●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(49)―1 ◆落合莞爾 ― 明治維新の揺藍となった「京都学習院」の意義再考 ★「聖地」に設けられた公武志士の交流の場 前月稿では「京都皇統」の所以と「光格王朝」の事績を略述し、併せて学習所(京都学習院)設立の意義に及んだが、顧みていささか「軍事的実践(テロリズム)」を強調し過ぎたきらいがあった。本月稿では、文明地政学協会発行の月刊情報誌『世界戦略情報みち』平成二〇年六月号に所収の栗原茂論文「建春門外学習所」に従ってそれを修正する。
上記論文で栗原は、「もし学習所なかりせば、幕末・維新は間違いなく日本を滅亡に導き、現在の日本人は無国籍の民として彷徨の旅を続けているに違いない。黒船来航の現実は戦国争乱の国内抗争とは異なり、原爆投下が立証するように、学習所がなければ勤皇も佐幕も大政奉還でさえも、海外列強に破壊されていたことであろう」と説き、建春門外に設けられた学習所(京都学習院)こそ幕末・維新をもたらした決定的な要因とする。
ご発案された光格帝の治世に開設は間に合わなかったが「仁孝天皇も近未来を見透かしており、公武の志士が自在に交流できる場を聖地に設けて、幕政の間抜けと競わず争わない統一場を準備された」のが学習所で、「似非文明が黒船と謂う偽装で日本に上陸してきた時、之を封じる神通力が学習所の自在性に集束した」。しかしながら、「これを政府御用達の論説は公武合体の人格レベル情報に止めている」として、栗原は今日の教科書史学の浅薄と認識不足を批判する。
要するに、学習所は本来、似非文明の侵入に対抗して日本の近未来を切り開くための「公武志士の交流の場」として、聖地に設けたもので、主旨は公武合体の政治理念を醸成する処にあったもので、前月稿で私(落合)が強調したごとき「軍事的実践(テロリズム)の意義探究と方法の訓練を主目的とするもの」ではなかった、と修正すべきものと想う。
因みに、栗原の文明史論は甚だ特異で、学校史学に慣れ、或いは売文者流の史書に泥んだ人士には俄かに受け入れ難いであろうが、昧読すれば実に端倪すべからざる洞察に満ちている。ただその言たるや頗る奇警にして、平易冗長な表現しか知らぬ現代人をして辟易せしむるきらいは避けられぬ。私(落合)が栗原に親炙して所論を傾聴するのは、偏にその情報源の特殊性を察するからで、栗原には何処かから御用史学の是正を命じられているフシがあり、いかにも晦渋な表現もそれが理由かと憶測する。 ★倒幕テロヘ一足飛びに進んだわけではない 「聖地」とはむろん京都御所のことで、学習所が建春門外に所在した意味を強調するのは、現行の皇居千代田城は行在所に過ぎないから、一刻も早く西遷して再び「聖地」に立地すべきことを国民に訴えるものであろう。更に、「(御用史学の)最も重大な過失は聖地の理に目覚めないまま、明治天皇の下向に備えた孝明天皇の喫祓を読めない点である」とは如何なる意味か。「喫祓」とは甚だ難解であるが、熟考すると、「秘かに閑院宮皇統を京に留めて堀川御所に潜ませたのは、明治帝の東遷に備えたもので、孝明天皇ご自身の意志によるもの」と読み取るしかない。
建春門外学習所に集った公武の人士は、堂上方では久邇宮朝彦・有栖川宮熾仁の両親王、公家衆では七卿落ちの三条実美・三条西季知・東久世通禧・錦小路頼徳・澤宜嘉の他に岩倉具視・中御門経之・姉小路公知らであった。幕藩側では、防長藩が藩主・毛利敬親をはじめ高杉晋作・桂小五郎・吉田松陰・久坂玄瑞・周布政之助・赤根武人ら、薩摩藩は有馬新七・田中新兵衛、土佐藩は武市半平太・池内蔵太・中岡慎太郎・吉村寅太郎、肥前藩は藩主・鍋島直正と江藤新平、肥後藩は横井小楠・宮部鼎蔵・元田永孚、福岡藩は平野國臣らであった。
志士は西南雄藩だけでく、松代真田藩の佐久間象山、米沢上杉藩の甘粕継成、福井松平藩の由利公正、小浜酒井藩の梅田雲浜、鳥取池田藩の河田佐久馬など、譜代どころか徳川親藩にまで及んでいた。こうして観れば、「学習所に集った公武の志士たちの間に国事を図る雰囲気が醸成されて幕末開国をもたらした」との説は甚だ肯綮に当たるが、これら志士が当初から幕府倒壊を目指した筈はなく、まず図ったのは公武合体であった。尤も、下級武士と公家羽林衆に軍学者の交りから、勢い討幕を目的とした具体的軍事手段(テロリズム)の探究が生じたとしても不自然ではあるまい。
幕藩体制の動揺は幕府・諸侯・武士階層の財政逼迫に始まった。原因は、城下町居住義務を負った武士階層が都市住民化して消費生活が貨幣経済化していくなかで、その財政基盤が幕府の祖法たる重農主義と米本位制に立脚しており、滔々浸透する貨幣経済に対応できなかったことである。すなわち消費構造の進化により、国内総生産に占める食糧ことに米穀の割合が低下したから、年貢米に依存する幕府・諸侯・武士階層は相対的窮乏が避けられず、逆に取扱高が質量ともに増大した商人が富裕化し、諸侯と武士階層は体制・生活の維持の資金を商人階層からの借入で補わざるを得なくなった。幕藩体制は財政面において上の基本的矛盾を抱えていたため、光格帝即位の一七七九年頃には幕政当路者も早晩破綻を免れないことを予感し、体制変換の必要性を認識する処となっていた。 ★「オミ」「タミ」「キミ」 暗闘で解く維新の理念 古今東西いかなる体制にあっても、その変換に際して体制幹部(オミ)と末端(タミ)の大多数を整理する必要に迫られる。指導者(キミ)はたとい旧体制の放棄を秘かに決意した場合にも、それを隠し通すのが通例なのは、そもそも旧要員が新体制を運営できるくらいならば世話はないが、不可能だからこそ旧階級の整理が必要となる。それを旧体制の象徴たるキミが自身で行い得ないのが情の理で、整理実行の担い手は、旧体制を支えてきたオミの中から登場すべきこととなる。
白柳秀湖が『文芸春秋』昭和十六年十一月号で述べた「明治維新の三段展開」によれば、幕藩体制下における体制変換の実行要員は、徳川氏に対して対等の地位で働き掛けることのできる歴史的立場にあった外様及び親藩の諸侯であった。しかし これら諸侯は、幕府に対してはオミであるが、領国においては自らがキミであるから、現在の体制秩序を直ちに廃棄して国家の機構を根底から 建て直す急激な改革はできない。旧体制は至る所に破綻と亀裂を生じ、収拾は最早不可能と見えてきたが、これら諸侯が旧体制によって保障さ れた地位は余りにも高く、それによって被る恩恵は余りにも大きかった。諸侯にはそれぞれの伝統と立場により、改革に対する理念は必ずしも一様ではないが、ある程度までの現状維特派であることには変わりなかったのである。
このような現状維持勢力が指導した幕末の政治的雰囲気が生んだ新体制の理念が、公武合体であることは当然であった、しかも公武合体は、急造された政治理念でなく、深い史的淵源に立つと白柳はいう。「そもそも、公武合体的革新理念は織豊両氏の勤皇と共に由来久しきもので、日本近海に黒船の出没するようになってから俄に頭を擡げた問題ではなかった。日本の明治維新が、支那の国民革命などと比較してその根底頗る深く、英米資本主義の糟糠を嘗めた進歩主義者による一夜作りの近代国家運動などと比較にならぬのは、その淵源するところが遠く織・豊両氏の勤皇運動にある」からで、「慶長・元和の間、政権はひとたび徳川氏の手に帰し、織・豊両氏によって着手された皇室を中心とする近代国家=日本の統一運動は、家康・秀忠・家光三代の統制貿易政策に基調する半郡県的封建国家体制の樹立により、表面跡形もなくその姿を消し去った如く思われて居るが、実は決してさうでない。織豊両政権によって点火された皇室を中心とする近代国家日本を建設すべき清地工作としての教学自主運動は、三本建の復古思想となって、二世紀半の徳川時代を貫流し、それが幕末に及び合流して王政復古・明治維新の基礎理念を成して居るのだ」と言う。
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続く。
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