徳川第14代征夷大将軍・家茂(いえもち)の履歴は次の通り。
実父・徳川斉順(清水徳川家および紀州徳川家の当主)は第12代将軍・徳川家慶の実弟で、家茂は次男(兄が流産で死去しているため長男とされることもある)で第13代将軍・家定の従弟にあたる。将軍就任の前は徳川御三家紀州藩第13代藩主。初名は慶福(よしとみ)。
1846(弘化3)年閏5月24日、紀州藩第11代藩主・徳川斉順の次男として江戸の紀州藩邸(現:東京都港区)で生まれる。なお、兄は流産で死去している。幼名は菊千代。
1849(嘉永2)年、4歳の時、叔父で第12代藩主である徳川斉彊が死去したため、その養子として家督を継ぎ紀州藩主となる。幼少故に当初は隠居した元藩主・徳川治宝が補佐したが、その死去後は徳川家慶の側室を妹に持つ付家老・水野忠央が実権を握り、伊達千広(陸奥宗光の父)をはじめとする藩政改革派が弾圧された(和歌山市史)。紀州藩主としての治世は9年2か月であり、この間の江戸に居続けたまま将軍となったため、江戸参府も紀州帰国もなかった。
1851(嘉永4)年10月9日、元服。慶福と名乗り、常陸介に任官。同日従三位に叙位。左近衛権中将に転任。
1853(嘉永6)年10月23日、徳川家定が第133代将軍に就任。元服。
1855(安政2)年12月15日、参議に補任。
1858(安政5)年6月20日、一橋慶喜を担ぐ一橋派との抗争の末に勝利し将軍家定の世子となる。直後の家定死去後、後継将軍問題が持ち上がる。
同年10月25日、徳川氏中、最も近い血筋の人物であるとして、譜代筆頭の井伊直弼ら南紀派の支持を受けて13歳で将軍となる。名を家茂と改めた。内大臣に転任し、右近衛大将を兼任。併せて源氏長者宣下。
1860(万延元)年3月3日、桜田門外の変。大老井伊直弼、暗殺される。
1862(万延元)年2月11日、公武合体策の一環として仁孝天皇皇女で孝明天皇の皇妹・和宮と結婚。政略結婚ではあるが、和宮に対してたびたび贈り物をするなど細やかな気配りをし、二人の関係は良好であった。徳川家歴代の将軍と正室の中で最も夫婦仲が良かったのは家茂・和宮といわれたほどである。
1863(文久3)年3月4日、朝廷の攘夷実施の求めに応じて、将軍として徳川家光以来となる229年振りの上洛を果たし、義兄に当たる孝明天皇に攘夷を誓った。同年4月、家茂は朝廷に命じられた攘夷実行への準備として、幕府の軍艦順動丸に乗って大坂視察を行った。順動丸を指揮していた勝海舟から軍艦の機能の説明を受け、非常に優れた理解力を示した。その折に勝から軍艦を動かせる人材の育成を直訴されると、即座に神戸海軍操練所の設置を命令した。同年12月の上洛の際、勝の進言を容れて順動丸を使うことを決断した(その理由として前回の上洛において往路だった陸行では22日を要したのに対し、帰路順動丸を使った際には僅か3日で江戸に帰れた事実がある。そのことが勝への信頼感へ繋がったとする説がある)。さらに航海の途中で海が荒れて船に酔う者が続出したため、側近から陸行への変更を奨められたが、この時「海上のことは軍艦奉行に任せよ」と厳命し、勝への変わらぬ信頼を表した。これらの信任に勝は感激し、家茂に対する生涯の忠誠を心中深く誓ったという。
1864(文久4)年1月15日、二度目の上洛。21日、従一位に昇叙し、右大臣に転任。右近衛大将如元。同年8月2日、第1次長州征伐。
1865(慶応元)年、兵庫開港を決定した老中・阿部正外らが朝廷によって処罰されると、自ら将軍職の辞意を朝廷に上申している。このとき孝明天皇は大いに驚き慌てて辞意を取り下げさせ、その後の幕府人事への干渉をしないと約束したという。同年閏5月22日、第2次長州征伐のため3度目の上洛。以後、死まで大坂城に滞在する。同年10月1日、朝廷に将軍職の辞表を提出、江戸東帰を発表(7日、正式に撤回)。
1866(慶応2)年6月7日、長幕開戦。7月20日、家茂は第2次長州征伐の途最中、大坂城で病に倒れた。この知らせを聞いた孝明天皇は、典薬寮の医師である高階経由と福井登の二人を大坂へ派遣し治療に当たらせた。江戸城からは、天璋院や和宮の侍医として留守を守っていた大膳亮弘玄院、多紀養春院(多紀安琢)、遠田澄庵、高島祐庵、浅田宗伯らが大坂へ急派された。しかしその甲斐なく大坂城にて薨去した(亨年21歳)。
家茂は死に際して徳川宗家の後継者・次期将軍として徳川家達(田安家の徳川亀之助)を指名し、遺言としたが、それは実現されなかった。
勝海舟をはじめ幕臣からの信望厚く、忠誠を集めたと言われている。勝は、日記に「徳川家、今日滅ぶ」と記している。激動の時代に重責を背負わされた家茂の生涯に「お気の毒の人なりし」と言って目に涙を浮かべたという。「若さゆえに時代に翻弄されたが、もう少し長く生きていれば、英邁な君主として名を残したかもしれない。武勇にも優れていた人物であった」と評価し、その死に関しては「家茂さまの御薨去をもって徳川幕府は滅んだ」と嘆息したと伝えられる。
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