吉薗周蔵手記(48)


 更新日/2021(平成31→5.1日より栄和改元/栄和3).2.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2005.4.3日、2009.5.27日再編集 れんだいこ拝


 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(48)-1 
 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(48)                落合莞爾

 -光格帝の御事跡と閉院宮系天皇子孫=京都皇統の経綸

 
 ★世襲親王家閑院宮と「光格王朝」の誕生 

 
 近来「江戸の幕末ないし日本の開国は、実は光格帝に始まった」との所説を耳にすることが多い。先年も、竹田恒泰慶応大学講師が、講演でその事を強調していた。竹田講師は竹田恒和日本オリンピック委員会会長の長男で、伏見宮皇統に属する北白川能仁親王の四代孫に当たる。以下では、伏見宮皇統から分岐した閉院宮皇統から出て「光格王朝」を開始した光格天皇の御事績が幕末の発端をもたらした所以と、その末裔で維前後の日本を経綸した「京都皇統」について述べることとする。

 前月稿(「手記47」)で堀川辰吉郎と松下トヨノを京都皇統と論じたが、「京都皇統」とはいうまでもなく造語である。そもそも、わが皇室の根本観念をなす「万世一系」は、必ずしも特定の血統に拘泥したものではなく、各時代において皇位を保持した系統が時宜に応じて交代しながら、連綿として皇室を継承してきたことを意味するもので、皇統のこうした交代は恰も西欧でいう王朝交代に似た外観を呈しているが、彼我の差異を論じるのは本稿の主意でない。ついでにいうと、大和民族の根本観念たる「単一民族」というのも、縄文系・倭系・ツングース騎馬人系はいうに及ばず、漢系・百済系、さらにはポルトガル系タカスなどの渡来諸民族の混合体であって、しかも完全な混血には至っていないのに、敢えて単一民族と観念したものである。

 さて、ここに「京都皇統」とは、百十九代光格帝(在位安永八【一七七九】年~文化十四【一八一七】年)に始まり、仁孝帝を経て孝明帝(在位弘化三【一八四六】年~慶応二【一八六六】年)に至る三代の閉院宮系天皇の子孫を指すもので、其の所以を陳べるに、百一三代東山帝の御子で百十四代中御門帝の同母弟の直仁親王が宝歴七(一七一〇)年、世襲親王家として新たに閑院宮を創立したことに始まる。これは将来、直系皇嗣が途絶える場合に備えたもので、新井白石の建言というのは作り話との説もあるが、ともかく霊元上皇により、直仁親王に対して閉院宮号と所領壱千石が与えられた。

 これが功を奏するのは七十年後で、安永八(一七七九)年東山帝の四代孫たる百十八代後桃園帝が二十二歳で夭折して、皇嗣選定の必要が生まれた。皇嗣の候補は、皇統の予備として設けられた世襲親王家に求める外なく、伏見宮家の貞敬(一七七六年生まれ)と閉院宮の二代目典仁親王の第一皇子美仁(一七五八年生まれ)、及びその弟の祐宮師仁(一七七一年生まれ)の三親王に絞られたが、先帝の遺児で生まれたばかりの欣子内親王の女婿となるために独身が条件とされて、まず美仁親王が除かれた。

 残る二人の内、後桜町上皇(百十七代桜町女帝)と前関白の近衛内前は貞敬親王を推したが、いかに世襲親王家の筆頭とはいえ、伏見宮家は現皇統とは既に十数代を隔たっていた。十日に亘る議論の末、関白九条尚実の推す師仁親王が、先帝の七親等(百十六代桃園帝及び後桜町女帝とは六親等)で現皇統と血統が最も近いことから、先帝の猶子となって皇統を継いだ。これすなわち光格帝で、遡れば伏見宮貞成親王に至る北朝血統であるが、世襲親王家の閑院宮から出たことで、ここに「光格王朝」の始祖と視るのである。初代閑院宮直仁親王は東山帝の御子で中御門帝の弟であるが、その御子の二代目典仁親王は、光格天皇の父として今日では慶光天皇と呼ばれるから、以後光格帝・仁孝帝・孝明帝と続くこの系統を「閑院宮皇統」と称して差し支えはない。 

 
 ★幕統を総覧した徳川家斉  関白職を独占した鷹司家 

 
 孝明帝の後は維新により政体が一新、東京遷都により皇室制度に著しい改変がもたらされ、「万世一系」の初代を明治天皇とする明治憲法(滝川幸辰博士説)が欽定されたが、南北朝正閏問題が論じられるや明治大帝は南朝正系を勅裁されたのに鑑みると明治大帝を王朝の始祖と視るのが至当である。以後、大正・昭和を経て今上に及ぶ現皇統を「東京皇室」と称えるが適切と思うが、この辺を論ずるのは別の機会にする。としもかく本稿の主張は、明治維新以後、孝明帝の直系が意図的に世に隠れ、京都堀川御所に潜んで秘かに国事に関わった秘事である。閑院宮皇統の本流とも視るべきこの系統を、「東京皇室」との対比で「京都皇統」と呼ぶのが適切であろうと思う。

 さて「京都皇統」の事績を一覧すると、光格天皇の父ゆえ明治以後慶光天皇の尊号で呼ばれる二代閑院宮の五歳下の同母妹の五十宮倫子内親王は、宝暦四(一七五四)年に十代将軍家治の正室になった。東山天皇の孫で兄が慶光天皇、甥が光格天皇の倫子内親王と将軍家治の結婚は、後講釈ではあるが公武合体と謂うも差し支えない縁組であったが、男児に恵まれぬ内に、五十宮が明和八(一七七一)年三十四歳を以て薨去され、閑院宮系皇統の血は結局幕統に入らなかった。

 倫子内親王と同年の異母弟淳宮は、寛保三(一七四三)年に摂関家の鷹司家を継ぎ、鷹司輔平となる。その曾孫の輔煕が明治五(一八七二)年に隠居、家督を九条家から入った煕通に譲るまでの三十年もの間、鷹司家は実質的に閑院宮系皇統の一支流であった。

 安永八(一七七九)年九歳で皇位を継いだ光格天皇は三十七年間在位して、文化十四(一八一七)年に十七歳の第四皇子仁孝天皇に譲位したが、以後も上皇として禁裏に君臨し、天保十一(一八四〇)年に六十九歳で崩御した。即位より通算して六十年に亘り、真に王朝創始者に相応しい生命力を示したが、年数だけでなく顕著な事績を数多く残した。

 光格帝が即位した時の、叔母の夫の徳川家治が幕府将軍であったが、光格帝の在位八年目の天明六(一七八六)年に他界した。世子家基が夭折していたので、幕統予備の御三卿たる一橋家から家斉が入って翌年十一代将軍に就き、五十年後の天保八(一八三七)年に世子家慶に譲った後も大御所政治を布き、天保十二(一八四一)年に六十九歳で没するまで、実に五十四年間も幕政を総覧した家斉の事績は、正に政体の「家斉王朝」の創始者に相応しく、光格天皇の御事績に対応するものと謂えよう。

 家斉が幕統を継いだ天明七(一七八七)年、慶光天皇の実弟鷹司輔平(一七三九~一八一三年)が関白に就き、寛政三(一七九一)年まで十四年に亘り、甥の光格帝を善く輔佐した。輔平の後は四年間だけ一条輝良が関白に就くが、寛政七(一七九五)年には輔平の子鷹司政煕がこれに代り、文化十一(一八一四)年まで十九年間、従兄弟の光格帝を支えた。その後一条忠良が関白に就くが、九年後の文政六(一八二三)年政煕の長男政通に替わり、安政三(一八五六)年九条尚忠に譲るまで三十三年に亘って関白に就く。光格上皇と仁孝天皇を輔佐した鷹司政通は、孝明天皇の信頼も厚かった。かくて、一七八七年から一八五六年までの七十年の内、閑院宮系鷹司家が三代に亘り五十七年もの間、関白職を独占したのである。 

 
 ★「明治皇室」を監督する「京都皇統」の重要人物 

 
 さらに鷹司家は、家格が摂関家(五摂家)に継ぐ清華家(九清華)の一つ徳大寺家に入って、閑院宮系の活動領域を広めた。すなわち、輔平の子で政煕の弟の実堅が徳大寺の養子になり、さらに輔平の孫政通の子の公純が大叔父・徳大寺実堅の養子になる。徳大寺実堅は仁孝帝の信認が厚く、後述の学問所(京都学習院)設置の意向を受けて、武家伝奏として幕府と交渉した。実堅の後を継ぎ、多事多端の幕末に禁裏の重責を担った徳大寺公純の三人の男子が、「東京皇室」の侍従長兼宮内卿に就いた徳大寺実則、内閣総理大臣・西園寺公望、及び住友財閥の当主・住友吉左衛門友純となる。この三人は徳大寺公純→鷹司政通→鷹司政煕→鷹司輔平→閑院宮直仁親王→東山天皇と、男系で続く閑院宮皇統の六代目で、「京都皇統」と極めて近い関係にある。

 かくて光格帝即位以来幕末までの九十年間、閑院宮系皇統が帝位と関白職をほぼ独占して名実ともに御所を統御したが、明治四(一八七一)年に徳大寺実則が侍従長兼宮内卿に就き(明治二十四年内大臣に異動)、明治大帝の崩御まで常に近侍したのは偶然の人事ではない。思うにこの人事の真の目的は、世に隠れた「京都皇統」の秘事を守ることにあり、有体に言えば、「京都皇統」の立場で「明治皇室」を監督する枢機の位置に徳大寺実則を充てたものと考えられる。

 明治大帝崩御により徳大寺実則は辞任、後を受けて大正天皇の侍従長になったのは鷹司煕通であった。陸士旧制二期卒で、早くから東宮武官・侍従武官を歴任して陸軍少将に昇った煕通は、関白九条尚忠の子で鷹司輔煕の養子となったが、実は徳大寺実則の女婿でもあるから、この人事にも「京都皇統」との関係を見取るべきであろう。

 光格天皇の御生母・大江磐代は、鳥取藩の陪臣(家老荒尾氏の家臣)岩室宗賢と大鉄屋の娘オリンの間に、延享元(一七四四)年に生まれた。父方岩室家の先祖は近江国甲賀郡岩室郷の地頭で地名を苗字にしたが、本姓は大江である。母の生家は「大鉄屋」という鉄問屋で、豪商淀屋の系類と謂われ、姓は堀尾氏との説があるが未詳である。父宗賢が浪人し、上京して町医者となったが、その家格は天皇生母としては例外的な低さである。

 幼名をツルと称した磐代は、早くから橘姓を名乗り、中御門天皇の皇女成子内親王の侍女となった。成子内親王が閑院宮典仁親王に嫁ぐ時、従いて閑院宮家に入り、典仁親王の寵愛を受けて三人の皇子を儲けた。磐代が産んだ長男が第六皇子師仁親王すなわち光格天皇、次男が第七皇子盈仁入道親王で聖護院門跡を継ぎ、一人は夭折した。

続く。
 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(48)-2
 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(48)-2

 
 ★最大の御事績は「学習院」の設立

 
 光格天皇の事績は「尊号一件」を始めとして数多く、本稿には枚挙する紙数がないが、特筆すべきは京都学習院の設立である。公家の子弟のための公的教育機関たる大学寮が平安末期の安元の大火(一一七七年)以来廃絶していたので、光格帝は再建を目指したが、在世中には実現せず、次代の仁孝帝に持ち越された。仁孝帝が幕府の承認を得て学校の設立が決定したのは天保十三(一八四二)年で、光格帝崩御の二年後であった。弘化三(一八四六)年には御所の建春門外に講堂が竣工し、翌年には講義が開始されて、三条実万が初代の伝奏(学長)に就任した。当初の名称は、幕府を意識して「学習所」「習学所」など一定しなかったが、孝明帝が嘉永二(一八四九)年に「学習院」の勅額を下賜して、以後は学習院を公称とした(明治期に東京に設立された学習院と区別するため、今は「京
都学習院」と呼ばれている)。学習院は公家の子弟を生徒とし、儒学を主として和学を取り入れた教科の会読・講釈を中心とした授業を行った。

 安政の大獄により下獄中の吉田松陰は、安政六(一八五九)年十月、学習院をして「四民共学の天朝の学校」とすべき遺志を門人・入江九一に託したという。本質的には軍事学者の松陰が、今日では政治哲学だけが強調されているのは平和ボケの最たるものであるが、要するに松下村塾とは、政治哲学だけでなく★軍事的実践(テロリズム)を説く学校であったわけで、学習院も、松陰の遺言に徴するまでもなくテロリスト養成所であった。軍事的実践を旨とする下級武士がここに登院して尊攘派公家と交わり、尊王統幕を実行する人脈を形成した。職能集団の公家の中でも、武事を家職とする羽林家は、幕府対策上から表面は文弱に見せてその実秘かに武略を研究していたようで、武門の下級藩士に当たる青侍には武術を習わせていたと聞く。

 この学習院が、文久二(一八六二)年七月頃から急増した朝廷と諸藩の間の折衝の場になり、投文・張紙などの横行に対応するため、翌年二月には陳情建白の類を受け付ける機関となった。長州藩は高杉晋作、桂小五郎ら多数の藩士を「学習院御用掛」に任じ、他藩でも土佐藩の土方楠左衛門、福岡藩の平野国臣、熊本藩の宮部鼎蔵さらに筑前の神官・真木和泉らを「学習院出仕」に任じたので、学習院は後に維新の志士と呼ばれる尊王攘夷の急進派が日々登院して国事を論ずる場所となり、諸藩の志士と尊攘派の公家が攘夷決行の密謀をめぐらす場所となった。ところが、文久年八月十八日の政変が起こり、公武合体派が三条実美ら尊攘派の公家を処分するに際し、学習院に対しても長州藩士ら関係者の出入りを禁止し、また陳情建白の受理も停止した。以後学習院は本来の教育機関としての姿に戻り、明治元年には「大学寮代」と改称したが同三年に廃止され、後に東京学習院に引き継がれた。

 
 ★中山忠伊=光格帝落胤説の真否と中山家系譜の謎

 
 学校歴史には出てこないが、光格天皇をめぐる重要な謎に中山忠尹の一件がある。安政八(一七七九)年に光格天皇が九歳で帝位に就くや、権大納言・中山愛親は天明二(一七八二)年に議奏に挙げられ、光格帝の側近として輔翼した。寛政四(一七九二)年の「尊号一件」に当たっては、正親町公明と共に正副勅使として江戸に下向、老中松平定信と交渉した。

 ここからがインターネットから転載した教科書歴史にない異説である。

 すなわち、正親町公明と共に閉門・逼塞の実刑を受けた中山愛親は、憤激の余り秘かに倒幕を図るが、幕府の察知する処となり、愛親の子の権大納言中山忠尹が、父と光格帝の反幕的行動に関する一切の責任を取り、文化六(一八〇九)年に自死した、とする(落合注・真否未詳)。いうまでもなく、これは尊号一件より十七年後である。

 さらに「それでも倒幕の志を棄てない光格天皇は、第二皇子・小松中官長親王を、忠伊【ママ】の子の中山忠頼に頼み、養子にしてもらいました。この子の名前も中山忠伊。おそらく、自害して果てた愛親の息子にちなんで名づけられたのでしょう。そして、この忠伊が、自分の祖父【愛親】・光格天皇の遺志をついで討幕運動に身を投じ〈天忠党〉を結成。また、中山忠能の実の息子・忠光も、〈天誄組〉の首領となって大和に挙兵するのですが、これはもうちょっと後の事件です」と説くのである。

 家禄二百石の中山家は大納言を極官とする羽林家で、栄親→愛親→忠尹→忠頼→忠能→忠愛と男系を以て続くが、異説として愛親の父が栄親の弟の正親町実連とする記録も存在しており、何となく謎に包まれている。また、愛親が満十五歳四ヵ月足らずの時に忠尹が誕生したのも、有り得ぬことではないがやや不自然に思う。その中山家の系譜に、さらに大きな謎が加わったのである。

 上記のインターネット記事で「中山忠尹」を「忠伊とも称した」とするのはいかにも恣意的と思われるので納得がいかないが、一応、史料に照らして解釈する。まず、光格帝の皇子は記録上八人生まれたが、成人したのは第四皇子・恵仁親王(後の仁孝帝)だけで、他の七人は乳幼児のうちに没した。記録にない庶子の存在も在りも得なくはないが、問題は所謂「第二皇子・小松中宮長親王」が皇嗣中に占むべき位置である。中山忠尹が自死したとされる文化六(一八〇九)年までに生まれた皇子のうち三人は生後直ぐに他界、ただ一人生き延びた第四皇子・恵仁親王はまだ九歳で、今後無事に育つ保証もない。現に、その後に生まれた四人の皇子は悉く夭折、結局恵仁親王たった一人が成人されたのである。こうした状況にあって、夭折しなかった皇子が他にも存在したならば、生母の身分に関わらず皇嗣候補として貴重な存在で、中山家に養子に出す余裕なぞ有るべくもない。つまり、光格帝に当時「小松中宮長親王」なる皇子が存在したのなら、仮に庶腹であっても皇籍から外すことはまず有り得まい。

 因みに、仮に恵仁親王はじめ皇子がすべて夭折した場合には、その日のために置いた世襲親王家(それも閑院宮家)から皇嗣を選ぶこととなるので、宮廷の混乱も特にない。事は苟も皇嗣問題であるから、いざとなれば世襲親王家をアテにする所存で、光格帝の庶子を「小松中宮長親王」と称して中山家の養子に入れたなぞ有り得まいが、閑院宮皇統ならばどうか。つまり、インターネットにいう「中山忠伊=光格天皇落胤」説は首肯し難いが、閑院宮家の庶子ならば全くあり得ぬことではないと思う。当時、養子に準じた猶子という縁組制度があったから、或いは光格帝は、閑院宮流の庶子を秘かに猶子とし「小松中宮長親王」と称したのかも知れぬ。

 ともかく、中山忠尹が「光格天皇の遺志をついで討幕運動に身を投じ〈天忠党〉を結成」したというのは学校歴史にはない異説で、本稿も之を論ずるに典拠がないが、「中山忠能の実の息子・忠光も、〈天誅組〉の首領となって大和に挙兵するのですが、これはもうちょっと後の事件です」と説く「天誅組」の方には史実があるが、紙数が尽きたので、これについては、次月号に譲る。 

 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(48)     <了>。 

 







(私論.私見)