吉薗周蔵手記(19)


 更新日/2021(平成31→5.1日より栄和改元/栄和3).2.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2005.4.3日、2009.5.27日再編集 れんだいこ拝


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(19)
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(19)
 ― 『宇都宮太郎日記』から起高作戦=高島鞆之助再起策を追う   
 

 ★「高島を棄ておくのは今日甚だ残念」起高作戦の淵源

 前月に紹介した『宇都宮太郎日記』の明治33年2月5日条は、次のように始まる。

 「起高作戦の第1着手として、直ちに本人を紀尾井町の邸に訪い(退省掛)、其の出づべきや否やを叩きしに、自分に於ては何時にても出づるの意なきにあらざる旨を答ふ。因て其の方法として2案を陳ぶ(1は直に大山を交代すること、2は1旦大臣となり夫れより本目的の地に移ること)。本人は、不同意にはあらざるべきも時機未だ到らずとの意を洩らせり。余は、妨げとならざる様、多少試みるところあらんことを告げ、且つ互いに秘密を守るべきことを約す」

 いきなり出てきた「起高作戦」とは、2年前に陸相を罷めて予備役に編入された高島鞆之助を再起させる作戦のことである。宇都宮少佐が高島邸(現在は上智大学のクルトゥルハイム聖堂)を訪れたのは、高島を参謀総長に就ける工作を実行するに当たって本人の意思を確認に来たわけだが、高島がいつでも出馬の意思はあると答えたので、方法として2案を示した。第1は、大山巌・参謀総長と直接交代すること。第2は、一旦陸相に就き、それから本来の目的たる参謀総長に移ることである。これに対し高島は、不同意ではないが時機未到来と答えた。そこで宇都宮は、邪魔にならぬ範囲で若干試してみると告げ、互いに秘密保持を約した。夕食後、宇都宮は高島邸を一旦辞去し、参謀次長・大迫中将を訪れる。種々談話の中で「高島中将を現在のままに棄ておくのは、国家大有為の今日甚だ残念」と言うと、大迫も同感と答えたが、宇都宮は真意までは明かさず、10時過ぎに大迫邸を辞して高島邸に戻り、一泊した。

 同じく2月18日条にも、次のような一文がある。

 「午後3時過ぎの汽車にて大磯に至り、伊瀬地少将を訪ひ、此の夜は旅館石井に一泊す。此の行の目的は一には少将の病気を見舞ひ、一には起高作戦の第1着手を為したるなり。蓋し、露国との大決戦を目前に控えたる帝国の参謀総長としては、諸将官中に〔高〕に勝るものなく、国家の為め是非とも之を起さざる可らざることを説き、其方法としては(1)政変の際高島を陸軍大臣となし、現役に服せしめ、大臣の席を他に譲り自らは参謀総長に転じて、終身之に拠るの決心を為さしむること。(2)は大山現総長をして、自ら高島を薦めて辞職せしむること・・・」

 宇都宮が大磯に来た日的は、まず伊瀬池少将の病気見舞いである。伊瀬池好成は薩摩藩士で、明治4年の御親兵募集に応募して初任少尉。第一連隊長・乃木希典の副官だった伊瀬地は、郷里の隣家・湯池氏の息女シヅを乃木と見合いさせた。11年に高島鞆之助夫妻の媒酌で結婚式を挙げた乃木夫妻は、その34年後に壮絶な自裁によって明治の日本精神を世界に顕現した。日清戦争の最中に少将に進級した伊瀬地は、28年11月に第一1旅団長、兼威海衛占領軍司令官に補せられ、31年10月1日付で近衛歩兵第二旅団長に転じた。この日は大磯の石井旅館別館で病臥していたが、2か月後に中将に進級して第六師団長に補されるほどで、重病ではない。病気見舞は口実で、宇都宮の本来の目的は「起高作戦」に関して伊瀬地の意見を聴くことであった。ここで「帝国陸軍の参謀総長として高島程の適材は他に居ない」との主張は、現総長・大山巌も実は適材でないことを意味する。茫洋を以て自他ともに任じる大山元帥のリーダーシップは調整型で、国家危急の際の適材ではないので、国家のためには果断を以て鳴る高島を是非とも立ち上がらせる必要があるとし、その実現方法としては次の2つを挙げた。(1)は、現行の山県内閣の倒れる際、高島を3度目の陸相に就けて現役に復帰させ、その後陸相を後進に譲る形で高島自身は参謀総長になり、生涯その職を全うする決心をさせること。(2)は、現総長大山巌が高島を後任に指名して辞任することである。更に続けて『日記』に記すところは、

 「この2案の中では(2)が良い。それは政変が起こるにしても、次の内閣を組織する者は伊藤かその同類であって、自由党とは必ず提携か連
立するだろうし、またその時には桂は依然としてその地位に留まるだろうから、高島の登場の余地はほとんど期待できない。又、進歩党との連携も、遠い将来はともかく、当分は出来る望みはない。要するに、自由党にせよ進歩党にせよ、高島の手腕を畏怖しているので、之を迎えて内閣に招くことは、当分の情況では決してあり得ることではない。然し、時機時機と言ってばかり居ると、歳月の過ぎるがごとく、高島は軍人からも忘れられ、世人からも全くの予備役将官として谷や曽我と同視されるがごとき境涯に陥り、現役復帰は益々困難となっていく・・・」

 つまり、高島を参謀総長に就ける方策は、①政変の際に高島を陸相に押し込み、その後で高島が陸相から総長に転進するか、②現総長の大山が後継に高島を指名するか、の2案があるが、結論として②が良い。理由は、政変が起こっても山県の後任首相は伊藤かその同類の政党容認派であって、自由党系と連携するだろうし、その場合には桂は陸相を罷めないから、高島を押し込むのは無理である。しかしながら、好機を待っていては、高島は同じく予備役中将の谷干城や曽我祐準(当時日本鉄道社長)と同様、軍人からも忘れられてしまう。右の理由で、宇都宮は焦燥感を抱いていた。

 ★大山巌参謀総長に後任として指名させれば・・・

 『宇都宮日記』は、続きを次のように記す。

 「結局(1)は採れず、(2)を採るしかない。つまり単刀直入の(2)が最も得策で、しかも決行は現時点が適している。それは、当の競争相手のうち、山県は目下総理大臣、桂は陸軍大臣、児玉はまだ競争相手に数えるには足りないが台湾総督の座にあり、これらの大物が参謀総長に手を伸ばすことを今はしにくいから、大山が納得して自ら引退し、代わりに高島を推薦したばあい、彼らは勿論内心は反対であるにしても、西郷従道(内務)、樺山資紀(文部)、山本権兵衛(海軍)らの閣僚が同心協力して、その地位を賭けても之れをなさんとの決意さえあれば、できないことではないと確信する。このため、まず西郷を説得し、西郷から大山に説得させ、且つ山県らに対しては、大山にも一緒に相談させなければならない。西郷を説くには野津(大将・東武都督)を用いるが、野津を動かすのは伊瀬地その人である。この決心が一旦決まるや、一瞬にして決行すべきで、そうでないと長州の桂太郎・寺内正毅(中将・教育統監)を中心として陸軍省の岡部政蔵(長州・陸軍省高級副官)・宇佐川一政(長州・軍事課長)から、また参謀本部でも田村チ与蔵(山梨・第1部長)・福島安正(長野・第2部長)から、連合して反対運動も起こるべく、伊藤を経由して天皇の聖旨を持ち出す反対運動もあり得る」

 以上の要旨を反復して伊瀬地に説いたところ「同人も素より大大賛成 にて、病気がもう少し回復すれば、3月下旬ころ帰京して大いになすあるべきを承諾した」との文章の隅々に、起高作戦に当たってまず伊瀬地に打診したところ、大賛成の感触を得た宇都宮の嬉しさが滲み出ている。


 続く。
 
 
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(19)
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 ― 『宇都宮太郎日記』から起高作戦=高島鞆之助再起策を追う   
 


 ★「上原勇作大佐を訪れ起高談をなす」

 以下も『宇都宮日記』を観ていく。

 「2月19日、朝飯が終わったばかりの頃に、伊瀬地が来た。そこで自分は旅館を引き払い、伊瀬地の宿(石井旅館の別館)に行き、前日の談論を反復してその決心を確かめ、午後3時28分発の汽車で帰京した。2月20日役所(参謀本部)にて、高島を起こす必要を上原勇作と語るが、起高の決心はまだ本気では語らなかった。3月3日、高島子爵を訪ね、例の件に関し、大迫・西の両中将が今夜高島子爵を訪う由を聞く。3月6日の東京朝日に『サーベル党が大山もしくは大迫を排除せんとしつつあり』云々の記事あり。無関係のことながら伊瀬地に文書を送る。3月19日、上原大佐を訪れ起高談をなす」(要約)

 翌朝には伊瀬地の方から宇都宮を訪ねてきた。旅館をチェックアウトした宇都宮は、伊瀬地の泊まっている石井旅館に同行し、昨日の議論を反復して伊瀬地の決心を確かめた後、午後の汽車で帰京した。翌日参謀本部に出勤し、早速第三部長・上原勇作大佐(薩摩)と会い、高島を引っ張りだす必要を語るが、起高の決心はまだ明かさなかった。3月3日、高島子爵を訪ね、参謀次長・大迫中将と第二師団長・西中将が今夜、高島を訪れる由を聞く。19日、上原大佐を訪ねて起高論を交わす。

 肥前出身の宇都宮が起高作戦を持ちかけた相手は、薩摩の伊瀬地・上原であった。すでに高島本人と接触し始めたらしい大迫尚敏、浜寛二郎の両中将も薩摩である(「サーベル党」については長州人脈のことと思うが★、ここでは立ち入らない)。前述したように、上原勇作には叔母吉薗ギンヅルが組成した応援団が付いていて、団長格が高島、副団長格が樺山資紀であった。20年前、上原少尉は仏国留学を前にして熊本鎮台に司令官・高島少将を尋ね、また警視総監・樺山少将の代官山の別宅で歓送会を開いて貰ったのは、ワンワールドの本場に赴くに際しガイダンスを受けたのだが、右の関係を知る由もない宇都宮は、上司の上原大佐を起高作戦に巻き込もうとするものの、起高の決心を直ぐには上原に明かさない。素より起高作戦に異存はない上原だが、ワンワールド薩摩派の総長高島の後継第一候補として高島の実状を知っているから、宇都宮ほど単純ではない。

 その後の記載を追うと「4月6日、伊瀬地を訪う。4月8日、橋口勇馬と共に、其の叔父・樺山資紀伯爵の邸に行く」とある。橋口は明石元二郎と同じ士官生徒6期で当時少佐、宇都宮の1期上だが親友である。勇馬の父の薩摩藩土橋口伝蔵は、寺田屋事件で本藩の鎮撫使によって斬殺された。その弟が橋口覚之進すなわち時の文相・海相樺山資紀で、叔父に招かれた橋口は宇都宮を誘い、紀尾井町の樺山邸(現在の自民党本部)で鹿肉の御馳走になった。樺山資紀はワンワールド薩摩派の副長として陰で総長の高島を支えていたのだが、そんな関係を知る由もない宇都宮は、樺山の甥の橋口勇馬を巻き込んで、高島を参謀総長に担ごうとしていたのである。勇馬は明治40年大佐、大正3年に少将・歩兵第十三旅団長、同6年には待命となるが、日露戦争で満洲義軍を率いて後方撹乱に当たった。その時の配下が西南戦争の軍神・逸見十郎太の遺児・勇彦で、後に高島鞆之助と上原勇作の諜者となる。

 ★「政界同様陸軍でも薩人はまた長州人に圧倒された」

 『宇都宮曰記』は続けて言う。

「4月24曰、大迫中将(参謀次長)を訪ねる。陸軍部内に異動あり大迫中将も転出するので、自分がどうなるか聞いたら、米国大使館の件は取りやめとなり、英国大使館付に内定の旨、内命があった。4月25曰、予報  の通り更迭あり、大迫は第七師団長に転出し、寺内中将が交代に入り、
川上系軍人は敬遠・左遷されて、長州人が要部を独占するところとなった。政界と同様、陸軍でも薩摩人はまた長州人に圧倒された。薩長の消長は強いて問う所ではないが、陸軍の部に非戦主義者が跋扈するのは実に嘆ずべきである。軍備拡張の大精神を誰か支持できるだろうか・・・伊瀬地は中将になった」

 陸軍も政界と同様で、薩摩が凋落して長州が跋扈すると宇都宮は嘆く。すべては前年5月11曰に参謀総長・川上操六が53歳で急死したことから始まった。川上は弘化4年(1847)生まれで、戊辰戦争に従軍したが、明治4年の御親兵募集に応じ初任中尉、西南戦争の戦功で11年中佐、15年大佐に進級、18年少将、23年中将、26年参謀次長に就き、征清総督府参謀長として曰清戦争を指揮した。桂太郎は川上の誕生の17曰後に、萩藩の馬回り役120石の家に生まれ、戊辰の戦功で賞典禄250石を受けた。ドイツに留学し、6年に帰国して陸軍に入った際、賞典禄では佐官級だが、陸軍人事の新規則に従い初任大尉に甘んじた。川上と桂は典型的な好敵手で、佐官時代からまったく同曰に昇進し、31年1月の伊藤内閣で川上が参謀総長、桂が陸軍大臣に就いた。一致協力して対露戦に当たることになった2人は9月に揃って大将に進級したが、川上が急死したので陸軍内のバランスが崩れた。長州派が優勢となった以上、陸軍内部が非戦主義に傾くのは必至と観られていたが、早くも4月25曰付の人事異動でその答えが出た。この人事を予想した宇都宮が、此れに先立ち起高作戦を開始したのは、軍拡派が失った均衡を回復するには、大西郷の後継と目された高島中将を担ぐしかないと考えたからである。この感覚は、高島に軍歴以上の隠然たる権威を感じ取っている点で半ば当たっているが、反面、高島が参謀総長に専念するのを許されぬ政治性本位の<薩摩総長>に就いたことに気付かぬ点で、半ば失しているとも言える。

 さらに『宇都宮曰記』を読み、起高作戦に関する事項を拾うと、
 「5月6曰、上原大佐が来り、去る25曰の人事異動を評して、将来の方針を協議した。5月15曰、伊瀬地に電話で呼ばれ、上原大佐も同席にて将来を談じた。自分の意見としては、同志の勢力集中を必要とし、そのためには同志を東京に招致することを述べた。5月16曰、伊瀬地の赴任(熊本第六師団長)を新橋駅に見送り、橋口勇馬の来宅を待つ。5月17曰、橋口が清国公使館付武官として出立するのを新橋駅に見送る。5月19日、高島子爵を訪い将来を談じ、大迫前参謀次長が札幌第七師団長に赴任するのを上野停車場に見送る。5月25日、高島子爵を訪う」

 ここまでの記事は起高作戦が主だが、5月28日条に<清国暴徒義和団なるもの>が暴動を起こしたと記した以後、義和団関係の記事が増える。起高関連の記事は「6月13日、予倉と共に高島子爵を訪うも不在」と記すのみで、以後は伊瀬地中将との書信往復を記載する以外は「7月3日、夜に入り上原勇作を往訪す」とあるだけである。宇都宮が立案した北清事変の作戦計画を携えた参謀次長・寺内正毅が、列国の先任指揮官と協議のため清国に出張することとなり、宇都宮は鋳方と共に随行を命じられた。
ここで『宇都宮日記』明治33年の条は途絶え、起高作戦の顛末は結局判らないまま、宇都宮が34年1月15日付を以て駐英公使館附に補されて英国に赴任することを記す。起高作戦に奔走した者で、大迫・伊瀬地の中将クラスは師団長として遠方へ移され、橋口勇馬と宇都宮は外国へ飛ばされ、参謀本部に残ったのはただ1人上原勇作大佐だけとなった。

 ★台湾政策に陰で辣腕を振るった高島鞆之助

 高島も青年将校に担がれて満更でなく、「自分に於ては何時にても出づるの意なきにあらざる旨」を宇都宮に語ったが、真意は「国家の危急は砂糖・樟脳・アヘンに優先するから、参謀総長を受ける気はある」というだけのことで、結局は参謀総長にならなかった。私見であるが、25年8月の陸相辞任後の3年間、高島は枢密顧問官の閑職にいながら、秘かに吉井友実が育てたワンワールド薩摩派の事業を引継いでいた。それは台湾産業に関わる事業であった。28年8月、樺山から台湾副総督を嘱されると之れを快諾したのは、薩摩派の事業よりも日本の台湾領有を優先したのである。高島は進んで拓殖務相に就き、台湾総督府を督励して台湾基本政策を確立したが、その後陸相に再任した時は、もはや陸軍よりも台湾政策に軸足を置いていた。桂の策謀で陸軍を追われた31年1月からの2年間は、雌伏を装いながら、日高尚剛・吉薗ギンヅルと組んで砂糖・樟脳など台湾に関するる事業を掌握したのである。樺山が台湾総督を辞めた29年6月以後、2代総督・桂太郎(10月まで)から、3代・乃木(31年2月まで)、4代・児玉源太郎(39年4月まで)と、10年にわたり長州軍人が総督の座を占めたが、玄洋社を看板にした杉山茂丸は彼らを積極的に操作し、また伊藤博文・井上馨にも接近して、歴代総督に高島の建てた台湾産業基本政策を踏襲せしめた。なかでも乃木希典は第四師団以来高島の隠れた腹心となり、結婚の仲人も高島夫妻に頼んだほどで、その台湾政策は高島の意向を完全に反映していた。高島はまた、日高が糸を引く鈴木商店の金子直吉に命じて、長州派の領袖・曽根荒助と近かった藤田謙一を引き抜き、意のままに働かせた。藤田ほどの大物を易々と取り込んだ薩摩の潜在的勢力は、桂太郎やその周辺の長州人の比ではなかったと思える。

 軍人と言えば俸給を目的とする職業人の意味だが、武人とは天職の謂である。蓋し「武」の本義は避戦を意味し、一命を捨てても平和をもたらすのが武人の本懐である。宇都宮や橋口有馬は、世界情勢を分析した結果、もはやロシア帝国との大決戦を避け得ないと考え、軍拡の実行を高島の政治力に期したのである。その使命感を、「現世的利欲に狂った軍人的思考」と戦後文化人が罵るのは間違いである。当時の日本を帝国主義段階と規定した以上、国家指導者をすべて侵略主義者と見做さざるを得ないマルクス史観に従うだけの浅薄な臆断に過ぎない。因みに、宇都宮太郎はその後、陸軍長州閥を掣肘するために上原陸軍大臣の実現に奔走し、陸軍上原閥の大番頭になり、陸軍大将に昇った。その子・宇都宮徳馬は、戦後参院議員となり、日中友好を唱える平和主義的政治家として鳴らしたが、その政治資金はすべて、上原の草だった吉薗周蔵が創業した阿久津製薬(後にミノファーゲン製薬)の利益が充てられたのである。

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(19)  <了>

 ★「サーベル党については長州人脈のことと思うが・・・」とあるが、3月6日の東京朝日の
  記事↓からする限り、対露強硬派のことで、長州人脈とはいえない。
 

  参考までに『陸軍大将・宇都宮太郎日記』よりの重引で(P、9)、
  『東京朝日新聞』の記事を紹介しておきます。   
 

 ★『東京朝日新聞』 1900年3月6日

 「サーベル党の厄鬼」。

 日清戦役を距ること既に五年、戦争熱の冷却するに従ふて世間漸く軍備過大の拡張を悔い、甚だしきは藩閥の元老にして今日の経済上の惨状は所謂戦後経営の結果なる如く論議する者あるに至りたれば、参謀本部のサーベル党は大に驚き、此気運を挽回し再び我々の世の中と為すには某強国との間に遠からず妖雲の靉靉くことあるが如き形勢を示すの外なしと案出し、既に一旦馬山浦問題に付て故らに強行の手段を執りたれど、何分にも現任大山総長にてはテキパキしたる仕事も出来ず、叉大迫次長も珍らしき結構人なれば、熟れも故川上総長の昔を思ひ、昨今総長次長の中責めて一人を更迭せしめんとの運動を始めたりと云ふ。

 『陸軍大将・宇都宮太郎日記』 (岩波書店 2007・4・5) 
 







(私論.私見)