【宮家、摂家考】 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで宮家、摂家を確認しておく。 2005.10.15日 れんだいこ拝 |
【宮家】 |
【有馬家】 |
「6・暗殺の頻繁化と孝明天皇の暗殺」(「日本の歴史学講座」の「有馬範顕卿御一代記」 |
【有栖川家】 |
大正天皇関連・とりあえずのまとめ、感想&資料 尚、有栖川宮家は、それまで10代以上続いたにもかかわらず、大正時代に息子の威仁で血統が絶えます。 しかし、このとき、大正天皇の三男である高松宮が「皇室典範により、名前は有栖川を継げないけれども、有栖川系の女性を嫁に貰って、事実上有栖川の財産を相続する」といった措置が取られます。 三笠宮は、残りの三人(昭和天皇・秩父宮・高松宮)とはやや年が離れて、明治天皇の死後生まれました。三笠の宮は、北朝系とはいえ、大正天皇が即位後かなり体調が思わしくなくなったあとに生まれていますから、大正天皇の直接の血筋とは言いがたいのではないでしょうか。 数年前に高円宮(三笠宮の子ども。北朝系)が1ヶ月ほど前までぴんぴんしていたのに突然心臓病で亡くなった。 有栖川宮家と徳川家は、婚姻を通して繋がりがあります。特に、水戸徳川家との繋がりが深かったようです。薩長との婚姻関係はなかったようです。(見落としてなければ..)9代目有栖川熾仁親王は急進的な攘夷論者であったので、よけい取り込み易かったのではないかと考えています。陰謀論的な妄想を逞しくすると、四親王家の一つであった有栖川宮家は祭祀を執り行っていましたから、これを味方に取り込むことは意義があったと思います。(現に、有栖川宮家の末裔である喜久子妃は、高松宮の妃殿下になっています。) 余談ながら、大隈重信は、維新前に長崎の米国宣教師フルベッキに新約聖書と米国独立宣言を教わり影響を受けたとされています。 【有栖川宮記念公園】〜有栖川宮家、御用地跡 都心の一等地、東京港区南麻布に敷地約67560平米の有栖川宮記念公園があります。江戸時代には、浅野家下屋敷があり、忠臣蔵でご存知の通り、浅野家が取り潰された後、盛岡藩南部美濃守の屋敷となりました。 有栖川宮の御用地となったのは、1896年(明治29)です。1913年(大正7)には、高松宮家の御用地となりましたが、1934年(昭和9)有栖川宮威仁親王の20周年を記念して公園用地として賜与され、現在に至っています。公園中には、有栖川威仁親王の騎馬像もあります。 【有栖川宮家】 有栖川宮家は、江戸時代に創設された宮家で、後陽成天皇の第七皇子好仁親王を祖とし、はじめ高松宮と称しました。(江戸時代の「四親王家」とは、京極宮、桂宮<〜八條宮より分かれた宮家>、高松宮<後の有栖川宮家>、閑院宮の四宮家を指します。) 途中、二度の断絶を経るも、第十代威仁親王まで続くが、威仁親王が亡くなり宮家は断絶。 大正天皇の第三皇子宣仁親王が高松宮となった際、有栖川宮家の祭祀も継がれた。 有栖川宮家は歴代天皇と嫡子・養子の関係を多く結んでいました。 【幕末〜明治にかけての有栖川家の人々】 ○有栖川宮幟仁(たかひと)<=有栖川宮家8代目>1813(文化9)〜1886(明治19) 1859(安政6)睦仁親王(のちの明治天皇)の御手習師範を仰せつかる 1867(慶応3)王政復古の大号令.神祇事務総督【大政奉還】 1881(明治14)奏聞書を奉呈し神道の精神を上陳 1882(明治15)皇典講究所の総裁に就任 <妃>二条広子 <皇子>熾仁親王(1835~1895)<有栖川宮家9代目>.線宮 幟子女王(1835~1856)<夫:常陸水戸藩十代藩主 徳川慶篤徳>.染宮(王女)(1836~1843).浩宮(1838~1843). 長宮(1840~1843)(養子)常磐井堯熙(1844~1919). 威仁親王(1862~1919)<有栖川宮家10代目> ○有栖川宮熾仁(たるひこ)<=有栖川宮家9代目>1835(天保6)~1895(明治28) 1851(嘉永4)和宮親子内親王と婚約 1858(安政5)幕府が日米修好通商条約調印を奏請した折に、有栖川宮は反対する。【安政の大獄】 1862(文久2)公武合体のため和宮、徳川将軍家に降嫁。【生麦事件】 1864(元治1)父と共に国事御用掛に任じられる。【禁門の変】 同年7月の禁門の変で長州と通じていたとの理由で職を解かれる。 親王は、急進的な攘夷論者であった。14代将軍、徳川慶喜の母親は親王の叔母にあたる。 1868(慶応3)王政復古の大号令、総裁就任 1868〜69(慶応4〜明治1)戊辰戦争において東征大総督を務める【戊辰戦争】 維新後は、兵部卿、福岡藩知事、元老院議官、元老院議長を歴任。 1877(明治10)西南戦争で征討総督を務め、その後、陸軍大将となる。【西南戦争】 後年、参謀本部長、参謀総長を歴任。 1894(明治27)陸海全軍の総参謀長.【日清戦争】 <妃>徳川貞子(父:水戸藩9代目藩主.徳川斉昭) ○有栖川宮威仁(たけひと)<有栖川宮家10代目→これ以降、断絶>1862(文久2)〜1913(大正2) <妃>前田慰子(父:加賀金沢藩14代目藩主.前田敬寧) <皇子>績子女王(夭折).海軍少尉 栽仁王(1888~1908).実枝子女王(夫:徳川慶久.子:喜久子=高松宮妃) 【徳川家と有栖川家の系図】 http://www9.ocn.ne.jp/~senyou/keizu5.htm 【幕末将軍.大名.宮家.公家の姻戚関係】 http://bakumatu.727.net/iroha/mame-inseki.htm 徳川家慶 12代将軍 夫人 有栖川宮織仁の娘(楽宮喬子) =慶喜・慶篤の叔母 徳川家定 13代将軍 夫人 近衛忠熙養女(篤子/天樟院) =島津斉彬の養女 徳川家茂 14代将軍 夫人 孝明天皇妹(和宮) 徳川慶喜 (*斉昭の子) 15代将軍 母 有栖川宮織仁の娘(登美宮吉子) 夫人 一条忠香養女(美賀子) 叔母 有栖川宮織仁の娘(楽宮喬子)=将軍家慶夫人 鷹司政通の夫人(清子) 叔母 叔母 二条斉信の夫人(従子) 妹 南部藩主の夫人(秋子) 妹 有栖川宮幟仁の夫人(貞子) 妹 仙台藩主伊達慶邦の夫人(孝子) 徳川斉昭 水戸9代 母 公卿烏丸資補の娘 妻 有栖川宮織仁の娘(登美宮吉子) 姉 鷹司政通の夫人(清子) 姉 二条斉信の夫人(従子) 姉 高須藩主松平義健の夫人(規)(義健の祖父は水戸6代治保) 娘 *徳川慶喜(斉昭の子)の妹を参照 徳川慶篤(*斉昭の子)水戸10代 母 有栖川宮織仁の娘(登美宮吉子) 夫人 有栖川宮幟仁の娘(線宮幟子) 妹・叔母 *徳川慶喜(慶篤の弟)を参照。 徳川慶勝 尾張 母 水戸7代徳川治紀の娘(規)(慶勝は斉昭の甥、慶喜・慶篤といとこ) 有栖川宮織仁 皇族 娘 12代将軍徳川家慶の夫人(楽宮喬子) 娘 水戸9代徳川斉昭の夫人(登美宮吉子)=慶喜・慶篤の母 有栖川宮幟仁 皇族 娘 水戸10代徳川慶篤の夫人(線宮幟子) 有栖川宮熾仁 皇族 夫人 水戸9代徳川斉昭の娘(貞子) =慶喜・慶篤の妹 |
【摂家】 |
摂家とは、645年の大化の改新以来今日に至るまで天皇を支え続けてきている家柄で、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家のことを云う。近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司家がそれである。摂家の者が大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任する。 |