吉薗周蔵手記(52)


 更新日/2021(平成31→5.1日より栄和改元/栄和3).2.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2005.4.3日、2009.5.27日再編集 れんだいこ拝


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(52)        ◆落合莞爾
 ― 維新を牽引した「南朝正統論」と「隠し玉」の真相 

 
 ★水戸藩から長州・薩摩へ 南朝忠臣・楠公尊崇広がる

 前月稿(三月号)で述べたように、幕末維新をもたらした対立軸に三あり、①開国と攘夷、②公武合体と倒幕、③皇統南北論、これである。今月は主に③について述べる。皇統南北論とは、「万世一系の皇統とは現に仰ぐ北朝皇室か、それとも足利覇権に追われて歴史の闇に消えた南朝か」を論ずる歴史疑義のことである。室町時代以来、後者すなわち南朝正統論が識字階級の心理に潜在していたが、江戸の末期に南朝の忠臣楠木正成(楠公)を顕彰する政治運動として突如発露した。楠公は後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王を支えて足利尊氏に対抗したため、足利氏が擁立した北朝から逆臣とされ、後南朝勢力がしばしば蠢動した室町時代には朝敵の扱いを受けていた。永禄二年(一五五九)に至り楠公の末裔楠木正虎が正親町天皇の勅免を取り付けたが、その後幕府が徳川氏に替っても公然称揚する者がなく、半ば謀反人扱いの楠公を初めて顕彰したのは水戸二代藩主徳川光圀で、元禄五年(一六九二)楠公戦死の地湊川において楠公の墓碑を建設した。

 幕末に至り、水戸藩主徳川斉昭の師の藩儒会沢正志斉が、著書『草堰和言』で国家功臣の祭祀の必要を論じ、例として「楠木贈左中将」を挙げた。「今楠公」といわれた久留米水天宮の祀官★真木和泉は、安政六年(一八五九)に『経緯愚説』(*野宮定功に呈するため、安政五年六月?)を著して会沢説を継ぎ、楠公ら古来の忠臣義士に贈位すべきことを論じた。学習院で下級公家や勤皇志士と交流した真木の影響で、閑院宮系朝廷の内部に楠公尊崇の機運が生じ、武家伝奏野宮定功を通じて献上された同著を孝明天皇は直ちに嘉納された。文久三年(一八六三)学習院出仕(六月)を拝命した真木は、八月十八日の政変で京を追われた三条実美ら尊攘派七卿の長州落ちに同行する。旅の途中、七卿が湊川に立ち寄り、楠公墓碑を参拝したのを見ても、尊攘倒幕思想と南朝思慕感情の関連は明らかである。

 尊攘派の七卿と真木ら志士を迎え入れた長州藩が、元治元年(一八六四)藩校明倫館で楠公祭を執行するのは、真木の影響というより、吉田松陰以来藩内に培われた南朝正統思想によるものであろう。楠公祭は他藩でも盛んに行われた。佐賀藩では夙に嘉永三年(一八五〇)、枝吉神陽・副島種臣・島義勇・大木喬任が発起人として結成した楠公義祭同盟に、後日江藤新平と大隈重信が加わる。薩摩藩では万延元年(一八六〇)有馬新七が建てた楠公社の鎮座式に大久保利通・伊地知正治・岩下方平などが参列し、遠島のために参列できなかった西郷隆盛は明治になって同社を鹿児島軍務局に移し、軍務局廃止後は私学校に移した。南朝武士菊池氏の末裔を意識していた西郷の楠公尊崇はかくも強かったのである。

 水戸学の影響を受けた薩摩藩士折田年秀が文久三年、楠公の国家祭祀のための神社創建を提言すると、薩摩の国父島津久光は翌四年、京都留守居役を通じて楠公・護良親王及び北畠親房ら南朝忠臣を祀る神社の創建を朝廷に建白する。これを天皇が即日聴許されたことを知った幕府は、自ら楠社の創建を図るが、既に勅許が下りた薩摩藩の楠社創設を認めざるを得なかった。楠社創建の準備のため、西郷隆盛と吉井友実が湊川で社地を検分していた当日に池田屋事件が起こり、やがて禁門の変で薩摩藩と長州藩が戦闘状態に入ったので、薩摩藩の楠社創建は一時中断することとなった。

 ★土佐勤皇党出身、後に長く宮内相を務めた土方・田中

 明治維新を推進した薩長土肥のうち、三藩には楠公尊崇の事績が顕著であるが、土佐藩は藩祖山内一豊が家康から土佐一国を拝領して以来、幕府尊重の念が深く、藩主山内容堂は公武合体派の重鎮であった。独特の郷士制度と厳格な藩士の上下差別を定める土佐藩では、藩政を握る保守門閥層と差別打破を念願する下士階層の心底に、楠公尊崇において異なる処があったらしい。下士武市瑞山(半平太)は文久元年(一八六一)七月、たまたま江戸で出会った薩摩藩士樺山資之、長州藩士久坂玄瑞と麻布の長州藩空屋敷において三藩下士連盟を約し、これに基づき挙藩勤王を目指し、土佐における攘夷運動の中核として土佐勤王党を結成する。党員は下士を主とし郷士・地下浪人・庄屋などで、上士は二名に止まり、郷士坂本龍馬は武市との意見相違からやがて党を去る。二百石の上士で用人格の土方理左衛門の嫡子土方楠左衛門は武市に傾倒して入党、文久三年藩命により上洛し、八月十四日に朝廷から学習院御用掛を拝命するが、四日後に八月十八日の政変が起こり、七卿の護衛となって長州に移った。第一次長州征伐に敗れた長州で、俗論党により藩論が佐幕に傾いた時、単身萩城に乗り込み、毛利侯に謁して勤皇倒幕を説いた土方は、鳥居強右衛門・木村長門守と並んで史上の三大使者と呼ばれた。土佐藩家老深尾氏の家来田中光顕(一八四三~一九三九)も武市に傾倒して入党し、八月十八日の政変で尊攘激派として謹慎処分を受けたが、翌元治元年に脱藩し、長州藩を頼って高杉晋作の弟子となった。

 維新政府の顕職を経た土方は、明治十八年に発足した宮内省の初代大臣伊藤博文の後を受け、明治二十年(一九八七)から三十一年(一九九八)まで大臣を務めた。後継の田中光顕も明治四十二年まで宮内相を務め、合わせて二十二年間も宮内省を支配した両人は、天皇親政を唱える中正派の中心となり、伊藤博文ら立憲君主派と論争した。昭和四年二月、南朝の後裔三浦天皇を称する三浦芳聖は、宮中顧問官山口鋭之助の紹介で会った田中から、「松陰先生は、足利義満が簒奪した現皇統を排し、大内氏以来長州萩に匿ってきた南朝の末裔を建てねばならぬと言われ、これが維新の原動力となった」と聞いて驚くが、田中は師の高杉晋作から教わったのである。両人が天皇親政を主張したのは「維耕の目的は南朝復元と建武新政の再現にある」と明確に意識していたからで、両人の属した土佐勤王党は明らかに南朝派であったが、土佐藩に楠社の事績がないのは、藩政を握っていた上士層が、公武合体派で徳川贔屓の藩主の意思を忖度し、尊皇倒幕に通ずる楠公尊崇を藩政に持ち込まなかったからであろう。

 ★元来、南朝勢力が潜在する親藩・紀州藩の【特殊事情】

 親藩尾張藩でも文久二年以降、藩内数か所に楠公を祀る神社を建て、慶応三年(一八六七)十一月、藩主慶勝が京都に楠公神社を創建することを願い出たが、諸事多端の中で立ち消え状態になる。同じく水戸も明治元年、楠公社の創建を自藩に一任するよう願い出て保留になるが、以後も再三願い出た。薩摩藩も一旦中断した楠公社の創設に再び動き出し、南朝功臣の祭祀を国家行事とすべきことを建白する。尾張・水戸の両藩が楠公社創建を競願する中で、紀州藩はどうしたか。紀州は元来南朝の地盤で、例えば陸軍中将貴志彌次郎の菩提寺徳號寺に紀北土豪連盟の名簿たる『三拾六坊名前帳』が伝わるが、その巻頭に「雑賀三十六坊は楠木正成に味方したことが起源」と明記する。しかく南朝勢力が潜在する紀州で、真宗興正寺末の二寺院が注目される。

 和歌浦中番の性應寺は、和田楠木氏の一族安満右馬丞明武が吉野の御所で後醍醐天皇から阿弥陀仏を賜り、法号了願として開山し、初め天台宗であったが、本願寺の実質的開祖覚如上人の教化により南北朝時代に真宗に改宗、天文年間に性應感寺と改号した。爾来、西本願寺下興正寺派の中本山として、紀州領内に末寺六十二寺、河内・摂津にも末寺を擁したが明治十年、維新後に真宗解禁となった鹿児島に移転した。和歌山城下新中通りの真光寺は楠公の甥和田新発意源秀を開基とし、後醍醐天皇の時に真言密教の道場として泉州に創立したが、南北朝の康氷年初(南朝興国年間)真宗に改宗、天文年間に紀州に移り来り、藩内に三十五寺、泉州に三寺を擁する大寺院となった。和田楠木氏開山の両寺は、紀州領内それも和歌山城下周辺に、併せて百に近い末寺を有し、檀家総数は無慮一万戸、信徒数は当然その数倍になる。付近住民の大多数を檀家とした両寺は、南朝勢力が紀州西北部に張った宗教ネットワークで住民自治の拠点になったのである。してみると、両寺が密教から興正寺へ改宗したのは、南朝勢力を真宗内に扶植する目的との推察も成り立つ。

 南朝勢力が根を張る紀州領に楠公社の存在を聞かない理由を、次のように思う。『南紀徳川史』寛永七年(一六三〇)条に「是歳由比正雪、来遊於藩」とあるように、藩祖徳川頼宜は楠公の衣鉢を継ぐ由比正雪(一六〇五~五一)を紀州に招いた。正雪は楠公の末裔楠木不伝に軍学を学び、婿養子となって橘姓を称し、楠氏代々の通字「正」を名乗る気鋭の軍学者であったが、楠木流軍学の道場を江戸に開き、紀州侯との関係をひけらかして門弟を集め、その数三千人と称した。慶安の変後、遺品中に頼宜の自筆書状が発見され、重大関与が疑われた頼宜は、辛うじて幕閣の追及を逃れたものの、終に失脚したので、以来紀州藩では、楠公が暗黙のタブーになったものと推察される。

 ★「自前の天皇」水戸藩はなぜ熊沢天皇を擁したか

 以上に見た通り、幕末維新の諸事多端の中で、雄藩が先を争って楠公社創建の許可を求めたのは、当時最重要の政治事項と考えたからである。大政奉還と南朝復元が同時に実現したことに勘付き、「楠公顕彰」の本質は「南朝復元運動」で、これぞ維新の真の目的だったことを覚り、新政参加の意思を表すために、楠社の設立を急いだのである。楠公祭祀は尾張・薩摩・水戸藩の競願となったが、これを国家の重要事業と判断した太政官は、明治初年に神祇事務局に命じて湊川神社を創建した。

 水戸藩の南朝正統論は決して空論ではなく、朱子学の名分論からくる南朝復元を、陽明学の知行合一精神で実現せんものと図っていたのである。南朝の後裔を探した光圀が、後亀山の三世孫の熊野宮信雅王の末裔を見つけ出し、会津領澤村に秘かに庇護して、所謂熊沢天皇とした目的は正にそこにあった。家康が定めた幕府の秘密憲法『公武法制』によれば、幕府の永世副将軍とされた水戸中納言の権能は、西欧中世の「選帝侯」に似ていて、自らは将軍に就くことなく、幕府の悪政に際して将軍を廃立すべきものとされた。これは、場合によっては徳川幕政に幕を引くこと、つまり政体の改変を意味する。水戸藩が熊沢天皇を擁したのは、副将軍とすれば越権となるが、政体改変の機会を利して敢えて南朝革命を実現する目的と思われる。歴代藩主が勤しんだ歴史研究も畢竟、南朝復元に際しての理論武装を目的としたものであろう。光圀と秘かに交流があった陽明学者熊沢蕃山(一六一九~九二)は、自著に「我は高貴の生まれ」と述べているらしいが、播州池田侯による異例の重用と、これに伴う幕府による厳重な監視の所以は、所詮蕃山自身の所論・学説に非ずして、その出自の南朝皇統たるに因るものと見るしかない。

 覇者に大政を委任する天皇は、現実には生身の人間であるから、その即位・譲位を覇者が左右した例が史上珍しくない。覇者が新政体を樹てるに際して自前の天皇を擁した例を挙げれば、式家の藤原百川と山部親王(桓武天皇)、平清盛と安徳天皇、足利尊氏と北朝天皇である。『公武法制』の存在を知った雄藩は、「いつかは徳川氏に代わり、この手で天下を掌握せん」との大志から、秘かに「自前の天皇」を準備した。譜代筆頭の井伊藩は、遠祖井伊道政が後醍醐の皇子宗良親王を遠州井伊谷に擁した故事で知られるが、江戸時代には宗良親王の兄尊良親王の末裔を三浦天皇として三河国岡崎に隠した。仙台藩もまた、後亀山院の末裔小野寺氏を藩内に保護した。紀州藩では牟婁郡に南朝系浅利氏の蟄居を聞くが、詳細を知らない。ただし藩士の書上を集めた「紀州家中系譜並に親類書」には、大塔宮護良親王の後胤が二家あり、何れも元弘元年(一三三一)に笠置山を落ちた親王が熊野に向かう途中、名草郡調月村の井口左近家に逗留して儲けた男子から始まる。当初ごく微禄で召し抱えられた井口氏は、両家とも理由の判然としない異例の出世により、数代で大身になった。

 維新の志士たちが天皇候補を「玉」と呼んだ例からすれば、水戸藩の熊沢天皇、井伊藩の三浦天皇、大和吉野郡黒淵の「堀の皇門」、紀州藩の井口氏、仙台藩の小野寺氏などは、定めし「隠し玉」であるが、現実に「堀川政略」に組み込まれたのは、毛利氏が周防国麻郷に保護した護良親王系光良親王の末裔である。もと長尾氏が匿い、次いで大内氏が庇護した光良親王を、毛利氏が引き継いで大室天皇としたが、その養子となった地家氏の寅之祐が孝明天皇の皇太子睦仁親王と入れ替り、「替え玉」となったのである。

 万延元年(一八六〇)九月、水戸藩士西丸帯刀と長州藩士桂小五郎らの尊攘派が、長州藩の軍艦内辰丸の上で結んだ「成破の約」は、藩士間の私的な盟約であって藩を挙げたものでなく、両藩内もいまだ尊皇攘夷派と開国佐幕派に別れていたから、直ちに具体的行動に結びつかなかったが、締約の背景には、それぞれ熊沢天皇と大室天皇を擁した両藩の激派が南朝復元で一致したことがあった。水戸藩の南朝復元志向は前述したが、長州藩でも桂小五郎が吉田松陰の南朝復元論を受け継ぎ、具体的実現を図っていた。因みに、当初松陰の指した「玉」は長州萩在住の大室寅助であったが、やがて本家の周防国熊毛郡麻郷大室家の養子寅吉(のち寅之祐を称す)に替ったとの説があり、詳細は未詳である。

 ★死を装い皇太子を取り替える孝明天皇「堀川政略」の根源

 水戸学を通じて各藩に伝わった楠公顕彰が、文久二年頃に朝廷内にも広まったのは、水面下の「成破の約」の衝撃による水面の波紋に過ぎなかったが、文久三年(一八六三)の春、伊予松山の神官三輪田元綱が京都等持院を襲い、尊氏以後三代の足利将軍の木像の首を斬って三条河原に晒したのは、もはや楠公顕彰どころではなく、明らかに南朝復元活動の発露であった。しかく西国に澎湃と沸き起こってきた楠公顕彰の動きを、蒼生間に伏流する南朝復元願望の反映と覚られた孝明天皇は、安政五年より進めていた「堀川政略」の核心部分の実行を、遂に決断されるに至る。すなわち、天皇自ら死を装って堀川御所に隠れ給い、皇太子睦仁親王を大室寅之祐と取り換える荒業である。

 孝明の「堀川政略」の発端が、閑院宮皇統から皇位を継いだ祖父光格天皇にあることに気付いたのは、平成十八年五月号から送られてきた月刊誌『世界戦略情報みち』の記事である。十九年八月号から「歴史の闇を禊祓う」と題する連載を始めた栗原茂の論題は、やがて「超克の型示し」に移るが、その七回が二十年七月号の「孝明天皇による未来透徹の禊祓」で、いま改めてこれを閲するに、「閑院宮家の二代典仁親王に光格天皇即位の運命が、鷹司家を継ぐ輔平皇子(典仁親王の弟)に公武合体の使命が与えられる」とある。

 霊元上皇の内意を受けて新井白石が新設した閑院宮家は、東山院の皇子直仁親王を初代とし、二代が典仁親王である。栗原上掲の趣旨は、①夭折した後桃園院の後継として、典仁の皇子師仁親王が安永八年(一七七九)に光格天皇となったこと、及び②師仁親王の弟が鷹司家に入って関白鷹司輔平となり、甥の光格を支えて公武合体に勤めたこと、を意味する。

 光格即位の前後を見ると、六年前にイギリスがアヘン貿易に乗り出し、三年前にアメリカ独立宣言があり、十年後にフランス革命が起きる。二十六年後にナポレオンが皇帝に即位、三十五年後にはウィーン会議により欧州王室連合が成立し、永世中立を認められたスイスが王室連合の金庫となる。これらは、国際金融勢力(金融ワンワールド)すなわち「ヴエネツィア・コスモポリタン」の世界戦略の進展を意味するが、その衝撃波が世界を一周して日本に到達するのを、数十年後すなわち十九世紀半ばと予測したウィーン会議では、日本の開国と日本皇室の王室連合参加が秘かに諮られたと聞く。

 さらに栗原は、「常に禊祓を要するのが聖地の所以であり、また神格遷宮の禊祓は極めて重大な歴史認識を必要とする。江戸への遷宮の重さを心得ない愚策は孝明天皇の勅を粗忽極まる攘夷(排外)思想と誤訳して恥じない」と言うが、この晦渋な文章の意味は、本人によれば、前段は「禊祓を常に行う神格(シャーマン)天皇の棲み給う宮居の立つべき聖地は富獄を西側から拝するを要す。これ富嶽より東に皇居を遷すべからざるの所以」という。とすると、後段は「孝明が下された攘夷の詔勅の真意は、近未来の開国に際して生ずべき、皇居の東遷に関する深謀遠慮を示された」と解釈すべきこととなるわけで、これによれば「堀川政略」の根源を理解できると思う。

 

   ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(52)   <了>。







(私論.私見)