吉薗周蔵手記(6)
更新日/2021(平成31→5.1日より栄和改元/栄和3).2.1日
(れんだいこのショートメッセージ)
2005.4.3日、2009.5.27日再編集 れんだいこ拝
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(6)
「上原勇作応援団」の正体を探ると、隠された近代が見える
本稿は、陸軍元帥上原勇作の個入付き特務であった吉薗周蔵の自筆手記に、隠された日本近代史の解明を目的とするものである。当然ながら元帥その人を知る必要があり、それには上原を育てた陸軍中将高島鞆之助、元帥野津道貫、元帥樺山資紀、陸車大将川上操六らの事績を知らねばならない。樺山と高島は単なる軍人でなく、正体は政治家で、むしろその方に本質があった。ところが、この二人は、世間に対しいかにも朴訥の薩摩軍人らしく振る舞ったので、生存中ですら「一介の武弁」と見られていた。当今に至っては、史家も僅かにその名前を知るのみで、もしそれ論考に至っては皮相の羅列に終始し、真相を穿ったものをほとんど見ない。本稿が彼らの事績を考究するのは、そのことが『周蔵手記』の解読のみならず、近代史の隠された真相に迫るために不可欠だからである。極言するならば、高島鞆之助が判らなければ、日本近代史は判らない。かかるが故に、読者諸兄にはもう少々我慢してお付き合いを願いたい次第。
1.上京直後、近衛参謀長・野津道貫邸に寄留決定の不思議
明治四年春、御親兵募集に応ずるため上京した三十一歳の野津道貫は、七月二十三日に少佐に任ぜられ、翌五年八月中佐に進級した。七年一月大佐に任じられ、近衛参課長心得に就いた。野津の三歳年下の高島鞆之助も陸軍入りを目指したが、西郷隆盛の推挙によって宮内省侍従に挙げられ、明治天皇の近臣となった。二十八歳の高島は、妹が野津の夫人だったので、老母・家族とともに義弟の野津少佐邸に同居していた。
龍岡勇作(のちの上原)の実兄龍岡資峻も、四年八月に御親兵を目指して上京し、近衛第二大隊に編入されたが階級は低く、翌年十月に陸軍伍長に任じられた。十六歳の勇作は兄の後を追って単身上京を決意、十二月十五目に都城を出て翌五年の一月十四日に東京に到着したが、訪ねた兄の兵舎では下宿が不可能なため、一旦柴田藤五郎の家に寄寓し、二月二目に至り野津邸に寄食することとなった。
それを同郷人の斡旋によるものと『元帥上原勇作伝』(以下単に「伝記」とする)に記
すが、上京後わずか二週間で近衛参課長邸に寄留する話がまとまるなぞ尋常ではなく、その裏では勇作の叔母・吉薗ギンヅルが采配し、同郷人を使って寄宿話を進めたものと見て間違いない。ギンヅルは明治二年に愛人の公家正三位右衛門督堤哲長に死に別れ、忘れ形見の次長(後の吉薗林次郎)を提家に認知さすべく運動しながら、浅山丸などの高貴薬を製造販売して提家の財政を支えていた。浅山丸は都城藩にとっても貴重な財源で、ギンヅルは同藩の製薬事業にも関与していたのである。
伝記には「是れより兵学教官武田氏に就き研学す。二月二十一日、外国語学校へ入学」とあるが、勇作は野津邸に下宿した直後、高名の兵学者武田氏に就いて学んだようだ。武田は当時、フランス語の私塾を関いていたので、伝記にいう外国語学校とは、実は武田塾のことと思われる。また、上京直後、柴田が学問の方向如何を問うたところ、勇作は「フランス学を学びたい」と答え、さらに「将来の目的如何」と問うと、「軍人たらんとするにある」と答えたと伝記はいう。軍人志望を唱えたのは薩摩士族の境遇からして当然のことであるが、明治三年制定の兵制で、陸軍はフランス式、海軍はイギリス式ときまったから、これは陸軍を志望する意味である。
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (6)-2 「フランス学研究」で錯綜する学歴に隠された秘密
ここで、陸軍の幹部養成制度について述べると、明治二年九月大阪兵学寮が創設され、十二月には新生徒が青年学舎に入校した。後の士官学校である。大阪兵学寮には青年学舎のほか、三年四月に京都の仏学伝習所から移行した教導隊、五月に横浜訳語研究所から移行した幼年学舎があった。
明治四年十一月、大阪兵学寮は陸軍兵学寮と改称し、十二月十日を以って東京に移転、同時に沼津兵学校も東京に移転して管轄下に入り、教導隊工兵生徒となった(因みに、海軍では明治二年九月に東京築地に創設した海軍操練所を三年十一月、海軍兵学寮と改称し、のちの海軍兵学校となる)。
明治五年六月二十七日、陸軍兵学令が改正され、陸軍兵学寮管轄下の各学校は、青年学舎が士官学校、幼年学舎が幼年学校、教導隊が教導団とそれぞれ改称された。七年八月、士官学校は兵学寮から独立して陸軍士官学校と称し、翌年二月に第一期の生徒募集を行なった。幼年学校も八年五月に独立、陸軍幼年学校と改称して最初の募集を行うが、第一・二期生は陸軍兵学寮の時に入校していたため、初入試の対象は第三期生徒であった。
野津邸に落ち着いた龍岡勇作が、将来の陸軍幹部を志望するのであれば、目指すは陸軍兵学寮の幼年学舎ということになる。ところが陸軍兵学寮もろとも四年末に東京へ移転した幼年学舎は、五年六月の陸軍兵学令の改正を以て幼年学校となるが、この年には募集を行なわず、翌六年の入校生か第一期生徒となる。一方、二月二日に野津邸の書生となった勇作は、早くも二十一日から武田成章の私塾に通い受験準備をしていたが、幼年学校が生徒募集をしなかったので南高を選び、六月に合格したものであろう。南校の入学年限は数え十六歳以上で、勇作は十七歳であった。
伝記の巻末年譜には「五年六月大学南校(大学予備門)に入り、官費生としてフランス語を学ぶ」と記すが、大学南校は、二年十二月に開成学校が改称したもので、四年七月の大学廃止後は単に「南校」と呼ばれたから、正しくは南校である。「官費生には寄宿舎が提供されたが、依然として野津邸に寄食した上原は、明治五年十一月に至り夜学に行くことを許され、初めて算術を学び、ついでフランス学を研究し、その後、武田成章の塾に入った。野津家の用務を終えた後、武田塾に通ってフランス語を学ぶこと三か月、フランス人と直接対話できるまでになり、以後は開成学校に通った。ほどなく大学南校の入学試験に合格した」と伝記の本文は語るが、これは正確ではない。
まず、開成学校も大学南校も、ともに南校の旧名だから、記載内容が重複しているし、五年六月に南校に入学したとする年譜との間に、前後撞着がある。真相は多分、上京直後の五年二月末から武田成章の夜学塾に通い、三か月後の六月に、早くも南校((開成学校)に合格したのであろう。
因みに、武田成章は文致十(一八二七年生まれの旧伊予大洲藩士で、緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、更に佐久間象山の門弟となり、洋式兵学を学んだ。象山の推挙で幕府に出仕し、函館開港に際してペリー提督の応接員として函館に派遣され、その後は同地に留まって函館奉行の下で諸術調所教授となった。わが国郵便制度の父と呼ばれる前島密(のち男爵、同じく鉄道制度の父たる井上勝(のち子爵)はその時の弟子である。北辺防備の強化を願う函館奉行の依頼を受けた武田が、オランダの築城書を頼りに築造したのが五稜郭で、工事は安政四(一八五七)年に始まり元治元年(一八六四)年に完成した。武田はまた、本邦で初めてストーブを発明したことでも知られている。維新後の武田は、明治五年頃には東京で兵学・フランス語の塾を開いていたが、勇作は二月末からひとまずそこに通い、三か月後に南校に合格した。
伝記は錯綜しているが、「明治五年十一月云々」と明記したのは、誤解とは思えない。おそらく勇作は南校一年生の五年十一月からフランス語と数学の補習のために、再び武田塾に通うことを命ぜられたのではあるまいか。荒木貞夫が監修した伝記は、勇作の当時の境遇をあたかも野津邸で酷使される一介の学僕のごとくに語るが、私塾通いといい南校への進学といい、あるいは補習塾通いとといい、野津邸では一介の書生にあるまじき厚遇を受けていたというのが正しい。荒木編纂の伝記が、辻棲の会わぬ体たらくに終始したのは、上原自身が、自分の前半生の真相ことにワンワールド関係をひた隠しにしたからだと思われる。
因みに、武田ほどの偉材を新政府が見逃すわけもなく、明治七年三月に陸軍入りした武田は、初任陸軍大佐で陸軍兵学寮大教授に補せられた。陸軍兵学寮の管轄下の幼年学校は明治六年になって第一期生徒を募集するが、そのあたりの情報を、近衛参謀長・野津大佐や高島侍従番長が知らぬ筈もない。明けて南校の二年生になった勇作に、幼年学校への転校を進めて当然だと思うが、それをしなかったのは、それなりの事情があるのだろう。
吉薗周蔵の手記 (6)-3
吉薗ギンヅルは本当は誰に上原勇作の後見を頼んだか
南校で勇作の級友になられた伏見宮貞愛親王の洋行が決まり、随行員として勇作が選ばれ、絶好の機会と喜んだのは当然で、随行を熱望したが、野津が反対して実現しなかった、と伝記はいう。反対の理由は未詳であるが、後年勇作は述懐し、「あのとき随行しておれば、宮内省の一官吏に終わったかも知れぬ」と語っている。貞愛親王との交友関係も、陸軍幼年学校に転校しなかった理由なのだろうか。また伝記には、武田に将来の希望を聞かれた勇作が、「将来は海軍に入りたい」と述べたとある。海軍ならば英語を学ぶのが当然で、武田も面食らったと思われるが、これらの逸話からすると、勇作が上京の当初から、何が何でも陸軍志望だったとは思えず、将来に関しては別の選択肢も与えられていたのではないか、とも思える。
そう考えると、ギンヅルが勇作の後見を頼んだのは、野津少佐よりもむしろ同居人
だった高島侍従番長の方ではなかったか。京の薩摩藩邸の女中頭をしていたギンヅルは、薩摩の若手藩士の多くと親交があったが、とくに高島鞆之助との間は格別だったことが後年の二人の関係からも推し量れるからである。伝記が何度も強調するように、勇作が当初から軍人志望だったならば、後見人の高島や野津が、幼年学校の募集要項や応募条件を見落とすことなぞあり得まいと思う。
高島鞆之助は七年五月十三日、侍従番長から転じて陸軍に入り、初任が大佐で、陸軍省第一局副長兼局長代理となり、八年二月には陸軍教導団長に転じた。また五月九日の改正で、兵学寮幼年学校が独立して陸軍幼年学校となり、武田が校長に就く。折から勇作は同校を受験するが、時に数え二十才で年令超過のために受付を拒否されたが、野津大佐が一歳ごまかした願書を出し直して無事合格、六月七日を以て第三期生徒として入学した。事実であろうが、都合が良過ぎる。恐らくこの頃になり、上原の針路が最終的に陸軍と定まり、夜学の師匠・武田成章が陸軍幼年学校の校長に就任したのを奇貨として、高島と野津が示し合わせて、同校に勇往を押し込んだのではなかろうか。陸軍教導団長と陸軍幼年学校長は、正に同格の同僚だから、高島は武田に対して極めて工作し易い立場にあった。勇作の入学くらい、どうとでもなった筈だ。
上京以来、海軍入りや文官への選択肢も含めて、勇作の進路を探っていたのは、叔母の吉薗ギンブルたったことは間違いない。明治八年二月二十三日、勇作は島津藩士上原尚実の養嗣となり、以後は上原姓を名乗ることとなる。
吉薗周蔵の手記(6)-4 野津道貫、高島鞆之助、乃木希典を結ぶ因縁
近衛参謀長・野津大佐は明治九年七月から三ヶ月間、米国フィラデルフィア万国博覧会に出張を命ぜられた。この万博は米国が独立百周年を記念し開催したもので、日本政府は博覧会事務局を設置し、田中芳男を派遣した。田中は伊藤圭介の門弟で、本・医学を学び、文久二年蕃書調所に出仕し、維新後は博覧会関係の職務に就くことが多く、農商務省農務局長から元老院議官を勤めた功績で明治四年男爵を授けられた。日本はこの万博に、陶器・漆器始め多くの工芸品を出品して日本の工芸技術の高さとジャポニズムの魅力を世界中に知らしめた。出品作品の「唐子獅子舞装節夫香炉」や「四季草花堆朱箪笥」などは今もフィラデルフィア美術館に飾られている。電話が初めて出品されるなど、逸話の多い万博だが、野津の派遣理由と任務については未詳である。
明治九年十月二十四日、熊本「神風連の乱」を皮切りに、二十七日秋月の乱、二十八日萩の乱と不平士族の反乱が相次いで起こる。教導団長・高島大佐は十一月四日萩に急行、大阪鎮台歩兵八連隊のうち二大隊を指揮し、広島鎮台司令長官・三浦悟楼少将と相携えた敏速な作戦により、萩の乱を鎮圧した。
翌十年二月十五目、西南戦争が起こる。十九日政府は征討大総督(総司令官)に有楢川官親王を任じ、参軍(副司令官に山県有朋陸軍中将及び川村純義海軍中将、第一旅団長に野津鎮雄少将、また第二旅団長に三好重臣少将を補した。薩摩車の攻撃目標となった熊本鎮台では、司令長官・谷干城少将が兵力差を勘案して篭城作戦を決断し、これを支援するため小倉第十四連隊長心得・乃木希典少佐に熊本城守備の命令が下る。
二月二十二日、第十四連隊を率いて熊本に向かう途中、乃木少佐が連隊旗を薩摩車に奪われる有名な事件が起きる。同日、高島大佐は長崎警備隊指揮官に補され、旧薩摩藩主・島津久光を説得するための勅使・柳原前光と随員陸軍中将・黒田清隆に従い、三月一日黄龍丸に乗って神戸港を出帆した。勅使一行は八日、鹿児島の錦江湾に入るが説得は遂に成功せず、黒田中将は三月十四日付で西南役征討参軍に補せられた。
高島大佐は、真正面の敵には滅法強い薩摩健児の性向に鑑み、別働隊を設けて熊本南部で薩摩車の背後を衝き、補給路を分断する作戦を、黒田参軍に提案した。黒田は早速これを採用し、二十八日別働第一旅団長に高島少将(同日進級)を補し、別動第二旅団長に山田顕義少将、別動第三旅団長に川路利良少将兼大警視を補して指揮を執らせた。別働隊は顕著な功を挙げ、高島少将は十月十六日に凱旋するが、時に三十三歳であった。。
一方、野津大佐は十年二月十九日、西南役征討軍第二旅団の参謀長に転じ、十月に凱旋。翌十一年十一月二十日に陸軍少将に進級し、陸軍省第二局長なる。時に三十七歳で極めて順調な昇進だが、それでも高島には追い抜かれたのである。
吉薗周蔵の手記(6)-5 「あれでも軍人か、早く身を固めさせよ」といわれた乃木
高島鞆之助は乃木希典と静子夫人の結婚を媒酌(媒介)した。聖将と呼ばれ日本軍人の代表と讃えられる乃木は、嘉永二(ー八四九)年長府藩士に生まれ、幕末に長府藩報国隊に入り、奇兵隊に合流して小倉口で幕府軍と戦った。明治二年、藩命により伏見御親兵営に入隊し、四年十一月二十三日に少佐となるが、時に二十三歳であった。五年二月に東京鎮台第三分営大貳心得(部隊長格)、六年四月名古屋鎮台大貳心得、八年に熊本鎮台歩兵第十四連隊長となる。十年二月二十二日、西南戦争で熊本鎮台救援に向かう途中、先述の連隊旗事件があったが、四月二十二日に中佐に進級、凱旋後の十一年一月二十六日、歩兵第一連隊長に補された。
(*連隊旗事件については後ほど詳しく記す。)
若い頃からすさまじい放蕩癖で、しかもゾロリとした着流しで柳橋辺りに出没する乃木は、「あれでも軍人か」と陰口を言われ、周囲は乃木の身を固めさせようと気を揉んでいた。
宮本直和『大阪偕行社附属小学校物語』によれば、この縁談を持ち込んだのは、副官の伊瀬地好成大尉である。伊瀬地は鹿児島藩士出身、嘉永元年生まれで明治四年の御親兵募集に応じ、七月二十五日初任が陸軍少尉、乃木とは出発点で三階級も違ったから、乃木中佐より一歳上ながら大尉第一連隊副官であった。日清戦役では大佐で歩兵第二連隊長、三十三年に任陸軍中将・第六師団長に補され、三十七年の日露戦役での留守近衛師団長としての功績で、四十年に男爵を授けられたほどの人物である。伊瀬地大尉は鹿児島の生家の隣に住む薩摩藩士湯地定七の娘を紹介した。両家は高島の生家とも近かった。
十一年七月に行われた見合いの場所は、麹町区紀尾井町の伊瀬地大尉宅で、この邸はのちに大嶋久直に譲られ、今は上智大学構内にある。大嶋は秋田久保田藩の出身で、伊瀬地と同じ嘉永元年生まれだが、明治四年五月に初任中尉、日清役で勲功を立て、二十八年男爵。日露役でも功績あり、三十元年陸軍大将、四十年子爵に昇った。この日は伊瀬地家の新築祝いで、野津鎮雄中将、野市道貫大佐、高島鞆之助少将ら、主に薩摩出身の軍人が来賓として出席した。その宴会の手伝いに狩り出されて立ち慟いていた静子を、野津鎮雄が乃木に見せて快諾を得たので、新築披露の席は一変して婚約披露宴となった。二人は同年八月二十七日、高島鞆之助夫妻の媒酌で結婚した。乃木は二十九歳、湯地静子は二十歳であったが、乃木は婚儀の前日も柳橋で遊蕩し、舟に乗って式場にやってきたという。
(私論.私見)