吉薗周蔵手記(33)



 更新日/2021(平成31→5.1日より栄和改元/栄和3).2.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2005.4.3日、2009.5.27日再編集 れんだいこ拝


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(33)ー1
                     ドキュメント真贋 金らん手_1
 
                       金襴手(明代嘉靖年製)
                       『ドキュメント真贋』より。



 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(33)ー1      ◆落合莞爾
  紀州家、大谷光瑞、関東軍・・・奉天秘宝模造計画とその行方


 ★模造品で裏金を・・・関東軍の勝手な介入 


 愛親覚羅氏は、堀川辰吉郎と満洲保全策を協議した結課、奉天督軍兼省長に就いた張作霖の自立を支援して、満洲(東三省)を間接占有する方針を固めた。そこで愛親覚羅氏は初めて奉天秘宝の存在を辰吉郎に明かし、これを換金して張作霖に与えることを提案したものと思われる。当時、日本の張作霖に対する窓口は、軍事外交方面は関東都督府(大正八年四月から関東軍に変更)参謀部であったが、参謀本部は顧問軍人を差遣していわゆる〔内面指導〕に当たらせていた。張作霖政権との行政的折衝は、実質的に行政機関であった南満洲鉄道奉天公所が当たり、公使館のごとき役割を担った。明治四十年に初代公所長に就いた佐藤安之助少佐は、夏目漱石『満韓ところどころ』にも出てくる支那通の現役軍人であった。佐藤は四十三年から一年間欧州に出張、その間中佐に進級して四十四年十一月に帰国した。一年後の大正二年十二月には奉天に復任、関東都督府司令部附兼満鉄附に補せられて四年九月まで在任した。

 満鉄に深く関わった佐藤よりも、満鉄奉天公所の主として更に有名なのが次長・鎌田彌助で、菊池寛の『満鉄物語』にも登場する奉天の名物男だが、実体は上原が満鉄に張っていた草であった。『周蔵手記』には、周蔵がウィーンから帰朝した直後の大正六年六月、上原勇作大将の大森宅で紹介された鎌田を、重要民間人でかなり閣下の信用を得ているとの観察の後に「満鉄関係二席ヲ置イテヰルラシイ。タマニ來テヰル?」と記している。

 大正七年七月、関東都督府参謀長に就いた浜面又助少将は、上田が奉天秘宝倣造計画を進めているのを知り、倣造品を利用して関東軍の裏金を作ろうと考えた。上田と相談して私益を図ったと聞かされた周蔵はそう信じていたが、それでは満鉄の協力は得られない。少なくとも大義名分が必須で、上田は光端師の指令、浜面は宗社党救済がそれであろう。ともかく上田と浜面の倣造計画は、九年の春に陸軍中央の諒解を得たが、五月に奉天特務機関長に就いた貴志彌次郎はそれを、「東京ハ現地ヲ知ラナイカラ、浜面ノ話ヲ ウマイ話ト思ッタノデハナイカ」と推察している。上田と浜面が合議して作った倣造案は、所有者(受託者)の張作霖に断ることなく、また買手候補の紀州家の都合をも無視した全く勝手な計画であった。それを陸軍が認めたのは、奉天秘宝が単なる美術品でなく重要な戦略物資だったからである。何しろその予想市場価格は、張政権が当時保有した純資産額の百万両(テール、白雲荘主人『張作霖』による)を数倍も上回るものであった。

 ★吉薗周蔵の真贋分別法 『奉天圖経』が示す価値


 辛亥革命の後、明治四十五年四月に関東都督に就いた福島安正中将は、松本藩士ながら陸軍長州派に属していた。自ら粛親王に推薦した同藩士の川島浪速が、高山公通(鹿児島)大佐、守田利遠大佐(福岡)らの九州軍人たちと謀って懸命に支援した宗社党の清朝復興運動に対して、冷淡であったことは前述した。これは福島の国際感覚によるもので、民国への内政干渉を避けたのであろう。福島が大正三年九月に関東都督を辞め、中村覚中将に後を譲った後、陸軍の満洲政策は二派に分かれた。関東都督府に拠った旅順派は、関東軍参謀長・浜面又助を始め、宗社党と組んで満蒙の地に新たな清国を建てようとしていた。四年十二月に陸軍参謀長に就いた上原勇作大将は、満蒙政策に関して奉天派に属した。張作霖が嫌がる倣造工作に内心反対であったが、表立って反対しなかった理由は、上田の背後にいる大谷光瑞師を慮ったものであろう。

 浜面案が認可された直後の五月、上原総長は腹心貴志彌次郎を奉天特務機関長に補し、張作霖との懇親および秘宝の換金工作を命じ、貴志支援のために専属特務・吉薗周蔵を奉天に派遣した。周蔵の出発に際して上原が、「オ前ンハ 正義ノ型ヲ示シテ來レバ 良カ」と訓示したのは、要するに「倣造は正義に背くと叫んでこい」との意味である。

 果たせるかな奉天に赴任した貴志は、満鉄窯の試作品を見てその出来映え驚き、将来これらが真贋問題を起して購入者の迷惑となる虞れを覚えた。貴志が任務を嘆いたのは、売却相手が紀州徳川家だったからである。生家が紀州藩根来者ゆえにこの任務を負わされた貴志は、旧主家に迷惑を掛ける結果だけは避けたかった。真贋の判定に役立つのは写真撮影であるが、その写真はまた倣造にも利用される。秘宝の売上金を貰う都合で秘宝の形式的所有者になった張作霖は、内心では倣造工作を嫌い、写真撮影に協力しなかったという。

 貴志の立場に同情した周蔵は、熟考の上真贋を容易に判別する方法を案出した。その実行には占有者の協力が不可欠であったので、貴志を通じて張作霖に具申した処、作霖は大いに喜び、張氏師府内の保管室に机を運びこむなど、いろいろ便宜を図ってくれた。貴志少将と特務機関付の二等兵・森薫の助力で、周蔵は、貴志が日本に運ぶと決めた古陶磁について必要な作業をほぼ完了した。

 周蔵の真贋分別法とは、秘宝の一品一品につき、各部の実寸を記録し、文様の一部を薄紙に写しとって『奉天圖経』を作成することであった。今に残る『奉天圖経』を見ると、世界各地の美術館が現在展観する重要古陶磁の殆どは奉天秘宝から出たことが分かる。『周蔵手記』には、紀州家に一旦納まって間もなく財務顧問・上田貞次郎の手によって、秘宝が少しづつ流出したことを記す。今日、世界に散在する古陶磁の傑作は、ほとんどが流出品と照応するが、ともかくも、日本からの流出により、今日の世界は、支那古陶磁の名品を眼にし得ているのである。

 ★大谷光瑞ファンドが介在? 幻の超特級品とその行方

 奉天秘宝はそもそも成立の事情に始まり、→奉天城内に隠匿、→日本への渡来、→業者により内外に流出した過程がすべて秘密に包まれてきたところに、特殊性がある。したがって、各国の陶磁学者は、各美術館の所蔵品を個別に研究対象とするだけで、それらが嘗て同じ宝庫に、一団として存在した史実に気が付いていない。それはやむを得ないが、日本の陶磁学者らが秘宝の存在を薄々知りながら、別の理由から口を閉ざしてきたのは、到底学者の風上に置けない行状である。

 ところで、今日世界の各地で展観され、陶磁愛好家を唸らせている逸品も、『奉天圖経』の中に在っては、特級品の名に値するのはごく数点である。つまり、世界に知られた名陶磁器は良くても一級品のレベルである。超特級品と呼ぶべきものは、幻の「紅定窯」「緑定窯」を筆頭に、元代明初の「青花釉裏紅」、あるいは明代嘉靖年製の「五彩金襴手」などであり、そのうち数十点は近年まで紀州家の周辺に残っていたし、今もその所在は確認できる。しかしそれ以外の数十点は、世界の有名美術館の蔵品中にも全く見えない。滅失したとは思いたくないから個人所蔵と見るしかないが、一体誰の元へ消えたのか。

 手掛かりは、当持の購入資金が紀州家だけでは足りず、大谷光瑞師の基金に仰いだという事情にある。つまり奉天秘宝は、日本流来の直後に二手に別れ、一部が紀州家に入り、残りは光瑞師のファンドに渡ったのではないか。もしそうならば、世界各美術館の蔵品も、全部が紀州家から流出したものではなく、光瑞ファンドが一旦取得して、資金回収のために放出した品も多いことになる。『周蔵手記』には、上田貞次郎は、紀州家での茶会の折に拝見を願い、小さな物を選び秘かに持ち出した」とある。ところが内外に流出した品の中には、例えば至正様式で有名になったデヴィッド瓶などの巨大な品がある。これなど、とても秘かに持ち出せる代物ではないから、或いは大谷ファンドを経由して流出したものかも知れない。

  ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(33)ー2 へ<続く>。
   


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(33)ー2 
                   奉天図経 佐伯祐三真贋事件 p370_1 
                             ★『奉天圖経』 
                      (『「佐伯祐三」真贋事件の真実』 p370より)      

                   
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(33)ー2      ◆落合莞爾
  紀州家、大谷光瑞、関東軍・・・奉天秘宝模造計画とその行方 
 


 ★片方は割れてしまった 秘宝中の筆頭「九龍壷」


 上田恭輔が書き残した一文と『奉天圖経』の記載によれば、清朝代々
の蔵役人で陶磁学者の孫游先生が奉天秘宝中の筆頭と極めたのは「青花釉裏紅・九龍圖酒會壷」であった。高さも幅も八十センチに及ぶ堂々たる蓋付酒會壷で、コバルトの藍色と銅の紅色を釉の下で発色させる釉裏紅青の難しい技法が頂点に達した明初氷楽年間の制作と見られる。

 双角五爪の龍を九頭描くが、中でも正面を向いた龍の顔は神々しい威容に満ち、九五の位とされる皇帝を象徴している。もとは二品あったが、一つは関東軍参謀長・浜面少将が泰天特務機関長・貴志少将の反対を押し切って動かしたところ、事故で割れたらしい。輸送は泰天持務機関の責任で行われたため、事故の責任を被せられて苦しむ貴志のために、周蔵は満洲に持参した金銭で弁償を申し出た。張作霖が貴志の立場に同情して金銭で納まったと記すが、浜面はおそらく満鉄窯で倣造する目的で、調べるために持ち出したのであろう。貴志は元々倣造に反対で抵抗したが、同じ少将でも先任の浜面に押し切られた。その際、張作霖が浜面に反対もせず他人事として見ていたのは、泰天秘宝の真実の所有者でない証左である。真の権利者は大谷光瑞で、倣造は光瑞師の方針だからこそ誰も反対いなかったのである。因みに周蔵は『奉天圖経』に、「二つある九龍壷の片方は壊れたが、残ったもう一つの価値が倍になるから損にはならない」との感想を記している。

 ★六点あるはずの「定州紅玉」 残る四点はいつ、どこへ?


 孫游先生が九龍壷を最高としたのは、それが中華皇帝の象徴で、わが皇室の「三種の神器」のような特別の意味があるからであろう。管見では、泰天秘宝中の筆頭と目すべきは「定州紅玉盤□瓶」である。北宋持代の定州窯は、古来名陶中の名陶として名高いが、現状公開されている品のほとんどは牙白、即ち象牙色を帯びた「白定」で、その他ごく少数の「柿定」「黒定」がある。宋代の文献では「紅定」「緑定」が在ったとされるが、現状は世界中どこの美術館にもなく、昭和期を代表する陶磁学者・小山富士夫も、支那陶磁の三大難問として、柴窯・北宋官窯・紅定窯を挙げているほどある。紅定窯がしばしば話題に上るのは、蘇東披の詩「試院煎茶」に「定窯の花姿は紅玉を琢く」とあるのが実在の証拠とされるからである。もう一つ、北末の宮廷譚に「皇帝が皇后の部屋を訪れたら紅定窯の花瓶があった。皇帝が誰から入手したかと尋ねたら、皇后は某大臣の贈る処と答えたので、皇帝は皇后と臣下の贈答を禁止した後宮規則に反するとして、手にしていた玉斧(皇帝の象徴)で花瓶を打ち砕いた」との逸話があり、これも紅定実在の証拠とされている。しかしながら、現実にその存在を見ることがないから、陶磁学者・尾崎洵盛は金彩定窯の褐色を以て紅定と見做し、中国の陶磁書は遼寧省出土の赤褐色にくすんだ陶片を示して「これぞ幻の紅定窯の破片か」としている始末である。

 しかしながら、紅定窯は実際に制作され、今日も存在することは紛れもない事実である。貴志彌次郎が招来した奉天秘宝の図録『奉天圖経』には、「定州紅玉」と称する品が六点あり、そのうち二点は私(落合)が存在を確認、紀州文化振興会刊行の拙著(筆名、一色崇美)『陶磁図鑑3 元代と明初の染付釉裏紅』に掲載した。時に平成三年で私が『奉天圖経』の存在を知る五年前であった。鑑定に当たって私は、実物を眼前にして苦しむばかりであった。何しろ、世界中の陶磁書をひっくり返しても記録が全くないのである。一点について、「□がスパッと開くその厳しさは恐ろしいほどで、芸術至上主義の北宋の感覚以外には考えられない。これこそ幻の『紅定』と見て、狂いはまずあるまい」と解説したのが、ズバリ当たった。品名も単に「紅釉」としたが、『奉天圖経』が「定州紅玉」と記している。これは孫游の伝で、蘇東披の詩を借りて「ただの定窯ではない」との意味を強めた名称であろう。周蔵の解説文には、「宝物ノ中デモ代表サレル逸品ノ例。皇帝ノ秘宝ノ逸品。一点シカナイ」と記している。もう一点の「紅釉大碗」を、「南宋の景徳鎮でも作られたという紅定」と鑑定したのは大きな間違いで、『奉天圖経』にはやはり定州紅玉としてある。ここらが、平成二年正月から研究を始めた俄か陶磁研究者の限界であろう。

 さて、問題は残りの四点である。実を言えば、『奉天圖経』を見て以来十二年間、私は秘かにこれを探してきた。何しろ、人は知らなくとも世界の秘宝中の秘宝である。状況から見て紀州家からは既に流出したと見て、まず間違いはない。とすると、いつ頃、どこへ行ったのか。


 ★千年の夢を眠る? 「緑定蓮池水禽文瓶」 


 奉天秘宝中、「定州紅玉」に劣らない逸品に「緑定」がある。平成二年に一点を実見した私は、北宋の緑定と断定し、前掲図鑑に掲載した。初めて見た時、陶磁学の手ほどきをしてくれた師匠が、改まって目にされた言は、「貴方が生涯数万点の陶磁器を見るとしても、これ以上の品を見ることは絶対にあり得ません」であった。これこそ世界陶磁器中の最高品と評価されたのである。

 五年後に『奉天圖経』を知ったが、これはやはり緑定で間違いなかった。『奉天圖経』に緑定の瓶は二点あり、ほとんど同形同大の一対のもので、一つは解説文に「瓶。緑地二黒地二黒イ線。定窯北宋」とあるが、現物の拓本を添えているから、私が見た方と分かる。
 未見の方は、解説文に「瓶。緑色圖ニテ水鳥(アヒル、鴨)蓮池ト花。定窯北宋」とあるだけで、具体的にはどんな文様だか分からないが、前者とは多少異なっている筈である。一対というが、全く同じ図柄でなく、どこかで小部分を置換して対照的にしてあることが多い。未見の、この一品もどこへ消えたのか?

 前掲図鑑を刊行した途端に、学芸員から様々な反応があった。陶磁界の有名人ほど確信犯的な否定論者で、例えばY文華館学芸員は「こんなもの台湾に行けば、幾らでも売っていて、二~三万も出せば簡単に手に入る。そんなことも知らないのか」と、わざわざ電話をしてきた。偽物だから展示を止めよと主張するのである。それならば、一個でも現実に買って来て私に見せればそれで決まりだが、ありもしない台湾産ではムリなことだ。それを電話で済まそうとは、美術館の権威だけで外界に通じると錯覚しているらしい。

 この現状では、永年の経験を誇る学芸員といえども、行方不明の紅定・緑定を初めて見た時に何を言い出すか、およそ見当が付く。間違って台湾製とされ、ごみ箱に棄てられる虞れも多大である。それが私の憂いとなり、この十二年間行方不明の逸品を探していた私は、近来の仄聞で「あの資金は紀州徳川家だけが出したのではない」と教えられた。突如閃いたのは、「それなら、その金主にも秘宝の幾つかが渡った筈ではないか」ということである。早速某筋に確かめたところ、明言ではないが正解との感触を得た。つまり、定州紅玉六点中の四点、緑定二点中の一点などは、当初から紀州徳川家に入らなかったと見ても良いのである。

 『周蔵手記』大正十五年十一月条には、周蔵がたまたま訪ねた貴志彌次郎宅で、若松安太郎(本名堺誠太郎)に会い、「奉天宝物を堺漁業の船で『堺』まで運ぶ手伝いをした」と聞いたことを記し、「安太郎氏ハ ロシア側ノ筈ダガ 船デ動クハ ヤリヤスカッタノデアラフカ」と感想を加えているが、宝物は奉天から満鉄→東清鉄道でハバロフスクまで運び、そこから堺漁業の船で輸送したようである。張作霖の支配する満洲で、張作霖のために行う輸送なのに、何の障害があったのか良く分からないが、或いは列強の監視の目を恐れたのか、奉天宝物は大連経由を避け、ソ連を経由して日本へ積み出された。「堺マデ」とあるが、水産物を運ぶなら鳥取県の境港の筈で、耳で聞いたサカイを大阪府の堺と勘違いしたとも思われる。或いは、鳥取港で魚を降ろした後、漁船を大阪堺へ回したとも考えられるが、これ以上考究する必要はあるまい。

 ともかく奉天宝物は、日本に到着した後で、紀州徳川家に入る分と大谷光瑞ファンドに入る分が分けられたと、推定したい。とすると、紅定・緑定などの未だ行方の知れぬ逸品は、大谷ファンドに入ったまま奥深い蔵のなかで今も千年の夢に眠っているものであろうか。


  ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(33)   <了>。        

●『真贋 大江山霊媒衆』 栗原茂
■『真贋大江山系霊媒衆』 ★序章 大江山系シャーマニズムとは? <続>

 ●統一場を啓く共時性

 日本を和と仮定すれば、東西混淆の洋は南北を巻き込む遠心力のもとに、求心力が働く核心の和に集中するのが回転トルクのベクトルである。短絡的な文明史観に陥る人の通弊として、和を保つ努力が稀薄になると、和洋折衷の千切り取り思想に奔るという傾向が生じてくる。

 富国強兵を誘引する兵制改革は日清戦争の顛末情報を正確に伝えられず、抜き差しならない日露開戦も止むなき成り行きに流されたが、歴代の神格に支えられた天皇の透徹史観は常に備えを怠らない。フランス仕込みの陸軍とイギリス仕込みの海軍が橇を合わせる何ぞは夢物語なのである。光格天皇の御代を振り返り通暁すれば、すでに答は出されており、アメリカ独立戦争やナポレオンの執政などの事例を引いて多くを語る必要はあるまい。

 光格天皇は神変大菩薩の諡を贈号して役小角シャーマニズムを蘇らせた。さらに約四〇〇年にわたって途絶えた石清水八幡宮や賀茂神社の臨時復活祭なども挙行した。東京遷宮の強行さえ超克する神格天皇ゆえ、祐宮兼仁(ともひと)親王(光格天皇)と同じ称号の祐宮睦仁親王(明治天皇)が新開を啓く奥義も、相応の未来透徹から生じている。

 すなわち、祐は「う」を「示す」天子の真事を顕わす表意であり、連続性を断つ局面のとき、天子が超克の型示しで民心一つに纏め上げる振る舞いから、霊言「あおうえい」五十音図をフル活用する意を潜ませるのだ。

 統一場を啓く共時性は開かれた空間に顕われて、素元の因子が恒久リサイクル・システムにより、分子結合構造を成すが、分子の結合法すら弁えない閉じられた空間では、霊言五十音図の原義を勘違いして外来文字と結ぼうとする本末転倒さえも起こる。例えば、漢字「安」から霊言「あ」が生まれたように勘違いして、分子構造「安」の還元論から素元「あ」を突き止めようとするのだ。この還元論が似非教育の病巣であり、実証現場を知らない文学の仮説が史観の原義を狂わせている。

 ●大江山系シャーマニズムの留意点

 光格天皇による神変大菩薩号贈号で蘇るシャーマニズムは吉野(金峰山)に根ざしている。御所の消失で聖護院三年間の仮御所生活をした光格天皇の神意によるが、東京遷宮の暴挙を犯した人意は大江山系シャーマニズムを編むと兵制に基づく擬似天皇制を仕立て上げた。これが役小角らの呪術的伝承とともに、似非の神を奉じるユダヤ病ウイルスの増殖と重ね合わさり、日清開戦や日露休戦を通じて広く大陸各地に拡散していく。似非教育下で巣立つ純心の傷には慈悲の念を禁じ得ないが、展開図法による擬似立体史観では総合設計が成り立たず、結局は部分接合が仮説の重ね着となり、本義の立体史観である共時性を伴う統一場は完成に至らない。

 筆者は落合(井口)莞爾の純心を深く愛して、その史観設計に取り組む努力に多大の敬意を表するも共振は得られない。なぜ落合を引き合いに出すかというと、善くも悪くも、落合ほどの大仕事を成し得た生き証人はおらず、ニギリ・ホテン・トバシの渦中で純心を失わず、自ら稼ぎ出す多額資金に溺れず、歴史の焼き直しに献身的努力を怠らないからである。

 惜しむらくは最高学府に巣くう性癖を拭いきれず、思考回路が構造不全のまま情知が先んじるため、実証現場の意を整えきれず、共時性を伴う統一場を形成できない。

 しかし筆者は井口に期待している。人の本能的属性は純心を失わなければ、必ず瞬時の閃きによって覚醒したうえ、積み上げた素養が役立つ時が必ず訪れよう。それが純心の本義だからである。落合が誤る還元論を改めたとき、筆者も井口と場の共時性を保ちながら意の共振状態を形成するに違いないと期待している。

 本稿では落合説を根幹から揺るがす因子の不全を時に指摘するかもしれないが、現行下の状況では落合説の誤謬を質す次元ではない。
 
 さて、大江山系シャーマニズムの留意点であるが、出口家また大本教幹部の編む史料も所詮はオカルトロマンであり、落合説も含め密教を解くような文法では、迷路を彷徨う仮説を重ねるしかあるまい。

 ●大江山系シャーマニズムとは

 大江山系霊媒衆がなにゆえに近代に出現したのか。その要諦を禊祓(みそぎ・はらい)すれば、役行者は時空の伝道師であって、その託宣は上古の代に使い古された言質を繰り返して、場の非時性を訴えるだけの求道にすぎないことが分かる。

 つまり、新開を啓くものなどは何もなく古語を新語に置き換えて、単なる時代的徒花にも均しい亜流の増殖を拡散させるだけの存在にすぎないと言わざるをえない。

 落合が解読した『吉薗周蔵手記』は労作であり、生ける屍が政官業言に跳梁していく近現代史を描いており、大江山系シャーマニズムを解く仮説では出色の著作と言えよう。

 むろん、詮ない個人情報には限界があり歴史の真事に通じないが、大江山系シャーマニズムの問題提起としては、他に類例のない設計パーツを揃えていると評価することができる。

 大江山系シャーマニズムの本質は、本筋を外した亜流であるところにあり、政策に綾なす徒花として咲きほころぶ現象にすぎない。

 光格天皇の神変大菩薩は純血皇統に立脚する聖地(結界)に根ざすのだが、亜流の大江山系霊媒衆は混血の統御に立脚するため、更地(俗界)を紡いで繕う版図(ロードマップ)に重点を注ぐことになる。

 人類文明最古の皇紀暦を刻む日本史が何ゆえもっとも遅れて記紀を編んだのか。それは人類の知を剌激して已まない問題であるが、捉え方を誤ると、記紀も単なる物語でしかなくなる。

つまり、大江山系シャーマニズムのような亜流は須佐之男命(すさのおのみこと)を尊崇するが、スサノオは総じて神話の主役であり、ワンワールドを企んで勇躍するコスモボリタンたちが奉ずる似非の神に共通する。

 記紀がスサノオを主神とするのではなく、そのスサノオを窄(たしな)める天照大神を中心に定めるのは深い理由あってのことであり、最古を刻む皇紀暦が記紀編纂を遅らせた理由でもある。

 考古渉猟は情知を刺激して已まないが、記紀の解読すらいまだ暗中模索の状態であり、過去と未来とを透徹する基礎校本に成り得ていない。ここに、大江山系シャーマニズムを解く意義があるのであって、その意義とは現行下の妖怪変化に対抗して自らを強化し、欺し欺される生活から脱却する素養を磨く土台を整えることにある。

 例えば、大江山出自の大本教教団が衰退すると、現行下の徒花に相当する創価学会のような新興勢力が出現して、際限ない宗教ビジネスを目指す妖怪が霊媒衆を食い物にしていく。つまり、大江山系シャーマニズムを題材として過去と未来を透かすと、地名の大江山は単なる象徴にすぎないが、その歴史はやがて室町幕府を滅ぼすことになる鉄砲伝来に通じて世界史全般に及んでいくのである。

 ●八紘為宇の誤訳

 日本書紀の(*巻第三)神武即位前己未年三月に「兼六合以開都、掩八紘而為宇」とあり、この紀の記述に基づいて<八紘一宇>なる語が生まれ、これを大日本帝国は海外進出の口実として、軍国主義を高めるスローガンに掲げたという通釈一般説がある。

 また「宇」は家をイメージしており、「八紘」つまり地の果てまでを一つの家のように統一支配する野望を秘めた語であるとか、あるいは元来は日本国内を一つに纏める必要があって生まれた標語だったとか、「八紘一宇」という語の解釈は様々あり、国際社会でも広く物議を醸す言葉となっている。

 しかし、日本書紀の記述はあくまで「八紘為宇」であり、「為宇」と「一宇」とではたった一字の違いながら、意味するところが微妙に、そして深く違ってくる。

 大江山系シャーマニズムは近現代を司るロードマップに荷担し、その影響力は国際社会にも通じて、生ける屍の増殖拡散を促している。近代オリンピックと称する五輪大会は、金・銀・銅のメダルを競い争う運動会で人の本能的属性を露わにするが、学芸を競い争うノーベル・ショーも金・銀・銅の物性を論じる分野に力を注いでいる。

 記紀は三種の神器として鏡・玉・剣の機能性を論じつつ未来透徹の禊祓を説くが、似非の神を奉じる文明史観は誤訳を恥じずに、勝手な仮説を講じて共時性に伴う場の歴史を破壊していく。大義名分の演出を問えばキリないが、その核心は神の正体を掩蔽するものであり、神々に肖(あやか)ろうとする人の本能的属性が為せる業に支配される。

 脳内を狂わせる周波数を使うテレビ機器が出揃うころ、仏文学一九二〇年代末の流派としてポピュリズムと嘯く「立体的平面思考」が普及していく。例えば球は立体であるが、球を平面化した円に準(なぞら)え中心を描く設計があり、楕円の場合は中心点二つだから、集束も一つではない。それと同じように、真理は複数の場合もありうるとして、物質リサイクル・システム恒久化原理を否定する愚昧も出てくる。

 「八紘一宇」というスローガンも同様の思考不全から生じており、それらは大江山系シャーマニズムの影響であり、未来透徹が求められる現在において、記紀解読の誤謬を正すのは急務なのである。

 ●天気予報を嘲笑う気象攻勢

 現行下の社会を透かそうとすれば、共時性に伴う場の歴史を整える必要がある。人の違いが五十歩百歩とは、国連の井戸端会議でも立証されており、環境に伴う族種の異質性を訴えて部分を論じても詮ない話にしかならない。

 もともと生命は安定しようとする要求をもち、不飽和の状況下では要求度も低いが、飽和状態に陥ると要求度が高まり、様々な手段を講じて淘汰も辞さない現象を歴史に刻むのである。

 朝令暮改の天気予報を嘲笑うかのように、近年の気象は文明の如何に構わず、その脆弱性を露わに暴き出している。土石流に巻き込まれ事物損壊する様は言うまでもないが、気象は元気・病気など含めて気を象るものであり、気は圧を受けて変わり、不飽和が飽和に転じるメカニズムとも通ずる。文明は神の正体を暴き出すため苦心惨憺しており、天体を地球から観測する術を磨くと、宇宙船を放ち地球を観測する段階にまで達したが、情報は未だ神の正体を見極めていない。

 前項で「神の正体を掩蔽する」と馴染みの薄い語を用いたが、これは地球から天体を観測するとき使う語であり、掩蔽(occultation)とは通過(transit)や食(eclipse)に比べて、近い天体が大きく見えて遠くの天体を完全に覆い隠すとき使われる。

 因みに、通過は日面通過の略であり、天体による見かけの大きさが、遠くの天体より小さく見えるときに使うが、例えば、水星や金星など惑星が太陽面を通過していく様を指している。また食とは特定の天体が別の天体にできる影に入って隠れる様をいう。

 だが、この「食」なる用語が情報化されると、まさに神話スサノオ文明を象徴する解釈論となって、大同小異を伴いつつ大江山系シャーマニズムとも通ずることになる。つまり、朔望時に目視可能な現象で月食また日食という語は広く使われるが、月食は兎も角として、日食などありうるはずがない。月は太陽と地球の間を移動して、陽光を遮り地球一部に自らの影を及ぼし、太陽を食したような錯覚を生じさせるが、錯覚するのは人の都合で、月には何の責任もない。実証現場ではすでに日食を掩蔽と正している。

 ●神話スサノオ伝説の文明概略

 古代四大陸文明を基準とする仮説を究めていくと、文明の一般論は総じて神話スサノオ伝説に集束されて、記紀編纂が何ゆえに後発であるかの理由も定まり、陽光アマテラス祭祀の意義も、そして月光ツキヨミ輔弼の義も明らかになり、畢竟してスサノオ文明が電光(雷光)を放つ理由も解けて、未来が透けてくる。

 気象攻勢による土石流が暴き出した情報量は膨大であり、それは気象操作基地(アラスカ州ガコナ)の隠匿情報まで普く知らしめるに至った。記紀を参照しつつスサノオの伝承を引き継ぐ文明を実証的に検証してみると、通説の大陸文明すなわち大河・車輪・金属を利用する点で共通する歴史に転機が訪れるのは、非時性を同じくしながら場の歴史で大陸文明に優るとも劣らず、完全に異なるマヤ文明を掠奪してからである。

 以後、侵略文明は異質文明に関する情報の隠匿を徹底するため、マヤ文明本拠地・ユカタン半島の破壊を敢行すると同時に移転先を定め、「メシカ」と自称したアステカを再現して擬似文明体制を仕立て上げた。

 いま、カテリーナやグスタフなどと名付けられるハリケーンによって天誅が降されるのは、侵略文明に対する戒めであり、いかなる時代にあっても常に難儀を祓うのは神である。こうした現実を含め、「神とは何ぞや」という問が解けなければ、未来を透徹するなど不可能であり、霊媒衆の筆先に降る位相も単なる幻想で消えるだろう。

 これら実証考古の事物を透かすのが記紀であり、それは不飽和を保つ神世に始まり、飽和状態に陥る人世を救う禊祓の原義を活かし、神武天皇即位を皇紀元年としている。

 而して、以下の年代表記には皇紀暦を主に用いて、便宜的に西暦を括弧内に記すことにする。その理由は共時性に伴う場の歴史を基準にして記述を進めたいからであり、実証考古から導く教本に記紀は必須であり、世界最古の暦に基づかなければ、歴史が千切れてしまうからである。

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   ★ 序章   <完>。






(私論.私見)