●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(19) |
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(19) ― 『宇都宮太郎日記』から起高作戦=高島鞆之助再起策を追う ★「高島を棄ておくのは今日甚だ残念」起高作戦の淵源
前月に紹介した『宇都宮太郎日記』の明治33年2月5日条は、次のように始まる。
「起高作戦の第1着手として、直ちに本人を紀尾井町の邸に訪い(退省掛)、其の出づべきや否やを叩きしに、自分に於ては何時にても出づるの意なきにあらざる旨を答ふ。因て其の方法として2案を陳ぶ(1は直に大山を交代すること、2は1旦大臣となり夫れより本目的の地に移ること)。本人は、不同意にはあらざるべきも時機未だ到らずとの意を洩らせり。余は、妨げとならざる様、多少試みるところあらんことを告げ、且つ互いに秘密を守るべきことを約す」
いきなり出てきた「起高作戦」とは、2年前に陸相を罷めて予備役に編入された高島鞆之助を再起させる作戦のことである。宇都宮少佐が高島邸(現在は上智大学のクルトゥルハイム聖堂)を訪れたのは、高島を参謀総長に就ける工作を実行するに当たって本人の意思を確認に来たわけだが、高島がいつでも出馬の意思はあると答えたので、方法として2案を示した。第1は、大山巌・参謀総長と直接交代すること。第2は、一旦陸相に就き、それから本来の目的たる参謀総長に移ることである。これに対し高島は、不同意ではないが時機未到来と答えた。そこで宇都宮は、邪魔にならぬ範囲で若干試してみると告げ、互いに秘密保持を約した。夕食後、宇都宮は高島邸を一旦辞去し、参謀次長・大迫中将を訪れる。種々談話の中で「高島中将を現在のままに棄ておくのは、国家大有為の今日甚だ残念」と言うと、大迫も同感と答えたが、宇都宮は真意までは明かさず、10時過ぎに大迫邸を辞して高島邸に戻り、一泊した。
同じく2月18日条にも、次のような一文がある。
「午後3時過ぎの汽車にて大磯に至り、伊瀬地少将を訪ひ、此の夜は旅館石井に一泊す。此の行の目的は一には少将の病気を見舞ひ、一には起高作戦の第1着手を為したるなり。蓋し、露国との大決戦を目前に控えたる帝国の参謀総長としては、諸将官中に〔高〕に勝るものなく、国家の為め是非とも之を起さざる可らざることを説き、其方法としては(1)政変の際高島を陸軍大臣となし、現役に服せしめ、大臣の席を他に譲り自らは参謀総長に転じて、終身之に拠るの決心を為さしむること。(2)は大山現総長をして、自ら高島を薦めて辞職せしむること・・・」
宇都宮が大磯に来た日的は、まず伊瀬池少将の病気見舞いである。伊瀬池好成は薩摩藩士で、明治4年の御親兵募集に応募して初任少尉。第一連隊長・乃木希典の副官だった伊瀬地は、郷里の隣家・湯池氏の息女シヅを乃木と見合いさせた。11年に高島鞆之助夫妻の媒酌で結婚式を挙げた乃木夫妻は、その34年後に壮絶な自裁によって明治の日本精神を世界に顕現した。日清戦争の最中に少将に進級した伊瀬地は、28年11月に第一1旅団長、兼威海衛占領軍司令官に補せられ、31年10月1日付で近衛歩兵第二旅団長に転じた。この日は大磯の石井旅館別館で病臥していたが、2か月後に中将に進級して第六師団長に補されるほどで、重病ではない。病気見舞は口実で、宇都宮の本来の目的は「起高作戦」に関して伊瀬地の意見を聴くことであった。ここで「帝国陸軍の参謀総長として高島程の適材は他に居ない」との主張は、現総長・大山巌も実は適材でないことを意味する。茫洋を以て自他ともに任じる大山元帥のリーダーシップは調整型で、国家危急の際の適材ではないので、国家のためには果断を以て鳴る高島を是非とも立ち上がらせる必要があるとし、その実現方法としては次の2つを挙げた。(1)は、現行の山県内閣の倒れる際、高島を3度目の陸相に就けて現役に復帰させ、その後陸相を後進に譲る形で高島自身は参謀総長になり、生涯その職を全うする決心をさせること。(2)は、現総長大山巌が高島を後任に指名して辞任することである。更に続けて『日記』に記すところは、
「この2案の中では(2)が良い。それは政変が起こるにしても、次の内閣を組織する者は伊藤かその同類であって、自由党とは必ず提携か連 立するだろうし、またその時には桂は依然としてその地位に留まるだろうから、高島の登場の余地はほとんど期待できない。又、進歩党との連携も、遠い将来はともかく、当分は出来る望みはない。要するに、自由党にせよ進歩党にせよ、高島の手腕を畏怖しているので、之を迎えて内閣に招くことは、当分の情況では決してあり得ることではない。然し、時機時機と言ってばかり居ると、歳月の過ぎるがごとく、高島は軍人からも忘れられ、世人からも全くの予備役将官として谷や曽我と同視されるがごとき境涯に陥り、現役復帰は益々困難となっていく・・・」
つまり、高島を参謀総長に就ける方策は、①政変の際に高島を陸相に押し込み、その後で高島が陸相から総長に転進するか、②現総長の大山が後継に高島を指名するか、の2案があるが、結論として②が良い。理由は、政変が起こっても山県の後任首相は伊藤かその同類の政党容認派であって、自由党系と連携するだろうし、その場合には桂は陸相を罷めないから、高島を押し込むのは無理である。しかしながら、好機を待っていては、高島は同じく予備役中将の谷干城や曽我祐準(当時日本鉄道社長)と同様、軍人からも忘れられてしまう。右の理由で、宇都宮は焦燥感を抱いていた。
★大山巌参謀総長に後任として指名させれば・・・
『宇都宮日記』は、続きを次のように記す。
「結局(1)は採れず、(2)を採るしかない。つまり単刀直入の(2)が最も得策で、しかも決行は現時点が適している。それは、当の競争相手のうち、山県は目下総理大臣、桂は陸軍大臣、児玉はまだ競争相手に数えるには足りないが台湾総督の座にあり、これらの大物が参謀総長に手を伸ばすことを今はしにくいから、大山が納得して自ら引退し、代わりに高島を推薦したばあい、彼らは勿論内心は反対であるにしても、西郷従道(内務)、樺山資紀(文部)、山本権兵衛(海軍)らの閣僚が同心協力して、その地位を賭けても之れをなさんとの決意さえあれば、できないことではないと確信する。このため、まず西郷を説得し、西郷から大山に説得させ、且つ山県らに対しては、大山にも一緒に相談させなければならない。西郷を説くには野津(大将・東武都督)を用いるが、野津を動かすのは伊瀬地その人である。この決心が一旦決まるや、一瞬にして決行すべきで、そうでないと長州の桂太郎・寺内正毅(中将・教育統監)を中心として陸軍省の岡部政蔵(長州・陸軍省高級副官)・宇佐川一政(長州・軍事課長)から、また参謀本部でも田村チ与蔵(山梨・第1部長)・福島安正(長野・第2部長)から、連合して反対運動も起こるべく、伊藤を経由して天皇の聖旨を持ち出す反対運動もあり得る」
以上の要旨を反復して伊瀬地に説いたところ「同人も素より大大賛成 にて、病気がもう少し回復すれば、3月下旬ころ帰京して大いになすあるべきを承諾した」との文章の隅々に、起高作戦に当たってまず伊瀬地に打診したところ、大賛成の感触を得た宇都宮の嬉しさが滲み出ている。
続く。 |
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