【光格天皇考】



 更新日/2017(平成29).5.30日
【光格天皇の足跡】
 「天皇制 (NO.208,1999/8/1) 」を参照する。

 第120代・光格天皇は、幕末維新の天皇および天皇制に決定的な役割を準備した。「光格」は歴史的にも特筆されてしかるべき天皇なのだが、その存在はあまり知られていない。

 113代東山から125代平成に至るまでの天皇は次の通り。
 113代東山、114代中御門、115代桜町、116代桃園、117代後桜町、118代後桃園、119代光格、120代仁孝、121代孝明、122代明治、123代大正、124代昭和、125代平成。

 1771年、明治天皇の曾祖父に当る光格天皇が、新設されたばかりの閑院宮家に生まれた
。1779年、後桃園天皇が急死する。その子供が1歳にも満たなかったため養子となり、急転直下で即位する。1817年、息子の仁孝天皇に譲位するまで在位する。譲位後、上皇として院政を敷いた。1840.11.19日、光格天皇ご逝去(享年70歳)。翌1841年、この上皇に「光格天皇」号がおくられた。初代・神武天皇から第62代・村上天皇(在位946年から9677年)までは「天皇」称号がつけられていたが、平安時代中期から一部の例外を外き使われておらず、第63代・冷泉から第119代の後桃園までは、「天皇」ではなく「院」と号していた。つまり、約900年の長きにわたって、日本の歴史上から「天皇」は消滅していたことになる。それが、凡そ900年の長き眠りから覚めたかのように「光格天皇」号で復活したことになる。

 その後の明治から大正期まで、「何々院天皇」と称し、なお「院」を引きずっていた。「昭和」直前の1925(大正14)年、「院」を取り除き、「何々天皇」という呼称に統一する正式決定が為された。(参考文献:藤田覚著「幕末の天皇」講談社選書メチエ)。

 天皇の名前は通常死後におくられ、生前の功績を称える美称としての諡号(しごう)と、取り立てて称えない場合の追号(ついごう)がある。「光格」は諡号で、「諡号+天皇」という最上級の称号がおくられたのは、実に955年ぶり!第58代・光孝天皇(在位884年から887年)以来であった。

 江戸時代を通じて、「皇位」(正確には「院位」というべきか)の継承は綱渡りがつづいた。明正や後桜町のような女帝をたてて凌ぎさえした。第119代の後桃園院は1779年、後嗣を決めないまま急逝したことから、その死は隠された。急遽、それまでの天皇家の血筋、血脈としては遠い傍流であった閑院宮という宮家から、わずか9歳の祐宮(さちみや)を、後桃園院に養子縁組みさせることで継承することで問題をクリアーした。「皇統を絶やさない」ために如何に努力してきたかが分かる。

 当初、祐宮が傍流であったことから、幕府はもとより、朝廷においても軽んじられた。しかし、第120代は激動の幕末という政治状況を背に、時に幕府と激しく衝突しながらなお、自らの主張を貫くという強靱な意志の持ち主であった。「皇統を継ぐ者」としての自負は強まり、朝廷の権威、威信回復に邁進する。そのために、古い宮中の行事を次々と復活させた。

 第120代は、1779年から39年間在位し、退位後1840年に亡くなるまでの23年間院政を敷き、実質62年間の長きにわたって幕府との政争を担い、皇室の威厳回復の基盤を築いた。第120代在位の時代、列島各地で「打ち壊し」が頻発した。田沼失脚後の1787年、将軍家お膝元の江戸や大阪で、大規模な打ち壊しが勃発した。幕末を待つことなく、すでに幕府の御威光は色褪せ、治安維持能力は著しく衰えていた。時あたかもフランス革命の2年前。ヨーロッパと日本は、ほぼ時を同じくして「中世的矛盾」が暴発していた。

【光格天皇の尊皇攘夷活動】
 山陰基央氏の「世界最終戦争」(マネジメント社、1999.2.25日初版)を参照する。

 1789年、時の光格天皇が「尊号一件」と呼ばれる行動を起こしている。「尊号一件」とは、尊父・閑院宮典仁親王に、二千石の御手当料を扶持せしめることになる「太上天皇(上皇)」の尊称を贈りたいと幕府に申請し、幕府(老中・松平定信)がこれを退け、関係公卿の職を解いた事件である。朝廷は、幕府交渉の経緯で大いに気勢を挙げたことで注目に値される事件となった。

 1794(寛政6)年、光格天皇は、「尊皇倒幕の綸旨(りんじ)」を下し、全国に志士を募った。密勅の使者に庶子の皇子・中山忠伊(ただこれ)を選び、全国遊説に赴かせた。勅旨には、将軍や藩主の民ではなく天皇直属の人民という意味を持つ「四民平等、天朝御直(おんじき)の民」とあり、この思想が倒幕イデオロギーとなっていくことになった。下級武士や郷士が鋭く反応し、坂上田村麿の末裔の徒党を意味する坂上党を主力とする志士の糾合が始まった。

 1833(天保4)年、中山忠伊は、後に乱を起こす大塩平八郎を始め水戸の徳川斉昭(なりあき)等と謀議を凝らしている。1837(天保8)年、大塩は乱を起し鎮圧された。徳川斉昭は、1841(天保12)年、水戸に弘道館を開設している。

 光格天皇は、退位され上皇となられてからも以後23年間、ひたすら尊皇倒幕に心を配られた。世上は開国か攘夷かで揺れたが、光格上皇ー水戸の徳川斉昭ラインが尊皇攘夷の姿勢を確固として打ち出し影響を与え続けた。薩摩の島津斉彬、長州の毛利慶親らがこれに呼応した。これらの大名は揃って藩政改革に取り組み、足軽などの下級武士をも登用し、後の明治維新の原動力となった。光格天皇の「尊皇倒幕の綸旨」が降ってから74年の歳月を経て明治維新に到達したことになる。












(私論.私見)