吉薗周蔵手記(42)



 更新日/2021(平成31→5.1日より栄和改元/栄和3).2.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2005.4.3日、2009.5.27日再編集 れんだいこ拝


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(42)ー1 ◆落合莞爾
 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(42)ー1 ◆落合莞爾 


 ★「張作霖がをらなくなれば、満洲を思ふままにさせる」

 
 平成八年一月、偶々観ることが出来た『吉薗周蔵の手記』の内容に驚愕した。手記であるから総論あるいは解説に当たる部分がなく、すべて具体的な行動と見聞の記録である。その内容が史家の通説と微妙に、時にはかなり異なるから、内容の真否の検証から始めた。僅か一行の記載でも、公開史料に照らしながら論理的に質すと、その意味が次第に浮上してくるが、テニオハ一つでも原文の文意が変化するから、一字も忽せに出来ない。当初は、私的感情・私的史観は固より、史的通説を一切排して文理的解読に徹し、公開史料と口碑伝聞に照らして解釈を施した。これを本誌(『ニューリーダー』誌)に百十八回続けたのが本稿の前半で第一部に相当する。

 一年の休稿期間の後、第一部で得られた史的知見の相互間の有機的連関の研究に取りかかった。第一部の各個別知見は、より上位の史的知見の集合体に属し、その集合体がさらに上位の集合たる「歴史実体」に属するので、アーサー・ケストラーのいわゆる<ホロン構造>である。歴史実体の解明はまず個別知見相互の有機的関連性明らめる作業から始めねばならない。即ち現在連載中の第二部であるが、この作業の基本は一に懸かって洞察である。

 洞察によって個別知見相互の有機的関連を仮定し、之を用いて公開史料や口碑伝聞を検証すると、今まで見えなかったものが見えてくる。つまり、同じ史料であっても旧来の意味と異なる意味が観えてくるが、そうなると、荒唐無稽に見えた口碑伝聞にも実質が備わって来て、貴重な資料性が保証されるのである。一例を挙げる。

 『吉薗周蔵手記』
■昭和二年十月条(原文カタカナ・横書き)
 張作霖を弾かふと云ふ話が田中(義一)の方にあると云ふことを、自分は耳に入れている。但し、アテにはならない。

 ■昭和三年六月条
 張作霖死亡の事 聞く。一体だふなっているのであらふか。誰かに聞きたいが 甘粕(正彦)さんをらず、話せる人はなし。(中略)
 自分は 去年の内に 張作霖始末の事、中野(正剛)の女から拾った。
 一応は種元を明かさず、張作霖始末の噂ありと、閣下(上原勇作)には出した。(中略)

 その女の情報だから、自分も 半分は信用できなかった。私娼窟崩れの女だし、所詮は 自分のことは裏切るだらふと思っていた。然し 女の云う通りであった。(中略)
 女の云ふには 田中義一は 蒋介石と交換条件にて 決めたと云ふ。
 張作霖がをらなくなれば、満洲を思ふままにさせると 云ふことだらふ。 


 ★張作霖爆殺は田中義一と蒋介石の密談で決まった 


 要するに、関東軍による張作霖爆殺は、昭和二(一九二七)年十一月五日の田中義一青山私邸における田中―蒋介石会談で田中が決めた、と『周蔵手記』は謂う。国民党首頭を名目上引退して来日した蒋介石が首相・田中義一との直談判を望み、「張作霖を消してくれれば満洲を任せる」との条件を出したので、田中は之を応諾した。これが『周蔵手記』がもたらした個別知見である。

 外務省には田中側で通訳に当たった佐藤安之助少将が作った当日の議事録が残されているが、これを単純に文理解釈すれば上記の知見は容易に裏付けされる。そこで私(落合)は先年この件を『新朝45』に発表したが、読者の反応は鈍かったようだ。理由は幾つかあろうが、まさか荒唐無稽と受け取られたわけではあるまい。仄聞する処、某元大使が拙稿を読んで、「私もあの議事録を読んだが、そのようには取れない」と説いたと聞くが、ではどう読むというのか。

 蒋介石が、軍事指導失敗の負責を称して国民党委員長を辞任したのが
真っ赤な偽装だったことは、その後の行動から明白で、これも上記知見を支える一証明である。また、『蒋介石秘録』で蒋介石が語る青山会談の模様は、重要部分が佐藤の記録と背馳しており、下手な作り話であることは誰にも分る筈だ。佐藤は会談の重要性に鑑み、田中と蒋のやり取りを忠実に記録したと見るべきで、文面に「張作霖を殺してくれ」の明言はないが、意図的に削除したものではあるまい。蒋の意向は根回しの段階で田中側に正確に伝えられており、青山会談は田中がそれを直接確認する場であるから、会談で実際に用いる用語を予め打ち合わせていたと洞察すべきである。即ち佐藤の記録の表現には通諜虚偽表示的要素があるが、文理上意味が充分に通じるのである。某元大使は、あえてそれを曲解することで、何かを守ろうとしているのであろう。

 蒋の依頼を受けて田中との会談を根回ししたのは松井石根中将で、明治四十年から四年間の清国差遣中に孫文の大アジア主義に傾倒した国民党シンパの代表格で、蒋介石とは親交あり、一方で田中義一側近として大正十四年五月から参謀本部第二部長の要職に就き、この難事に最適任であった。おまけに実弟・松井七夫は大正十三年から張作霖顧問で、その動静を把捉出来る立場であった。親中派の松井石根は、国際政治の見識を買われて予備役中に召集を受け、上海派遣軍司令官に補せられ、戦後南京事件(いわゆる南京虐殺)の責任を取らされてBC級戦犯として絞首された。松井の無実を陳情された蒋介石は、「閣下は日本軍全体の責任を被られたのでやむを得ない」として動かなかったが、後に訪台した岸信介に対して、「冤罪であった」と泣いて其の死を悼んだという。これは洞察と謂うより想像だが、強引な戦犯容疑による松井の死刑は、青山会談の口止めと観ると辻棲が合う。

 ところで、『周蔵手記』による本件知見と矛盾する史料が最近出てきた。張作霖暗殺を赤軍特務が実行したとする旧ソ連の秘密文書である。暗殺現場の状況自体が関東軍犯行説の強固な物証であるから、赤軍説は俄かには首肯し難く、出先諜報員の赤軍本部に対する誇大な功名話に過ぎぬと謗る筋もある。ところが意外にも、私(落合)の重要情報源が支持しているから、丸きりの作り話でもなく何らかの実はあるのだろう。 


 ★あの中野正剛も玄洋社も上原勇作の支配下にあった 


 上記は公開史料の話だが、本件に関する口碑を最近仄聞した。維新の功労者で明治末まで日本政界の最上層部にいた人物の末裔で尊父も大正政界を往来した方が、「蒋介石が満洲を呉れると言った」と端的に言われたと、知人から聞いた。面白い事に、この方の父と某元大使の親族は、大正時代には貴族院に座を占め、政治的にも極めて近い間柄であった。本件の真相を知りながら公言を避けるのは、おそらく何かを守るためで、それは某元大使と共通する階級的利益で、両氏の差異は程度の差ではないかと思う。同じような口碑伝聞は、注意を払っておればどんどん集まってくるから、それらを整理・統合して歴史実体を掴むのが、本稿第三部の作業であるが、私(落合)一人の手に余る。

 第一部で得た個別の史的知見は相互に矛盾せず、密接に関連している。例えば上例ではどうか。周蔵は、在仏ワンワールドの一派に傾倒する薩摩治郎八の動静を探るため、薩摩の秘書を尾行したところ、新宿の私娼窟いわゆる歌舞伎横町に入ったので、一計を案じて娼家の主人を買収し、秘書の馴染みの敵娼から、秘書のピロー・トークを引き出した。偶然にもその私娼窟で遭遇したのが、病気のために中野正剛に捨てられ、身を落としてきた多喜である。周蔵は、多喜に客を付けぬよう主人に頼み、二百円で身受けして奥多摩の寺で療養させた。病気を治して容色以前に勝る多喜を、周蔵は妻の水産物店の店員として抱え、中野の前に出したら、中野は忽ち焼け棒杭に火を点けた。周蔵が中野正剛の動静を探ったのは上原の命令ではないが、「何でも必要と思ったら自発的に調査して良かよ」と上原から言われていたので、試みたら、この結果になったのである。そもそも周蔵が中野に関心を持ったのは、軍人政治家上原がシベリア砂金事件の際、「議会工作は中野正剛一人居れば充分」と豪語したので、関心を強めたのである。

 周蔵を恩人として尊ぶ多喜を通じて、張作霖暗殺計画に関する中野正剛の情報を知った周蔵は、半信半疑のまま、情報源を秘して上原元帥に報告した。上原が中野を秘かに使ったのは、中野の属する玄洋社そのものが上原の配下だからである。『周蔵手記』も明記せず、いかなる史書・史料にも載らないこの秘密関係の証明する例を挙げよう。

 それは大連アヘン事件に関するものである。大正八年秋に上原から大連アヘン事件の調査を命じられた周蔵は、辺見こと牧口某に二千五百円で調査を丸投げするが、辺見は周蔵の期待に応じ、元樺太庁長官・平岡定太郎をアヘン携行容疑で現地官憲に逮捕させた上、重要な報告をもたらした。即ち内閣拓殖局長官・古賀廉造が、アヘン統制政策を悪用して大連の売捌人に不当利益を得させている実情で、周蔵はこの報告を四十三枚に記して上原に提出した。それが上原から玄洋社の頭山満に渡され、政友会総裁・首相の原敬が腹心の古賀を使って政友会の資金作りをしている証拠とされ、憂国青年中岡艮一が憤激して原敬を殺害したのである。



           続く。
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(42)-2
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(42)-2 
 
 ★原敬暗殺を嘆く周蔵 頭山満が漏らした一言 


 昭和八年十一月八日上原は他界したが、周蔵は裏の配下の立場上表立って葬儀に出られず、翌年の命日に上原邸を訪ねると、同じ立場の人物が来ていた。

 ■『周蔵手記』別紙記載(原文カタカナ/縦書き)
 閣下の葬儀には 堂々と出る訳にもいかん と思ひ、翌年の今 自宅を訪ねると 偶然中野と頭山が来てゐたのに驚く。こいつらも 全く表にはやふ見えんから、今頃閣下の墓に腹探りの挨拶だらふが、金目の物でも捜すつもりか、何ぞ 家捜しをしたらしい。
 帰りがけ 「お前の調査だったらしいな。あの原敬事件の基は。上原さん あれ 俺に流して呉れて 俺が一寸動いたよ」と云はる。
 調査によって あんな立派な首相を死なせたかと 後悔す 後悔す

 玄洋社の巨頭・頭山満と議会政治家として鳴らした中野正剛が、上原の一周忌を待って故人邸を訪れ秘かに弔意を表したのは、それほど玄洋社は上原ないし薩摩ワンワールドとの関係を表面に見せたくなかったのである。これが、私(落合)が洞察によって得た史的知見の上位集合たる薩摩ワンワールド説の一証を成すが、薩摩と玄洋社の秘密関係を裏付ける事実は、この他にも『周蔵手記』の中に断片的に出てくる。即ち、玄洋社軍人・明石元二郎が上原の股肱を自任し、長州閥を心底無視していたことで、これを証明するのは日露戦争時の秘話である。ロシアの後方撹乱を担当したスエーデン大使館付武官の明石大佐が、参謀総長・山県元帥はじめ長閥が支配する参謀本部に対して、工作資金として百万円を要求したが、参謀本部には秘密裏に、西本願寺の大谷光端師から一千万円を受け取っていた。明石は、光端師の資金は全額を費消したのに、参謀本部の資金は二十五万円を使い残して返金したのである。

 つまり明石大佐は、表面上では参謀総長・山県元帥に服従したかに見せ、心底で真の上官と仰いでいたのは別人であった。その後の人間関係から観て、其の人は上原勇作(当時、少将で野津第四軍参謀長)と見るしかない。この知見から洞察されるのが、後に上原を首頭と仰ぐ薩摩ワンワールドの存在で、そこで上原の経歴を閲すると上原を育てた高島鞆之助中将が浮上し、高島に焦点を当てると、高島こそ明治中期以後の薩摩ワンワールドの首頭であったと断ずるしかなくなる。更に遡れば薩摩三傑の生き残り吉井友実に行き着き、これにより、史的知見の上位集合体として、薩摩ワンワールドの具体像が把握されたのである。


 ★忘れられた重要人物・杉山茂丸と【謎の貴公子】堀川辰吉郎


 薩摩ワンワールドが在英海洋勢力の一角を担い、英露の地球的規模での地政学的対決いわゆるグレート・ゲームとして日清・日露の両戦役を遂行したことは容易に洞察されるが、両戦役に至る過程を閲すると、これに大きく関わった怪人物が目につく。即ち杉山茂丸である。その事績は明治期のどんな大政治家、いかなる大実業家よりもよりも広範囲で、しかも国事に偏っている。唯一の異例は、元老・井上馨の協力を得て安場保和を福岡県知事に就け、石炭の大鉱区を玄洋社に払い下げさせて、その財源を作ったことである。しかし玄洋社は、政府や正規軍が表向き関与できぬ大陸政策の実行部隊として作られた民間国事結社であるから、その財務基盤を創ったことは、やはり国事中の国事である。更に特筆すべきは、日本の工業化を進めるための興業銀行創設を叫んだことで、渡米した茂丸は金融王・J・P・モルガンに直接会って、巨額の融資予約を取りつけた。外交政策では、軍備拡張を唱えて薩摩派を支援し、敢えて選挙大干渉を行わしめた。しかも戦後の講和談判において、伊藤内閣の方針であった遼東半島領有に反対を唱え、外相・陸奥宗光の宿舎に押し入って、講和案の動向を監視した。以上すべてが一介の黒田浪人の着想すべき事ではなく、仮りに着想したとしても当路や周囲が相手にする筈なく、茂丸の本姓の鑑識が必須となる。以下は私(落合)の洞察でなく、さる筋からの伝達である。洞察だけでは細部を特定できぬ故、最後は伝達を仰がざるを得ない。

 茂丸は、実は福岡藩士黒田長溥の実子で、したがって島津重豪の実孫であった。つまり茂丸は裏の黒田藩士として玄洋社のオーナーとなり、国事を推進したのである。島津氏から養子に入った長溥が藤堂家から養子を迎え、実子・茂丸を竜造寺氏男系の杉山氏に入れた所以は、「明治維新」というヨリ高次元(上位)の史的知見集合体に属するというから、目下の本稿の範囲でなく、ここで述べることが出来ない。

 かくして、『周蔵手記』から得られた薩摩ワンワールドと謂う史的知見の集合体を、更に上位に進めるには、杉山茂丸を洞察する外ないことが分かった。そこで杉山の事績を閲する時、特異な位置に在るのが、謎の貴公子・堀川辰吉郎である。幼時玄洋社で育てられ、長じて学習院に入学した辰吉郎は明治三十二年弱冠二十歳にして、日本に亡命してきた清国の革命家・孫文の秘書となった。以後は形影相伴う辰吉郎を孫文が「日本皇子」と紹介したため、清人間の孫文に対する信用が飛躍的に高まり、革命の実現性が高まったことが知られているが、これは孫文を支援した玄洋社の計らいであることは明らかである。

 ここで辰吉郎の本姓鑑識が必要になるのは当然である。結論から説くと、辰吉郎は明治十三年に堀川御所で生まれた。実父は孝明帝の血筋である。堀川御所は堀川六条の日蓮宗本圀寺の旧境内に、明治天皇の京都行在所を名目として設けられたが、その実は、維新後も京都に留まった孝明帝の京都皇統の住居であった。明治二年、宮廷改革を図った薩摩三傑即ち西郷隆盛、吉井友実、大久保利通により、孝明帝以来の古参女官が宮中から追放されて京都に留められたとされるが、実は京都皇統に奉仕するため、堀川御所に入ったのである。辰吉郎は井上馨の兄・重倉の五男として戸籍を作ったが、生地に因み堀川姓を称した。以上は、私(落合)の洞察ではなく去る筋からの伝達である。さらに興味のある人は月刊情報誌『みち』★の栗原茂論文を参照されたい。

 明治以後のわが国体は、明治皇室と京都皇統の二元方式によって運用された。京都皇統こそ薩摩ワンワールドと杉山茂丸、玄洋社などを下部集合として含む史的知見の上位集合である。薩摩ワンワールドは在英海洋勢力の一角を占めるが、その本質は国策遂行団体で、英国筋からの伝達は杉山茂丸を通じていた。茂丸が薩摩ワンワールドの誘導者になったのは、辰吉郎に最も近かったからである。京都皇統に属する下位集合として、他には大谷光端師が率いた京都社寺勢力、孝明帝と同系の鷹司家を初めとする旧堂上の一部、光格帝の生母・大江巌代(大鉄屋岩室氏)に由来する丹波大江山衆(穴太上田氏・大本教)、公武合体を進めた会津松平氏・紀州徳川氏が存在した。その実態と活動を追究するのが、今後始まる本稿第三部の作業である。 


  ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(42)  <了>








(私論.私見)