吉薗周蔵手記(45)


 更新日/2021(平成31→5.1日より栄和改元/栄和3).2.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2005.4.3日、2009.5.27日再編集 れんだいこ拝


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(45)
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (45)-1            落合莞爾
  -底知れぬ来歴と事跡を持つ怪人・堀川辰吉郎と杉山茂丸 

 
 ★明治天皇落胤説は「為にする虚伝」

 
 京都皇統が隠れ住んだ堀川御所では、明治二十年松下トヨノが生まれたのを機に、七歳に育っていた辰吉郎は博多に移る。黒田藩士の政治結社たる玄洋社に預けられ、実質社主の杉山茂丸や社長の頭山満から武士的素養と気風を学び、小学校に通って下情に通じるためである。辰吉部について述べた書物は数少ないが、その一つ中矢伸一者『日本を動かした大霊脈』(徳間書店・平成十四年)は辰吉郎に関する伝聞を羅列しており、情報の乏しい辰吉郎の輪郭を掴むのには極めて役立つが、タイトル通り宗教色に傾き、内容にも学習院長・乃木大将の事績に不用意と思われる誤りがあるから、参考にするならば、その点に注意すべきである。

 他には辰吉郎の遺児を称する国際政治評論家・中丸薫の幾つかの著書がある。自ら「堀川辰吉郎と中島成子の間に生まれ、北京大学教授・松村夫妻の養女となった」と語る中丸は「辰吉郎は明治天皇と千種任子の子」と明言する。中丸の唱える辰吉郎の出自に対しては、インターネット上で、「生母に擬される花松典侍すなわち千種任子の事績に合わない」との批判が盛んで、堀川姓の所以についても「岩倉具視の関係ならば、堀川でなく堀河の筈ではないのか」と攻撃されている。中丸薫を辰吉郎の遺児と認めない中矢は、明言を避けながらも「辰吉郎は明治天皇が某典侍に産ませた皇子」と、実質的には落胤説である。堀川姓についても「博多で預けられた地元の名家」と説明して、ネット勢の批判をかわしている。

 伝聞として曖昧化する中矢に比べ、中丸は明治天皇落胤説を真正面から唱えるから本来不要な中傷・非難を蒙っているわけだが、結論を言えば、中丸も中矢も辰吉郎の出自に関する「為にする虚伝」に惑わされているのである。辰吉郎の真相は、本稿が明らかにしたように孝明帝の男系の男子であって、父は無論明治天皇ではない。辰吉部の明治帝落胤説は、要するに「為にする虚伝」であって、主目的は北朝皇統の存在を世に隠蔽することにある。おそらく「その筋」に隷する末端が、意図的に流布したもので、中丸も中矢も最も信頼する筋からそれを聴かされたために、堅く信ずるに至ったものであろう。「敵を欺くにはまず味方から」の戦術に中てられて誤信した両人に邪心はなく、誤信の理由も明らかであるから、出自詐欺の謗りはいかにも酷で、寛恕さるべきであろう。

 しかしながら週刊誌などが、「宮内庁に確認したら、辰吉郎の明治天皇落胤説は否定された」として、中丸を出自詐称と誣いるのは、実は「為にする虚伝」とワンセットで、これまで散々流してきた虚伝を宮内庁を用いて浄化する仕掛けに一役買わされているのだから、これこそ批判さるべきである。マスコミが日頃標榜する使命に従うのならば、まず辰吉郎の真相解明と、中丸が実母と称する中島成子の追究から開始すべきであるが、それをしないのは、追究能力の欠如だけではなく、宮内庁談話で辰吉郎落胤説を否定して一件落着として、それ以上の追究を封じる策略に、加担ないしは利用されているからである。

  
 ★「何を書き留めたか」より「何を隠したか」に注目せよ 

  
 中丸蕉の出生は昭和十二年五月二十三日とされるが、当時、中島成子は満人富豪で鉄道技師の韓景堂の妻で、既に女子を産んでいた。成子自ら 序文を寄せた朽木寒三著の成子伝『馬賊と女将軍』には、「盧溝橋事変の起きた昭和十二年七月七日、成子は末の女の子が生まれて一カ月余りで、三人の子を連れて大連星が浦の海水浴場に保養にきていた」とする。ところが、その二十八年後、朽木の遺した資料により神野洋三が書いた成子伝『祖国はいずこ』には、「長女出産のあと暫く子宝に恵まれなかった成子は、昭和十二年夏に出産予定があった」としながら、「出産後の保養中の星が浦に、北支那方面軍参謀の山下奉文少将から電報が来て、北京で特務機関員になった」と明言する。同著の後書で神野が、「作中の登場人物の一部を仮名にしたり、家族や私生活については創作である」と斯ったのは、成子の伝記とは言いながら史実を故意に隠したからで、隠蔽対象に中丸薫自身が入っているのは謂うまでもない。

 自著の幾つかで、中島成子が実母と述べた中丸は、二冊も公刊されている伝記がいう成子の年譜と自ら伝聞した母の実像との、照合と訂正を怠ったから、両方を読んだ読者の混乱を誘うのは当然で、現に副島隆彦から「中丸の実父は韓景堂であるとの指摘を受けている。正に樹を観て森を察せざる批判ではあるが、戸籍資料の背景を知らずに金科玉条としたために誤解を生んだ例は他にもある。例えば、吉薗周蔵の娘・明子が、両親が遺した佐伯祐三絵画の由来を明らかにするため、河北倫明の指示によって家伝を記した『自由と画譜』を公表したが、家伝の内容の吟味を省いたために、戸籍資料との矛盾を学芸員・小林頼子に追究され、それが原因で塗炭の苦しみを嘗めさせられた。中丸も吉薗明子も、「渡る世間はみな味方」とのお嬢さん的な思い込みから、自家伝承の吟味をおろそかにしてこのような批判に会うたが、私(落合)自身も以前の本紙連載で橋本龍太郎の系図を論じた時、早とちりして祖父・卯太郎の再婚を見落としたことがあるから、偉そうなことは吉えない。韓景堂の妻たる者が辰吉郎の子を産んだ理由と、北京特務機関に入ったことの関連を追究すれば、辰吉郎の一面が見えるが、それもしないで中丸を批判するのは失当である。

 前掲二書が伝える辰吉郎の事績は、出自の他には大した誤りはなさそうだが、およそ伝記を読む場合、「何を書き留めたか」よりも「何を隠したか」の方に注目すべきで、辰吉郎と玄洋社との関係を述べる中矢が、頭山満だけを挙げて杉山茂丸を無視しているのが興味深い。尤もこれは、中矢が故意に隠したのでなく、辰吉郎と茂丸の関係に関する情報が中矢に届く前、つまり一般社会に発せられる前に、茂丸側が意図的に削除したものであろう。杉山茂丸は辰吉郎に匹敵する謎の大人物であるが、自著が多いので知られ、それにも拘らず辰吉郎について書いたものを聞いたことがない(寡聞かも知れず、もしあるのなら、御高教をお願いしたい)。

  続く。 
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (45) 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (45)-2            落合莞爾
  -底知れぬ来歴と事跡を持つ怪人・堀川辰吉郎と杉山茂丸 

 
 ★祖父は島津重豪、父は黒田長溥という貴公子 

 
 杉山茂丸は元治元年(一八六四)生まれで、辰吉郎より十六歳年長であった。戦国大名・竜造寺の男系を継ぐ父・杉山三郎平は馬回り組百三十石で、藩主・黒田長溥のお伽衆であった。茂丸の実父は黒田長溥と仄聞するが、七歳時にお目通りした長溥から茂丸の名を頂いた話にもその辺りが窺える。因みに長溥の実父は島津重豪で、茂丸は名君島津斉彬の大叔父にも当たるから、その門地の高さが皇統辰吉郎の傅役を仰せつかった所以であろう。

 自著と伝記の数が多いにも関わらず、茂丸の真相を伝えたものが少ないが、堀雅明『杉山茂丸伝』(平成十八年刊行)は一見に値する。来島恒喜の大隈重信襲撃など幾つかの玄洋社員の要人襲撃件の黒幕を茂丸と指摘したことで、茂丸の曾孫・杉山満丸から、筆者は「杉山文庫」の引用・使用を斯られたらしい。昔も今も政治の主たる手段が暗殺である真実を知らぬ庶民的常識と、殺人を絶対的悪と決め付ける敗戦思想に阿附する限り、さもありなんと思うが、日本近代史上稀有の人物の事蹟を、末裔の故を以て独占するとはいささか了見が狭くはないか。新知見に対して真剣に耳を傾け合理的に判断することこそ、真に遠祖を尊崇する道ではないかと、茂丸末裔の為に之を惜しむ。

 茂丸の若い頃の事績については、堀前掲の年譜に詳しい。数え十七歳になった明治十三年九月、行商姿で初めて上京した茂九は、赤坂の旧黒田藩邸を訪ねて長溥に拝謁した。一介の旧家臣の子に旧藩主が拝謁を賜るのは異例で、武家の旧習たる元服を機に、誰かが茂丸父子の対面を図ったものであろう。堀前掲の年譜に、その年茂丸は上野公園で野宿し、翌十四年は山岡鉄舟の家で暮らしたとあるが、放浪の一少年が天皇側近で侍従番長の山岡家に寄留するなど尋常でなく、黒田家から山岡に秘かに依頼したものであろう。この後、大阪に移った茂丸少年が、賞典禄一千石の功臣・後藤象二郎および西南戦争以来の豪商・藤田伝三郎と会うのも、決して偶然でなく、誰かが謀ったものであろう。華族令が布かれた三年後に、山岡は子爵、後藤は伯爵に叙せられ、藤田も後年男爵になった。当時すでに大物で、その後も事績を重ねていく彼らが、無冠の茂丸に会ったのは、放浪中とはいえその実体が貴公子だったからと視るしかない。 

 
 ★京都皇統と薩摩ワンワールドとの深い縁 

  
 明治十七年、二十一歳の茂丸は伊藤博文を暗殺する目的で再び上京する。旅費を出した肥後人・佐々友房は西南戦争で西郷軍に与し、山獄後に教育者に転じた人物で、警察官僚・佐々淳行と参院議員・紀平悌子の祖父に当たる。茂丸は上京の翌年、山岡鉄舟の紹介状を用いて伊藤に会うが、逆に説得されて暗殺を断念し、北海道へ逃亡した。帰京後に茂丸が頭山満と初めて会う手の込んだ筋書にも佐々は一役買っている。

 明治十六年七月に熊本県学務課長に就いた八重野範三郎が、佐々友房から茂丸の父・三郎平の名を聴き、訪ねた処、茂丸の消息を調べて欲しいと頼まれたので、上京の際に佐々を伴って茂丸を訪ね、次いで茂丸を誘って頭山満に会わせたというのである。頭山と会った茂丸は、以後長州高官の暗殺を罷める決意をし、意識的に長州人脈と手を組むことを頭山に約束した。その後の茂丸の行動が長州一辺倒なのは、頭山との約束を実行したから、と堀前掲は説く。間違いではないがあくまでも皮相で、その根底に京都皇統の戦略があった事は謂うまでもなく、長州人との表面的交際の裏に薩摩ワンワールドとの深い関係があった事は、本稿で立証した。

 頭山との約束の一つが福岡振興のための鉄道敷設である。その資金源として、海軍予備炭田として封鎖中の筑前炭鉱を取得するために、茂丸が元老院議官・安場保和を福岡県令に迎えようとしたというのも皮相であって、その奥を洞察せねばならぬ。天保六年(一八三五)、熊本藩二百五十石の上士に生まれた安場は、戊辰戦争で賞典金三百両を受けた功臣で、大蔵大丞に挙げられた時、上司の大蔵大輔・大隈重信を弾劾するほどの豪胆さがあった。岩倉使節団に参加して中途帰国の後、福島・愛知の県令を勤め、福島県令の時に既成の水運計画を変じて鉄道敷設を進めたことから、鉄道先駆者として知られていた。人材発掘に努め、胆沢県大参事の時、給仕の中から後藤新平(後に安場の女婿、大政治家、伯爵)と斎藤実(海軍大将、首相、子爵)を見出した事は良く知られている。明治十三年から元老院議官を勤めた安場に、佐々の紹介で会った茂丸が、いきなり福岡県令就任を乞うたら、安場は兄事する司法大臣・山田顕義の許可を条件にしたという。しかしながら、二十三歳の茂丸は黒田藩士の倅で玄洋社員と言う以外に、何の後ろ盾もない。既に県令を歴任した上、元老院議官を勤めてきた安場が、普通なら耳を傾けるような相手ではなかった。ここにも、筋書きの無理が露呈しているのである。 

 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(45)   <了>。 
 

 







(私論.私見)