|
|
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(16)ー1、2 |
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(16)
なぜフィクサー足り得たかこそが重要 杉山茂丸の実態に迫る ◆落合莞爾
(16)-1 ●台湾経営の企画=高島・樺山、 実行=児玉・後藤との関係
明治31年から8年にわたり台湾総督と民政長官を務めた児玉源太郎と後藤新平のコンビが、台湾経営の中心であったことは確かである。しかしながら、あの有名な台湾経営策を両人が立案した、とする巷説は正鵠を得ていない。前月稿で堀雅昭著『杉山茂丸伝』から、「児玉と杉山茂丸は異体同心で、児玉の台湾経営は杉山茂丸の意見に従う形で行われた」との陸軍中将・堀内文次郎の言を引用したが、堀内は総督副官として児玉総督に従って31年に渡台し、総督の日常を目の当たりにしていた だけに、これは疑いえない事実なのである。
ところが、台湾経営の根本を建てたのは、台湾副総督・拓殖務相の高島鞆之肋と、その同志の初代台湾総督・樺山資紀であったこともまた事実である。神戸の砂糖商・鈴木商店は、日清戦争後に台湾樟脳の販売権を得たのを契機に急成長するが、その裏に高島鞆之助がいたことは確かである。京の薩摩屋敷で女中頭をしていた吉薗ギンヅルは、戊辰戦争に際して上京してきた島津藩士・高島と出会い、維新後の何時頃にか、2人はビジネス・パートナーとなった。高島-ギンヅルのコンビは、鹿児島市山下町の実業家・日高尚剛をダミーとして鈴木商店を動かし、さらに鈴木商店を通じて東亜煙草をも操っていたわけで、吉薗家の伝承では、日高の母方の〔安達リュウー郎〕が東亜煙草の発起人とのことである。ともかく、高島が台湾政策に関与していなければ、右のことは不可能である。つまり台湾統治政策は高島・樺山が企画屋として裏に回り、児玉・後藤が実行屋として表面に出たわけである。
それでは、杉山はこの両派といかなる関係にあったのか。杉山と児玉との関係は、杉山自身が『児玉大将伝』を著しているほど著名で、巷間にも文献は多い。一方、杉山と高島を結び付ける資料はほとんど見ない。僅かに杉山自身が著した『其日庵過去帳』に、「明治25年8月頃、陸相官邸で高島前陸相から新陸軍次官の児玉を引き合わされた」と解しうる文章を見るが、もう一点挙げれば「日露戦争の戦雲迫るころ、ソウルと釜山を結ぶ京釜鉄道の敷設に奔走した杉山茂丸は、麻布に安場保和を訪ねるが、安場は金策どころではなく、次に訪ねたのが高島鞆之肋の家(現在は上智入学の構内)であったが、拓殖務大臣を辞め陸軍大臣を辞めた高島には、やはり金がなかった」(堀雅昭著『杉山茂丸伝』)というものである。前陸相・高島中将も、杉山にとっては、金策を持ち掛けても失礼とならない相手であったことが伝わる。前月稿では、台湾政策につき、杉山が高島を代理人として指揮したとの憶測を述べ、「もし夫れ、本稿が『杉山は、薩摩ワンワールドの総長・高島の代理人としてそれを行った』と言えば、諸賢は否定なさるだろうか」と締めくくったが、この1月間思考を巡らしてみて、これは浅慮だったと今は思う。
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(16)ー2 ●徳川家斉、島津斉彬につながる黒田藩の役割
杉山茂丸の実体は一体何であったのか。仄聞するところでは、黒田藩士馬廻役130石だった父の杉山三郎平は★龍造寺家の男系で、このことが杉山茂丸の一生を規定したという。太宰府は古来西日本最大の要地で、幕府はここに黒田藩52万石を置いた。将軍家斉の実弟の一橋斉隆(1777年生)が黒田藩八代・治高の養子となって九代藩主を継ぐが、夭折し、その子で大御所・家斉の甥に当たる斉清(1795生)が十代藩主を継ぐ。本草学者として知られた斉清は、天保5(1834)年に39歳を以て隠居し、女婿であった薩摩25代藩主・島津重豪(1745~1833)の九男・斉溥(1811生)を長子として跡目を譲った。この異例の人事は、日本の将来を睨んで太宰府を掌握する目的で、大御所家斉(1773~1841)が島津重豪と結び、勅許を得て断行したと聞く。島津重豪は家斉の叔母(一橋宗尹の女)を継室にし、また自らの息女を家斉の継室として送る関係で、二人は共に国事を語っていたのである。時に天皇は仁孝で、光格上皇が院政を布いていた。「幕末は光格天皇から始まる」とは近来よく聞くが、そう観なければ右のことは理解できない。
開明派で知られた島津斉彬の大叔父で、親友でもあった斉溥は、斉彬に負けぬ蘭癖大名で、長溥と改名して黒田藩を継ぐや、重臣のリストラを断行する。実父の島津重豪に倣って黒田藩の近代化路線を推進し、天保5年から明治2年まで35年間も藩主の座にあった長溥を、側近として支えたのが茂丸の父・三郎平であった。継嗣に恵まれなかった長溥は、息女・理玖の婿に津藤堂藩主の三男・長知(1838生)を迎えて継嗣とし、その継室に実姉(重豪の八女孝姫)の嫁いだ桑名藩主・松平定和の息女・豊子を配した。長溥は薩長・幕府の間を周旋し、幕末史に大きな役割を果たすが、黒田の藩論が勤皇と佐幕の間を彷徨したことで、維新前後に黒田藩が辿った運命は悲惨であった。しかし、これはもともと黒田藩の辿るべき運命で、維新後は薩長土肥が舞台表に立つのに対し、黒田藩は裏方を務める役割を担い、玄洋社の看板を揚げたのである。
明治2年、長溥(*島津斉溥)は婿の長知に家督を譲る。長知も名優で、4年の太政官札偽造事件により知藩事を罷め、10年家督を長成に譲って隠居し、隠然たる玄洋社主となった。
元治元(1864)年生まれの茂丸は長じて玄洋社の客将となり、35年の(長知の)逝去まで、父に倣って長知を陰で支えた。茂丸は、日清戦争後から国際金融の分野で意外な活動を始める。折しも金本位制確立の時期で、その頃から、謎の貴公子・堀川辰吉郎を奉じる茂丸を散見する。実はここにこそ、男系龍造寺の杉山が、女系龍造寺の鍋島家と分担して日本近代化の舞台回しをした歴史の真相が窺えるのだが、後日稿において論じたい。
|
|
|
|
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(16)ー3 |
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(16)ー3
●国学、啓蒙主義双方に通じていた肥前鍋島藩
肥前鍋島藩は、幕府から黒田藩と交替で長崎の警固を命ぜられて、西洋の息吹に触れ、近代化の必要を覚る。嘉永5(1852)年に反射炉を稼働させ、慶応2(1866)年に最新兵器のアームストロング砲を自力で完成した位で、西南雄藩中有数の工業力と軍車力を備えていたが、安政2(1855)年に幕府が長崎オランダ海軍伝習所を開設すると、西南雄藩中最多の藩士を派遣する。海軍といえば、国柄を問わずワンワールド傘下で啓蒙主義団体を兼ねるから、長崎伝習所に派遣された肥前藩士は軍事知識のみならず、啓蒙思想の洗礼を受けたわけである。さらに、慶応元(1865)年に開設した藩校致遠館の校長に宣教師★フルベッキを招き、このことで明治維新における肥 前藩の役割とその後の地位が決定した。
維新実行の西南雄藩の一つでありながら、肥前藩は倒幕の軍事行動に参加せず、実際に兵を挙げたのは維新後で、新政府から北海道先鋒を命じられた時である。大政奉還・王政復古の前に京に兵を送ったのは薩長土だけで、鍋島藩は静観していた。そのため、明治4年の御親兵募集に当たっては三藩だけを対象としたが、それでも鍋島藩は維新の功績では三藩に劣らないと評価された。 鍋島藩の特色は、国学(南朝崇拝)と啓蒙主義(ワンワールド思想)の双方に通じていたことである。それを端的に示す人材が、楠公義祭同盟の創始者・枝吉神陽の弟の国学者でフルベッキ致遠館の教頭となった副島種臣(1828生)、および楠公義祭同盟の一員ながらフルベッキの直弟子となり、新政府有数の実力者となった大隈重信(1838生)である。他にも、大木喬任・佐野常民らがいるが、かかる肥前人材の維新後の活動を補完するのが杉山茂丸の役割だったと思える。維新に尽力した西南雄藩は挙って南朝の事績を顕彰した。肥前では枝吉と横井小楠が楠公義祭同盟を興し、薩摩では大久保・吉井らの誠忠組が楠公神社を建て、長州では藩校明倫館で楠公祭を執り行った。土佐では、城下近郊で上士と郷士が対立した井口村事件の後、下士・郷士が結成した土佐勤王党にも南朝復興の息吹を感じるのは私(落合)だけであろうか。ともかく、宮内省を抑えていた吉井友実の後を受けて、東京宮廷を護ったのは土佐勤皇党の土方久元(1833生)と田中光顕(1843生)で、前者が20年から31年まで、後者が31年から42年まで、併せて20年以上もの間、宮内大臣に就いていたことに注目せねばならない。因みに、杉山茂丸も南朝事績の顕彰を重視し、南朝正統論を説く『乞食の勤皇』を著している。
茂丸の幼少時については巷間溢れる他書に譲るが、何を読んでも講談もどきの武勇伝ばかりで、若干20歳の杉山が明治17年、山岡雪舟(*鉄舟)の紹介状を懐に暗殺目的で伊藤博文に会いに行った事などが面白く書いてある。肝心なのは、なぜそれが可能だったかだが、それは全く書かれておらず、策士だのとフィクサーだのと騒ぐだけである。杉山は玄洋社の看板で動いたが、根底はワンワールド傘下であったと観るべきである。玄洋社に薩摩ワンワールドのダミー的性格があることは前述した経緯からも不自然でなく、高島と杉山を結ぶ地下水脈があっても当然である。後年、薩摩出身の上原勇作元帥は、玄洋社の頭山満や中野正剛を私兵のごとく使役していたが、この関係は、高島=杉山と玄洋社の関係を上原が引き継いだものと見るしかないが、さらに遡れば、明治4年から24年まで宮内省を支配した吉井友実の本当の役割(薩摩ワンワールド総長)を高島が引き継ぐと同時に、杉山との秘密関係をも承継したものと推量する。
つまり、杉山と高島・上原は等しく役割を分担したもので、一方が上司、他方が部下という関係ではないと観るべきである。囚って、ここに前月稿を訂正したい。
●対清・対露非戦派の長州元勲工作に奔走 へ続く。 |
|
|
|
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(16)ー4
●対清・対露非戦派の長州元勲工作に奔走
いわゆる戦後史観は、「帝国主義に目覚めた日本が近代化に遅れた中国、満洲と韓国を侵略した」とし、すべてを日本発の国家悪のごとく論難するが、これは皮相に過ぎない。明治時代の杉山の政治活動を具に観ていくと、長州元勲の工作に腐心していたことは明らかで、日清・日露間の戦争を何か何でも起こさせるため、非戦派の伊藤博文・山県有朋を開戦論に転向せしめんとする策略と行動に満ちている。つまり、非戦派・長州と主戦派・薩摩とが対峙する状況の中で、杉山が長州人の周囲を徘徊しながら開戦をけしかけているのである。
杉山の主戦論は陸軍薩摩派の主張と軌を一にするから、恰も杉山が陸軍の意を受けて工作しているかに見えるが、もっと大きく観ると、杉山の方から薩摩派をそのように誘導していた可能性さえある。或いは、地球某所に実在する秘密勢力が、日本を日清・日露の戦争に誘導するため、長州非戦派に対する転向工作を杉山に命じているようにも見える。結局、最後の線が正解に近いから、戦後史観は最早放棄すべきである。正しくは「戦争によって清国・ロシアを破るのを日本の役割と、世界秘密勢力が定めた」ので、それを知る杉山が「日本としては、これに逆らうよりも進んで開戦し、事を早く済ますべきである」と考えて、長州工作に専念したものと思う。
薩英戦争以後はイギリスと親交した薩摩藩首脳は、そのくらいは知っており、果断な実行策を練った。ところが長州は、知っていても実行には戸惑った。幕末に至るも封建的武士社会の伝統を固守していた薩摩に比べ、長州では封建制が既に崩壊に瀕し、町民階層が台頭していたからである。この地域的特性により、薩摩では維新後も有司専制の武断正義を保持し、長州は民意尊重の文治主義的傾向が強まっていたから、長州人は文官・伊藤博文は言うに及ばず、陸軍閥の巨頭と目される軍政家官・山県有朋でさえ民意を恐れていた。明治22年の山県第一次内閣の責務は、ロシアの南下を防ぐための海軍拡張の実行にあったが、民党側は民力休養を主張し軍拡に反対した、山県は議会対策に腐心するだけで解散に踏み切れず、民党との妥協を模索し、農商務相・陸奥宗光に依頼して土佐派を籠絡し、予算を大幅に修正した上で漸く成立させた。山県に替わって首相を拝命した薩摩出身の松方正義は、対清・対露戦に備える軍拡を使命と考え、自ら蔵相を兼ねて積極財政を組んだ。民党はむろん軍拡に大反対であったが、薩人の陸相・高島鞆之助、海相・樺山資紀はひるまず解散を主張したので、松方は敢えて解散に出て、史上有名な選挙人大干渉を行った。
長州人の山県が「一介の武弁」を気取りながら民意に阿諛したのに比べ、薩人はデフレ財政で知られた松方さえ、必要と認めた軍拡は民意に逆らってでも実行しようとした。この選挙大干渉は、長州人の内相・品川彌次郎が担当して各県知事を指揮したが、福岡県では杉山も干渉に参加し、県知事・安場保和とともに民党を攻撃し、流血事件さえ生じた。政府側は莫大な資金を投入したが、それでも選挙に勝てなかったのは、民党の激化を恐れた長州の元勲伊藤・井上・山県が、品川内相に対して手加減を要求したからとされる。薩摩と長州の政治風土の差異は右の通りで、杉山の心中は常に薩摩側であった。高島と杉山の接点を証明する文献の有無は知らないが、以上を観ても、接点が無い筈はない。長州派工作を責務とする杉山は、長州派元勲との交遊ばかりを意識的にあげつらい、高島ら薩派との関係を世間から隠したのであろう。
●松方正義デフレ主義の根幹にあったのは・・・ へ続く。 |
|
|
|
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(16)ー5 |
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(16)ー5
●松方正義デフレ主義の根幹にあったのは・・・
吉薗家の伝承では、上原元帥は横浜正金銀行にも特殊な権力を持っていた。それが陸軍大将・荒木貞夫に受け継がれたようで、大戦が始まり為替が不自由になった中、フランス再渡航を希望する薩摩次郎八に頼まれた吉薗周蔵が、荒木閣下に頼んで為替を入手した、との記述がある。
『横浜正金銀行史』は、「顧ふに本行は大隈侯の懇切な指導の下に、13年2月28日を以て世に生まれたのであるが、翌14年から15年に亘る財界の不振に際し、当局者の措置が宜しきを得なかったので、資本金半額以上の欠損を来たし、殆ど破綻に瀕したのを、松方侯の懇篤周到な指導の下に九死に一生を得て、今日の盛大を見るべき基礎を固めたのである。故に本行歴代の当局者は、大隈侯を生の母とし、松方侯を再生の恩ある養育の母として常に敬意を表し、尚今後も永くその恩を忘れぬであろう」として、大隈と松方の恩を挙げるが、西南戦争前後の財政を担ったのは、確かに大隈と松方であったから、当時誕生した同行が2人の世話になったのも当然である。鍋島藩士の大隈は、明治元年1月に徴士参与職・外国事務局判事に挙げられ、外国官副知事から会計官副知事に転じた。2年7月の官制改定で、会計官の後身大蔵省の大輔となった大隈は、民部・大蔵両方の事実上の統合を献言し、自ら民部大輔兼大蔵大輔として内省を取り仕切った。3年7月、両省は再び分離し、大隈は大蔵大輔専任となり9月には参議に補されたが、4年7月の官制改定に際し、大蔵省を大久保・井上コンビに譲った。
薩摩藩士出身の松方は、大隈より3歳年上の天保6(1835)年生れで、藩士時代に長崎で汽船買い付けをしていた時、大久保の眼に留まり、明治元年1月に長崎県裁判所参謀助役に就き、元年閏4月の官制改定で徴士・内国事務局権判事に挙げられたが、同月に日田県知事に転じ、そこで黒田藩の太政官礼偽造を摘発して名を知られた。3年10月に民部大丞に挙げられ、4年7月の官制改定で大蔵少丞に格下げになるが、この時には、各省で職階調整のための降格があったようである。4年7月から6年まで大久保卿と井上大輔が支配した大蔵省に二、三格下の少丞に転じた松方は、翌月租税権頭になった。
参議兼制度取調専務の大隈は、6年5月に至り事務統裁として大蔵省に復帰、大久保に替わって大蔵卿になり、以後13年2月まで6年半大蔵省のトップに立った。松方は7年1月に租税頭に昇り、8年11月大蔵大輔に昇進し13年まで大蔵卿大隈を補佐した。この間10年1月からは内務省勧農局長を兼ね、同年10月から仏国博覧会のためフランスヘ出張するが、これをロスチャイルドにお目見えの機会としたものであろう。
帰国後の松方は、西南戦争後のインフレ対策に関して、大隈大蔵卿と正面から対立した。新政府は、西南戦争の戦費調達を不換紙幣の乱発で行ったから、戦後社会は大規模なインフレに見舞われていた。大隈は、インフレの原因を、貨幣流通量の過剰ではなく正貨(銀貨)の不足と考えて、「外債を発行して得た銀貨で、市場で不換紙幣と置き替えれば物価は安定する」と主張し、積極財政の維持を図った。これに対して松方は、維新以来の政府財政の膨張こそインフレの原因で、不換紙幣の回収しかないと緊縮財政を主張した。松方のデフレ主義は、訪仏した時にフランスで重農主義に触れたからと説明される。それもあろうが、真相はロスチャイルドにお目見えした時不換紙幣の乱発を指摘され、その整理を指示されたのではないか。蓋し松方理論は大隈の採ってきた積極財政を根幹から否定したから大隈は激怒し、これを憂慮した内務卿の伊藤博文が、13年2月に自ら内務卿を辞し、その席を松方に譲ったのであった。
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(16) 了。 |
|
|
|