●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(43)-1 |
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(43)-1 史的知見の上位集合体「薩摩ワンワールド」の具体像 ◆落合莞爾 ★孝明天皇-堀川氏-玄洋社 京都に秘匿された皇統勢力
これから述べるのは、日本近代史の実相である。明治維新を企画・推進した極少数の人士が、治世の最重要事として威重に隠蔽したため、後代の政治家は素より、専門史家すら全く知ることなしに、今日まで見過してきた歴史の秘事である。因って、教科書史学の説く所とは根本的に異なるが、十数年来、日本近現代史の裏面を探求してきた私(落合)が、世に隠れた事実に導かれて此処に至ったものである。
史実の探求と偽史の訂正を積み重ねて辿りついた論理的帰結ではあるが、それだけでは何処まで行っても一種想像の産物に過ぎない。それを敢えて本稿で述べたのは、実は「其の筋」から裏付けを得ていたからであるが、記述が断片的ならざるを得なかったのは、日本近代史の真相の根源に横たわる「皇室の二元制」に、私(落合)としては直接触れたくなかったからである。俗に謂う【情報源の秘匿】である。
先人が史実を敢えて隠蔽し、時には偽史さえ行ったのは、素より治世上の理由で、それを公開するのは流石に躊躇された。だが通説を黙過すれば真実は歪んだままで、世に虚偽を伝える偽史に加担してしまうから、断片的にせよ語らざるを得なかったのだが、今般「その筋」から示唆があった。「今や公開の時に当たれり」と謂うものである。
以下、二〇世紀世界史の一大要因で、今から世界史的意義が顕れると考えられる満洲問題から語り出すこととしたい。
日露戦争の結果、日本の国力を目の当たりにした愛新覚羅氏は、満洲族の将来を賭けて日本に接近を図った。漢族自立が眼前に迫る中を、今後の満洲政策を諮るために西太后は、重臣・袁世凱を代理人として折衝に当たらせたが、明治皇室も政体桂太郎内閣も敢えて之に応対せず、愛新覚羅氏との折衝に当たったのは、孝明帝の血統を継ぐ堀川辰吉郎を奉じる京都皇統勢力であった。明治元年、維新政府は徳川氏の江戸城を東京城と改称し、新たな住居として新帝明治天皇が住すこととなったが、先帝孝明天皇の血を継ぐ一部皇統は秘かに京都に残り、公卿・社寺・公武合体派など幕末以来の諸勢力の輔翼を受け、東京皇室と維新政体が直接関わることが難しい特殊な国事に当たることとされたからである。
京都に残った皇統の中核は、俗姓堀川を称する辰吉郎で、後見人に杉山茂丸(一八六四~一九三五)が選ばれて以来、杉山の拠る玄洋社が辰吉郎支援勢力として台頭した。その背景は、玄洋社の母胎・黒田藩が幕末に薩摩島津氏から藩主を迎えて血統を変じ、島津氏の別派と化していたからである。茂丸は龍造寺の男系杉山姓を称したが、実は島津重豪の九男で黒田藩主となった黒田長溥(一八一一~一八八七)の実子で、島津重豪の実孫でもあるから、島津斉彬・久光兄弟の父・斉興とは従兄弟の関係にあった。長溥が実子茂丸を龍造寺系杉山家に入れ、藤堂家から長知を迎えて黒田家を継がせた深謀遠慮は、無論教科書歴史の所説とは全く異なるが、これを理解せざれば日本近代史の真相を得られない。
維新後、在野志士を志した黒田藩士が結成した政治結社・玄洋社は、社長に頭山満・平岡浩太郎を仰いだが、隠れた社主は茂丸であった。辰吉郎は杉山茂丸を傅役として福岡で育てられた後、上京して学習院に通う。皇族・華族の子弟教育を専らとして、平民の入学を初等科に限った当時の学習院に、辰吉郎が入学したことは、その貴種たる証である。長じた辰吉郎が、わが国の皇室外交と国際金融政策を秘かに担う次第こそ明治史の秘中の秘で、これを知る者は今や杉山家の周辺にさえほとんどいないが、その観点から史書を渉猟すると、痕跡は随所に散見される。一例は、明治三十二年日本に亡命してきた清国人革命家・孫文を支援するため、辰吉郎が孫文の秘書となり行動を共にした事である。孫文が、常に身辺に伴う辰吉郎の正体を日本皇子と明かすことで、清人間における信用を高め得たのは、素より玄洋社の計らいであった。
要するに京都皇統は、清朝倒壊後の満洲の宗主権保全を図る愛新覚羅氏(西太后没後、その中心は光緒帝の実弟で宣統帝溥儀の実父・醇親王載澧)と、満洲族支配を倒して漢族独立を図る革命家・孫文の双方を支援したのであるが、両者の目的は同じく満漢分離の実現にあり、両立は本来可能であった。
漢族の自立革命によって成立した中華民国は、孫文の掲げた民族自立主義を実際に貫徹しなかった。中華民国が漢族の純粋民族国家でなく、漢族主体の多民族国家(中華思想に拠る合衆国)になったのは、当時の国際政治の現実がもたらしたもので、あくまでも結果である。 ★愛新覚羅氏との密約で紫禁城に住んだ辰吉郎 ともかく愛新鋭羅氏と京都皇統の密約は具体化し、杉山茂丸らの苦心の結果、辰吉郎は明治四十三(一九一〇)年紫禁城に入り、内廷の小院に住んだ。その間、辰吉郎が喫緊の要地たる満洲をしばしば探訪したのは当然で、情報誌『月刊みち』紙上に、安西正鷹が「辰吉郎は満洲の覇者張作霖と泥懇になり、その長子・学良と義兄弟の盟を結んだ」と述べているのを、否認すべくもない。
辰吉郎はまた、国民党ナンバー・ツーとして終始蒋介石を支えた張群の長子に愛娘の一人を嫁がせたという(中矢伸一 『日本を動かした大霊脈』)が、孫文の死去後も国民党との関係が途絶えなかった一証であろう。また、他の愛娘は富士製鉄(現社名・新日鉄)の創業者で日本財界の重鎮となった永野重雄の子息・辰雄の室に迎えられた。前首相・鳩山由紀夫の父鳩山誠一郎(大蔵事務次官・外相)が辰吉郎に親炙した事も、辰吉郎の出自を黙示するであろう。
それもさることながら特筆すべきは、辰吉郎が世界各国で、ことに王室内部に、その子供を残した秘事であろう。欧州各王室は婚姻政策に拠って緊密に結びついているが、国體を慮って王室連合加入を躊躇う東京皇室に替わり、辰吉郎が裏面で実践したわけで、これぞ皇室外交の真髄と謂うべきである。
明治維新は、西南雄藩の下級浪士を中心とする志士たちが、日本社会の近代化国際化を目指し、政体の変改を希求して推進したものである。薩長土肥の諸藩において維新志士たちの拠ったイデオロギーは「楠公精神」で、楠木正成が後醍醐天皇を助けて鎌倉幕府を倒した「建武中興」に政体変改の模範を求めて、その再現を図ったが、彼らの目的を政体変改だけに限るのは表層的理解である。楠木正成の思想は、南朝皇統を正統とする名分論にあったから、楠公精神を標榜した志士が目指したのは、江戸幕府打倒と王政復古による単なる政体変改でなく、南朝(大覚寺統)の復活と北朝皇統との交替にあった。
皇統の交替は「国體」の変改をいささかも意味しない。皇室の相続に関する問題は、国體観念には影響しないのである。そもそも日本の国體は、日本列島に人間が住み着き社会を成して以来、徐々に醸成され、連綿と受け継がれてきた観念で、国家社会の在り方の根本を規定するものである。有史以来、「政体」には幾多の変動があったが、国體に変改はなかった。つまり国體の観念は「日本」と一体不可分で、国體が厳として存する限り日本は存続し、日本が在る限り国體がそれを支えているのである。
後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒し、天皇親政の「建武新政」を建てたが、この新政体は歴史進展の法則たる封建制の進行には逆らえず、直ぐに崩壊して足利氏が室町幕府を開く。足利氏が開府に当たり皇室の信認を必要としたのは国體上当然であるが、幕府将軍に就いた足利氏は、両統迭立の先約に背いて、持明院統(北朝)のみを皇室とした。大覚寺統はこれに対し、吉野などの天嶮に拠って南朝皇室を立て、北朝と対立したので、茲に両統が並立する事態を招く。両統の対立は鎌倉時代に皇室の内紛から生じたもので、幕府の仲介により、迭立(たすき掛け相続)を合意したが、貫徹できないために此処に至ったので、固より変則事態ではあるが、国體自体を損壊するものではない。
名分論に立って室町時代以来の北朝専立を改め、南朝の復活を目指す動きは、江戸幕藩体制にも潜在していた。元和元年、大坂夏の陣により徳川氏が覇権を確立するや、徳川家康は「元和元年八月應勅」と銘打った『公武法制』を定めた(『南紀徳川史』)。其の第十二条に、「尾州大納言義直と紀州大納言頼宣両人は将軍と並んで三家と定める。これは将軍が万一傍若無人の振舞を致し国民が迷惑する時は、右の両家から代りが出て天下政道を治めるためである。このため両家は、諸賦役を免除されて官職従三位を賜り、尾州は六十二歳、紀州は六十六歳で大納言を賜り、国中の諸侯は将軍に準じて尊敬致すべきこと」と定めている。つまり、徳川御三家とは本来、幕府将軍家及び将軍職の直接継承資格を有する尾張家・紀州家の三家を指すものであって、水戸家は入らない。
続く。 |
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