●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(32)-1 |
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(32) ― 彷徨える至宝の古陶磁「奉天秘宝」の数奇な運命
★乾隆帝が「敵の上使」から秘匿した宝物「奉天秘宝」
奉天秘宝とは、元々紫禁城にあったが乾隆帝が奉天に移して厳重に隠匿した宝物である。『周蔵手記』によれば、隠匿は乾隆帝が漢族の風習に染まったからである。その説と私(落合)の理解を併せると以下のようになる。まず漢族富豪の習慣として、所蔵の美術品をランクで分け、特級品は深く蔵して絶対に他人に見せない。一級品も普段はしまっておくが、「敵の上使」が来た時には、奥の間でちらりと見せる。二級品はいかにも大事そうに日常から応接間に飾り、三級品ともなると居間あたりに無造作に転がしておく。二、三級は、客に褒められたら惜しげもなく与えるつもりでいる。
この風習は、漢族特有の行動規範たる「面子―めんつ」に対応したものである。面子は説明の難しい観念だが、中華文明の全盛期に漢人間に形成された貴族的心境(つまり磊落・傲岸の気風)を、あくまで貴こうとする意識で、平たく言えば「ええ恰好しい」を具体的に実践するのである。中華文明の最盛期の、漢人全員が少なくとも気分では貴族になった時期に、社会の上下に漲った気風である。面子はその後の社会変化にも関わらず、漢族特有の気質として固定したが、貴族的実質のない庶民(極端には乞食までも)がこれに浸ると、率直さを欠く空虚な虚栄心に転化した。しかし漢族同士であればお互い様だから、ただの虚栄とは承知の上で相手の立場を受け入れる。これを「面子を立てる」と言い、「この品は、わが家に代々伝わる唐代の○○ですが・・・」と差し出されれば、「これはこれは、そんな貴重品を・・かたじけない」と言って受け取るその品は、実は安物の観光土産である。
漢人が時として自らの誤りを認めようとしないのも信念ではなく、ただ面子のためと知る漢人同士では、相手を認めるフリをするのが礼儀である。かかる納得づくの嘘の吐き合いは、他民族から見れば掛け合い漫才であるが、革命前いや革命後も中華思想の根底に関わる面子意識は、漢族のあらゆる生活行動の規範であった。例えば「所有品を褒められた場合は、惜しまずに贈れ」という公理には例外がない。物惜しみが貴族の心境として相応しくないからだが、だからと言って、褒められる度に家宝を贈っていては保たないから、「特級品は絶対に隠せ」という定理が確立した。前に述べた「敵の上使」とは、相手国の使節あるいは取引先の重役などを指すが、彼らと応対する際には、相応の一級品を応接室に飾り、相手の褒め言葉を誘発して御土産にする。上使も、土人の面子を立てて受け取ったのなら本国で背任に問われにくいから、巧妙な賄賂である。漢族同士ならばそのことを先刻承知だから滅多に褒めはしないが、面子の免疫がない外国人が、軽い気持ちで褒めたりすると、強引に押しつけられて困惑する。外国人の中にはそれを逆手に取る狡猾漢もいて、高価な美術品を皇帝溥儀から巻き上げたのが『紫禁城の黄昏』の著者・ジョンストンと、桃花紅をねだったキッチナー元帥である。
上田恭輔の説では、家宝隠匿の風習に染まった乾隆帝は自ら発案して紫禁城の特級品を選び、愛親覚羅氏の故地たる奉天城に移して、厳重に隠匿した。清朝史を覗くと、乾隆四十七年に盛京宮殿の大修理を行っているが、これが状況証拠のようだ。明朝以来、紫禁城に深く蔵されてきた奉天秘宝の全容解明は今更難しいが、その種目が陶磁器・景泰藍・漆器など各種に及んだことは『奉天圖経』の記載から分かる。その中で取りわけ古陶磁を珍重した理由は、ここでは省く。奉天秘宝中の古陶磁は、もともと明帝歴代の蒐集品を土台にしたものだから、明朝官窯品が多いのは当然だが、それ以前の漢代品や唐三彩、それに宋元代の官窯品も結構多い。清朝官窯品も当然あるが、成立の事情を反映して乾隆以後の製品は少ない。殷周の銅器がないのは不審だが、乾隆自身が『欽定西清古鑑』で公開したから、秘宝に繰入れなかったものかと思う。
★愛親覚羅氏が日本への売却を望み、「接収」を装った?
大陸では、「城内」といえば「巨大な防護壁に囲まれた市内」の意味で、日本で言う「御城」のことは「宮殿」と呼ぶ。奉天城内の数カ所の秘庫に分散して隠された秘宝は、盛京宮殿の磁器庫の蔵品とは完全に区別され、親代々清朝に仕えてきた陶磁学者の孫游が管理していた。そんな秘宝が存在したこと自体、本稿のほか私(落合)が発表してきた二、三の文章を除いて、今日まで論じられたことがない。むろん革命後の北京政府も気が付かず、大正三年大総統・袁世凱が国務総理・熊希齢に命じて各地の清朝文物を北京に移送させた時にも対象にしなかった。今の中奉人民共和国政府も多分同じ伝で、今日でも秘宝の存在をどこまで知っているのか疑問である。
そんな秘密をどこで察知したのか、奉天督軍兼省長・張作霖は大正五年十二月から翌年二月にかけて秘庫を襲撃し、その際、満鉄総裁特別秘書・上田恭輔を招き、接収現場に立ち会わせた。上田恭輔は後に「これを機に自分は国事に尽くすことになった」と述べ、吉薗周蔵も「上田氏ハ張作霖タル人物ノ配下トナッテ・・・」と、奉天での観察を記している。張作霖が上田を招いた理由は明かでないが、上田からすれば、それは国事だったのである。
張作霖の秘宝接収を知った陸軍参謀謀総長・上原勇作は折から張作霖支援の方策に腐心していたので、これを張作霖の軍資金とする事と決めた・・・これは、上田恭輔が周蔵にした説明である。周蔵もそのように理解したが、張作霖が当初に上田を立ち会わせたことや、愛親覚羅の蔵番人だった孫游の、その後の協力的な態度からしても、襲撃・略奪というのは俯に落ちかねる。
もっと深い事情の存在を忖度していた私(落合)は、近来驚くべきことを仄聞した。そもそも秘宝の存在は、清朝の廃帝溥儀(本人は幼少だから、実際には側近)が、堀川辰吉郎に伝えたものであったという。辰吉郎が秘かに紫禁城に入り、その一角の小院に住んだのは明治四十三年であった。時に三十六歳で、四歳の溥儀の養父的存在となる。辰吉郎の紫禁城入りは、杉山茂丸が苦心のうえで実現したもので、目的は漢族革命の後を睨んだ満洲の保全である。その頃、世襲親王家の粛親王を盟主とする宗社党が蒙古王族と組んで満蒙独立を画策していたが、漢族化した満洲族では満洲を護れないことを知る愛親覚羅氏と辰吉郎が、奉天の兵権を握った張作霖を自立させて、間接的に満洲を保全する策を定めたのは宗社党とは別の話らしい。張作霖に与える軍資金の原資として、愛親覚羅氏は奉天秘宝の売却を決め、相手を日本の富豪から選ぶこととした。愛親覚羅と辰吉郎が相談の上で拳天秘宝の曰本渡来を決めたが、国際社会に対して(あるいは粛親王に対しても)真相を隠すため、秘宝の存在自体を秘した。関係者に対して張作霖の強奪と仮装したのも、真相隠蔽の一環であろう。周蔵に対して表面的な事情を説明した上田が、奥底をどこまで知っていたのかは分からない。
秘宝をめぐっては、重大な策がもう一つ採用された。やはり漢族富豪の伝統として、特級品に関しては万一のため倣造品を作っておく慣習があると聞くが、それに倣ったらしい。倣造品の役割は日常その所有を誇示するだけでなく、必要に応じて当路の顕官に贈るためで、時には売却換金もした。本物は永久に手放さない前提のその種の倣造品は、既に漢代から出現していたというから驚くが、名工に依頼すれば費用も嵩むから、どの程度実行されたのか分からない。
ともかく、奉天秘宝のうちの古陶磁の倣造を企画したのは日本側である。張作霖が倣造に関わらなかったのは、名義上にせよ所有者だったからであろう。良く出来た偽物は、本物の信用と価値を失墜させるから、他人の倣造を所有者が歓迎するわけがない。倣造工作が張作霖を無視して実行されたことこそ、奉天秘宝が本来張作霖の所有でないことの証左である。つまり、秘宝強奪は張作霖の権利を明示するための形式であったわけだ。
続く。 |
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