吉薗周蔵手記(44)



 更新日/2021(平成31→5.1日より栄和改元/栄和3).2.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2005.4.3日、2009.5.27日再編集 れんだいこ拝


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(44)-1
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(44)-1
  孝明帝の孫にして荒木貞夫の草?「松下トヨノ」なる女性 


 ★紀州に残る奇妙な足跡 「皇室の裏の女官長」

 
 京都皇統の中心人物として、堀川辰吉郎の他にも孝明帝の血を引く貴種がいた。姓名を松下トヨノといい、和歌山市加太に住み、地元では謎の貴婦人として知られていた。私(落合)の先考・井口幸一郎は、知人の元和歌山県警部から聞いたとして、次のように語った。昭和二十二年に昭和天皇が全国巡幸の途中和歌山に来られた時、御召自動車の先導役を拝命した警部のサイドカーに、名乗りもせず勝手に乗り込んできた中年婦人がいた。警部と言えば泣く児も黙る時代だったが、件の婦人は警部の心情なぞ気にも掛けず、「私が指示します」と言いながら、あっちへこっちへと指図する。婦人の威容に押されて従わざるを得なかった警部は、「あんな悔しいことは忘れられん。あの女は一体、何者やったんか」と先考にぼやいた。

 婦人の名を松下豊子と聞いた先考は、以来風聞に注意を払っていたが、ある時南海電鉄の駅員から、「松下さんが和歌山市駅から乗られたとき、赤絨緞が無いからゆうて、駅長と助役がホームに白い砂を撒いてました」と聞き、豊子が皇族扱いを受ける身分であることを覚った。また、高松宮殿下が和歌山に来られた時、出迎えの知事夫人が大きな花束を抱いて国鉄東和歌山駅(現JR西日本和歌山駅)の表玄関で待っていた処、駅の柵の端っこにある木戸に豊子が現れて、「あなたー、こちらよー」と呼んだら、殿下はさっさとその方に向かわれたので、知事夫人は面目を失い暗然と立ち尽くしたことが噂となったとも言っていた。

 先考だけではなく、骨董趣味が嵩じて売買もしていた外祖父・小畑弘一郎も、「これは加太の松下はんから持ってきたが、明治天皇がお使いになったもんやで」と言って、塵紙を見せてくれたことがあった。戦前和歌山市屈指の料亭であった家に嫁いだ叔母も、姑の茶道仲間に、紀州家頼貞公爵の未亡人・岡本連一郎中将未亡人らとともに、松下豊子がいたと語った。

 平成元年、紀州徳川家伝来の紀州古陶磁の研究を引き受けた私(落合)が、当時全く不案内だった古陶磁の手解きを請うたのは、岸和田市在住の市井の研究家・新屋隆夫であった。大正末年に生まれた新星は、旧制中学時代に同級生の紹介で荒木貞夫大将に会い、以後「義理の孫」として扱われていたが、「昭和二十八年頃、荒木からユネスコの東洋部の役職に就けてやると言われて古美術の研究に勤しんでいたところ、紀州家当主の徳川頼貞参院議員が急死したためにその話が消えた」と語った。「戦犯の荒木大将がねえ?」と訝ると、「荒木のお爺ちゃんは、実は六日しか刑務所に入ってませんぜ。チャーチルに手紙を書いたら直ぐに出してくれた、とゆうてました」と説明されたので、私(落合)は初めて荒木貞夫に関心を抱いた。

 新屋は荒木から松下豊子を紹介され、「古美術品の面倒を見てあげて欲しい」と命じられたので、月に一度ならず和歌山市郊外の加太に赴き、豊子の所蔵する古美術品の換金などの処理に当たった。また、高松宮が和歌山に来られた時には、豊子の指示で同じ列車に乗り込み、少し離れた座席から不審者を警戒したこともあったという。豊子からは、戦時中に住友金属和歌山製鉄所の拡張に関与し、南海電鉄にも多大の後援をしたこと、さらに「終戦直後にマッ力―サー元帥と会い、諸般の世話をしたお礼に自動車を貰った」とも聞いたが、その身分については結局、「皇室の裏の女官長」という以外に知らないようであった。

 その後、紀州古陶磁の研究を進めるうちに知り合った岸和田市在住の陶匠・南宗明から、貝塚市の五味紡績という富豪に、以前古陶磁の美術館を建てる話が待ち込まれたと聞き、五味家への案内を請うたのは平成六年頃だった。五味夫人の話では、昭和三十年ころ、加太のK氏に連れられた松下豊子という婦人から、「紀州徳川家伝来の古陶磁を展覧する施設を作るから、協力せよ」と求められて、一年ほど奔走したが実現に至らなかった由であった。 

 
 ★複雑怪奇極まりない ″戸籍ロンダリング″ 

 
 以上の風聞から、松下豊子なる婦人は、男爵・荒木貞夫大将と親しく、何故か皇族同様の待遇を受け、紀州徳川家とも親しかったことが読み取れた。そこで戸籍資料を見ると、本名は松下トヨノで、明治二十四年十月二十五日出生、父松下熊吉・母まつゑの三女であった。東京市赤坂区丹後町四十六番地松下家の女戸主トヨノは、大正十二年九月十二日に、大阪市旭区友渕町六十番地一の戸主・黒板英次郎と婚姻届を出して黒板家に入籍し、松下家を廃家にした。その十年後の昭和八年十月六日、トヨノは英次郎と離婚するが、実家が廃家に付き新たに松下家を創立する。昭和十年四月五日に麹町区永田町二丁目二十九番五の戸主・高木七郎が養女・貞子を連れて松下家に入夫し、トヨノに代って戸主となった。ところが七郎は翌十一年五月二十三日を以てトヨノと協議離婚して松下家を去り、連れ子の養女・貞子も去ったので、トヨノは再び女戸主となった。実家・高木家が廃家だった七郎は、同地に新しく松下家を創立する。

 以上の経緯からすると、麹町区田町二丁目二十九番地五に、松下トヨノ家と松下七郎家が並立していたことになるが、昭和三十二年法務省令第二十七号により同戸籍を改製して編成された新戸籍では、永田町二丁目二十九番地五の松下家は、戸籍筆頭者が松下七郎、妻がトヨノとなっている。問題の本質は戸籍法ではないから、これ以上立ち入らないが、関係者がこれだけ複雑な戸籍ロンダリングを実行したのはトヨノの素性を隠すために外ならない。

 荒木貞夫から「義理の孫」として扱われ、荒木の命で松下トヨノに古美術品掛りとして仕えた新屋隆夫は、トヨノが黒板勝美の弟に嫁したと聞いた。黒板家は大村藩士で長崎県彼杵郡下波佐見村田ノ頭郷に住み、兄の勝美が東大史学科で日本古文書学を大成し、日本史研究の基礎を築いた事で知られるが、弟の伝作は東大工学部を出て月島機械製作所を創設しており、さらに妹・カヨは今里酒造へ嫁して戦後の財界四天王の一人今里広記(日本精工)を生んだ。正に世に顕れた一族であるが、その弟とされる黒板英次郎については、田ノ頭郷誌を見ても存在が確認されない。しかしトヨノと親交のあった加太のK氏が、「松下さんは黒板博士に嫁したことがあった」と語ったことを家人は記憶していて、正確ではないにしても、トヨノが黒板家との縁組を口にしていたことは確かである。因ってこれ以上の吟味は後回しにして、前進することにする。

    続く。 

●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(44)-2
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(44)-2
  孝明帝の孫にして荒木貞夫の草?「松下トヨノ」なる女性  

  
 ★明治天皇側室は虚報 母は孝明帝息女、父は有栖川宮 

 
 戸籍資料では加太に全く縁のないトヨノが幼時加太で育ったことは事実で、K氏の先代は、「松下さんは七歳の時に、まるで天狗さんに連れられて来たように、加太に現れた」と語っていたが、春日神社の向かい側にあった池田酒店に降臨したらしい。前出の戸籍の出生日が正しいならば(その保証は必ずしもないが)、降臨は明治三十年で、江戸時代から加太に住んでいた富商K家を頼ってきたものと思われる。トヨノが降臨した池田家の養女で中谷家に嫁いだ辰子は、トヨノは「島津の殿さんの子を生んだが、その子が風邪で死んだため島津家を出て、細川家家老の岩瀬家に預けられて、その子を産んだ」という。トヨノには伊丹の航空管制官をしていた子息がいたと新屋は語るが、K家の言でもトヨノは、「私は日本で最初に飛行機に乗った女」と言って、航空機との関係を語っていたらしい。

 加太の戸籍資料にはトヨノに関連する記載はないが、地籍資料にはトヨノの痕跡が残る。和歌山市加太字南仲町所在、地番一三四〇番地の家屋の保存登記に、所有者として東京都麹町区富士見町二丁目松下トヨノの名があるからである。新屋によれば、ここは元紀州藩の米蔵があり、二万円の大金を投じた竹中工務店の建築で、外見は瀟洒な日本家屋だが地下室があるという。この土地家屋は昭和五十三年七月二十七日のトヨノの死亡を機に、九月二十七日付で福岡県粕屋郡粕屋町の岩瀬幸之輔が相続した。法律上、贈与とは異なり相続権は親族にしか認められないから、伊丹空港の管制官をしていた岩瀬幸之輔がトヨノの遺児であることは戸籍上も明確である。

 こうして松下トヨノの実体がしだいに明らかになった。これまで巷間流布していた説に、トヨノが幼少にして明治天皇の寵愛を受けて某貴人を産んだというものがあるが、明らかに為にする虚報である。現在私(落合)が憶測する処では、トヨノの父は未詳で、母は孝明帝の娘である。生まれ育った京都市堀川通り六条の堀川御所は孝明帝の皇胤の隠れ住処であった。前述のK氏は、トヨノの父を有栖川宮と信じていたと家人はいう。有栖川宮には陸軍大将・熾仁親王(一八三五~九五)か、その子で海軍大将元帥の威仁親王(一八六二~一九一三)が該当するが、トヨノ出生年の一八九四年からすると、どちらの可能性もある。 

  
 ★石原莞爾手遅れ発言と貴志彌次郎の示唆と 

  
 吉薗周蔵の遺族もトヨノに関する伝承を伝えているが、真偽は定かとまでは言えない。ただし、『周蔵日記』にはその記事が散見する。最初は昭和十二年七月末弟である。参謀本部第一部長石原莞爾から、「たまには理由を付けて、お出で」と言われていた吉薗周蔵は、盧溝橋事件の事を新聞で知って知りたいと思い、西瓜を届ける口実で石原莞爾に会いに行った。石原は周蔵に、「満蒙問題の解決として満洲事変を起こしたことは誤りでなかったと確信するが、誤ったかと思うのは、あの奔馬のような松岡を見逃したことだ。甘粕に誘われて君と会ったあの時(注・昭和五年四月)明石閣下の話を君から聞いていれば良かったと、今は思っている」と語った。「明石閣下の策士たる姿勢を、君ほどに話す人を他に知らない。故に、明石閣下の真実を聞いて、今参考になっている。戦争は長引かせてはいかん、と君に犬弁舌されたというあの内容を閣いていれば、自分は松岡を逃がさなかった」と石原は言い、「国際連盟の脱退が失敗だったかどうかの答えはもっと先になるが、少なくとも今の状況に東条などが出てくる計算など出来ていなかった」と悔やんだ。

 九月に入り、石原が関東軍参謀副長として渡満すると聞いた周蔵け、「もう手遅れ」という石原にそれでも期待することにして、癌で療養中の貴志彌次郎中将を訪ねた。石原に会って手遅れ発言を聞いたと言うと貴志は衝撃を受け、「石原さんがそう言うの?」と言った。時々、荒木大将や甘柏の手伝いをしていることを告げると、貴志は「荒木さんは自分と郷里は同じで和歌山だ。荒木さんの手伝いをしているのなら、大したことではないが、知っておいた方が良いから」と言い、「荒木さんには、女の草が一人付いておられる、と聞いている。それがどうして、中々の人であるらしく、陛下とも懇意にされていると言ったことも、耳に入っている」と教えてくれた。

 周蔵は思わず、「陛下と懇意なるは、草ではなく、後援者なのではありますまいか」と応答した。陛下にまで道を持っているのは相当の婦人であろうから、「荒木には草がいるから疑われぬように」と、貴志が教えてくれたと周蔵は思った。「郷里和歌山の婦人で、山井・松下・草壁などと名乗る。姓は変えるが名はトヨ子、トモ子のどちらかだ」とも教えてくれた。

 二回目は昭和十四年で「周蔵手記・本紀」の最終部分である。荒木大将が何時の間にか「張子の虎の如し」となっていた、と記した後に、「貴志さんの云われたる女の事、偶然聞く」とある。トヨノと荒木との関係を耳にしたのであろう。

 次に出てくるのが、昭和三十年一月の「紀州徳川家に納まった焼物の件」である。一月早々に、貴志彌次郎の養嗣子・重光が周蔵を訪ねてきて、「奉天古陶磁」の「図譜」に関して幾つかの要望を出した。貴志重光の要望は紀州家の頼貞夫人の命を受けたものだが、その紀州家の背後には松下豊子なる女史がいて、その公認の保証人が荒木大将であることを、この時期の周蔵はすでに知っていた。上原勇作の遺言で後継者の荒木貞夫に仕えた周蔵は、戦後も荒木の活動を支援していて、前年末に荒木に会ったが、その折に荒木が「図譜」の件を頼んでこなかったのは、疚しい処があるからと推察した。松下なる婦人は井伊家も手玉に取ったと、親しかった井伊家から周蔵は聞いていた。何しろ宮中から「松下の事、よしなに」と頼まれて、協力している間に、いつの間にか手玉に取られていたということらしいが、真相は分らない。 

  
 ★トヨノが残した『黒皮の手帳』「地下室の金塊は?」の衝撃 

 
 吉薗遺族の言では、松下トヨノが宮中秘事を書きつけた黒皮手帳の一件があり、それを知った松本清張が翻案したのが『黒革の手帳』である。『週刊新潮』昭和五十三年十一月十六日号から五十五年二月十日号まで「禁忌の連歌」第四話として連載され、単行本が刊行された。七五六八万円を横領して銀座の高級クラブのママに転進した女性銀行員の、魑魅魍魎とした世界を背景に描いた作品で、過去に何度もドラマ化されているが、そのいかなる部分が翻案なのか知るすべもない。

 昭和三十年と言えば、松下トヨノが加太のK氏の協力を得て、紀州家伝来の「奉天古陶磁」の一部を換金しようとしていた時期である。目的は、慈覚大師を祀る施設を建てるための資金作りであったと伝わるが、周蔵が「図譜」の提供を拒んだこともあり、結局換金が成功せず、そのままになったらしい。因みに、公武合体のために、孝明帝の皇妹・和宮が将軍家茂に降嫁した折、持参した北朝皇統の秘宝が仏舎利と十一面観音像であった。家茂の薨去後、落飾して静寛院宮となった和宮は明治十年に薨去するが、件の秘宝は北朝皇統に返還され、松下トヨノが所持することとなった。蓋し、皇統の実在を証する数少ない物証である。

 地元の和歌山市ことに加太には、生前のトヨノに接した人士がまだ多い。世間話が好きだったトヨノが毎日訪れた「いなさ」の主人の息子は今も健在で、トヨノの思い出を話してくれる。修験道の根本たる友ケ島を抱えた加太で、旧家中の旧家は「行者迎之坊」を語源とする向井氏であるが、その当主が語るトヨノの晩年は、隣人に介護された日々で、隣人たちはトヨノの尋常でない身分を薄々感じていたが深く追究しなかったという。トヨノの没後、加太の寓居の所有権が転々していたことを知ったのは平成八年で、早速新屋隆夫に告げたら、「それじゃ、地下室のあの金塊はどうなりましたか?」と言い出したのには驚いた。新屋は、私(落合)に告げた以外に、トヨノから多くを聞いていたのである。

 ホル・ワット臨時政府の軍事顧問に就いた荒木大佐が、ロシア中央政府の命でブラゴベヒチェンスクのシベリア砂金を黒竜江省に隠匿したことは、本稿で既に述べた。砂金は予備役中将・貴志彌次郎が回収し、四分の一を上原勇作・田中義一と宇垣一成で分け、残りは満鉄に預けた後に張作霖に与える手筈であったが、方針変更で張作霖は暗殺され、砂金は上原の裏の女婿・甘粕正彦の満洲工作資金になった。しかし、中心人物が報賞に与らぬ道理はなく、荒木も幾らかの金塊を得た筈で、それをトヨノの寓居に隠したと、新屋は聞いていたのであろう。

  

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(44)   <了>。







(私論.私見)