吉薗周蔵手記(32)



 更新日/2021(平成31→5.1日より栄和改元/栄和3).2.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2005.4.3日、2009.5.27日再編集 れんだいこ拝


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(32)-1
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(32)
  ― 彷徨える至宝の古陶磁「奉天秘宝」の数奇な運命 


 ★乾隆帝が「敵の上使」から秘匿した宝物「奉天秘宝」
 
 奉天秘宝とは、元々紫禁城にあったが乾隆帝が奉天に移して厳重に隠匿した宝物である。『周蔵手記』によれば、隠匿は乾隆帝が漢族の風習に染まったからである。その説と私(落合)の理解を併せると以下のようになる。まず漢族富豪の習慣として、所蔵の美術品をランクで分け、特級品は深く蔵して絶対に他人に見せない。一級品も普段はしまっておくが、「敵の上使」が来た時には、奥の間でちらりと見せる。二級品はいかにも大事そうに日常から応接間に飾り、三級品ともなると居間あたりに無造作に転がしておく。二、三級は、客に褒められたら惜しげもなく与えるつもりでいる。

 この風習は、漢族特有の行動規範たる「面子―めんつ」に対応したものである。面子は説明の難しい観念だが、中華文明の全盛期に漢人間に形成された貴族的心境(つまり磊落・傲岸の気風)を、あくまで貴こうとする意識で、平たく言えば「ええ恰好しい」を具体的に実践するのである。中華文明の最盛期の、漢人全員が少なくとも気分では貴族になった時期に、社会の上下に漲った気風である。面子はその後の社会変化にも関わらず、漢族特有の気質として固定したが、貴族的実質のない庶民(極端には乞食までも)がこれに浸ると、率直さを欠く空虚な虚栄心に転化した。しかし漢族同士であればお互い様だから、ただの虚栄とは承知の上で相手の立場を受け入れる。これを「面子を立てる」と言い、「この品は、わが家に代々伝わる唐代の○○ですが・・・」と差し出されれば、「これはこれは、そんな貴重品を・・かたじけない」と言って受け取るその品は、実は安物の観光土産である。

 漢人が時として自らの誤りを認めようとしないのも信念ではなく、ただ面子のためと知る漢人同士では、相手を認めるフリをするのが礼儀である。かかる納得づくの嘘の吐き合いは、他民族から見れば掛け合い漫才であるが、革命前いや革命後も中華思想の根底に関わる面子意識は、漢族のあらゆる生活行動の規範であった。例えば「所有品を褒められた場合は、惜しまずに贈れ」という公理には例外がない。物惜しみが貴族の心境として相応しくないからだが、だからと言って、褒められる度に家宝を贈っていては保たないから、「特級品は絶対に隠せ」という定理が確立した。前に述べた「敵の上使」とは、相手国の使節あるいは取引先の重役などを指すが、彼らと応対する際には、相応の一級品を応接室に飾り、相手の褒め言葉を誘発して御土産にする。上使も、土人の面子を立てて受け取ったのなら本国で背任に問われにくいから、巧妙な賄賂である。漢族同士ならばそのことを先刻承知だから滅多に褒めはしないが、面子の免疫がない外国人が、軽い気持ちで褒めたりすると、強引に押しつけられて困惑する。外国人の中にはそれを逆手に取る狡猾漢もいて、高価な美術品を皇帝溥儀から巻き上げたのが『紫禁城の黄昏』の著者・ジョンストンと、桃花紅をねだったキッチナー元帥である。

 上田恭輔の説では、家宝隠匿の風習に染まった乾隆帝は自ら発案して紫禁城の特級品を選び、愛親覚羅氏の故地たる奉天城に移して、厳重に隠匿した。清朝史を覗くと、乾隆四十七年に盛京宮殿の大修理を行っているが、これが状況証拠のようだ。明朝以来、紫禁城に深く蔵されてきた奉天秘宝の全容解明は今更難しいが、その種目が陶磁器・景泰藍・漆器など各種に及んだことは『奉天圖経』の記載から分かる。その中で取りわけ古陶磁を珍重した理由は、ここでは省く。奉天秘宝中の古陶磁は、もともと明帝歴代の蒐集品を土台にしたものだから、明朝官窯品が多いのは当然だが、それ以前の漢代品や唐三彩、それに宋元代の官窯品も結構多い。清朝官窯品も当然あるが、成立の事情を反映して乾隆以後の製品は少ない。殷周の銅器がないのは不審だが、乾隆自身が『欽定西清古鑑』で公開したから、秘宝に繰入れなかったものかと思う。
 
 ★愛親覚羅氏が日本への売却を望み、「接収」を装った?


 大陸では、「城内」といえば「巨大な防護壁に囲まれた市内」の意味で、日本で言う「御城」のことは「宮殿」と呼ぶ。奉天城内の数カ所の秘庫に分散して隠された秘宝は、盛京宮殿の磁器庫の蔵品とは完全に区別され、親代々清朝に仕えてきた陶磁学者の孫游が管理していた。そんな秘宝が存在したこと自体、本稿のほか私(落合)が発表してきた二、三の文章を除いて、今日まで論じられたことがない。むろん革命後の北京政府も気が付かず、大正三年大総統・袁世凱が国務総理・熊希齢に命じて各地の清朝文物を北京に移送させた時にも対象にしなかった。今の中奉人民共和国政府も多分同じ伝で、今日でも秘宝の存在をどこまで知っているのか疑問である。

 そんな秘密をどこで察知したのか、奉天督軍兼省長・張作霖は大正五年十二月から翌年二月にかけて秘庫を襲撃し、その際、満鉄総裁特別秘書・上田恭輔を招き、接収現場に立ち会わせた。上田恭輔は後に「これを機に自分は国事に尽くすことになった」と述べ、吉薗周蔵も「上田氏ハ張作霖タル人物ノ配下トナッテ・・・」と、奉天での観察を記している。張作霖が上田を招いた理由は明かでないが、上田からすれば、それは国事だったのである。

 張作霖の秘宝接収を知った陸軍参謀謀総長・上原勇作は折から張作霖支援の方策に腐心していたので、これを張作霖の軍資金とする事と決めた・・・これは、上田恭輔が周蔵にした説明である。周蔵もそのように理解したが、張作霖が当初に上田を立ち会わせたことや、愛親覚羅の蔵番人だった孫游の、その後の協力的な態度からしても、襲撃・略奪というのは俯に落ちかねる。

 もっと深い事情の存在を忖度していた私(落合)は、近来驚くべきことを仄聞した。そもそも秘宝の存在は、清朝の廃帝溥儀(本人は幼少だから、実際には側近)が、堀川辰吉郎に伝えたものであったという。辰吉郎が秘かに紫禁城に入り、その一角の小院に住んだのは明治四十三年であった。時に三十六歳で、四歳の溥儀の養父的存在となる。辰吉郎の紫禁城入りは、杉山茂丸が苦心のうえで実現したもので、目的は漢族革命の後を睨んだ満洲の保全である。その頃、世襲親王家の粛親王を盟主とする宗社党が蒙古王族と組んで満蒙独立を画策していたが、漢族化した満洲族では満洲を護れないことを知る愛親覚羅氏と辰吉郎が、奉天の兵権を握った張作霖を自立させて、間接的に満洲を保全する策を定めたのは宗社党とは別の話らしい。張作霖に与える軍資金の原資として、愛親覚羅氏は奉天秘宝の売却を決め、相手を日本の富豪から選ぶこととした。愛親覚羅と辰吉郎が相談の上で拳天秘宝の曰本渡来を決めたが、国際社会に対して(あるいは粛親王に対しても)真相を隠すため、秘宝の存在自体を秘した。関係者に対して張作霖の強奪と仮装したのも、真相隠蔽の一環であろう。周蔵に対して表面的な事情を説明した上田が、奥底をどこまで知っていたのかは分からない。

 秘宝をめぐっては、重大な策がもう一つ採用された。やはり漢族富豪の伝統として、特級品に関しては万一のため倣造品を作っておく慣習があると聞くが、それに倣ったらしい。倣造品の役割は日常その所有を誇示するだけでなく、必要に応じて当路の顕官に贈るためで、時には売却換金もした。本物は永久に手放さない前提のその種の倣造品は、既に漢代から出現していたというから驚くが、名工に依頼すれば費用も嵩むから、どの程度実行されたのか分からない。

 ともかく、奉天秘宝のうちの古陶磁の倣造を企画したのは日本側である。張作霖が倣造に関わらなかったのは、名義上にせよ所有者だったからであろう。良く出来た偽物は、本物の信用と価値を失墜させるから、他人の倣造を所有者が歓迎するわけがない。倣造工作が張作霖を無視して実行されたことこそ、奉天秘宝が本来張作霖の所有でないことの証左である。つまり、秘宝強奪は張作霖の権利を明示するための形式であったわけだ。

  続く。
 
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(32)-2
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(32)-2
  ― 彷徨える至宝の古陶磁「奉天秘宝」の数奇な運命


 ★大谷光瑞師の壮大な文化工作倣造人脈はほとんど本願寺系


 奉天秘宝の倣造計画を進めた上田恭輔は、満鉄本社内に一種の権力を有していた。張作霖が奉天秘宝を取得した直後、まだ売却話も固まらない段階で、上田が満鉄中央試験所に窯業科を新設させ、満鉄の予算を用いて倣造を始めたことでもそれは分かる。秘宝戦略の目的がただ金儲けのためであるのなら、倣造なぞ最初から必要なかった。本物の信用と価値を落として所有者の利益を損ねる倣造は、将来の所蔵者を探す作業である換金工作とは確実に矛盾する。秘宝収奪に当たり張作霖の配下となった上田が、買手も決まらぬ段階で倣造を実行したのは、要するに張作霖には真の処分権がなかったからである。つまり倣造は張作霖を超えた真の権利者からの命令であった。秘宝を用いた戦略として、換金よりも倣造を重視した、真の権利者が誰であったかを探るために、秘宝収奪前後の経緯と登場人物を考察してみる。

 日露戦争中、満洲軍総参謀長・児玉源太郎大将の側近として陸軍奏任通訳(佐官級)を務めた上田恭輔は、戦後児玉の依頼でイギリス東インド会社を研究して満鉄の青写真を描いたとされ、大連の満鉄本社に入って総裁特別秘書となった。一方、西本願寺法主の大谷光瑞師は、イエズス会を手本にしたかヴァチカンに倣ったのか、とにかく国事熱心が過ぎたため、大正三年西本願寺の全役職を辞す羽目になるが、以後も大連を本拠として国事に邁進した。光瑞と上田の関係の端緒は未詳だが、大連の邦人社会で両者の親交は必然で、光瑞が上田の著書の序文を書く間柄になった。

 倣造親場の中心小森忍は、真宗大谷派本覚寺の住職藤岡秀夫の子として、明治二十二年に大阪市で生まれた。天王寺中学から大阪高等工業窯業科に進み、四十三年卒業して堺煉瓦に就職したが、間もなく京都市立陶磁器試験場に移る。陶磁器を一見しただけで釉薬☆の科学方程式が浮かんだという異才を謳われた小森の経歴は、西本願寺末光徳寺の住職の子に生まれ、北野中学時代から画才で知られた佐伯祐三と良く似ており、真宗門下の人材を漁った大谷光瑞師の眼に留まって当然である。小森の長兄・了淳が大谷大学の学長になり、その子の藤岡了一が住職を兼ねながら本邦有数の陶磁学者となったのは、佐伯祐三と父祐哲・兄祐正の関係を彷彿する。

 倣造計画の立案者は光谷光端師であったと私(落合)が臆断する根拠は、倣造関係者と古陶磁研究者が全員本願寺系人脈ということの他にも、購入資金の出所がある。紀州家の奉天秘宝購天は大正十三年に纏まるが、『周蔵手記』には「紀州家は銀行から三百万円借りたうち二百五十万円を出したが・・・最終的に張作霖の懐に入ったのは七百五十万円」と記す。その意味を永年掴みかねていたが、近来仄聞したのが次の言葉である。「張作霖の例の焼物ですが・・・あの時には紀州家の金では足りず他からも足したので、一部はそこの所有でもあるのですよ」と聞いて、翻然覚る所があった。「その資金は、少なくとも表向きは光端師の資金では?」と反問したら、無言の肯定と受け取れた。つまり、表面上の買手紀州家が全額を出したわけでなく、残りは光端師が管理する特殊基金から出たというのである。

 これは、光端師が当初から秘宝戦略に絡んでいたから、そうなったものと思う。以下は推測だが、愛親覚羅氏から奉天秘宝の処分を託された堀川辰吉郎は、支援者の京都寺社勢の中心人物たる大谷光端師に相談を持ちかけた。時期は大正五年の秋ころであろう。主旨は奉天秘宝を日本の富豪に買わせることで、光端師はいろいろ考えた上、単なる物品売買でなく国策協力として、買手に倣造を承諾させ、代償として倣造品ないし倣造利益の配当を与えるというような案を立てたのではないか。軍事戦略的には最優先であるべき倣造工作を後回しにして、わざわざ倣造を優先した理由は、大谷光端師の壮大な「文化工作」と観る外はない。そのことは後稿で追求したい。


 ★紀州徳川家の奉天来訪 模造を先行させた理由


 奉天秘宝の買手に指名された紀州家は、大正六年の夏、世子徳川頼貞と財政顧問上田貞次郎が、下見のために満洲に赴いた。『上田貞次郎日記』の七月三十一日条には、赤塚総領事の案内で奉天北陵を訪れたと記すが、北陵の番屋に隠されていた秘宝に関する記述はない。八月七日条には、大連の満鉄窯業試験所を訪れて平野耕輔に会ったと記す。平野の傍らには六月に来たばかりの小森がいた筈であるが、その記述もない。これは当然で、そもそも『上田貞次郎日記』は貞次郎が自らのアリバイ作りが目的で記していたものだからである。ともかく満鉄窯の見学は、紀州家に倣造計画を理解させるためで、平野・小森がお目見えして試作品を見せたのであろう。しかしながら、紀州家は諾否を明らかにせず徒らに決断を引き延ばし続け、結局大正十三年暮れに至って購入を実行した。購入を遅らした理由は色々あるが、資金問題が絡んでいたのは当然である。

 東京高工窯業科長だった平野が、直接面識もなかった大阪高工卒の小森を、評判を聞いて抜擢したという巷説が専らだが信じがたい。二十八歳の若手技手・小森忍は、仲間内はともかく業界での評判が確立していたとは思えない。この真宗寺院の息子を満鉄の窯業科に送り込んだのは、本願寺の計らいと見た方が自然ではないか。それならば上田恭輔が換金工作を後回しにして倣造工作に邁進したのも光瑞師の指令と見るべきであろう。更に、小森の甥の藤岡了一が本覚寺の住職を継ぎながら、わざわざ陶磁学に走った筋道も理解できる。上田・小森の倣造窯は満鉄中央試験所に始まり、その後は小崗子窯業試験場、合山屯窯、瀬戸山茶窯と転々したが、昭和十六年になり、満洲の支配者甘粕正彦の支援と木村貞造の出資で創立した佐那具陶研は、正にその集大成であった。

 佐那具陶研の創設者・木村貞造とは何者か。
 『小森忍の生涯』を著した松下旦が、「大阪の富豪」とだけしか記さないのは、何も理解していない証拠である。東本願寺の近隣「間之町通り廿人講町」に籍を置く木村家は、代々本願寺の財務を務めてきた家筋である。木村が、大谷探検隊の発掘品を表向き全品買い取り東京国立博物館に寄贈したのも、家職を遂行したに過ぎない。だが、第二次大戦冒頭のシンガポール攻略に際して世界最初の銀輪部隊を発案したのは木村貞造であった。現地人の協力を取り付けた後方支援により、要塞陥落を成功に導いた壮挙こそ本願寺特務の面目を遺憾なく示したものである。光瑞師直下の木村貞造が佐那具陶研を創立したことは、上田・小森の倣造工作がもともと光瑞師の指示であったことを明示している。小森の実家の寺は東本願寺系だが、裏の分野では東も西も光瑞師の隷下に在った事は、他にも例がある。

 倣造工作に関与した本願寺系人材は他にもいた。明治十五年に京都に生まれた薬学博士・中尾萬三も光瑞師の配下であった。東京帝大薬学部を出て関東都督府中央試験所(後の満鉄中央試験所)に入るが、漢方薬の権威として釉薬にも詳しく、小森を後援した。伏見に荼室「不可得斎」を作り、自由茶道を興した中尾を後援したのは光瑞師である。

 紀州家の購入話が進まず、任務に悩む 貴志彌次郎を見かねた周蔵が、光瑞師に側面支援を求めに行くと、「君ソンナ事 心配スルコトハナイヨ。僕二任セタマヘ」と言いながら、光瑞師が紹介してくれた美男の茶坊主は、光瑞師が武庫仏教中学で鍛えた凄腕の本願寺特務であった。深川の寺の次男で姓は菊池らしいが、貴志と周蔵は二代目照小森と呼んだ。光瑞師が宮中を舞台にした茶会に徳川頼貞を招き茶を献じさせた処、忽ち気に入られて紀州家に召されたので、頼貞の父頼倫の俳句仲間で君寵を得ていた照小森に因んだ名前である。二代目照小森は、頼貞に購入決断を促した。そこで資金問題となり、紀州家の資金では足りず、結局光瑞師が自ら管理下の基金を充当したのであろう。光瑞師が当初からその基金をアテにしていたのかどうか不明だが、その覚悟があったからこそ、倣造を先行させる秘宝戦略を立てたものと思われる。本願寺系の人材を相次いで倣造工作に投入した光瑞師が、自らも古陶磁研究に没入し、陶磁書も何冊か著すほどに心魂を傾けた。これは所詮倣造工作から生まれた因縁で、いわゆるミイラ取りがミイラになったわけである。  

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(32)   <了>。 

●匠秀夫遺稿刊行によせて  河北倫明
 ●『「佐伯祐三」真贋事件の真実』― p380 に河北倫明に関して次のような記述もある。(*再録)

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 4 河北は知っていた

 匠秀夫の「未完 佐伯祐三の『巴里日記』」に河北倫明の序文がある。その末尾を掲げる。

 「・・すでに門地を壊してしまったほどの周蔵には、片々たる名利などまったく眼中になかった。どこまでも社会の黒子に徹して自己流の人生を行った吉薗周蔵が、城山で自尽した郷里の大偉人西郷隆盛の熱烈な崇拝者であったことを、私は特に意味深いものと受け取っている。匠さんのこの本が、この異風の人物にも一定の照明をあてる機会を作って下さったことを、喜ばずにはいられない・・」

 吉薗明子は河北と知り合って以来、次のような話を何度も聞かされたが、ついにその意味が分からなかった。「まあ、焼物なんかは、ぼくは芸術と認めていないから、あれでも良かったんだが・・・絵画は芸術だからねえ・・・とにかく佐伯なんかどうでもいい。ぼくは佐伯なんて大嫌いだよ。・・・それより周蔵だ、吉薗周蔵のことが分かれば、すべてはっきりするんだ。とにかく周蔵を調べろ」

 明子はそれを、河北が「嫌いな佐伯だが、無理に応援してやっているんだ」という恩着せと理解し、そのたびに何かと御機嫌をとった。それにしても、河北がいつも焼物のことだけを持ち出すのが、不可解だった。

 実は、河北は最初から吉薗周蔵について知っていた。

 それは佐藤雅彦を通じたものだった。佐藤雅彦は父の進三が京都の出身で、自身も京都住まいが長かった。河北が京都国立博物館長を勤めていた永い間を通じ官舎には入らず、高級和風旅館の柊屋を常宿にしていた。佐藤は美術館行政のボス河北の知遇を得、京都でさらに昵懇の間柄となり、その政治力を活用しながら、茶道関係とも深い関係を持ち、真倣ともどもに陶磁を動かしていた。その中には奉天古陶磁(ホンモノ)も、かなり多かったのではないか。

 古美術の談義は、来歴から始まる。佐藤は紀州古陶磁を河北に説明するに際し、関係者として吉薗周蔵の実名をあげ、小森忍から聞いた話を詳しく伝えた。河北が吉薗明子が周蔵の遺児と知ったとき、何とも不思議な態度を見せた鍵は、ここにあった。 ・・・以下略・・・

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 この「・・・実は、・・最初から吉薗周蔵について知っていた・・」河北倫明の「序文」を以下に紹介しておこう。

 ●匠秀夫遺稿刊行によせて  河北倫明 (『未完 佐伯祐三の「巴里日記」』より)

 このたび刊行される『未完 佐伯祐三の「巴里曰記」』は、編集者の言によれば、末期ガンと戦いながら「はいつくばり、とりつかれたように筆を走らせていた」という匠秀夫さんの痛ましいとも思われる遺稿である。匠さんは、私どものもっとも信頼する近代曰本美術の研究家であり、また初代の茨城県近代美術館長として活動された美術界の重要人物でもあった。匠さんが亡くなったのは、平成六年九月十四曰午後0時10分、東京お茶の水の順天堂病院においてである。

 その少し前の七月の頃であったか、いま執筆中の本が出るときには、ぜひ一筆序文を書いて欲しいという匠さんからの伝言を私は受けた。匠さんの仕事なら喜んで書きましょうというのがその時の私の答えであった。それには一つの理由がある。私事にわたるから引用するのが少し面映ゆいが、匠さんの力作の一つ『三岸好太郎』のあとがきの中に次のような一節がある。

 「戦後、ある時、河北倫明氏の『青木繁-生涯と芸術』を読んで、著者が天才青木の人と芸術を精査、論考しているのに感嘆するとともに―こうした性格の著書は未だに日本の近代洋画史の領域で多いとはいえない―河北氏が未見の中学先輩-青木の実像を日本の近代美術史の中に定着させようとした努カヘの感動が、その時以来私の心に深く刻みこまれたものと思われる。」

 これと同じような内容の私信を、戦後のある時、じかに北海道の匠さんから受けとった記憶もあるが、以来、次々と拝見する匠さんの優れた仕事について私は常に共感を持って接してきたことを忘れない。その匠さんは、一九九三年七月食道ガンを手術、一時小康を得て退院したものの、九四年五月には再人院し、それ以後の執筆中に先の伝言を受けたのである。もうあとがないという依頼だなというある予感が私の胸中を走ったことは事実である。

 論語の中に、次のような言葉があることをかねがね私は頭にとどめていた。すなわち「鳥の将に死なんとするときは、其の鳴くや哀し、人の将に死なんとするときは、其の言うや善し」。

 死を前にした鳥の鳴き声はかなしいし、また死に臨んだ人間のことばは真実なものだといったような意味であろうが、私はこの言葉の中に生命あるものが本来そなえた厳粛な真実が含まれることを感じないわけにはいかない。そして、匠さんの依頼の言葉も、さらにまた瀕死のからだで書きつづけたこの未完の遺稿そのものも、まさにこの「人之将死、其言也善」の気配と内容のこもったものとして、厳粛に受けとめずにはいられなかったのである。

 この遺稿本文の内容については、じかに読者諸賢が汲みとられるところであろうから、余計な口をさしはさむ必要はないが、匠さんが念頭においていたのは、佐伯祐三という短命な画家の生涯が初めから終りまで数多くの謎につつまれているその謎解きのための、研究者としての真摯な挑戦であったと見るべきである。未完とはいえ、この『佐伯祐三の「巴里日記」および吉薗周蔵宛書簡』をまとめた遺稿は、その解決のためへの手がかりを示唆するものとして大へん貴重といわなければならない。そして、その点こそが匠さんが最後の情熱を振りしぼって立ち向かった理由だったろうし、またこの書の無類の魅力と価値も同じようにこの点に関わって
くるであろう。

 私の簡単な序文らしいものは以上で終ってしまうことになるが、ひとことだけ感想をつけ加えておきたい。それは佐伯祐三から<ヤブ>と親しまれ、<イシ>と頼られた相手である吉薗周蔵その人のことである。ことに『巴里日記』の最後には、切ない独白のことばで、

 やるだけはやった
 その事 医師ハ分ってくれるやろ
 有りがとうございました

 という深沈とした印象的な語句が記されている。その当の相手であった吉薗周蔵という人物について、私どもは近頃まであまりに知らなすぎた。たまたま先年、吉薗明子氏の「自由と画布」の冊子が出るに及んで、実は周蔵その人の肖像画に私どもはすでに公開の場で接していたことに驚いたのである。

 一九六八年十月、東京セントラル美術館でひらかれた「佐伯祐三展」に、中折帽子をかぶった異風の肖像画があったことはかすかに覚えていたが、そのとき「エトランジェ」と題されていたあの像こそが、当の吉薗周蔵の姿だったのである。「自由と画布」によれば、そのときの周蔵のパリ滞在は一九二八年の二、三月というから、祐三のモラン旅行の前後のことになるのであろう。私なども、セントラルの展覧会に多少の協力をしていながら、「エトランジェ」という題名にも、一九二六年ころという年代推定にもあまり不審を抱かなかったことについて、いま不明を詫びるほか仕方がない。

 しかし、別方(ママ)からみれば、これはある時期までは、佐伯に関する遺作遺品の公表を避けること、そしてある時期が来たら、それを世に公表して欲しいとの遺言を残して死んだ吉薗周蔵自身の意志がそのまま守られていた結果というべきである。その意味では、匠さんが感じていた多くの謎を含む佐伯芸術の研究は、その時点ではまだ機が熟していなかったとするのが正しいであろう。

 最後に、率直な私見を許していただくならば、私は吉薗周蔵という人物こそ、佐伯芸術をこの世に存立させるための基盤を作った近代特異の精神科医の草分けであったといえるように思っている。いうならば、祐三は周蔵のある意味での作物でもあるかのような趣きさえ付きまとっている。それまでの古い日本が社会的に無視してきた精神医学の先駆者として、周蔵は在地豪族の家産や資力をみごとに蕩尽しながら、佐伯祐三というユニークな芸術的個性の社会における存立を企図してやまなかった。すでに門地を壊してしまったほどの周蔵には、片々たる名利などまったく眼中になかった。どこまでも社会の黒子に徹して自己流の人生を行った吉薗周蔵が、城山で自尽した郷里の大偉人・西郷隆盛の熱烈な崇拝者であったことを、私は特に意味深いものと受けとっている。匠さんのこの本が、この異風の人物に一定の照明をあてる機会を作って下さったことを喜ばずにはいられない。
                                (美術評論家・文化功労者)

 *************** 

 〔註〕 1995年3月頃の執筆である。


 因みに、この「巴里日記」の来歴は以下の通り。

 吉薗周蔵は昭和39年に死亡したが、そのことを知らない米子は折から沸騰する〔佐伯ブーム〕の中ブームの仕掛け人たる画商から佐伯作品の供給を強く求められた。

 その当時(昭和40・41年)の<米子→周蔵>書簡で「残っている絵をいただきたいのです・・」と書いた。

 米子は返信で周蔵の死を知り、次に「周蔵の形見として、佐伯祐三がパリで描いた<周蔵の肖像画>と、佐伯が周蔵宛てにつけていた『黒い革表紙の日記』をもらいたい」と懇願する。

 この『黒い革表紙の日記』が匠著により紹介された↑の『巴里日記』である。

 また、この<周蔵の肖像画>=『エトランジェ』 で、これは匠著のP296に「複写」として載っているとおり、1968年の東京セントラル美術館で開催された「佐伯祐三展」に出品された。

               
 






(私論.私見)