吉薗周蔵手記(22)



 更新日/2021(平成31→5.1日より栄和改元/栄和3).2.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2005.4.3日、2009.5.27日再編集 れんだいこ拝


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(22)-1
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(22)
 -昭和金融恐慌の主役・鈴木商店と台湾銀行を操るこの面々
                              ◆落合莞爾   


 ★神戸のふたりの豪商 後藤勝造と金子直吉 


 日露戦の実行という重要な国務を抱えていながら台湾統督に座り続けた児玉源太郎に代わり、実質的に台湾行政を総覧していた民政長官・後藤新平は、台湾産品を扱う業者にとって神様的存在であった。インターネットのフリー百科事典『ウィキペディア』は、杉山茂丸を「明治31年に第4代台湾総督に児玉源太郎が就任し、民政長官に後藤新平を就けると、杉山は両人に対して製糖業の振興による台湾経済の確立を献策し、自ら製糖会社の設立に携わった。また台湾銀行の創設や台湾縦断鉄道の建設にも関与した」と述べるが、これは皮相的にせよ、杉山と台湾総督府及び台湾産業の関係を示している。台湾における通貨発行権を有する台湾銀行と、台湾島最大のインフラたる台湾縦貫鉄道、さらに戦前の日本経済を支えた大日本製糖を始めとする製糖業は、すべて杉山が発案し推進したものであった。産業・経済に関する杉山の見識と実績は、どう見ても井上馨・渋沢栄一に劣らないが、そのことに従来の史家は全く触れてこなかった。その理由は、読者諸賢とこれから探っていくことにしよう。

 後藤と杉山の関係は、後藤の女婿・鶴見祐輔が「岳父と杉山は非常な親友であって、何十年となく交友した」と記した通り、極めて深かった。ドイツに留学してワンワールド哲学を体得してきた後藤の方向性は、高島鞆之助らワンワールド薩摩派や杉山のそれと極めて近いから、この3者は自然に共同歩調を取ったのである。後藤の信用を取り付けた商人は当然ながら大いに発展したが、その代表が金子直吉の鈴木商店と後藤勝造の「丸マ」後藤回漕店であった。嘉永元年(1848)生まれの後藤勝造は岩崎弥太郎に食い込み、回漕業として成功、神戸港で鈴木商店主の鈴木岩次郎らと並ぶ名士となった。旅館・ホテル業に進出した勝造は、たまたま宿泊客となった後藤新平に接近して、台湾での事業展開の基盤を固めるきっかけを掴む。JRの大きな駅に今も見かける構内レストラン食堂「日本食堂」も、新平の勧めで勝造が作った駅食堂から始まった。32年に食堂車営業を開業した山陽鉄道だがうまくいかず、30年頃に神戸市川崎町(後の郵便貯金センターの地)で開業した自由亭ホテルに食堂車の営業権を譲渡したのは34年で、自由亭ホテルは「みかどホテル」と改名したが、後に鈴木商店に建物を売却して廃業した。例の日本食堂は、昭和13年に「神戸みかど」を始め「上の精養軒」「福岡共進亭」など各地の列車食堂業者が共同で設立したものである。

 鈴木商店の大番頭・金子直吉は、神戸の豪商仲間の後藤勝造の紹介で後藤新平に接近したとされている(インターネット『月刊・きんもくせい』)が、これは表向きで、裏面では樟脳取引で知られた鈴木商店を総督府御用商人にすべく、ワンワールド薩摩派が周到に根回ししたと見るべきである。
薩摩派総長の高島鞆之肋の事業上のパーートナーであった吉薗ギンヅルは、ダミーの日高尚剛を通じ鈴木商店の経営陣に「手の者」を潜入させたと伝わるが、それは日高の母方の親類〔安達リュウー郎〕のことらしい。ともかく鈴木商店は御家はん(女主人のこと)ヨネを隠れ蓑にして、実質は薩摩派が支配していた会社なのである。

 明治30年に葉煙草専売法を公布、翌年に施行した政府が36年に「煙草専売制度理由及施行順序」を公表、翌年世上の猛反対を押し切って煙草専売方を施行した目的は、日露戦争の軍費に充てるためで、38年には台湾においても同法を施行した。専売法の施行後は、専売局が専ら製造販売を行い、民間業者の業務は輸出だけとなった。日露戦後にわが勢力圏となった満洲においても煙草需要は大きかったが、BAT(英米煙草トラスト社)の奉天工場新設により、内外業者による競争激化が予想されたので、専売局は国産煙草の輸出に関わる大小業者を糾合せしめ、外資に対抗する国策会社として「東亜煙草会社」の設立を促した。39年10月設立の東亜煙草社は、専売局から、官煙の輸出・移出の特許に加えて樺太全土の独占販売権を与えられて社長に佐々熊大郎が就任したが、この時の設立発起人の1人に、右の安達リュウ一郎がいるらしい。

 ★後藤新平も一目置いた 藤田謙一の辣腕ぶり


 その後、東亜煙草の株式を買い集めた鈴木商店は、大正2年12月24日の株主総会で、同店幹部の藤田謙一を取締役に送り込む。『弘前商工会議所』編集発行の『藤田謙一』によれば、藤田は豊臣方の武将明石掃部の末裔で、弘前藩士・明石栄吉の次男として明治6(1873)年に生まれ、5歳で藤田家に養子入りした。東奥義塾を中退して青森県庁の給仕となった藤田は、それも辞して24年に上京、明治法律専門学校(明治法律学校・明治大)に入学して同校創立者(正しくは関係者か)の法学博士・熊野敬三の書生となる。

 32年栃木県属に挙げられた藤田は、9月に大蔵省専売局属に転じ煙草専売制度を担当したので、蔵相(正しくは農商務相)曾根荒肋の知人たる後藤勝造と相識ったという(後藤勝造が、上に述べたように後藤新平に接近したのは、その後であろう)。折から葉煙草専売法公布の直後で、生産・製造・販売一貫の完全専売制の実施が迫る中、大小の煙草製造業者が乱立して過当競争に陥っており、天狗煙草で知られた業界トップの岩谷商会も経営危機に瀕していた。社主の岩谷松平は、後藤勝造が推薦した藤田に岩谷商会の一切を委ねる。34年6月に専売局を退職した藤田は、翌年岩谷商会の支配人に就き、会社組織に変更して自ら専務理事となる。BATに対抗して天狗煙草を売り込んだ藤田が大成功を収めたので、37年の専売制度の完全実施に際し、政府による岩谷商会の買収額は巨額になった。

 40年、藤田は再び後藤勝造に招かれ、今度は名古屋の豪商・小栗家の整理に当たる。42年5月に小栗系の東洋製塩の取締役に就任した藤田は、翌年同社を「台湾塩業」と改称し、建て直しに成功した。その手腕に驚いた金子直吉は、藤田を鈴木商店に招き、参謀として関東所在の傘下会社を任せた。今なら鈴木商店関東支部の関東東業部長に就任と言ったところである。

 これに先立ち前後して小栗家の整理に関わった金子と勝造はいずれも失敗し、勝造の依頼を受けた藤田が同社を見事に再生したわけだが、社名を「台湾塩業」と変えた処に台湾総督府の関与が窺われる。曾根荒助の知人とされる勝造も、大所高所から見れば金子と同じ位置で後藤新平の麾下にあったが、新平の背後に杉山茂丸がいた。
金子が藤田を鈴木商店に入れた経緯も、実は杉山が関与したのだろう。

 因みに、藤田謙一の子息がインターネットで語るには、「父は十六才の時、短刀一振りを手に上京し、桂太郎の家に厄介になった。桂家で忠勤を励むうちに岩谷天狗煙草の再建を命じられた」とあるが、藤田が16歳の21年には桂は陸軍次官で、書生も置いたであろうが、藤田が30歳で行った岩谷の再建とは時期が合わず、前掲『藤田謙一』にいう学歴・職歴とも両立しない。藤田を後藤勝造に紹介した農商務相・曾根荒助は長州派の領袖で、桂太郎とも杉山とも近かった。34年と言えば、杉山が桂・児玉と組んで、非戦派・伊藤博文を調略する秘密結社を作ったころで、杉山と桂が最も密接な時期である。桂と藤田の間に何らかの関係があっても不自然ではないが、謙一が子息に「桂太郎の書生云々」と語ったのは、出世譚につきものの誇張で、実は杉山が関係していたように思える。

 鈴木商店に入った藤田には、同店の死命を制する後藤新平さえ一目置いた。後に後藤新平四天王の1人と呼ばれた藤田は、もし後藤内閣が実現していたら大蔵大臣になった(前掲『藤田謙一』)と評されたほどで、金子の下風に立つ男では決してなかった。藤田はまた玄洋社の頭山満とも親交があったが、杉山の仲介によるのは自明であろう。そもそも薩摩派が裏から操っていた鈴木商店に、金子が藤田を招いたとは表向きで、真相は藤田の能力を買った誰かが、藤田の活動拠点として鈴木商店を提供したものではないか。その誰かが、在英ワンワールド直参の杉山なのか、それとも薩摩派総長の高島か、或いは東北キリシタンの棟梁・後藤新平なのか。それは目下のところ断定できないが、東京商工会議所の第5代会頭として日本商工会議所の創設に奔走し、自ら初代会頭に就いた藤田は、傍ら孫文ら亡命要人を匿い、またユダヤ満洲共和国の建国計画に参画したため、フリーメーソンの日本代表と噂された。いかにもと思うが、鈴木商店を足場に台湾総督府に食い込み、長州派を操縦した藤田の足跡は、玄洋社を看板にした杉山とまったく酷似している。思うに藤田は、鈴木商店に入社後幾許もなく杉山の代行役となり、対長州工作や財界工作を分掌したのではあるまいか。

 昭和2年に起きた金融恐慌の詳細に関する史書は、巷間に溢れているから、本稿で述べる必要はあるまい。

   続く。
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(22) -2
 ★西園寺公望の懐刀にして台湾銀行頭取、中川小十郎  

 恐慌劇の主役たる台湾銀行は、台湾領有の3年目すなわち明治30年に創立され、32年に開業したが、その創立に杉山茂丸が深く関わったことは周知である。大正9年から15年まで、台湾銀行と鈴木商店が最も密着した時期に台銀頭取を務めた中川小十郎は、慶応2年(1866)生まれで、出自は丹波弓矢隊で西園寺家の家臣だった。大学予備門時代には夏目漱石・南方熊楠・正岡子規、さらに上原勇作と旧制士官生徒で同期(第3期)の秋山好古(秋山真之の兄)と同窓だった中川は、明治26年帝大法科を出て文部官僚となったが、31年に辞職、33年に京都法政学校(後の立命館大学)を創立して西園寺家の私塾・立命館を継承する。39年に第1次西園寺公望内閣が成立すると首相秘書官に就いた中川は、41年の西園寺内閣総辞職に伴い樺太庁第1部長に就いた。これは、日露戦後に南半部がわが領土となった樺太に軍政施行を望む陸軍の要求を阻止すべく、西園寺が送り込んだとされる。45年に樺太庁を辞職した中川は、杉山茂丸の計らいで台湾銀行副頭取に就任し、大正9年に頭取に昇任し、14年まて在任した。正副頭取の在任は実に14年に及び、この間の鈴木商店に対する過剰融資は実に中川が行ったもので、その背後に杉山がいたことは自明である。

 中川の樺太庁第1部長当時の上司・樺太長官は、大学予備門で杉山?の同期(帝大卒業は1期上)だった☆平岡定太郎で、原敬の腹心として政友会の政治資金を捻出するために☆郵便切手の不正払下げを行ったとして、大正3年に免官、翌年横領罪で起訴された。三島由紀夫の祖父である。原敬は山県有朋に接近したためか、薩摩派とはいわゆる反目(はんめ)で、その大正8年の☆暗殺に関しても、後藤新平・上原勇作の関与が近来囁かれ始めた。


 ブロガー註:
 ☆参考:
 「・・(平岡)定太郎の長官任命に力を貸した政治家達の圧力で、定太郎は漁業と缶詰業の認可と引き換えに金を受け取り、その金を選挙資金として東京に送ることを余儀なくされた。ライヴァルの漁業会社がこのニュースを洩らし、スキャンダルが広がって、定太郎は退官の止むなきにいたった。しかも、定太郎の退官はその後の目のまわるような失墜のほんの始まりにすぎなかった。・・」 『三島由紀夫 ある評伝』 ジョン・ネイスンより。
 因みに、今は関係のないエピソードだが、この三島由紀夫(平岡公威)の祖父・定太郎は、帝大法科卒業の翌明治26年、著名な武士の家系の永井夏子という女性と結婚する。
 少女時代から、「しばしばヒステリーの発作」を起こし、長女にして「一家の厄介者」だったといわれる女性である。
 この夏子が生後まもない孫の公威(三島)を母親から奪い取って12歳になるまで独占したという。

 ☆「原敬暗殺」に関して、例えば、
 「原敬日記」 大正10年2月20日条には次のようにある。
 「・・・ 夜、岡崎邦輔、★平岡定太郎、各別に来訪。余を暗殺するの企てあることを内聞せりとて、余の注意を求めくる。余は厚意は感謝するも別に注意のなしようも無し。また、度々かくのごとき風説伝わり、時としては、脅迫状などくるも、警視庁などに送らずしてそのまま捨ておくくらいなれば、運は天に任せ何ら警戒等をくわえおらざる次第なり。狂犬同様の者にあらざるかぎりは、余を格別憎むべきはずもこれ無しと思うなり。」。

 
 引用に戻る。


 西園寺公望の腹心だった原敬は、長州派に加担したため後藤・杉山と路線を等しくする薩摩ワンワールドの反対側に回った。原は腹心の平岡定太郎を樺太長官に起用して樺太の材木利権を確保しようとしたが、西園寺が第1部長に送り込んだ家臣で実質筆頭秘書だった中川がどこかで杉山と繋がっていて、台銀の最高幹部となって台湾運営に深く関与し、結局、薩摩派のダミーたる後藤・杉山・中川と長州派のダミー原敬・平岡組の対立に発展したが、その原因の一つに、樺太の木材問題を巡る利権的対立があると推定するが、別に論及したい。

 ともかく、高島鞆之助が陸相の座を追われた明治31年から、高島と組んだ吉薗ギンヅルが日高尚剛をダミーとして鈴木商店に深く関わり、鈴木商店を通じて東亜煙草との関係も深まった.その利権は、元来ワンワールド薩摩派総長の座に由来するもので、上原勇作が明治45年の陸相就任を機に高島から引き継いだと見られるが、引退した高島は大正5年に死去する。後藤と上原の関係は知られていないが実に深く、後藤の右腕・中村是公が息女を上原元帥の嗣子・七之助に嫁がせている所に、後藤の隠れた1面が浮かぶ。


 ★まさに〔いつか来た道〕 取付騒ぎと公的資金注入  

 第一次大戦の好景気の反動が顕れてきた大正15年11月20日、政府・日銀は、鈴木商店及び日本製粉を救済するために資金援助措置を決定した。明けて昭和2年、年初から地方銀行の一部が休業し始めたが、3月14日の国会で片岡蔵相が東京渡辺銀行の手形が決済不能と□にしたのを切っ掛けに、各地で銀行取付けが発生し、瞬く間に全国に広がった。その間に鈴木商店の経営破綻が明らかになり、鈴木商店に貸し込んだ台湾銀行も経営危機に陥った。日銀の鈴木商店への貸出は総貸出の半分近くに膨らみ、しかもその9割以上が固定貸出であった。昭和末年から平成初頭に掛けての日本長期信用銀行と高橋治則のイ・アイ・イ・インターナショナルの関係もこれに近いものがある。

 帝国議会は3月31日を以て閉会していたが、旧憲法第八条では、帝国議会閉会中に緊急の必要がある場合、天皇が法律に代わる勅令を発布することが出来た。そこで政府は、緊急勅令を用いて日銀特融による日銀救済措置を実施しようとし、4月17日に枢密院に諮詢(しじゅん)したところ、19対11で否決されたので、首相・若槻礼次郎は即日内閣を投げ出す。この事態は、枢密院の主といわれた伯爵・伊東巳代治が元来若槻の政策に不満で、反対に回ったために生じたものであったが、議長の男爵・倉富勇三郎及び副議長の男爵・平沼騏一郎も同じく反対に回った。

 ★明治天皇の母方のいとこ? 伯爵・伊東巳代治の政治力


 伊東巳代治は、長崎町年寄で書物役の伊東善平の三男として安政4(1857)年に生まれた。原敬と上原勇作の1歳下、後藤新平とは同じ年で、彼ら大正三傑と全く同期している。伊藤博文を腹心中の腹心として支えた伊東の政治力は、伊藤の死後もなお隠然たるものあり、実に上の大正三傑に準ずるものがあった。

 ワンワールド薩摩派は、フルベッキ、グラバー及びアーネスト・サトウの直接指導を受けて倒幕開国を進めた吉井(1827生)、西郷(同
年生)、大久保(1830生)の薩摩三傑を第1世代とするが、維新の時分には30代で戊辰役では方面指揮官や隊長に就いた樺山資紀(1837生)あたりもこの世代に相当する。慶応から明治初頭に生まれた彼らの子女が第2世代である。その中間の第1.5世代というべき高島鞆之助(1844生)は、吉井の引きで明治政府での出世は樺山らよりずっと早く、年齢差もグッドタイミングで、吉井から薩摩派総長の地位を譲られた。

 因みに長州では、薩摩三傑に同期しているのが大村益次郎(1825生)、広沢兵助(1833生)、水戸孝允(同年生)が長州三傑と言うべきで、ここから井上馨(1835生)、山県有朋(1838生)までが第1世代で、伊藤博文(1841生)も早熟のため第1世代に入る。高島のライバル桂太郎(1847生)は、高島と同じく第1.5世代に属したため、山県有朋(1838生)から長州陸軍の棟梁の座を譲られたのである。

 大正三傑は薩摩・長州の枠を超えた日本ワンワールド三傑だが、伊東巳代治がこれに準ずるのは、伊藤博文から長州派の2部門を引き継いだからである。ワンワールドが金融・軍事・宗教の3部門に分かれることは前述した。その外に情報宣伝分野の存在を忘れてはならないが、これは広義の宗教部門に含まれる。伊東は明治5年に15歳で工部省電信寮修技教場を卒業し、長崎電信局に入るが、翌年1月に辞職、「兵庫アンド大阪ヘラルド新聞社」に入社した後、兵庫県属に転じて訳官(通辞)になる。10年には再び工部省に入り、権大属に任じた。電信に携わったために国際通信事情に通じた伊東は、工部卿・伊藤博文の注目を浴びて腹心となり、伊藤が憲法調査のために明治15年2月から1年半にわたり渡欧した時同行し、その後は金子堅太郎・井上毅と共に、伊藤の下で明治憲法の草案を練った。25年8月の第二次伊藤内閣で内閣書記官長に就き、28年には早くも男爵を授けられ、31年1月に第三次伊藤内閣の農商務相に就き、32年から枢密顧問官となる。以来昭和9年に死去するまで実に35年間を枢密院に居続け、枢密院の牛耳を執って憲法の番人と称された。

 伊東巳代治といえば、インターネットのフリー百科事典『ウィキペディア』は「明治天皇の母方のいとこでもある」と解説している。奇説なのに根拠を明らかにしないのは不思議だが、わざわざ書くほどだから根拠がある筈だ。それだけではない。清末の洋務運動で知られる譚嗣同の子孫でジャーナリストの譚路美が著した『父の国から来たスパイ』とか題した書にも同じ事を述べるが、やはり根拠を示さない。両者は同じネタに接したのだろうが、ネタが明らかでない。甚だ興味深いことであるから、脇道に逸れるのは承知で、次号で若干の探究を試みたい。

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(22)   <了>。







(私論.私見)