●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(35) -周恩来と東亜近代史の理解に不可欠な怪人「呉達閣」 ◆落合莞爾
★周蔵の祖母ギンヅル上京 薩摩閥や大本と繋がる女傑
新中国の国家指導者として今も国民に尊敬され、日本人の間にも好感を以て迎えられる周恩来が大正年間に日本に留学した際、京都の学生下宿で吉薗周蔵と知り合ったことは、既に何度か述べた。周恩来の日本留学に尽力したのは、天津南開中学の同級生・呉達閣であるが、この人物の一端が明らかになり、二十世紀の東洋史を根底から見直す重大事である事が分かった。以下では、今までに把握したことを述べていきたい。
「周蔵手記」に周恩来の名は、私(落合)が見た限り二回だけ出てくる。「別紙記載」大正六年「九月ニナルト早ク、婆サンガ上京、出テ来ル」で始まる条である。祖母ギンヅルが日高尚剛と連れ立って日向から上京してきた目的は、「高島サンニ関フル事モアルヤフダシ、(上原)閣下ニ用モアルノデアラフ」と周蔵は推察した。高島とは前年一月に他界した子爵・高島鞆之助のことである。日清戦争の前後に二度陸相に就き大勝利をもたらした高島の功績は歴史の彼方に消えたが、台湾副総督として台湾を平定し戦争の仕上げをした偉功は当時から国民に伝わらず、まして初代拓殖務大臣として台湾経営の根本策を定めた事績は、児玉源太郎・後藤新平に仮託されて史家を騙し、史家はそれを受け売りして民衆を惑わしてきた。明治三十一年に陸相を辞して以来十八年、枢密顧問官の閑職で世間を韜晦していた高島の裏面は、在英ワンワールドの要請に応じ、樟脳・砂糖の台湾産品と阿片・煙草の台湾需要品に関する基本政策を取り仕切っていたのである。
ギンヅル・日高の薩摩コンビは幕末以来、芥子・人胆製剤「浅山丸」の製造に専心していたが、明治二十四年逝去した吉井友実の後を襲って薩摩ワンワールド(在英ワンワールドの薩摩支部)のグランドマスター(総長)に就いた高島の指令下にあって、鈴木商店や東亜煙草などを間接支配していたのである。大正五年一月に高島が逝去し、吉井の次男で高島の養嗣子の陸軍少将高島友武が子爵の家督を継ぐが、薩摩ワンワールド総長の後継は、ギンヅルの甥で男爵陸軍大将の上原勇作と決まっていた。大正六年九月、ギンヅルが日高尚剛を従えて上京した目的は、高島・上原に関係したものと周蔵は察したのである。
ギンヅルのもう一つの目的は、京都の渡辺ウメノから至急の相談事があったので、周蔵を同道させることにあった。周蔵は上原勇作の命令で熊本医専薬事部に入り、芥子栽培を研究していたが、大正三年にギンヅルから、「芥子に関わる古書を買ってこい」と言われて、ウメノを訪ねた。御霊前に住む町医師・渡辺家の娘ウメノは、ギンヅルの旦那正三位・堤哲長の旧妾であった。母が丹波穴太、上田家の出で出口鬼三郎の祖父・上田吉松のいとこに当たるウメノは、哲長の許を去った後にその妾になった。ウメノから民間医術の伝授を受けた哲長がモグリ医者として幕末を生き抜き、それを見習ったギンヅルが浅山丸で巨利を博した。ウメノの医学知識は、生家の渡辺医師というより、母の実家・上田家に伝わったアヤタチ医学であった。哲長より七、八歳の年長と周蔵が推定しているウメノは、遅くとも文政三年(一八二〇)の生れで、大正三年には九十四歳を超えていた。 折しも皇道大本は興隆期で、開教者の一人のウメノは綾部に移り出口邸に寄留していた。綾部を訪れた周蔵は、出口鬼三郎にも出会い、下北の小目名に潜んでいる実父・上田吉松の様子を聞かれた。ギンヅルは、哲長の新旧妾の誼みで仲の良いウメノに、哲長の孫の周蔵を引き合わせ、さらには出口鬼三郎にも紹介する目的で、芥子関係古書の受領を□実に周蔵を綾部に派遣したものと推察される。前置きが長いので、周恩来と何の関係があるのか、との怪訝顔が目に浮かぶが、実は大有りなのである。近来、極秘史実を最近認識し、これに基づき従来の歴史解釈を一層深化させることが出来たので、以下にそれを説明する。
★公家堤哲長の孫同士 渡辺政雄の面倒を見る
大正六年十月十日昼過ぎに京都駅に着いたギンヅルと周蔵は、早速綾部を訪ねたが、ウメノは修学院に引っ越したとのことで、そこへ回った。三年の間に老いさらばえて衰弱したウメノは、医専に在学中の孫の政雄が八月に休暇で帰って来たところ、肺を病んでいた。老齢で面倒を見ることが無理な自分に代わって宜しく頼む、とのギンヅルに対する依頼であった。「医大をやっと畢る処にきて、こげんかことになって」と、薩摩弁を使って泣かんばかりに言う。京都で生まれ育ったウメノが、ギンヅル・周蔵を相手と観るや薩摩弁を使う。ここに尋常ならざる丹波衆の断面が露われているので、史家はいかなる場合でも、かかる一次的情報を決して見逃すべきではない。御高承の通り、理論物理学の方法論を用いる洞察史学の落合流を、俗徒は常に「裏付けを欠く荒唐無稽」と謗るが、眼前の事実を察するを得ざるに、そも裏付けを奈何せん。裏付けを求むる前に、かかる些事の所以をまず考究すべきである。
ウメノの書簡であらかた用件を察して周蔵を帯同してきたギンヅルから、「何とかなるか?」と聞かれた周蔵は、「結核は自分が親炙する牧野三尹先生の専門である」を以て答えとなし、修学院を辞して政雄の下宿を訪ねる。肺結核の理由を、政雄は「医専ヲ北ニシタタメニ、風邪ヲヒクコト多ク」と説明した。医専の名前は、周蔵遺族から「ナベさんは盛岡で、医専創立者の三田家の女性と親しくなった」と聞いていたので、うっかり「盛岡医専」と書いてしまったが、今回調べたらそんな医専はなかった。
盛岡には、地元富豪の弟・三田俊次郎が県立岩手病院を収得し、これを実習場として明治三十年に設立した私立岩手医学校があったが、明治四十五年の医育改革により廃校した後、昭和三年になって三田俊次郎が岩手医専として再開する。その間の大正六年頃には影も形もなかったから、政雄が通った「北の医専」はここではない。尤も、岩手医学校の創立者は三田氏であるから、全くの誤伝ではない。おそらく、京都の医師渡辺家は盛岡の三田氏と繋がりがあり、政雄は岩手医学校に入る予定だった。ところが明治四十五年に岩手医学校が閉校となり、東北帝大医学専門部(仙台医専)に大学した。当時医専は帝国大学に付属していたから、北の医専ならそこしかない。医専の修学期間は四年だから、おそらく大学は大正二年で、仙台医専時代に政雄は三田氏の女性と同棲したのである、仙台医専は東北帝大医学部創設に伴い、大正四年を以て生徒募集を廃し、七年の卒業者が最終となる。政雄は六年に仙台医専を卒業して京都に帰ったが、御霊前の家は既に処分していたので、下宿を探したのである。ウメノは公家・堤哲長の娘を生んだが、その(娘の)子が政雄だといい、「畑違いだが哲長さんの孫同士で、従兄弟であるから仲良くしてやってくれ」と言われた周蔵は、血が同じであれば親しめるものでもないと思ったが、温和な政雄に好感を抱いた。しかし政雄にはしたたかな面も窺えた。ウメノは「まだ医師に成れていない」と謂う政雄は、実際には医師免許を取得していて(?)、専門は外科だと云う。医専を卒業すれば無試験で医師免許が得られたのである。しかし、大本教に巻き込まれたくないから医師免許を隠したと聞き、政雄を理解した周蔵は、政雄を預って東京で面倒を見ようと思った。
続く。
|
|
|
|
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(35)-2 |
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(35)-2 -周恩来と東亜近代史の理解に不可欠な怪人「呉達閣」
★京の奇妙な下宿で邂逅した「支那人の居候なる大物」
問題は政雄の下宿である。「孫息子を預けたる家は、佃煮や干物などを扱う店を花街の方に出してをるらしいが、何より変わってをるは、下宿も離れの間借も支那人が多いとのこと」と「別紙記載」にある下宿は、左京区吉田中阿達町にあった。「創大アジア研究』「日本留学期の周恩来と京都訪問についての一考察」(川崎高志)によれば、『中外学者再論周恩来』(中央文献出版社)に、本部広哲氏の研究により「現在の左京区の区役所になっている場所にあった、二軒並びの北側であったと考えられている」とあるから判明したのである。「これを書いてをると、〔日記を点けるは良い事なり。自分もさふしやふかと思う〕と、他人の物のぞき込んで声をかけたる人物がをる。孫息子と大分懇意であるらしい支那人の居候なる人物、周と云うらしい。名乗らる。京都の大学に行く資格あるも行かず、毎日見物して遊んでをる由。まるで石光さんと同じやふだ。多分、日本を頂察してをるのであらふか」。この「孫息子と大分懇意であるらしい支那人」が呉達閣で、「居候なる人物」が周恩来その人であった。呉達閣こそ周恩来と張学良を繋ぐ重要人物で、この人物の事績が明らかになれば西安事件の真相が暴露されて国共合作の意味が明らかになり、従来の東亜近代史が転覆して、世界史の観方が一変する。
何度もこのテーマを掘り返してきた本稿が、今回は呉達閣に焦点を当てる理由は、この重要人物の探究を、中華民国国民党と中国共産党の双方が故意に、しかし秘かに抑止している事に感づいたからである。
私(落合)が、「周蔵手記」の解読に取り掛かったのは平成八年の二月であった。それから十三年、日夜解読に勤しんできたが、この条ほど解釈に苦しんだ例は少ない。後述する「一年のずれ」が解明できないからである。こんな場合には、必ずそれに相応する真相が潜むことは、十三年の経験で分かっている。従来は、何かに残された記事の断片や、いずこからともなく寄せられる情報から史家が見逃したその一端を暴くことができたから、私(落合)は諦めなかった。今回はまず呉達閣から始める。台湾刊『民国人物伝記史料』によれば、呉達閣のことを、諱(いみな・本名)は瀚濤「カントウ」、字(あざな・通称)は滌愆「デキケン」とする。始め達閣だったが都合により改名したのか、最初から偽名だったのかは確認できない。英人記者ディック・ウイルソンが昭和五十九年に発表した『周恩来』は呉達閣の名を用いるが、これに出てくる呉の記事を、以下に掲げよう。
諱と字、偽名を巧みに用い本質を糊塗し史家を翻弄する
①大正二(一九一三)年夏、周恩来が 天津南開中学第四級に入学。隣席に呉達閣がいた。 ②大正六年九月、日本留学中の呉達閣が仲間と留学資金を出しあい、周恩来を日本に呼ぶ。 ③同月、神戸港に着いた周恩来を呉達閣が出達え、周はすぐに東京へ 移る。 ④大正七年秋、夫婦で京都にいた呉達閣が、周恩来を京都に呼び、居候させる。 ⑤大正八年、五四運動に呼応して周恩来が帰国を決意、周夫人は指輪を売って旅費を与える。 ⑥大正十一年、周恩来はフランスで共産党勧誘文書を作成、京都の呉達閣に送るも返事なし。 ⑦昭和十二年、周恩来は西安事件後の国共協定で、国民党使節団員の呉達閣と偶然会う。
ウイルソンは、彼以前に出た周恩来伝の松野谷夫『中国の指導者―周恩来とその時代』(昭和三十六年)及び許芥翌『周恩来』(昭和四十三年)につき、「許芥、松野は韓という姓を使っているが、同一人物である。筆者は本書を執筆する目的で、一九八〇(昭和五十五)年に台北で彼と会った」と言っている。台北に移った呉達閣は、「韓某」の偽名を用いる条件にして、伝記執筆のための情報を許芥に提供したのであろう。ここでウイルソンが、何故に偽姓を用いたかを追究していないのは、呉達閣の本質に全く気付かなかった証拠である。周恩来の旧友の名は「韓某」でなく、「呉達閣」が本名と聞いたウイルソンは、周の伝記を執筆する目的で、国際法学者となっていた呉達閣を訪ねた。中国人は友人間では諱(本名)を呼ばず字(号)を以てすると聞くが、例えば名刺には「周恩来 翔宇」、書簡にも「翔宇 周恩来」と記名しているから、公式的な場合は勿論、一般的にも諱を名乗っている。台北で会った相手は「呉達閣」と呼び掛けると応じたが、諱を「瀚濤」と告げなかったので、ウイルソンは彼の諱(改名?)を終に知らなかった。台北まで行って本人に会い、「韓某」が偽名と確認しながら、「瀚濤」と変えたことは知らなかったウイルソンは、呉達閣の本質に気付かなかった。呉達閣の本質を知らずに著した伝記が周恩来の真相を伝えていないのは当然のことで、またも「裏付け」重視で誤謬に満ちた俗流史学の一源流を成すこととなる。
平成に入り、周恩来伝の決定版と銘打つ伝記『長兄』が出た。著者韓素音(ハン・スーイン)は映画『慕情』の原作者として知られ、周恩来に十一回も会い、ウイルソンにも協力して貰ったというが、この著も「呉達閣」の改名を知らず、呉達閣の本質を、延いては周恩来の本質を見誤った点ではウイルソンの著と同断である。周恩来を理解するには、呉達閣を理解せねば始まらない。
**************
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(35) <了>。 |
|
|
|
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(35) |
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(35) -周恩来と東亜近代史の理解に不可欠な怪人「呉達閣」 ◆落合莞爾
★周蔵の祖母ギンヅル上京 薩摩閥や大本と繋がる女傑
新中国の国家指導者として今も国民に尊敬され、日本人の間にも好感を以て迎えられる周恩来が大正年間に日本に留学した際、京都の学生下宿で吉薗周蔵と知り合ったことは、既に何度か述べた。周恩来の日本留学に尽力したのは、天津南開中学の同級生・呉達閣であるが、この人物の一端が明らかになり、二十世紀の東洋史を根底から見直す重大事である事が分かった。以下では、今までに把握したことを述べていきたい。
「周蔵手記」に周恩来の名は、私(落合)が見た限り二回だけ出てくる。「別紙記載」大正六年「九月ニナルト早ク、婆サンガ上京、出テ来ル」で始まる条である。祖母ギンヅルが日高尚剛と連れ立って日向から上京してきた目的は、「高島サンニ関フル事モアルヤフダシ、(上原)閣下ニ用モアルノデアラフ」と周蔵は推察した。高島とは前年一月に他界した子爵・高島鞆之助のことである。日清戦争の前後に二度陸相に就き大勝利をもたらした高島の功績は歴史の彼方に消えたが、台湾副総督として台湾を平定し戦争の仕上げをした偉功は当時から国民に伝わらず、まして初代拓殖務大臣として台湾経営の根本策を定めた事績は、児玉源太郎・後藤新平に仮託されて史家を騙し、史家はそれを受け売りして民衆を惑わしてきた。明治三十一年に陸相を辞して以来十八年、枢密顧問官の閑職で世間を韜晦していた高島の裏面は、在英ワンワールドの要請に応じ、樟脳・砂糖の台湾産品と阿片・煙草の台湾需要品に関する基本政策を取り仕切っていたのである。
ギンヅル・日高の薩摩コンビは幕末以来、芥子・人胆製剤「浅山丸」の製造に専心していたが、明治二十四年逝去した吉井友実の後を襲って薩摩ワンワールド(在英ワンワールドの薩摩支部)のグランドマスター(総長)に就いた高島の指令下にあって、鈴木商店や東亜煙草などを間接支配していたのである。大正五年一月に高島が逝去し、吉井の次男で高島の養嗣子の陸軍少将高島友武が子爵の家督を継ぐが、薩摩ワンワールド総長の後継は、ギンヅルの甥で男爵陸軍大将の上原勇作と決まっていた。大正六年九月、ギンヅルが日高尚剛を従えて上京した目的は、高島・上原に関係したものと周蔵は察したのである。
ギンヅルのもう一つの目的は、京都の渡辺ウメノから至急の相談事があったので、周蔵を同道させることにあった。周蔵は上原勇作の命令で熊本医専薬事部に入り、芥子栽培を研究していたが、大正三年にギンヅルから、「芥子に関わる古書を買ってこい」と言われて、ウメノを訪ねた。御霊前に住む町医師・渡辺家の娘ウメノは、ギンヅルの旦那正三位・堤哲長の旧妾であった。母が丹波穴太、上田家の出で出口鬼三郎の祖父・上田吉松のいとこに当たるウメノは、哲長の許を去った後にその妾になった。ウメノから民間医術の伝授を受けた哲長がモグリ医者として幕末を生き抜き、それを見習ったギンヅルが浅山丸で巨利を博した。ウメノの医学知識は、生家の渡辺医師というより、母の実家・上田家に伝わったアヤタチ医学であった。哲長より七、八歳の年長と周蔵が推定しているウメノは、遅くとも文政三年(一八二〇)の生れで、大正三年には九十四歳を超えていた。 折しも皇道大本は興隆期で、開教者の一人のウメノは綾部に移り出口邸に寄留していた。綾部を訪れた周蔵は、出口鬼三郎にも出会い、下北の小目名に潜んでいる実父・上田吉松の様子を聞かれた。ギンヅルは、哲長の新旧妾の誼みで仲の良いウメノに、哲長の孫の周蔵を引き合わせ、さらには出口鬼三郎にも紹介する目的で、芥子関係古書の受領を□実に周蔵を綾部に派遣したものと推察される。前置きが長いので、周恩来と何の関係があるのか、との怪訝顔が目に浮かぶが、実は大有りなのである。近来、極秘史実を最近認識し、これに基づき従来の歴史解釈を一層深化させることが出来たので、以下にそれを説明する。
★公家堤哲長の孫同士 渡辺政雄の面倒を見る
大正六年十月十日昼過ぎに京都駅に着いたギンヅルと周蔵は、早速綾部を訪ねたが、ウメノは修学院に引っ越したとのことで、そこへ回った。三年の間に老いさらばえて衰弱したウメノは、医専に在学中の孫の政雄が八月に休暇で帰って来たところ、肺を病んでいた。老齢で面倒を見ることが無理な自分に代わって宜しく頼む、とのギンヅルに対する依頼であった。「医大をやっと畢る処にきて、こげんかことになって」と、薩摩弁を使って泣かんばかりに言う。京都で生まれ育ったウメノが、ギンヅル・周蔵を相手と観るや薩摩弁を使う。ここに尋常ならざる丹波衆の断面が露われているので、史家はいかなる場合でも、かかる一次的情報を決して見逃すべきではない。御高承の通り、理論物理学の方法論を用いる洞察史学の落合流を、俗徒は常に「裏付けを欠く荒唐無稽」と謗るが、眼前の事実を察するを得ざるに、そも裏付けを奈何せん。裏付けを求むる前に、かかる些事の所以をまず考究すべきである。
ウメノの書簡であらかた用件を察して周蔵を帯同してきたギンヅルから、「何とかなるか?」と聞かれた周蔵は、「結核は自分が親炙する牧野三尹先生の専門である」を以て答えとなし、修学院を辞して政雄の下宿を訪ねる。肺結核の理由を、政雄は「医専ヲ北ニシタタメニ、風邪ヲヒクコト多ク」と説明した。医専の名前は、周蔵遺族から「ナベさんは盛岡で、医専創立者の三田家の女性と親しくなった」と聞いていたので、うっかり「盛岡医専」と書いてしまったが、今回調べたらそんな医専はなかった。
盛岡には、地元富豪の弟・三田俊次郎が県立岩手病院を収得し、これを実習場として明治三十年に設立した私立岩手医学校があったが、明治四十五年の医育改革により廃校した後、昭和三年になって三田俊次郎が岩手医専として再開する。その間の大正六年頃には影も形もなかったから、政雄が通った「北の医専」はここではない。尤も、岩手医学校の創立者は三田氏であるから、全くの誤伝ではない。おそらく、京都の医師渡辺家は盛岡の三田氏と繋がりがあり、政雄は岩手医学校に入る予定だった。ところが明治四十五年に岩手医学校が閉校となり、東北帝大医学専門部(仙台医専)に大学した。当時医専は帝国大学に付属していたから、北の医専ならそこしかない。医専の修学期間は四年だから、おそらく大学は大正二年で、仙台医専時代に政雄は三田氏の女性と同棲したのである、仙台医専は東北帝大医学部創設に伴い、大正四年を以て生徒募集を廃し、七年の卒業者が最終となる。政雄は六年に仙台医専を卒業して京都に帰ったが、御霊前の家は既に処分していたので、下宿を探したのである。ウメノは公家・堤哲長の娘を生んだが、その(娘の)子が政雄だといい、「畑違いだが哲長さんの孫同士で、従兄弟であるから仲良くしてやってくれ」と言われた周蔵は、血が同じであれば親しめるものでもないと思ったが、温和な政雄に好感を抱いた。しかし政雄にはしたたかな面も窺えた。ウメノは「まだ医師に成れていない」と謂う政雄は、実際には医師免許を取得していて(?)、専門は外科だと云う。医専を卒業すれば無試験で医師免許が得られたのである。しかし、大本教に巻き込まれたくないから医師免許を隠したと聞き、政雄を理解した周蔵は、政雄を預って東京で面倒を見ようと思った。
続く。 |
|
|
|
|