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●『真贋 大江山霊媒衆』 栗原茂 |
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(29) ★杉山茂丸、堀川辰吉郎へと繋がる大江山衆・出口清吉 再録。
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王文泰こと出口清吉のその後は、出口和明が『出口王仁三郎入蒙秘話』に述べるが、会員制情報誌『みち』に平成二十年九月一日号から連載する栗原茂の「大江山系霊媒衆」が、背景を詳細に解説している。甚だ難解な内容だが、これほどの超深度にまで達しないと、歴史の闇は見透かせない。超深度と呼ぶのは、王仁二郎曾孫の出口和明でさえ知らない事実を述べるからであるが、表現が晦渋なのは、真相の全面公開を憚って当座は黙示の形にしたものと思う。・・・
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↑の栗原氏の連載が 『真贋大江山系霊媒衆』 として刊行されたので、
以下、<目次>から<序章>までを紹介していく。
発行:2009年9月1日 ★文明地政学協会(Tel&fax 03-5951-2145)
<目 次>
序章 大江山系シャーマニズムとは?
第二章 日野強の伊利(伊犂・いり)紀行
第三章 日野強と支那革命
第四章 日野強の宗教観
第五章 日野強の人種論
第六章 人種・語族と霊媒衆
第七章 徳川鎖国体制と大江山
第八章 大江山系と非大江山系
第九章 東京行宮後の大江山系霊媒衆
第一〇章 堀川辰吉郎の神格
第一一章 堀川辰吉郎の紫禁城入り
第十二章 堀川辰吉郎の求心力
第十三章 皇統奉公衆とは?
第一四章 満洲建国の大義は死なず
第一五章 克己自立の奉公へ向けて
第一六章 透徹史観に透かす現況と未来
終 章 奉公を貫く舎人たち
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★序章 大江山系シャーマニズムとは?
●出口清吉について
出口清吉(出口なおの二男)は明治五年(一八七二)に兵庫県綾部で生まれた。同二五年(一八九二)に東京の近衛師団へ入隊する。同二七年(一八九四)日清戦争勃発のとき、台湾へ出征しており、翌二八年八月一八日に戦死というのが軍籍上の公式記録である。
ところが清吉と一緒に綾部から出征した戦友・足立の話では、帰還の際も清吉と一緒だったが、台湾から日本へ向かう船中て病死したため、その遺体は全身包帯巻きの姿で海中に葬られたとされている。
また、清吉の所属した部隊は戦死者ゼロというのが軍や役場における公開情報であり、綾部町役場に残る抄本では清吉の死亡日を明治ニ八年七月七日と記している。ちなみに、出口家関係の霊媒による説では、清吉は死なずに神の使いとなって難局打開のため働く姿を詳しく述べており、特に出口なお三女(福島久)に降りた清吉霊がよく知られている。
大本教のお筆先においては、清吉を「日の出の神」と呼んでいるが、その名前を冠した往時の「京都日出新聞」は北清事変(一九〇〇)の殊勲者として王文泰の名を報じており、同新聞の明治三八年(一九〇五)八月十三日付二面記事では、「軍事探偵王文泰」との見出しで、年齢三〇歳前後の人物が十数年来にわたって支那人に扮し内偵活動を行なうと紹介している。
つまり、「王文泰」なる支那人変名を使って大陸で活躍する清吉の消息を伝えているのである。さらに、その後の清吉を詳しく描いているのは、出口王仁三郎の入蒙経緯を記した入蒙秘話である。そこに多くの軍人が登場するので、当時の軍と大本教の関係につき、少し触れておく必要がある。
●大本教入信の主要軍人
軍関係の重要人物と大本教との関係は、大正二年(一九一三)五月に福中鉄三郎(予備役海軍機関中佐)が大本に入信したのが嚆矢である。二年後の大正四年(一九一五)には福中を介して飯森正芳(同)も入信した。飯森は戦艦「香取」乗組員二五〇人を甲板上に集めて大本教の講話を行なうほどの熱心な信者となったが、一方で飯森は「赤化中佐」とも俗に呼ばれており、トルストイ主義を自ら奉じて無政府主義者や社会主義者の札付きとも平然と親交を結んだ豪放磊落な性格で知られていた。
大正五年(一九一六)十二月には、横須賀海軍機関学校の英語教官だった浅野和三郎とその実兄である浅野正恭(海軍少将)も大本教に加わってくる。やがて浅野和三郎は王仁三郎をも凌ぐ一大勢力を大本教内に有し、実質的に大本教ナンバーワンと目される時期もあり、日本海海戦の名参謀として有名な秋山真之の入信にも荷担している。
秋山真之の入信がきっかけとなって桑島省三大佐(のち中将)や山本英輔大佐(のち大将)ほか、四元賢吉大佐や矢野祐太朗中佐(のち大佐)などの海軍軍人が陸続と大本教へと入信するようになる。
こうした影響力は陸軍にも及んで、大将七年(一九一八)入信の小牧斧助大佐を契機として石井弥四郎(予備役大佐)や秦真次中佐(のち中将)などの入信が相次ぐことになる。
さて王仁三郎の入蒙経綸であるが、王仁三郎に強い影響力を及ぼしたのは日野強(ひの・こわし)陸軍大佐(一八六五~一九二〇)が筆頭とされている。日野は日露教争に先立って軍令により満洲と朝鮮を踏査した経験があるが、日露戦争後の明治三九年(一九〇六)七月、陸軍参謀本部から天山山脈に囲まれたイリ地方を中心に支那新疆省を視察せよとの密命を帯びて出発した。日野の踏査紀行は後に『伊梨紀行』(芙蓉書房刊*1973年、復刻版)という著書として刊行されている。それは新疆地方を中心にカラコルムを経てヒマラヤを越えインドまで達する壮大な探検物語である。
出口王仁三郎入蒙の相談相手として陸軍は、退役後に支那青海で缶詰業を営んでいた日野強を呼びもどし綾部に送りこんだが、海軍は退役大佐で大本信者の矢野祐太朗に大陸現地の奉天で王仁三郎の受容工作を進めさせていた。
矢野は奉天において武器斡旋を業とする三也商会を営みつつ、大陸浪人の岡崎鉄首らと組み、満蒙独立を志していた廬占魁と渡りをつけ張作霖ルートの取り込みに成功するが、その裏には堀川辰吉郎の手配があったことはほとんど知られていない。岡崎鉄首は玄洋社の末永節(すえなが・みさお)が大正十一年(一九二二)に創設した肇国会のメンバーだった。
肇国会は満蒙およびバイカル湖以東シベリア地域を「大高麗国」と名付け中立ワンワールド構想の下に大陸工作を行なっており、その活動は犬養毅や内田良平らの支持を得ていた。
肇国会による大高麗国ロードマップは王仁三郎入蒙経綸の版図と重なり、その思想的背景をなしたと見ることができる。
大正十三年(一九一四)二月一五日、王仁三郎は朝鮮経由で奉天に到着すると北村隆光と萩原敏明に迎えられて、その日の内に岡崎らが手配した廬占魁との第一回会談に臨んでいる。続いて岡崎鉄首、佐々木弥市、大石良、矢野が加わって第二回会談が行なわれた。
村上重良『出口王仁三郎』(新人物往来社、一九七五)によれば、大石は大正九年五月新設された奉天特務機関「貴志機関」(初代機関長・貴志彌次郎少将、貴志はのち張作霖顧問)の有力なメンバーであり、奉天軍第三旅長の軍事顧問兼教官に任じた人物である。宗教学者の村上はまた、「奉天軍閥が盧を迎えた背景には、かねてから盧の利用を考えていた日本陸軍の貴志機関の工作があり、王仁三郎と盧の提携も貴志機関が終始、その推進にあたったことはいうまでもない」とも指摘している。
●奉天特務と出口王仁三郎
いま貴志彌次郎少将(のち中将)については省くが、村上は「王仁三郎と廬の提携は貴志機関工作構想に従い、町野武馬大佐や本庄繁大佐(のち大将)らも上原勇作の密命で動いた」とまでは読むが、惜しむらくは堀川まで達していない。
王仁三郎は入蒙に際して多くの変名を使っている。日本名「源日出雄」のほか、朝鮮名の「王文泰」や支那名「王文祥」などが知られる。王仁三郎の入蒙経綸に際しては推進派と弾圧派の対立があり、推進派の矢野や貴志などに対して、弾圧派は後に大佐となる寺田憲兵中尉ら七人を奉天に差し向けている。弾圧派は徹底的に王仁三郎を尾行するが、その動きは推進派も先刻承知しており、王仁三郎を入蒙の方向とはまったく異なる町(赤峰、せきほう)に案内した。
この赤峰の町で王仁三郎と出会うのが王清泰と名乗る清吉であった。清吉は蒙古人を装って小興安嶺山中に住む道士で押し通すが、両者は尋常でない互いの関係を直ちに認識した。弾圧派は王清泰の正体を徹底調査しており、「年齢五〇前後、流暢な日本語は山陰訛り、蒙古人の間で生き神と崇められ徳望が高い」などの情報を総合して、清吉は日本人だと突き止め、関東軍に協力するよう求めた。
これに先立って推進派に与した矢野は、大正七年(一九一八)二月二七日から三月三日まで、台湾沖膨湖諸島を発ち支那を経て佐世保に到着する日程を刻んでいる。この道筋は出口清吉の足取りを踏むものであり、その目的は京都日出新聞に報じられた王文泰の情報と写真を入手することにあった。
他方、同じ時期の王仁三郎の記録は「三月三日から八日まで、京阪地方に出張」とあるが、子細アリバイは不明であり、佐世保で矢野に会って王文泰(清吉)の情報と写真を渡されたことは容易に泰せられる。
ところで王清泰と名乗る清吉を取り込んだ弾圧派は、ミイラ取りがミイラになる話と通じて、昭和一四年(一九三九)まで親密に清吉と接触していた長谷川久雄が記録を残したことから、王仁三郎の入蒙経綸が清吉に引き継がれた裏付けを立てることになる。その長谷川久雄とは王清泰の尾行を行っていた弾圧派の一人である。
●出口清吉=王文泰=王清泰
赤峰の宿で王清泰と神意を交わした王仁三郎は蒙古で女馬賊と出会うことになる。女馬賊は三千人に及ぶ部下を擁する頭領で籮龍(ら・りゅう)と名乗るが、流暢な日本語を話し、王仁三郎に忠誠を尽くすと約する。その籮龍(ら・りゅう)の父は誰あろう台湾から入蒙した王文泰であり、日本名を「デグチ」とも言うという。そのほかに「籮(ら)清吉」とも称し馬賊として頭角を現わした人物とのこと。因みに、母は蒙古人であると籮龍は王仁三郎に話している。
つまり、出口なお二男の清吉は並みいる「クサ」(草・諜報員)と異なり、少年期に表芸から裏芸まで徹底して仕込まれていく資質を持ち合わせることから、杉山茂丸ラインを経由して堀川辰吉郎に達していたのだ。出口王仁三郎は出口清吉の身代りとなって軍閥の腐食と心中するが、清吉ラインは大東亜戦争後の今も健在で平成大相撲を支えていることは知る人ぞ知る。
さて史家としては、出口の氏姓鑑識が必須の心得であり、大本教を論ずるには、何ゆえに霊媒衆を出口姓としたのか、また王仁三郎(上田鬼三郎)を養子とした背景にどんな企みが潜んでいたのかなどの問題とともに、最大の課題は大江山系シャーマニズムを解く能力が問われよう。
維新政府が行なった最大の弊政は、天皇一世一元制(明治元年九月八日)の制定であり、これは明治五年(一八七二)十一月五日のグレゴリオ暦採用にも通じており、皇紀暦を踏みにじる最大の汚点として政策全般に及ぶ迷走を呼び起こしていく。
その迷走の例を挙げれば、東京遷宮(一八六九)、仏式陸軍と英式海軍の兵制布告(一八七〇)、寺社領没収(一八七一)、壬申戸籍実施(一八七二)などが数えられよう。
特に神仏分離令(一八六八)により平田派国学神官を中心にして廃仏毀釈の運動が高まって多くの仏教系事物が破壊・焼却されたことは、大化改新の前夜に生じた狂気の様相を彷彿させる。これらは西洋の天啓思想に汚染されての所業ゆえ混迷ますます深まり、一方で平民苗字許可制(一八七〇)を施せば、他方で士族と平民の身分制存続(一八七一)という矛盾を重ねていく。その混迷が大江山系シャーマニズムを覚醒させる要因に成ったのである。
続く。 |
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●『出口王仁三郎 入蒙秘話』 |
●『出口王仁三郎 入蒙秘話』 出口和明 みいづ舎 平成17年刊
P47~(*適宜要約)。
・・・ では清吉の死は(戦死ではなく)病死だろうか。ここに綾部町役場に残された出□清吉に関する記録がある。
出生 明治5年6月6日 入営 明治25年12月21日 所属 近衛歩兵第一連隊第二中隊 階級 歩兵一等卒 負傷入院地 台湾病院 死没 台湾病院にて 明治28年7月7日 葬儀 明治28年8月27日 扶助料及特別下賜金 下賜あり。扶助料は年30円、大正7年の出口直帰幽まで支給を受く 住所 京都府何鹿郡大字本宮村東四つ辻二の二
これによると、清吉は戦地で負傷して台湾病院に入院、七夕祭の7月7日に死んでいる。(ことになっている。)単なる病死ではないのだ。そしていぶかしいのは、死亡日の食い違いである。戸籍では8月18日死亡であり、出口家祖霊名簿では8月16日の死亡になっている。まったく清吉の死は謎だらけではないか。(前記のように、町役場の記録では、葬儀は8月27日になっているが、その時点では直は清吉の死を知らされていないから、葬儀を行なうはずはない。また戦死の通知があった後も、☆直は神の言を信じて清吉生存を信じていたから、葬儀をするとは思われない。恐らく出口家とは関係なく、軍隊によってなされたのであろう。)
☆直が生存を信じたのも当然だった。直が神にうかがうと、きまったように「清吉は死んではおらんぞよ」という答えがはね返ってくるからである。
○「清吉は死んでおらぬぞよ。神が借りておるぞよ。清吉殿とお直殿がこの世のはじまりの世界の鏡」(明治30年正月7日)
○「他ではいはれぬが、出口清吉は死んでおらんぞよ。人民に申してもまことにいたさねど、清吉は死なしてはないぞよ。今度お役に立てねばならんから、死んでおらんぞよ」(明治32年旧8月10日)
○「出口清吉を日の出神と神界からは命名いただきて、今度の大望について出口清吉と三千世界の手柄いたさして、日の出神と現われて、親子二人を地にいたして、昔からの因縁を説いて聞かしたならば、変性男子と女子の因縁が解かるぞよ。・・・略・・・出口直、出口清吉、上田鬼三郎、出口澄、もな因縁ある身魂であるぞよ。」(明治33年7月25日)
著者・出口和明は、「何故清吉の生死がの重要なのか」というと「清吉の御霊」と「日の出神」との連環が筆先で告げられているからである、という。
事実、この「筆先」は後に教団内に様々な【風雨】を巻き起こすこととなる。
【風雨】の最大のものは、昭和6~7年(1931~2)にかけて、日出麿(大本三代教主・出口直日の夫(婿)、旧姓は高見元男)を担いだ「王仁三郎追放運動」ともいうべきもので、運動主体は二代教主・出口澄-出口直日-日出麿であった。(*澄は戦後この運動について自己批判することになる。)
それはともかく、清吉死亡の通知が届いた当時の大本は、「世間から気違い集団のように見られていた。」 役員・信者たちの期待は「死んではおらぬ」はずの<清吉=日の出神>が「今にも外国から大手柄を立てて帰って来る、そのときこそ、輝かしい日の出神の守護の世になる」という期待だった。
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『出口王仁三郎 入蒙秘話』の当該章に戻る。
★二、北清事変と王文泰 p89~
では、なぜ王仁三郎は王文泰と名乗り、わざわざ名刺まで作って入蒙したか。単に偶然ではないことは明らかだ。なぜなら、王仁三郎の歌集『青嵐』にこういう歌があるからだ。
日本人王文泰の仮名にて皇軍のため偉勲をたてたり 王文泰は日清戦争のそのみぎり台湾島に出征せしといふ かくれたる北清事変の殊勲者は王文泰と新聞にしるせり 王文泰の英名聞きて我はただ異様な神機にうたれたりける
北清事変の時、王文泰が活躍したということが新聞にも載り、その記事を見て王仁三郎は異様な神機にうたれたのだ。出口澄も『おさながたり』で「王文泰という人は北清事変の時に日本の新聞にも載った人で、先生もその時の新聞で王文泰のことを読まれたときハッと感じておられたそうです」と語っている。
北清事変とは・・・略・・・。
★三、京都日出新聞
さて、話は『大地の母』(旧毎日新聞社版)執筆当時に戻る。 昭和46(1971)年1月28日、『大地の母』の文献調査を担当していたYが京都府立総合資料館に行くと、大本教学研鑽所のKとAにぱったり出合った。彼らは朝から王文泰の記泰が掲載されている新聞の調査に来ていたが、いくら探しても発見できず、むなしく引揚げるところだった。
彼らと別れた直後、Yが何げなく取り上げた新聞が『京都日出新聞』である。特別の目的もなくぱらぱらとめくっていると、突然「王文泰」の三文字がYの目に飛び込んできた。再び読み直して間違いないことを確認すると、急に涙がこみ上げ、体が震えて止まらなくなった。
Yは帰って来て、私に熱っぽい口調で報告した。 「私が震えたのは、発見したというだけの歓びじゃない。私の心の中に、出口聖師に対する疑いが頭をもたげてどうしようもなかったんです。王文泰の記事については、私も今までさんざん調べました。『大本七十年史』でも調べたでしょうし、げんに今日だって大本研鑽所で調べて発見できなかった。北清事変のあった明治33年に聖師の読みうる新聞は限られているはずです。これだけ手をつくしてそれでも発見できぬとなると、新聞記事の存在そのもの、さらには王文泰や蘿龍の存在そのものまで疑わしい。
もしかすると、聖師は嘘つきではないかと、聖師の人格まで否定したくなっていました。だから新聞記事を発見した時に体が震えたのは、ああ、聖師はやっぱり本当のことをおっしゃっていたという喜びでした。そして聖師がかつて読まれた同じ記事を71年後に自分が読んでいるかと思うと、涙が出て、涙が出て」
この記事は『日出新聞』明治33年8月13日(日曜日)付二面である。『日出新聞』とは古い伝統を持つ京都の有力地元新聞で、昭和17年に『京都日日新聞』と合併して『京都新聞』となっている。当然、王仁三郎は『日出新聞』に目を通したことであろう。
地元新聞だから、誰もが真先に『日出新聞』を調査したはずだ。にもかかわらず発見できなかったのは、その記事、特に見出しの扱いに問題があったと思われる。つまり、王文泰と仮名する日本人が北清事変で偉勲をたてたといえば、誰しも派手な扱いを想像するのが当たり前だが、実際は地味すぎるぐらいの扱いだ。前頁に掲載の写真(略す)を見ると、中段の左から2行目に『軍事探偵王文泰』と小さくあるだけだ。見出しも本文と同じ5号活字で、発見できたのは全くの偶然と言っていいだろう。
次に記事の全文を転載しておこう。
★四、王文泰の記事
「去る十日太沽(ターチー)より入港の朝顔丸にて帰朝せし従軍者・某語って曰く。 軍事探偵王文泰のことは既に内地に伝はっても居ましょうが、丁度天津城陥洛後の事でした。私が居留地の或処に行きましたら、三十才前後の元気のよい一人のチャンが巧みに日本語を遣って切り(しきり)に話をしていました。 其の話し振りの上手なことは内国人でも叶わぬ程ですから、彼人(あれ)は何だと某処等の人に尋ねたところが、彼人こそ軍事探偵王文泰よと答えた。某処で私は直ぐ名刺を取り次いで貰って面会して話をしましたが、至って快濶な人で、十数年来南清から北清と四百余州を 股にかけて跋渉したもので、清国内地の状況や言語には余程精通し、服装言語の如きも丸で支那人としか見られないので、歩き様に至るまで支那人其儘であるから、誰が見ても支那人に違いはない。
其筈です。支那人すらも他国の人だとは見分けをしないといふことです。辨髪や清装したのは内地人に多くありますが、歩き様から體のこなしにいたるまで支那人其儘を真似するものは有りません。
本名は云えぬが何でも土佐人といふ事で、其の他の事は憚る処があるので、唯だ王文泰とは世を忍ぶ仮の名であるといふことだけに御承知を願って置きます。
此人は以前余程の無頼漢であったそうですが、斯る人であったから支那内地の跋渉も出来たのでしょう。太沽砲台から白河沿岸及天津城の偵察を遂げて、連合軍に少なからざる利益を与へたのは此非戦闘員の王文泰です。軍事探偵には斯の王文泰に譲らない人がもう一人居りますが、今頃は二人とも進発して居るさうです。
処が今回の軍事探偵は外国人では出来ないので、是非とも日本人に依らなければならぬゆゑ、列国軍は此点に於て困難を感ずるのであるから、王文泰に対しては列国共大いに報ゆる処があって宜からう云々」
★五、王文泰は清吉か
この記事で見る限り、王文泰が清吉であるという確証はない。「年の頃30前後」とあるが、清吉が生きていれば29才だから、この点は符号する。「快濶な人」というのも清吉の性格であり、支那を舞台の大活躍も暴れん坊の清吉にふさわしいと思える。また、支那人そっくりに化けているのも、艮の金神の真似をして直を驚かした清吉のことだから、それぐらいの芝居けはあったろう。
反対に「十数年来南清から北清と四百余州を股にかけて跋渉した」というのは、もし清吉なら数年のはずで、別人を指摘しているかのようだ。だがこの記事は従軍者・某からのまた聞きで、記者本人が直接聞いたわけではないから、伝え間違いや誇張もあるだろう。だから、この記事を全面的に信ずるわけにもいかない。むしろ王文泰はスパイだから、わざと虚偽の告白をしたと考える方が自然であり、土佐の生まれというのも、おそらく身元を隠すための嘘の言葉と思われる。
いずれにしても、王仁三郎はこれだけの記事を見て、「異様な神機に打たれ」王文泰こそ出口清吉なりと看破し、20数年後の入蒙にあたって、わざわざ王文泰と名のり、名刺まで作って満蒙百里の荒野を訪ねるのだ。すごい霊感というほかはない。
それにしても、日の出神とされる清吉の手がかりになる記事が『京都日出新聞』に掲載されたというのも、何やら暗示的である。
★六、清吉の遺骨の謎
馬賊・王文泰の前身が軍事探偵であったということは、この記事の発見によって初めて明らかになり、私は、今までの謎が一挙に解けた思いがした。
戦時中日本の軍人が捕虜になると、軍隊は留守家族に戦死の通告をしたという。帝国軍人たるものは、捕囚の辱めを受けるべきでないということだろう。必要とあれば軍隊は平気で人を戸籍から抹消する時代である。清吉は軍隊によって、無理に死んだことにさせられたのではなかったか。
清吉は暴れん坊で機転のきく人だったから、軍事探偵にはもってこいだ。清吉を第一線の軍事探偵として中国人に仕上げるために、軍隊はまず身元を消し去る必要があった。清吉が死んだということにしておかねば、因縁をつける鹿蔵ということで「因鹿」と綽名される大槻鹿蔵のことだから、当局にやいのやいのとしつこく迫ったことだろう。
澄の『おさながたり』には、次のように述べられている。 「清吉兄さんはそれから台湾に征って戦死したことになっています。そのころの近衛兵は赤い帽子をかぶっていたそうで、その当時、支那兵から赤帽隊と呼ばれていたものだそうです。清吉兄さんは金神様のお働きであると聞いておりましたが、戦争中にいろいろ不思議なことが現われましたそうです。また日の出の御守護といわれておりましたことも、思いあたるような働きを示したということをきいております。
戦争がすみましても清吉兄さんは婦ってきませんでした。教祖様は神様にお伺いされ何か深く考えこんでいられました。 (中略) 筆先では「死んでいない」と神様が申され、その解釈についていろいろのことを聞かされましたが、その時の兄の戦友にききますと、戦死したという人はなく、ある人は隊から抜け出して支那の方面へ行ったとも言い、ある人は、兄が海に身を投げたのを見たと言って色々様々で、今もって兄が戦死したかどうかは不明のままであります。しばらくして戦死の公報が家に届きましたが、遺骨もなく、たった一冊の手帳が送られてきまして、これで戦死したということになっていたのです」
清吉は、「戦争中にいろいろ不思議なことが現われましたそうです」とあるから近衛師団でも目立った存在だったであろう。軍事探偵の候補として白羽の矢が立ったことは、十分に推測できる。
この中で「遺骨もなく」とあるが、先に引用の筆先には「この方から西町大槻鹿蔵が骨折りて手紙をやりたり、色々としよりたら、『死んだ』と申して、『骨を取りにこい』と申して、『福知山の陸軍へ取りにこい』と申してありて、・・・」とあるから、澄は遺骨が返された事実を知らなかったのであろう。当時、澄はわずか数え13才の少女だし、当時は私市へ奉公中で綾部には居ない、知らなかったとしても無理はない。
続く。
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●『いり豆の花』 出口和明(やすあき) |
●『いり豆の花』 出口和明(やすあき) 八幡書店 1995年7月
第七篇 金光時代 第二章 艮の金神うそぬかした
★嘘ぬかした p442
「忠兵衛の家におる折に、人が清吉は死んだげなと申すなり、天朝からは何の沙汰も無きことなり、ことに近衛にいておりて死んだ話はあれど役場からも何の話もなきことなり、こちらから西町・大槻鹿蔵(*直の長女米の夫)が骨おりて手紙をやりたりいろいろとしよりたら、死んだと申して、骨を取りに来いと申して、福知山の陸軍へ取りに来いと申して沙汰がありて、あおやすの婆が桐村清兵衛の家まで参りて、その折は出口も怒りて、『こら、艮の金神、嘘ぬかした』と申して、『もう、言うことは聞いてやらん』と申したなれど、そこには子細のあることざ。そうは申しても、同じようにご用聞いてくれて、物事出来がいたしたぞよ」(明治35・旧9・28)
「清吉は死んでおらんぞよ。神が借りておるぞよ。清吉殿とお直殿がこの世のはじまりの世界の鏡」(明治30・旧正・5)
まだ西村忠兵衛の家にいる頃、「清吉はんが死んだげな」という出所不明の噂が流れた。だが直が腹の中の神に伺うと、「死んでおらぬぞよ」というきっぱりした答えが返ってくる。直は安心していた。
大槻鹿蔵は清吉を愛しており、何回も手紙で問い合わせたりして、噂の真偽を知ろうとした。出口澄の『おさながたり』は述べる。 「今盛屋の大槻鹿蔵は悪党でありましたが、清吉兄さんを子供のように可愛いがっていたので、清吉兄さんと一緒に征った人が帰ってきても清吉兄さんが帰って来んのに業を煮やして、綾部の町役場へ『どうしてくれるんだい』と言って怒鳴りこんでいきました。役場から軍隊へ問い合せると、清吉兄さんの入っていた隊の者に戦死者は1人もないとの回答がきました。しかしそれから半年立ち1年立っても(ママ)、清吉兄さんは帰ってこられませんでした」
だが突然、役場から、次男・出口清吉が戦死したから福知山歩兵二十連隊へ骨を取りにこいという通知があった。
引用の筆先の「あおやすの婆」とは誰か不詳だが、『教祖伝』によると、遺骨はいったん直の兄・桐村清兵衛の家に安置され、後に埋葬された。現在は天王平の墓地に遷されている。
遺骨と対面して、「こら、艮の金神、嘘ぬかした。もう言うことは聞いてやらん」と、慎しい直にはあるまじき荒っぽい言葉で怒りを表現する。いかに清吉の戦死が衝撃であったかが知れる。だが神は、国から弔慰金まで下賜されながら、「清吉は死んでおらんぞよ」と言う。
筆先の表現の特徴は、すべて平仮名と数字だけで、句読点のないことだ。句読点は文意を正確に判断するためには意外に重要である。
「ものさしはかります」の看板にしても、「物差計ります」と読みたくなるが、実は「物差、秤、桝」の計量器の看板だったりする。
江戸中期の脚本作家・近松門左衛門が数珠屋に「なぜ句読点なんか打つんですか」と質問された。近松は笑って取り合わなかったが、その後、「ふたへにまげてくびにかけるじゅずをつくれ」と紙に書いて、数珠屋に註文した。数珠屋はおかしいなと思いながらも、注文通り、二重に曲げて首にかける長い数珠を作って持って行った。すると近松は、「それは注文の品と違う」という。数珠屋は「いえ、御注文通りです。ほら、ちゃんとここに書いてあります」と注文書を見せると、近松は「わしの註文したのは、二重に曲げ、手首にかける数珠じゃ」と答えたという。
筆先の「しんでおらん」にしても、「死んでおらん」と読めば、死んでいないのだから生きていることになる。だが「死んで、おらん」なら、「死んで、もういない」。
句読点のあるなしで、全く正反対の意味になる。あるいは、肉体は死んでいるが、魂は生き生きとして働いているという、折衷的な解釈もできよう。
だが直や役員信者たちは、神の言葉を長い間「死んでおらん」とのみ理解し、清吉はいつ帰ってくるかと、待ち望んだ。
★御霊の因縁 p443
「出口清吉は結構に艮の金神さま、龍宮の乙姫さまにお世話になって、結構なことさしてもろうておりまする。清吉殿は艮の金神が日の出神と名がつけたる子よ。正一位稲荷月日明神と申すぞよ」(明32・旧8・10) 「出口清吉を日の出神と神界から命令頂きて、今度の大望について出口清吉と三千世界の手柄いたさして、日の出神と現われて、親子2人を地にいたして、昔からの因縁を説いて聞かしたならば、変性男子と女子の囚縁が解るぞよ。この因縁は珍しき因縁ざぞよ。説いて聞かしたならば、みな改心できるぞよ。出口直、出口清吉、出口澄、みな因縁ある身魂であるぞよ。今度世の元になる因縁の身魂が天で改めいたして、一とこへ集めてあるのざぞよ」(明33・旧7・25)
「明治36年の4月の28日に岩戸開きと相定まりて、結構に変性男子と女子との和合がでけて、金勝要(きんかつかね)大神は澄子に守護いたすなり、龍宮さまが日の出神に御守護遊ばすなり、四魂そろうての守護いたさねば、今度の世の立替には、上下そろわんとでけはいたさんぞよ」(明治36・旧4・30)
では清吉の生死がなぜ重要かといえば、筆先に、清吉の御霊の因縁が日の出神と告げられているからである。
日の出神とは、立替に必要な四魂のうちの二魂で、とりわけ龍宮の乙姫と引き添うて外国で大働きするという、信者の夢かき立てる神である。『霊界物語』によれば、伊邪那岐尊の御子大道別(おおみちわけ)の没後、国祖は大道別の四魂のうち、荒魂・奇魂(くしみたま)に日の出神、和魂(にぎみたま)・幸魂(さきみたま)に琴平別神と名づけ、陸上は日の出神、海上は琴平別として神界の経綸に奉仕するが、国祖出現に当たってば聖地に出現して地盤的太柱になるという。日の出神とはいわば職名であり、大道別の一つの働きをさす。
出口清吉が日の出神というのは、一時期、その役割を分担したことを指し、日の出神の本体ではない。だが当時の信者たちは、そのようなことは知らない。
日の出神の本体、すなわち大道別の現界的働きをする出口王仁三郎が綾部入りして金光教団から独立し、金明霊学会(大本教団の母体)を設立して以後も、大本は世間から気違い集団のように見られていた。その集団に参加している役員、信者たちは、出口清吉が日の出神としての働きを示し、やがて外国から大手柄を立てて帰ってくる、その時こそ輝かしい日の出の守護の世になるという期待を抱いていた。
清吉はまさしく救世の大英雄、夢の存在であったが、その消息はようとしてつかめず、虚しく時が過ぎていく。
★清吉死の謎 p444
清吉は本当に戦死したのか。
日清戦争は明治27年8月1日勃発、28年4月17日下関で日清講和条約が調印され、日本の勝利で終る。この結果、日本の植民地として台湾領有が決まる。日本は樺山海軍大将を台湾総督に任命、軍事抵抗を予想し北白川宮親王の率いる近衛師団を台湾に派遣、その一兵として清吉も加わる。
5月25日台湾の中国系本島人は台湾独立共和国建設を宣言し、それに応じて各地に反乱が起る。5月29日近衛師団は台湾に上陸、抵抗らしい抵抗もなく10日目には台北に無血入城するが、その後は蜂起した島民の鎮圧に忙殺される。10月19日抗日軍は降伏し、近衛兵は台南に入城、その直後、近衛師団長・北白川宮は悪性マラリアのため台南で薨去する。11月中旬には樺山台湾総督から「台湾は全く平定に帰す」と政府に報告があり、遠征軍は続々と引揚げを開始するが、清吉は帰って来ない。その後も台湾島民の執拗な抗日運動は続き、大本営解散は29年4月に持ち越される。
出口家戸籍に記された清吉の死亡年月日は明治28年8月18日である。しかしこの時点では、台湾に本格的な戦争は行なわれていない。日本軍が台湾を鎮圧するために投入した兵力は二個師団半、人数にして5万人である。その中で戦死者はわずか164人、日本軍が苦しんだのは実際の戦争ではなく、マラリアと食料不足である。北白川宮も台南で悪性マラリアのため薨去したように、悪疫による死者は4600人、病気による内地送還者は2万人以上である。
では清吉の死は戦死ではなく、戦病死なのか。綾部町役場に残された出□清吉に関する記録を見よう。
出生 明治5年6月6日 入営 明治25年12月21日 所属 近衛歩兵第一連隊第二中隊 階級 歩兵一等卒 負傷入院地 台湾病院 死没 台湾病院にて 明治28年7月7日 葬儀 明治28年8月27日 扶助料及特別下賜金 下賜あり。扶助料は年30円、大正7年の出口直帰幽まで支給を受く 住所 京都府何鹿郡大字本宮村東四つ辻二の二
これによると、清吉は戦地で負傷し台湾病院に入院、七夕祭の7月7日に死んだことになっている。単なる病死ではない。更にいぶかしいのは、死亡日の食い違いである。戸籍では8月18日、出口家祖霊名簿では8月16日の死亡とあり、町役場の記録では、葬儀は8月27日になっているが、その時点では直は清吉の死を知らされていないから、葬儀を行なうはずはない。また戦死の通知があった後も、直は神の言を信じて清吉生存を信じていたから、葬儀をするとは思われない。恐らく出口家とは関係なく、軍隊によってなされたのであろう。
清吉の生死の問題やそれにまつわる神秘的な問題、日の出神の問題などは拙著☆『出口王仁三郎・入蒙秘話・出口清吉と王文泰』(いづとみづ社刊)に詳述しているので、参照されたい。
☆註:この著は現在、みいづ舎刊(昭和60年第1版-平成17年第2版)で読むことが出来る。これも、後ほど当該部分を紹介します。
続く。
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●『いり豆の花』 出口和明 |
以下、『いり豆の花』 出口和明(やすあき) 八幡書店 1995年7月 より引用。 * p○○ は同上書による。
第一篇 丹波小史 第三章 だまして岩戸を開いた。
★外宮の由来 p36
雄略天皇21年冬10月、斎王ヤマトヒメ命は、夢でアマテラス大神に教えさとされた。 「われ、すでに五十鈴川の大宮に鎮まっているが、一人では楽しくない。御饌も安く食べられぬ。丹波の国・与佐の小見比沼(おみひぬ)の魚井之原(まいのはら)にますタニハノミチヌシ王の子孫のヤヲトメの斎きまつるトヨウケ大神をお連れせよ」
ところが雄略天皇も同じ霊夢を見ていた。天皇は驚き、伊勢の山田原に新宮をいとなみ、翌22年秋9月、トヨウケ大神を丹波の魚井之原から迎えて新殿に鎮座した。この宮を外宮といい、内宮とあわせて大神宮、または伊勢神宮という。
これは『豊受大神御鎮座本紀』ら神道五部書に伝える外宮の由来である。『丹後旧事記』は、タニハミチヌシ命の館は比沼の真奈井の近く府の岡という所にあったと記す。内宮の御杖代であるヤマトヒメ命はミチヌシ命の長女・ヒバスヒメ命(垂仁天皇の皇后)の皇女として、母方の里から外宮を迎えたことになる。
★出口家始祖
『大本教組伝・開祖の巻』(以下『教祖伝』は「丹波道主命の後裔・綾津彦命は綾部の郷・神部の地(本宮山といわれる)を卜(ぼく)して永住し、トヨウケ大神を祭っていた。のち神勅によって神霊を丹波郡丹波村の比沼の真奈井に遷し、子孫が代々奉仕していた。
ところが雄略天皇22年9月、再び神勅によってトヨウケ大神の神霊を比沼の真奈井から伊勢の山田へ遷すことになり、その時に神霊を奉持して伊勢へ移住したのが出口家の分家であり、渡会(わたらい)家の始祖となった。その子孫には神道家・国学者として著名な出口(渡会)延佳(のぶよし)が出ている。出口家の本家は綾部の地に子孫繁栄し、多く【抱き茗荷】を家紋とした。現在の綾部市味方にある斎(いつき)神社(祭神・経津主(ふつぬし)命・創建由緒不詳)は出口一族の氏神として往昔奉祀されていた」と伝える。しかし詳細な記録や系図は中世火事によって煙滅したというから、出口家の伝承に拠ったものであろう。
出口はイツクチであり、イツキの転訛と考えれば、出口姓と斎神社とは深い関連がありそうだ。斎とは、潔斎して神に仕えること、またはその人をさす。さらに斎王の略であり、即位の初めにト定され、天皇に代わって伊勢神官や賀茂神社に奉仕した至高の巫女である未婚の内親王や女王を指す。
★奇しき神縁 p37
出口直の末女・澄と結婚して出□家の養子になる王仁三郎の生家は、上田家であった。上田家の遠祖は藤原鎌足とされ、さらにさかのぼれば天児屋根命(あめのこやねのにこと)となる。
上田家は丹波国桑田郡曾我部村大字穴太(あなふ)小字宮垣内(みやがいち)(現・亀岡市曽我部町穴太)にある。伝承では、この大字・小字の地名の由来を、トヨウケ大神の伊勢遷座に関連づけている。
王仁三郎の「故郷乃弐拾八年」によると、遷座の途次、神輿は曾我部郷に御駐輦になった。この地がお旅所に選ばれたのはアメノコヤネ命の縁故によるとあるから、すでにアメノコヤネ命の子孫が住みついていたのであろうか。そして厳粛に祭典が執行されたが、そのとき神に供えた荒稲の種がけやきの老木の腐り穴へ散り落ちた。やがてそこから芽を出し、見事な瑞穂を得た。里庄はそれを神の大御心とし、種を四方に植え広めた。けやきの穴から穂が出たため、この里を穴穂というようになり、穴生・穴尾と転じて、今の穴太となった。
上田家の祖先はこの瑞祥を末世に伝えるため、上田家の屋敷のあった宮垣内に荘厳な社殿を造営し、アマテラス大神・トヨウケ大神を奉祀して神明社と称し、親しく奉仕した。上田家の屋敷のある宮垣内の名称は、神明社建造の時から発したといわれる。
文録年間(一五九二~九六)、神明社は宮垣内から川原条(現・亀岡市曽我部穴太・小幡神社の東側辺)に遷座されてから後神明(ごうしんめい)社と改称され、いつのまにか後(ごう)神社と里人が唱え出し、今では郷神社と呼ばれ、穴太の産土である小幡神社の附属となっている。
いずれも今日では考証できずにいるが、それが事実とするならば、すでに二千五百年も昔、出口・上田両家の出会いがトヨウケ大神を仲立ちに行われ、不思議な神縁を結んでいたことになる。
なお伊勢の外宮にトヨウケ大神を遷座したことは国体に関する重要な出来事であるのに、なぜか正史である『日本書紀』には一行の記述もない。
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★帰化人の血 p43
第四十三代・元明天皇は、和銅三(710)年に都を平城京に移した。翌四年、「丹波史千足ら八人が外印を偽造し、ひそかに人に位を与えたために、信濃に流された」と『続日本紀』は伝える。『新撰姓氏録』には「丹波史、後漢霊帝八世孫、孝目王之後世」とあるから、彼は帰化人の裔であろう。丹波康頼はその子孫といわれる。
四世紀ごろから八世紀ごろにかけて、朝鮮人(百済・高句麗・新羅・任那)や中国人が多く日本に渡来した。彼らが伝えた技術は飛鳥・白鳳・天平と大陸的仏教的特色の強い文化を築き上げる。それが完全に咀嚼され、消化されて、やがては日本的な平安文化を生み出してゆくのであるが、丹波各地にも多くの渡来人が定住して影響を与えた。 「十六年の秋七月、詔 して、桑に宣き国県に桑を殖ゑしむ。 また秦の民を散ち遷して、庸調(ちからつき)を献らしむ。」(「雄略紀」)
しばしば桑田郡の名の起源に引き出される一文であるが、ここでも秦氏が桑を植え、養蚕し、絹布を献じたことであろう。前文に続いて『日本書紀』は述べる。
「冬十月に、詔して、漢部(あやべ)を聚(つど)へて、その伴造者(とものみやつこ)を定む。姓を賜ひて直(あたひ)と日ふ」
河鹿郡・【綾部】も元は【漢部】と古いたが、綾織を職とする漢部が居住したからだという。漢部は大化改新の前、中国から渡来した漢氏(あやうじ)の部民(べのたみ)の総称である。船井郡園部(薗部とも書く)の地名も、古代の部民のひとつ「そのべ」が由来だが、苑部の氏の上は苑部首(そのべおびと)といい、百済の知豆神(ちづのかみ)の裔とされる。
このように、土着の血と外来の血がわき上がる濃い丹波霧の中でとけ合って、丹波族の勃興を見たのである。それは、出雲文化の土壌に大和文化や大陸文化が融合し、さらに時代の洗礼をへて丹波文化が形成されたことでもあった。水を涸らして丹波国を作る伝説にしても、オホヤマクイ神は秦氏の祖神であり、オホクニヌシ神は出雲の神であるから、まさに暗示的といえる。
★国分寺造営
第四十五代・聖武天皇は、天平十三(741)年、仏教の功徳による国土安穏・災厄除去を求めて、国ごとに国分僧寺・国分尼寺を造営する勅令を発した。
丹波国分寺跡は、異論はあるが一応は桑田郡千歳村字国分の高台ということになっており、亀岡平野を展望できる景勝の地である。現在は小さな本堂だけの無住寺だが、境内には昔の堂塔の礎石が存在して当時の規模の大きさをしのばせている。
寺伝によると、明智光秀が丹波平定のときに焼失したまま長く荒廃していたが、宝暦年間に護勇比丘(1788没)が再興して今日に及ぶ。本堂に安置される本堂薬師如来坐像(木造)は重要文化財、寺跡は国指定史跡となっている。なお国分尼寺は、近年の発掘調査から、五百メートル西の御上人林廃寺跡と推定されている。
●第四篇 寡婦時代 第二章 御三体の大神の御守護
★清吉兄さん p256
この頃の出口澄のあこがれの人は、寅吉の下で働いている清吉兄であった。清吉・久・澄の三人は「新宮の政五郎さんとこの暴れん坊」と噂されたが、とりわけ清吉と澄は権兵衛で鳴らしていた。
清吉は目鼻立ち涼しく、男前で、気っ風がよかった,当時流行の闘犬が好きだったが、いつも五、六匹の犬を連れ歩いていたので、「新宮の犬の庄屋どん」と町の人たちから呼ばれた。犬を飼っていたわけではなかったから、野良犬や街の犬たちが自然に慕い寄ってきたものであろう。
負けず嫌いでよく喧嘩もした。「清吉どんが裏町で男たちにいじめられてるでよ」と告げてくれる人がいて、直は裏町へ駆けつけた。すると背に負うた澄ごと、清吉が柿の木に縛りつけられている。五、六人の男たちが床几を持ち出して坐り、「これ、あやまらんかい」とどなる。清吉少年は歯をくいしばって「なに、あやまろうやい」と力んでいる。直は清吉の縄目をふりほどいて家に連れ戻したが、清吉は「お澄をおぶっていたので気になって負けたが、いっぺんあいつらをやっつけてやる」とくやしがった。
やんちゃはしても愛嬌があったので憎まれることはなかったが、無鉄砲で、よく相手を傷つけたらしい。澄が町を歩いていると「お前は政五郎の子やろ、清吉どんがわしにこんな傷つけたわい」と腕や足をまくって見せる人、肩肌をぬぐ人があったという。いっしょには住めなくなっても、同じ綾部の町内で紙漉きの修業中の清吉兄がいることは、澄にはどれほどか心強かったろう。 ・・・後略。
●第六篇 筆先濫觴 第二章 すえで都といたすぞよ
★近衛兵入隊 p373
明治25年11月下旬、出口家に、直の次男・清吉(21歳)が近衛兵として徴兵される通知が届いた。
近衛兵は、各師団ごとに、甲種合格しかも品行方正というきびしい資格をくぐり抜けた者の中から選ばれる。何鹿郡全体で、近衛兵の現役は、今度入隊する出口清吉・荻野富吉を加えても、僅か3名しかいない。清吉の近衛兵入隊は、綾部町の誉れであった。
『何鹿郡役所日誌』の11月23日の項に「本年入営すべき新兵中、近衛兵入営に付、11時郡長より訓示あり、本部奨武会よりて酒肴料を贈る」と記載されている。清吉も招かれて、さぞ晴れがましい思いを味わったであろう。入隊者に対する役所や一般人の反響には幾多の変遷があったが、右の記録から、近衛兵に対するこの時の郡役所側の鄭重な待遇が推測できる。
久の手記で見ると、この前後、清吉は八木まで行き、福島夫婦に別れを告げている。正確な日は不明だが、福島家はちょうど秋の収穫期で、猫の手も借りたいほど多忙であった。しかも久は10ヵ月の身重のため、充分には働けぬ。「忙しいから1泊して手伝ってほしい」と久に頼まれた清吉は、見かねて2泊し、稲刈りを助けている。王子まで足をのばしたかどうかは不明である。
入隊する清吉のために、直はせめて好きな物を食わしてやりたいと願った。希望を聞くと、清吉は「そうやなあ、掘りたてのさつま芋が食いたいなあ」と答えた。直が苦労して手に入れたさつま芋を、男盛りの清吉がふうふう吹きながら、「うまいうまい」と言って食うのであった。
長男・竹蔵は家出していまだに行方が知れず、三男・伝吉は大槻家へ養子にやり、清吉だけが出口家に残る只一人の男子である。その力と頼む息子をお国に奪られる直のせつなさは、いかばかりであったろう。
「出口清吉近衛兵入営に関する通達」 ― 11月24日兵庫県氷上郡柏原町旅籠業播磨屋方に集合、25日柏原町出発、三田を経て翌26日神戸着、27日近衛兵受領委員に引渡し28日神戸出発、横浜まで海路、それより汽車で東京に至る。
清吉の東京近衛兵師団入隊は、(明治25年)12月1日であった。
続く。 |
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●『いり豆の花』 出口和明 |
●前回の陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(28)に関連して、出口和明・『いり豆の花』から当該部を紹介しようと思うが、その前に、
【O オニド ― 出口王仁三郎と霊界物語のサイト】 http://onido.onisavulo.jp/modules/ond/index.php?content_id=29
の中に、Onipediaという人物事典があり、その【出口清吉】を先ず読んでみる。 出典: Onipedia ●出口清吉
明治5年(1872年)6月1日生まれ。[1]
明治25年(1892年)12月1日、東京の近衛師団に入隊。明治28年(1895年)、台湾に出征し、同年7月に戦死した。
しかしその後、清吉は死んでない、と受け取れる筆先が降る。
「清吉は死んでおらぬぞよ。神が借りておるぞよ。清吉殿とお直殿がこの世のはじまりの世界の鏡」(明治30年1月7日)
「他ではいはれぬが、出口清吉殿は死んではおらぬぞよ。人民に申してもまことにいたさねど、清吉殿は死なしてはないぞよ。今度お役に立てねばならんから、死んでおらんぞよ」(明治32年旧8月10日)
役場から軍隊に問い合わせると、清吉が所属していた隊に戦死者は一人もいないとの回答があり、果たして本当に死んだのかどうか疑惑が持ち上がる。清吉は筆先で「日の出の守護」と呼ばれ、神業上、重要な役割を担っていると言われていた。そのため開祖・出口直を始め信者は、清吉は死んではおらず、そのうち大手柄を立てて帰国するのでは、というような期待を持っていた。
大正13年(1924年)、出口王仁三郎が入蒙したときに、清吉の娘だと思われる若い女と出会う。蘿龍(ら りゅう)という名の21歳の馬賊で、3000人の馬賊を率いる頭目である。日本語をしゃべり、母は蒙古人だが、父は「デグチ」という日本人で、蒙古では王文泰(おう ぶんたい)また蘿清吉(ら しんきつ)と名乗っていたという。
王仁三郎が蒙古で用いた名刺。朝鮮姓名として「王文泰」と記されてある。王文泰は明治33年~34年の北清事変(義和団の乱)の時に、殊勲者として新聞で報道されており、その名を見たときに王仁三郎は異様な神機に打たれた[2]。そのため入蒙時に王仁三郎は王文泰と名乗った。
清吉は蒙古独立軍に馬賊3000騎を率いて加勢していたが、5年前に張作霖に欺かれて殺されてしまったという。
蘿龍は蒙古に国を建てるため、王仁三郎の別働隊となって働く。しかしパインタラの遭難の後、蘿龍も捕まり殺されてしまった。
脚注 ↑ 『入蒙秘話』35頁では6月1日生まれ、『大地の母 上巻』68頁では6月6日生まれになっている。 ↑ 王仁三郎の歌集『青嵐』に次の歌がある。「王文泰の英名聞きて我はただ異様な神機にうたれたりける」
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続く。 |
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