吉薗周蔵手記(7)


 更新日/2021(平成31→5.1日より栄和改元/栄和3).2.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2005.4.3日、2009.5.27日再編集 れんだいこ拝


陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)
 
 吉井友実から高島鞘之助へ「ワンワールド」人脈を探究する

 ●高島鞆之助はワンワールド国際秘密勢力に関わっていた
 第一連隊長乃木希助中佐と湯地静子の婚儀は、明治11年8月27日を以って挙げられた。
縁談を表で進めたのは、乃木の副官伊瀬地大尉で、裏には高島鞆之助少将がいた。
西南戦争を別働第一旅団司令長官として戦った高島は、西南戦争で軍旗を失ってからの乃木少佐の獅子奮迅を直接見て、以後その人物を大いに買ったのである。これを見ても乃木はいわれるような凡将ではない。
 宮本直和『大阪階行社附属小学校物語』には、「お見合いの日、高島春子夫人は、祝宴の後に高島邸―当時は日本式木造家屋―に乃木と静子を招き・・」とあるが、見合いの場となった紀尾井町の伊瀬地大尉の新居の近くに高島邸はあった。
 この邸は、高島が陸相の時に洋式に立て替えられ、明治45年3月高島からイエズス会に譲渡され、今は上智大学内のクルトゥルハイム聖堂になっているという。当時イエズス会からの借入話を受けて、近辺に住む軍の高官達はこぞって高値で売るための談合を始めたが、高島がこれを諌めて市価よりも廉価で売却させた。このことで、イエズス教会は今も高島を徳としているらしいが、この逸話には、何やら暗示するものを感じる。

 結論を言おう。高島はワンワールド(国際秘密勢力)=*フリーメーソンのこと=に関係していた(ワンワールドについては別条で述べる)。当今の史家からは賛同は得られまいが、状況がそれを示すし、間接的証拠なら幾つかある。示現流の達人で容貌魁偉、いかにも豪胆朴訥に見え、自らもそのように振る舞った高島だが、本質は頗る頭脳的で幼少の頃から学才で鳴っていた。侍従、侍従番長を経て陸軍入りし、初任で大佐になった明治7から3年後、西南戦争の最中に33歳で少将に進級した高島は、明治12(1879)年2月19日から1年問独・仏に留学を命ぜられる。ドイツでは近代陸軍の父で戦略の天才モルトケ将軍と会い、鉄血宰相ビスマルクにも接した高島は、宴会でモルトケの正面の席を与えられ、しきりに視線を注がれたが、ドイツ語ができないので顔を背けたと述懐している。それにしても、かかる世界史的人物の声咳に接しただけでも大事件で、益することは多かった筈である。

 高島がワンワールドの一員だったのは、諸般の事績からして問違いない。入会の時期は若年の拗、薩摩の先輩吉井友実の紹介により入会した可能性もあるが、正式入会はこの留学の際かとも思う。いや、正式入会のための欧州留学だったかも知れない。とすれば入会の地は何処か。翌年フランスに留学した上原勇作が、その地で秘密結社に入会したことは絶対に確かで、その筋道を作った者は高島鞆之助を措いて他にない。それでは高島は誰からということになるが、吉井を措いてあるまい。吉井については後で述べる。
 
 ● 決して一介の武弁ではなく朝鮮政変にも辣腕を振るう 

明治13年3月29日に留学から帰国した高島は、1ヶ月後に熊本鎮台司令官に補された。翌14年、フランス留学が決まった工兵少尉上原勇作は、帰郷の途上熊本鎮台を訪れ、2月5日高島司令官の官舎に一泊した。或いは帰郷は口実で、高島の訓示を受けるためではなかったか。
 この夜、高島が上原に諭したのは、単なる留学心得ではなく、地球を支配するワンワールド結社に関する解説とみるのが自然であろう。その4日後、高島は大阪鎮台司令官に転じ、翌15年2月6日付で西部監軍部長心得となる。鎮台司令官は後年の師団長相当職で、当時は少将を補したが、監軍部長といえば戦時では軍団長に相当する軍人の最高位で、当時は中将を補した。高島の場合、「心得』が付いたのは、まだ少将だったからで、すでに中将進級が予定された人事である(翌16年2月に任中将)
 15年7月23日、朝鮮王国の京城で壬午政変が起こる。当時朝鮮国内では、清朝の属那で満足すべしとする事大党(守旧派)と、近代化を目指す独立党(開化派)が対立し、さらに高宗の実父・大院君と高宗妃の閔妃との間に激しい派閥対立があった。後者が開化派と結び、別枝軍を新設して日本の指導による軍の近代化に乗り出すが、これに刺激された大院君の陰謀によって、守旧派の兵士が暴動を起こした。暴動の矛先は別枝軍を指導してきた日本軍人にも向けられ、さらに多くの日本人外交官や民間人が殺傷された。31日、西部監軍部長心得・高島鞆之助陸軍少将と東海鎮守府長官・仁礼景範海軍少将は、軍艦四隻に兵員を載せて朝鮮に渡り、花房公使を全権委員として外交交渉に臨み、8月30に済物浦条約を結んで一件に関する妥結を見た。
 16年2月1日付で陸軍中将に進級した高島は、「心得」が取れて西部監軍部長となる。時に39歳であった。翌17年7月の華族令で子爵を授かるが、これを壬午政変における功績とする説は誤りで、樺山中将・野津少将・高島中将の三人揃って子爵を受けており、戊辰戦争の功績を基底にしつつその後積み重ねた功績による授爵と見るほかはない。
 17年12月4日、朝鮮に甲申政変が起こり、解決のために井上外務郷が派遣される。西部監軍部長高島中将は、海軍大輔樺山資紀少将とともに外務郷の随員として参加した。つまり、高島は単なる武弁ではなく、政治外交に携わっていたのである。
吉薗周蔵の手記(7)-2● 高島の後見役・吉井友実、謎の外遊と経歴の陰に 
 明治4年、御親兵入りを目指して上京した高島鞆之助を、吉井友実(幸輔)が特に抜擢して宮中入りをさせた。西郷、大久保と共に薩摩三傑の一人として知られる吉井は、文政11年(1828)生まれ、高島よりも16歳年長であった。出生地は維新の英傑が輩出した加治屋町方限(ほうぎり)で町内からは吉井の他に西郷隆盛、伊地知正治、高島鞆之助らが出た。野津鎮雄・道貫の兄弟は、加地屋町に隣接する上之園町方限の生まれである。
 吉井は幕末に大阪の薩摩藩倉屋敷で留守居役となり、その後は京都の薩摩藩邸を取り仕切って国事に尽力した。戊辰戦争では、伏見方面の戦いで五中隊分の兵力を指揮して幕府軍を敗走させ、その功績により明治2年、賞典禄千石を与えられた。志士たちの賞典禄を思いつくままに並べると、最高額はむろん西郷隆盛で二千石、大久保・木戸・伊藤が千八百石、大村益次郎が千五百石である。吉井と同じ千石は、薩摩藩では伊地知、土佐藩では後藤象二郎と板垣がいた。因みに黒田清隆は七百石、山県有朋は六百石で、以て吉井の位置をを知るべきである。

 維新直後は国防事務局判事、軍務官判事と軍政に携わった吉井は、明治3年4月民部少輔に転じ、7月まで大蔵少輔を兼ねた。11月にはなぜか民部大輔に降格し、翌4年7月になり宮内大丞に転じるが、これは西郷の宮中改革案を実行する目的の人事である。2月に宮内少輔に昇進し、7年3月まで約3年宮中で勤め辞職した。

 吉井がその後、フランスなどに旅行したことは左の逸話から明らかであるが、この外遊に関する記録を殆ど眼にしないのは、あながち私の浅学のせいではあるまい。それほど、維新後の吉井に関する情報は少なく、事跡が知られていない。明治7年、藩命でフランス工芸大学に留学した旧金沢藩士清水誠が外遊中の「宮内次官」吉井友実と会った時、吉井は卓上のマッチを示して国産化を勧めた。これが本邦マッチ製造の契機で、翌8年に帰国した清水は横浜造船所に勤務する傍ら、三田四国町の吉井別邸を仮工場としてマッチの製造を始めた。日欧の往復だけでも2ヶ月以上掛かった当時、欧州旅行には最低一年を費やした。したがって7年3月に宮内少輔を辞した吉井の外遊は、明らかに辞官の後で、正確には「前宮内少輔」である。

 帰国した吉井は8年4月に元老院議官に就き、10年8月に一等侍輔に転じ、11年5月からは再び元老院議官を兼務する。12年3月に工部少輔を兼ね、翌年工部大輔に昇進し、15年1月に辞官して日本鉄道の社長になった。工部省はかつての建設省、今の国土交通省で、吉井が工部小輔・同大輔を兼ねたのは政府の鉄道計画と関係があるものと思う。政府内ではもともと井上勝(前号で触れた武田成章の弟子)など鉄道国営論が強く、鉄道開設の準備として東京-高崎間の測量から始めたが、西南戦争後の財政難で工事の着工が遅れたため、民間資金による鉄道の早期開業を求める動きがあり、明治14年(1881)8月1日、岩倉具視を始め華族などが参加して日本鉄道会社が設立されたが、吉井が工部大輔を辞めたのは、その社長に就くためである。日本鉄道は川口―前橋間から建設を開始し、16年7月28日には上野―熊谷間を開業し、その後路線を増やしていった。この時期に日本鉄道社長を勤めた吉井は、2年間に鉄道事業が軌道に乗るや辞職し、17年7月、伯爵に叙されると同時に宮内大輔に挙げられた。
 当時の太政官制は、卿が大臣格、大輔・少輔が次官格、大丞・少丞が局長・部長格で、その下が大録・少録である。吉井と同じ賞典禄一千石の板垣退助は早くも4年7月に参議、同じく後藤象二郎は4年6月から工部大輔を経て6年に参議になった。吉井と同格と見て良い伊地知正治も、7年に左院議長、次いで参議となった。参議は無任所の大臣で、各省の卿ないし大輔を兼ねることが多かった。「明治維新後朝廷厚く友実を用い」と『大日本人名辞書』にはあるが、事実を見ると、実績からして参議が当然の吉井が、板垣・後藤・伊地知らが挙って参議に就いている時期に、大丞と少輔の間を昇降している。12年に至っても兼職が工部少輔とは不自然である。外遊後の8年から断続的に、都合7年にわたって就いた元老院議官や一等侍輔という職掌は、その内容が外部から窺いにくく、吉井が何か陰の仕事に携わっていた感は否めない。明治7年のフランス外遊も、吉井ほどの立場なら辞官する必要もないと思うが、きちんと退職してから旅に出たようで、この外遊には、世間や政府筋に対しては公けにできない目的を想像する。私用めいた用件、例えばワンワーールドの入会儀式に出たのではなかろうか?

 宮中に入ったまま大臣参議にならず、出世の道から外れたかに見える吉井は、明治17年7月施行の華族令で、伊藤・山県・黒田・板垣らと同じく伯爵を授けられた。その経緯は、伊藤宮内卿から黒田内閣顧問に宛てた書簡(神奈川県立公文書館蔵)に記されており、吉井友実・伊地知正治・副島種臣に伯爵を与えたのは明治天皇の意思によるものとしている。吉井は授爵と同時に宮内大輔に就き、元年の官制改革により宮内次官と呼び方が変わるが24年3月に辞めるまでその職にあり、辞職後もなお宮中庁御用掛を拝し、翌4月に死去した(叙正二位)。
経歴から窺える通り、明治4年以後の吉井は、工部・鉄道関係を除き宮中に関わりきりで、東京・明治王朝を裏から支えたフシがある。爵位勲等と職位の釣合いが取れないのはそのせいだろう。途中いかにも唐突に鉄道に関わるが、或いは鉄道事業にワンワールドにとって特別の意義があるのかも知れぬ。

 吉井の嗣子幸蔵(安政2年生まれ)は海軍少佐・侍従武官となり、その子が今日では祖父より有名になった歌人吉井勇である。次子の友武(慶応3年生まれ)は士官生徒10期の軍人で、高鳥鞆之助の長女多嘉(明治6年生まれ)の入婿となって高島家を継いだ。これだけでも吉井と高鳥鞆之助の深い関係が分かる。大正7年に陸軍中将・第十九師団長となった友武は、10年7月予備役となった。
吉薗周蔵の手記(7)-
3 ● 「フルベッキ写真」検証 行方不明の坂本龍馬は・・
 吉井友実が宣教師フルベッキに親灸したことは確かである。有名な「フルベッキと志士の写真」にも吉井とされる顔が写っている。フルベッキ写真については、その真偽について論議が喧しく、つい教カ月前にも某大学の準教授が「被写体の多くは平凡な人生に終わった佐賀藩の論士に過ぎぬ」との考証を発表したばかりである。これで一件落着したかに見えたが、その直後に加冶将一著『幕末維新の暗号』が出て、問題は大きく展開した。すなわち、フルベッキ写真についての分析が最近ようやく行われるようになり、論議が表面
化する兆しが生じた。
 まず撮影場所であるが、それが長崎であり屋外であることが、同一場所で撮影された写真が出てきて証明された。明治初期、フルベッキを教え子の長崎英学所済美館の生徒らが囲む写真である。撮影場所は、これまで上野彦馬のアトリエなどとまことしやかに囁くばかりで、誰も写真を検証しなかった。地面の舗石からして屋外ないし半屋外で大きな寺か邸宅の玄関先と私(落合)は思っていたが、加治もそう判断したらしい。
 次に、写真中のフルベッキ長男ウイリアムの実年齢方ら推測することで、撮影時期が慶応元年(1865)か2年に絞られた。折しも慶応2年1月には薩長秘密同盟が締結され、
翌年には薩士秘密盟約が結ばれている。この写真は「これらの歴史的事件に関する政治的秘密の真相を物語る要素があるために、明治になっても発禁扱いが続いた」との加治の言に、甚だ肯綮に当たるものがある。
 さらに被写体の各人物の鑑定である。昔から巷間を流れるフルベッキ写真は数種あるが、その中に各画像に志士の姓名を当てた写真がある。フルベッキのすぐ下で大刀を抱えて斜に構えた若者だけには姓名を当てていないが、巷間★奇兵隊の力士隊に属した大室寅之佑だと言う人もある。
 ★私(落合)は以前から、これを維新志士たちの写真と直感していたが、多少の疑問もあった。それは、例の写真が右端の人物に陸奥宗光を当てていたからで、羽織の袖の家紋は輪郭が丸くあたかも陸奥氏の家紋たる牡丹と見えるが、牡丹は珍しい家紋で、この紋付きを着る志士は、陸奥の他には思い浮かばない。ところが寓居に近い岡公園に立つ陸奥の銅像を見ても、顔貌たるや細く狭小で、写真のごとく幅広ではない。しかしこの疑問に加治は答えた。即ち、★この人物を伊藤博文と判断したのである。
言われてみれば、確かに文久3(1863)年の、いわゆる長州ファイブのイギリス密航時の伊藤に良く似ている。また伊藤の家紋は「上り藤」だから、輪郭が丸く見えて当然である。かつて伊藤に擬せられていたのは別の志士というしかない。加治はこのように数人の画像を鑑定し、志士の名前を当て嵌めた。その結果、前述の佐賀藩士説が一角から崩れ、私のごとき傍観者流も、再び真作説に左担することとなった。
 
 ★吉井がワンワールドに入会していたのは間違いない。だとしたら、紹介者は宣教師フルベッキか、それとも長崎で親交あった武器商人グラパーだったか。加治著『操られた龍馬』は「グラバー邸で闇の儀式を受けた武士を想像すれば、龍馬を筆頭に勝海舟、陸奥宗光、伊藤博文、井上馨、桂小五郎、五代友厚、寺島宗則、吉井幸輔たちが浮かんでくる」とする。グラバー邸でフリーメーソンに入会したと推定するのである。同著にはまた次のような興味深い記述もある。
 1864(元治元)年2月、長崎でグラバーと初めて会った坂本龍馬は衝撃を受け、8月末あたりからその動きがつかめなくなる。史料によると、11月(旧暦)にぽつりと一度姿をあらわしただけで、江戸に潜伏して外国船で密航を企てた形跡だけを残して、また消息を絶つ(立つ)。加治は以上を述べた後に、次の一文を記す(208P)。「(龍馬が)次に現れたのは、それから半年後の翌年4月5日(旧暦)、京都の薩摩藩吉井幸輔邸である。吉井は、幕末の志士としての知名度は低いが、恐ろしいほどの重要人物だ。彼はまさに英国工作員として、維新をし損じることなく駆け抜けるのだが、それはさておき……」。
 行方不明だった時期に、龍馬は上海に密航していた。龍馬が少なくとも二度、海外に渡っている可能性があると指摘した加治は、龍馬がその次に姿を現すのは京都の薩摩藩留守居役の吉井幸輔邸であるとし、吉井を「恐ろしい程の重要人物」と明言し、続いて「吉井は英国スパイの外交官アーネスト・サトウらと手紙を用いて頻繁に交信し、維新実行の手配をしていた」と断定している。
 吉井が英国のエージェントであったという加治説の詳細は前掲著を見て貰うしかないが、吉井ら維新志士の多くがグラバーの呼びかけでフリーメーソン(落合はワンワールドと呼ぶが)に入会したとの説は、正鵠を得ているものと思う。
 結局、明治維新の真相の一斑にせよ、何かの形で権威を帯びて世間に公開されるまで、志士たちのワンワールド疑惑は解明されまい。だが、その裏付けとなる状況証拠はようやく整い、社会にむけて急に発信され始めた。それは、日本社会が進歩した結果なのか、それともワンワールド自身の意図なのか分からない。いずれにせよ、加治氏の一連の著作はその典型的なものと思う。 
先ほど、「宇宙巡礼」-掲示板に以下の書き込みがあったので、紹介します。

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スレッド・タイトル:ブログ[教育の原点を考える]
名  前:サムライ氏
Eメール:
レス番号:64

 ●今週発売された『NEW LEADER』7月号に、連載中の落合莞爾氏の「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(7)」で、フルベッキ写真を取り上げていましたので御報告致します。
目を通してみましたが、かなりの部分にわたって加治氏の手口に落合氏が填っている感があります。先ほど慶応大学の高橋先生にもメールし、上記の落合氏の意見に対する反論を一筆書いて頂けるようにお願いしてみました。反論の原稿を書いていただけるようでしたら、ブログ【教育の原点を考える】に掲載の予定です。

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 期待して待ちたいと思う。
吉薗周蔵の手記(7)-参考
★↑上の写真は、通称「フルベッキ写真」と呼ばれる問題の写真。
 大室寅之祐は、中央下段、フルベッキとエマの下で斜に構える細身の若者。
 後の<明治大帝の若き姿>という説もある。
  勿論、「ホンモノ」は、伊藤博文などによって暗殺されたと、彼らは主張する。
真偽は依然定まらないが、「妄想だ!」と否定する根拠も弱い。
問題は、暗殺等の事実関係も重要だが、そういうことが(情報がということである)どのように
 日本の近・現代史で受容されていったのか、誰が利用したのか?いつ如何なる状況で、ということだと思う。例えば伊藤博文暗殺の犯人とされた、安重根の裁判時の「イトウの罪状告発」ひとつとってみても「受容」状態は推測される。
 「事実か否か」とは別に追究・考察すべき課題だろう、と思う。  

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落合莞爾氏のこの連載も第七回となり、上原勇作(伝)から「高島鞆之助とワンワールド(フリーメーソン)」、薩摩三傑・吉井友実の経歴の追究、「フルベッキ写真」の被写体の誰何、武器商人・グラバーとの交通関係など興味尽きない記述が続く。

 そこで、参考になればという意味で、ここ(第七回)の「フルベッキ写真」についての一節<<・・つい数ヶ月前にも某大学の准教授が、「被写体の多くは平凡な人生に終わった佐賀藩の諸士に過ぎぬ」との考証を発表したばかりである。・・・>>、という記述のある「某大学・准教授」の考証を紹介する。  



 ●「教育の原点を考える」というブログより。
  先ずは、時系列で。
 http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2007/05/post_c39a.html#comment-13564088
 2007年5月 8日 (火)
 小説「幕末維新の暗号」の検討結果
 慶応大学の高橋信一助教授から『幕末維新の暗号』(加治将一著 祥伝社)の書評が届きましたので、本ブログ上で皆様に一般公開させて頂きます。なお、以下の「フルベッキ年表」(verbeck_relatled_chronology01.xls)も是非参照願います。
「verbeck_relatled_chronology01.xls」をダウンロード
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 http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2007/06/post_c844.html

 2007年6月 3日 (日)
 「フルベッキ写真」の汚名の変遷
 慶応大学の高橋信一准教授から『「フルベッキ写真」の汚名の変遷』と題する論文が届きましたので、本ブログ上で皆様に一般公開させて頂きます。
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 ★万が一、未読ならば、
 准教授・高橋氏にも是非お薦めしよう。この落合論文の熟読を。
 

 <追記>
 ●「フルベッキ写真」検証=行方不明の坂本龍馬はーの文中「フルベッキのすぐ下で太刀を抱えて斜に構えた若者」は、「力士隊に属した大室寅之祐だという人もある」、の大室寅之祐については、故・鹿島のぼる氏の二冊を。
 
 1.『裏切られた三人の天皇』 1997.1.20 新国民社
 2.★『明治維新の生贄』    1998.7.28  同上
 
 *上の二冊が手に入らないようなら、最近出された、二冊の要約版。
 3.★『二人で一人の明治天皇』 2007.1.15 たま出版
  をお薦めしておく。







(私論.私見)