吉薗周蔵手記(23)



 更新日/2021(平成31→5.1日より栄和改元/栄和3).2.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2005.4.3日、2009.5.27日再編集 れんだいこ拝


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(23)
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(23)  ◆落合莞爾
 『ニューリーダー』誌 11月号   
 

 ★伯爵伊東已代治は 従一位中山慶子の甥? 
 
 前月稿で触れたが、明治憲法の起草者の一人で伊藤博文の側近中の側近だった伯爵・伊東已代治が、実は〔明治天皇の母方の従兄弟〕であるとの記述が、インターネットのフリー百科事典『ウィキペディア』のほか譚嗣同の子孫でジャーナリストの譚路美の著『父の国から来たスパイ』に見られる。甚だ興味深いので、横道に逸れるのを承知で、その点に触れておく。

 明治天皇の御母は中山慶子(1836生まれ)だから、〔明治天皇の母方の従兄弟〕とは「慶子の甥」のことで、已代治の父か母が慶子と〔きょうだい〕でなくてはならない。已代治の父母は長崎町年寄・書物役の伊東善平と妻の谷口氏ナカで、そのいずれかと慶子が「きょうだい」ならば、慶子は、

①父の中山忠能が善平もしくはナカの実父であるか、又は
②母の松浦氏愛子が善平もしくはナカの実母でなければならない。

 しかし忠能の生年は1809年、松浦氏愛子は1817年で、共に年齢からして善平(1814生)あるいはナカ(1822生)の父母たりえない。第一已代治の父母のどちらかが中山大納言のご落胤ならば、そう言えば良く、回りくどい言い方をする必要はあるまい。枠を広げてその根拠を慶子の血統に求めた時には、慶子の実父母が実は中山大納言・愛子でなかったことになるが、収拾が付がなくなるからここでは採らない。とすると、残された可能性は明治天皇の御血統である。萄もジャーナリストを称する譚路美が、論理的には不可能の〔明治天皇の母方のいとこ〕を敢えて唱えたのは、表面の論理よりも内容の真実性を信じるからであろう。

 そこで、譚路美の説を尊重しながら論理的解決を探ると、結局〔明治天皇は慶子が産んだ睦仁親王とは御別人〕との仮説に逢着せざるを得ない。ここにおいて浮上するのが宮中某秘事即ち☆大室寅之佑一件である。奇説というべくも一概に否定はできず、そのうちあっさり真相が判ることもあり得ようから、本稿はこれ以上追究しない(注 他書は寅之祐とするが、落合が敢えて寅之佑とするのは、他説と区別するための便宜である)。 

 
 ☆ブロガー註:代表的なものに故・鹿島昇『裏切られた三人の天皇-明治維新の謎』
  (新国民社 1997年2月)はじめ、一連の著作がある。 
  鹿島の言う「裏切られた三人の天皇」のうちの一人、孝明天皇の暗殺(毒殺)説の出所の
  代表的なものに、アーネスト・サトウの回想録『一外交官の見た明治維新』がある。
  サトウは、「前将軍・家茂も慶喜によって消されたといううわさは、かなり流布したもの
  である」とも書くが、サトウにそのことを「確言した」人物については、
  「ある日本人」としか記していない。
  萩原延壽『遠い崖』によれば、「サトウがそれを(ある日本人)聞いたのは、
  天皇崩御の当時ではなく、『数年後』、すなわち明治年間のことである。ちなみに、
  サトウの日記は、この『毒殺』云々について、ひとこともふれていない。・・」とある。
  (朝日文庫版 (4)、p195) 

 
 ★国防の核心に携わる俊秀・上原勇作の台頭


 四面を海に囲まれた日本で海防思想が芽生えたのは幕末で、江戸幕府も之れに目覚めた、維新後の明治4年(1871)、兵部大輔山県有朋、同少丞川村純義、同西郷従道が『軍備意見書』を上奏した。侵入する外敵を撃破すべき沿海砲台の設置を主張する消極的守勢戦略であるが、政府は財政的余裕がなく、山県陸軍卿は8年再び上奏して沿海砲台の設置を要望したが、実行は進まなかった。
 13年になり、参謀本部長・山県有朋は「隣邦兵備略」を上奏、帝国主義が末期段階に入って列強の世界分割が始まった国際情勢に鑑み、沿岸主要地域の砲台建設を焦眉の急務と主張した。あたかも戦後文化人が叫んだ「一国平和主義」に相当する当時の「東方論」の非現実性を指摘して、「軍備なければ独立なし」と、砲台建築の必要を訴えたわけである、果せるかな、清国は侵攻するロシアに屈してイリ条約を結ばされ、安南(ヴェトナム)では宗主国・清国が侵入したフランスと争い、清仏戦争に発展した。なかでも泰平の安眠を貪っていた李氏朝鮮は、開国と独立を巡って日・清・露三国対立の焦点となった。南下意欲が急なロシアが朝鮮半島を狙うのに対し、日本は国家存立のために朝鮮半島の独立を欲したが、李氏朝鮮の宗主国・清国は頼むに足りず、この先独立を保つ保証はなかった。

 世界規模で言えば、英露間の帝国主義的争闘すなわちグレート・ゲームの先端が極東に達し、中華思想によるパックス・シネンシス(シナによる平和すなわち冊封体制)と衝突、之れを破壊する歴史的必然が顕現したのである。イギリスは、地政的条件から日本をしてロシアに対抗させる戦略に立った。

 仏国留学中に大尉に進級した上原勇作は明治18年末に帰朝、翌年2月に士官学校教官・工兵学分課を命ぜられたが、19年12月には士官学校教官を罷め、臨時砲台建築部事務官に補せられた。これは陸軍の俊秀を悉く参謀本部に集めた川上人事の一環で、大山陸軍卿の欧州視察に随行し18年1月に帰朝した川上操六が5月21日付で少将に進級、参謀本部次長となって断行したものである。川上が上原を国防の核心たる砲台建築に配置したのは、留学帰りの新知識だからであるが、吉薗ギンヅル・高島鞆之助・野津道貫・樺山資紀・吉井友実ら勇作応援団の要望と完全に一致していた。因みに川上と一緒に大山の海外視察に随官した桂太郎も、川上と同時に少将進級、陸軍省総務局長に就き、以後は川上が軍令系統、桂が軍政系統と分担して日清・日露の両戦役に備えることとなった。砲台建築の技術方面を担当した上原大尉は、20年1月士官学校御用掛を兼補、参謀として各地の砲台候補地を視察し、その間6月から5か月間、軍事探偵として北大から満洲にかけて大陸に潜入した。この車事探偵行を『元帥上原勇作伝』は故意に隠蔽したが、神坂次郎著『波瀾万丈』により明らかになった。同著の根底は、南方でカラユキさんの娼館を経営した樺山伊平治の手記で、それには伊平治が天津の日本領事からの依頼で上原の従者となった次第を述べている。


 ★あの甘粕正彦の愛人が・・・上原の渡欧アリバイエ作 


 22年3月、臨時砲台建築部長・小沢武雄中将の欧州派遣に当たり、上原は随行を命ぜられて欧州を巡覧する。『元帥上原勇作伝』所載の旅行日記によれば、一行は9月2日にマルセイユに到着、翌日パリの「ロード・バロン・ホテル」に投宿した。17日にはオーストリアに向かい、ウィーンで内務大臣・山県有朋一行と会い、29日まで同国を巡覧。31日からポーランドに向かい、次いでロシアの首都ペテルブルグに入り、ロシア皇帝に謁見して滞在20日。次はスウェーデンから北欧諸国を経てドイツを視察した後、7月25日にパリに帰着して暫く滞在、その期間は無記事の日々も多いが、何しろ夏休みである。

 8月23日、パリを発って夜行列車でサザンプトンに向かい、9月6日まで滞英、9月7日にフランスに三度目の入国をした。以後14日まで挙動の記載がなく、15日からパリを基地にしてフランス各地を遊覧した。大抵は同僚の日本将校と同行したが、単独行動の日もある。27日にリヨンを発ってスイスに向かい、ジュネーブに滞留2日、イタリアのヴェニスに入ったのは12月2日であった。以後は南欧諸国を巡視して、12月15日に帰朝の途に上る。

 以上は『元帥上原勇作伝』所載の旅行記であるが、不審なのはその末尾の「元帥がスイスよりイタリアに入った当時はあたかも盛夏の候に際し、官庁は暑中休暇であり、イタリア皇帝は暑さを避け陸海軍の高級武官も亦皆転地中なるを以て、元帥は調査上不便を感ずること少なくなかった。因って再びフランスに至りて調査書類を整理したという」との記載である。旅行記の本文によれば、上原がイタリア入りしたのは12月で、三回目の入国をしたフランスのリヨンを出て、スイスを経由し、イタリアに初入国したのである。盛夏のフランス入国ならば、7月25日にドイツから入った二回目の方で、この時は9月7日に英国から入仏したが、むろんイタリアを経由してはいない。旅行記の本文と末尾が明らかに矛盾するのである。

 落合思うに、これは伝記の編者が上原生前の発言に惑わされたもので
あろう。昭和12年に発行された『元帥上原勇作伝』の編者代表は荒木貞夫大将で、奈良武次大将・松井庫之助中将・井戸川辰三中将が監修に当たった。上原の側近だった荒木が覚えていた上原生前の言を旅行記の末尾に載せたのだが、本文との矛盾は先刻承知で、敢えて放置したものと思う。『元帥上原勇作伝』の内容に隠蔽や矛盾が多いのは、荒木が上原の隠蔽を暴かず矛盾を放置したためで、上原のアリバイ癖を十分承知していたからであろう。上原が始終アリバイ作りに腐心したことは、『周蔵手記』も指摘しているが、素より承知の荒木は敢えて「真相暴露を百年の後に待つ」方針を建てたものと考えられる。

 上原は、この滞仏に関して何を隠そうとしたか。それは、明治に14年4月から18年12月までの留学時代にフランスで馴れ親しんだ女性、ポンピドー家のジルベール(?)との再会であろう。この旅行から39年経った昭和3年、上原の密命で渡欧した吉薗周蔵と若松安太郎は、パリで藤田嗣治と会い、甘粕正彦をリーダーに仰いで密命を果たす。アルザスで周蔵と落ち合った甘粕は、独りで用件を済ましてきて、周蔵たちに報告した。「相手は閣下(上原)の子供だと思える女だった。母親は昨年亡くなりましたと上原に伝えて欲しい、と託かった。混血で、年齢は少なくとも35ぐらいではないかと思う」と。

上原のこの時の滞仏で身ごもった子ならば、明治23生れの38歳になる。その「母親」が上原の帰国後に来日して生んだのかも知れぬが、ともかく、甘粕の愛人としてフランス語を教えたポンピドー牧師の姪とは、この女と見て間違いあるまい。それを、甘粕がいかにも他人のように語ったのは機密保持のためではあるが、それは帝国陸軍の機密ではなく在仏ワンワールドの機密であった。むろん甘粕の内心には、若干の照れもあっただろうが。

 
 ★ワンワ~ルド薩摩派政権  松方正義内閣の攻防


 明治22年1月25日に帰朝した上原勇作は、臨時砲台建築部事務官として各地の砲台に出張し、5月9日陸軍工兵少佐に進級、10月22日には工兵第五大隊長に補せられた。工兵第五大隊は広島第五師団麾下で、師団長は野津道貫中将である。広島に滞在すること1年、野津の長女・槇子(明治6年10月11日生)が満18歳に達するのを待っていた勇作は、24年10月25日に槇子と結婚式を挙げた。

 ワンワールド薩摩派の初代総長で前宮内次官の吉井友実が24年4月22日に長逝、薩摩派は名実共に二代総長・高島鞆之助の時代に入る。5月6日、山県有朋が内閣を投げ出し、松方正義が第一次内閣を組閣するや、第四師団長高鳥鞆之助が大山巌に替わり陸軍大臣に就く。海軍大臣はその1年前に西郷従道に替わり樺山資紀が就いていた。参謀本部では、総裁に有栖川宮熾仁親王を仰ぐも、実質は参謀次長・川上操六(23年6月中将進級)が取り仕切っていた。いずれもワンワールド薩摩派の中枢で、高島が総長、樺山が副長、川上も副長格であるが、なかでも首相に就いた松方はロスチャイルド直参で日本金融総帥として別格であった。正に陸軍・海軍・参謀本部・金融財政と国家権力の主要部をワンワールド薩摩派が握ったのだが、面々はすべて吉薗ギンヅルの知己で、上原勇作応援団のメンバーであった。上原は恐ろしいほど順調に登竜門を登ったのである。

 軍拡予算を急務とする松方第一次内閣は、民力涵養を叫ぶ民党の攻撃に反撃するため25年2月議会を解散し、総選挙に打って出た。これは閣内強硬派の高島陸相・樺山海相の主導で、松方首相も同心であった。
 彼らが軍拡に固執したのは本人の国防上の信念であるが、根底には英国ワンワールドの意思があったことを見逃してはならない。
 ロシアとのグレート・ゲームを優位に進めるために、日本をして朝鮮半島と台湾島を確保せしむる戦略を薩摩派に実行せしめたのは、玄洋社を看板にした杉山茂丸以外にない。

 選挙干渉は、高島・樺山が主張して閣内唯一の長州人・品川彌次郎内相に実行せしめたが、品川は非戦主義で軍拡延期派の長州陣営に属したから、伊藤博文・井上馨の工作で選挙干渉の手を秘かに緩めた。ところが、福岡県では知事・安場保和が先頭に立ち、玄洋社と相携えて選挙干渉の指揮を取った。安場ら官僚政治家よりも一介の浪人・杉山茂丸の方が、この種の政治行動に積極的だった所に杉山の特異性を観るべきである。

 25年8月8日、選挙干渉を実行した樺山(資雄)・調所両知事の更迭に反対した高島・樺山の辞任で松方は内閣を投げ出し、伊藤博文に替わる。高島・樺山も予備役入りして枢密顧問官となり、陸相に大山巌が復任、海相には仁礼景範(薩摩)が就いた。8月18日に欧州出張から帰朝した陸軍少将・児玉源太郎は、早速に前陸相・高島を陸軍官舎に訪ね、高島から杉山を紹介された意味は深長である。同23日、児玉は陸軍次官兼軍務局長となる。ここにワンワールド薩摩派の政権は一見崩壊したかに見えるが、松方の金融における、また高島の陸軍における、さらに樺山の海軍における権力にはいささかの欠落も生じなかったと思われる。

 
 ★圧勝に終わった日清戦争 樺山の躍進と高島の不遇


 第五大隊長として広島に在った上原少佐は、明治25年8月29日参謀本部に戻り、副官を命ぜられ陸大教官を兼補した。また参謀総長・有栖川宮熾仁親王の高級副官として陸軍大演習に臨み、ある時は観兵式に臨んだ。26年7月から安南およびシャム国に派遣され、東南アジアの現況とフランス・シャム戦争の実況を視察した上原は、11月に参謀本部副官から参謀本部第二局局員に転じ、鉄道会議臨時議員・工兵会議議員に兼補され、国防戦略の中枢に入っていく。当時の国防戦略は、全国要地に砲台を設けて師団が護り、砲台の間を鉄道で繋いで兵員輸送を図らんとするものであったから、兵備としての鉄道の重要性は論を挨たなかった。財政上の理由から鉄道建設を民営に任せざるを得なかった時期に、吉井友実が宮内省を出て日本鉄道会社社長に就いたのもそのためであった。右のように参謀本部で上原が受けた優遇は著しいが、すべて参謀次長・川上操六によるものであった。

 27年3月29日、朝鮮の全羅南道で東学党の乱が起こり、5月31曰朝鮮政府は清国に討伐のための出兵を要請、清国から出兵通知を受け取った曰本も直ちに出兵し、曰清戦役が起こる。非戦士義者・伊藤博文の内閣の時に開戦したのは、歴史の皮肉である。6月5曰、野津中将隷下の第五師団に混成旅団動員の令が下り、上原も同8月27曰に第一軍参謀に任ぜられ9月15日の平壌攻撃に参加したが、翌日平壌は陥落した。9月25曰工兵中佐に進級した上原は、引続き各地の戦闘に参加する。野津は12月27曰付で第一軍司令官に就き、上原も翌年3月に第一軍参謀副長になる。

 曰清戦争は曰本の圧勝に終わり、上原勇作中佐は第一軍参謀副長として28年5月25曰凱旋、10月18曰付で功四級金鵄勲章並びに年金5百円及び勲六等単光旭日章を受ける。戦後も参謀本部に勤め、29年2月から伏見宮貞愛親王(陸軍少将・歩一旅団長)がロシア皇帝戴冠式参列のため差遣に付き、その随行を命ぜられ、半年間欧州に赴いた。

 ワンワールド薩摩派を見渡せば、この戦役の最大の成長株は副長・棒山資紀であった。25年8月の海相辞任以来、2年間を枢密顧問官で過ごしていたが、27年7月現役に復帰、海軍軍令部長に補された。陸軍参謀総長と並ぶ海軍の最高ポストである。28年5月、政府は台湾総督府を新設したが、初代総督に樺山が挙げられたのは少佐時代から台湾問題の第一人者だったからで、そのために海軍大将に進級、伯爵に昇爵した。上原の岳父で高島の義弟・野津道貫は、戦争末期の3月に陸軍大将に進級、8月5曰に伯爵に昇爵し、近衛師団長となる。戦前戦後を通じ、参謀本部次長として軍令系統を掌握した川上操六が一躍子爵に叙されたのは当然であった。右の諸子に比べると高島鞆之助の処遇が何とも不思議で、25年8月の陸相辞任で予備役に入り、樺山と同じく枢密顧問官として過ごしたが、実に3年間しかも日清戦争の戦前・戦中に何をしていたのか、明らかでない。

 終戦直後の28年8月21曰、高島は予備役の身で突然台湾副総督に任ぜられ、劉永福の土匪軍5万を相手に奮闘し台湾島を平定した。第二師団を率いた戦闘だから事実上の戦功だが、戦後処理扱いなのか、何らの恩賞に与らなかった。だが副総督として台湾に関わった高島は、伊藤首相が兼ねた台湾事務局が29年4月新設の拓殖務省に移行するや初代大臣を委嘱され、合湾総督を監督する立場になり、樺山と手を携えて台湾政策の根本を建てることとなる。高島の倒閣工作もあって伊藤が内閣を投げ出したので、9月に松方第二次内閣が成立、高島は陸相を兼務、海相には西郷従道が就き、樺山は内相で入閣した。5年前の第一次内聞を彷彿させる戦争準備内閣には違いないが、最大の目的は実は金本位制にあった。世界金融皇帝ロスチャイルドに貨幣法制定を命じられた松方は、大隈重信にも協力を要請して連立政権の体裁を成したので、世人は「松隈内閣」と呼んだ。貨幣法は30年3月13曰に衆院を通過し、23曰貴族院の是認を経て、11月から金本位制が施行される。金本位制と日露戦争の準備を責務とした松方第二次内閣の政策は明らかに在英ワンワールドの意思に沿っているが、両者を媒介した者は杉山茂丸と観る以外にあるまい。

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(23)  <了>。
                      







(私論.私見)