吉薗周蔵手記(50)


 更新日/2021(平成31→5.1日より栄和改元/栄和3).2.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2005.4.3日、2009.5.27日再編集 れんだいこ拝


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(50)-1
 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(50)-1

  -公武合体に淵源した明治維新の展開を敷衍する 

 
 ★新井白石が唱道し阿部正弘が実行する 

 
 先月稿は、『文藝春秋』昭和十五年十一月号所収の白柳秀湖論文「明治維新の三段展開」を引きつつ、明治維新の根底が公武合体の政治理念に淵源することを述べた。今月も引き続きこれを敷衍していく。

 江戸幕府の開祖・徳川家康から秀忠・家光と続く三代は、貿易統制を主眼とした鎖国政策を実行するために、半ば郡県的な封建国家体制を樹立した。その拠って立つ重農主義的財政基盤は、滔々として浸透する貨幣経済との間の矛盾によって早晩破綻を免れぬもので、そのことを先見する人士がやがて閣老の中にも出てくる。十八世紀の初頭、六代将軍家宣の重臣・新井白石は、国家体制を封建制から近代制に改めるための政治理念として公武合体論を唱えた。白石の論旨は「上に朝廷を仰ぎ下に公家及び諸侯があり、幕府はその間に在りて天下の政治を執行するべきもの」と謂うもので、目的は徳川政権の補強策であった。

 当時はまだ徳川氏の全盛期で泰平の世であったから、その意義は世に実感されることなく純然たる学問的論説に止まり、客観的情勢もこれに応じるものはなかったが、時代が安永天明(十八世紀後半)と過ぎて弘化嘉永(十九世紀後半)に差し掛かり、尊皇攘夷論が漸く高潮してくるに連れ、政策としての現実的を帯びてきた。

 すなわち天保の改革に失敗した水野忠邦の後を受けて、弘化二年(一八四五)老中首座に登った阿部伊勢守正弘が、新井白石が唱道した公武合体論を実行に移したのである。阿部は政体徳川幕藩体制の運用を一部改め、将軍と少数の譜代・旗本による寡頭政治から、親藩・外様の雄藩との連携合議方式に変えた。言ってみれば、譜代党による一党支配体制から、親藩党・外様党を含む大連立体制に移ったのである。かくて連立政権に入った雄藩から、阿部は水戸藩の老公(前藩主)徳川斉昭を海防参与(外交顧問)として幕政に招聘したが、他の雄藩諸侯すなわち尾張藩徳川慶勝、越前藩松平慶永、薩摩藩島津斉彬、長州藩毛利慶親、土佐藩山内容堂、肥前藩鍋島閑叟、筑前藩黒田長溥、宇和島藩伊達宗城らも幕政に発言権を持つようになった。彼らは謂ってみれば、政調会の委員のようなものであろうか。

 雄藩諸侯のうち阿部正弘の公武合体的政策に最も協力したのは島津斉彬で、その真摯重厚な性格からして朝廷からも幕府からも信頼最も厚く、家系的にも公家と将軍家に深い血縁を有していた。すなわち島津家は、家祖・忠久の因縁で摂家筆頭の近衛家と親しかったうえに、先々代・重豪は将軍家斉の叔母保姫を正室に迎え、自らの息女茂姫(後の広大院)を家斉に嫁していた。斉彬も島津安芸の息女で従妹に当る篤姫を養女にし、阿部正弘と相談の上で重ねて近衛家の養女に入れ、将軍家定の御台所に送り込もうとした。斉彬の狙いは篤姫を通じて将軍家定を操り、その継嗣に英才を以て聞こえた一橋慶喜を据えることにあったと言われる。

 時に安政三年(一八五六)斉彬腹心の下級武士西郷吉之助が斉彬の密命を帯びて上京、近衛家老女・村岡と相計らって養女縁組をまとめた。維新を主導した改革者西郷隆盛も、このころは主君の公武合体思想を尚んでいた。公武合体の推進に打ってつけのキーパーソン島津斉彬に対して、水戸老公以下の前掲有力諸侯が一致協力し、公武合体の理念の下に画策していれば、新国家体制の 樹立も円滑順調に行われたであろう。

 
 ★二つの対立軸・外交政策と譜代対親藩・外様勢力争い 

 
 しかしながら、現実の維新史が波乱曲折の幕末現象を現出せざるを得なかった主因は、何を措いても外交政策の不一致である。それは老中首座(首相)・阿部正弘ら開国派と海防参与・水戸斉昭ら鎖国派の意見の対立から生じた。すなわち嘉永六年(一八五三)、突如浦賀へ来航した米国東インド艦隊のペリー提督が呈出した米国大統領フィルモアの国書へ対応せんがため、阿部が海防参与(外交顧問)を委嘱した水戸斉昭の、水戸学の伝統をかざす攘夷論は極めて強固で、閣内不和の決定的要因となった。

 しかもこの頃、幕末現象をもたらす第二の対立軸が生まれていた。従来幕政を壟断してきた譜代党と、幕政に新しく参画した親藩・外様党の勢力争いである。江戸城内の伺候席の中でも有力譜代大名の居る溜之間は、儀式の際に老中の上に座すほど格式が高く、重要事項に関して老中から諮問を受ける立場であった。その溜之間上席で譜代筆頭の彦根藩主に嘉永三年(一八五〇)、井伊直弼が就いた。譜代党のリーダーとなった直弼は、阿部が先例を破って海防参与に起用した水戸斉昭が、攘夷論を唱えて閣内を乱す有様に反感を強めていたが、翌七年ペリーの威圧に屈した阿部が日米和親条約を締結せんとするや、これを攻撃する斉昭と溜之間詰上席の直弼との対立は頂点に達した。斉昭は阿部に、開国派の老中・松平乗全と松平忠固の更迭を要求し、安政二年(一八五五)阿部はやむなく両名を解職する。これに対し直弼は、溜之間詰から新老中を起用することを求めたので、阿部は天保の改革時の老中で漸進的開国主義者の堀田正睦を再登用して首座を譲り、自身は幕閣の実権を握ったまま老中として残った。

 外交問題をめぐる次なる対立は安政三年で、老中首座・堀田正睦が米国総領事ハリスから迫られた日米修好通商条約の調印問題である。安政四年(一八五七)阿部正弘が急死した後、名実ともに老中首座になった堀田正睦は、直ちに松平忠固を老中に再任して次席格とし、溜之間詰主導による堀田=松平の連立幕閣を形成した。この連立幕閣は、安政四年十月二十一日ハリスを江戸城内で将軍家定に謁見せしめ、その要求してきた日米修好通商条約を翌安政五年を期して調印し、六月中旬より実行することを約した。この時堀田は、同じ開国派の越前侯・松平慶永の意見を容れて、遅れ馳せながら朝廷に上奏して勅許を得るとともに、内容を全国の諸大名に示して利害得失を論ぜしめたので、ここにおいてか条約締結是非の論が国を挙げて沸騰する。

 堀田はまず、林大学頭を先発させて条約締結の経緯を上奏するが、既に決定し後に勅許を乞う不埓を詰られるのは、朝廷の背後に諸大名の支持と澎湃たる世論があったからである。安政五年一月自ら上京した堀田は、条約締結時の苦しい事情を朝廷に開陳し改めて勅許を乞うたが、侍従岩倉具視の暗躍により中山大納言以下八十八人の下級公家が結束し、列参して上奏讒訴したため、折角の上級公卿買収策も水泡に帰し、空しく江戸へ引き上げてきた。

   続く。
 
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(50)-2
 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(50)-2 

 
 ★将軍継承問題という追い撃ちも加わって 

 
 幕末現象を引き起こした第三の対立軸は将軍継嗣問題であった。将軍家定が病弱のために在位中から起こっていた後継争いは、病気が悪化した安政四年(一八五七)頃から本格化した。後継将軍に紀州慶福を推す南紀派が井伊直弼・松平忠固ら譜代党で、一橋慶喜を推す一橋派が実父水戸斉昭と島津斉彬ら雄藩党であった。堀田が江戸を留守にしていた安政五年四月、南紀派の謀略で井伊直弼が大老に就く。条約問題に関して当初無勅許調印に反対であった直弼が幕閣を掌握する立場になったが、折から幕府の中では「朝廷の御反対は、実は国体を損わぬようにとの配慮からなされたるもの」との認識が台頭しつつあり、直弼は孝明帝の勅許を得られぬまま六月十九日に日米修好通商条約を調印する。これが違勅調印であるとして、一橋派から猛烈な攻撃を受けた。継嗣問題に関しそれまで具体的意見を出さなかった家定は六月二十五日、諸大名を招集して慶福を将軍継嗣にする意向を伝え、七月六日薨去する。大統を継いだ紀州慶福は、名を家茂と改めて十四代将軍に就く。井伊直弼を大老にした南紀派の政略が見事に功を奏したのである。将軍継嗣及び条約調印をめぐって越前侯・尾州侯及び一橋慶喜らと江戸城に無断登城の上、直弼を詰問した斉昭は、逆に直弼から江戸の水戸屋敷で謹慎を命じられ、他の一橋派も直ちに処分された。

 この井伊直弼の処断は水戸藩を痛く刺激し、憤った水戸藩士らが朝廷に働きかけて、孝明帝から「戊午の密勅」を得たという。密勅は、①条約の無勅許問題の追及と説明の要求を幕府にせよ、②御三家及び諸藩が幕府に協力して公武合体の実を成し、墓府は攘夷推進のための幕政改革を遂行せよ、との内容で、さらに③上記内容を諸藩に周知せしめよ、との副書があった。要するに密勅は、井伊の排斥を諸大名に呼びかけたもので、幕藩体制の秩序を無視していた。かかる朝廷の幕政介入は正に前代未聞であったから、直弼は尊皇攘夷派を強権を以て弾圧し、水戸藩には密勅の返納を命じる一方、条約の無勅許調印の責任を自派の堀田正睦・松平忠固に着せて閣外に追放、新たに太田資始・間部詮勝・松平乗
全を老中に起用し、密勅に関与した志士・公家を弾圧した。之が悪名高い「安政の大獄」で、その剛腕な政治手法により、直弼は幕末現象の基底にある対立軸を大きく揺すぶり、維新の到来を速めたのであった。

 因みに、原理的攘夷主義と現実的開国論という矛盾を包含していた阿部幕閣が、眼前のアメリカ艦隊を相手に外交政策の選択に苦しんだ姿に、近来の民主党を重ねて見るのは歴史趣味の一楽である。往時の阿部・堀田・水戸・井伊・松平忠固に、今日の鳩山・菅・小沢・仙谷・前原のいずれを比し得べきか。さしずめ八方美人の阿部に鳩山、開国派の堀田に軟弱外交の見本の菅、因循攘夷派の斉昭に親中排米派の小沢、水戸の仇敵たる剛腕直弼には同じく小沢の仇敵仙谷が当て嵌る気がする。現実を重視して開港に賛成しながら「徒
らに勅許を仰ぐは混乱の元」と論じた松平忠固に比すべきは、日米同盟に立って媚中派を牽制する保守主義の前原であろうか。ただし、これはあくまでも相似象学上の政治的比喩ゲームであって、当人の人格識見において比すものではない。

 
 ★西郷吉之助が京都で 肌で感じた激派の熱 

 
 話を安政三年(一八五六)に戻す。
 島津斉彬の養女・篤姫を近衛家の養女に入れる工作のため上京していた西郷吉之助は、在京の間に尊王倒幕を叫ぶ多くの志士・浪人と接触し、主君斉彬が代表する既成勢力が現状維持のために進めている新体制樹立運動の外に別個の暗流が滔々として湧き出ているのを目の当たりにした。要するに知識階級の下層部からは、公武合体論のごとき微温的なものではなく、政治体制の抜本的な改革を望む声が出ていることを、西郷は肌で感じたのである。彼ら激派の思想は如何にして醸成されたか。弘化三年(一八四六)仁孝帝が御所建春門外に設けられた学習所に、嘉永二年(一八四九)に至り孝明帝が「学習院」の勅額を下賜され、以後は学習院と呼ばれるが、設立以来四十歳以下の堂上・非蔵人の子弟に儒学・国学を講じていたとされる。ところが、安政六年大獄の囚人・吉田松陰が門人・入江九一に対し、学習院を中心に京に「四民共学」の「天朝の学校」を設立する構想を語った事実をどう解するか。学習院の周辺に、公武志士交流の場として何らかの実態が既に存在したことが窺えるが、安政五年八月八日の「戊午の密勅」の成立にも、学習院が深く関わっていると見るべきであろう。

 因みに水戸藩が朝廷に請うたとされる「戊午の密勅」は、武家伝奏・万里小路正房から水戸藩京都留守居役の鵜飼吉左衛門に下され、代りに受領した子息・知明が微行して東海道を下り、水戸藩家老・安島帯刀を通じて藩主水戸慶篤に渡された。副使は薩摩藩士で別に中山道を東行したという。鵜飼吉左衛門から安島帯刀宛への書簡には、直弼暗殺計画が記されていてこれが幕府に漏洩したことで安政の大獄は一層厳重な処分となったと言われている(直弼の謀臣長野主膳から井伊直弼に宛てた手紙に記載があるという)。その計画とは、薩摩藩兵二~三百人が上京して彦根城を落城させるというもので、伊地知正治からの伝聞とされる(落合注:彦根藩主とはいえ直弼は大老職で江戸常府のため、彦根城では暗殺など不可能と思うが、この点を博雅の士の高教に侯つ)。

 このころ京都にいた西郷は、七月二十七日斉彬の訃報に接して悲嘆久しい中でその遺志を継ぐことを決意し、八月には近衛家から託された孝明帝の内勅を水戸・尾張藩に届けるため東行したが、水戸藩家老・安島帯刀に拝受を打診したところ拝辞されたので、空しく京へ戻った。後日、入れ違いに来た鵜飼知明から安島が受けたことを聞いて、大変驚いたという。このことから、水戸藩要請とされる「戊午の密勅」だが、薩摩藩が黒幕であったことが明らかで、とすれば、以前から公家と薩摩藩士の秘密の交流の場がどこかに在った筈である。薩摩京屋敷や近衛邸には幕府の眼が常に光っており、いやでも目に付くので、有志が漢学・古学の勉学会を装って学習院に集うなどは、最も目的に適った方法ではなかったか、と思う。

 島津斉彬の突然の薨去によって薩摩藩政を掌握した異母弟の島津久光が、井伊による安政の大獄で天下のお尋ね者となった西郷を奄美大島に軟禁したのは、罰より保護の意味であった。久光は文久元年(一八六一)十月、自ら公武の周旋に乗り出す決意をするが、京都での手づるが全くなく、大久保の進言により西郷を召還し、旧役に復して上洛の先発となし、京大阪で上国の形勢を偵察させた。西郷にとって安政三年から七年ぶりに見る京は、尊攘激派の志士が徘徊し甚だ革命的雰囲気に満ちていたが、このとき西郷は久光の不興を買い、薩摩へ送還される。

 
 ★各藩下士階級連盟締結 明治維新の本質現わる 

  
 西郷が尊皇激派に抱いた共感は、根底に公家社会と武士社会における下層部の処遇改善欲求があったものと思われる。すなわち、公家社会においては平(ヒラ)堂上の摂家清華に対する処遇慣習の改善要求があり、安政五年の岩倉具視の八十八人列参は根底には、実はこれが潜んでいた。堂上とは、広義では公卿になることができる摂家・清華家・大臣家・羽林家・名家・半家の総称であるが、狭義では羽林家以下を指し、その場合は平堂上とも呼ばれた。列参を企んだ岩倉侍従は、養家は羽林家で生家が半家の堀河家であったし、中山大納言も羽林家で、いずれも公家としては下級に属する平堂上であった。公家社会では家格によって昇進も家禄も厳しく固定され、平堂上は本家筋の摂家から婚姻始めすべてを規制されていたという。

 一方、武士社会においても下級武士の処遇改善欲求が生じていた。下級武士とは騎乗を許されない徒士身分のことで、各藩の行政を実際に動かしていたのはこの階級であった。足軽とか同心と呼ばれ、全員が職掌集団たる「組」に属して、頭たる中級武士の指揮監督下にあった。その処遇は長屋住まいの石高二十石余りで、現価の年収四百万円程度であろうか。今日の地方公務員よりは低待遇で、常に家族ぐるみで副業をしていた。この他に半士半農の体で郷士と呼ばれた階層は、天下統一の過程で敗退した旧封建領主で、大地主として農業を営みながら各地に散在し、生活は困窮しておらずとも、藩士から厳しい身分的差別を受けていた。この階層からは徒士身分に登用された者もいて、また養子縁組を以て徒士身分に紛れ込んだ者も多く、家系的に見れば彼らと下級武士との境界は溶けかかっている。ともかく、各藩では上級武士階層と下級武士・郷士階層との間に処遇的懸隔は大きく、そのため異なった階級意識を有していた。公武合体の政治理念を信奉したのは各藩の重役・上士だったが、下士・郷士階層は必ずしもそうではなかった。安政三年の昔、西郷吉之助か京で感じ取ったのは、正に下士・郷士階層の感覚であった。

 詳細、今は略すが、文久元年(一八六三)八月、江戸麻布の長州藩の空屋敷で、長州藩の久坂玄瑞、土佐藩の武市半平太、薩摩藩の樺山資之がたまたま会し、この時三人で各藩の下士階級の連盟を締結した。様々な幕末現象が煌く中に在って、目には見えにくい明治維新の本質がここに姿を現したのである。

 文久三年(一八六三)八月、朝廷は筑前の平野國臣、久留米の真木和泉・水野丹後・木村三郎・池尻茂左衛門・宮部鼎蔵・肥後の山田十郎、長州の益田右衛門介・桂小五郎・久坂玄瑞、津和野の福羽文三郎、土佐の土方久元ら尊攘倒幕派の諸藩士・浪士に学習院出仕を命じた。これは雄藩が公家との接点たる場を求め、藩士を御用掛の名目で学習院に送り込もうと望んだのに応えたものであるが、薩摩藩は、一足先に既に公家との交流を深めていたことは、既に見た通りである。問題はそのような公武の交流活動が始まった時期であるが、これより十年ほど遡る安政初年あたりと見て良く、それに京都学習院が深く関わったのではなかろうか。

   ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(50)    <了>







(私論.私見)