吉薗周蔵手記(14)


 更新日/2021(平成31→5.1日より栄和改元/栄和3).2.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2005.4.3日、2009.5.27日再編集 れんだいこ拝


陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)ー1
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)

 「大西郷の後継者」から「人格異変」? 高島鞆之助の実像
  ニューリーダー 2008年2月号


●謎多き政治フィクサー、玄洋社・杉山茂丸の暗躍
    
薩摩藩士高島鞆之助は戊辰戦争に功あり、明治4年の御親兵募集に応じて上京したが、西郷隆盛と吉井友実の計らいで宮中に入り、侍従となった。翌年侍従番長に挙げられ、天皇側近として幾多の勅命を果たした後、明治7年陸軍に転じて初任大佐、10年に少将、16年に満39歳で陸軍中将に昇り、翌年施行の華族令で子爵に叙された。21年からの大阪第四師団長時代は名軍政家として知られた高島の陸軍におけるその位置を、三宅雪嶺の『同時代史』は、「第四師団長たりしとき、大西郷の後継者たるべしと見らる」と語る。24年、第一次松方正義内閣の陸相として政界入りした高島は、時に47七歳の分別盛りであった。

 これに先立つ明治17年、朝鮮国京城で甲申事変が起きた。世界史は帝国主義の最終段階に差しかかり、南下意欲を露にする帝政ロシアに対し日本帝国が存立しうる条件は、朝鮮半島の独立性確保に懸かっていた。しかし朝鮮は依然清国の属国に甘んじ、その清国すらロシアに狙われていた。

朝鮮がこの状態から抜け出すためには、日本と結ぶしかないとする金玉均・朴泳孝らの独立派が、クーデタを実行する。王宮を護衛していた日本軍も出動したが、袁世凱率いる駐留清軍に破られて、クーデタは失敗、親清派が臨時政権を樹立した。翌(明治18)年4月の天津条約で、日清両国は、朝鮮内政に干渉せず、出兵の場合は相互に事前通告することを約したが、朝鮮の政権は親清派の事大党が掌握するところとなった。海軍の大膨張策を採って周辺国を威嚇する清国の姿勢は、あたかも今日の中華人民共和国を彷彿するもので、19年には長崎に来航した清国水兵がわが警官・市民らを殺傷し、暴行を働く事件が起きた。軍拡を背景に中国兵が増長し、アジア各地で侵犯を働くのは歴史の通例である。

 明治22年12月、外相大隈重信の条約改正問題で黒田清隆内閣は総辞職する。玄洋社の杉山茂丸が不平等条約の原案を不満とし、来島恒喜を操って大隈重信を襲撃せしめたのである。代わって第一次山県有朋内閣が成立したが、何せ国際問題をすべて軍事カで解決した時代である。

26歳ながら海外事情に精通していた杉山は軍備拡張の必要を痛感し、山県内閣を動かして軍拡予算を通そうとした。しかし、翌年7月の第2回総選挙で勝利した民党が、11月の第一回帝国議会の予算案審議に大幅な予算削減案を提出して通過させるや、民党の勢いを懼れたた山県は忽ち内閣を投げ出してしまう。その後を受けた第一次松方内閣は、外相に榎本武揚(幕臣)、司法相に田中不二麿(尾張)、文相に大水喬任(佐賀)、農商務相に陸奥宗光(紀州)、逓信相に後藤象二郎(土佐)を配し、長州人は内相・品川弥次郎ただ一人であった。この内閣は、伊藤博文と山県が背後で操縦する「黒幕内閣」と呼ばれ、「世論を配慮した伊藤の智恵により薩長色を薄める人事にした」との解説が当時から専らであるが、これは長州ないし伊藤の買い被りであろう。

事実を観れば、松方首相が蔵相を兼務し、陸相に大山巌→高島、海相に樺山資紀と、要部を大陸積極派の薩人が占め、長州色はまことに薄いが、誰の目にも薩色が薄いとは見えない。長州が恰も「黒幕」に見えるのは、深慮遠謀のためてはなく、ひたすら民党を恐怖して薩長の陰に隠れたその姿ゆえである。財政家の松方さえ軍拡を最大の責務と考えた時宜なのに、長州では陸軍長老の山県さえ民意を恐れて非戦派であった。凡そ明治20年以後の近代史は、大陸積極策且つ官僚専制派の薩摩閥と大陸消極策で民党と結んだ長州閥の思惑が、光学的干渉のごとき縞模様を顕しながら進展していくが、その間にあって両者を仲介したのが玄洋紅の軒を借りた杉山であった。

杉山は、薩摩と政治的スペクトルを同じくする玄洋社に属しながら、日常の交際を専ら長州閥の要人としていた。薩摩の意思を長州に伝えるためと見えるが、或いは、杉山その人が長州浜を調略していたのかも知れず、杉山の考究なくして日本近代史は語れないが、それは別条に譲るしかない。
  
 <続く>
 
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)ー2
 陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)ー2

●閣内で選挙干渉を叫び辞職、薩摩ワンワールド総長に? 

明治24年11月の第2国会において、政府の軍拡予算案が否決されると、軍部の内大臣は黙しておらず、海相・樺山が「薩長政府などと罵るが、本邦今日の隆盛を来たしたるは薩長政府の功績ではなきか」と吠えた蛮勇演説で議会は荒れに荒れ、松方は衆議院を解散した。第2回総選挙は、品川弥次郎内相と白根専一次官の長州コンビが、史上有名な大選挙干渉を指揮する。それにも関わらず民党が勝った理由は、民党の激化を懼れた伊藤及び山県・井上馨ら長州要人が選挙干渉の手加減を品川に要請したために品川が腰砕けになったからである(堀雅昭著『杉山茂丸伝』)。選挙干渉が最も激しかった高知(調所広実)と佐賀(樺山資雄)の知事はどちらも薩摩人であった。福岡では、杉山がかつて県知事に押し込んだ安場保和(後藤新平の岳父)が選挙干渉を主導し、杉山もこれに協力した。選挙後、品川は引責辞職し、後任の内相が副島種臣(佐賀)松方(首相兼務)と一時凌ぎの後、司法相兼務で就任した河野敏謙(土佐)が、人心収攬のために佐賀・高知の知事更迭を図った。閣内で選挙干渉を叫んでいた高島・樺山は、あくまで軍拡を重視する態度で、更迭に猛反対して辞表を提出、これにより第一次松方内閣は25年8月8日を以て倒壊、第二次伊藤内閣に代わる。同日高島は予備役編入、樺山資紀は退役し、共に枢密顧問官に転じた。

 この時期の枢密院議長は、大木喬任佐賀)→山県有朋(長州)→黒田清隆(薩摩)で、副議長は東久世通禧(公家)である。また枢密顧問官は、薩人では前海相・仁礼景範、元海相・樺山資紀、元海軍卿・川村純義(樺山の子息愛輔の岳父)、旧幕臣では元海軍卿の勝海舟、同じく榎本武揚、さらに前海軍軍令部長・中牟田倉之助(佐賀)と海軍の元首脳が20数名中にこれだけいた。日清の開戦迫るこの時期に、自ら軍政を離れた高島は、一体何をしていたのか。

★結論を言えば、24年4月に死去した枢密顧問官・吉井友実が保持した秘密権力を引き継ぎ、薩摩ワンワールドの総長の座に就いたと、私は考える。

海軍首脳といえばワンワールドの上席と観るのが世界の常識だが、日本も多分同じで、海軍首脳が居並ぶ枢密院は、高島にとって恰好の居場所だったものと思う。

  <続く>
 陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)ー3

 ●現役復帰、拓殖務相などを歴任するも恩賞なしの謎

 朝鮮国では親日派政権の樹立に向けた朝鮮改革の動きが進み、これに応じた民間志士が26年8月、朝鮮独立を目指す実力結社の天佑侠を釜山に設けた。時を同じくして杉山茂丸は参謀次長川上操六中将に会い、清国との早期開戦を訴える(堀雅昭『杉山茂丸伝』)。軍拡を益々進めた清国は、しきりに軍艦を日本近海に航行させ、挑発的な軍事演習を繰り返していた。大局はもはや事事行動による解決しかないと説得する杉山に、川上は長州閥の巨頭で枢密院議長の山県有朋大将への呼びかけを懇願した。山県は伊藤・井上の平和論に押され、且つ彼我の兵力差を憂いて開戦論を拒否するが、やがて川上の意見を入れて開戦論に転向した。因みに、薩摩と玄洋社の大陸政策にとっての障害は常に★伊藤の非戦論で、その因縁が後年ハルピン駅頭の伊藤暗殺をもたらしたものと思われる。
 
対清戦争の目的は、第一に条約改正を国力(軍事力)により推進すること、第二は日朝の連携を実現するためであった。既に国家の実質を失った李氏朝鮮国の支配を巡って、日清露の間で覇権争いが激化しつつあり、朝鮮国内では東学党の農民軍が決起を控えていた。東学党の騒乱に乗じて玄洋行が清国を挑発し、開戦の口実にしようと考えていた有様を、杉山の子息夢野久作が傑作『犬神博士』のなかで語っている。明治27年3月、東学党の蜂起と金玉均の暗殺を開戦の口実として、日清間に戦雲が沸き立った。現役に復帰し海軍軍令部長に就いた樺山資紀は、講和ごの28年5月海軍大将に進級、台湾総督に補せられた。樺山総督は6月17日、台北城内で閲兵式を行い19日に南進を開始するが、土匪の抵抗が激しいため一個師団では不足と判断し、28日大本営に対し一個混成旅団の増援を請求した。台湾総督府は民政を中断して軍政に移行、8月6日、台南平定の南方作戦を指揮すべき副総督を置くこととし、樺山総督の要請により、予備役中将高島鞆之助を8月21日付で之に任じ、現役に復帰せしめて南進軍司令官とした。作戦計画を決定した南進軍司令部に対し、22日付で南進命令が下り、激戦ここに2カ月、10月21日の安平陥落を以て台南征討は成り、樺山総督は11月6日を以て南進軍の編成を解いた。

28年12月に凱旋した高島は、翌年4月、第三次伊藤博文内閣が新設した拓殖務省の初代大臣に就く。台湾総督府の監督に当たった高島は、9月に第2次松方内閣に移行するや、拓殖務相兼職のまま2度目の陸相に返り咲くが、30年9月の行政整理で拓殖務省が廃された後は陸相を本官とし、31年1月までその職にあった。3年前、25年8月に予備役入りした高島は現役に復帰し、台湾副総督から拓植務相、さらに陸相を兼務したが、なかでも1年半に亘る陸相の座は、日露決戦の時機迫る折から、国内で最も重要な職位であった。28年8月5日、硝煙いまだ漂う中で早くも軍功表彰があり、戦時中に軍務大臣だった大山・山県・西郷従道が勲一等旭日桐花大大綬章を授かり、野津道貫(第一軍司令官)、樺山(台湾総督)、川上操六(参謀本部次長)、伊東祐亨(海軍軍令部長)が旭日大綬章を受けたが、この勲章を既に8年前に受けていた高島には何の恩賞もなかった。既達の爵位勲等が高過ぎて昇叙の余地なく、次の機会にという所だったのだろうが、その機会は大正5年の逝去まで終に来ず、没時に勲一等旭日桐花大綬章を賜わるまで実に30年もの間、何らの恩賞も受けなかった(位階の正二位は侯爵・首相級で、生前の贈位と思うが年次は未詳)。

  <続く>
 
傑作★『犬神博士』より。
2008年1月30日 陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)ー3
 ●現役復帰、拓殖務相などを歴任するも恩賞なしの謎

 の引用中に、以下のように夢野久作・『犬神博士』への言及があった。


 「・・・対清戦争の目的は、第一に条約改正を国力(軍事力)により推進すること、第二は日朝の連携を実現するためであった。既に国家の実質を失った李氏朝鮮国の支配を巡って、日清露の間で覇権争いが激化しつつあり、朝鮮国内では東学党の農民軍が決起を控えていた。東学党の騒乱に乗じて玄洋行が清国を挑発し、開戦の口実にしようと考えていた有様を、杉山の子息夢野久作が傑作・★『犬神博士』のなかで語っている。・・・」と。

 当該部分をここに紹介・引用しておこうと思う。以下引用はちくま文庫版夢野久作全集(5)による。(p338-342)
 *****************
  
  
 ★<百五>途中から。

 「……チョツト用があるので会いに来ました」
(福岡)知事の額から青筋万次第次第に消え失せて行った。それに連れてカンシャクの余波らしくコメカミをヒクヒク咬み絞めていたが、しまいにはそれすらしなくなって、ただ呆然と吾々二人(楢山と数え歳7歳の少年)の異様な姿を見比べるばかりとなった。
 楢山社長は半眼に開いた眼でその顔をジツと見上げた。片手で山羊髭を悠々と撫で上げたり撫で下したりしながら今までよりも一層落ちついた声で言った。

「知事さん」

「今福岡県中で一番偉い人は誰な」

「……………」

 知事は面喰らったらしく返事をしなかった。又も青筋が額にムラムラと現われて、コメカミがヒクヒクし始めたので、何か云うか知らんと思ったが、間もなくコメカミが勣かなくなって、青筋が引込むと同時に、冷たい瀬戸物見たような、白い顔に変って行った。

「誰でもない。アンタじやろうが・・・あんたが福岡県中で一番エライ人じゃろうが」

 ★<百六>

楢山社長の言葉は子供を諭すように柔和であった。同時にその眼は何ともいえない和ごやかな光りを帯びて来たが、これに対する知事の顔は正反対に険悪になった。知事の威厳を示すべくジッと唇を噛みながら、恐ろしい眼の光りでハタハタこっちを射はじめた。

 しかし楢山社長は一向構わずに相変らず山羊髭を撫で上げ撫で上げ言葉を続けた。
「・・・なあ。そうじゃろうが。その福岡県中で一番エライ役人のアンタが、警察を使うて、人民の持っとる炭坑の権利をば無償で取り上げるような事をば何故しなさるとかいな」

「黙れ黙れツ」
と知事は又も烈火の如く怒鳴り出した。
「貴様達の知った事ではない。この筑豊の炭田は国家のために入り用なのじゃ」

「ウム。そうじゃろうそうじゃろう。それは解かっとる。日本は近いうちに支那と露西亜ば相手えして戦争せにゃならん。その時に一番大切なものは鉄砲の次に石炭じゃけんなあ」
「・・・・・」
「・・・しかしなあ・・・知事さん。その日清戦争は誰が初めよるか知っとんなさるな」

「八釜しい。それは帝国の外交方針によって外務省が・・・」

「アハハハハハハハ……」

「何が可笑しい」
 と知事は真青になって睨み付けた。

「アハハハハ。外務省の通訳どもが戦争し得るもんかい。アハハハ・・・」

「・・そ・・・それなら誰が戦争するのか」

「私が戦争を初めさせよるとばい」

「ナニ・・・何と云う」

「現在朝鮮に行て、支那が戦争せにゃおられんごと混ぜくり返やしよる連中は、みんな私の乾分の浪人どもですばい。アハハハハハ・・・」

「・・ソ・・・それが・・どうしたと云うのか・・ッ」
 と知事は少々受太刀の恰好で怒鳴った。しかし楢山社長はイヨイヨ落ち付いて左の肩をユスリ上げただけであった。
「ハハハ・・・どうもせんがなあ。そげな訳じゃけんこの筑豊の炭坑をば吾々の物にしとけあ、戦争の初まった時い、都合のよかろうと思うとるとたい」

「・・・バ・・・馬鹿なッ・・馬鹿なッ・・この炭坑は国家の力で経営するのじゃ。その方が戦争の際に便利ではないかッ」

「フーン。そうかなあ。しかし日本政府の役人が前掛け当て石炭屋する訳にも行かんじゃろ」

「そ・・・それは・・・」
「そうじゃろう・・・ハハハ。見かけるところ、アンタの周囲には三角とか岩垣とかいう金持ちの番頭のような奴が、盛んに出たり這人ったりしよるが、あんたはアゲナ奴に炭坑ば取ってやるために、神聖な警察官吏をば使うて、人民の坑区をば只取りさせよるとナ」

「・・・そ・・・そんな事は・・・」

「ないじゃろう。アゲナ奴は金儲けのためなら国家の事も何も考えん奴じゃけんなあ。サア戦争チウ時にアヤツ共が算盤ば弾いて、石炭ば安う売らんチウタラ、仲い立って世話したアンタは、天子様いドウ云うて申し訳しなさるとナ」

「しかし・・・しかし吾輩は・・・政府の命令を受けて・・・」

「・・ハハハハハ・・・そげな子供のような事ば云うもんじゃなか。その政府は今云う三角とか岩垣とかの番頭のような政府じゃなかな。その政府の役人どもはその番頭に追い使わるる手代同様のものじゃ。薩州の海軍でも長州の陸軍でも皆金モールの服着た金持のお抱え人足じゃなかな」

「・・・・・」

「ホンナ事い国家のためをば思うて、手弁当の生命がけで働きよるたあ、吾々福岡県人バッカリばい」

「・・・・・」

「熟と考えてみなさい。役人でもアンタは日本国民じゃろうが。吾々の愛国心が解からん筈はなかろうが」

「・・・・・」
知事はいつの間にか腕を組んで、うなだれていた。今までの勇気はどこへやら、県知事の威光も何もスツカリ消え失てしまって、如何にも貧乏たらしい田舎爺じみた恰好で、横の金屏風にかけた裾模様の着物と、血だらけの吾輩の姿を見比べたと思うと、一層悄気返ったように頭を下げて行った。

 その態度(ようす)を見ると楢山社長は、山羊髭から手を離して膝の上にキチンと置いた。一層物静かな改まった調子で話を進めた。

「私はなあ・・・この話ばアンタに仕たいばっかりに何度も何度もアンタに会いげ行た。バッテンが貴下はいつも居らん居らんちうて会いなさらんじゃったが、そのお蔭でトウトウ此様な大喧嘩いなってしもうた。両方とも今停車場の所で斬り合いよるげなが、これは要するに要らぬ事じゃ。死んだ奴は犬死にじゃ」

「・・・・・」

「そればっかりじゃなか。この喧嘩のために直方中は寂れてしまいよる。これはんなアンタ方役人たちの心得違いから起った事じゃ」

「・・・・・・」

「あんた方が役人の威光をば笠に着て、無理な事ば為(し)さいせにや、人民も玄洋社も反抗しやせん」

「・・・・・」

「その役人の中でも一番上のアンタが、ウンと云いさえすりあこの喧嘩はすぐに仕舞える。この子供も熱心にそれを希望しとる」

「ナニ。その子供が・・・」
と知事は唇を震わしながら顔を上げた。

・・・以下略・・・。  

 ***************


 ここに登場する知事は勿論、安場保和・当時福岡県令がモデルで、

 鶴見俊輔の母(愛子)の母(和子)の父である。

 算盤勘定最優先の「三角とか岩垣」が三井・三菱等の財閥であることは言うまでもない。

 興味深いのは、ここで示されている、玄洋社の楢山(頭山)と安場の交際の「印象風景

 描写」=「場面描写」の見事さである。

 歴史の状況証拠的風景はなかなか知ることが出来ないので、ありがたいことだ。

 
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)-5
 陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)ー5
  
 ●陰の使命、薩派総長就任のため陸軍路線を転換

 事実を追うと、第四師団長時代の令名もあり24年5月、第2代陸
相に挙げられた高島は、選挙干渉の一件で辞去を提出した25年8月から、3年間を枢密院で過ごした。陸相経験者の高島にとって陸軍内での席は、各地の師団長を別にすれば、①陸相再任、②参謀総長、③教育総監、④台湾総督--以外にはなく、予備役編人もやむを得ないが、日清講和後に現役復帰して台湾副総督に就くのを見ても、陸軍との縁は切れていない。副総督は軍隊指揮官のみならず軍政官(行政官)だから、この人事は「政治家としては問題あるが、軍人ならばまだやれるだろ」といった類のものではない。第一行政手腕に欠ける面が明白なら、伊藤内閣が新設した拓殖務人臣に、わざわざ高島を任じることはない。短期間に台湾を治定し、台湾統治の根本を策定した高島の軍政力に期待したのである。第二次松方内閣でも拓殖務相を続け、陸相を兼務した高島を評して、「この内閣の時に、人物偏狭とうてい大事に堪えずと判断された」と評するなどは、どうみてもおかしい。第四師団長後の高島の経歴を辿るとき、結局雪嶺の言うがごとき「人材異変」は見当たらないのである。

 第二次松方内閣の治績は、対清戦争準備と新聞条例の改正だけでなく、貨幣法の制定こそ、内閣最大の眼目であった。明治30年3月26日公布の貨幣法は、金本位制の確立を意味し、維新直後から長年にわたり政府紙幣の整理に苦心してきた2人の財政家、すなわち大隈重信(明治6年10月から13年2月まで大蔵卿)と松方正義(8年11月から13年2月まで大蔵大輔、14年10月から18年12月まで大蔵卿)が、それぞれ外相兼農商務相および首相兼蔵相となり、その実行のために連立内閣を組織したのである。松隈内聞の異称も宣なる哉のこの内閣は、10月1日の貨幣法施行を見届けたら崩壊するのも自然の成り行きで、11月6日大隈は辞任した。共同首相というべき松方・大隈は素より、副首相格の高島・樺山もその他の重要閣員も、ワンワールドの一員だった筈だ。松方と大隈に連立を提案した三菱の岩崎弥之助が日銀総裁に任ぜられた意味も深長である。金本位制の確立を指図したのが金融皇帝ロスチャイルドだったことは当然だが、一流の評論家・三宅雪嶺でさえワンワールドの実存を知らず、また覚り得なかった所に、明治(から平成までの)日本知識人の限界が露呈している。浅薄ただ喋るだけの文人に対し、重厚軍人は敢えて剛毅朴訥を装い、自らのワンワールド性を韜晦したのである。

 軍部大臣は内閣交替にさほど影響されず、在任期間は総じて長い。明治13年陸軍卿となった大山巌は、内閣制度発足の18年、初代陸相となり、在任5年(陸軍卿通算で11年余)の後、24年5月に高島に譲った。長期の陸相在任が予定された高島が選挙干渉の一件で辞任したので、大山は第二次伊藤内閣の陸相に復し、在任さらに4年に及ぶ(第二軍司令官の期間は、海相・西郷従道が臨時的に陸相を兼摂)。政党と事を構えた高島が予備役で「ほとぼり」を冷ます間、大山自ら陸相の席を守りながら、高島のアク抜けを待ったように見えるし、それが真相かも知れぬが、別の可能性もある。即ち、高島がそれまで辿ってきた陸軍路線を転換し、前年4月に逝去した吉井友実の後を継いで、薩摩ワンワールドの総長に就いた可能性である。

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 陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)  
 「大西郷の後継者」から「人格異変」? 高島鞆之助の実像
   『ニューリーダー』 2008年2月号 より

   <完>
 
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)-4
 陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)-4


 ●三宅雪嶺も断じ切れなかった政治家としての器

 高島のかかる冷遇を世間は怪しんだものと思う。選挙干渉以来の国民的不人気から同情に値せずというのならば樺山資紀も同断であるが、樺山は国民的英雄となった。世人の不審に答えたのが秋川書店『帝国陸軍将軍総覧』の高島評で、「大阪では鎮台司令官、第四師団長として大いに権勢を振るい、多くの新規事業も実施した。その後、陸軍大臣、拓殖務大臣など軍政家として政治的手腕を発揮したが、早く現役を退いた。直情径行のためといわれる」と月旦する。これは『大日本人名辞書』が「鞆之助豪放にして膽気あり。細事に汲々たらず、家資常に空し。政治家の器ありと雖も、直情径行にして紆余曲折の態に乏しきを以て、晩年落寞として振るはず」と評したのを受けただけで、自ら究明するところがない。小島直記『日本策士伝』も似た解説
を述べるが、三宅雪嶺の『同時代史』を借用しただけで、自身の意見はない。高島晩年の不振の理由を雪嶺は、「恐らく第四師団長以後、頭脳の発達が停まり(中略)記憶力の乏しきは何時頃よりの事か、後に人の面を忘れ、感情を害すること少なからず・・・」と憶測するが、「我執を強くし、偏狭に流れ」と評したのは、何のことを指したものか分からぬが、樺山と共に閣内で選挙干渉を主張し、関与知事の更迭に飽くまで反対した件からすると、高島に対する「案外に偏固の癖あり、思い立てることは飽くまで遂げんとす」との評も、あながち不当とは言い切れまい。しかし事実は、雪嶺自身が云うように、「まだこのときは、まださすがに勇敢だ、となお重きをおかれ」ていた。だからこそ5年後に再び陸相のお鉢が回ってきたのである。

 つまり、高島への酷評は、そこで出世が止まったから生じた結果論で、初回の陸相の時には評価のガタ落ちなどなかった。雪嶺が「高島の評価がガタ落ちした」と指摘するのは第二次松方内閣の時であるが、この内閣も5年前の第一次内閣と同様、松方が首相兼蔵相、陸相兼拓殖相に高島、海相に西郷従道、内相に樺山と、要所を薩人で固め、その他は外相大隈(佐賀)、司法相清浦奎吾(熊本)、文相蜂須賀茂詔(大名)、農商務相榎本(幕臣)、逓信相白根専一(長州)を配したもので、閣員構成は5年前の第一次内閣と酷似している。

雪嶺は「先ずこの内閣は〔欲ありて意なく、意ありて謀なく、謀ありて力なき〕閣員の集合体であった」というなら第一次内閣の顔触れも同様だ。松方・高島・樺山の薩摩三人衆が水戸黄門トリオ宜しく並び、心情的に薩人に近い榎本が加わり、他は首のすげ替えだから、両次の松方内閣に挟まれた第二次伊藤内閣が、井上・山県・陸奥・黒田の元老を並べて「元老内閣」と呼ばれたのと比べると閣員の爵位は確かに一段落ちるが、政治の評価はそんなことには関係がない。この内閣の特徴は、進歩党の大隈が松方に協力した連立内閣という点にあり、ために世人は松隈内閣と呼んだのである。雪嶺が、玄洋社と政治的立場を同じくする松隈内閣に対して悪態を吐いた心理は不可思議だが、その詮議はともかく、「そこで薩派の牛耳を執るは陸相兼拓相の高島にして」の言は流石に正鵠を得ている。両次の松方内閣で要所を占めた薩人をまとめたのは、確かに陸相高島の一言であった。したがって「第四師団長として嘱望されたときのようであれば、内閣関係者を結合する中心人物として、事実上の首相となったであろう」との評は正しい。問題は事実がそうならなかったことで、その理由を雪嶺は「豪傑肌で愉快な人と見られるのと、小事を争って策略を弄する御仁として知られるのと、どちらが本当か。世人は判断に戸惑い、それが高島信者の損となり、高島本人の損となった」と評した。評言の重点は後半部にあり、「高島が、第四師団長時代とは一変して、小事を争う偏狭な人物に変わった人材異変を原因とする」と断じたわけである。
    
   <続く>
 

●『期待と回想』 鶴見俊輔
●『期待と回想』 鶴見俊輔 朝日文庫 2008.1.30

(原著は1997.8月刊 晶文社。) よりのメモ。


7。伝記のもつ意味  より。 p396~
 (質問者は小笠原信夫 日時は1994.4.30 )

*章頭の質問は次の通り。
 鶴見さんの仕事で伝記というスタイルの表現が多くありますが、人とその生きてきた時代を、いまという時代に置いてみようということではないかと思います。
 70年代に入り『高野長英』、それ以降『柳宗悦』『太夫才蔵伝』『夢野久作』『アメノウズメ伝』。こうした伝記を書こうというときに何を心がけていますか。
 *************


★『高野長英』は史料がものすごく多いという感じがしました

 江戸時代の史料というのは使ったことがなかったんです。本格的に史料調査をやる人だったらもっと楽々と書くのではないでしょうか。これを書こうという直感は、高野長英(1804一50)は悪党だということなんです。高野長英を美化しようとか、尊皇の志士という諸説から切り離したかった。それからもう一つある。「べ平連」での脱走兵援助があったことですね。高野長英は脱走囚となって逃げたでしょう。それです。

 高野長英自身は悪党なんだが、かれを助けた人は長英より逞かにえらい人なんだ。長英を助けている人たちが、あちこちにいて、いずれも立派な人たちだった。貧乏しているけど先祖が長英をかくまったことを今も愉快に思っているんだね。上州にいましたよ。このことな
んです。私か脱走兵援助をしていなかったら、これを書くモティーフは出てこなかったでしょう。長英が残した『蛮社遭厄小記』はすごい。牢屋に入れられるとふつうはあきらめるものなんだが、高野長英は金を小者にやって火をつけさせ逃げるでしょ。すごい知恵じゃないですか。「べ平連」で脱走兵援助を一所懸命やったが、それはいったん終わった。アメリカの基地から出てきた脱走兵を助けた人たちと同じ気分を、高野長英を助けた人たちはもっていたと思う。そのことを、ゴシップでもいい、嘘でもいい、集大成してみよう。そんな思いなんです。

 『夢野久作』は、京都で「家の会」(サークル)をつくったころに話したことがあるんですが、杉山茂丸と夢野久作という父親と息子の関係に興味をもっていたんですが、意外なことに夢野久作の長男の杉山龍丸さんという人物が現れて、私の家に何度もやってきたんです。私が夢野久作について20枚ほどの原稿を書いた(1962年)ことがきっかけなんです。手紙を送ってきて、それから来るときはかならず伊勢名物の「赤福」を持ってきたんですよ。京都駅で買ってきたのでしょ。

 三一書房が夢野久作の全集を出すというので、谷川雁が兄の谷川健一に頼まれ、私を巻きこもうとした。杉山龍丸は、この全集の編者に入ってくれるなという内容の電報を打ってきた。そのあとに手紙がきたんだけど、「あなたと私とのあいだに金を介在させたくない。あ
なたが編者に加われば、かならず金の問題について私は要求することになる。それがいやだ」と書いてあった。

 かれとしては、私との関係は「赤福」を持って訪問するだけにしたい。『声なき声のたより』という小さな通信に文章を書いて送ってくれたこともあった(鶴見著『夢野久作』に収録)。こうした関係性は右翼的なものなんです。

 あとでわかったんだが、かれは夢野久作から3万坪の土地を残されていた。その金で、インドのガンジーがつくった塾の生き残りを日本に連れて来たり、世界の砂漠の緑化をやったりと全部使いきっていた。全集を出した三一書房から多くの印税が入ったと思うが、それも使いきっちゃっていた。ほんとに何にもない、文なしで人生を終えた人なんです。

 私から見るとそれは壮挙だね。こういう人間が日本の高度成長という時代にいるんだね。私もそうありたいと願っている。一種の理想なんだ。それに感激して、『夢野久作』を書いた。はじめは「家の会」的に親と子という関係で書こうと思っていた。杉山茂丸から夢野久作へ。それはある程度アカデミックな構想なんです。しかし変わってしまった。杉山龍丸という人物の登場によって。私としては、この本は、杉山龍丸に対する供養という気持ちがつよい。高度成長のときに、こういう人間がいる。福岡で3万坪というのは大変なものでしょ。それを少しずつ売っていった。かれは弟にもほとんど金をやっていない。弟に家をたててはいるんですが、戦前の長子相続権を戦後になってもがんと守った。無茶な人ですがね。

 彼は、CDIのアンケート調査で、福岡にずっと住みつづけるつもりだ。どこか別のところに行くとしたら京都だ。あそこは友だちがいるし、いい学生たちがいる、と答えた。友だちというのは私のことで、いい学生たちというのは奈良でハンセン病患者でも泊まれる家(むすびの家)をつくった柴地則之といったワークキャンプの学生たち。私は胸をつかれた。かれは杉山茂丸の孫だということで、左翼から毛嫌いされ、右翼とも喧嘩ばかりしていた。こういう男はすごいなあと思う。光を放つ、そこのところがないと伝記は書けないでしょう。

★右翼といえば、鶴見さんは葦津珍彦さんとも親しいですね。
             
 葦津さんには感心しています。葦津さんを記念する本をつくりたいと思っているんですが、もう私には力がなくてね・・。葦津珍彦という人は市井三郎が連れてきたんです。葦津さんに、夢野久作の息子が生きているはずだけど紹介していただけないか、と頼んだことがあるんだが、それはできない、あの人はよく喧嘩する人です、といった。たしかにその助言は有効だったんです。しかし私は杉山龍丸とは喧嘩をしたことはないんですよ。かれは突如として来るけど、私が家を出る用事があるというと「赤福」だけを置いてすぐに帰っていく。お
互いのあいだに最後までお金をいっさい介在させなかったね。・・・以下略・・・

  <続く>
●『期待と回想』 鶴見俊輔
●『期待と回想』 鶴見俊輔 朝日文庫 2008.1.30
(原著は1997.8月刊 晶文社。) よりのメモ。

 4.転向について(質問者は北沢恒彦 日時は1993.9.25)

 ★転向よりも重要な問題  p216~


 いま自分は「転向」よりも重大な問題があると考えるようになった、と最初におっしゃいましたね。それはどういうことなんでしょう?

 転向論をやってるあいだは何でもかんでも転向と結びつけて解釈していたけど、30年たって、いまの私は、転向は人間のもっとも重要なテーマじゃない、という感じがしているなにがもっとも重要なテーマかというと、「生きていていいのか」「なぜ自殺しないのか」という問題なんですよ。哲学の問題としては、転向よりもこっちの方が重いんですね。
  
 この考え方に光を当てるために、『西田信春 書簡・追憶』(土筆社)という本を待ってきたんです。石堂清倫(社会思想研究家)、中野重治、原泉(女優。中野重治と結婚)の三人の共著。本のタイトルになってる西田信春という人は、戦前の日本共産党の九州地方委員長だったんだが、警察のスパイだという説があった。当時の共産党の資料は調べることができませんから、戦後もながくスパイだったと思われていた人なんです。

私がこの本と出会うのには因縁があってね、夢野久作(作家)の伝記を書いていたときに読んだ。夢野久作が福岡で秘書役に採用した紫村一重という人物がいるんです。当時、かれは共産党員ということで起訴されて裁判が進行中だった。にもかかわらず夢野はかれを自分の秘書にした。紫村は転向したんだけど、底の底までは転向してなかった。監獄で雑役をしていたとき、自分たちの指導者を売った西田信春のことを探って、とうとうかれの警察調書を発見するんです。それを読んで西田はスパイどころか、拷問にあっても自白をせず、警察署の階段をズルズルと何度も頭から落とされているうちに死んだということがわかった。逮捕されたのが1933年2月10日で、死んだのが翌日です。その事実を警察は嘱託医をごまかして、「職務熱心でこうなりました」といっている。

 そのことが戦後になって明らかにされた。それは西田と交渉のあった中野重治や石堂清倫にとってはたいへんなショックだったんです。それでこの本ができたんです。

 この本に西田の配下だった前田梅花の書簡がおさめられている。西田にはハウスキーパーがいた。北村律子というんです。この北村律子は笹倉栄というスパイと結婚していた。そのことで前田は、西田の疑いが晴れたあと、「なぜあんたは西田ではなく笹倉と結婚したのか」と律子を詰めるんです。それに対して、律子は「たとえかれがスパイであったとしても、私はかれを愛しているから離婚するつもりはない」と答えた。前田は、それはいやだな、と思うんですけども、ついに最後は気持ちの整理がついた。「笹倉は許さなくても律子は許してやらなくてはならないと思いました。西田が遠いところから、ああもういいよといっている気がしますね」。これが前田梅花の最終的な結論なんです。

 政治行動というのは表面のことのように私には思える。それに魂を奪われたくない。スパイと一緒に暮らすことは悪いことなのか。かならず離婚しなきやいけないのか。私は、政治思想を共にしなくても、旦那がスパイであっても一緒に暮らしていくのは一つの立場のよう  な気がします。前田梅花が最後に達した結論は私には理解できる。転向よりも裏切りよりも深い問題がある。転向者として同志を売るようなことをやって、どうして生きていったらいいだろう。そこで自殺するという考え方もあるでしょ、熊沢光子(てるこ)のように。生命のかたちはそれを否定するものとの葛藤なのであって、そこまで降りていくと政治的転向より深い問題に出会うと思いますね。

 生命のかたちはいつでも生命の否定とない合わせになっている。どうしたら生きていけるのか。いっそ自殺しようか。それが根本の問題なんです。転向研究から離れたあとの30年で、私の中に定着した考え方なんです。
 私の姉はアメリカに行ったときからマルクス主義者で、その後、離れた。そして親父が選挙戦に出て倒れたのち、ひとりで膨大な借財を整理して親父の面倒をを見ていたんです。ところがプリンストン大学で博士号を取るためにアメリカに行かなければならなくなった。姉のほかに私と妹、弟と三人いたけど、引き受け手がいなくて、結局、私が家にもどってしばらく世話をした。私は1951年から15年間、親父の家に足を踏み入れたことがなかったんですけどね。

 思想の表面だけを見れば、姉には一貫性がない。だけど彼女が親父の面倒を見ていたから、私はデモとか座りこみとか自由にやることができた。親父が倒れたあとだって一文も家に入れたことはありませんよ。もし姉がいなかったら私が親父の世話を引き受けなければならない。社会的、政治的な活動もしなかったでしょうね。家のこと、親父のことを考えると、姉に対して頭が上がらない。そういう問題があるんですよ。著作の上での一貫性とはちがう問題がある。転向だけを問題として他人を押しまくることはできやしない。それが現在の立場ですね。転向よりも重大なものがあるということなんです。

  <続く>
 
●高島鞆之助
 『近代人物辞典』 吉川弘文館 より。


●高島鞆之助 1844-1916 (P594)

明治・大正の軍人、政治家。号は丙革。
弘化元年(1844)11月9日、薩摩藩士高島嘉兵衛・貞子の四男として鹿児島城下高麗町に生まる。藩校造士館に学ぶ。文久2年(1662)島津久光に随行して京都に上り、皇居の守護にあたった。
明治元年(1866)戊辰戦争に従軍して鳥羽伏見から北陸・東北に転戦した。
明治4年侍従、ついで翌年侍従番長に任ぜられた。7年陸軍大佐に任官。陸軍省第一局副長・同局長代理をつとめた。
この間、9年萩の乱鎮圧に派遣。10年西南戦争が勃発すると、陸軍少将に昇進して、別働第一旅団司令長官となり反乱の鎮圧に功績をあげた。
12~13年フランス・ドイツに留学して軍制研究に従事。帰国後、熊本鎮台司令官・大阪鎮台司令官・西武監軍部長・第四師団長などを歴任。
その間16年陸軍中将、17年には子爵を授けられた。また17~18年甲申事変の事後収拾のため井上馨に随行して朝鮮に渡った。
24年5月第一次松方内閣の成立に際して陸軍大臣として入閣、樺山資紀海相らとともに閣内の薩派の一翼を担い、武断派と評された。25年8月松方形内閣退陣に伴い、辞職して枢密顧問官に転じた。28年8月~29年4月台湾副総督、29年4月~30年9月第二次伊藤内閣および第二次松方内閣の拓殖務大臣、29年以降陸軍大臣を兼任し、ついで30年9月~31年1月陸軍大臣専任となった(拓殖務相は廃官)。
31年1月予備役編入、32年2月再び枢密顧問官となり終身その職にあった。
反長閥勢力の中心として、大正元年(1912)~2年には犬養毅ら憲政擁護派と連携し桂内閣打倒に一役買った。

性格は豪放磊落で胆力・勇気に富み、一時は政治家として飛躍を期待されたが、緻密さや思慮・分別に欠けるとされ、晩年は不遇に終わった。
京都の伏見桃山にある女婿高島友武少将(第十九旅団長)邸に滞在中、大正5年1月11日脳溢血のため死去。73歳。
墓は東京都港区の青山墓地にある。

参考文献『枢密院高等官履歴』・三           (鳥海 靖)


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●高島鞆之助
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高島鞆之助高島 鞆之助(たかしま とものすけ、天保15年11月9日(1844年12月18日) - 大正5年(1916年)1月11日)は、薩摩藩出身の陸軍軍人、政治家である。諱は昭光。官位は陸軍中将正二位勲一等子爵。陸軍大臣・拓殖務大臣・枢密顧問官等を歴任する。また、現在の学校法人追手門学院の前身である、大阪偕行社学院の設立者でもある。第19師団長を務めた陸軍中将勲一等子爵高島友武は養嗣子。


[編集] 略歴
幼少期:薩摩藩の藩校造士館に学ぶ。
戊辰戦争に従軍する。
1874年(明治7年):陸軍大佐に任ぜられる。
西南戦争:別働第1旅団司令長官。
1883年(明治16年):陸軍中将
1884年(明治17年):7月7日子爵に叙せられる。
1887年(明治20年):11月2日勲一等旭日大綬章受章。
1888年(明治21年):第4師団長
1891年(明治24年):第1次松方内閣の陸軍大臣となる。
1892年(明治25年):枢密顧問官となる。
1895年(明治28年):台湾副総督となる。
第2次伊藤内閣・第2次松方内閣:拓殖務大臣と陸相を歴任する。
1899年(明治32年):枢密顧問官となる(死去まで)。
1916年(大正5年):1月11日薨去、勲一等旭日桐花大綬章受章。

先代: (未設置) 拓殖務大臣:1895 - 1896 次代:(廃止)
先代: 大山巌 陸軍大臣第2代:1891 - 1892 次代:大山巌
先代: 西郷従道 陸軍大臣第7・8代:1896 - 1898 次代:桂太郎

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上の写真は、★近代日本人の肖像( http://www.ndl.go.jp/portrait/contents/rights.html )より。
 





●『俗戦国策』 杉山茂丸 (4)
 ●日露開戦 の章に茂丸のロシア観や文学観を吐露した一文がある。

 伊藤博文との関連で紹介しておきます。

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★我が露西亜(ロシア)観

 此の如く我日本は、日露戦争以来、我国の先輩長者が身魂を砕いて築き上げて来た犠牲の結果とも云うべき、対露戦勝の我国家を、其子弟たる現代の日本国民は、又、悲惨にも、現代の露西亜が発散する高毒素の宣伝にて毒殺(poisoningshou)せられんとしつつあるのである。
彼の「レーニン」「トロツキー」の高唱したる主義は、論拠を或る学問的意義に取りて、露国民を全部、発狂せしめた、即ち其目的が、革命である、曰く、
 一、階級を破壊する事、
 二、財産を共有する事、
 其次に高唱したのは、
○目的は、手段を聖化せしむるものなり。
これらの宣伝に、天性単純とう愚(バカ正直)なる露国民は発狂して之を実行したのであるが、其目的の実行とはドンな事であったか、先ず皇帝を銃殺する事と、皇后を辱めて虐殺する事と、皇族を悉く穴に入れて埋め殺す事と、国民が先祖以来働いて蓄えて居た財産を悉く没取する事とであった。

 此等の主なる目的を達する為には、ドンナ手段を取ったか、1ケ月に平均1千人ずつの反過激派を虐殺した、国民の財産と云う財産は全部剥ぎ取った、国民の弱者と云う弱者は、男女とも全部これを凌辱した、其の他に何事もしたこと事はないのである。ソンナ手段が、ドンナ目的の為めに、聖化せられたか、世界の歴史始まって、未だ見た事も聞いた事もない程の惨害を実行して、矢張り国じゃとか、政治じゃとか名を付けて、少しも恥しいとも何とも思わぬのである、而してやはり、日夜の声を続けて「サイ
エンス」呼わりをして居るではないか。
そもそも学問とは何物であるか、地球に土地あって以来の歴史に伴うて発生したる、吾人祖先人類が、伝統的に思念考慮したる種々なる記録にして、吾人以後、尚お幾億万年も継続して、思念考慮したる発明的記録を子孫に伝統せねばならぬと云う、純然たる未製品の筆記である。
左様な不完全なる薬剤を以て、僅かに60年の「ライフ」を「リミット」として生存して居る人間に向って之を療下せしめんとするは、危険此上もない事である、此等は恰も、薬局法未定の、有毒素の粗製薬品を以て人類に手指で投薬するのと一般である。
現代の世界各国は殆んど全部、此の未製品の学問中毒に罹りて、未定薬局法、投薬の原理、原則と云う毒素に内蔵其の他の生理的機能を破壊せられて、正に死に瀕しつつあるのである。
読者よ、欧北半暮の国たる露国と云うは、往古より大豪傑も出で、大学者も出たが、其性、懇頑ならざれば深酷、一種の偏倚性を有するのである故に、彼の文豪「レフ・トルストイ翁」の如きも其流暢なる文章で一篇の小説を綴るにさえ其の罪囚を保護し、一方、官憲を罵る行文の随所にも終始一貫して彼の懇願性と深酷味は顕われて居るのである。

今ちょっと其の一節の意味を抜き出して見れば、

◎「ペテルブルグ」の監獄に繋がれて居る幾多囚徒達の運命を自由自在に左右して居る男は、沢山の勲章を侍って居る最もイカメしき老将軍であって、彼は不断、襟に慈悲の表彰たる白十字章を吊して居る大官である。

 世間では遠の昔から彼は耄碌して居ると云われて居るけれど、ソーでないかも知れぬ証拠は、彼は立派な男爵で、将軍で、監獄最高の大官である、彼はドウして斯る光彩ある位置を得たのであるかと云えば、彼は多数の百姓達を強制にて其の頭を短かく刈込ませ、強制にて軍服を着せ、強制にて銃剣を担がせ、自ら夫(それ)を強制にて指揮し、強制の表現とも云うべき軍律なる印刷物を以て総てを圧迫し、監禁、幽閉、刺殺、銃殺を以て威嚇し、而して彼等百姓達の生命を掛けて保護防衛した物は、彼の老将軍等の単独な位置や、自由や、家産や、其の血族等の幸福と安寧等とであった。而して其の目的を達した時は、彼等百姓達の死屍は何千何万と血みどろになって、累々として原野に横わったのである。

 これだけの事を強制的に遂行した功労によりて、彼、老将軍が頂戴した幾多の勲章が、アノ胸間に燦爛ときらめいて居る彼品(あれ)である、夫から又彼将軍は波蘭(ポーランド)にも勤務した事がある。其所でも彼は百姓の食を奪うたり、衣を剥いだり、鞭で叩いたりした功労によりて色々の勲章や襟飾りを頂戴した、而して彼は今や高大な邸宅の中に、世界中で一番柔かにして暖かな「アーム・テヤー」(ママ)の中に老体を埋めて、尚お且つ旧来の位置を保って居るのである。

 併し彼は長年の習慣性で、上長官の命令が一度降下すると、恰も猛獅(ライオン)が兎を見付けたように「アーム・テヤー」から刎起きて、満身の精力を傾尽して、如何なる皮の鞭でも、鉄の棒でも、氷の刃でも、鋭利な鉄砲でも軽々と操縦して、其行為の前には、慈悲も、不憫も、気の毒も一切ないのである。
彼は斯の如く厳重に命令を奉ずる事のみを大切にして、此以外には譬え自己を人類外に放棄しても、其上司の命令に忠実なる無情惨酷を平気で遂行する能吏である、夫が即ち彼の今日の位置と、富と、幸福と、安寧とを築き上げたのである、故に彼が毎日職責と称して、身心を傾けて信じて居る事柄は、幾多の男女を、網羅したる罪人を、要塞の奥の独房の中に監禁して、10年間に夫等の半数が牢死したり、狂気したり、肺病となったり、自殺したり、餓死したり、硝子の破片で動脈を切って眠死したり、網紐で縊死したり、木片で柱を摺りて焼死したりするようの待遇を、アノ禿髪、白髭、跙歯屈腰(そはくつよう)の年まで、夫を光栄として瑕瑾なく勤務したる、光栄のある役目と思うて居る、男爵で、将軍で、大官で、富裕なる男であるのである。而して彼が、巨額なる国費を以て使役する幾百千の下吏僚属は、因襲的に彼を羨み、彼を学び、尚お一層それ以上に職務の能率を向上せしめんと務めて居るのを、彼老将軍は、全く自己の良心から視て、悪い事とも思わず、多くの罪人の苦しんで居るのは、アレハ純然たる天災の、風や、雨や、地震の如く不可抗力の災難に遭うて居るのと同じように心得て、自己単独の感覚に対しては、特殊の刺戟を受けぬのである。ナゼなれば、斯る総ての事柄は皇帝の御名によりて発布し、皇帝の聖鑑によりて執行せられる法律の遂行であるから、我々に何等の関係なく、関心なく我々に月給やら勲章やらを恵まるる上司の命令をのみ大切に遵奉するのに何の不思議があろうぞ。此等の事より発生する多くの故障と損害は、総て皇帝陛下に於て責任して下さるのであるから、ドンな大変が起ろうが、大乱が兆そうが、吾人の享有すべき月給と、年度進級と、養老年金と、合理的の賄賂の上には、何等の故障も及ぼすべき事ではない、故に此老将軍の愛国と云うも、忠義と云うも、正義というも、皆全部総て以上の行為の中に含まれて居るのである、云々。

 と、この「トルストイ」大文豪はスラスラと此を書いているのである。茲で読者は一考せねばならぬ、此「トルストイ」の此筆致と云うたら、何等の深酷であろう、何等の挑発であろう。

 此文豪の煽動に掛ったら殆んど踊り出さぬ者はない、飛出さぬ者はないのである。元来昔から文豪などと云う名は、動(やや)もすれば煽動名人の別号かと思わるゝのである。「ルーソー」(ママ)は自由平等の逆理窟を云うて全世界の政治界を煽動した、近松巣林子は非条理の男女恋愛を書いて満天下の心中情死を煽動した、「トルストイ」は偏倚なる反抗心を挑発して露国の下層民を煽動したのである。素より国家的統一心と常操とを有せざる戇頑なる露国民を、斯く念人りに丁寧に小説的にまで分け入って、為政家の困難する様にと煽動したのであるから、露西亜の政治は昔日から政治らしき政治は絶対に出来ぬように造り上げられたのである。ナゼなれば元々政治上の一部人として単なる罪人の監視者ばかりを攻撃する丈にても、政治的に反抗したる経歴とは犯罪者の警醒教訓と共に、一言も之を道破する所がないのである、只だ一向に筆を舞わし文を踊らして、其の彼等の犯罪と反抗とに対して、煽動奨励のしっ放しの跡より外、何物も見る事は出来ぬのである。

 ソコデ実際に於て「アナキスト」(無政府党)「ソシヤルスト」(社会党)「ニヒリスト」(虚無党)「ボルセビーキ」(共産党)等が蛆虫のように孵いて来て、露国は国でもなく、人民でもなく、単なる悪性の遊牧動物的となったのである。

此の如き露国が殆んど欧亜の地半面を占領して、其の披煽動者として、最も有力なる民族が殆んど一億数千万人も蠢動して居るから、其の気運はドウしても欧洲の他の国家や東洋の支那や日本等へも、風靡波動して来るのは当然である。而して其の風靡波動は、先づ第一に「サイエンス」に耳目を刺戟せられる学徒に媒介せられて、トウトウ教育界の色彩を混濁せしむる事となるのである。

★要心せよ日本国民

 此の故に、今日我日本帝国に於ても、現在お互の産んだ子供は悉く善良であり升、夫を学校に入れて置くと、其の日から漸次に此毒素に中傷せられて、段々に目が耳の辺まで裂けて来て、尻尾が一寸二寸ずつ伸びて来て、全部獣物になるつつある所であり升(ます)。                
 夫(それ)に直接間接に3~4億円の学費を掛けて、此の獣物を製造しつつあるのであり升、その製造掛りには、国家が、学士博士の称号を付したり、或は爵位や年俸の壱万円内外を与えて、上下官民共に挙って之を奨励しつゝある事を、決して忘れてはなりませぬ。

学問と云う物は人類の品位を飾る物にして、一日も廃してはならぬ物でありますが、人類、脳細胞の意思系統を刺戟する文学は、決して之を、意識する以上に「アップライズ」しては、大変な片輪を製造する事になるものであり升。
夫は庵主の説明までもなく、現世界の総ての人類が、理化学、科学工業以外に働きつつある文学的毒素は、露西亜その他の国家に「デベロップ」して居る事実丈けで、十分に分るのであり升(ます)。
即ち今の日本は、露西亜を征伐して勝った復仇に、学問的の高毒素を以て毒殺されつゝある所であり升。

 



●『俗戦国策』 杉山茂丸 (3)
 ●ー億三千万弗借款事件

 ★黄金王モルガンとの問答


 夫(それ)から予定の通り、米国貿易商会の社長「スチブン」氏の案内で各製造所を見て、庵主の頭に入るだけの視察と必要書類とを得て大抵要領を得、直ぐに加奈陀(カナダ)に入り、暫く「ヴァンクーバア」に船待をして其の地方を視察し、匆々に「インプレス・インデアン」号で帰朝し横浜に着いたのが其の年の11月の3日であったと思う、丁度横浜を出て153日目であった。

夫(それ)から金子子爵や由利子爵と相談を定め、今度は金子子爵の手紙を1本持って渡米したのは、その翌31年の3月1日であったと思う。          
金子子爵の手紙は、「ゼー・ピー・モウガン」商会の法律顧問たる「フレデリック・ゼニング」氏に宛たものであった。その文面は、

 「此の手紙を持って行く・・・は、子(金子)が同郷の友人であって、日本に於て最も進歩したる経済的要務を帯びて欧米を巡視する者である、子は貴下が米国に於て最善の指導を与えられん事を望む、云々」

 と云う様な事であったと思う。今度は横浜を「インプレス・チャイナ」号で「ヴァンクーバア」に向い、米国に着いてユックリした宿に泊り込み、方々の観光に出掛けて、一向、誰にも面会せぬのである、折柄金子子爵の手紙を受取った「ゼニング」氏が庵主の宿を訪問して来て、
 「貴下は何か経済上の要務を帯びて居られると金子氏の手紙で見たが、ソーですか」
 と云うから、
 「・・衷心より貴下の御来訪を感謝致します。金子氏の手紙にある如く、小生は或る経済上の視察をするのでありますが、米国はその旅行の途中の道程であります・・昨年参りまして、米国の各製造所は巡視しましたが、マダ少しも米国各地の様子も見ませんでしたから、今回は観光を主とする積りであります。昨日『ナイヤガラ』から帰って参りました」

 「ハア、そうですか、実は★金子氏からのお手紙でしたから・・丁度その頃『モウガン』氏にその別荘で会いましたから、東洋の経済問題の為、その人に1度会っては如何と申しましたら、氏は『来る水曜日に紐育に帰るから、その翌日の木曜日の午後2時頃、2~30分間位なら面会しても差支ない。併し沢山面会せねばならぬ人を断って居るから・・極秘密にして置いて貰いたい』・・・との事であったから、
幸いの機会であるから、君、お逢いになって置く方が良いと思い升(ます)が」
「夫は何ともお礼の申し様もない御厚意であり升・・世界各国の元首でさえ、此の国に来て『モウガン』氏に面会する事の困難な程の世界の黄金王でありますから、願うてもない事とは思い升が、小生は全く書生の観光旅人であって、何等日本政府の『オーソリチー』等も持って居らず、全く無責任の世間話位で『モウガン』氏に面会しては、第一敬意を欠く事になりますまいか」

 「夫は・・好き御注意ではあるが・・・私は既に貴下の事を話したら、面会すると時刻まで指示された位故、兎も角面会なさってはドウです」
 「誠に有がとう存じ升が・・・甚だ恐入ますが・・小生が全くの米国観光旅人で、何等官憲の命令も何も持って居らぬでも面会して下さるかドウかと、貴下より今一応『モウガン』氏にお尋ねを願いたいと思い升。夫が東洋人の礼儀とも敬意とも心得て居ますから」

 「貴下のお考えはよく解りました。夫では今度聞いて木曜日の朝までに御返事致します・・・「モウガン』氏は、自分の気が向くと思いも寄らぬ人に面会をします・・・此の間も突然費府(フィラデルフィア)の工学生の寄宿舎に行って、椅子も無しに講話をしました位ですから・・イヤ、屹度貴下に御面会すると私は思い升」 と云うて「ゼニング」氏は帰られた。夫から水曜日の午後の2時頃に「ゼニング」氏から、
 「明日の午後2時頃『モウガン』商会に来られよ」
 との事であった。その木曜日の1時頃「ゼニング」氏が庵主の宿の「フィフサベニュー・ホテル」に来られた。

「隙があったから迎いに来ました・・『モウガン』氏に貴下の趣旨を話ましたら『兎も角時間が明けてあるから面会する』と云われました」
 との事である。此の「ゼニング」氏と云う人は実に立派な紳士で、金子氏の手紙の為めでもあろうが何所まで親切な人であるか解らぬと思うた、夫から馬車を共にして「モウガン」商会に世界の黄金王モルガン氏を訪うた。チャンと部屋に待って居た、其の容貌は平面の顔で、頭は半白の髪が房々として、眼が鳶のように茶色の瞳子(ひとみ)から異様の光を放って居る、而して其の目元の愛嬌と云うたら、比類なしである、「ゼニング」氏は庵主と共に直立して居たら、

 「シットダウン・・・(坐せよ)」
 と云うて突然として「モウガン」氏が発する声は、最も底力のある威圧を感ずる簡明な物であった。
 「亜細亜大陸の開発は、ドウしたら好いと云う意見ですか」
 「開発を考える前に、大陸に充填する天産地産の豊富にして、夫が原始の儘封鎖せられて居る事を知らねばなりませぬ」
○「其の価値は」
 「世界無比に安価と思います」
 ○「ナゼ」
 「河川海洋の便によりて、国を狭小に区画する事を得る地形にあり升から、運輸の距離が甚だ近接になり升、故に豊富なる天産は世界無比に安価であり升」
○「日本民族の特長は」
 「情義に富んで、勤勉で忍耐にして、持操があります。その他悪い習慣も沢山ありますが、米国程ではありませぬ」
 ○「支那民族の特長は」
 「忍耐、勤勉ではありますが、人類の持操に乏しいように思います、故に威圧力善導の外、道がありませぬ・・・悪い習慣は米国以上であります」
 ○「開発の利益は何所で得られる」
 「米国の悪習慣は、理論的であり升から、仕方がありませぬ、支那の悪習慣は、無理論的であり升から、対症治療の威圧的善導で片付ます、何でも徹底的に片付かぬ事は結局損であるから、高価く(ママ)付きます、早く片付いた事は総て安価であり升」
 ○「夫(それ)では外国人は、威圧器械を特って開拓に行かねばならぬと云わるゝのか」
 「外国人が直接に亜細亜を開拓すると、世界無比に高価になり升、其の開拓を全部日本に嘱託するが一番宜いです。日本は距離が近くて、威圧器械も具備して居升(おります)」
 ○「嘱託を受ける程の信用が日本に有りますか」
 「日本は政治上の内乱と経済上の恐慌は折々来ますが、50年の長年月、外国の負債取引支払い元利共一度も信用を怠った事はありませぬ」
 ○「日本民族が世界の代表者となって、亜細亜開拓を嘱託せらるる資格は如何」

 「日本は東西両洋の文明を理解し、其の負うたる責任を果たさざる事は今日まで一度もありませぬ」
 ○「開拓の資本は誰が供給する」
 「夫は小生にお尋ねにならずとも、賢明な貴下がよく御存じと思い升・・屹度米国が貸すのです、夫は東洋の為めでなく、米国自己の為です・・・米国は世界黄金の実権を把握して居り升(ます)、鉄と小麦粉と唐もろこし(コーン)だけでも、モウ欧羅巴には売れませぬ、東洋を開柘して夫に黄金と鉄と麦粉と唐もろこしだけでも売る場所としなければ、世界坤與の上に、モウ売る場所がござりませぬ。夫を実現する方針を定める責任は、日本でも米国でもありませぬ、全部貴下御一人のお考にある事は、世界の何人に問うも異議はござりませぬ」

 ○「ドンナ方法で開拓費の『インベスト』をする積りですか」
 「絶対に米国が損をせぬ方法が基礎です」
 ○「政府が引受けるのですか」
 「日本の政府は、商売人ではございませぬ、商売を保護する者であります」
 ○「夫では資本引受会社を拵えて、政府は『セコンド・ギャランチー』をするのですか」
 「夫で結構と思います」
 ○「夫を日本政府は為し得ますか」
 「為せたら為るであろうと思い升」
 ○「夫では支那の事は後にして、先ず日本自己の開拓をする事を政府が保護して後に、支那の事に及ぶの外あるまい・・・日本だけで幾千(いくら)の資本を要する見込ですか」
「解りませぬが・・・先ず1億位から始めるが適当かと思い升(何だか此の時1億円と云う事を云わなかった・・・『モウガン』氏は夫を1億弗(ドル)と思うたと見える)」
 ○「それでは案は直ぐに立つと思う、先ず、

(1)工業開発会社を起し、其の会社が債券を発行するのに、政府が第二の保証をする事
(2)その金額は1億弗以上1億3千万弗位を限度とする事
(3)年限は50年位とする事
(4)利子は五朱以上に貸付けてはイケない、利息が高いと事業利益が少なくなるから、資本の需要が 多くならないから
(5)利息は必ず3歩5厘として、その会社が1歩5厘を取ったらよいと思う。」
 
 「ソンナ事で、貴下が尽力せらるゝ事を拙者は承認し升」
 「誠に結構な御指導です・・・小生は今お話の事を『メモウ』(覚書)に書いて戴きたいと思い升」
 と云うと「モウガン」氏は暫く沈黙して居たが、庵主も「ゼニング」氏も驚く程の大声を発して
「モウガン」氏が、
 「『ゼー・ピー・モウガン』が承認(エース)ですぞ」
 と云うと共に、非常に昂奮して「テーブル」の端をドンと叩いたので「ゼニング」氏も庵主も通弁も度肝を抜かれて、顔色がサッと変わった。・・・庵主は徐に云うた。
 「今一度テーブルを叩いて戴きたいと思いますが」
 と云うと「モウガン」氏は緊張した声で、
 「ナゼ (ホワイ)」
 と云うから、
 「今一度テーブルを叩いて戴いたら、その音響が日本まで聞えはせぬかと思い升・・・小生は先日『ゼニング』氏を以て敬意を表しました通り、米国観光の一旅人でござり升、何等政府の命令も、国民の依頼も、受けて居ませぬ、併し貴下に拝顔の光栄を得る事を許されたから、恐る恐る伺候して御高諭を蒙った訳であり升、其のお話は実に日米両国の為めに、重大なる事件と思い升から、欧州行を中止しまして、明日にも帰国仕ようかと思うて居る所であり升、大には世界黄金界の大権力者たる『ゼー・ピー・モウガン』氏の、東洋に対する大なる親切の声か音かを、日本の政府及国民に聞かせたいと思い升許りであり升、小生は貴下の承認を信ずるの信ぜぬのと云うような資格のある男でない事は始めから、念を入れて申上げて置きました筈であり升、貴下が『テーブル』を打たるる音よりも、アノ美人の手にある『タイプライター』の音の方が便利ではないかと思うて願うたのでござい升」
 と云うと、暫く又沈黙して居たが、
 「エス・オーライ(承知しました)」
 と云うて、側の「タイピスト」の女にペロペロと云うた、其文書をサアッと取上げて一目してスラスラと「サイン」をして庵主に渡したのが、即ち明治31年の伊藤総理大臣と井上大蔵大臣に手渡した夫(それ)が、彼の日本興業銀行計画の基礎である。夫を伊藤公と井上候が実行すると受合って置いて、時の日本銀行総裁・岩崎弥之助氏及び重役の鶴原定吉氏が本となって反対したから、全東京の高利貸銀行の全部が反対し、「ソンナ安い金を貸されては、全銀行は上ったりじゃ、反対せよ反対せよ」と云うて、一致協合して此の案叩き潰しの大騒ぎを始めたから、金子子爵、由利子爵等、その他幾多の巨姓大名の人々が、是非とも此の低利永年賦の工業資本を輸入しようと提唱せられて、其年の議会の下院を通過せしめたが、上院では之を潰した。

 其の次の大隈内閣が不得要領であって、其の次の31年11月に成立した山県内閣で、山県総理大臣が、之を中心として危くも上下両院を通過させて呉れて日本興業銀行が出来たので、ヤット金子、由利両子爵の顔は立ったが、日本中の銀行屋や金持方が、安い利で貸されては、抵当は取上げられる、高利貸は出来ぬ事になるので、捻じてもコジても連合して、此の外資を入るゝ事を阻止して、トウトウ「モウガン」氏との契約を揉み潰して、やはり興業銀行を日本普通の高利貸銀行となして仕舞うたのである。

★黄金王モルガンとの問答  完。
 





(私論.私見)