々北朝の流れが継いでいた。南朝は99代の後亀山天皇で絶え、歴史上では滅亡したことになっている。しかし実は、南朝である後醍醐天皇の子孫が正系と傍系に分かれて生き延びていると云う。 正系は、後村上天皇―長慶天皇―後亀山天皇―良泰(ながやす)親王の系譜である。良泰(ながやす)親王は、南朝の崩壊とともに関東に落ちのび、江戸時代まで水戸藩の庇護を受けた。これが熊沢天皇家として登場してくることになる。傍系は、尊良(たかなが)親王(東山天皇)一守良(もりなが)親王(興国天皇)一興良(おきなが)親王(小松天皇)―正良(まさよし)親王(松良天皇)の系譜である。傍系の正良(まさよし)天皇には、兄の美良(よしなが)親王、弟の光良(みつなが)親王という二人の皇子がいて、美良(よしなが)親王は、三浦佐久姫を妻として三浦藤太夫と名を変え、現在の愛知県豊川市に移り住んだ。これが三浦天皇家として登場してくることになる。 頼山陽史観によると、1399年の応永の乱後、1400年、南朝系の皇子光良親王(後醍醐天皇の皇子尊良親王から5代正良親王の皇子)が大内弘茂に連れられて吉野から長門国の麻郷に下向(亡命)してきていると云う。この時の周坊の状況が次のように記述されている。
江戸300年間、長州藩は、この皇統を秘匿しつつ養い続けた。かくして、幕末に俄かに登場してきた大室家は、1794年から始まり、出自は南朝後醍醐天皇の玄孫・光良親王の末裔で、光良親王が1400年に吉麻郷に亡命してからの株別れの家系で、この時点で23代500年以上続いている朝家ということになる。つまり、南朝の皇統を継ぐべきものとしては、大室天皇家、三浦天皇家、熊沢天皇家の三つがあるということになる。 但し、大室家の皇統譜について、大室近祐氏が、地家の西円寺の過去帳を調べて次のように疑問を発している。
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2、大室寅吉が「玉」になるまでの経緯
3、「大室寅吉玉」の伏せこみ期
4、孝明天皇急逝、睦仁親王が践祚し、明治天皇として即位、明治天皇急逝に至るまでの経緯
5、大室寅助(寅吉)が睦仁親王(京都明治天皇)にすりかわるまでの経緯
6、大室明治天皇が江戸城を新皇居として入城するまでの経緯
7、その後の明治天皇
8、「明治天皇すりかえ」余波
9、大室家子孫の驚くべき証言
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地家作蔵に引き取られた三男の地家朝平の子孫について考証しておく。山口県田布施町に現存して居り、地家朝平-勘助と続く。その四男の武雄、その長男の基宏、その長男の康雄へと至り、康雄氏は現在「明治維新とは後南朝麻郷革命」説を積極的に唱え、明治天皇すり替え説を主張していることで知られている。以上簡単ながら触れておき、後日更に検証することにする。 2007.1.31日 れんだいこ拝 |
【京都明治天皇と東京明治天皇の比較表】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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【「昭憲皇太后」考】 | ||||
「明治天皇すりかえ説」は、明治天皇の正妻であった一条美子(はるこ)が「昭憲皇太后」と云われていたことでも補強されている。 「皇統譜」(皇室系図)がこれを証している。次のように記している。この辺りの事情について、明治神宮公式サイト内の「なぜ昭憲皇后ではなく、昭憲皇太后なのですか?」(URL:http://www.meijijingu.or.jp/intro/qa/31.htm)を参照の事、とある。これをれんだいこ風に咀嚼して整理し直すと次のようになる。 明治天皇の正后は、一条美子(はるこ)である。その履歴は次の通りである。
しかし、明治天皇の正后を「昭憲皇太后」とするのはスジが通らない。「皇太后」は、「天皇の母」や「先帝の后妃」に付けられる尊称である。天皇の后妃であれば、「皇后」と付けられるべきである。明治天皇の「皇太后」に当るのは、先帝皇后即ち孝明天皇の皇后である英照皇太后である。美子皇后を「(昭憲)皇太后」と称す事はオカシイ。
どう考えてみても「明治天皇・昭憲皇后」とすべきなのに、何故「明治天皇・昭憲皇太后」とされたのか。その理由はナヘンにあるか。なぜ、明治天皇と昭憲皇太后の間に子供が出来なかったのか? 昭憲皇太后が子供を産めない体だったというのは表向きの理由に過ぎないのではないのか。そういう疑問が湧く。 実は、昭憲皇太后は暗殺された睦仁親王の正后であり、睦仁親王とすりかわった明治天皇(大室寅之祐)は、天皇の地位はすり替えても睦仁親王の正后の地位は変えられなかった。貞節観念から睦仁親王の正后・昭憲皇太后を娶ることまではできなかったのではないのか。「すりかわり」を隠蔽する為に睦仁親王の正妻を昭憲皇太后として待遇せざるを得なかったのではないのか。そう読み取るべきではないのか。 表向きは、明治天皇の皇統図は次のように表記されている。
実際には次の図式であったのではないのか。
こう考える事で、「明治天皇の正后のご追号が皇太后」の謎が解けるのではないのか。「明治天皇」にとって、「睦仁親王」は孝明天皇より皇位を継承した「先帝」であり、その先帝の妻だったからこそ「皇太后」扱いとしていたのではないのか。つまり、明治天皇は、一条美子(はるこ)を「昭憲皇太后」として地位を保証した上で、側室として柳原愛子(なるこ)を娶った。実は、柳原愛子こそが、明治天皇にとっての本来の「皇后」だったのではないのか。後に大正天皇が生まれるが、典侍だった柳原愛(なるこ)子こそが生母であったのではないのか。明治新政府は、「明治天皇すり替え」を隠蔽し続けた為、「明治天皇の正后のご追号が皇太后」とする以外に解決しようがないというネジレが生じていたのではないのか。 全ては、明治新政府が「すり替え式王朝交替」を秘匿した事に原因が有るのではないのか。「王朝交替」を秘匿した理由は、岩倉ー伊藤派による孝明天皇・睦仁親王父子「暗殺」と、明治天皇「すり替え」と云う裏技が暴露されるからである。これを怖れて秘匿し続けられたのではないのか。してみれば、日本最大の動乱となった戊辰戦争は、南朝の末裔として登場してきた大室寅之祐と北朝の末裔・睦仁親王との抗争を背中合わせにしており、「南北朝争乱の再現」だっということにもなる。 |
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これにつき、「昭憲皇太后」を「昭憲皇后」と改めるよう何度も伺いが出されているとのことである。しかし、その結果はどうなったか。 御鎮座寸前の大正9.8.9日、明治神宮奉賛会会長・徳川家達(いえさと)は、宮内大臣宛へ「昭憲皇太后」を「昭憲皇后」と改めるよう建議を提出している。しかし諸事の理由から御祭神名を改めることは出来なかった。その理由として、1・天皇より御裁可されたものはたとえ間違っていても変えられない。2・すでに御神体に御祭神名がしるされていて、御鎮座の日までに新しく造り直すことが無理、という二点の理由が挙げられていた。 しかし、「宮内大臣の間違い上奏による天皇の御裁可論」は不自然すぎよう。仮に、御裁可した大正天皇が、父である先帝(明治天皇)の即位に関わる一件を熟知しており、実母である柳原愛子典侍こそ本当の「皇后」であり、昭憲皇太后は先々代(暗殺された睦仁親王)の皇后である故に「皇太后」とご追号したとするなら、不自然さが無くなる。むしろ、「苦肉の正式な御裁可」だったということになる。 かくて、大正9.8.9日、「昭憲皇太后」名で明治神宮へ御鎮座された。これにつき、御鎮座当時首相であった原敬は、大正9.10.13日付「原敬日記」の中で、次のように記している。
昭和38.12.10日、明治神宮は、明年(昭和39年)の昭憲皇太后50年祭にあたり、宮内庁へ再度「昭憲皇太后御追号御改定に関する懇願」を、崇敬会会長高橋龍太郎は「昭憲皇太后御追号御改定につき御願」を提出している。 昭和42.12.26日、明治神宮は、明年(昭和43年)明治維新百年にあたり再度「御祭神の御称号訂正につき懇願」、崇敬会会長足立正より「御祭神の御称号訂正につき再度の御願」を提出している。しかし宮内庁の回答は改めないとのご返事だったとのことである。 |
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【提供情報】 大室寅之祐(明治天皇)の出自と近代皇室について (情報提供者:匿名希望)。 なぜ昭憲皇后ではなく、昭憲皇太后なのか? (明治神宮公式サイトより転載)。 「明治天皇」は暗殺されていた!!(追補・訂正)】 続・大室寅之祐(明治天皇)の出自と近代皇室について -「萩」へマンジュウつくりに行ってくる- (情報提供者:匿名希望) http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=33.55.47.426&el=132.3.10.064&sc=4&la=0&CE.x=128&CE.y=304 |
【元宮内大臣田中光顕証言】 | |||||||
次のような「元宮内大臣田中光顕証言」が、「元宮内大臣田中光顕氏、明治天皇陛下すり替え告白(三浦芳堅著『徹底的に日本歴史の誤謬を糾す』から))」にサイトアップされている。これを転載しておく。
これによれば、田中光顕伯爵は、「実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。睦仁親王は孝明天皇崩御と同時にただちに即位したとなっているが、じつは、その睦仁親王は暗殺され、これにすり替わった明治天皇は、後醍醐天皇第11番目の息子、満良親王の御王孫で大室寅之祐である」と証言していることになる。明治天皇の血脈を自認している中丸薫・氏はこれを追認している(http://www3.ocn.ne.jp/~sigikain/meijisyasin.html)とのことである。 「元宮内大臣田中光顕氏、明治天皇陛下すり替え告白」管理人は次のようなコメントを付けている。
次の一文を転載する。
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歴史は深いですなぁ。 |