吉薗周蔵手記(51)


 更新日/2021(平成31→5.1日より栄和改元/栄和3).2.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2005.4.3日、2009.5.27日再編集 れんだいこ拝


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(51)
 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(51)

  -公武合体理念から乖離した江戸幕藩体制の流転     ◆落合莞爾 

 
 ★公武合体思想と國體観念の正しい理解 

 
 江戸日本の開国に向けての政治運動は光格天皇の御宇に胚胎したが、その基づくところの政治理念は本来は公武合体思想であった。公武合体運動とは、教科書歴史の説くところでは、「弱化する幕府権力を朝廷の権威を以て強化せんとする目的で安政ころから起こった政治運動」とされているが、この見方は狭きに過ぎ、況や皇室と将軍家の縁組を以て公武合体と解するなぞは失当というしかない。

 「國體」とは国の本来あるべき姿の謂いである。(「国民体育大会」との混同を避けるため、敢えて旧字体を用いる)。日本列島には古来、「日本社会はいかなる時代にも万世一系の天皇を芯核として成り立つ」との国家観念が伝わってきた。ここにいう「万世一系」とは明治憲法の法学的概念とは異なるが、それはともかく、この国家観念から派生する「永久不変なる國體に対し、天皇から統治権を委託された政体は時代により変転する」との政体観念をも含めて、國體観念というのである。

 公武合体の「公」とは國體の根底にある精神的権威のことで、具体的には天皇及び側近の公家衆を意味する。また「武」とは天皇から大政を委任された政体すなわち世俗的権力のことで、具体的には幕府将軍と幕藩体制を意味する。中世キリスト教世界では、王権神授説により皇帝と教皇が権威と権力の場を棲み分けたが、社会の進化の過程で精神的権威と政治権力の分離が進むのは、蓋し歴史の通則であろう。公武合体思想とは要するに、「公武の分離を前提に、両者における政治的価値観の合致とそれに相応する政治機構を常に求める政治理念」になろうか。

 武力による全国統一を果たした織・豊両氏は、公武合体理念による近代的国家体制の樹立を目指したが、両氏に替った徳川政権は歴史法則を逆行して、半ば郡県制度的な専制国家体制を樹立したのは、専ら国益上の見地からで、強固な貿易統制策を必要とした当時の世界情勢に対応したものである。すなわち室町末期から、国産銅地金が多量の金銀を含有したまま南蛮紅毛の貿易商によって不当に安く海外に流出しており、これを放置すれば日本社会の経済基盤の崩壊は必至であった。さらに重大な国家問題として、教科書歴史は今も黙殺するが、多数の邦人男女が九州沿岸から奴隷として秘かに輸出されていた。

 
 ★硝煙目当ての奴隷輸出 隠蔽ざれた国辱的史実

 
 室町時代は世界史上の大航海時代でスペインーポルトガルら南蛮人による洋上貿易が発展したが、主たる貿易品目の一つは男女奴隷で、南蛮人が奴隷狩りの形で原住民を拉致した例も他国にはあるが、輸串王は多くの場合当地の部族長で、他部族ないし領内の下層民を以て輸入品の代価に宛てたのである。当時の日本では火薬が必須輸入品で、戦国大名が何より必要とした鉄砲には煙硝が欠かせない。鉄砲そのものは国産を始めたが、硝石は国産しないから、その入手のために各大名はあらゆる努力を払ったのである。

 戦国大名たちはポルトガル商人と同根の宣教師に諂う(へつらう)ため、キリシタン布教の解禁はもとより自ら進んで洗礼を受け、領民の奴隷輸出さえ行ったが、すべて煙硝を入手するための手段であった。今日民主党の菅政権が、経団連が必須とするレアメタルの確保のために、中国政府による領土侵犯や邦人の公然拉致を黙認しているのと同断である。

 室町時代は勿論のこと、元和堰武の後にも、外様大名の多い九州地方では領民の奴隷輸出が秘かに行われたが、室町時代の記録にも江戸時代の稗史にも何ら記さない。これは当の領主も恥を知っていたからで、新政体江戸幕府もこれを国辱と感じ、ひたすら隠蔽を図った。明治政府もまた皇国史観に反する処から隠蔽したものと思われる。

 しかし数代にわたり政体が必死に隠蔽したので、さすがの白柳秀湖も気付いていないようであるが、薩摩の坊津を始め九州各所には、今も奴隷輸出の伝承がはっきりと残っている。吉薗周蔵も家人に対し「東南アジアの各港で、その昔性奴隷として売られてきた日本女性の末裔を数多く目にした」としばしば語ったと聞く。この国辱的史実を、専ら自虐史観に立つ戦後文化人が黙殺しているのは不可解であるが、マルクス史観と中華思想が混淆した敗戦史観に頼り過ぎて、真の日本史が見えないのであろうか。

 
★「島原の乱」はキリシタン征伐のためではなかった

 
 三代家光の治世に生じた「島原の乱」は、教科書歴史ではキリシタン信徒による宗教一揆と説明されるが、実態は領主松倉重政・勝家父子の暴政に対する百姓の反乱であった。幕府から一揆の原因を問われた松倉勝家が、「領民のキリシタン信仰の強固なるに因る」と弁明したのは、一揆の指導者がキリシタン大名の旧領主小西行長と有馬晴信の浪人だったことを利して、自らの暴政を糊塗せんとする強弁に過ぎない。当時のキリシタン勢力を過大評価する巷間史書も多いが、日本人の宗教観・社会観が元来一神教と相容れざることは、明治維新から今日に至るまでの、信教の自由を保障された日本における一神教の教勢推移が明白に証明する。白柳が「キリスト教の禁制などはその頃もうすでに完全に行はれて、ほとんどその必要を見なかったこと、島原事件の前後、幕府によって発布された法律を子細に点検して見るとよく分かる」という通りで、江戸幕府には、島原一揆に関わった数万人を、キリシタンを理由に皆殺しする必要なぞなかった。

 松倉勝家がキリシタン征伐の名目でルソン遠征を企てたことと謂い、勝家のキリシタン弾圧の残虐さを誇張した宣教師の態度といい、また数万人もの一揆勢を皆殺しにする一方で松倉重政を密殺した幕府の態度といい、いかにも不目然さが付きまとうから、島原の乱には、奥底にもっと重大な秘密があったのではないかと思う。

 有名な「島原の子守歌」は、明治時代に島原半島から大勢の「カラユキさん」が出国した証拠であるが、この地は室町時代から邦人奴隷の密輸出港であった。江戸初期に転封してきた新領主松倉氏は南蛮貿易に熱心で、ここを拠点に領民男女を密輸出していたのである。奴隷商人と宣教師は同根であるから、妄想を逞しくすれば、「かの島原信徒たちは、奴隷輸出を免れんがために、進んで洗礼を受けた」とも考えられる。

 一説には、この時のキリシタン数万人は李氏朝鮮国へ追放され、朝鮮半島にキリスト教徒の多い原因を成したというが、もしそのような事実があったのなら、国辱と幕府権威の失墜を避けるため、江戸幕府には松倉氏と領民の双方の口を封じる必要があったことになる。

 ともかく、国家経済の根幹たる金銀と、国家の基本要素たる人民を、硝石入手のために流出させるのは、国益を損する上に、政体としてこれ以上ない恥辱である。これを防止するためには、各藩の自由貿易を禁じなければならず、徳川の初期三代はその目的で強固な貿易統制策を全国的に実施した。そのために権力の中央集中を実現した新政体が幕藩体制で、貨幣浸透の歴史法則を逆行した重農主義を経済基盤とし、且つ譜代大名が幕政を独裁する郡県制的な専制主義を政治制度としたために、幕藩体制の本質は「武」が「公」を凌ぐものであった。 

       続く。
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(51)ー2
 
 ★新井白石の皇室維持策 八代将軍吉宗の大秘事

 
 しかし公武合体の政治理念から遠ざかった幕藩体制は、五代将軍綱吉の頃になると、滔々として流入する貨幣経済により根本的矛盾が露われ始めた。これに気付いた六代家宣の侍講新井白石が、未来政治のために公武合体論を唱え、具体化の第一歩として側用人老中格の間部詮房と謀り、正徳四年(一七一四)、霊元上皇の皇女で東山上皇(一七〇九年天皇退位)の異母妹に当る生後一か月の八十宮と六歳の七代将軍家継の婚約を決めた。教科書歴史はこれを、「白石と間部の強力な後ろ盾だった六代家宣が急死したため、幼い七代家継を擁して門閥派と戦う両人が、朝廷の権威で家継の立場を強化することを図ったもので、当時幕附と対立関係にあった霊元上皇も、幕府と結託して上皇に対抗せんとする近衛基煕の権力基盤を粉砕すべく、この縁談を歓迎された」という。正徳六年(一七一六)納采の儀を済ませるが、その二ヵ月に家継が死去したため縁談は自然解消となり、史上初の将軍家への皇女降嫁には至らなかった。

 白石はまた、皇室維持のための補完皇統として世襲宮家の新設を家宣に進言した。霊元天皇(在位一六六三~八七)が夙に要望されていた世襲宮家の増設を、幕府は拒否していたが、白石と霊元上皇の間に秘かな交渉があり、上皇の御意思を体したと思われる白石の提言に従い、東山天皇の皇子直仁親王を初代とする新宮家の創立を宝永七年(一七一〇)、幕府は承認する。この間、正徳六年(一七一六)に七代家継が夭折し、紀州家の吉宗が八代将軍に就いて年号を享保と改めた。霊元上皇も享保三年(一七一八)に至り、孫の直仁親王に対して閑院宮の宮号と所領千石を下賜された。

 享保十年(一七二五)十月十八日、秘かに上京した将軍吉宗が、修学院離宮の中之御茶屋で霊元上皇と直接面談し、今後の公武合体策を話し合った。この驚くべき秘事を近来「その筋」から仄聞したが、幕府記録には吉宗の上京なぞ微塵も記さないから、このようなことを披歴すれば史家の顰蹙は免れず、売文の輩からは、あるいは荒唐無稽と謗られるであろう。しかしながら、歴史の真実発掘を生命とする本稿においては、苟も合理的根拠がある以上、隠蔽するわけにはいかない。

 現に、紀州家に伝わってきた後水尾天皇愛蔵の光悦赤茶碗「紅葉之錦」の箱書には、日付と共に「修学院中之御茶屋で一瓢庵が之を賜る」と明記しているが、賜与者の名はない。ところが霊元上皇の紀行文『元陵御記』に、これに対応する記事があり、賜与者は霊元上皇で、御父後水之尾天皇の愛蔵品を「一瓢庵」に手渡したことが察せられる。

 そこで「その筋」に問い合わせた処、「一瓢庵」とは吉宗の号で、箱書も本人の筆と教えられた。公武合体合意の物証たるこの重宝を、吉宗は江戸城に置かず、紀州家に送って秘蔵させていた、とのことである。

 初代閑院宮直仁親王の第六皇女五十宮倫子内親王と、九代家重の世子家治(のち十代将軍)が婚約したのは寛延元年(一七四八)で、霊元上皇の曾孫と吉宗の孫の縁組であった。将軍の座を家重に譲った後も幕政を掌握していた吉宗が、二十二年前の修学院における霊元上皇との約束を果たしたのである。五十宮は将軍家治の御台所として二女を儲けたが、あいにく男児に恵まれず血統上の公武合体はならなかった。安永八年(一七七九)後桃園天皇が夭折したため、五十宮の甥の師仁親王が閑院宮家から入って皇位を継ぎ、光格天皇となる。多くの古儀を復活して朝廷権威の復元に益した光格天皇を幕府が支援したのは、皇室と幕府が連携して公武合体思想の具体化に踏み出したものと観るべきである。

 
 ★安政年間、澎湃と湧く「尊皇賤覇」「南朝思慕」

 
 安政年間に至り、公武合体論が現実味を帯びる。老中首座に就いた阿部伊勢守正弘が盟友の薩摩藩主島津斉彬を語らい、内憂外患に処するための公武合体的政策を実行に移すこととし、幕藩体制に変革を施した。阿部はまず、従来譜代大名が独占していた幕政に、親藩・外様の雄藩大名を参加せしめた。今風にいうならば、「譜代党の独裁に終止符を打ち雄藩党との大連立を図った」わけで、これにより政体は公武合体の理念に一歩近づく。しかしながら、阿部が先例を敢えて破り、親藩から登用して幕閣の外交顧問に就けた水戸斉昭が、外交上の難問に取り組む阿部に対して、閣内に在りながら水戸学伝統の攘夷論をかざし悉く異論を唱えたので、外交方針における改革的開国思想と伝統的攘夷思想との対立が露わになり、これが幕末現象の第一となった。

 安政三年(一八五六)十三代家定の御台所が薨去して、継室の議が起こった時、阿部正弘は島津斉彬と謀り、斉彬の従妹で養女の篤姫を、重ねて近衛家の養女にして、江戸城本丸に迎えた。これにより島津家は将軍家に最も近縁となり、斉彬は公武合体政策の枢軸に相応しい地位になった。この折斉彬の密命を帯びて京に上り、篤姫の養女入りを近衛家の老女村岡と諮ったのが薩摩藩の下級武士西郷吉之助であった。主君斉彬の進める公武合体的な新体制樹立運動に対し、当時は何の異存もなかった西郷は、京で幾多の志士・浪人及び下級公家と接触して、知識階層の下層部に湧き上がる差別打破の声を聞いた。知識階層における上下の対立を西郷が悟った場所は、弘化四年(一八四七)に建春門外で開講し、嘉永二年(一八五七)に孝明天皇から勅額を下賜された学習院と推量される。

 知識階層内の差別打破要求と関連して、国民精神の奥深い処に澎湃と起こってきたのが、尊皇賤覇の思想と南朝思慕の念である。尊王賤覇とは、鎌倉幕府以後の武家政権を暫定政体と看做し、建武中興のごとき天皇親政の政体を、新たに樹立すべきとする政治思想である。また南朝思慕とは、武力を以て足利氏に打破された南朝こそ正統として、皇統の南朝復元を待望するもので、これらの思想は、階級打破の欲求と共に知識階級下層部の政治意識の水面下に広がっていた。いずれも幕府当局者からすれば、俄に認めがたい思想であるが、家康が元和元年(一六一五)に定めた幕府の秘密憲法「公武法制応勅」の主旨に照らせば、これにも一理があった。「公武法制」には、「朝廷政治の失当なるによって天下の政権が武家の幕府に移った経緯はあるものの、幕府とは固より一時的な政体である」と規定し、その上で水戸藩主を代々幕府副将軍に任じ、選帝侯的な職務を定めていた。すなわち、水戸侯が幕府の悪政を認定した場合には、新将軍を尾張・紀州の二家から選び、両家にその人なき場合には天下の諸侯から選ぶべきことを定めていた。水戸藩の二代藩主光圀が始めた歴史研究に、歴代藩主が藩費を傾けたのは、偏に新将軍選定に際しての参考とするためであった。国の本来の在り方たる「國體」の本義を追究したのも、またそのためであった。

 
 ★水戸学が説く「万世一系」 正当性とはそもそも何か

 
 水戸学は、明人の亡命者朱舜水の、心理二元的な陽明学に基づく江館水戸学と、朱子学の影響を受けた森尚謙の水藩水戸学に別れて対立したが、後者は理気二元論による公武二元論を建て、「国家のあるべき形は、天皇と天皇が委任した政体の二元制である」との考え方に逢着した。知識階層の基礎的教養たる儒学を基礎として、神話や神道研究などの国学思想を加えた水戸学は、幕末の志士・浪人の政治思想と行動に決定的な影響を与えて、維新の原動力になった。水戸学が「変転する政体の長たる覇者は血統に拘泥する必要はないが、永久不変の國體の核心たる皇統は万世一系たるべし」とする万世一系論と共に主張したのが、朱子学の正統主義に基づく南朝正統論である。

 そもそも「万世一系」とは、皇祖皇宗のY遺伝子が当代の天皇まで、DNA的に連綿と引き継がれることを意味するが、単に皇祖皇宗のY遺伝子を保有するだけの家系なら、子孫の分岐繁殖を反映して今日では何千家も存在する。しかしその中に、歴史上現実に皇位を継いできた本流と、それ以外の支流があり、本流を以て正統とする訳だから、その理念は伝統主義ということになる。ただし正統の条件としては、各代がその前代から「正当」に皇位を継いだことが必要で、代々「正当」に継承してきた家系を「正統」とするのに異論はないが、もし継承の「正当性」において何らかの瑕疵があれば、それ以後の家系は、正統性に問題を含む「閏統」ということになる。

 ここから問題は、継承の「正当性」とは何かという点に移行する。それはつまり、血統の正当性と手続の正当性ということであろう。血統の正当性については、①前代との血統的近縁性を最重視すべきか、②その場合何親等まで許容すべきか、それとも③世襲宮家のごとく特定天皇からの分岐家系を重視すべきか、などに関しては定説もない。結局、先例慣習に従う他はないが、それにも客観的基準はないのである。現に光格天皇を選ぶ際には、閑院宮か伏見宮かで議論が白熱した。幕府将軍においても全く同様で、七代家継と十三代家定の後継選びが難航したのが好例である。

 また手続的正当性とは、皇位継承が所定の手続を経て行わるべきことを意味するが、史学上で問題とされたのは、皇位の象徴たる「三種の神器」の継承の有無と、その方法であった。上記の論点を研究した水戸学は、結論として南朝を正統と判断した。ここにおいてか、幕末現象の隠れた対立軸として南北朝問題が出没してきたのである。

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(51)    了。 

 

 ★ブロガーの責(スキャナーの精度+ブロガーのミス)による誤植を訂正。

 「一読者」様より<不思議なこと。>として「不思議なことだが,この連載には,通常は有り得ないような誤植が多々ある。 【一埋→一理】 こういったことを,どう理解してよいのかわからない。」という指摘があり、訂正しました。

 ありがとうございました。
 







(私論.私見)