●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(38)ー1
日野強(ひの・こわし)探査行と大谷光瑞探検隊の「真史」を暴く
★「北洋士官の三傑」呉禄貞と日野強の探査旅行の真実
周恩来の南関学校での同級生で、周の日本留学を支援した呉達閣のことを台湾の人名事典には、一八九四(明治二十七)年に吉林省の農牧家に生まれた」とあるが、日本の一部では、実父は呉禄貞と囁かれている。
日野強『伊犁紀行(いり・きこう)』に付した岡田英弘の解説によると、呉禄貞は湖北省雲夢県の人で、明治十三(一八八〇)年に生まれ、湖広総督・張之同により、第一期の陸軍日本留学生として派遣された。明治三十三(一九〇〇)年の義和団事件に際し、唐才常が湖北・漢□で反清の挙兵を計画すると聞くや、直ちに帰国した禄貞は、安徽省大通における秦力山の自立軍に参加する。挙兵が僅か二日で敗れて、再び日本に戻った禄貞は、同年十二月陸軍士官学校の清国学生隊第一期騎兵科に入り、翌三十四(一九〇一)年十一月に卒業した。日本人では中村孝太郎大将、建川美次中将ら陸士第十三期生と同期になる。
因みに、同時期の清国学生隊には張紹曽と藍天蔚がいた。禄貞とこの二人は、後年「北洋士官の三傑」と謳われる。張紹曽は、やはり張之同の官費援助を受けて日本に留学、禄貞と同期で清国学生隊第一期砲兵科を卒業し、袁世凱に登用されて砲兵将校となった。北洋系ながら革命派として知られ、直隷派の軍人として国務総理も務めた。また藍天蔚も張之同の推薦により日本に留学、成城学校を経て第二期工兵科を出た。卒業年度が明治三十七(一九〇四)年と遅いのは、工兵科の修業期間が長いためであろう。
再び岡田英弘の解説に戻る。帰国した禄貞の傘下には革命志士が雲集したが、禄貞は明治三十六(一九〇三)年十二月、陸軍騎兵科監督として招かれ北京に移る。しかし北京の保守的満洲人の間にあって満足せず、三十九(一九〇六)年の秋に軍機大臣・鉄良の許可を得て、陜西・甘粛・新疆・蒙古の調査旅行に出掛けた。ところが蘭州に赴いた時、甘粛巡撫に革新的所見を述べたので、戊戌の政変に敗れた康有為の一派と疑われ、軍機処からの出張の公知も遅れていたこともあり、贋軍人と看做されて逮捕された。即刻死刑に瀕するが、陜甘総督・升允の計らいで辛くも命拾いする。
実はこの時、日本陸軍参謀本部員の日野強少佐が同行していた。と謂うより、禄貞の調査旅行とは、陸軍参謀本部員の日野強少佐の探査旅行に随行したのが真相であったらしい。明治二十二年、陸士の旧制十一期を出た日野強は、近衛歩兵第二連隊の中隊長だったが、三十五年七月一日付で参謀本部に入り、満韓国境方面に派遣される。ここで日露開戦に備えた戦備調査をした日野は、以後十年に渉って特務活動に従うこととなる。日露戦役中は黒木為率いる第一軍に属して清人を用いたロシア軍の撹乱工作を行い、三十八年十二月十四日付で少佐に進級して大隊長となるが、翌年七月一日付で参謀本部に戻るや、同月下旬にその筋より新疆視察の内命を受けた。新疆地方は所謂シルクロードの東半分で、乾隆帝の西征により清国領となったが、南下を望む帝政ロシアが、清国の弱化に応じて浸食していた。日野に下された探査の目的は、大陸勢力・ロシアの南下に備えて、新疆地方の地誌民俗などあらゆる情報を収集することであった。
★「その筋」とは「京都皇統」でありワンワールドである。
「その筋の内命」を、岡田は「もちろんこれは、参謀本部の命令であった」と解説しているが、参謀本部員が従うべき命令は参本命令以外にないのだから、これは言わずもがなで、態々「その筋」とした日野の本意を得ていない。つまり、形式的には参謀本部を通じたにせよ、実質は別筋からの内命だったことは明らかである。
当時、かかる形で陸軍参謀本部を動かし得たものは、「東京皇室」か「京都皇統」しか有り得ない。
後述するように日野は、西安で大谷光瑞師の昭陵探検隊に別れるに当たり、「予は予の旅行について、多大の同情と便利を与えられたる大谷光瑞伯一行とここに決別せざるべからず至りたり」と『伊犁紀行』に記した。日野の一行が光瑞師の探検隊と連動している処からしても、「その筋」とは、光瑞師の上司たる「京都皇統」すなわち堀川辰吉郎と観る以外ないのである。
因みに、『世界戦略情報-みち』第二七九号で栗原茂は、「光端を描く個人情報には辟易やまないが、日野の伊犁紀行後に展開される大江山系シャーマニズムと光端の関係を解く情報は寡聞にして知らない。これを解く鍵は堀川辰吉郎であるが、堀川については伊犁紀行が重大」と説く。栗原茂の情報源は、恐るべき高深度に存すると思われる。
明治三十九年九月二十日、北京に到着した日野は、第一次大谷探検隊に加わった西本願寺の堀賢雄師や英国軍人らから懇切な教示を得て、諸般準備の末、十月十三日午前七時十五分、北京発の汽車で河北省保定に到着した。ここに三日間滞在し、この間、直隷総督・袁世凱の軍事顧問として保定に滞在中の賀忠良こと陸軍大尉・多賀宗之と談じ、多賀の子飼の特務で陸軍武備学堂教官をしていた原尚志こと上原多市を随員として借りた。これも当然「その筋」の手配であるから、日野が帰日後に提出した詳細な報告『伊犁紀行』にも多賀大尉の名を秘して、ただ「在留邦人(文武学堂に教習たる人)」と記すのみである。上原に至っては清人の従僕であったかのように記している。
呉禄貞が日野に随行したことは、東京駒込の東洋文庫所蔵のモリソン旧蔵『伊犁紀行』から窺える。すなわち、その上巻も見返しにモリソン自筆の書き込みがあり、「日野少佐は蘭州までは呉禄定と日本人の××(判読不能)に同行された。中国人の将校・呉禄定は、升允によって蘭州から送還された」とあることで、判明したのである。因みにモリソンは、袁世凱の政治顧問のオーストラリア人で、例の著書は日野が自らモリソンに贈呈したものであった。
『伊犁紀行』には、西域探査旅行に呉禄貞が随行したことを、全く記していない。岡田によると、他の資料にも一切伝えられていないと謂う。呉禄貞の随行一件はそれほど機密で、慎重に扱われた。後年モリソンを北京に訪問した日野が、『伊犁紀行』を手ずから贈った際に、直接語ったこの極秘事を、その場でモリソンが書き留めたものと岡田は推定する。日野が極秘事を明かしたのは、モリソンが「その筋」に繋がるからで、「その筋」がワンワールドの海洋勢力に属していることを物語って余りある。岡田の、この貴重な歴史資料の発見に対して、史家は感謝を惜しんではならない。尤も、かかる「真史」(「偽史」の反対)を隠蔽するのが御用史家の務めであるから、岡田は東京外大教授として矛盾の中にいながら、これを発表したものと看られる。岡田が官職上解明を憚った「真史」を解明するのが私(落合)に与えられた天命である。
続く。
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