吉薗周蔵手記(49)


 更新日/2021(平成31→5.1日より栄和改元/栄和3).2.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2005.4.3日、2009.5.27日再編集 れんだいこ拝


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(49)―1         ◆落合莞爾
  ― 明治維新の揺藍となった「京都学習院」の意義再考

 
 ★「聖地」に設けられた公武志士の交流の場

 
 前月稿では「京都皇統」の所以と「光格王朝」の事績を略述し、併せて学習所(京都学習院)設立の意義に及んだが、顧みていささか「軍事的実践(テロリズム)」を強調し過ぎたきらいがあった。本月稿では、文明地政学協会発行の月刊情報誌『世界戦略情報みち』平成二〇年六月号に所収の栗原茂論文「建春門外学習所」に従ってそれを修正する。

 上記論文で栗原は、「もし学習所なかりせば、幕末・維新は間違いなく日本を滅亡に導き、現在の日本人は無国籍の民として彷徨の旅を続けているに違いない。黒船来航の現実は戦国争乱の国内抗争とは異なり、原爆投下が立証するように、学習所がなければ勤皇も佐幕も大政奉還でさえも、海外列強に破壊されていたことであろう」と説き、建春門外に設けられた学習所(京都学習院)こそ幕末・維新をもたらした決定的な要因とする。

 ご発案された光格帝の治世に開設は間に合わなかったが「仁孝天皇も近未来を見透かしており、公武の志士が自在に交流できる場を聖地に設けて、幕政の間抜けと競わず争わない統一場を準備された」のが学習所で、「似非文明が黒船と謂う偽装で日本に上陸してきた時、之を封じる神通力が学習所の自在性に集束した」。しかしながら、「これを政府御用達の論説は公武合体の人格レベル情報に止めている」として、栗原は今日の教科書史学の浅薄と認識不足を批判する。

 要するに、学習所は本来、似非文明の侵入に対抗して日本の近未来を切り開くための「公武志士の交流の場」として、聖地に設けたもので、主旨は公武合体の政治理念を醸成する処にあったもので、前月稿で私(落合)が強調したごとき「軍事的実践(テロリズム)の意義探究と方法の訓練を主目的とするもの」ではなかった、と修正すべきものと想う。

 因みに、栗原の文明史論は甚だ特異で、学校史学に慣れ、或いは売文者流の史書に泥んだ人士には俄かに受け入れ難いであろうが、昧読すれば実に端倪すべからざる洞察に満ちている。ただその言たるや頗る奇警にして、平易冗長な表現しか知らぬ現代人をして辟易せしむるきらいは避けられぬ。私(落合)が栗原に親炙して所論を傾聴するのは、偏にその情報源の特殊性を察するからで、栗原には何処かから御用史学の是正を命じられているフシがあり、いかにも晦渋な表現もそれが理由かと憶測する。

 
 ★倒幕テロヘ一足飛びに進んだわけではない

  
 「聖地」とはむろん京都御所のことで、学習所が建春門外に所在した意味を強調するのは、現行の皇居千代田城は行在所に過ぎないから、一刻も早く西遷して再び「聖地」に立地すべきことを国民に訴えるものであろう。更に、「(御用史学の)最も重大な過失は聖地の理に目覚めないまま、明治天皇の下向に備えた孝明天皇の喫祓を読めない点である」とは如何なる意味か。「喫祓」とは甚だ難解であるが、熟考すると、「秘かに閑院宮皇統を京に留めて堀川御所に潜ませたのは、明治帝の東遷に備えたもので、孝明天皇ご自身の意志によるもの」と読み取るしかない。

 建春門外学習所に集った公武の人士は、堂上方では久邇宮朝彦・有栖川宮熾仁の両親王、公家衆では七卿落ちの三条実美・三条西季知・東久世通禧・錦小路頼徳・澤宜嘉の他に岩倉具視・中御門経之・姉小路公知らであった。幕藩側では、防長藩が藩主・毛利敬親をはじめ高杉晋作・桂小五郎・吉田松陰・久坂玄瑞・周布政之助・赤根武人ら、薩摩藩は有馬新七・田中新兵衛、土佐藩は武市半平太・池内蔵太・中岡慎太郎・吉村寅太郎、肥前藩は藩主・鍋島直正と江藤新平、肥後藩は横井小楠・宮部鼎蔵・元田永孚、福岡藩は平野國臣らであった。

 志士は西南雄藩だけでく、松代真田藩の佐久間象山、米沢上杉藩の甘粕継成、福井松平藩の由利公正、小浜酒井藩の梅田雲浜、鳥取池田藩の河田佐久馬など、譜代どころか徳川親藩にまで及んでいた。こうして観れば、「学習所に集った公武の志士たちの間に国事を図る雰囲気が醸成されて幕末開国をもたらした」との説は甚だ肯綮に当たるが、これら志士が当初から幕府倒壊を目指した筈はなく、まず図ったのは公武合体であった。尤も、下級武士と公家羽林衆に軍学者の交りから、勢い討幕を目的とした具体的軍事手段(テロリズム)の探究が生じたとしても不自然ではあるまい。

 幕藩体制の動揺は幕府・諸侯・武士階層の財政逼迫に始まった。原因は、城下町居住義務を負った武士階層が都市住民化して消費生活が貨幣経済化していくなかで、その財政基盤が幕府の祖法たる重農主義と米本位制に立脚しており、滔々浸透する貨幣経済に対応できなかったことである。すなわち消費構造の進化により、国内総生産に占める食糧ことに米穀の割合が低下したから、年貢米に依存する幕府・諸侯・武士階層は相対的窮乏が避けられず、逆に取扱高が質量ともに増大した商人が富裕化し、諸侯と武士階層は体制・生活の維持の資金を商人階層からの借入で補わざるを得なくなった。幕藩体制は財政面において上の基本的矛盾を抱えていたため、光格帝即位の一七七九年頃には幕政当路者も早晩破綻を免れないことを予感し、体制変換の必要性を認識する処となっていた。

 
 ★「オミ」「タミ」「キミ」 暗闘で解く維新の理念

 
 古今東西いかなる体制にあっても、その変換に際して体制幹部(オミ)と末端(タミ)の大多数を整理する必要に迫られる。指導者(キミ)はたとい旧体制の放棄を秘かに決意した場合にも、それを隠し通すのが通例なのは、そもそも旧要員が新体制を運営できるくらいならば世話はないが、不可能だからこそ旧階級の整理が必要となる。それを旧体制の象徴たるキミが自身で行い得ないのが情の理で、整理実行の担い手は、旧体制を支えてきたオミの中から登場すべきこととなる。

 白柳秀湖が『文芸春秋』昭和十六年十一月号で述べた「明治維新の三段展開」によれば、幕藩体制下における体制変換の実行要員は、徳川氏に対して対等の地位で働き掛けることのできる歴史的立場にあった外様及び親藩の諸侯であった。しかし これら諸侯は、幕府に対してはオミであるが、領国においては自らがキミであるから、現在の体制秩序を直ちに廃棄して国家の機構を根底から 建て直す急激な改革はできない。旧体制は至る所に破綻と亀裂を生じ、収拾は最早不可能と見えてきたが、これら諸侯が旧体制によって保障さ れた地位は余りにも高く、それによって被る恩恵は余りにも大きかった。諸侯にはそれぞれの伝統と立場により、改革に対する理念は必ずしも一様ではないが、ある程度までの現状維特派であることには変わりなかったのである。

 このような現状維持勢力が指導した幕末の政治的雰囲気が生んだ新体制の理念が、公武合体であることは当然であった、しかも公武合体は、急造された政治理念でなく、深い史的淵源に立つと白柳はいう。「そもそも、公武合体的革新理念は織豊両氏の勤皇と共に由来久しきもので、日本近海に黒船の出没するようになってから俄に頭を擡げた問題ではなかった。日本の明治維新が、支那の国民革命などと比較してその根底頗る深く、英米資本主義の糟糠を嘗めた進歩主義者による一夜作りの近代国家運動などと比較にならぬのは、その淵源するところが遠く織・豊両氏の勤皇運動にある」からで、「慶長・元和の間、政権はひとたび徳川氏の手に帰し、織・豊両氏によって着手された皇室を中心とする近代国家=日本の統一運動は、家康・秀忠・家光三代の統制貿易政策に基調する半郡県的封建国家体制の樹立により、表面跡形もなくその姿を消し去った如く思われて居るが、実は決してさうでない。織豊両政権によって点火された皇室を中心とする近代国家日本を建設すべき清地工作としての教学自主運動は、三本建の復古思想となって、二世紀半の徳川時代を貫流し、それが幕末に及び合流して王政復古・明治維新の基礎理念を成して居るのだ」と言う。

 *****************

   続く。
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(49)―2
 
 ★「古学」「惟神道」「チゥトン系科学」の三本建 

  
 要するに、公武合体理念の淵源が、織豊政権の政治思想と江戸初期以来伏流していた復古思想にあることを説くのだが、ここに「三本建の教学復古運動」とは、第一が「孔子以後諸子百家によって歪められてきた儒学、ことに中世以降わが武門政権唯一の教学として中華政権に対する日本の経済的付属関係を強化する上に役立ってきた宋学に対する反抗運動、すなわち原始儒学舌学)の唱道」で、これを成したる者が山鹿素行・伊藤仁斎・伊藤東涯・荻生徂徠であった。

 第二は「奈良朝以降、平安町・鎌倉時代・室町時代の久しきに亘り、日本固有の教学である惟神道を剋して、国民思想の上に大盤石の如く被さってきた本地垂迹説及び諸神宿業説の廃毀運動で、支那仏教の重圧を排除して国民の思想生活を本地垂迹説もしくは諸神宿業説の羈絆から解放する」たえに努力した先人が、賀茂真淵・本居宣長・契沖・伴信友・平田篤胤である。
 
 第三の流れは「蘭学に根源するチゥトン系科学思想の摂取である。徳川時代は一般に鎖国時代とされ、この間に日本文化が欧米先進国に比較し二百年も三百年も遅れたかのやうに成心づけられて居るが、それは甚だしい誤りである。徳川時代は経済的にも思想的にも決して絶対の鎖国主義ではなく、寧ろ貿易統制時代といった方が当たって居る。慶長五年、徳川家康はオランダ東インド会社の商船・リーフデ号の船員を接見し、北方エウロッパに発祥成長しつつある科学文化が、南方エウロッパのラテン系宗教文化と全くその本質を異にして居る事実を知った(中略)。若し日本にエウロッパ文化を排斥した事実があるとするならば、それはラテン系宗教文化を排斥したのであって、チウトン系科学文化を排斥したのではなかった(中略)。それらの科学思想に促されて、日本独自の科学思想も相当なものを生んで居る」として、三浦梅園・志筑忠雄・帆足万里を挙げ、「廃仏毀釈の急先鋒の平田篤胤でさへ、蘭学には非常に好意と尊厳とを持って居った。日本の復古思想は決して反動思想ではなかった」という。
 
 白柳の結論は、「この三本建の教学自主運動が、幕末近海に黒船の出没するまでの間に、封建的旧体制の廃残物とそれの発する有毒ガスとに充ち満ちた日本国土の清掃作業を完了して、新しい皇室中心主義に基調する近代日本建設の工匠達を迎える準備を整えて居たのである」と言うにあり、「開国とは実質的には幕府による貿易統制の撤廃を意味するだけのこと」と解されるが、本格的開国となればラテン系一神教思想と文化の受け入れも不可避で、因って幕府は祖法のキリシタン禁令を保てなくなり、結局、開国は幕府倒壊・王制復古の形で実顕せざるを得ないこととなったのであろう。 

 
 ★民主党「平成の改革」は「天保の改革」の猿真似 

 
 維新の端緒は、光格上皇の崩御と大御所・家斉の薨去から始まる「天保の改革」の失敗である。「天保の改革」(一八四一~三)は、大御所・家斉の薨去を契機として老中首座・水野忠邦が幕府側から幕政の窮迫を改革せんとしたもので、その要点は、①人返し令、②株仲間解散命令、③金融統制令、④上地令が主なるもので、外交政策では⑤「外国船打払令」を「薪水給与令」に改訂し、また⑥として「奢侈の禁止」と「冗費の節減」であった。

 ①は、貨幣経済の発達により農村から都市部へ人口が移動して、年貢の徴求に支障が出たため、江戸滞在の農村出身者を強制的に帰郷させて年貢の安定化を確保しようとしたものである。②は、商人による流通独占を排除して経済の自由化を図ったが、既存流通システムの阻害により却って混乱を来した。③は、債権回収に公権力が介入せず当事者の話し合いに任せる「相対済まし令」に加え、旗本・御家人の札差に対する債務の金利を切り捨て元金だけを年賦払いとし、さらに統制年利も一五%から一二パーセントに切り下げて旗本御家人を救済したが、当然ながら貸し渋りが生じた。④は、江戸・大坂の周囲に散在する大名旗本の領地を没収して幕府の直轄地とする行政区画の根本的改革案で、大都市の治安を維持して幕府の行政力を強化する狙いがあった。⑤は二年前に勃発したアヘン戦争の結果から、外患を考慮した外交政策の転換である。この他、⑥の「贅沢の禁止」と「無駄な支出の削減」はどの時代の諸改革にも付き物である。

 今年(*2010年)のことだが、対米従属主義政官財の三面癒着を基軸とした自民党体制からの脱却を叫ぶ民主党が参院選で勝利して、「平成の改革」を実行に移そうとした。そのマニュフェストは余りにも「天保の改革」に似て正にパロディを成すが、今日の世相がそれだけ天保時代に似ている訳だから笑うに笑えない。
 
 まず①が出生の増加を狙う「子供手当」で、耕作人口の確保を図った「人返し令」のパロディであるが、財政負担の増大に比して効果が明確でなく、大半は親のパチンコ代に流れる見込みと聞く。②の「米作農家の戸別補償」と「高速料金無料化」は、流通合理化を短絡的に図った「株仲間解散」のパロディとなり、経済学の基本的法則の効果で前者は市場米価の暴落を招き、後者は代替手段の高速バス・フェリーから新幹線・航空路線に至るまで経営に大打撃をもたらした。③は最高裁が認めた「過払い返還請求権」(金利上限令)を後追いした「債務総額を年収三分の一に制限する令」で、サラ金の取り立てに起因する凶悪犯罪と自殺の防遏を図ったのは好いが、「金融統制策」のパロディとして、貸し渋りが生じるのは昔も今も同じである。むしろこれにより、サラ金苦が直接生活難に転じるため、路上犯罪は激増するが自殺件数は減らず、知人・家族間の恩借の踏み倒しが人間的紐帯の分断をもたらし、社会の劣化が目に見えている。④は「消費税率引き上げ」で、党首が口にしただけで民主党は参院選挙を惨敗し、政策の表面に出せなかった。これが「天保改革」の根本政策として諸侯領地の区画整理を目指したものの、諸大名の猛烈な反感を招いて撤回を余儀なくされ、結局改革挫折の直接的要因となった「上地令」のパロディである。さらに、⑤の「子供手当」が出稼ぎ華僑の在郷子女までも対象にし、「教科書無償化」を反日教育機関の朝鮮学校にも及ばすのは、「薪水支給令」の善隣外交精神の行き過ぎたパロディである。⑥の、予算削減の過程を劇場ショー化した「業務仕分け」は「冗費削減」のパロディで、これだけはマスコミの人気を呼んで興業的な成功を収めた。

 上記諸施策は悉く民主党の集票手段に過ぎず、個別利得をぶら下げて低所得層の民心を誘引し、或いは隣国にへつらって友好発言を乞い、以て得票を買わんとの意図がミエミエである。一旦は総選挙に勝利した民主党も、政策の大本が無益なバラマキ政策であることが露呈し、且つは対米従属の現況を無視して隣国に迎合する軽薄さが、世界から見透かされる体たらくである。これでは「平成の改革」にかけた国民の期待は無残に破れるのが当然で、反面教師の役を果たした民主党は自壊に向かうしかないが、惟うにこれこそ「真の改革」のために国民が払わざるを得ない必要コストであったのであろう。

 なお、本稿第四十七回の内容の一部を訂正しなければならない。①K家は、江戸中期に加太村に移って来て造船業を営み、後に材木商に転じた富豪で、三代前に淡路島の船越家から養子を迎えた。②明治二十七年生まれで、一時松下トヨノと縁組の話があったK家の先々代は、トヨノが加太村に出現した時のことを「まるで天狗さんが連れてきたように」と語っていた。③トヨノが相続した和宮の秘宝は、「徳川家の蔵番をしていた渋沢栄一が、トヨノの処に持参した」とのことである。また④K家の先代は、和宮には謎があると感じていたが、明治十年から後にも生きていたと断言していたわけではない。以上、謹んで訂正いたします。

 **************

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(49)   <了>。 







(私論.私見)