●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(30) |
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(30)-1 -ワンワールド代理人・杉山茂丸、風雲急の満洲で暗躍
★新薩摩三傑に代わり登場 杉山茂丸の秘められた事跡
日清戦争の直後、台湾で姿を消した近衛上等兵・出口清吉は、明治三十三年になり義和団事件(「北清事変」)の功労者として、軍事探偵・王文泰の名で『京都日出新聞』の従軍記者の眼前に現れた。満洲で緑林に入って活動した清吉が、馬賊の頭目同士として交わったのが張作霖である。明治五年生まれの王文泰(清吉)と三歳年下の張作霖の関係は、当初は対等だったが、日露戦争の後には王文泰が張作霖の師匠格になり、いわゆる裏面指導をする関係になった。右(上)は近来の仄聞である。以下には「仄聞」をやや頻用するが、出所はほとんど同じである。今はそれしか言えない。
北清事変後、中華本部(プロパー・チャイナ)から撤退を考え始めた愛親覚羅氏は、日露戦が日本の戦勝に終わるや密かに日本接近を図った。その目的はむろん父祖の地満洲(東三省)の保全のためである。ところが明治三十四年から十余年にかけて、交替で政権を握った桂太郎と西園寺公望の統治力の及ぶ処は社会の皮相だけで、国際政治の深奥に関わる力量を有したのは吉井友実に始まるワンワールド薩摩系であった。その背後に在英ワンワールドを盟主とする海洋勢力がいたのである。薩摩系の首脳は、高島鞆之助が吉井の跡を継いで総長に就き、樺山資紀が副長、松方正義が別格の金融総帥で新薩摩三傑を成したが、在英ワンワールドの意向をわが政策に反映させてきた新三傑も、明治三十年代に入ると全員公職を退き、枢密顧問官に就く。
明治二十年代の後半から、恰も新三傑に代わる在英ワンワールドの代理人として登場したのが、杉山茂丸であった。二十四年ころ、石炭貿易のため渡った香港で帝国主義の最終段階を認識した杉山は、在英ワンワールドに接近してその意向を探り、祖国の維持発展のため、敢えて英国に通じたとみられる。杉山が伊藤博文・陸奥宗光の外交政策を監視し、日清の講和談判で遼東半島の租借に反対し、興業銀行の創設を松方に迫り、渡米して単独会見したJ・Pモルガンから巨額の融資話を引き出し、児玉源太郎・後藤新平を調略して砂糖・樟脳による台湾経営の筋道を付けたことは既に述べたが、これらは杉山の事績のほんの一部が露頭したものに過ぎない。
在英ワンワールド側から対露戦を不可避と知った杉山茂丸は、非戦派の長州派長老を調略して日清・日露両戦役の開戦に漕ぎ着けた。他方薩摩派首脳に対する工作の片鱗もないのは、その必要がなかったからである。維新以来、国内統治に汲々としてきた政体(東京政府)が、国際政治の真髄に触れて当惑するしかなかった時、代わってその役割を引き受けたのが、堀川辰吉郎の補役となった茂丸であった。茂丸は以後、辰吉郎の成長を見守りつつ、国際政治の深奥部すなわち皇室外交と国際金融を担うことになる。
★茂丸と堀川辰吉郎を支援した「京都勢力」
明治十三年京都堀川御所に生まれた辰吉郎と黒田藩士出身の茂丸がいかなる縁で結ばれたものか、知る由もないが、辰吉郎が幼少期に玄洋社に預けられた事と関係するのは当然であろう。辰吉郎こそ孝明帝の隠れた孫で、京都勢力と玄洋社を配下としながら、裏側で国体(皇室)を支えたのである。
京都勢力には、堂上衆及び社寺衆それに地下衆がいた。堂上衆とは維新後も京都に残存した公家の一派である。羽林家の中山大納言には、維新後も国体を支えた分家が京都にあり、辰吉郎の皇室外交の実務を担当したものと考えるが、現段階での憶測に過ぎない。京都社寺衆とは、大谷光瑞を主頭とする本願寺勢、大徳寺を盟主とする臨済宗勢、さらに光格・孝明両帝に所縁の聖護院修験らの勢力である。それぞれ辰吉郎を支えて国体擁護に尽くしたが、実状はいまだ世に知られていない。
丹波地下衆とは、近来会員制の情報誌『みち』で、栗原茂が説く『大江山系霊媒衆』である。中でも穴太の上田家は、家伝にも遠祖はイスラエルの亡国により東方に流移した多神教徒で、丹後半島に古王国を建てた海部氏とあるという。現在の上田氏は、私見では、同族・物部氏及び秦氏と、古く中世以前に混淆したと観られるが、近世さらにポルトガル系・オランダ系の貿易商人と混血したことも、家伝にあるらしい。なお栗原によれば、大江山霊媒衆には真贋というか、正統と亜流があり、辰吉郎を支えたのは「皇統奉公衆」と栗原が仮称する正統である。私見では、古代の血族的職能集団たる〔カバネ〕に由緒を有すると思えるが、真相を窺うことができない今は詳述を避けることとする。
ともかく、穴太に出た上田鬼三郎は、綾部に婿入りし、出□王仁三郎として大本教を興したことで知られるが、義弟で陸軍特務の出口清吉(王文泰)、大本に入信した陸軍大佐・日野強と力を合わせ、辰吉郎と茂丸を支援して、満洲保全に尽くした。辰吉郎と大本の関係は、大本の東亜版たる紅卍会の総裁に辰吉郎が就いた事を以て、その露頭とみることができよう。京都社寺勢と丹波地下衆は、自ずから別系統だが、末端では互いに接触し錯綜するのは自然の成り行きであろう。
玄洋社は黒田藩士の政治結社であるが、社長・頭山満が政治の黒子に徹する一方、金子賢太郎が伊藤博文の腹心となり、政体に入って活躍した。 山県・伊藤など大陸勢力の影響を受けがちな長州派長老の意識を海洋勢力側に誘導した茂丸は、終始玄洋社の旗幟を掲げたが、これは一介の在野浪士が長州の首脳と折衝するには、それなりの地歩を必要したからであろう。玄洋社の茂丸に対する具体的支援には表裏あり、表面は世に露れているが、世人はいまだその所以を理解するに至っていない。もし夫れ裏面に至っては、政治につきものの暴力秘事であって、世間の知るところでない。
★孫文に近づきたい愛新覚羅氏 清朝の信を得た皇室外交の粋
愛親覚羅氏と通じた堀川・杉山が、他方で革命家孫文と繋がりを持った のは、矛盾ではない。大清帝国崩壊後の兎城(中華本部)を西欧列強の蚕食、ことにロシアの併呑から守り、漢族の一体的独立を達成するのは東亜安定の基本であり、海洋勢力の望む所でもあるゆえ、漢族自立を叫ぶ孫文を支援して革命を成功させることを急務と観た辰吉郎と茂丸は、実務を玄洋社の頭山満に担わせた。愛親覚羅氏(女真族)の望む満洲保全と、孫文の唱える漢族独立は、本来矛盾するものでなく、いわば協議離婚に際しての穏当な財産分与策である。ところが、押しかけ婿の愛新覚羅氏が婚家漢族に持ち込んだ体の東三省(満洲)の地が、英露対立の地政学的要地である点に問題があった。
清朝以来の軍事的空白地域だった満洲は、漢族主体の北京政府の統清圈から外れたのに加え、女真族も民族アイデンティティを失い、自力では守れないことから、実質的に無主の地となった。海洋勢力イギリスが、満洲保全に当たらせんとした日本と、兵力で満洲を併呑せんとした大陸勢カロシアとの対立が露になり、加えて漢族自立を達成した孫文が、民族主義から大漢民族主義(多民族主義)に豹変して共和政府による満洲領有に固執したので、状況が複雑化したのである。恰も、富豪の離婚に際し縁戚・近隣が介入した財産争いの観があるが、これこそ地政学的な必然なので、日本も自立のためには傍観を許されぬ立場に立ったわけである。
孫文の興中会が蜂起した明治三十三年以来、辰吉郎が孫文の秘書として付き添ったため、漢族間において”日本皇子来援”との評判を来たし、孫文の信用を高めたという。古くからある右の説の真偽はさておき、辰吉郎と愛親覚羅氏の交渉こそ正に皇室外交の実践であった。栗原茂の前掲『大江山霊媒衆』第十三回によれば、辰吉郎の紫禁城入りこそ杉山の生涯最大の事業で、革命前年の四十三年、三十一歳の辰吉郎は紫禁城に入り、城内北半に在る皇宮の建物の一つ小院を寓居とする。準備したのが「杉山茂丸ほか在野の志士」であったというから、彼らはすでに清朝皇室の信任を得ていたわけである。
そういえば、看護師の出身で大陸に渡り、大将軍と呼ばれた中島成子の娘で、辰吉郎を父とする国際評論家★中丸薫が紫禁城の一室で生まれ育ったと聞いた時、その所以を理解するに苦しんだが、栗原説に接して納得することができた。巷間溢れる甘柏正彦伝奇の一種たる佐野眞一・『甘粕正彦 乱心の曠野』にも、「儒学者中島撫山の子息で中島敦の叔父に当たる中島比多吉(明治九年生まれ)が十八歳で清国に渡り、四十一年から紫禁城に入って三歳の溥儀の傍にいた」との、中島家伝を書き留めている。日露戦役時ハルビンでロシア軍に捕まったこともある陸軍特務中島比多吉を紫禁城に招き入れたのが、清室の側近であることは言うまでもない。対露戦勝を機に日本の力量を覚った愛親覚羅氏は、以後は対日一辺倒というも過言でない信頼を日本に寄せた。尤も、その相手は東京政府でなく、すべて辰吉郎との間の秘事であった。かかる真相は、北京政府に対しては勿論、東京政府にも秘密にされ、今日まで世間の知る所でないが、愛親覚羅の要望を堀川・杉山に伝えたのが王文泰であったと聞く時、肯綮に当たるものがある。
註:中丸薫については、その著書を以前(2月6日、8日)に紹介した。
満洲は、女真族の愛親覚羅氏が、永年にわたり漢族の流入を厳しく禁じた封禁の地である。人口希薄で軍事的にも空白地帯であったから、流入する難民に対応すべき警察力とてなく、難民社会の実情に応じて緑林と呼ばれる馬賊が自然に発生し、自警団的な機能を果たした。その中で台頭した頭目の一人が、海城県からの難民の子・張作霖である。張作霖と王文泰は、日露戦役以前には頭目同士として対等のつきあいであったが、日露戦後は陸軍の後盾を有する王文泰が上位に立ち、作霖を関東軍の支援に導いたという。これも近来の仄聞である。
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(30)-2 へ続く。 |
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