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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)ー1 |
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)-1
金融ワンワールドの頂点に立った松方正義と各人士の相関関係 ◆落合莞爾
★「横浜正金銀行」誕生の光と影、人事での暗闘
戦前、貿易金融と外国為替に特化した特殊銀行として世界に名を知ら れた横浜正金銀行は、戦後GHQの指示で普通銀行となり、東京銀行と 改称し、昭和29年の外国為替銀行法により唯一の外国為替銀行となった。平成大暴落の後は、金融危機に対処するために三菱銀行と合併して東京三菱銀行と称し、さらにUFJ銀行と合併して、現在は三菱東京UFJ銀行の長い行名を称している。同行の創立を発案したのは、『横浜正金銀行史』によれば、早矢仕有的と中村道太であった。ハヤシライスで知られる早矢仕は、薬品・書籍の輸入業者たる丸屋商店(現在の丸善)の経営者で、中村も同商店に密接な関係があった。明治11、2年頃のわが国経済情勢は、西南事変のために政府が増発した巨額の不換紙幣が巷間に溢れ、事変鎮定後も急速な収縮が叶わず、輸入の超過と正貨の流出に拍車をかけ、ために正貨と紙幣の価値に大差を生じていた。輸出入品の貿易は、横浜・神戸・長崎等の開港場で本邦商人と外国商館の間で行われていたが、取引はすべて銀貨(メキシコ銀・貿易銀・1円銀貨)で決済された。すなわち輸出業者は代金を銀貨で受け取り、これを不換紙幣に換えて仕入れ資金に充て、輸入面は手持ちの不換紙幣を銀貨に換えて外国商館に輸入代金を支払っていた。このため、開港場における銀貨売買(銀紙取引)は活発を極めたが、それが投機資金を呼び入れ、遂には一種賭博場の観を呈して銀貨相場を変動させたため、輸出入業者の経営は危機に曝された。しかも、当時の外国為替取引は、オリエンタル銀行・香港上海銀行・マーカンタイル銀行ら外国銀行が専ら支配し、一覧払い銀貨手形を発行して相場を操縦するなど、邦人貿易商に不利を強いることが少なくなかった。これに憤慨したのが早矢仕と中村で、早矢仕が旧知の福沢諭吉に相談し、福沢の紹介により中村が大蔵卿大隈重信を訪れ、外国銀行の専横に苦しむ貿易業者の救済策を具申した。すなわち、邦人により正銀取引銀行を設立し、内外商人の間に介在して銀貨の供給を円滑にし、邦人の商権回復を図る主旨である。大隈大蔵仰は直ちに賛成して、13年2月に同行は設立された。
表面は右の如くであったが、その実状は、丸屋商店の衰運を挽回しようとした早矢仕が、中村他を語らって銀貨投機に参入したものの、失敗を重ねたため再度挽回を謀ったものであった。彼らの予定は、資本2、30万円の小銀行を設立し、貿易商や投機家に対して銀貨を担保に紙幣を貸し、または紙幣を担保に銀貨を貸して、日歩(一日分の利息)を取ることを本業とするが、その傍らで早矢仕自らも時に投機を行おうとしたものであった。これに対し福沢は、種々適切な助言を与えて論拠を正したので、中村の意見具申を受けた大隈は大いに賛成し、資本金を予定の10倍の3百万円に増加せしめた。因って、12年11月10日付で創立願書提出、翌日に許可が下り、発起人のうちから中村道太が初代頭取になった。創立を隠然支援した福沢は副頭取に門下の旧紀州藩士・小泉信吉を送り、以後も慶応義塾出身者を多数送り込んだので、やがて行内には早矢仕・中村の丸屋商店一党と、慶応義塾出身者の一派の両派が生まれることになる。発起人は13年1月、内外の信用を博するため資本金の3分の1に当たる百万円を政府出資とすることと、業務監督のための管理官の派遣を大蔵省に請願したところ、2月6日付で許可を受け、大蔵少輔(次官・審議官クラス)吉原重俊が管理長となった。ここに同行は本店を神奈川県横浜区本町に置き13年2月28日を以て開業する。この日は大隈が大蔵卿を辞して佐賀藩の後輩・佐野常民にその席を譲った日で、また松方正義が大蔵大輔から内務卿に転じた日に当たる。フランス帰りの松方が、永年にわたり支えてきた大隈の財政政策を批判して、ともに大蔵省を去った背景は前月号に述べたところである。
その頃には銀貨・紙幣の交換比率が益々悪化し、ために同行は、窮状に陥った輸出業者を救済すべく、邦人輸出業者に対レ貿易品買入のための紙幣の融通、つまり貿易金融を始めた。14年1月の第1回定期総会で早くも利益金を計上し株主配当を行った同行は、同月外国為替業務拡張のため小泉信吉を欧米に派遣する。出発に際して、大隈参議から英人シャンド宛の書簡を与えられた小泉は、ロンドンでシャンドから種々の便宜を得た。つまり小泉信吉は、この時めでたくワンフーールド金融部門の首脳にお目見えしたのである。 |
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)―2
★大正コスモポリタンの代表格・白洲退蔵の登場
明治14年の政変で佐野大蔵卿が辞職、代わって内務卿・松方正義が大蔵卿に就任したのは14年10月21日であった。フランスから帰国後、不換紙幣の整理を急ぎ、そのために海外からの正貨吸収を必要と考えた 松方は、その実行に当たって横浜正金を利用せんとし、従来の管理官を廃し、代わりに特選取締役を任命することなどを示達した。特選取締役は政府持株に関して政府を代表する者で、大蔵卿が任命する民間人を充てたが、これは官吏たる管理官が管理するよりも、民間適任者を選んで業務を任せた方が時宜に適すると松方が考えたからである。
松方が大蔵卿に就いた14年の末から翌年にかけ、商況は激変して貿易関係業者の倒産が増加した。横浜正金の得意先にも破産が増えたが、中村頭取の経営は放漫に流れ、15年上半期の決算は彌縫策を講じて配当を据え置きとした。これを憂慮した松方の追及で、中村頭取は7月10日の総会で引責辞任し、副頭取小野光景が頭取に就任、任期満了で副頭取を退いていた小泉信吉が副頭取に復活した。特選取締役には河瀬秀治、村田一郎が選任されていたが、河瀬は6月に辞任、これに代わって摂津三田藩(藩主・九鬼隆義)の儒官で藩の大参事もした白洲退蔵が、三田藩顧問・福沢諭吉の推薦により、8月に取締役に特選され、直ちに副頭取に就いた。
しかしながら、小野新頭取は中村時代の隠蔽体質を継承して彌縫策に走り、官民分離論あるいは平穏解散論を唱えて株主間に宣伝したから、株主間でも不穏な動きが広がり、小泉も職権の発揮を保証されないとして早々に副頭取を辞した。松方大蔵卿の意向は、同行の改革のため、白洲退蔵を頭取、深沢勝興を副頭取に任じ、深沢の手腕で改革を断行させることにあった。そこで福沢は、頭取含みの特選取締役として、松方に白洲退蔵を推薦したのである。しかし深沢は病身で、16年1月の定時総会では頭取に白洲、副頭取に小泉が就き、深沢は取締役に再選されたものの2月1日に病死する。計画が頓挫した松方は、止む無く3月22日、第百国立銀行の原六郎を特選取締役に任命し、頭取に就けた。白洲と小泉は辞任し、小泉は古巣の大蔵省に戻り、白洲は19年になって岐阜県大参事に就く。
以上長々と述べたのは、白洲退蔵とその子孫に焦点を当てるためである。
退蔵の子息・文平は明治2年に生まれ、フルベッキ(理事長)とヘボン(初代総理)が創立した東京築地英語学校(明治学院の前身)を20年6月に卒業後、渡米してハーバード大学に学び、更に渡欧してボン大学で学んだ。ハーバードで知り合ったのが後に三井合名理事から日銀総裁・蔵相になる池田成彬(慶応3年~昭和25年)で、生涯の知友となった。
帰国後の文平は、三井銀行から鐘紡に勤めた後、興した貿易商・白洲商店が大成功したが、昭和4(1929)年に破綻した。
日本的情緒・趣味を甚だ嫌ったという文平は、儒者ながら早々キリスト教に入信し、神戸女学院の創立に携わった父の退蔵と同じく、コスモポリタン臭が濃厚である。文平の次男・白洲次郎が妻に迎えたのは、伯爵・樺山資紀の孫女(樺山愛輔の娘)の正子であった。退蔵の父・文平と同様、岳父の樺山愛輔(慶応元年生まれ)留学帰りで、大正コスモポリタンを代表するワンワールド人士であった。 |
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)―3 |
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)―3
★ワンワールド人脈の華麗かついかがわしき樹形図
吉井友実に松方正義・樺山資紀・高島鞆之助ら自ら維新に挺身したのが薩摩ワンワールドの第1世代で、白洲退蔵はこれに同期している。維新前後に生まれたその息子ら、即ち樺山愛輔・吉井幸蔵(安政2年生)、樺山資英(明治元年生・妻は高鳥鞆之助の娘・球磨子)らが第2世代で白洲文平や陸奥広吉ら留学帰りが彼らに同期してワンワールド仲間を形成した。吉井幸蔵の実弟で高島鞆之助の婿養子となった友武(慶応3年生・妻は高島鞆之肋の長女・多嘉)も、当初は仲間に加わっていた筈であるが、その事績は陸軍中将としてしか伝わっていないし、高島子爵家を継がすべく甥(幸蔵の次男)友春を養子にし、後に離縁した事情は未詳である。第3世代は第2世代の子女ら即ち白洲次郎(明治35年生)・正子(明治43年生)夫妻らの世代で、ここに至ると薩摩の枠を抜け出し、他藩出身者に拡大するのは自然の成り行きである。
この第3世代が宮中コスモポリタンを形成し、美智子皇后の皇室入りを実質的に支援したと言われている。 媒介の栄誉を表面的に担った東宮御教育参与・慶応義塾塾長の小泉信三が、小泉信吉の子息であったことは偶然ではない。小泉信吉は嘉永2年(1849)生まれの紀州藩士で、慶応2年に福沢諭吉の蘭学塾で洋学を学び、フルベッキが教頭の開成学校教授となり、明治元年に英国留学し、帰国後は大蔵省に入った。横浜正金銀行の創業時には白洲退蔵の下で副頭取を務めた信吉は、第1世代の退蔵とは年も離れたいわば第1.5世代であった。横浜正金時代にも渡英して金融事情を学んだ典型的なワンワールド金融人で、その子・信吉は明治21年生れでワンワールド第3世代に同期し、2代に亘るコスモポリタンであった。
福沢諭吉から発したワンワールド人脈は、白洲退蔵と小泉信吉に分岐して白洲次郎と小泉信三を生んだのである。戦後貿易庁長官に挙げられ、吉田茂の片腕としてマッカーサー司令官と種々折衝し、サンフランシスコ講和条約締結に尽力した白洲次郎を、救国の英雄と囃す向きが近年多いが、むしろコスモポリタン特有のいかがわしさを感じるのは私(落合)だけであろうか。
松方正義の三男・幸次郎(慶応元年生)も典型的な薩摩ワンワールド第2世代で、明治17年に東京帝大を中退し、エール大学とソルボンヌ大学に留学、明治24年に第1次松方内閣の秘書官に就くが、明治29年に実業界に転じて川崎造船初代社長となり、昭和3年までその地位にあった。第一次大戦後の欧州で絵画・彫刻らを蒐集し、松方コレクションで知られるが、政治家としても昭和11年から3期連続の衆議院議員として政界でも活躍し、国民使節として渡米し国際交流に務めた。幸次郎の妻は旧三田藩主、子爵・九鬼隆義の息女・好子で、三田藩と薩摩ワンワールドの浅からぬ因縁を感じる。 |
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)―4 |
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)―4
●なぜ松方正義は大隈重信を凌駕できたのか 『横浜正金銀行史』のなかで同行の父親に譬えられる大隈重信はフルベッキ神父の直門である。
維新政府では、当初は外国事務局や外国官を歴任したが、明治2年に会計官出仕となって財政畑に転じて以後、13年2月までは一貫して大蔵省最高首脳のひとりであった。片や同行の母親に擬せられる松方は大隈より3歳年上であるが、維新政府では長崎県裁判所参謀助役を皮切りに民部(内務)畑を歴任し、4年7月に大蔵省に転じて以来ずっと大隈の配下となり、明治8年11月から13年2月まで大蔵大輔を勤めた この間、10年10月にフランス博覧会事務副総裁としてフランス出張を命ぜら、11年3月から12月まで滞仏した。この時にフランス蔵相で、パリ・ロスチャイルド家の番頭と言われるレオン・セーに会い、中央銀行設立を助言された。これは偶然ではなく、訪仏の真の目的がロスチャイルドはじめ欧州の金融ワンワールド首脳にお目見えすることにあったと観るべきであろう。その折、中央銀行の設立と不換紙幣の整理を助言(命令)されたことは疑い得ない。帰国後の松方は、永年の上司であった大隈の積極財政を一転して批判し、真っ向から対立した。ために13年2月、内務卿に転じたが、明治14年の政変において大隈が失脚し、後釜の大蔵卿・佐野常民も辞任すると、松方が大蔵卿に就き、不換紙幣の整理を目的とする厳しい引締政策を実行した。後年のことだが、日銀副総裁として5年間にわたり澄田総裁を支え、バブル政策に加担した三重野康が、総裁になるや一転してデフレ政策に転じたのは、そこだけ見れば松方と似ている。
政府不換紙幣・国立銀行不換紙幣の整理を図るため、中央銀行を創立して正貨兌換紙幣を発行させて通貨価値の安定を図るとともに、中央銀行を中核とした銀行制度を整備し、近代的信用制度を確立することを提議したのが松方である。明治15年に日銀条例を制定、同年10月6日にはかつて横浜正金銀行管理長であった大蔵少輔・吉原重俊を日銀総裁に任じ、同月10日を以て日銀は開業した。14年10月に初めて大蔵卿に就いた松方は、18年12月の内閣制度発足で大蔵大臣の名称となってからもその座に在り、24年5月には総理大臣を拝命するに至るも、なお蔵相を兼務、結局25年8月に第一次松方内閣の崩壊に際して蔵相の座を渡辺国武に譲るまで、実に11年近くも継続して蔵相の座に在ったのである。しかも、後を継いだ第二次伊藤内閣にあっても、28年3月から8月まで蔵相を務めた。それだけではない29年9月に再び大命降下を受け、31年1月まで続く第二次松方内閣でも蔵相を兼務し、更に31年11月から33年10月の第二次山県内閣でも蔵相に就いたので、合計すれば14年半、これに大蔵大輔時代の四年半をも併せれば、実に19年に及ぶ期間を大蔵省の最高首脳として帝国の財政を壟断したのである。実に、明治の財政金融は松方1人が取り仕切ったと言っても過言ではない。松方の第二次内閣は、かつて上伺として仕えながら、帰国後にその積極財政策を批判したため不和となった大隈を、外相・農商務相として招いた。この内閣の最大の業績は、周囲の反対を押し切って、貨幣法の制定により金本位制を確立したことである。松方が敢えて大隈を閣内に迎えたのは、金本位制定に関する深い事情があるものと思う。
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)-5 |
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)-5
●フルベッキの最大事績は ある人士らの啓蒙・育成
明治4年7月、松方が大蔵権少丞となった時、3歳年下の大隈は既に大蔵大輔を経て参議兼制度取調専務で、はるか高位にあった。 やがて松方は、13年2月に内務卿、14年10月には参議兼大蔵卿を拝するに至るが、大隈の参議就任は松方よりも10年以上も早い明治3年で、大蔵卿に就いたのも8年早く、6年10月であった。ところが明治17年の華族令で松方が伯爵を授かるのに対し、戊辰役で功績のなかった大隈は、20年になって伯爵を授かった。丁度その頃から2人の位置が逆転、内閣総理大臣の初就任は、松方が24年5月なのに対し、大隈は明治31年であった。侯爵への陞爵(しょうしゃく)は、松方が40年9月に受けるが、大隈は2度目の総理を拝命した大正5年7月まで待たされた。大正12年1月8日、死に瀕した大隈重信の公爵陞爵について論議される。佐野真一 ★『枢密院議長の日記』(*現代新書2007.10.20刊)によれば、当時宗秩寮総裁事務取扱をしていた貪富有三郎(勇三郎)日記の同日条には、宮内次官関谷(関屋)貞三郎から電話で「大隈は侯爵と為りたる後年数も少く、その後別段の功績なき故、普通にては陞爵の理由なきも、陞爵を主張する人は大隈一生の勘定を為せば陞爵しても適当なりと云ふものの由。貴見は如何」と問われた倉富は、「此の事に付ては昨日宗秩寮にて一応の内談を為し、予は陞爵の必要なしと考えたるなり。最高等の政策にて特別の恩典あるは格別、通常にては陞爵の理由なしと思ふ」と答えた。翌日も陞爵論議は続き、宮内書記官白根松介が元老の松方正義にお伺いを立てた。前日に意見を聞いた時には陞爵に賛成した松方は、白根に対し、
「(昨日は)山県公が陞爵の意見ならば反対しないと言ったまでだ。大隈侯は維新の功労もなく、その後も格段の功労があったとは思わない」と消極的意見を述べた、という。大隈の公爵陞爵を否認した松方は、8力月後の9月11日に公爵を授かり、13年7月2日に逝去した。
明治維新を誘導したワンワールド人士の中でも啓蒙に尽くしたフルベッキは、維新前後には抜群の政治的影響力があった。天保元年(1830)年生まれのフルベッキは松方より6歳上、大隈より9歳上で、安政6年(1859)長崎に上陸し、佐賀藩の長崎致遠館で大隈、副島を教えた。
大隈とフルベッキは無類のチームワークを組み、お互いに引き立て合った。明治新政府の顧問となったフルベッキの最大の事績は、大隈を通して新政府に持ちかけた岩倉訪欧団とされる。維新で権力を握った人士が挙って隊伍を組み欧米に渡った目的は、ワンワールド首脳に面晤する機会を作るためで、いわば集団入会ツアーを企画、実行したのである。
その他、フルベッキが大学南校(東大法文学系)の教頭として多数のワンワールド人士を育成し、また宣教師ヘボンと共に東京一致神学校(後の明治学院)を創立したことは周知であるが、明治14年の政変で権力の座を追われた大隈に指令して東京専門学校(後の早稲田大学)を設立せしめた真相を誰が知るだろうか。フルベッキの政治的影響力が明治14年の大隈の失脚以前に衰えていたのは確かで、フランスでロスチャイルドの臣下になった松方が、以後大隈に代わり帝国財政の実権を握る。松方からすれば、明治14年までの大隈の権勢はフルベッキのお陰にしか過ぎなかったのである。フルベッキが赤坂の自宅で死去した明治30年は、松方が大隈 の協力を得て金本位制を断行した年であった。
松方の金融ワンワールドにおける地位の一部は上原勇作が継承したとされるが、上原は安政3(1856)年の生まれで、右に述べた第1.5世代に属しており、或いはその世代的な位置が権力継承を可能にしたものかも知れぬと思う。
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17) <了>
★『枢密院議長の日記』(*現代新書2007.10.20刊)によれば、・・・の文中、
貪富有三郎は<勇三郎>、宮内次官関谷貞三郎は<関屋>貞三郎 です。
同上書 P242
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