●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(42)ー1 ◆落合莞爾 |
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(42)ー1 ◆落合莞爾
★「張作霖がをらなくなれば、満洲を思ふままにさせる」 平成八年一月、偶々観ることが出来た『吉薗周蔵の手記』の内容に驚愕した。手記であるから総論あるいは解説に当たる部分がなく、すべて具体的な行動と見聞の記録である。その内容が史家の通説と微妙に、時にはかなり異なるから、内容の真否の検証から始めた。僅か一行の記載でも、公開史料に照らしながら論理的に質すと、その意味が次第に浮上してくるが、テニオハ一つでも原文の文意が変化するから、一字も忽せに出来ない。当初は、私的感情・私的史観は固より、史的通説を一切排して文理的解読に徹し、公開史料と口碑伝聞に照らして解釈を施した。これを本誌(『ニューリーダー』誌)に百十八回続けたのが本稿の前半で第一部に相当する。
一年の休稿期間の後、第一部で得られた史的知見の相互間の有機的連関の研究に取りかかった。第一部の各個別知見は、より上位の史的知見の集合体に属し、その集合体がさらに上位の集合たる「歴史実体」に属するので、アーサー・ケストラーのいわゆる<ホロン構造>である。歴史実体の解明はまず個別知見相互の有機的関連性明らめる作業から始めねばならない。即ち現在連載中の第二部であるが、この作業の基本は一に懸かって洞察である。
洞察によって個別知見相互の有機的関連を仮定し、之を用いて公開史料や口碑伝聞を検証すると、今まで見えなかったものが見えてくる。つまり、同じ史料であっても旧来の意味と異なる意味が観えてくるが、そうなると、荒唐無稽に見えた口碑伝聞にも実質が備わって来て、貴重な資料性が保証されるのである。一例を挙げる。
『吉薗周蔵手記』 ■昭和二年十月条(原文カタカナ・横書き) 張作霖を弾かふと云ふ話が田中(義一)の方にあると云ふことを、自分は耳に入れている。但し、アテにはならない。
■昭和三年六月条 張作霖死亡の事 聞く。一体だふなっているのであらふか。誰かに聞きたいが 甘粕(正彦)さんをらず、話せる人はなし。(中略) 自分は 去年の内に 張作霖始末の事、中野(正剛)の女から拾った。 一応は種元を明かさず、張作霖始末の噂ありと、閣下(上原勇作)には出した。(中略)
その女の情報だから、自分も 半分は信用できなかった。私娼窟崩れの女だし、所詮は 自分のことは裏切るだらふと思っていた。然し 女の云う通りであった。(中略) 女の云ふには 田中義一は 蒋介石と交換条件にて 決めたと云ふ。 張作霖がをらなくなれば、満洲を思ふままにさせると 云ふことだらふ。
★張作霖爆殺は田中義一と蒋介石の密談で決まった
要するに、関東軍による張作霖爆殺は、昭和二(一九二七)年十一月五日の田中義一青山私邸における田中―蒋介石会談で田中が決めた、と『周蔵手記』は謂う。国民党首頭を名目上引退して来日した蒋介石が首相・田中義一との直談判を望み、「張作霖を消してくれれば満洲を任せる」との条件を出したので、田中は之を応諾した。これが『周蔵手記』がもたらした個別知見である。
外務省には田中側で通訳に当たった佐藤安之助少将が作った当日の議事録が残されているが、これを単純に文理解釈すれば上記の知見は容易に裏付けされる。そこで私(落合)は先年この件を『新朝45』に発表したが、読者の反応は鈍かったようだ。理由は幾つかあろうが、まさか荒唐無稽と受け取られたわけではあるまい。仄聞する処、某元大使が拙稿を読んで、「私もあの議事録を読んだが、そのようには取れない」と説いたと聞くが、ではどう読むというのか。
蒋介石が、軍事指導失敗の負責を称して国民党委員長を辞任したのが 真っ赤な偽装だったことは、その後の行動から明白で、これも上記知見を支える一証明である。また、『蒋介石秘録』で蒋介石が語る青山会談の模様は、重要部分が佐藤の記録と背馳しており、下手な作り話であることは誰にも分る筈だ。佐藤は会談の重要性に鑑み、田中と蒋のやり取りを忠実に記録したと見るべきで、文面に「張作霖を殺してくれ」の明言はないが、意図的に削除したものではあるまい。蒋の意向は根回しの段階で田中側に正確に伝えられており、青山会談は田中がそれを直接確認する場であるから、会談で実際に用いる用語を予め打ち合わせていたと洞察すべきである。即ち佐藤の記録の表現には通諜虚偽表示的要素があるが、文理上意味が充分に通じるのである。某元大使は、あえてそれを曲解することで、何かを守ろうとしているのであろう。
蒋の依頼を受けて田中との会談を根回ししたのは松井石根中将で、明治四十年から四年間の清国差遣中に孫文の大アジア主義に傾倒した国民党シンパの代表格で、蒋介石とは親交あり、一方で田中義一側近として大正十四年五月から参謀本部第二部長の要職に就き、この難事に最適任であった。おまけに実弟・松井七夫は大正十三年から張作霖顧問で、その動静を把捉出来る立場であった。親中派の松井石根は、国際政治の見識を買われて予備役中に召集を受け、上海派遣軍司令官に補せられ、戦後南京事件(いわゆる南京虐殺)の責任を取らされてBC級戦犯として絞首された。松井の無実を陳情された蒋介石は、「閣下は日本軍全体の責任を被られたのでやむを得ない」として動かなかったが、後に訪台した岸信介に対して、「冤罪であった」と泣いて其の死を悼んだという。これは洞察と謂うより想像だが、強引な戦犯容疑による松井の死刑は、青山会談の口止めと観ると辻棲が合う。
ところで、『周蔵手記』による本件知見と矛盾する史料が最近出てきた。張作霖暗殺を赤軍特務が実行したとする旧ソ連の秘密文書である。暗殺現場の状況自体が関東軍犯行説の強固な物証であるから、赤軍説は俄かには首肯し難く、出先諜報員の赤軍本部に対する誇大な功名話に過ぎぬと謗る筋もある。ところが意外にも、私(落合)の重要情報源が支持しているから、丸きりの作り話でもなく何らかの実はあるのだろう。
★あの中野正剛も玄洋社も上原勇作の支配下にあった
上記は公開史料の話だが、本件に関する口碑を最近仄聞した。維新の功労者で明治末まで日本政界の最上層部にいた人物の末裔で尊父も大正政界を往来した方が、「蒋介石が満洲を呉れると言った」と端的に言われたと、知人から聞いた。面白い事に、この方の父と某元大使の親族は、大正時代には貴族院に座を占め、政治的にも極めて近い間柄であった。本件の真相を知りながら公言を避けるのは、おそらく何かを守るためで、それは某元大使と共通する階級的利益で、両氏の差異は程度の差ではないかと思う。同じような口碑伝聞は、注意を払っておればどんどん集まってくるから、それらを整理・統合して歴史実体を掴むのが、本稿第三部の作業であるが、私(落合)一人の手に余る。
第一部で得た個別の史的知見は相互に矛盾せず、密接に関連している。例えば上例ではどうか。周蔵は、在仏ワンワールドの一派に傾倒する薩摩治郎八の動静を探るため、薩摩の秘書を尾行したところ、新宿の私娼窟いわゆる歌舞伎横町に入ったので、一計を案じて娼家の主人を買収し、秘書の馴染みの敵娼から、秘書のピロー・トークを引き出した。偶然にもその私娼窟で遭遇したのが、病気のために中野正剛に捨てられ、身を落としてきた多喜である。周蔵は、多喜に客を付けぬよう主人に頼み、二百円で身受けして奥多摩の寺で療養させた。病気を治して容色以前に勝る多喜を、周蔵は妻の水産物店の店員として抱え、中野の前に出したら、中野は忽ち焼け棒杭に火を点けた。周蔵が中野正剛の動静を探ったのは上原の命令ではないが、「何でも必要と思ったら自発的に調査して良かよ」と上原から言われていたので、試みたら、この結果になったのである。そもそも周蔵が中野に関心を持ったのは、軍人政治家上原がシベリア砂金事件の際、「議会工作は中野正剛一人居れば充分」と豪語したので、関心を強めたのである。
周蔵を恩人として尊ぶ多喜を通じて、張作霖暗殺計画に関する中野正剛の情報を知った周蔵は、半信半疑のまま、情報源を秘して上原元帥に報告した。上原が中野を秘かに使ったのは、中野の属する玄洋社そのものが上原の配下だからである。『周蔵手記』も明記せず、いかなる史書・史料にも載らないこの秘密関係の証明する例を挙げよう。
それは大連アヘン事件に関するものである。大正八年秋に上原から大連アヘン事件の調査を命じられた周蔵は、辺見こと牧口某に二千五百円で調査を丸投げするが、辺見は周蔵の期待に応じ、元樺太庁長官・平岡定太郎をアヘン携行容疑で現地官憲に逮捕させた上、重要な報告をもたらした。即ち内閣拓殖局長官・古賀廉造が、アヘン統制政策を悪用して大連の売捌人に不当利益を得させている実情で、周蔵はこの報告を四十三枚に記して上原に提出した。それが上原から玄洋社の頭山満に渡され、政友会総裁・首相の原敬が腹心の古賀を使って政友会の資金作りをしている証拠とされ、憂国青年中岡艮一が憤激して原敬を殺害したのである。
続く。 |
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