吉薗周蔵手記(36)



 更新日/2021(平成31→5.1日より栄和改元/栄和3).2.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2005.4.3日、2009.5.27日再編集 れんだいこ拝


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (36)
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(36)-1
  周恩来と呉達閣、そして周居應こと王希天の蠢動


 ★幾多の作家もその正体に迫れなかった「呉達閣」
 
 周恩来の旧友であり恩人であった呉達閣は、今日の人名事典では、諱を呉瀚濤、字滌愆で引かなければ探すことはできない。一九八四(昭和五十九)年に『周恩来』を発表したディック・ウイルソンが、同著執筆のために天津の南開中学(現在は南開大学)を調査した際、周恩来を保護した同級生の名を呉達閣と知ったのは当然である。

 ウイルソンに先行する二冊の伝記、すなわち松野谷夫『中国の指導者-周恩来と其の時代』と許芥『周恩来-中国の蔭の傑物』の中に「韓某」の名で出てくる級友が、実は呉達閣であることに気付いたウイルソンは、一九八〇(昭和五十五)年に台北で本人に会った時、それを確認したのであろう。松野や許の周恩来伝の取材に(直接か間接か確認していないが)応じた時、呉達閣は自分の名を「韓某」の偽名にする条件を付したものと思われるが、その意味を軽視したウイルソンは、呉が敢えて偽名にせねばならぬ理由を深く探究しなかったのである。

 映画『慕情』の原作者ハン・スーイン(韓素音)が、一九九四(平成六)年に発表した周恩来伝『長兄』が、ウイルソン著を下敷きにしたのは当然であるが、ハンが偽名使用の件を捨象してしまったのは、ウイルソンを更に上回る鈍感さであった。

 ハンは一九八八(昭和六十三)年の南開大学の周恩来セミナーに出席して、最新の論文や資料を収集したが、その時点では呉達閣は生きていた。九十五歳の高齢であったが、諱を呉瀚濤と変えて国民党政府の総統府参事に就いていた(同年十二月二十二日に死去)。ハンが南開大学で得たという「最新の論文や資料」が、南開学校出身の呉達閣をどのように扱っていたのか興味深いが、いずれにせよ、呉が諱を達閣から瀚濤に変えていたことに、ハンが全く気が付かなかったのは確かである。

 台湾で刊行された人名事典の『国史館現蔵民国人物伝記史料彙編』にも、『民国人物小伝』にも呉達閣の名は見当たらず、呉瀚濤として出てくる。両書とも記載内容は似たようなもので、必要個所を以下に抜粋するが、呉が周恩来の級友で周の日本留学に尽力したことや、西安事件で周恩来と再会したことには全く触れていない。敵性人物と親しく西安事変に重大関与した事実を台湾の一般社会に隠すために、諱を達閣から瀚濤に変えたのであろう。


 ★留学生たちを憤慨させた日華協定の裏の秘密協定 


 呉達閣は光緒二十(一八九四)年の農暦四月十三日、満洲(東三省)は吉林省の九台県で生まれた。新暦では五月十七日で、奇しくも吉薗周蔵より五日だけ若い。生家は農牧を営み、祖籍は河北省楽亭県で、曾祖母に満族の屈氏が入り、母は張氏である。

 民国元年(大正元年)春、吉林陸軍小学を受験するが、同校が辛亥革命で取消になり、吉林省立一中に入学する。時に十八歳の達閣は、革命党の地下工作員王者師と識り革命党に入るが、翌二年、官憲の圧迫が身辺に及ぶことを察知して吉林省を去り、天津南開学校に転入して丁班に編入された(民国と大正は同年であるが、以下は年号を省略する)。

 同年九月、周恩来が十五才で南開学校に転入した時、隣の席にいた大男が四歳年上の呉達閣であった。五年になるや、呉は吉林省官費生として日本に留学、六年春に第一高等学校特別予科に合格する。七年春、段祺瑞の秘密対日借款に反対して留日学生が多数帰国し、抗日救国団を組織した時、呉も上海に渡って抗日運動に加わった、とある。留日民国学生の帰国理由を日本の史家は、シベリア共同出兵阻止のためとするのは皮相である。後に述べる「周恩来留日日記」には、「中日新約(日華共同防敵協定)の成立を憤慨して。留学生の間に全員帰国の議論が高まった」と記している。一つの歴史的流れの異なる側面をそれぞれ強調しているのだが、渦中にいた周恩来の日記が最も正鵠を得ている事は言うまでもない。留学生たちは日華協定の裏の秘密協定の内容を嗅ぎ付けたのであった。

 呉達閣が六年春に一高入試に合格した後、七年春までの一年間のことは、台湾の人名事典に記載がない。ところがこの間の動静を窺わせる資料が出てきた。それは周恩来の『旅日日記』で、長い間中国でも部分的にしか紹介されていなかったが、一九九八(平成十)年に発表され、邦訳が『周恩来≪十九歳の東京日記≫』として翌年に出た。この日記は大正七年一月一日から始まっている。

 そこで七年一月一日から始まる「周恩来日記」から、呉達閣に関する記事を抜粋して、以下に示すが、折から、本稿が何度も取り上げてきた南開三羽烏の一人王希天の記事も散見されるので、希天の記事も併せて彼らの動静を追ってみる。日記の中では中国人の習慣で、達閣を字(アザナ)で「滌愆」と呼んでいるが、本稿は「達閣」で通すこととする。周は、この当時は猿楽町の玉津館に住んでいた。

 ★「王希天」も含め日本で頻繁な接触と書簡往来


 早速一月一日条に「達閣を含む三人の学友が午後に訪ねてきたことと、達閣から年賀葉書を貰ったこと」を記す。二日の朝も来た達閣は、四日にも来て一緒に東亞高等予備校に出かけ、この時に達閣は南開同学会の副幹事に選ばれる。六日南開の旧友王希天に会う。七日達閣・希天と会う。十日には貸間に移る。十三日に達閣の引越しを聞く。十七日駅で達閣に出会う。二十五日達閣来る。

 二月二日、周は谷中霊梅院の友人厳智開(南開学校設立者厳修の子)の下宿へ移り、美校生保田龍門と知りあう。十日達閣来る。十一日達閣が来たので其の下宿について行く。十七日達閣来る。二十日達閣を訪ねる。二十三日、二十四日にも達閣の記事あり、引っ越しの件である。二十四日谷中の下宿を引き払い友人の下宿に移る。二十五日達閣と王希天らが来る。

 三月一日新居に移る。三~六日東京高師入試。十、十一日に達閣との手紙往復は、高師の入試に周が落ちた一件である。十五日達閣来り、翌日手紙を出す。三十日達閣来る。四月四日、達閣・希天来る。五、六日も同様。十九日達閣、二十日希天来る。二十八日達閣来る。

 五月二日達閣と会う。日華共同防敵協定の締結を巡り、留日学生の間で同盟帰国の機運高まるが、一高生の希天・達閣と蓬仙が帰国運動の中心で、周も加わった。六日希天・達閣を訪ねるが会えず、午後達閣来る。この日神田維新號に集会した留日学生は、西神田署に連行されたが、直ぐに釈放された(周は参加せず拘束を免れたが、ウイルソンには逆を云っている)。

 七日昼希天に会い、午後希天を横浜に送る。九日希天の葉書を受け取る。十日達閣来る。十一日達閣の帰国を見送る。二十一日達閣に手紙を出す。二十三日達閣のために預金を下ろす。二十五日達閣の葉書を受け取る。三十日希天の手紙を受け取り、返事を出す。 

 六月十日、達閣からの送金を調べるも不明。下宿に帰ると達閣が来ていた。十一日達閣に手紙を出す。十四日達閣の送金は依然不明。十六日達閣より来信。十七日希天より来信。二十日達閣より来信。二十一日達閣へ返信。
七月二~三日、一高受験。周は日本語の会話も作文も不得意で、合格しなかった。三日達閣に手紙。五日希天に手紙。十九日希天から手紙。希天に返信。二十一日達閣から手紙。
ざっと、このような動静が浮かび上がるが、五月十一日に帰国した達閣は直ぐに戻ってきて、六月十日周の下宿に姿を現した。王希天も一時帰国をし、直ぐに戻ってきたらしい。

  続く。
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(36)
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(36)-2

 周恩来と呉達閣、そして周居應こと王希天の蠢動 

 
 ★周蔵「驚く。実に驚く」 白髭をつけると・・・


 ところで、周蔵が、以前京都で出会った達閣に再会したのは大正十年であった。野方村の上高田九六番地に設けた第二救命院に、渡辺政雄を住まわせて芥子の研究栽培を委託していた周蔵が、三月に尋ねると客人が二人いた。「呉達閣と謂う人物には(京都の下宿時代から渡辺の親友だから)さして驚かなかったが、まふ一人の人物には驚く。本を探しに四谷まで行ったら教会の前で出会った由」。以下も「周蔵手記」の「別紙記載・上高田日記」である。

 もう一人の人物は、「≪ヨシソノさん。私の顔に髭を付けて見てくれないか」と云はる。意味が呑み込めんでをると、≪白髪交ぢりの髭をここに想像してみてご覧よ≫、と云はる。驚く。実に驚く」。前年十月一日から四谷の帝国針灸漢方医学校に通い、校長周居應から漢方を学んでいた周蔵は、もう一人の人物がその周先生なので驚いた。周先生に渡辺は「≪この人物は(自分を指して)これでも薩摩隼人だからね。日本人の中では一番コスモポリタンだから、心配要らないよ」と云う。周さんは、≪良く分かってをる≫と云はる」。

 
 薩摩藩士たちは薩英戦争に敗れるや、即座にイギリスの国力と世界の大勢を覚り、英国を本拠とするワンワールド海洋勢力に進んで加わり、在英ワンワールド薩摩支部が生まれた。「薩摩隼人が日本人の中では一番コスモポリタン」とは、其の事を謂うのである。今日の史家も気付かぬ其の秘密を政雄が知っていたのは、丹波穴太の上田アヤタチの血筋だからである。ここに重大な意味がある。

 
 「自分は意味が理解出来ないでをったが、辺さんから説明受くる。大体周先生は、体を悪くしたと云うことで、当分灸の学校は休むと言っていたのだ。≪帝國針灸はだふなるか≫と云うと、≪あれまたやるから≫と答えらる」。
彼らの帰った後で、周蔵は政雄から説明を受けた。「まづ辺さん云はるに、周先生は本名を王キテン、希天と書くとのこと。去年(九年)四月から名古屋の八高に入った由。何でも一昨年の前(七年)かに、神田で演説をやってつかまり、呉達閣もつかまり、その後支那料理屋の二階でゴロゴロしてをったが、周先生は四谷にシンキュウー帝國医専を作られた由」。

 仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』には、「八年春に一高予科を卒業した希天は同年秋に八高に入り二年間を名古屋で過ごすが、結核で一年間休学したため八高は退学を余儀なくされ、長岡海岸で療養生活を送る。大正十年秋、東京へ帰ってポンピドー帰国の後、牧する者のいないメソジスト教会の代理牧師として云々」とあるが、これは希天の表帳簿であるから「周蔵手記」の記載と矛盾して当然である。

 まず、結核は仮病と伝わる。何しろ周居應こと王希天は、震災後に生き延びてから百木姓を名乗り、千葉県布佐に住んで長寿を全うした。周蔵の死後も周蔵一家と親交があったから、多くの伝承があるわけである。
「誰一人として、王と周を同一人とは思ってをらん由。あきれる。≪呉先生(呉秀三)や癲狂院ではだふか≫と聞くと、≪呉先生でも知らぬ筈≫とのこと。≪仲間のポール・ナニガシかポンピダフなる人物しか知らないだらふ≫と云う」。

 八高を仮病で退学した希天は、秘かに東京に舞い戻り、九年秋より前に、周居應の名で四谷に帝国針旧漢方医学校を開いた。1896(明治年29)年生まれの希天は、周蔵と達閣より二歳下の二十五歳であったが、老人に化けて日本人相手に漢方を講義するのを、スパイ術の基礎を学んだ周蔵さえ見分けがつかなかった。希天はその諜報術を、南開学校時代にマスターしていたのである。メソヂスト派を看板にした南開学校は、国際秘密勢力が中国に設けた重要拠点で、希天が「よく解ってをる」と答えたのも当然であった。コスモポリタン仲間のポール某とは、聖公会牧師のポール・ラッシュのことで、震災後に初来日したとの経歴は表帳簿である。ポンピドーはメソヂスト牧師で、宗派は違っても、奥底ではヴァチカン・ワンワールドに連なる彼らは、日本調略のために来日していた。

 周居應こと王希天を周蔵に紹介したのは東大医学部教授の呉秀三で、呉は薩摩ワンワールド三代目総長の上原勇作と親しかったから、ここにコスモポリタン=国際秘密勢力の脈絡を見るべきである。希天は折から呉秀三の勧めで弟子入りした周蔵を、額田兄の妾が営む大森の料亭に案内した。希天の親しかった額田兄弟医師は呉教授の配下で、やはり筋道が見える。
 
 ★「空白の七か月」の真相は周蔵手記別紙記載にあった


 さて、周恩来の日記に戻る。一高受験にも失敗した周恩来は帰国を決意し、七月二十八日に出立した。三十一日夜奉天に着き、達閣に発信。八月一日天津に到着、帰家。六日希天の手紙を受け取る。家族に囲まれて一カ月を過ごした周は、九月四日東京に帰着するが、以後の日記は受発信のみで、他の記事はない。さらに七年十二月二十三日を以て周の日記は途絶し、八年の四月五日に「雨中嵐山」を詠むまで、資料は極めて少ない。留日日記日本版の編者矢吹晋は、九月から四月までを「空白の七か月」とし、この空白期について、「伝記作家たちはさまざまに書いている」として、代表的な説を二つ紹介する。

 金冲及の『周恩来伝』に拠れば、一時帰国後の周は「東京の神田三崎町にあった王樸山の家の二階に寄宿していた」とあり、(勉強熱心で沈着冷静な日常を過ごしていたが)南開学校が大学部を創設すると云う知らせを受けて帰国を決意し、三月、南開学校同学で第三高等学校に学ぶ呉瀚濤の京都下宿にしばらく滞在、四月天津に向けて帰国した。これが第一の説である。

 一方、ディック・ウイルソン前掲には、空白期における対照的な周恩来像が描かれているという。すなわち「七年秋には、周恩来は京都の呉瀚濤夫婦(ともに国費留学生)の家に身を寄せている。呉夫婦は以前から周恩来の滞日中の生活費を工面していたらしい。呉は周恩来に当時、京都帝大経済学部で教鞭をとっていた川上肇の思想を通してマルクス主義を紹介し、京都大学入学を勧めたらしい。周恩来も神田の住所で願書を書いたが、提出の有無は不明である」とのウイルソン説著を、第二説とする。

 京都に周を招いた南開同学の名を、ウイルソン前掲は勿論ハン・スーイン『長兄』でも、はっきり呉達閣と謂い、呉瀚濤の名を用いていない。その人物の名を、矢吹はなぜ呉瀚濤と変えたのか。おそらく金冲及『周恩来伝』(1989年2月)に呉瀚濤とあるのに、引きずられたのであろう。しかし矢吹は、呉瀚濤が呉滌愆であることに全く気が付いていない。同一人物だと知っていたら「滞日中の生活費を工面していたらしい」なぞとは書く筈がない。

 大正七年九月四日東京に帰着して以後、周の日記には受発信の記録だけが連日のようにあるが、京都にいる達閣からの受信は九月二十日に始まり、以後は十月五日受信。十二日受信して返信。十九日受信。二十一日受信。十一月に入り二十八日発信、二十九日受信して葉書で返信とある。他の留日学生仲間との書信往復は連日のごとく、受発信の場所は当然東京の下宿であろう。達閣の呼びかけで京都に移り、居候して過ごしたとされるが、受発信の様子では、京都に往ったとしても高々数日で、長逗留していたとは思えない。

 
 ここらで真相を云おう。実は、周恩来が京都市左京区吉田中阿達町の達閣の下宿に同居して居たのは、大正六年の秋であった。周蔵が手記の「別紙記載」に書き残したから、間違いない。

 
 六年春に一高特別予科に合格した達閣は、秋には京都に住んでいた。同居の妻を、ウイルソン前掲は「同じく国費留学生」とするが、当時の民国の国費留学制度では、対象はすべて男子校であった。同棲していた女性は看護婦と伝わるが、人名事典がいう呉瀚濤の先妻朱毓芬でない事は確かであろう。おそらく、丹波のアヤタチ家系の女性で、丹波衆がアヤタチ血筋の達閣に同族の女性をあてがったのである。
 

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(36) <了>。
 







(私論.私見)