吉薗周蔵手記(47)


 更新日/2021(平成31→5.1日より栄和改元/栄和3).2.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2005.4.3日、2009.5.27日再編集 れんだいこ拝


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(47)
 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(47)-1
  京都皇統の二大重要人物・堀川辰吉郎と松下トヨノ 

 
 ★故意に流された明治天皇落胤説 

 
 先月稿では、明治二十年に堀川御所を出た七歳の辰吉郎を博多で迎えた杉山茂丸の背景を述べた。本稿は、活字資料のほとんど存在しない辰吉郎の博多時代を、中矢伸一『日本を動かした大霊脈』から窺うことにする。中矢前掲は、『日本週報』昭和三十四年六月十五日号から十一回にわたり隔週掲載された森川哲郎の「不思議な人物」を再編成したもので、副題を『堀川辰吉郎一代記』とするが、その記事内容は森川が辰吉郎から直接聞いたままを記した聞書である。特徴は、辰吉郎が生年を明治十七年と自称したのを真に受けたために時制が史実に合わず、祖述者の中矢を混乱させている点である。

 辰吉郎は、井上馨の兄重倉の五男と入れ替わったため戸籍上の生年は明治二十四年であったが、実際の生年について、森川の祖述者として十七年説に立つ中矢は、大正天皇の御生年との絡みで十二年説をも重視する。本稿は、近来仄聞した「明治二十年辰吉郎七歳の時に、堀川御所で松下トヨノが出生したのを機に、博多へ遷った」との話を信じて明治十三年生まれで一貫することにする。

 誕生地は本人の言でも京都堀川で、実母については語らないが、「博多湾の岸壁にそった城郭のような広壮な邸宅」で辰吉郎に仕えた養母は堀川千代といい、「京都の堀川御所から彼の養育のために来た女」であることを、辰吉郎は千代の死後に知った。蓋し、辰吉郎の博多行きに合わせて、京都皇統が養育係の千代を派遣したのであろう。

 実年齢に従い現地の小学校に入ったと見られる辰吉郎は、桁外れの悪童ぶりを発揮して退転校を繰り返したので、千代はその都度「玄洋社総裁の頭山満、右翼の大物であった杉山茂丸、時の県知事に」相談したと中矢は記す(原文まま)。有体に言えば、堀川御所命で千代は、辰吉郎の日常をこの三人に報告していたわけだ。県知事とは安場保和のことで、福岡県知事としての特別任務が玄洋社支援と辰吉郎の監督だったから、これは当然である。中矢前掲著には頭山が随所に登場するのに対し、茂丸の出番がこの一か所だけなのは、辰吉郎自身が茂丸との関係を隠し、代わりに頭山の名を出したからであろう。死ぬまで茂丸との関係を秘した辰吉郎が、此処にだけ茂丸の名を挙げたのは、茂丸が真の傅役であったことを暗示したものではなかろうか。

 辰吉郎の尋常ならざる日常が巷間憶測を呼び、やがてその貴種たることが噂となるのをとっくに計算済みの堀川御所側は真相隠蔽のために、実父が明治天皇であるとの虚説を故意に流したものと思われる。この種の策略は世間心理を利用するのが要諦で、真相を全く隠蔽してしまえば辰吉郎はただの我儘坊ちゃんとして扱われ、結局大役を果たすことが出来ない。辰吉郎の実父について中矢前掲は、断言を避けながらも明治天皇落胤説に立ち、中島成子の実子・中丸薫も父辰吉郎の明治天皇落胤説をかざすが、宮内庁はそこを質されるとハッキリ否定するので、世間一般の扱いは、中矢前掲を単なる奇書とし、中丸を女天一坊として冷笑する。尤も、明治帝の落胤でないのは確かで、宮内庁を責めるわけにはいかない。両人は結局、堀川御所発の噂に嵌められているわけである。とすれば、中丸と中矢が口を揃えて辰吉郎の実母という千種任子(1856~1944)は、実際にも明治天皇の典侍であったから、作り話の一環と視るべきである。辰吉郎の実母は何れ堀川御所に住んだ女性に違いなく、岩倉具視の親族と囁かれているが、それ以上は聞こえてこない。

 「皇統譜に中丸薫の記載有り」と仄聞した時は、正直言って「まさか」と思ったが、その直後に「京都皇統」の存在を教えられて成程と思った。中丸薫が辰吉郎の娘であることを強く否認する中矢も、「辰吉朗の拳銃の腕前を中島成子が讃えた」と述べ、辰吉郎と成子を無縁とは言わない。因みにこの一件には、海軍切っての俊秀で、故あって辰吉郎に仕えた海軍大佐・矢野祐太朗が絡んでいると聞くので、備忘のためここに記しておく。

 
 ★学習院を退学処分に  「大陸に渡らせたら」 

 
 博多時代の辰吉郎の悪戯の中で特筆すべきは二件で、一つは「博多名物の放生会の夜に盛装して集まってくる人たちの着物の紋を、彼ら悪童たちを指揮して、片っ端から切り取って集めさせた」ことである(中矢前掲)。被害者は善男善女で一丁羅の晴着を台無しにされた損失は少なからず、有谷な要素の何もない愚劣な所業と謂うべきである。もう一つは、子供同士の院地打ちに地元のヤクザが絡んできたのを怒った辰吉郎が、ヤクザの家に放火したところ周囲の家屋に延焼したもので、前に輪を懸けた悪質な犯罪である。警察が辰吉郎はじめ悪童を一網打尽にしたのは当然で、厳しい処分が待つ筈を、千代が抗議しまた頭山満や県知事が介入したために内済となり、千代は全財産を投げ打って被害者に献身的に尽くしたという。

 放火事件の時期について中矢前掲は、「時の頃は明治二十七、八年の九月半ばであった。当時十一歳であった辰吉郎は・・・」と謂うが、こんな重大犯罪を収めようとする福岡県知事は辰吉郎の保護監督の密命を帯びた安場保和しかいない。したがって、その時期は安場が愛知県知事に転ずる明治二十五年七月以前、すなわち二十四年九月半ばと視るしかない。確かに辰吉郎の実年齢は十一歳で小学校五年生に当たり、是非も覚束ない年齢であったから、千代では押さえが利かず、暴挙に走ったのであろう。

 中学一年まで博多に居た辰吉郎は、福岡を訪れた井上伯に千代と頭山満が加わって、辰吉郎の進路を相談しているのを立ち聞きした。上京させて学習院に入れようというのである。実年齢から推せば、時は明治二十六年で、安場は既に愛知県知事に転出してその場におらず、井上馨は内務大臣である。辰吉郎は井上伯に伴われ、千代と共に上京して学習院中等学科に転じたが校風に合わず、乱暴を重ねてやがて退学する。時の学習院長を、中矢が乃木希典将軍とするのは大錯覚で、乃木は当時少将・歩兵第一師団長で、十四年後の四十年一月に学習院長に就く。当時は陸軍少将、子爵・田中光顕が学習院長であった。

 田中学習院長から退学処分の通知があり、頭山と井上馨と千代の三人が辰吉朗の今後を相談した時、頭山が一言した。「この男の規模では日本に合いませんな。どうでしょう、いま孫文が私の手元に亡命しています。彼に預けて、大陸へ渡らせたら」との言であったが、それを聞いた辰吉郎は、「それから間もなく、生涯の盟友になる孫文に、柳橋の料亭で引き合わされた」(中矢前掲・原文まま)。その時期を中矢は、「明治三十二年、『一代記』によれば、辰吉郎十五歳春のことであった」と記すが、原典たる森川哲郎『堀川辰吉郎一代記』は辰吉郎からの聞き書きで自称通り明治十七年生まれとしているから、十五歳とせざるを得ないが、祖述者の中矢自身は内心明治十二年説を持しているため、年齢については原典を承服できず、わざわざ「『一代記』によれば」と断ったものであろう。

 辰吉郎の学習院転入が中等学科二年生とすれば、実年齢から推して明治二十七年の筈であるが、長くは在校しなかったようだから、退学の時期は大凡二十八年頃と見て良い。しかしこれは、辰吉郎が博多の小学校以来ずっと正常に進級した場合のことで、退校・転校の繰り返しの中で何年か足踏みしていたならば、その年数だけ遅れる。内務大臣井上馨は二十七年十月から朝鮮大使に転じ、二十八年十月までソウルで過ごしているから、退学後の方針をめぐる前記の談合に井上が参加しているのなら、退学の時期はやはり二十八年末と見た方が自然である。 

 
 ★孫文との出逢いはいつか 秘められた三年間に何が 

 
 ともかく学習院を中退した辰吉郎は、革命家孫文を援けて活動することとなる。天性の革命家・孫文は、明治二十八年十月の最初の挙兵(広州蜂起)に失敗、十一月日本に密航してきた。これが初来日で翌年ハワイ経由で英国に渡り、十カ月ロンドンに滞在し、連日通った大英博物館の図書室で南方熊楠と知り合い友誼を結ぶ。ここも清朝の追及が厳しく、英国を追われた孫文は、三十年八月再び日本に亡命した。この時に孫文を匿い保護したのが宮崎滔天・平山周らで、背後には玄洋社と黒龍会がいた。辰吉郎が孫文に引き合わされたのは多分この再来日の時期で、明治三十二年説を疑う必要はないだろう。

 中矢前掲によれば、辰吉郎は孫文に逢う前に「この頃、孫文より少し遅れて、日本に中国革命の大志士が、清朝政府を追われ」て渡ってきた康有為に逢った。明治二十八年九月光緒帝の下で政治改革「戊戌の変法」を図った康有為は、保守派の西太后と寵臣・袁世凱に阻まれて失敗し、同志の譚嗣同らは処刑された。中矢によれば、危機に瀕した康有為を救ったのは偶々北京を訪れていた前総理・伊藤博文で、大陸浪人・平山周、山田良政らに命じて救出せしめたが、「その事実を、辰吉郎は、井上伯に連れられた席上で伊藤公(原文まま)本人の口から聞いたと証言している」という。孫文と康有為の初来日は殆ど同じ時期で、康有為はその後も再三来日するが、文脈からしてこれは康の初来日の時、すなわち明治二十八年末あたりと推察される。因みに伊藤博文は、二十八年八月に日清戦役の功績で侯爵に陞爵したばかりで、公爵陞爵は四十年である。

 以上を総括すれば、明治二十八年に学習院を追われた辰吉郎を大陸問題に関わらせようと考えた杉山茂丸は、朝鮮駐劄特命全権大使から同年十月に帰還した井上馨に頼み、亡命客の康有為に引き合わせた。時に辰吉郎は実年齢十五歳で、その後孫文に出逢う明治三十二年春までの三年有余の間どこで何をしていたのか。それを森川に語らなかったのは意図的で、その期間にこそ辰吉郎の真の秘密があると私(落合)は思う。


      続く。
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(47)
 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(47)-2 

 
 ★紀州徳川家の古陶磁換金を阻んだ吉薗周蔵 

 
 それはさて、辰吉郎が博多から上京した頃、堀川御所生まれの重要女性が、堀川御所を出て紀州和歌山に移った。戸籍上では辰吉郎と同じ明治二十四年生まれの其の女性は、和歌山市郊外海部郡加太村の池田酒店の娘として突然降臨した。加太村K家の伝承では既に七歳で、「まるで天狗さんに育てられた子のようであった」と謂うから、実際の生年は明治二十年生まれとしで良いのであろう。女性の戸籍名は松下トヨノであるが、豊子と自称した。

 私(落合)が松下豊子の名を聞いたのは、恩師稲垣伯堂画伯から紀州家由来の古陶磁を引き受けた平成二年のことである。当初、焼物研究の師匠として選んだ岸和田市の研究家・新屋隆夫が初会の日にその名を□にした。「自分は、陸軍大将・荒木貞夫から義理の孫と認められていたが、荒木大将から松下豊子さんを紹介され、《この御方の美術品の面倒を観るようにと命じられた》)と謂うので、先考に尋ねたところ松下豊子は謎の貴婦人であると教えられた。わが叔母(実母の妹)たちも、その父・小畑弘一郎から聞いて松下豊子の噂を知っていた。その後、和歌山に隠棲した私(落合)は、至るところで豊子の話を聞いたが、ことに和歌山市加太では、今でも中年以上では知らない人は居ないと言って良い。

 紀州家古陶磁の来歴を探究していた私(落合)が、岸和田市の陶芸家・南宗明夫妻に案内されて、貝塚市の五味紡績の社主を訪ねたのは平成六年頃であった。その際にもK家の名が出たが、五味夫人の話では、昭和三十年にK家の当主に案内されてきた松下豊子と名乗る女性から、「紀州徳川家に素晴らしい東洋古陶磁があるので、その展観施設を作る計画に加わらないか」と誘われた。五味家の当主も乗り気になり、適地を探して一緒に行動して鎌倉まで行った事もある、とのことであった。

 それから数年経った平成八年、吉薗周蔵が大正九(1920)年に奉天で作った『奉天古陶磁図経』が周蔵遺族から手元に来た。ほぼ同時に、周蔵が昭和三十年に記した「紀州徳川家に入った焼物のこと」と題した手記も入手した。それによると、昭和三十年初頭に、千葉の犢橋(*現、花見川区)に住む周蔵を、陸軍中将貴志彌次郎の養嗣子・貴志重光が訪ねてきて、「自分は紀州家古陶磁の売却商談を進めてきたが、神戸の買手から真贋混淆を指摘されて頓挫中なので、真贋弁別のために貴殿が奉天で作った図譜を借りたい」と申し出た。

 紀州家の徳川為子夫人と松下豊子が企てたその商談に荒木大将も関与している、と聞いた周蔵は、真贋混淆のまま売却する意図を覚り、張作霖と紀州家を仲介した貴志彌次郎が、将来の真贋混淆を何より懼れていた遺志を慮って、図譜の貸与を断った、とある。この記載から、紀州家では昭和二十九年頃から古陶磁の一部を換金する動きがあったが、周蔵の非協力もあり失敗し、計画を展観施設の設立に変更したとの推察ができた。 

 
 ★将軍・家茂も和宮も生きて子をなした?

 
 K家は江戸中期に淡路島から加太村に移って造船業を営み、後に材木商に転じた富豪であるが、昭和三十年代に当時の当主がトヨノの財務に携わったことを遺族は今も記憶している。「関わったのは古陶磁ではなく、慈覚大師を祀る宗教施設の建立計画であった」と遺族は謂うが、五味家の伝承と合わせて判断すれば、宗教施設の建立資金を紀州古陶磁の売却によって捻出せんとした訳で、直接換金が難しいことを覚って展観施設の設立に変更したのであろう。

 何故慈覚大師なのか。それは皇女・和宮が将軍・家茂に降嫁するに当たり、公武合体を象徴する婚貨として持参した北朝重代の秘宝が、慈覚大師自作の十一面観音像と仏舎利であったからである。和宮からそれを相続したトヨノが祭祀施設の建立を志し、紀州徳川家もその志に賛同して、古陶磁の一部換金を図ったようだ。トヨノの言では「和宮の秘宝は徳川家の蔵に在ったが、渋沢栄一が持参した」とのことであった。明治十年に箱根塔ノ沢温泉で脚気により薨去した和宮が、実はその後も生存していたことをトヨノから聞いていたK家の先代は、トヨノが和宮の実子か実孫であると信じていたという。そうなれば家茂も大坂城で死んではおらず、隠れ住んだ二人が秘かに子供を儲けたという話になる。私(落合)が右(↑)の一件を「その筋」に確かめたら、「和宮が兄・孝明帝に、(家茂様のようにお隠れ遊ばしませ)との示唆をなされた」との答えであった。

 第二次長州征伐軍を率いた家茂は、慶応二年(1866)七月二十日大阪城で急死、四ヵ月後に家茂の義兄・孝明帝も突然崩御された。小判改鋳に乗じて家茂の公武合体献金を捻出した小栗忠順も、一年後に薩摩兵に惨殺される。これらは公武合体の本当の筋書に法ったものと考えざるを得ないが、家茂と和宮の間に生まれた娘ならば、正に公武合体の象徴である。トヨノがその娘の実子なら、次の一言の謎を解く手懸りになる。

 
 ★替え玉説の可能性と岩倉具視が厳秘した自害説

 
 「今の天皇は南朝であるが、私は北朝である。もし男だったら私が皇位に就いていた」とトヨノが漏らしたのを直接聞いた人がいる。この言の解釈については、本稿はまだその段階ではないが、現時点で考察する限り、トヨノは男系血統を論じたと視るべきであろうから、トヨノの実父は北朝皇統に属する男子で、母が和宮の御娘という筋合になろう。和宮に関する重要関係者の動向は、慶応二年七月二十日家茂が大坂城にて死去(暗殺の噂が高い)、同年十二月二十五日孝明天皇崩御(暗殺の噂が高い)、慶応四(明治元)年閏四月小栗忠順殺害(一種の暗殺)というものである。その後、二十四歳の和宮は明治二年一月十八日に京へ向かい、五年半御滞在され、七年六月二十四日に東京へ帰られた。三年後の十年八月七日、脚気治療のため箱根塔ノ沢へ湯治に行き九月二日薨去、とある。

 和宮を巡る巷説に、①降嫁の当初からの替玉説、 ②中仙道の某宿で自殺し他人が入れ換わった説、などがあるが、昭和三十四年に芝増上寺墓地から和宮の御遺体を発掘した時、発掘調査団に宛てて来た手紙が興味深い。和宮に仕えた御祐筆の孫からのもので、「明治五年ころ、岩倉卿と祖母が主になって少数の供廻りを従え、和宮様を守護して京都へ向う途中、箱根山中で盗賊に逢い、宮を木陰か洞穴の様な所に匿い、祖母も薙刀を持って戦いはしたものの、家来の大方は斬られて傷つき、やっと追い拂って岩倉卿と宮の所に来て見たところ、宮は外の様子で最早之までとお覚悟あってか立派に自害してお果てなされた」との内容で、岩倉が一切を厳重に秘したと語る。

 世を謀るには影武者が基本であるから、替玉説はいかにも有りうる話であるが、静寛院宮の京戻りも、同じく世に隠れた家茂と堀川御所あたりで一緒に暮らすためならば合点が行くし、在京の五年間には、本人か替玉による秘かな江戸往復があってもおかしくはない。     

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 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(47)
 <了>。







(私論.私見)