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陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)ー1 |
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)
「大西郷の後継者」から「人格異変」? 高島鞆之助の実像 ニューリーダー 2008年2月号
●謎多き政治フィクサー、玄洋社・杉山茂丸の暗躍 薩摩藩士高島鞆之助は戊辰戦争に功あり、明治4年の御親兵募集に応じて上京したが、西郷隆盛と吉井友実の計らいで宮中に入り、侍従となった。翌年侍従番長に挙げられ、天皇側近として幾多の勅命を果たした後、明治7年陸軍に転じて初任大佐、10年に少将、16年に満39歳で陸軍中将に昇り、翌年施行の華族令で子爵に叙された。21年からの大阪第四師団長時代は名軍政家として知られた高島の陸軍におけるその位置を、三宅雪嶺の『同時代史』は、「第四師団長たりしとき、大西郷の後継者たるべしと見らる」と語る。24年、第一次松方正義内閣の陸相として政界入りした高島は、時に47七歳の分別盛りであった。
これに先立つ明治17年、朝鮮国京城で甲申事変が起きた。世界史は帝国主義の最終段階に差しかかり、南下意欲を露にする帝政ロシアに対し日本帝国が存立しうる条件は、朝鮮半島の独立性確保に懸かっていた。しかし朝鮮は依然清国の属国に甘んじ、その清国すらロシアに狙われていた。
朝鮮がこの状態から抜け出すためには、日本と結ぶしかないとする金玉均・朴泳孝らの独立派が、クーデタを実行する。王宮を護衛していた日本軍も出動したが、袁世凱率いる駐留清軍に破られて、クーデタは失敗、親清派が臨時政権を樹立した。翌(明治18)年4月の天津条約で、日清両国は、朝鮮内政に干渉せず、出兵の場合は相互に事前通告することを約したが、朝鮮の政権は親清派の事大党が掌握するところとなった。海軍の大膨張策を採って周辺国を威嚇する清国の姿勢は、あたかも今日の中華人民共和国を彷彿するもので、19年には長崎に来航した清国水兵がわが警官・市民らを殺傷し、暴行を働く事件が起きた。軍拡を背景に中国兵が増長し、アジア各地で侵犯を働くのは歴史の通例である。
明治22年12月、外相大隈重信の条約改正問題で黒田清隆内閣は総辞職する。玄洋社の杉山茂丸が不平等条約の原案を不満とし、来島恒喜を操って大隈重信を襲撃せしめたのである。代わって第一次山県有朋内閣が成立したが、何せ国際問題をすべて軍事カで解決した時代である。
26歳ながら海外事情に精通していた杉山は軍備拡張の必要を痛感し、山県内閣を動かして軍拡予算を通そうとした。しかし、翌年7月の第2回総選挙で勝利した民党が、11月の第一回帝国議会の予算案審議に大幅な予算削減案を提出して通過させるや、民党の勢いを懼れたた山県は忽ち内閣を投げ出してしまう。その後を受けた第一次松方内閣は、外相に榎本武揚(幕臣)、司法相に田中不二麿(尾張)、文相に大水喬任(佐賀)、農商務相に陸奥宗光(紀州)、逓信相に後藤象二郎(土佐)を配し、長州人は内相・品川弥次郎ただ一人であった。この内閣は、伊藤博文と山県が背後で操縦する「黒幕内閣」と呼ばれ、「世論を配慮した伊藤の智恵により薩長色を薄める人事にした」との解説が当時から専らであるが、これは長州ないし伊藤の買い被りであろう。
事実を観れば、松方首相が蔵相を兼務し、陸相に大山巌→高島、海相に樺山資紀と、要部を大陸積極派の薩人が占め、長州色はまことに薄いが、誰の目にも薩色が薄いとは見えない。長州が恰も「黒幕」に見えるのは、深慮遠謀のためてはなく、ひたすら民党を恐怖して薩長の陰に隠れたその姿ゆえである。財政家の松方さえ軍拡を最大の責務と考えた時宜なのに、長州では陸軍長老の山県さえ民意を恐れて非戦派であった。凡そ明治20年以後の近代史は、大陸積極策且つ官僚専制派の薩摩閥と大陸消極策で民党と結んだ長州閥の思惑が、光学的干渉のごとき縞模様を顕しながら進展していくが、その間にあって両者を仲介したのが玄洋紅の軒を借りた杉山であった。
杉山は、薩摩と政治的スペクトルを同じくする玄洋社に属しながら、日常の交際を専ら長州閥の要人としていた。薩摩の意思を長州に伝えるためと見えるが、或いは、杉山その人が長州浜を調略していたのかも知れず、杉山の考究なくして日本近代史は語れないが、それは別条に譲るしかない。 <続く> |
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陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)ー2 |
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)ー2
●閣内で選挙干渉を叫び辞職、薩摩ワンワールド総長に?
明治24年11月の第2国会において、政府の軍拡予算案が否決されると、軍部の内大臣は黙しておらず、海相・樺山が「薩長政府などと罵るが、本邦今日の隆盛を来たしたるは薩長政府の功績ではなきか」と吠えた蛮勇演説で議会は荒れに荒れ、松方は衆議院を解散した。第2回総選挙は、品川弥次郎内相と白根専一次官の長州コンビが、史上有名な大選挙干渉を指揮する。それにも関わらず民党が勝った理由は、民党の激化を懼れた伊藤及び山県・井上馨ら長州要人が選挙干渉の手加減を品川に要請したために品川が腰砕けになったからである(堀雅昭著『杉山茂丸伝』)。選挙干渉が最も激しかった高知(調所広実)と佐賀(樺山資雄)の知事はどちらも薩摩人であった。福岡では、杉山がかつて県知事に押し込んだ安場保和(後藤新平の岳父)が選挙干渉を主導し、杉山もこれに協力した。選挙後、品川は引責辞職し、後任の内相が副島種臣(佐賀)松方(首相兼務)と一時凌ぎの後、司法相兼務で就任した河野敏謙(土佐)が、人心収攬のために佐賀・高知の知事更迭を図った。閣内で選挙干渉を叫んでいた高島・樺山は、あくまで軍拡を重視する態度で、更迭に猛反対して辞表を提出、これにより第一次松方内閣は25年8月8日を以て倒壊、第二次伊藤内閣に代わる。同日高島は予備役編入、樺山資紀は退役し、共に枢密顧問官に転じた。
この時期の枢密院議長は、大木喬任佐賀)→山県有朋(長州)→黒田清隆(薩摩)で、副議長は東久世通禧(公家)である。また枢密顧問官は、薩人では前海相・仁礼景範、元海相・樺山資紀、元海軍卿・川村純義(樺山の子息愛輔の岳父)、旧幕臣では元海軍卿の勝海舟、同じく榎本武揚、さらに前海軍軍令部長・中牟田倉之助(佐賀)と海軍の元首脳が20数名中にこれだけいた。日清の開戦迫るこの時期に、自ら軍政を離れた高島は、一体何をしていたのか。
★結論を言えば、24年4月に死去した枢密顧問官・吉井友実が保持した秘密権力を引き継ぎ、薩摩ワンワールドの総長の座に就いたと、私は考える。
海軍首脳といえばワンワールドの上席と観るのが世界の常識だが、日本も多分同じで、海軍首脳が居並ぶ枢密院は、高島にとって恰好の居場所だったものと思う。
<続く> |
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陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)ー3
●現役復帰、拓殖務相などを歴任するも恩賞なしの謎
朝鮮国では親日派政権の樹立に向けた朝鮮改革の動きが進み、これに応じた民間志士が26年8月、朝鮮独立を目指す実力結社の天佑侠を釜山に設けた。時を同じくして杉山茂丸は参謀次長川上操六中将に会い、清国との早期開戦を訴える(堀雅昭『杉山茂丸伝』)。軍拡を益々進めた清国は、しきりに軍艦を日本近海に航行させ、挑発的な軍事演習を繰り返していた。大局はもはや事事行動による解決しかないと説得する杉山に、川上は長州閥の巨頭で枢密院議長の山県有朋大将への呼びかけを懇願した。山県は伊藤・井上の平和論に押され、且つ彼我の兵力差を憂いて開戦論を拒否するが、やがて川上の意見を入れて開戦論に転向した。因みに、薩摩と玄洋社の大陸政策にとっての障害は常に★伊藤の非戦論で、その因縁が後年ハルピン駅頭の伊藤暗殺をもたらしたものと思われる。 対清戦争の目的は、第一に条約改正を国力(軍事力)により推進すること、第二は日朝の連携を実現するためであった。既に国家の実質を失った李氏朝鮮国の支配を巡って、日清露の間で覇権争いが激化しつつあり、朝鮮国内では東学党の農民軍が決起を控えていた。東学党の騒乱に乗じて玄洋行が清国を挑発し、開戦の口実にしようと考えていた有様を、杉山の子息夢野久作が傑作『犬神博士』のなかで語っている。明治27年3月、東学党の蜂起と金玉均の暗殺を開戦の口実として、日清間に戦雲が沸き立った。現役に復帰し海軍軍令部長に就いた樺山資紀は、講和ごの28年5月海軍大将に進級、台湾総督に補せられた。樺山総督は6月17日、台北城内で閲兵式を行い19日に南進を開始するが、土匪の抵抗が激しいため一個師団では不足と判断し、28日大本営に対し一個混成旅団の増援を請求した。台湾総督府は民政を中断して軍政に移行、8月6日、台南平定の南方作戦を指揮すべき副総督を置くこととし、樺山総督の要請により、予備役中将高島鞆之助を8月21日付で之に任じ、現役に復帰せしめて南進軍司令官とした。作戦計画を決定した南進軍司令部に対し、22日付で南進命令が下り、激戦ここに2カ月、10月21日の安平陥落を以て台南征討は成り、樺山総督は11月6日を以て南進軍の編成を解いた。
28年12月に凱旋した高島は、翌年4月、第三次伊藤博文内閣が新設した拓殖務省の初代大臣に就く。台湾総督府の監督に当たった高島は、9月に第2次松方内閣に移行するや、拓殖務相兼職のまま2度目の陸相に返り咲くが、30年9月の行政整理で拓殖務省が廃された後は陸相を本官とし、31年1月までその職にあった。3年前、25年8月に予備役入りした高島は現役に復帰し、台湾副総督から拓植務相、さらに陸相を兼務したが、なかでも1年半に亘る陸相の座は、日露決戦の時機迫る折から、国内で最も重要な職位であった。28年8月5日、硝煙いまだ漂う中で早くも軍功表彰があり、戦時中に軍務大臣だった大山・山県・西郷従道が勲一等旭日桐花大大綬章を授かり、野津道貫(第一軍司令官)、樺山(台湾総督)、川上操六(参謀本部次長)、伊東祐亨(海軍軍令部長)が旭日大綬章を受けたが、この勲章を既に8年前に受けていた高島には何の恩賞もなかった。既達の爵位勲等が高過ぎて昇叙の余地なく、次の機会にという所だったのだろうが、その機会は大正5年の逝去まで終に来ず、没時に勲一等旭日桐花大綬章を賜わるまで実に30年もの間、何らの恩賞も受けなかった(位階の正二位は侯爵・首相級で、生前の贈位と思うが年次は未詳)。
<続く> |
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傑作★『犬神博士』より。 |
2008年1月30日 陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)ー3 ●現役復帰、拓殖務相などを歴任するも恩賞なしの謎
の引用中に、以下のように夢野久作・『犬神博士』への言及があった。
「・・・対清戦争の目的は、第一に条約改正を国力(軍事力)により推進すること、第二は日朝の連携を実現するためであった。既に国家の実質を失った李氏朝鮮国の支配を巡って、日清露の間で覇権争いが激化しつつあり、朝鮮国内では東学党の農民軍が決起を控えていた。東学党の騒乱に乗じて玄洋行が清国を挑発し、開戦の口実にしようと考えていた有様を、杉山の子息夢野久作が傑作・★『犬神博士』のなかで語っている。・・・」と。
当該部分をここに紹介・引用しておこうと思う。以下引用はちくま文庫版夢野久作全集(5)による。(p338-342) ***************** ★<百五>途中から。
「……チョツト用があるので会いに来ました」 (福岡)知事の額から青筋万次第次第に消え失せて行った。それに連れてカンシャクの余波らしくコメカミをヒクヒク咬み絞めていたが、しまいにはそれすらしなくなって、ただ呆然と吾々二人(楢山と数え歳7歳の少年)の異様な姿を見比べるばかりとなった。 楢山社長は半眼に開いた眼でその顔をジツと見上げた。片手で山羊髭を悠々と撫で上げたり撫で下したりしながら今までよりも一層落ちついた声で言った。
「知事さん」
「今福岡県中で一番偉い人は誰な」
「……………」
知事は面喰らったらしく返事をしなかった。又も青筋が額にムラムラと現われて、コメカミがヒクヒクし始めたので、何か云うか知らんと思ったが、間もなくコメカミが勣かなくなって、青筋が引込むと同時に、冷たい瀬戸物見たような、白い顔に変って行った。
「誰でもない。アンタじやろうが・・・あんたが福岡県中で一番エライ人じゃろうが」
★<百六>
楢山社長の言葉は子供を諭すように柔和であった。同時にその眼は何ともいえない和ごやかな光りを帯びて来たが、これに対する知事の顔は正反対に険悪になった。知事の威厳を示すべくジッと唇を噛みながら、恐ろしい眼の光りでハタハタこっちを射はじめた。
しかし楢山社長は一向構わずに相変らず山羊髭を撫で上げ撫で上げ言葉を続けた。 「・・・なあ。そうじゃろうが。その福岡県中で一番エライ役人のアンタが、警察を使うて、人民の持っとる炭坑の権利をば無償で取り上げるような事をば何故しなさるとかいな」
「黙れ黙れツ」 と知事は又も烈火の如く怒鳴り出した。 「貴様達の知った事ではない。この筑豊の炭田は国家のために入り用なのじゃ」
「ウム。そうじゃろうそうじゃろう。それは解かっとる。日本は近いうちに支那と露西亜ば相手えして戦争せにゃならん。その時に一番大切なものは鉄砲の次に石炭じゃけんなあ」 「・・・・・」 「・・・しかしなあ・・・知事さん。その日清戦争は誰が初めよるか知っとんなさるな」
「八釜しい。それは帝国の外交方針によって外務省が・・・」
「アハハハハハハハ……」
「何が可笑しい」 と知事は真青になって睨み付けた。
「アハハハハ。外務省の通訳どもが戦争し得るもんかい。アハハハ・・・」
「・・そ・・・それなら誰が戦争するのか」
「私が戦争を初めさせよるとばい」
「ナニ・・・何と云う」
「現在朝鮮に行て、支那が戦争せにゃおられんごと混ぜくり返やしよる連中は、みんな私の乾分の浪人どもですばい。アハハハハハ・・・」
「・・ソ・・・それが・・どうしたと云うのか・・ッ」 と知事は少々受太刀の恰好で怒鳴った。しかし楢山社長はイヨイヨ落ち付いて左の肩をユスリ上げただけであった。 「ハハハ・・・どうもせんがなあ。そげな訳じゃけんこの筑豊の炭坑をば吾々の物にしとけあ、戦争の初まった時い、都合のよかろうと思うとるとたい」
「・・・バ・・・馬鹿なッ・・馬鹿なッ・・この炭坑は国家の力で経営するのじゃ。その方が戦争の際に便利ではないかッ」
「フーン。そうかなあ。しかし日本政府の役人が前掛け当て石炭屋する訳にも行かんじゃろ」
「そ・・・それは・・・」 「そうじゃろう・・・ハハハ。見かけるところ、アンタの周囲には三角とか岩垣とかいう金持ちの番頭のような奴が、盛んに出たり這人ったりしよるが、あんたはアゲナ奴に炭坑ば取ってやるために、神聖な警察官吏をば使うて、人民の坑区をば只取りさせよるとナ」
「・・・そ・・・そんな事は・・・」
「ないじゃろう。アゲナ奴は金儲けのためなら国家の事も何も考えん奴じゃけんなあ。サア戦争チウ時にアヤツ共が算盤ば弾いて、石炭ば安う売らんチウタラ、仲い立って世話したアンタは、天子様いドウ云うて申し訳しなさるとナ」
「しかし・・・しかし吾輩は・・・政府の命令を受けて・・・」
「・・ハハハハハ・・・そげな子供のような事ば云うもんじゃなか。その政府は今云う三角とか岩垣とかの番頭のような政府じゃなかな。その政府の役人どもはその番頭に追い使わるる手代同様のものじゃ。薩州の海軍でも長州の陸軍でも皆金モールの服着た金持のお抱え人足じゃなかな」
「・・・・・」
「ホンナ事い国家のためをば思うて、手弁当の生命がけで働きよるたあ、吾々福岡県人バッカリばい」
「・・・・・」
「熟と考えてみなさい。役人でもアンタは日本国民じゃろうが。吾々の愛国心が解からん筈はなかろうが」
「・・・・・」 知事はいつの間にか腕を組んで、うなだれていた。今までの勇気はどこへやら、県知事の威光も何もスツカリ消え失てしまって、如何にも貧乏たらしい田舎爺じみた恰好で、横の金屏風にかけた裾模様の着物と、血だらけの吾輩の姿を見比べたと思うと、一層悄気返ったように頭を下げて行った。
その態度(ようす)を見ると楢山社長は、山羊髭から手を離して膝の上にキチンと置いた。一層物静かな改まった調子で話を進めた。
「私はなあ・・・この話ばアンタに仕たいばっかりに何度も何度もアンタに会いげ行た。バッテンが貴下はいつも居らん居らんちうて会いなさらんじゃったが、そのお蔭でトウトウ此様な大喧嘩いなってしもうた。両方とも今停車場の所で斬り合いよるげなが、これは要するに要らぬ事じゃ。死んだ奴は犬死にじゃ」
「・・・・・」
「そればっかりじゃなか。この喧嘩のために直方中は寂れてしまいよる。これはんなアンタ方役人たちの心得違いから起った事じゃ」
「・・・・・・」
「あんた方が役人の威光をば笠に着て、無理な事ば為(し)さいせにや、人民も玄洋社も反抗しやせん」
「・・・・・」
「その役人の中でも一番上のアンタが、ウンと云いさえすりあこの喧嘩はすぐに仕舞える。この子供も熱心にそれを希望しとる」
「ナニ。その子供が・・・」 と知事は唇を震わしながら顔を上げた。
・・・以下略・・・。
***************
ここに登場する知事は勿論、安場保和・当時福岡県令がモデルで、
鶴見俊輔の母(愛子)の母(和子)の父である。
算盤勘定最優先の「三角とか岩垣」が三井・三菱等の財閥であることは言うまでもない。
興味深いのは、ここで示されている、玄洋社の楢山(頭山)と安場の交際の「印象風景
描写」=「場面描写」の見事さである。
歴史の状況証拠的風景はなかなか知ることが出来ないので、ありがたいことだ。
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陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)-5 |
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)ー5
●陰の使命、薩派総長就任のため陸軍路線を転換
事実を追うと、第四師団長時代の令名もあり24年5月、第2代陸 相に挙げられた高島は、選挙干渉の一件で辞去を提出した25年8月から、3年間を枢密院で過ごした。陸相経験者の高島にとって陸軍内での席は、各地の師団長を別にすれば、①陸相再任、②参謀総長、③教育総監、④台湾総督--以外にはなく、予備役編人もやむを得ないが、日清講和後に現役復帰して台湾副総督に就くのを見ても、陸軍との縁は切れていない。副総督は軍隊指揮官のみならず軍政官(行政官)だから、この人事は「政治家としては問題あるが、軍人ならばまだやれるだろ」といった類のものではない。第一行政手腕に欠ける面が明白なら、伊藤内閣が新設した拓殖務人臣に、わざわざ高島を任じることはない。短期間に台湾を治定し、台湾統治の根本を策定した高島の軍政力に期待したのである。第二次松方内閣でも拓殖務相を続け、陸相を兼務した高島を評して、「この内閣の時に、人物偏狭とうてい大事に堪えずと判断された」と評するなどは、どうみてもおかしい。第四師団長後の高島の経歴を辿るとき、結局雪嶺の言うがごとき「人材異変」は見当たらないのである。
第二次松方内閣の治績は、対清戦争準備と新聞条例の改正だけでなく、貨幣法の制定こそ、内閣最大の眼目であった。明治30年3月26日公布の貨幣法は、金本位制の確立を意味し、維新直後から長年にわたり政府紙幣の整理に苦心してきた2人の財政家、すなわち大隈重信(明治6年10月から13年2月まで大蔵卿)と松方正義(8年11月から13年2月まで大蔵大輔、14年10月から18年12月まで大蔵卿)が、それぞれ外相兼農商務相および首相兼蔵相となり、その実行のために連立内閣を組織したのである。松隈内聞の異称も宣なる哉のこの内閣は、10月1日の貨幣法施行を見届けたら崩壊するのも自然の成り行きで、11月6日大隈は辞任した。共同首相というべき松方・大隈は素より、副首相格の高島・樺山もその他の重要閣員も、ワンワールドの一員だった筈だ。松方と大隈に連立を提案した三菱の岩崎弥之助が日銀総裁に任ぜられた意味も深長である。金本位制の確立を指図したのが金融皇帝ロスチャイルドだったことは当然だが、一流の評論家・三宅雪嶺でさえワンワールドの実存を知らず、また覚り得なかった所に、明治(から平成までの)日本知識人の限界が露呈している。浅薄ただ喋るだけの文人に対し、重厚軍人は敢えて剛毅朴訥を装い、自らのワンワールド性を韜晦したのである。
軍部大臣は内閣交替にさほど影響されず、在任期間は総じて長い。明治13年陸軍卿となった大山巌は、内閣制度発足の18年、初代陸相となり、在任5年(陸軍卿通算で11年余)の後、24年5月に高島に譲った。長期の陸相在任が予定された高島が選挙干渉の一件で辞任したので、大山は第二次伊藤内閣の陸相に復し、在任さらに4年に及ぶ(第二軍司令官の期間は、海相・西郷従道が臨時的に陸相を兼摂)。政党と事を構えた高島が予備役で「ほとぼり」を冷ます間、大山自ら陸相の席を守りながら、高島のアク抜けを待ったように見えるし、それが真相かも知れぬが、別の可能性もある。即ち、高島がそれまで辿ってきた陸軍路線を転換し、前年4月に逝去した吉井友実の後を継いで、薩摩ワンワールドの総長に就いた可能性である。
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陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14) 「大西郷の後継者」から「人格異変」? 高島鞆之助の実像 『ニューリーダー』 2008年2月号 より
<完> |
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陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)-4 |
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)-4
●三宅雪嶺も断じ切れなかった政治家としての器
高島のかかる冷遇を世間は怪しんだものと思う。選挙干渉以来の国民的不人気から同情に値せずというのならば樺山資紀も同断であるが、樺山は国民的英雄となった。世人の不審に答えたのが秋川書店『帝国陸軍将軍総覧』の高島評で、「大阪では鎮台司令官、第四師団長として大いに権勢を振るい、多くの新規事業も実施した。その後、陸軍大臣、拓殖務大臣など軍政家として政治的手腕を発揮したが、早く現役を退いた。直情径行のためといわれる」と月旦する。これは『大日本人名辞書』が「鞆之助豪放にして膽気あり。細事に汲々たらず、家資常に空し。政治家の器ありと雖も、直情径行にして紆余曲折の態に乏しきを以て、晩年落寞として振るはず」と評したのを受けただけで、自ら究明するところがない。小島直記『日本策士伝』も似た解説 を述べるが、三宅雪嶺の『同時代史』を借用しただけで、自身の意見はない。高島晩年の不振の理由を雪嶺は、「恐らく第四師団長以後、頭脳の発達が停まり(中略)記憶力の乏しきは何時頃よりの事か、後に人の面を忘れ、感情を害すること少なからず・・・」と憶測するが、「我執を強くし、偏狭に流れ」と評したのは、何のことを指したものか分からぬが、樺山と共に閣内で選挙干渉を主張し、関与知事の更迭に飽くまで反対した件からすると、高島に対する「案外に偏固の癖あり、思い立てることは飽くまで遂げんとす」との評も、あながち不当とは言い切れまい。しかし事実は、雪嶺自身が云うように、「まだこのときは、まださすがに勇敢だ、となお重きをおかれ」ていた。だからこそ5年後に再び陸相のお鉢が回ってきたのである。
つまり、高島への酷評は、そこで出世が止まったから生じた結果論で、初回の陸相の時には評価のガタ落ちなどなかった。雪嶺が「高島の評価がガタ落ちした」と指摘するのは第二次松方内閣の時であるが、この内閣も5年前の第一次内閣と同様、松方が首相兼蔵相、陸相兼拓殖相に高島、海相に西郷従道、内相に樺山と、要所を薩人で固め、その他は外相大隈(佐賀)、司法相清浦奎吾(熊本)、文相蜂須賀茂詔(大名)、農商務相榎本(幕臣)、逓信相白根専一(長州)を配したもので、閣員構成は5年前の第一次内閣と酷似している。
雪嶺は「先ずこの内閣は〔欲ありて意なく、意ありて謀なく、謀ありて力なき〕閣員の集合体であった」というなら第一次内閣の顔触れも同様だ。松方・高島・樺山の薩摩三人衆が水戸黄門トリオ宜しく並び、心情的に薩人に近い榎本が加わり、他は首のすげ替えだから、両次の松方内閣に挟まれた第二次伊藤内閣が、井上・山県・陸奥・黒田の元老を並べて「元老内閣」と呼ばれたのと比べると閣員の爵位は確かに一段落ちるが、政治の評価はそんなことには関係がない。この内閣の特徴は、進歩党の大隈が松方に協力した連立内閣という点にあり、ために世人は松隈内閣と呼んだのである。雪嶺が、玄洋社と政治的立場を同じくする松隈内閣に対して悪態を吐いた心理は不可思議だが、その詮議はともかく、「そこで薩派の牛耳を執るは陸相兼拓相の高島にして」の言は流石に正鵠を得ている。両次の松方内閣で要所を占めた薩人をまとめたのは、確かに陸相高島の一言であった。したがって「第四師団長として嘱望されたときのようであれば、内閣関係者を結合する中心人物として、事実上の首相となったであろう」との評は正しい。問題は事実がそうならなかったことで、その理由を雪嶺は「豪傑肌で愉快な人と見られるのと、小事を争って策略を弄する御仁として知られるのと、どちらが本当か。世人は判断に戸惑い、それが高島信者の損となり、高島本人の損となった」と評した。評言の重点は後半部にあり、「高島が、第四師団長時代とは一変して、小事を争う偏狭な人物に変わった人材異変を原因とする」と断じたわけである。 <続く> |
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