「鹿島説幕末王朝交代論」考 |
(れんだいこのショートメッセージ) | |||||||
一般に、知ることの重要性について次のように述べられている。
さしづめ鹿島学はそれに値するであろう。鹿島著「裏切られた三人の天皇―明治維新の謎」は現在入手不能であるが、次のように構成されているとの事である。
「裏切られた三人の天皇 ── 明治維新の謎」の紹介文で次のように付されている。
「鹿島説幕末王朝交代論」が、いま異様な光を放っている。以下、概略を見ておくことにする。 2005.11.13日 れんだいこ拝 |
【鹿島昇・氏の履歴】 | |||||
鹿島昇・氏の履歴を検証しておくことにする。「鹿島f
氏のご紹介(松重 正)」、「裏切られた三人の天皇―明治維新の謎」、「日本史のタブーに挑んだ男―鹿島昇その業績と生涯」その他を参照する。
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【鹿島氏の「裏切られた三人の天皇 ── 明治維新の謎」】 | ||||||||||||
鹿島氏の「裏切られた三人の天皇 明治維新の謎」を「鹿島説王朝交代論」と位置づけ解析する。「明治天皇(1)」、「明治天皇(2)」を参照する。 「官学の不正史の扉を開ける」ことの必要性について、「裏切られた三人の天皇 明治維新の謎」は次のように記している。
鹿島氏は、孝明天皇逝去に対して次のような見解を述べている。
孝明天皇暗殺の背景事情について次のように記述している。
次のように記述している。
次のように記述している。
「明治天皇すりかえ説の検証」と題して次のように記述している。
「危ういかな、睦仁親王!」と題して次のように記述している。
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【松浦家側から見た明治天皇】 | |||
「Re: 参考資料(幕末〜明治)2」、「Re:
参考資料(幕末〜明治)3」。 後の明治天皇となる祐宮(睦仁親王)は、大納言中山忠能卿と松浦家第34代松浦清山(1760ー1841)の第八女愛子との間に出来た慶子を母としている。「平戸の藩主家出身の松浦愛子と中山忠能との間に誕生した中山慶子が明治天皇の御生母」ということになる。『甲子夜話』の著者・平戸藩主松浦静山は母方の祖父、祖母は松平定信の娘である。 そういう縁戚関係で、外祖父に当る大納言中山忠能卿が松浦家第35代松浦煕(ヒロム)(乾 斎)公(1791-1867)に宛てた添翰が遺されている。その中で、祐宮(後の明治天皇)の御誕生等について詳しく記されている。それによれば、 娘典侍慶子(ヨシコ)が皇子を懐妊し、9.22日、中山家の産所において若宮降誕とある。 「松浦詮伯伝」の中に、次のような記述がある。
これは、「実質的に渡辺章綱だけを拘束する規約」となつている。何故この時期にそれが必要であったのか。実は、渡辺章綱(後に子爵)は、鹿島氏の著書によれば、泉州伯太一万三千石の藩主であり、役職は大坂城の定番であつた。徳川慶喜の命を受けて孝明天皇暗殺の犯人を調べ、それが岩倉と伊藤であることを知り、後年設立した長崎の青年学校でこの事実を広言したため、伊藤の仕向けた刺客に襲われ、1894年、死亡している。実は、逃れて1911年まで生きたという数奇な運命の持主である。
これにつき、作曲家の宮崎鉄雄氏による次のような決定的な証言が為されている。宮崎鉄雄氏の父は、渡辺平左衡門章綱といって、幕末、伯太(はかた)藩1万3千石の小名として大阪城定番を勤めていた。渡辺家は、もともと嵯峨天皇の末蕎であり、宮崎鉄雄氏はその渡辺平左衛門の子供として15五歳まで育てられ、のち、宮崎家の養子に出されている。平左衛門は、徳川慶喜の命を受けて孝明天皇暗殺の犯人を調べていたが、それが岩倉具視と伊藤博文であったことをつきとめた。しかし、そのために伊藤博文から命を狙われる羽目になり、実際、長州人の刺客に稲佐橋の付近で襲われて重傷を負った。 1997.7月、宮崎鉄雄氏(当時97歳)が、鹿島氏に次のような平左衛門の遺言を語った。
さらに、宮崎氏の話では、伊藤博文が忍び込むに際しては、あらかじめ岩倉具視が厠の番人を買収しておいたという。だとすれば、岩倉具視が伊藤博文を手引きしたことになる。それまでずっとこの証言を世に出すかどうか迷っていたそうだが、鹿島fの著書を読んで公表する決心をした。「日本の歴史家に鹿島氏のような勇気があれば、日本史がウソ八百で固められることもなかったろう」と、宮崎氏はその著書の中で語っている。 幕末、藩主の命を受けて情報活動を行つた平戸藩士に籠手田(コテダ)安定(1840-1900)なる人がいる。1867年京に上り国事を偵察し、薩摩の五代、長州の伊藤の知遇を受けた。後に滋賀県令・貴族院議員となり、天皇の寵を辱くし、平戸藩士中ただ一人華族(男爵)に列せられたこの人こそ、明治天皇の出自を確実に知つていたといえるだろう。 平戸島にはその北端に田助港というところがあり、幕末各藩の志士をのせた船舶が寄港し、多々良孝平という篤志家のところに、西郷吉之助(隆盛)、桂小五郎(木戸孝允)、山県狂介(有朋)、大隈八太郎(重信)等が屡々来て国事を談じたとのことである。その意味で平戸は、吉田松陰遊学のことと併せ、明治維新にゆかりのある地である。 |
【匿名者の指摘】 | |
「明治天皇の出自」(平成13年3月)は次のように述べている。
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【皇室関係者から見た明治天皇】 | |
「高松宮発言」(昭和58年)として次の発言が伝えられている。
公望公(嘉永2〜昭和15)の息子・西園寺公一は、睦仁と明治天皇は別人だと述べたことが伝えられている。 「明治天皇は睦仁親王ではない。明治天皇は睦仁親王ではなくて長州の大室寅之佑であった」との憶測が飛び交い始めたことに対して、伊藤は、 「同一人物だといって押し通す他ないじゃないか」といい張った、とも伝聞されている。 |
【鹿島説批判】 | ||
「明治天皇替え玉説の無稽と無惨」は、次のように鹿島説を批判している。れんだいこが意訳するが、批判ながら要領よく説き聞かせている。
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【鹿島説の吉田松陰論】 |
吉田松陰の歴史観は次のようなものてせあったと考えられる。1、日本は神国であり、皇祖・天照大神(ああてらすおおみかみ)の神勅を奉じ、「三種の神器」を受け継いできた万世一系の天皇が統治してきた国である。2、日本国民は古来より忠孝の美徳をもって天皇に仕え、国運の発展に努めてきた。3、その皇統は、南北朝時代に北朝と南朝に分かれ、足利将軍家の押す北朝が代々を世襲することになった。4、皇統は、後醍醐天皇の南朝が正系であり、北朝天皇が天皇の座にあるのはおかしい。5、孝明天皇の公武合体政策、日和見攘夷政策は北朝系譜の不正に起因している。今こそ偽朝である京都北朝の天皇を廃して、正系たる南朝の天皇を再興しなければならない。南朝革命を起こさねばならない。 吉田松陰も水戸学の藤田東湖(とうこ)も上述の観点に立って南朝尊皇且つ攘夷を主張した。但し、同じ南朝革命論としての尊皇攘夷ではあるが、吉田松陰と藤田東湖ではその内容が異なる。吉田松陰が再興すべしとしている南朝は、歴代にわたって長州が匿ってきた大室天皇家であった。それに対して、藤田東湖が再興すべしとした南朝は、歴代にわたって水戸藩が匿ってきた熊沢天皇家であった。それぞれが、みずからが握る「玉」を担いで南朝革命を成立させようとしていたことになる。 吉田松陰は、更に民族主義の見地を色濃くしていた。次のように述べている。「富国強兵し、蝦夷(北海道)をたがやし満州を奪い、朝鮮に来り、南地(台湾)を併せ、然るのち米(アメリカ)を拉き(くだき)(両手で持って折り)欧(ヨーロッパ)を折らば事克たざるにはなからん」。それは、アジアの大国であるインドや中国までもが実質的に欧米の植民地にされてしまうという情況に対する松陰なりのアンチテーゼであった。 吉田松陰は、「解放」理念をワンセットにしていた。「長州藩の奇兵隊は、部落解放の夢に燃える若者が中核をなしていた」。 |