吉薗周蔵手記(37)



 更新日/2021(平成31→5.1日より栄和改元/栄和3).2.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2005.4.3日、2009.5.27日再編集 れんだいこ拝


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (37)ー1
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (37)  落合莞爾

  ― すべての謎の鍵は「呉達閣と丹波衆の関係」にある
 
 
 ★皇統の「草」に任じられた丹波衆、アヤタチの血筋
 

 前月号で、周恩来の京都逗留が、一般に信じられている大正七年の秋ではなく、六年の秋であったことを明かした。その証拠となるべき事項と、反対に矛盾する事項を並べて検討して見る。

 まず、大正六年九月上旬に神戸港で周恩来を迎えたのは、旧友・呉達閣であった。これはウイルソンしか書いていないから、恐らく昭和五十五年六月にウイルソンが台北で会った達閣から直接聞いたものであろう。達閣が神戸港に迎えに行ったのは自身が京都にいたからで、当時東京にいたのなら、わざわざ神戸まで出迎えに行く筈はない。反論としては、大正六年春に一高特別予科に入った達閣が、秋に京都に住んでいる筈がない、と言うであろう。再反論すれば、そこには特殊な事情があったのである。

 大正六年十月、祖母ギンヅルに同行して京都に逝った周蔵は、修学院に住む渡辺ウメノから、結核に罹った孫・渡辺政雄の看護を依頼された。ウメノは周蔵が三年前にギンヅルの指示で、芥子栽培の秘伝書を貰いに行った相手である。参謀総長・上原勇作の命令で芥子栽培の研究をしていた周蔵は、栽培上幾つかの疑問に直面していたので、これを好機に、ウメノに教示を乞うた。するとウメノは、「それなら政雄の友人の呉達閣に聞くが良い、達閣は玄範の友人でもある」と教えられた、と伝わる。

 その足で(周蔵が政雄を)尋ねた下宿に呉達閣は居た。周蔵より五日だけ若く二十三歳であった。創価大の中国人研究者の調査で、呉達閣(瀚濤)が八年春に住んでいた下宿の所在は左京区吉田阿達町と分かったが、六年秋の下宿も多分同じであろう。「佃煮や干物などを扱う店を花街の方に出してをるらしい」という主人の素性は、恐らく渡辺政雄らと同じ族種の丹波衆で、後述する達閣と丹波衆との特別な関係から、ここが達閣の定宿となったものと思われる。

 下北半島の医師三代目・槇玄範は、丹波穴太の上田吉松が津軽藩主の息女に産ませた子・鬼一郎で初代玄範の養子になり、異父弟・上田鬼三郎は出口ナオの婿養子に入り出口鬼三郎となった。その玄範が、来日したばかりの民国留学生・呉達閣の友人とは、何を意味するのか。呉達閣も実は丹波衆でアヤタチの血筋という以外にない。

 仄聞する処、明治維新後のわが皇室外交を総攬したのは堀川御所の京都皇統で、大陸有事に備えて配下の丹波衆に清国入りを命じ、清国各所にいわゆる「草の根」を張らせた。その一例が、大本開祖・出口ナヲの次男・出口清吉で、明治二十八年の台湾平定中に戦死を装って姿を消すが、五年後の北清事変の最中に軍事探偵・王文泰として軍功を挙げたことが『京都日の出新聞』に報じられたという。北清事変後、満洲に渡って緑林の頭目となった清吉は、弟分の張作霖を親日に誘導したのである。

 丹波衆が皇統の「草」に任じたのは、「何でも食い何処でも寝られる。死むだと思うな、必ず生きてをる」と評される体質と能力を買われたのである。大正八年秋、「手の者」を求める周蔵に布施一が紹介したのは、上田吉松が越後国柏崎荒浜の倭人女性に産ませた辺見こと牧口某であった。布施は辺見をサンカァと呼び族種の特質を上のように解説したのである。
 

 ★厳しく封印された周恩来の京都滞在時期とある所業 
 
  
 ウメノが孫の政雄を預けた家は、「何より変わってをるは、下宿も離れの間借も支那人が多いとのこと」であったが、中国人が固まって住むのは、何よりも食事の問題である。支那人専用の下宿は、賄いを中華風にするのが必要条件である。珍味屋を営むという大家は中華食材の入手に不自由なく、賄い人も中華料理の心得があり、支那人下宿の条件を満たしていたのであろう。

 周蔵はその下宿に泊まることになったのか、一室で「別紙記載」を書いた。「これを書いてをると、≪日記を点けるは良い事なり。自分もさふしやふかと思ふ≫と、他人の物のぞき込んで声をかけたる人物がをる。孫息子(政雄)と大分懇意であるらしい支那人の居候なる人物、周と云うらしい。名乗らる」。政雄と大分懇意であるらしい支那人とは無論呉達閣のことで、その「居候なる人物」の周恩来を周蔵は「人品卑しからず」と評している。

 九月に来日した周恩来は、その後どうしていたのか。ウイルソンは、「神戸港で旧友の呉達閣の出迎えを受け、直ぐに東京に向かった。東京ではまず神田の東亞予備校に入学した。親切な婦人の世話で、他の中国人学生二人と一緒に、日本人の大工の家の二階に下宿することとなった。牛込の山吹館という映画館の近くで、学校にも近かった」と言う。

 ハン・スーイン(『長兄』)も、「東京に着くと南開中学の同窓生たちが(中略)彼は、大工の家の二階に、ほかの二人の留学生と一緒に(中略)その小さな家は牛込区にあり」と、簡略化こそすれ、ウイルソンとの間にとくに矛盾はない。

 その後に出た矢吹晋編「周恩来『十九歳の東京日記』」が、「九月、天津港から日本に船出し、横浜港に着いた。日本ではまず早稲田に住み(張瑞峰と同室)、ついで神田の≪日本人の旅館≫に下宿し云々」というが、その根拠は六年十二月二十二日付の周から友人宛の手紙に、「早稲田の張瑞峰(字:蓬仙)の下宿から日本人旅館(玉津館)に移った」とあるからである。創価大の研究者は来日直後の周の居所を猿楽町辺りと見ているが、居候した友人の下宿であろう。早稲田と牛込山吹町の下宿の異同はよく分からないが、「大工の家の二階」に該当すると思われるのが、周蔵の知人の請負師・藤根大庭が所有していた三軒続きの棟割長屋である。藤根配下の三人の叩き大工が住み、女房たちが二階を下宿にしていた。その一人で運送屋も兼ねていた八代(矢代か)の下宿人が周恩來であった。佐伯祐三のアトリエを建てた八代の角刈りの面影は佐伯祐三作『Y氏像』として今に残る。南開からの留学生を世話していたという「親切な婦人」は、おそらくメソジストで、キリスト教の繫がりから、クリスチャンの八代の下宿を紹介したものと思う。

 ウイルソン説でもハン・スーイン説でも、周は七年の秋に達閣夫妻に京都に招かれ、そのまま八年春の帰国まで京都に長逗留したことになる。周の最初の京都滞在は、実は、(両人の言う大正七年ではなく)六年の秋であったのだが、そこで丹波衆の看護婦と同棲したことは、達閣にとって後々まで重大な秘密であるから、ウイルソンに詳しく語らず、誤解するに任せたのであろう。勿論、周恩来、王希天以外の南開の同学たちにもそのことを厳秘にしたのは当然のことである。

 周恩来日記によれば、七年秋の周は、連日のごとく南開同学と間で書信を往復しており、文通相手には京都の呉達閣の名もあるが、維新號事件の後「支那料理屋の二階でゴロゴロしてをった」王希天を始めとする在京組が多いから、周は東京にいたと見るしかない。留日日記の日本版を編集した矢吹晋が、「しかし、実像は知れぬ」と嘆じたのは、二冊の伝記が言う京都逗留説との矛盾に悩んだからであろう。

 この期間の周の行動記録がないのを怪しんだ矢吹は、「『東京日記』の大のテーマは、その空白を読むことかも知れない」と示唆したのは流石であるが、惜しいかな、呉滌愆が京都に移った達閣の別名とは知らなかった。知っていれば、周が七年秋に京都の達閣宅に居候していたなぞ有り得ないと覚り、延いては伝記の誤謬を正し得たであろう。
 
 
    続く。 
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (37)ー2
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (37)ー2
   

 ★「まだ同じ奥さんですか?」周・呉 再会の場の空気が凍りついた。

 達閣と丹波衆の秘められた関係を、周恩来がどこまで知っていたのか知る術はないが、王希天を含めた三人はワンワールド南開支部員として、生涯秘密を分ち合ったと思われる。ウイルソンによれば,昭和十一年(1936)の西安事変の後、共産軍ナンバー2の周恩来に、国民党側の停戦条件を持ってきた使節団の中に呉達閣がいた。

 呉達閣と再会した周恩来は、久闊を叙した後、「奥さんはお元気ですか」と尋ねた。
「何とか元気で」
「お子さんは?」
「一人います」
 とのやり取りまでは良かったが、周が「まだ同じ奥さんですか?」聞いた途端、達閣の態度が冷たくなった。ウイルソンはこれを、「国民党員の生活が腐敗している」と共産党が常に非難していたことから、誤解を招いたものと解しているが、浅見であろう。

 台湾の人名事典によれば、これに先立つ昭和五年イリノイ大学で博士号を取った達閣は、七月に張学良の要請で瀋陽・東北大学文学院の専任教授となり、六年九月の満洲事変後は東北大の北京(北平)移転に伴い北京に移り、北京大学法学院教授を兼ねた。同年東北軍が国民党と合体し、陸海空軍副総司令に就いた張学良の北平司令部ができると達閣は上校機要秘書に任命される。

 昭和八年関東軍に熱河を陥された張学良が引責辞任して出国した後は、達閣は国民党員として活躍することになる。

 達閣は最初の妻・朱との間に一子を成したが、朱の死後に苑潤蘭を娶って二女を得た。つまり、「子供が一人」とは朱の子のことであるが、「まだ同じ奥さんですか?」と突っ込まれた達閣は、京都での秘事の暴露を警戒して、咄嗟に冷然たる態度を装ったものと推定される。

 大正六年の夏休みに京都に逗留した達閣が、同族の看護婦と同棲した丹波衆の定宿に渡辺政雄が住んだのも、達閣と親しくなったのも、すべて丹波衆の意図であろう。九月に初来日した周恩來が、東京に落ち着かず京都へ移ったのは、最大の保護者・達閣が、夏休み以来京都に行ったままだったからである。

 周蔵はこの時、周を観察して「京都の大学に行く資格あるも行かず、毎日見物して遊んでをる由。まるで石光さんと同じやふだ。多分、日本を偵察してをるのであらふか」と記した。予備役陸軍少佐・石光真清は、血液型分離法の探索のために五年から六年にかけて欧州に行った周蔵の道案内をしてくれたが、貨客船が停泊するたびに上陸して港街を観察していた。毎日京都を見物して回る周の姿が、石光を髣髴させたのである。

 秋も深まり、同棲相手を京都に残して達閣は帰京して一高特別予科に戻り、周も東京に戻って東亜高等予備学校に通った。達閣と周が十月になっても東京に戻らず、定宿でゴロゴロしていたからたまたま周蔵に会うこととなり、周蔵の手記から、九十年後に秘密の一角がこうして崩れたのである。
 
 ★願書を書いただけで京大に入学しなかったのはなぜか


 周と京大について、「政治、経済の授業を受けるために、東京の神田の住所で願書を書くには書いたが、実際に提出したかどうかは分からない」とウイルソンは言う。「周恩来は京都大学の聴講生になりはしたものの、時々授業に出ただけ」とはハン・スーインの言である。折から京大でマルクス主義を宣伝していた河上肇と周の結び付きが注目されるが、結論から言えば、周は京都大学にいかなる形でも入学していない。

 ウイルソン説の根拠は下記である。京都北郊の山口村の山林業・大田貞次郎は戦時中、野菜などを京都市内の親類知人に配っていたが、昭和十九年秋に一軒から礼に貰った和紙の束に墨色良く字体も見事な書付があり、しまっておいた。それは周恩来の署名がある履歴書と京大入学願書で、昭和五十四年に来日した周未亡人が真筆と認めた。

 願書は京大法学部の政治経済科選科に入学するためのもので、時期を大正七年とし日付を記入していないので、七年春の入学試験のために準備したものと分かる。住所は「東京市神田区表猿楽町三番地竹村方」となっており、全体の経緯が研究者にとっては謎であった。

 創価大学の上記研究を基に私(落合)が推量するのは、「六年九月に初来日した周は、一旦上京して神田表猿楽町の友人の下宿に逗留したが、東亜高等予備校に籍を置くや、直ちに京都に向かい、達閣の下宿に居候した。京都では、来春京大の法学部政治経済科選科を受験したいと考えて例の願書を準備したが、下書きなので住所はとりあえず猿楽町の友人下宿とした。その頃、渡辺政雄を訪ねてきた周蔵と知り合ったが、京都の大学に行く権利とは、来春の聴講生計画を周蔵が錯覚したのである。やがて一高予科在籍の達閣が帰京するので、周も同じく帰京した」というものである。

 創価大の研究者は、「来日間もない六年の後半に周恩来が京都まで旅行したということは考えにくいので、その年の末頃に、先に京大に留学していた南開学校の同窓の友人に預けたものではないかと考えられる」とする。研究者は、常識による先入観から六年秋の京都滞在の可能性を否定してしまい、京都逗留は八年だけとする誤った結論に達したのだが、「周蔵手記」を見ていないから、こんな特殊事情に想い及ばないのも当然で、已むをえまい。

 大正六年九月に初来日した周恩来が東京に落ち着かず、一旦京都へ向かったのは、頼るべき保護者の達閣が、夏休み以来京都に行っていたからである。一高特別予科に合格していた達閣が京都に逗留していたのは、前述した丹波衆との関係が根底にあるが、河上肇がマルクス主義を講義する京大を念頭に置いて、一高から三高への転校を図っていたとも思われる。事実、達閣は翌年三高に転じた。吉田阿達町の下宿に例の看護婦を置いたままだったのかも知れない。
 
 ★ワンワールド中国支部 「南開中学」の実態 


 達閣の勧めで、翌春の京大選科受験を予定した周は、入学願書の下書きを書いたが終に使うことがなかった。この願書は、他の荷物と一緒に、達閣が定宿に預けておいたのだろう。七年になり、一高と東京高師の受験に失敗した周は一時帰国し、九月に再入国するが、以後八年春までの動向は明らかでない。

 南開同学との間の書信の往来から見ると、東京に下宿していたことは確かであるが、下宿の所在すら明らかになっていない。前述した大工・八代氏の下宿に居たのは、或いはこの時期かも知れない。前年(大正六年)の秋とすれば、僅か二ヶ月ほどの東京生活の中で下宿の移転があまりにも頻繁で、また矢代氏下宿の時間があまりにも短く、女房たちの噂になったとは考えにくいからである。因みにその噂とは、ある種尾篭なことで、周の大物振りが取り沙汰されて他日を期待されたという埒もない一件である。

 ともあれ、周恩来は八年の春、前年に一高特別予科から三高文科に転じていた達閣の下宿に居候して長逗留する。達閣と住んでいた妻をウイルソンは「政府の給費生」と説くが、当時の民国政府の給費制度は女子を対象にしていない。ハン・スーインに至っては、達閣の妻が「南開時代からあなたのお酒好きは度が過ぎていたわ」と周を諌めた、と謂うが、南開は男子校であり、周や達閣らが校外で女学生と交友していたとは考えにくいから、これは舞文曲筆以外にあるまい。

 すべてを解く鍵は、達閣と丹波衆の秘められた関係にある。呉達閣は、実は清国に潜入した丹波衆が、満洲に遺してきた血統と仄聞する。それは、愛親覚羅氏の大陸統治が終焉に差し掛かったことに対応して、京都堀川御所の皇統が秘かに打った手であった。相手も相手で、南開学校の三羽烏と謂うべき呉達閣・王希天・周恩来が揃って日本に留学したのも、決して偶然ではあるまい。キリスト教メソジスト派の支援を表看板に、近代教育のために建てられた南開中学の実態は、ワンワールド(国際秘密勢力)が中国に置いた重要拠点の一つであった。創立者が日本の学生を基準にしたのは、卒業生を日本に送り込む目的を秘めていたからである。南開中学の設立自体、日本調略のために特務を養成する目的でもあったと見て不自然ではない。

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 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (37)
     <了>。







(私論.私見)