|
|
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(31)ー2 |
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(31)
★蒙古挙兵「タイシャボー事件」の背景を探る
北京では、参謀本部が派遣した松井清助大尉と木村直人大尉が、蒙古独立工作を画策していた。粛親王の義弟・カラチン王やパリン王、ヒント王などの蒙古王族を主体にして蒙古軍を結成し、曰本から運んだ武器で蜂起させ、各王の領地を革命政府から独立させ新政権を立てる計画である。曰本で武器を調達する役目を貴志と多賀が担い、松井が武器の秘密輸送計画を練ったが、曰本人馬賊・薄天鬼(益三)もこれに加わった。四十五年五月二十五曰に武器輸送を開始し、支那荷馬車四十七台からなる輸送隊が、松井大尉の指揮下で薄天鬼に護衛されて公主嶺を出る。多賀少佐も追って公主嶺を出発、途中奉天に立ち寄り、高山大佐と貴志中佐に会って画策した。
しかしながら、松井らの軍事行動は早くも民国官憲の注意を引き、東三省総督・趙爾巽の知るところとなった。趙総督から武力阻止の命令を受けた鄭家屯の歩兵統領・呉俊陞と蒙古独立軍はタイシャポーで衝突、激戦となるが、奮闘空しく松井たちは民国官兵に捕縛される。都築前掲は「貴志と高山が時計その他貴重な持ち物を売り払って阿片を仕入れ、この阿片を賄賂にして、ようやく薄天鬼たち捕虜を救出することができた」という。銃殺寸前、九死に一生を得た松井らは六月二十六日に生還し、その後も独立工作を続けたが、九月二十八日になり、参謀本部次長・福島安正中将から突然中止の命令が下り、奉天特務機関長・高山大佐は同日付で守田大佐に更迭された。
右が第一次満蒙独立運勤(タイシャポー事件)のあらましであるが、陸軍中央が突然中止命令を出した背景について、巷間に二説ある。その一は、英国が漢・満・蒙の一体国家を望んでいたから、満蒙独立を妨げるべく日本陸軍を誘導したとするものである。その二は、陸軍中央が孫文の革命政府を支持していたから、との理由を挙げる。辛亥革命の根底が在英ワンワールドの戦略ならば、両説は一致する。蓋し、辛亥革命の目的はプロパーチャイナ(中華本土)における漢族主体の独立国家樹立にあるから、北洋軍閥と南方革命党の融和は、東亜の安定を望む海洋勢力にとっても望ましい。しかしながら、元来中華本土に含まれない満蒙の地の独立は、漢族の自立にはむしろ資するものと思うが、如何であろうか。
★確執深める張作霖と袁世凱 「宗社党事件」に至る顛末
革命後、旧清国領土は中華民国の表看板をよそに、事実上の群雄割拠に至ったが、大別すれば概ね三つの勢力があった。華北が北洋軍閥による北京政府、華南が孫文革命党による広東政府、満洲が緑林上がりの張作霖による奉天政権で、あたかも三国志の如く鼎立したが、中でも優位に立つ北洋軍閥の頭領・袁世凱は、人民共和の政体は国情にそぐわぬとして帝政の復活を図り、自ら皇位に就こうとした。一方、奉天の軍権を握る第二十七師長・張作霖中将は、張錫鑾に代わって奉天将軍となり名実ともに奉天軍のトップとなろうとして、大総統・袁世凱に工作したが、張作霖と宗社党の関係を疑う袁世凱は、腹心の段芝貴を奉天将軍に就けた。これを見た張作霖は、当分隠忍自重の腹を固め、袁世凱に迎合してその洪憲皇帝就任に賛成したが、袁世凱は内外の反対に抗しきれず、五年三月に至り帝位を諦めざるを得なくなる。すると張作霖は態度を一変し、宗社党に接近したので、危険を感じた段芝貴は四月十九日、奉天を張作霖に明け渡して北京へ逃げ帰った。張作霖は盛武将軍に就き、多年の願望を達成したが、同時に日本の援助を得て自ら奉天王国を樹立する事を考え始め、宗社党に対する態度を曖昧にした。これに対し、宗社党とそれに与する大陸浪人たちは憤激し、五月二十七日、旅順から来る関東都督・中村覚大将を奉天駅に出迎えるために急ぐ張作霖の馬車を狙って爆弾を投げたが、張作霖の旭日昇天の勢いはそれをものともしなかった。因みに、この工作に参加していた伊達順之助は、大正十四年の郭松齢の反乱に際し、張作霖を助けることになる。
袁世凱が自ら帝位を望んだ事は、満蒙の地に潜んでいた宗社党を刺激し、討袁扶清運動を激化せしめる。なかでも蒙古近代の人傑パプチヤップ将軍は、宗社党の首領・升允と結んで粛親王第五王子の憲奎を奉じ、川島浪速を統帥とする軍事行動により、袁世凱の北洋軍閥を排除して満蒙を一体として独立国を樹立せんとした。すなわちタイシャポー事件の五年後、大正五年春に起きた第二次満蒙独立運動(宗社党事件)である。
しかるに挙兵に先立つ六月六日に袁世凱が急死したため、大隈内閣は従来の姿勢を一変して中止を命じたので、満蒙独立の壮図は空しく潰え、パプチャップも無念の戦死を遂げた。当時、日本の対満政策は旅順派と奉天派に分かれていた。関東都督府に拠った旅順派は、宗社党と組んで満蒙の地に新たな清国を建てようとし、外務省と一部軍人の奉天派は、張作霖を支援して満洲に独立政権を樹立させようとしていた。四年十二月に陸軍参謀総長に就いた上原勇作大将は、満蒙政策に関しては奉天派に属していたのである。
★接収された「奉天秘宝」背後に潜む大谷光瑞師
大正五年、奉天の軍権は悉く盛武将軍・張作霖に帰した。中華民国大総統袁世凱の命令も、関内からの風に乗って東三省には届くが、実効はない。その袁世凱も六月六日に急逝したので、誰を憚ることのない事実上の泰天王となった張作霖は、大正五年暮れから六年二月にかけて、七度にわたり、泰天城内の秘庫から泰天秘宝を接収する。その際、わざわざ満鉄総裁の特別秘書・上田恭輔を招いて現場に立ち会わせたのはいかにも不審な行動だが、これには理由があり、後に述べる。
周蔵が作成した『奉天圖経』によれば、秘宝の一部は「張作霖ノ軍部」すなわち奉天城内の張氏帥府に移され、残りは清朝二代皇帝の皇太極の廟所たる北陵に移され、その中にある「番小屋」に隠されたのである。早くもその翌月、すなわち大正五年三月には、東京高等工業学校窯業科長の平野耕輔が大連に呼ばれて満鉄の窯業科長となる。さらに、平野の推薦により小森忍が京都市立陶磁器試験場技手を六月二日に辞任し、翌日付で満鉄に入社して窯業科研究主任となった。すべて奉天秘宝を【倣造】するためである。この手回しの速さを見ると、上田恭輔の力だけでは到底無理である。つまり、その背後に、西本願寺法主の大谷光瑞師がいた、と観る以外にないのである
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(31) <了>。 |
|
|
|
★ブロガー註
参照: 左のカテゴリーから【佐伯祐三真贋事件】をクリックしていただき、
『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』の第二部末章、 第二部 第二章 貴志彌次郎と周蔵 々 第三章 奉天古陶磁の倣造
の二章を是非御一読ください。 |
|
|
|
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(31)ー1 |
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(31)ー1 二次にわたる満蒙独立運動に携わった群雄たち ◆落合莞爾
★満洲国構想の魁を成す「宗社党」結成さる
北清事変(明治三十三年)から辛亥革命(同四十四年)にかけて、清朝皇室内の有力者は立憲君主制を主張していた粛親王であった。北清事変の臨時派遣隊司令官だった福島安正少将が、同郷の陸軍通訳・川島浪速の器量を見込んで粛親王に紹介したところ、たちまち招聘された川島は粛親王と義兄弟の盟を結び、北京警務学堂を創設し、学長に相当する総教習に就いた。その地位は五年後の三十九年八月に町野武馬大尉が引き継ぐ。
粛親王は辛亥革命に際して宣統帝(愛親覚羅溥儀、遜帝とも呼ばれる)の退位に反対したが、退位はもはや避けられない情勢で、溥儀が退位して中華本部(プロパーチャイナ)を漢族支配に戻した場合、愛親覚羅氏は女真族の故地満洲に還るのが自然である。ところが満洲の地には清朝多年の無為から政治的・軍事的空白が生じ、主として漢族から成る流民・馬賊・革命党が入り混じる混沌の地と化して、清帝の権威も通じる術もなく、狩猟・遊牧を事として農業に馴染まぬ女真族・蒙古族は、土地を占領した漢族農民に対し、経済的に屈伏する他なかった。清朝遺臣が最も危惧したのは、漢族主体の革命政権が満漢癒合の旧清国領土を引き続き領有することであった。そこで粛親王と川島が建てたのは旧清領から満洲を切り離して日本の保護国とすることで、後の満洲国構想の魁を成すものである。因みに、旧清国領土の外蒙古・ハルハ地方では、革命直後土侯たちが最高活仏・ホトクト八世を君主ボグト・ハーンとして推戴して大蒙古国を樹立し、ロシアの後援を得て北京政府の支配から脱していた。
宗社党とは蒙古旗人・升允ら清朝遺臣が川島と謀って結成した結社で、世襲八親王家の筆頭・粛親王を盟主とし、遜帝溥儀の復辟を目指したものである。革命直後、四十四年の暮から翌年に掛けて、宗社党の鉄良らが川島浪速ら大陸浪人と手を組み満蒙独立を企てると、これを察知した参謀本部は四十四年十二月に多賀宗之少佐を、四十五年二月には高山公通大佐を北京に派遣した。高山大佐が川島から清朝皇族の動向を聴取して満蒙独立運動の主旨を了解したので、参謀本部はその支援のため、四十五年一月十九日付で高山大佐を奉天特務機関長に補し、二月十四日付で守田利遠大佐を参謀本部附として派遣した。宣統帝の熱河蒙塵の噂を聞いた高山大佐は、途中で溥儀の身柄を奪い満蒙独立の要とする計画を立てたが、簡単に成功すべくもないので、まず粛親王を日本租借地の旅順に落とし、東三省総督趙爾巽を語らって、満洲で挙兵せんと図る。高山大佐により、粛親王は商人を装い無事旅順に亡命したが、高山は独断専行を咎められて内地に召喚され、後事を多賀少佐に託した。
満蒙独立運動に対する政体(東京政府)の態度は、国際世論に怯えたため冷淡に終始し、外務省の出先機関でも、奉天総領事・落合謙太郎のごときは川島を警戒し、監視を強めていた。陸軍でも福島安正中将麾下の関東都督府は宗社党に非協力的で、ただ韓国駐箚憲兵隊司令官の明石元二郎・中将だけが武器援助を申し出ていた。この苦境の中で、川島らが頼みとしたのは、折から清朝皇族の動向を偵察するため、参謀本部が奉天に派遣した貴志彌次郎中佐であった。
★上原勇作の〔隠れ腹心〕にして張作霖の親友・貴志彌次郎
張作霖爆殺の直後、その鎮魂のために『張作霖』を著した白雲荘主人が、張作霖の家族ぐるみの親友と明言する貴志彌次郎のことは、張作霖を語るのに欠かせない。吉薗周蔵も貴志に親炙して、生涯尊敬したが、今ではその存在すらも忘れられているので、以下にはやや詳しく紹介しておきたい。
明治六年六月、紀州海部郡梅原村で紀州藩根来者の家に生まれた貴志の、幼年学校以前の学歴は、防衛省にも記録がない。陸軍士官学校の新制第六期を卒業して二十八年に歩兵少尉、三十年中尉、三十九年に大尉と累進した貴志は、この間三十四年十月に陸大十八期に入校したが、日露戦争のため三十七年二月に中退、三月の動員で出征する。川村景明中将の率いる独立第十師団隷下の大阪第二十連隊の中隊長となった貴志は、独立第十師団が第五師団と併せて野津第四軍となると、第四軍参謀長・上原勇作少将の知遇を得て、以後はその隠れた腹心となる。
三十七年八月の遼陽会戦に際し、偵察を命じられた貴志大尉が、高梁(コーリャン)畑を案内する協力者を探していた時、偶然遭った于冲漢は、元東京外国語学校講師で大本営附の謀者となっていたが、戦後に勲六等に叙せられ、後年には満洲国建国に加わり、満洲国参議になった大物である。
凱旋後、貴志が狩野派の画師に描かせた絵は、ロシア兵が馬上捜索に当たる中、草葉の陰で息を殺す貴志大尉を描いた秀作で、生家の貴志庄造邸に今も掲げられている。この激戦で重傷を負い、子供の出来ない身体となった貴志は、親友で二年先輩の満洲軍参謀・岡田重久少佐の弟の重光を、婿養子に迎える。戦傷を癒した貴志は、満洲軍参謀・田中義一中佐が乃木第三軍の参謀を入れ換えた時、第三軍に移されて乃木稀典大将に親炙した。防衛省の記録には「三十七年三月、第三軍附」とあるらしいが、何かの誤りであろう。晩年の貴志は、親友張作霖の爆殺を憤る余り、上原勇作の名を口にせず、乃木大将の回顧に明け暮れたという。
満洲軍参謀・田中義一中佐に見込まれた貴志は、三十八年十二月に参謀本部員となった田中義一に抜擢されて参謀本部員になったようであるが、防衛省の記録には、その記載がないらしい。ともかく、三十九年三月に陸大に復校した貴志は、十一月に卒業して陸軍省軍務局出仕となる。参謀本部員田中義一中佐は四十年五月、陸軍近代化のために自ら望んで麻布の歩兵第三連隊長に就き、十一月には貴志を招いて第三連隊附とし、軍隊内務書の改定を命じた。田中はこの時大佐に進級し、貴志もようやく少佐になる。陸士六期では、早い者は三十八年少佐に進級した。例えば、大分出身で同期ただ一人の大将となった南次郎は三月に、また熊本出身で陸大十四期恩賜の津野田是重は五月に、少将で退役した東京出身の佐藤安之助も七月に、それぞれ少佐に進級している。因みに『曰本陸海軍の制度・組織・人事』には津野田に関し、「先妻は陸軍中将・高島鞆之助の女」とあるが、『旧華族家系大成』の高島家の項には該当する女性が見当たらないから、庶腹であろう。秀才肌で胆力も備えた津野田は、いかにも高島の女婿らしく、三十六年フランスに駐在、曰露戦役時には第三軍参謀として乃木軍で勇名を馳せた。大正八年四月に、第二選抜で少将進級したが、直ぐに予備役編入したのは、参謀総長・上原勇作と衝突した結果という。高島の娘だった先妻と別れた(死別?)ことも影響して、いつの頃にか、高島-上原派から離脱していたのであろうか。
四十二年、東三省総督・徐世昌から奉天講武学堂教官の派遣要請を受けた陸軍省軍事課長・田中義一大佐は、貴志彌次郎少佐の派遣を決める。『宇都宮太郎日記』二月五曰条には、「歩兵少佐・貴志彌次郎本部に来訪す。貴志は田中義一の頼により奉天の講武学堂に推薦せしなり」とあり、田中が参謀本部第一部長・宇都宮少将に依頼して、貴志の推薦を取り付けたことが分かる。このような履歴から、巷間で田中の腹心と観られている貴志は、実は前述のごとく上原勇作の「隠れ腹心」であった。陸軍特務・石光真清と同様、上原との関係を極力隠したのは、策士・上原の指示によるものである。
★奉天挙兵失敗が機縁に 町野武馬の張作霖工作
川島浪速から北京警務学堂総教習の席を引き継いだ町野武馬大尉は、反革命の立場から、秘かに北京を脱出して、奉天巡防頭領・張作霖を訪ね、満洲の独立を持ちかけた。張作霖は革命に反対、溥儀の退位にも反対であったから、町野は一か月もの間奉天城内の張作霖邸に滞在し、溥儀を担いだ満洲独立の作戦を練った。ところが、一夜休養のために城外の満鉄付属地に出掛けた町野は、瀋陽館で偶然川島浪速らに出くわす。二人は種々協議したが、粛親王を担いで清朝復辟を目指す川島ら宗社党と、張作霖と組んで満洲独立を図る自分とは、方向が異なることを確認し、町野は川島と別れて北京へ戻った。
四十二年三月から四十四年三月まで、貴志が東三省講武学堂教官として近代的軍事教育を施した生徒の中に、張作霖の馬賊時代からの腹心で、後に満洲国国務総理になる張景恵がいた。当時、張作霖は洮南府にいたから、貴志は会っていない筈だが、互いの存在を意識していたのは当然で、あるいは面識があった可能性さえある。貴志の教え子には北大営の連隊長など奉天軍の幹部がいたが、その一人の第三連隊長に貴志は、「ここで独立・反革命の烽火を挙げれば、必ず張作霖が城内から呼応して合流し、東三省の独立を宣言する手筈が出来ている」と説いたという(都築七郎『伊達順之助』)から、張作霖との間に何らかの協定が出来ていたようである。おそらく前述の町野の工作によるものであろう。
ともかく、貴志中佐の調略によって、北営の二個大隊が決起し、旧暦五月五曰を期して奉天城に向かったが、思わぬ事情で頓挫する。奉天城を目指して進軍する北営兵が、富豪宅の並ぶ北門街に近づくや、支那兵の伝統を発揮して略奪暴行に走ったからである。城内からこれを見た張作霖は、泰天巡防統領の本分として、直ちに略奪兵に対する銃撃を命じたので、決起部隊は多数の死傷者を出して四散し、奉天挙兵は惨めな失敗に終わった。町野の意図と、貴志の思惑はこうして齟齬したが、奉天督軍張作霖顧問として大正三年に奉天に派遣された町野が、同九年奉天特務機関長となった貴志少将と手を携えて張作霖工作に勤しむ機縁は、実にこの時に生じたわけである。
続く。 |
|
|
|