●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(18) |
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(18)
●明治日本における真の権力を掌握した薩摩ワンワールド ◆落合莞爾
★金融・軍事・信仰の三系を持つワンワールドの源流 鎖国日本の開国に向けた動きは光格天皇の治世(1779~1817)に始まる。これを知ったのは平成18年の竹田恒康氏の講演であった。恒康氏は旧皇族でJOC会長の竹田恒和氏の長男で、平成初年の一日北海道を旅行中、恒和氏運転のワゴンにたまたま同乗したことがある。あの時の少年がと感嘆したが、その講演では結論しか聞けなかった。これを契機に独自に追究したところ、開国の淵源は皇室にあり、ワンワールド中枢の意思に対応して日本で維新が胎動したと知った。明治維新の推進力は世に言う鍋島・島津・黒田ら九州雄藩だけでなく、実は光格天皇と11代将軍家斎から発したのである。この真相が明らかになれば、維新史は固より江戸徳川史が引っ繰り返るのだが、本稿は吉薗周蔵日記に見える陸軍元帥・上原勇作の背景を探索する目的なので、そこまでは立ち入らない。
明治政府の内外で活躍した維新の功臣を、①有司専制主義の薩長藩閥派、②自由民権主義の土佐・肥前派に大別するのが学校史観で、その他に③天皇親政主義の侍講派の存在を指摘する説がある。また、人は薩長と一括するが、薩摩と長州では大いに異なり、前者は武断派の有司専制主義で、政党嫌いだったが、後者は文治派で民意を伺い政党を尊重したことは、政党政治家に転じた伊藤博文は言うに及ばず、軍閥巨頭で内務閥の親玉を兼ねた山県有朋も、超党派を装いながら内心民意を恐れ、民意に背く外征を躊躇していたことで明らかである。そんな非戦派長州人を背後でけしかけて、日清・日露戦争に誘導したのが玄洋社の(看板を借りた)杉山茂丸であった。その言動が薩摩を代弁したかに見える杉山だが、決して薩摩隷下の特務ではなく、ワンワールド中枢の直参の立場で長州閥の領袖たちを工作していたと観るべきである。この辺りは、杉山が奉じた謎の貴公子掘川辰吉郎を分析しなければ理解できず、また明治史の真相を得るのは不可能である。
明治日本における真の権力を掌握したのは「薩摩」であった。ワンワールドの薩摩支部という意味である。ワンワールド中枢は金融系と軍事系の両立と聞くが、蓋しその権力の源泉は通貨創造と国家金融にあり、債務国家の弁済力を担保するため、時には国家間の戦争を必要とするからであろう。金融・軍事系の一段の奥には宗教系が控えている感があるが、ともかくワンワールドそれ自体が超宗教というべきであるから、宗教・信仰とは決して無縁ではない。明治日本を支配した「薩摩」も三系に分化していた、金融・軍事・宗教これである。ロスチャイルドの直臣となって大隈を蹴落とした松方正義が金融財政部門を支配し、軍事部門は陸軍を大山巌→高島鞆之助、海軍を西郷従道→樺山資紀が押さえた。ところが薩摩三傑の1人で維新最大の功臣・吉井友実は、世俗的権力を顧みず自らは宮廷を掌握した。以上が明治日本の真相で、長州はこの真相を隠す役割を与えられ、明治政界の表面を浮流したフシがある。薩摩内部での権力分化は、表面的には二頭体制とも三頭体制とも取れるが、彼ら全員が薩摩城下で下級士族の居住区たる方眼(ほうぎり)に生まれ、郷中教育により以心伝心、暗黙に合意する超個人的な一大人格に融合していたから、仲間うちの対立は本来あり得なかった。例外たる西郷・大久保の対決は、薩摩が抱懐した二大テーゼすなわち風土の伝統たる士族専制主義と在英ワンワールドに教化された近代化主義の間の矛盾が発露し、それぞれを代表した西郷(桐野を代弁)と大久保両雄が対立の已むなきに至った弁証的な過程で、両雄から等距離にいた吉井がこれを止揚した。その結果、薩摩ワンワールドのグラン ドマスター(以下では薩摩総長という)に就いた吉井が、一等侍講となって. 天皇親政派の頭になった。これこそワンワールドが最も重要視する「信仰」を司るためで、明治日本においてそれは皇室崇拝であった。吉井が自ら工部少輔、大輔を兼ね、遂には日本鉄道会社社長に就くが、これは在英ワンワールドが日露戦争のために鉄道網建設を不可欠として、その実現を吉井に託したからであろう。ロスチャイルドの直参として財政金融を支配した松方が、首相・公爵・大勲位とあらゆる世俗的権威において吉井を上回ったとしても、宮中に籠もって明治天皇を護持する吉井に代わって薩摩総長に就くことは、あり得なかったのである。
★宮内省実質ナンバー2 吉井友実の後継者は
吉井友実の維新後の事跡については、先日来『月刊日本』に連載中の『疑史』に述べており、詳しくはそれを参照して頂きたい。維新の功臣として賞典禄1千石、ナンバー6に挙げられながら、功臣中ただ1人、参議にも何の大臣にも就かなかった吉井は、宮内省の実質ナンバー2を定位置として、宮内卿・徳大寺実則と力を併せ、明治王朝の護持に専心した。24年4月、吉井が64歳で他界した時、内閣は山県第一次であったが、海軍増強の予算案を民党に攻撃され、大幅に修正して可決したものの敢え無く倒壊、5月6日に第一次松方内閣が成立した。これを機に陸相・大山巌は辞任、5月17日を以て陸相を高島鞆之助に譲った。13年陸軍卿、18年の内閣制施行で初代陸相となり24年まで11年に亘り陸軍を支配した大山は、吉井の長女・澤子を娶ったが、15年に病死されて山川捨松を後妻にしたのである。高島も吉井の次男・友武を婿養子にしていた。濃密な姻戚関係もワンワールド人の特徴である。吉井が死去した時、薩摩最大の権力者は金融系の総帥・松方で、首相を目前にしていたが、薩摩総長則ちワンワールド薩摩支部の元締めとしての地位を継いだのは、吉井と最も近縁の高島であった。これは吉井生前からの既定路線と思われるが、明治も中葉を過ぎて社会運用の法則も固まりつつあり、吉井のごとく隠然として支配するのは最早不可能で、高島も何か重要職に就く必要があった。大山が高島に陸相を譲ったのは、本人の実力や陸軍内の序列に加えて、右の事 情があったものと思う。
大山の動きに海軍も応じ、初代海相の西郷従道が同日辞任、樺山資紀にその座を譲った。ここに薩摩の軍部大臣が2人とも代替わりして、第一次松方内閣を支えた高島は薩摩総長を継ぐと同時に陸軍系の頭領を兼ねるが、同時に海軍系頭領に就いた樺山が、高島を補佐する薩摩副長を兼ねたものと観るべきである。それを端的に示すのが後年、両人が台湾総督・副総督、及び拓殖務相・台湾総督のコンビを成したことである。三宅雪嶺が『同時代史』で、「第一次松方内閣の閣議を制したのは高島の一言であった」と評したのは、主要大臣を薩摩勢が占めた第一次松方内閣の中での高島の卓越した地歩を、期せずして指摘したものであった。
第一次松方内閣は、民党の海軍費削減案に憤激した高島陸相と樺山海相が断固解散を主張し、総選挙においても大選挙干渉の主導者となった。 しかし第一次松方内閣は、選挙干渉の責任で25年8月8日を以て倒壊し、高島も樺山も辞任して枢密顧問官となる。薩摩総長高島は、陸相としても対清・対露の戦略に忙殺されていたが、わずか1年余りで陸相を辞任した。以後、28年8月に台湾副総督を委嘱されるまで、3年間を枢密顧問官として過ごし何の職にも就かなかった。薩摩副長の樺山も、高島と同時に海相を辞し枢密顧問官となったが、27年7月日清戦争の勃発を機に現役復帰して軍令部長に任じた。目清が戦端を開いたこの時機に陸軍が高島を必要としない筈はないが、それでも高島が従軍しなかったのは、薩摩総長の大役を優先したからであろう。樺山は戦功により、28年5月海軍大将に進級し、初代台湾総督に就くが、8月になり予備役中将・高島をわざわざ副総督に招請した。日清戦争に参加しなかった高島が、講和後の台湾統治に招かれるや、樺山の下風を厭わず副総督になったのは注目に値する。台南匪賊を討伐し台湾を平定した高島は29年4月、総督府を監督する拓殖務大臣となり、樺山を指揮して新領土台湾を統治する立場になった。学校歴史は、日清戦争の目的を「帝政ロシアの南下から祖国を護るべく、進んで朝鮮半島の独立性を確保するため」と説明するが、つらつら惟んみるに、台湾領有こそ隠されたもう一つの目的であった。尤も当時は台湾統治は日本政府のたっての望みではなく、在英ワンワールドが地政学的必要性から日本にその役割を割り当てるため、以前から薩摩を通じて日本政府を動かしていたフシがある。杉山茂丸が日清戦争に向けてしきりに長州勢を煽動したのは、非戦派の山県有朋を刺激し、且つ平和思想の伊藤に戦意を吹き込んだもので、日本の台湾領有を実現する大目的のために、日清間に戦端を開かせたのである。
因みに高島と樺山資紀の間には以下の関係がある。資紀は橋口家から樺山家に養子に入ったが、樺山の本家筋と思われる(これは博雅の士の高教に待つ)樺山資雄は、内務官僚で各県知事を歴任し、佐賀県知事として例の大選挙干渉を実行した。資雄の長男・資英は明治元年生まれ、21年に渡米しエール大学で法学博士号を得て、26年に帰国。28年に台湾総督府が設置されるや総督府参事官として総督・樺山資紀の秘書を務め、29年には拓殖務大臣・高島鞆之助の秘書官兼大臣官房秘書課長となるが、高島の次女・球磨子(明治14年生)との縁談はこの時に纏まったものか。薩摩第二世代の典型的な俊秀たる資英は、後に貴族院議員、内閣書記官長として、大正から戦前にかけて政財界で暗躍した。
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