●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(48)-1 |
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(48) 落合莞爾
-光格帝の御事跡と閉院宮系天皇子孫=京都皇統の経綸 ★世襲親王家閑院宮と「光格王朝」の誕生 近来「江戸の幕末ないし日本の開国は、実は光格帝に始まった」との所説を耳にすることが多い。先年も、竹田恒泰慶応大学講師が、講演でその事を強調していた。竹田講師は竹田恒和日本オリンピック委員会会長の長男で、伏見宮皇統に属する北白川能仁親王の四代孫に当たる。以下では、伏見宮皇統から分岐した閉院宮皇統から出て「光格王朝」を開始した光格天皇の御事績が幕末の発端をもたらした所以と、その末裔で維前後の日本を経綸した「京都皇統」について述べることとする。
前月稿(「手記47」)で堀川辰吉郎と松下トヨノを京都皇統と論じたが、「京都皇統」とはいうまでもなく造語である。そもそも、わが皇室の根本観念をなす「万世一系」は、必ずしも特定の血統に拘泥したものではなく、各時代において皇位を保持した系統が時宜に応じて交代しながら、連綿として皇室を継承してきたことを意味するもので、皇統のこうした交代は恰も西欧でいう王朝交代に似た外観を呈しているが、彼我の差異を論じるのは本稿の主意でない。ついでにいうと、大和民族の根本観念たる「単一民族」というのも、縄文系・倭系・ツングース騎馬人系はいうに及ばず、漢系・百済系、さらにはポルトガル系タカスなどの渡来諸民族の混合体であって、しかも完全な混血には至っていないのに、敢えて単一民族と観念したものである。
さて、ここに「京都皇統」とは、百十九代光格帝(在位安永八【一七七九】年~文化十四【一八一七】年)に始まり、仁孝帝を経て孝明帝(在位弘化三【一八四六】年~慶応二【一八六六】年)に至る三代の閉院宮系天皇の子孫を指すもので、其の所以を陳べるに、百一三代東山帝の御子で百十四代中御門帝の同母弟の直仁親王が宝歴七(一七一〇)年、世襲親王家として新たに閑院宮を創立したことに始まる。これは将来、直系皇嗣が途絶える場合に備えたもので、新井白石の建言というのは作り話との説もあるが、ともかく霊元上皇により、直仁親王に対して閉院宮号と所領壱千石が与えられた。
これが功を奏するのは七十年後で、安永八(一七七九)年東山帝の四代孫たる百十八代後桃園帝が二十二歳で夭折して、皇嗣選定の必要が生まれた。皇嗣の候補は、皇統の予備として設けられた世襲親王家に求める外なく、伏見宮家の貞敬(一七七六年生まれ)と閉院宮の二代目典仁親王の第一皇子美仁(一七五八年生まれ)、及びその弟の祐宮師仁(一七七一年生まれ)の三親王に絞られたが、先帝の遺児で生まれたばかりの欣子内親王の女婿となるために独身が条件とされて、まず美仁親王が除かれた。
残る二人の内、後桜町上皇(百十七代桜町女帝)と前関白の近衛内前は貞敬親王を推したが、いかに世襲親王家の筆頭とはいえ、伏見宮家は現皇統とは既に十数代を隔たっていた。十日に亘る議論の末、関白九条尚実の推す師仁親王が、先帝の七親等(百十六代桃園帝及び後桜町女帝とは六親等)で現皇統と血統が最も近いことから、先帝の猶子となって皇統を継いだ。これすなわち光格帝で、遡れば伏見宮貞成親王に至る北朝血統であるが、世襲親王家の閑院宮から出たことで、ここに「光格王朝」の始祖と視るのである。初代閑院宮直仁親王は東山帝の御子で中御門帝の弟であるが、その御子の二代目典仁親王は、光格天皇の父として今日では慶光天皇と呼ばれるから、以後光格帝・仁孝帝・孝明帝と続くこの系統を「閑院宮皇統」と称して差し支えはない。 ★幕統を総覧した徳川家斉 関白職を独占した鷹司家 孝明帝の後は維新により政体が一新、東京遷都により皇室制度に著しい改変がもたらされ、「万世一系」の初代を明治天皇とする明治憲法(滝川幸辰博士説)が欽定されたが、南北朝正閏問題が論じられるや明治大帝は南朝正系を勅裁されたのに鑑みると明治大帝を王朝の始祖と視るのが至当である。以後、大正・昭和を経て今上に及ぶ現皇統を「東京皇室」と称えるが適切と思うが、この辺を論ずるのは別の機会にする。としもかく本稿の主張は、明治維新以後、孝明帝の直系が意図的に世に隠れ、京都堀川御所に潜んで秘かに国事に関わった秘事である。閑院宮皇統の本流とも視るべきこの系統を、「東京皇室」との対比で「京都皇統」と呼ぶのが適切であろうと思う。
さて「京都皇統」の事績を一覧すると、光格天皇の父ゆえ明治以後慶光天皇の尊号で呼ばれる二代閑院宮の五歳下の同母妹の五十宮倫子内親王は、宝暦四(一七五四)年に十代将軍家治の正室になった。東山天皇の孫で兄が慶光天皇、甥が光格天皇の倫子内親王と将軍家治の結婚は、後講釈ではあるが公武合体と謂うも差し支えない縁組であったが、男児に恵まれぬ内に、五十宮が明和八(一七七一)年三十四歳を以て薨去され、閑院宮系皇統の血は結局幕統に入らなかった。
倫子内親王と同年の異母弟淳宮は、寛保三(一七四三)年に摂関家の鷹司家を継ぎ、鷹司輔平となる。その曾孫の輔煕が明治五(一八七二)年に隠居、家督を九条家から入った煕通に譲るまでの三十年もの間、鷹司家は実質的に閑院宮系皇統の一支流であった。
安永八(一七七九)年九歳で皇位を継いだ光格天皇は三十七年間在位して、文化十四(一八一七)年に十七歳の第四皇子仁孝天皇に譲位したが、以後も上皇として禁裏に君臨し、天保十一(一八四〇)年に六十九歳で崩御した。即位より通算して六十年に亘り、真に王朝創始者に相応しい生命力を示したが、年数だけでなく顕著な事績を数多く残した。
光格帝が即位した時の、叔母の夫の徳川家治が幕府将軍であったが、光格帝の在位八年目の天明六(一七八六)年に他界した。世子家基が夭折していたので、幕統予備の御三卿たる一橋家から家斉が入って翌年十一代将軍に就き、五十年後の天保八(一八三七)年に世子家慶に譲った後も大御所政治を布き、天保十二(一八四一)年に六十九歳で没するまで、実に五十四年間も幕政を総覧した家斉の事績は、正に政体の「家斉王朝」の創始者に相応しく、光格天皇の御事績に対応するものと謂えよう。
家斉が幕統を継いだ天明七(一七八七)年、慶光天皇の実弟鷹司輔平(一七三九~一八一三年)が関白に就き、寛政三(一七九一)年まで十四年に亘り、甥の光格帝を善く輔佐した。輔平の後は四年間だけ一条輝良が関白に就くが、寛政七(一七九五)年には輔平の子鷹司政煕がこれに代り、文化十一(一八一四)年まで十九年間、従兄弟の光格帝を支えた。その後一条忠良が関白に就くが、九年後の文政六(一八二三)年政煕の長男政通に替わり、安政三(一八五六)年九条尚忠に譲るまで三十三年に亘って関白に就く。光格上皇と仁孝天皇を輔佐した鷹司政通は、孝明天皇の信頼も厚かった。かくて、一七八七年から一八五六年までの七十年の内、閑院宮系鷹司家が三代に亘り五十七年もの間、関白職を独占したのである。 ★「明治皇室」を監督する「京都皇統」の重要人物 さらに鷹司家は、家格が摂関家(五摂家)に継ぐ清華家(九清華)の一つ徳大寺家に入って、閑院宮系の活動領域を広めた。すなわち、輔平の子で政煕の弟の実堅が徳大寺の養子になり、さらに輔平の孫政通の子の公純が大叔父・徳大寺実堅の養子になる。徳大寺実堅は仁孝帝の信認が厚く、後述の学問所(京都学習院)設置の意向を受けて、武家伝奏として幕府と交渉した。実堅の後を継ぎ、多事多端の幕末に禁裏の重責を担った徳大寺公純の三人の男子が、「東京皇室」の侍従長兼宮内卿に就いた徳大寺実則、内閣総理大臣・西園寺公望、及び住友財閥の当主・住友吉左衛門友純となる。この三人は徳大寺公純→鷹司政通→鷹司政煕→鷹司輔平→閑院宮直仁親王→東山天皇と、男系で続く閑院宮皇統の六代目で、「京都皇統」と極めて近い関係にある。
かくて光格帝即位以来幕末までの九十年間、閑院宮系皇統が帝位と関白職をほぼ独占して名実ともに御所を統御したが、明治四(一八七一)年に徳大寺実則が侍従長兼宮内卿に就き(明治二十四年内大臣に異動)、明治大帝の崩御まで常に近侍したのは偶然の人事ではない。思うにこの人事の真の目的は、世に隠れた「京都皇統」の秘事を守ることにあり、有体に言えば、「京都皇統」の立場で「明治皇室」を監督する枢機の位置に徳大寺実則を充てたものと考えられる。
明治大帝崩御により徳大寺実則は辞任、後を受けて大正天皇の侍従長になったのは鷹司煕通であった。陸士旧制二期卒で、早くから東宮武官・侍従武官を歴任して陸軍少将に昇った煕通は、関白九条尚忠の子で鷹司輔煕の養子となったが、実は徳大寺実則の女婿でもあるから、この人事にも「京都皇統」との関係を見取るべきであろう。
光格天皇の御生母・大江磐代は、鳥取藩の陪臣(家老荒尾氏の家臣)岩室宗賢と大鉄屋の娘オリンの間に、延享元(一七四四)年に生まれた。父方岩室家の先祖は近江国甲賀郡岩室郷の地頭で地名を苗字にしたが、本姓は大江である。母の生家は「大鉄屋」という鉄問屋で、豪商淀屋の系類と謂われ、姓は堀尾氏との説があるが未詳である。父宗賢が浪人し、上京して町医者となったが、その家格は天皇生母としては例外的な低さである。
幼名をツルと称した磐代は、早くから橘姓を名乗り、中御門天皇の皇女成子内親王の侍女となった。成子内親王が閑院宮典仁親王に嫁ぐ時、従いて閑院宮家に入り、典仁親王の寵愛を受けて三人の皇子を儲けた。磐代が産んだ長男が第六皇子師仁親王すなわち光格天皇、次男が第七皇子盈仁入道親王で聖護院門跡を継ぎ、一人は夭折した。
続く。 |
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