【黒船来航の衝撃】 |
黒船来航は、日本が植民地にされる危機に陥ったことを意味している。しかし、史実はそうはならなかった。植民地にならなかった理由として、〔外的要因〕と〔内的要因〕に仕分けして、それぞれ考察してみたい。 〔外的要因〕。開国を迫った欧米諸国は、当時、日本の植民地化を強行できる情況になかった。 1854年 クリミア戦争開始(イギリス・フランス×ロシア) 1856年 第二次アヘン戦争(イギリス・フランス×清) 1857年 第一次インド独立戦争(反英運動の高まり) 1859年 フランス、サイゴン占領 1861年 アメリカ南北戦争開始 英仏は、インド・清・東南アジアに対する侵略を強め、その抵抗にあい、一方では欧州地域でも戦争(普墺戦争・普仏戦争)になる。また、米国は国内問題もあって、日本に力を割ける情勢ではなかった。 ペリーは日本との交渉にあたって、大統領から「発砲厳禁」の命まで受けていた。日本の開国を急ぐ米国は、補給路もないまま(太平洋横断)日本と衝突するより、交渉で目的を達せられればそれで十分と考えていた。 イギリス公使のオールコックは、自身、中国侵略外交の中心にいた人物だっただけに、アジア諸民族の抵抗にあうと、それと日本の一揆・打ちこわしの頻発を重ねあわせて、危惧していたことも知られている。 要するに、欧米諸国はそれぞれが内外の問題を抱え、交渉で要求をのませられる日本に対し、リスクの高い武力侵入をあえて選択する必要はなかった。 〔内的要因〕。 ○「無能」でなかった幕府 幕末の幕府は、よく「無能」なイメージでとらえられるが、実際にはオランダや清から積極的に海外情報を入手し、戦争回避のための対策を練っていた。日本が結んだ不平等条約は、客観的には「不平等」な、「半植民地」的内容と言える反面、同時期にタイや清が結ばされた条約に比べると、はるかに従属性が弱い内容だった。 ○攘夷派の転換 下関戦争や薩英戦争で、薩長の攘夷派は攘夷の「不可能」を知ると、開国・倒幕にいち早く転換した。もちろん、その背景には、薩摩藩の藩論が、本来は攘夷ではなく、洋式技術の導入にみられるような富国強兵思想すら存在していたことも重要。 これ以外にも、近代化論につながる、近世日本の「資本主義」化の問題なども無視できない論点でしょうね。最近は、江戸時代後期を「近代」と考える研究者すらいますから。 現代日本歴史学の主潮流は、基本的にマルクス主義歴史学の系譜の上にある。マルクス主義歴史学も次第に研究が深まり、今日ではもはや、江戸時代の日本を、「世界に取り残された鎖国チョンマゲ」とイメージする歴史家はいない。鎖国にしても、それは窓口の「制限」であり(窓口はあった)、幕府による貿易の「独占」を意味するととらえるべきという見解も生まれつつある。 |