吉薗周蔵手記(18)


 更新日/2021(平成31→5.1日より栄和改元/栄和3).2.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2005.4.3日、2009.5.27日再編集 れんだいこ拝


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(18)
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(18)

 ●明治日本における真の権力を掌握した薩摩ワンワールド ◆落合莞爾 


 ★金融・軍事・信仰の三系を持つワンワールドの源流
 
 鎖国日本の開国に向けた動きは光格天皇の治世(1779~1817)に始まる。これを知ったのは平成18年の竹田恒康氏の講演であった。恒康氏は旧皇族でJOC会長の竹田恒和氏の長男で、平成初年の一日北海道を旅行中、恒和氏運転のワゴンにたまたま同乗したことがある。あの時の少年がと感嘆したが、その講演では結論しか聞けなかった。これを契機に独自に追究したところ、開国の淵源は皇室にあり、ワンワールド中枢の意思に対応して日本で維新が胎動したと知った。明治維新の推進力は世に言う鍋島・島津・黒田ら九州雄藩だけでなく、実は光格天皇と11代将軍家斎から発したのである。この真相が明らかになれば、維新史は固より江戸徳川史が引っ繰り返るのだが、本稿は吉薗周蔵日記に見える陸軍元帥・上原勇作の背景を探索する目的なので、そこまでは立ち入らない。

 明治政府の内外で活躍した維新の功臣を、①有司専制主義の薩長藩閥派、②自由民権主義の土佐・肥前派に大別するのが学校史観で、その他に③天皇親政主義の侍講派の存在を指摘する説がある。また、人は薩長と一括するが、薩摩と長州では大いに異なり、前者は武断派の有司専制主義で、政党嫌いだったが、後者は文治派で民意を伺い政党を尊重したことは、政党政治家に転じた伊藤博文は言うに及ばず、軍閥巨頭で内務閥の親玉を兼ねた山県有朋も、超党派を装いながら内心民意を恐れ、民意に背く外征を躊躇していたことで明らかである。そんな非戦派長州人を背後でけしかけて、日清・日露戦争に誘導したのが玄洋社の(看板を借りた)杉山茂丸であった。その言動が薩摩を代弁したかに見える杉山だが、決して薩摩隷下の特務ではなく、ワンワールド中枢の直参の立場で長州閥の領袖たちを工作していたと観るべきである。この辺りは、杉山が奉じた謎の貴公子掘川辰吉郎を分析しなければ理解できず、また明治史の真相を得るのは不可能である。

 明治日本における真の権力を掌握したのは「薩摩」であった。ワンワールドの薩摩支部という意味である。ワンワールド中枢は金融系と軍事系の両立と聞くが、蓋しその権力の源泉は通貨創造と国家金融にあり、債務国家の弁済力を担保するため、時には国家間の戦争を必要とするからであろう。金融・軍事系の一段の奥には宗教系が控えている感があるが、ともかくワンワールドそれ自体が超宗教というべきであるから、宗教・信仰とは決して無縁ではない。明治日本を支配した「薩摩」も三系に分化していた、金融・軍事・宗教これである。ロスチャイルドの直臣となって大隈を蹴落とした松方正義が金融財政部門を支配し、軍事部門は陸軍を大山巌→高島鞆之助、海軍を西郷従道→樺山資紀が押さえた。ところが薩摩三傑の1人で維新最大の功臣・吉井友実は、世俗的権力を顧みず自らは宮廷を掌握した。以上が明治日本の真相で、長州はこの真相を隠す役割を与えられ、明治政界の表面を浮流したフシがある。薩摩内部での権力分化は、表面的には二頭体制とも三頭体制とも取れるが、彼ら全員が薩摩城下で下級士族の居住区たる方眼(ほうぎり)に生まれ、郷中教育により以心伝心、暗黙に合意する超個人的な一大人格に融合していたから、仲間うちの対立は本来あり得なかった。例外たる西郷・大久保の対決は、薩摩が抱懐した二大テーゼすなわち風土の伝統たる士族専制主義と在英ワンワールドに教化された近代化主義の間の矛盾が発露し、それぞれを代表した西郷(桐野を代弁)と大久保両雄が対立の已むなきに至った弁証的な過程で、両雄から等距離にいた吉井がこれを止揚した。その結果、薩摩ワンワールドのグラン   ドマスター(以下では薩摩総長という)に就いた吉井が、一等侍講となって. 天皇親政派の頭になった。これこそワンワールドが最も重要視する「信仰」を司るためで、明治日本においてそれは皇室崇拝であった。吉井が自ら工部少輔、大輔を兼ね、遂には日本鉄道会社社長に就くが、これは在英ワンワールドが日露戦争のために鉄道網建設を不可欠として、その実現を吉井に託したからであろう。ロスチャイルドの直参として財政金融を支配した松方が、首相・公爵・大勲位とあらゆる世俗的権威において吉井を上回ったとしても、宮中に籠もって明治天皇を護持する吉井に代わって薩摩総長に就くことは、あり得なかったのである。

  ★宮内省実質ナンバー2 吉井友実の後継者は

 吉井友実の維新後の事跡については、先日来『月刊日本』に連載中の『疑史』に述べており、詳しくはそれを参照して頂きたい。維新の功臣として賞典禄1千石、ナンバー6に挙げられながら、功臣中ただ1人、参議にも何の大臣にも就かなかった吉井は、宮内省の実質ナンバー2を定位置として、宮内卿・徳大寺実則と力を併せ、明治王朝の護持に専心した。24年4月、吉井が64歳で他界した時、内閣は山県第一次であったが、海軍増強の予算案を民党に攻撃され、大幅に修正して可決したものの敢え無く倒壊、5月6日に第一次松方内閣が成立した。これを機に陸相・大山巌は辞任、5月17日を以て陸相を高島鞆之助に譲った。13年陸軍卿、18年の内閣制施行で初代陸相となり24年まで11年に亘り陸軍を支配した大山は、吉井の長女・澤子を娶ったが、15年に病死されて山川捨松を後妻にしたのである。高島も吉井の次男・友武を婿養子にしていた。濃密な姻戚関係もワンワールド人の特徴である。吉井が死去した時、薩摩最大の権力者は金融系の総帥・松方で、首相を目前にしていたが、薩摩総長則ちワンワールド薩摩支部の元締めとしての地位を継いだのは、吉井と最も近縁の高島であった。これは吉井生前からの既定路線と思われるが、明治も中葉を過ぎて社会運用の法則も固まりつつあり、吉井のごとく隠然として支配するのは最早不可能で、高島も何か重要職に就く必要があった。大山が高島に陸相を譲ったのは、本人の実力や陸軍内の序列に加えて、右の事
情があったものと思う。

 大山の動きに海軍も応じ、初代海相の西郷従道が同日辞任、樺山資紀にその座を譲った。ここに薩摩の軍部大臣が2人とも代替わりして、第一次松方内閣を支えた高島は薩摩総長を継ぐと同時に陸軍系の頭領を兼ねるが、同時に海軍系頭領に就いた樺山が、高島を補佐する薩摩副長を兼ねたものと観るべきである。それを端的に示すのが後年、両人が台湾総督・副総督、及び拓殖務相・台湾総督のコンビを成したことである。三宅雪嶺が『同時代史』で、「第一次松方内閣の閣議を制したのは高島の一言であった」と評したのは、主要大臣を薩摩勢が占めた第一次松方内閣の中での高島の卓越した地歩を、期せずして指摘したものであった。

 第一次松方内閣は、民党の海軍費削減案に憤激した高島陸相と樺山海相が断固解散を主張し、総選挙においても大選挙干渉の主導者となった。 しかし第一次松方内閣は、選挙干渉の責任で25年8月8日を以て倒壊し、高島も樺山も辞任して枢密顧問官となる。薩摩総長高島は、陸相としても対清・対露の戦略に忙殺されていたが、わずか1年余りで陸相を辞任した。以後、28年8月に台湾副総督を委嘱されるまで、3年間を枢密顧問官として過ごし何の職にも就かなかった。薩摩副長の樺山も、高島と同時に海相を辞し枢密顧問官となったが、27年7月日清戦争の勃発を機に現役復帰して軍令部長に任じた。目清が戦端を開いたこの時機に陸軍が高島を必要としない筈はないが、それでも高島が従軍しなかったのは、薩摩総長の大役を優先したからであろう。樺山は戦功により、28年5月海軍大将に進級し、初代台湾総督に就くが、8月になり予備役中将・高島をわざわざ副総督に招請した。日清戦争に参加しなかった高島が、講和後の台湾統治に招かれるや、樺山の下風を厭わず副総督になったのは注目に値する。台南匪賊を討伐し台湾を平定した高島は29年4月、総督府を監督する拓殖務大臣となり、樺山を指揮して新領土台湾を統治する立場になった。学校歴史は、日清戦争の目的を「帝政ロシアの南下から祖国を護るべく、進んで朝鮮半島の独立性を確保するため」と説明するが、つらつら惟んみるに、台湾領有こそ隠されたもう一つの目的であった。尤も当時は台湾統治は日本政府のたっての望みではなく、在英ワンワールドが地政学的必要性から日本にその役割を割り当てるため、以前から薩摩を通じて日本政府を動かしていたフシがある。杉山茂丸が日清戦争に向けてしきりに長州勢を煽動したのは、非戦派の山県有朋を刺激し、且つ平和思想の伊藤に戦意を吹き込んだもので、日本の台湾領有を実現する大目的のために、日清間に戦端を開かせたのである。

 因みに高島と樺山資紀の間には以下の関係がある。資紀は橋口家から樺山家に養子に入ったが、樺山の本家筋と思われる(これは博雅の士の高教に待つ)樺山資雄は、内務官僚で各県知事を歴任し、佐賀県知事として例の大選挙干渉を実行した。資雄の長男・資英は明治元年生まれ、21年に渡米しエール大学で法学博士号を得て、26年に帰国。28年に台湾総督府が設置されるや総督府参事官として総督・樺山資紀の秘書を務め、29年には拓殖務大臣・高島鞆之助の秘書官兼大臣官房秘書課長となるが、高島の次女・球磨子(明治14年生)との縁談はこの時に纏まったものか。薩摩第二世代の典型的な俊秀たる資英は、後に貴族院議員、内閣書記官長として、大正から戦前にかけて政財界で暗躍した。

 


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(18)
★「薩摩」の枠を超える第二世代の華麗なる面々 

 本邦洋画の鼻祖とされる子爵・黒田清輝の日記が残るが、その明治29(1896)年5月9日条には、「樺山愛輔と鉄道馬車で新橋まで出た(略)。樺山資英、大久保利武、樺山愛輔、白洲某(日銀)氏らと紅葉館に集まる・・・」とある。慶応2年(1866)生まれの清輝は当時30歳、薩摩第二世代に属した。養親で伯父の薩摩藩士・黒田清綱は戊辰に戦功あり、明治元年3月に弾正少弼、後に東京府大参事・元老院議官を歴任し、子爵を授けられた。歌人としても知られた清綱は、天皇親政派の高崎正風の死後、明治天皇の御製拝覧を命じられたが、右の経歴は吉井友実の辿った道の正に直後を踏んでいる。清綱の弟・清兼の子に生まれた清輝は、明治学院の前身東京築地英語学校から東京外国語学校を出て明治17年に渡仏し、初めは法律を学ぶ予定であったが19年に画業に転じた。帰国後は、本邦に初めて西洋  画を紹介し、日清戦争中は従軍画家として知られるなど、時の人であっ
た。清輝の従兄で1歳年長の樺山愛輔は、時の台湾総督・樺山資紀海軍大 将の長男で、明治10年13歳の時、陸軍少佐だった父の勧めで渡米、アマースト大学を出てドイツに渡りボン大学で学んだが、病のために26年に帰国した。愛輔も典型的な薩摩第二世代でスポーツは万能、日本人で初めてテニスをした人物で、アメリカでは一流選手と対戦をしたという。妻は薩人の海車大将伯爵・川村純義の娘常子(明治8年生まれ)であった。因みに樺山資紀邸には、清輝の代表作「湖畔」が客間に、同じく「読書」が食堂に飾られていた。これも清輝より1歳上の大久保利武は大久保利通の三男で、亡父の功により長兄・利和が授かった侯爵を後日襲爵する。樺山資英は清祥より2歳下で、その経歴については前にも述べた。

 黒田の日記から、年代を同じくする薩摩第二世代の親しい交誼が偲ばれるが、ここに1人だけ「白洲某(日銀)」とあるのが興味深い。横浜正金銀行頭取の白洲退蔵については前月に述べたが、退蔵の息子・文平は明治2年生まれ、東京築地英語学校を出て渡米し、ハーバード大学を出た後、ドイツに移ってボン大学に学ぶ。
 文平より4歳年上の樺山愛輔も同時期にボン大学で学び、当時から知り合いであった。文平は帰国後三井銀行に入るが、すぐに鐘紡に転じた。黒田日記の「白洲某(日銀)」とは、樺山愛輔が連れてきた白洲文平と観て間違いない。留学帰りで27歳の文平を、愛輔が「三井銀行員だ」と紹介したのを、清輝が「日銀」と聞き誤ったのだ。第二世代の愛輔の長女・正子はやがて準薩摩第二世代の文平の子息・白洲次郎に嫁ぐが、このようにして、薩摩ワンワールドが薩摩人の枠を超えて広がっていく様子が窺える。正子は学習院女子部で会津藩の☆松平節子姫(のち勢津子)と同級になり、後年宮中ワンワールドとも言うべき勢力を形成した。夫の白洲次郎は、吉田茂の側近として占頷下の日本の外交・経済を取り仕切ったことで知られている。 

 
 ★高島鞆之助陸相解任の背景にあった三次元対立

 
 日清戦争後、薩摩軍事系の目的は不可避の対露戦に備えるため軍備の一層の充実を図ることにあった。これに対し、政治の理想を政党に求めた伊藤博文と大隈重信は民意と民生を優先し、日清戦後の不況の原因を軍費の増大と見て、軍備の抑制に執心し、そのために日露間の和平を希求した。明治24年以降の歴代内閣の傾向を見るに、薩摩を中核とする超然主義者(政党嫌い)の軍拡志向と、政党と結託した長州伊藤派による軍備抑制志向が交互に反復している。すなわち、第一次松方内閣は薩派が中心で軍拡予算を政党に否認されて倒壊し、続く第二次伊藤内閣は伊藤が政党と協調を試みるうちに、たまたま勃発した日清戦役の挙国一致気運によって乗り切ったものの、改新党の大隈重信の入閣に対する自由党の反発から倒壊した。その後を受けたのが28年9月成立の第二次松方内閣で大隈の進歩党(改名)と連携したため「松隈内閣」と呼ばれたが、連携の真意が金本位制確立にあったと思われ、薩摩ワンワールド内閣の再来とみるべきである。
高島は前内閣の拓殖務相を留任し、新たに大山巌の後の陸相を兼務したが、台湾総督を辞して枢密顧問官となっていた樺山も入閣し、板垣退助の後の内相となった。両大臣は固より軍拡派で連立与党の進歩党と閣内で真っ向から対立したから、進歩党は野党の自由党と連携して政府を攻撃、ために内閣は崩壊、松方は後を伊藤に譲った。
 この間拓殖務省が30年9月に廃止され、陸相専任となった高島は31年1月の第三次伊藤内閣の成立と同時に解職、予備役編入とされたので、高島の陸相時代は前後合わせて3年半に過ぎない。この政変を利用して、本来任期の永かるべき陸相の地位から高島を追放したのは桂太郎で、これにより長州が陸軍人事権を薩摩から奪い、以後の陸軍軍政を牛耳ることとなった。

 第三次伊藤内閣では、下野した進歩党と自由党が合同して憲政党となり、政府を激しく攻撃した。伊藤首相は対抗のために御用政党を結成せんとし、井上馨の了解を得たが、超然主義者を装う山県有朋の反対で長州派は割れた。ここに伊藤は官職を抛って辞職を表明し、議会の最大勢力たる憲政党の領袖大隈と板垣を後任に奏請したので、本邦初の政党内閣たる第一次大隈内閣(隈板内閣)が成立したが、それも進歩党系と自由党系の閣内抗争で自ら崩壊する。組閣の大命は山県に下り、31年11月に第二次山県内閣が成立した。海相は西郷従道から山本権兵衛に代わり、以後山本が薩摩の海軍系の総帥に就く。超然主義が看板の山県も政党政治の流れに勝てず、憲政党と閣外で手を握った。

 これを要するに、軍拡・軍縮および超然主義・政党主義、さらに薩摩・長州の三つ次元における対立が重なり合って、政変の律動を来していたのである。高島鞆之肋の2度に亘る陸相就任と離任も、まさに右の律動に合わせたものであった。高島に対抗する桂太郎が、選挙大干渉以来、高島の果断な行動力を畏怖する政党勢力を手段を尽くして操り、高島の解職をネタに政治取引をしたものと思われる。三宅雪嶺は高島を、「第四師団長で慢心して頭脳に異変を来したもの」と評したが、事実は正反対で、高島の頭脳と胆力を恐れた桂が企んだ政治的陰謀がまんまと成功して、高島の解職と予備役編入をもたらしたのである。桂太郎は、この40年後の昭和13年に、戦略の天才石原莞爾を予備役に追い込んだ東條英機の俑を成したのである。予備役に編入された高島は、1年後の明治32年2月に枢密顧問官に就くが、その後の高島の境遇を示す史料は甚だ少ない。ところが近来発掘の『宇都宮太郎日記』の明治33年条に、これに関して甚だ興味深い記事がある。平和主義の参院議員宇都宮徳馬の父として知られる宇都宮太郎は佐賀藩士の出で、当時は陸軍少佐・参謀本部員であった。後に上原勇作の股肱となり、陸軍大将に昇る。上原が吉薗周蔵に命じて作らせた阿久津製薬が、後にミノファーゲン製薬となって、宇都宮の長男徳馬の政治活動を助けることになる。

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 ☆秩父宮雍仁親王妃勢津子(ちちぶのみややすひとしんのうひせつこ、旧名:松平 節子(まつだいら せつこ)、1909年(明治42年)9月9日 - 1995年(平成7年)8月25日)は、日本の皇族。大正天皇の次男である秩父宮雍仁親王の妃。
旧會津若松藩主松平容保の四男で外交官の松平恒雄(1877年-1949年)の長女。母は佐賀藩十一代・侯爵鍋島直大の娘・信子。
 元の名は「節子」で、成婚の際に雍仁親王の実母である貞明皇后の名「節子(さだこ)」の同字となること(諱)を避け、皇室ゆかりの伊勢と松平家ゆかりの会津から一字ずつ取り、同音異字の「勢津子」と改めた。 

 昭和3年(1928年・戊辰/明治維新から60年目の年)、秩父宮雍仁親王(大正天皇第2皇子)と松平勢津子(松平容保の六男・恒雄の長女)の婚礼が執り行われた。会津松平家と皇族の結婚は、朝敵と汚名を着せられた会津藩の名誉が回復されたことを意味していた。(ウイキペディア)
 

 因みに、秩父宮と勢津子との結婚で朝敵=会津藩の汚名がはらされたことについては、『田中清玄自伝』でも言及されており、孝明天皇の死についても、「明らかに暗殺と聞いておる」と語られている。
 (第一章 会津武士と武装共産党)
 


 








(私論.私見)