吉薗周蔵手記(13)


 更新日/2021(平成31→5.1日より栄和改元/栄和3).2.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2005.4.3日、2009.5.27日再編集 れんだいこ拝


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13)―1

 ★知られざる大物『上原勇作伝』と『周蔵手記』に見る高島鞆之助
                                ◆落合莞爾
  ニューリーダー誌 2008.1月号

 ●杉山茂丸の一端を明らかにした『アジア連邦の夢』
 (*『ドグラマグラ』の夢野久作=杉山直樹・泰道の父親) 

 
前月号で、高島鞆之助・樺山資紀と児玉源太郎、後藤新平の関係を述べつつ、「ここまで書いて折よく、この見解を裏付ける資料に際会した」と書いた。その資料とは、平成十八年に発行された堀雅昭著『杉山茂丸伝〔アジア連邦の夢〕』である。内容は後稿で紹介するが、玄洋社総帥の頭山満の指南役だった杉山茂丸が、伊藤博文・山県有朋・桂太郎など長州派首脳や後藤新平を操縦していく経緯を、原資料に当たりながら解説したもので、御用史家や売文史家が従来全く気づかなかった杉山の本質を明らかにしている。この著の価値は長州派首脳に取り入った杉山が、独自の政治的価値観を以て国策を進めたことを立証した点にあるが、その一方、一介の浪人・杉山がそのような地歩に立ち得た理由については考察及ばず、また杉山が近侍した謎の貴公子・堀川辰吉郎に全く触れていないのも遺憾がある。
 
 尤も、かかる杉山の深奥部に関しては、そもそも直接資料なぞあるべくもなく、考察対象を原資料に限定する限り、已むを得ないものと思う。ともかく私としては、本誌の新連載で探究・推理を始めた日本近代史の核心部分、すなわち吉井友実・根方正義・高島ら薩摩ワンワールドと、その後継者たる上原勇作と上原に続く荒木貞夫につき「杉山茂丸という一本の補助線により極めて明瞭に裏付けられた」との実感がある。

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前に、こう紹介された(した)著作を読んでみます。

「目次」を先ず見てみると、「怪人」、「百魔」=杉山茂丸の一生が浮き出てくる「気配」が強く感じられます。

 以下、紹介していきます。
 

 先ず「目次」から。
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はじめに

第一章 自由民権の嵐

吉田磯吉と珍山尼
伊藤博文との出会い
士族たちの最後の戦い
藤田伝三郎との出会い
再上京の決意
文明開化の匂いの中で
井上馨と甲申事変
ねらわれた伊藤博文
北海道への逃亡
アンダーグランドの世界
頭山満との出会い
山田顕義と九州鉄道
山県有朋の保安条例
国権派新聞の誕生
『大阪毎日新聞』の創刊
井上馨と玄洋社の運転資金
「犬神博士」と炭鉱王

第二章 日清開戦の機運

戦争と炭鉱
井上馨を救った頭山満
大隈重信の右足
謎の「金受取証」
日清戦争の発案者
石炭貿易
日清貿易研究所
殉節三烈士
品川弥二郎との密約
選挙干渉の舞台裏
実業学校の開設
朝鮮沿海漁業と天佑侠
日清戦争への布石
山県有朋から出た工作資金
金玉均の暗殺
遼東半島割譲に反対する
李鴻章の狙撃
三浦梧楼と閔妃暗殺

第三章 膨張する視座

幻の『露西亜亡国論』
台湾鉄道の敷設
台湾銀行の創設
児玉神社
鄭成功伝説
京釜鉄道の敷設
青木周蔵と釜山港の埋築
経済策士の資本主義
第一回渡米と八幡製鉄所
第二回渡米とJ・P・モルガン
ニューヨーク
日本興業銀行

第四章 日露開戦への道

政友会の成立
日露開戦の七つの密約
日英同盟の裏側
第三回と第四回の渡米
京浜銀行の後始末
京阪電気鉄道の敷設
義太夫と日露戦争
最初の著書『帝国移民策新書』
ロシア革命とユダヤ人
機密情報の漏洩
児玉源太郎と南満洲鉄道
「凱旋釜」の石碑

第五章 アジア連邦の夢

支那は永遠に滅びぬ国
辛亥革命
東京大学の骨格標本
週刊誌『サンデー』の創刊
「日韓同祖論」と宋来峻
韓国統監になった伊藤博文
未完のアジア連邦
伊藤博文の韓国統監辞任
安重根発射の弾丸
日韓合邦記念塔
「遷都私議」と博多湾
築港
第一次世界大戦後の不況
消えた大分軽便鉄道計画
関門海底鉄道トンネル

第六章 第二維新の準備

お召し列車事件
南北朝正閏論と『乞食の勤王』
ラス・ビハリ・ボース
「中村屋」のカレー
フィリピン買収計画
ホルワット政権樹立構想
暗殺された原敬
国技館の再建
関東大震災と夢野久作
武智歌舞伎と『浄瑠璃素人講釈』
大杉栄と伊藤野技
田中義一と日魯漁業
雁の巣飛行場
五・一五事件と二・二六事件
交友五十年と祝賀披露会
茂丸の死
一行寺での玄洋社葬

杉山茂丸年譜
おわりに
主要参考文献
主要人名索引 

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★次に巻頭言 (「はじめに」) です。

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はじめに

 黒田藩馬廻組百三十石という侍の家に生まれた杉山茂丸だが、若い頃に小学校の代用教員をした以外、生涯浪人を貫いたアウトサイダーだった。その日暮らしを意味する「其日庵」(そのひあん、又は、きじつあん)を号にしたのもそのためだが、長州閥の政治家たちの裏側には必ず彼がいた。日韓併合を断行したといわれる伊藤博文、日清戦争を工作した山県有朋、日露戦争を戦った桂太郎、南満洲鉄道を計画し台湾総督になった児玉源太郎、朝鮮経営を実行した寺内正毅、昭和に首相になった田中義一、国際連盟を脱退して満鉄総裁に就任した松岡洋右。長州閥は陸軍閥なので、乱暴にいえば陸軍の背後で暗躍した人物といえなくもない。一方で福岡の国家主義団体「玄洋社」を率いた頭山満とも睨懇で、ある時期からは玄洋社の金庫番として頭山の指南役にもなった。そして自由に朝鮮や台湾に遊び、アメリカにまで雄飛して世界一の金融王J・P・モルガンと外資導入案をまとめたりもした。
そんなとらえどころのない輪郭により、いつしか「ほら丸」だの「策士」と揶揄されるようになる。
茂丸の面妖さがいか程であったかは、鵜崎鷺城が『当世策士伝』(大正三年刊)で語る次の一文でも察しがつくはずだ。「政治家にあらずして政界に関係を有し、実業家にあらずして財界に出没し、浪人の如くして浪人にあらず。堂々たる邸宅に住ひ、美服を身にし、自動車を駆って揚揚顕官紳士の邸に出入し、常に社会の秘密裏に飛躍しつつある杉山茂丸は、当代の怪物一種の策士として興味ある人物である」
 幸い茂丸は『其日庵叢書第一篇』『乞食の勤王』『青年訓』『建白』『百魔』『百魔続編』『俗戦国策』といった著作を明治末から昭和期にかけて二〇冊以上も残した。息子の夢野久作も『近世快人伝』で父を語っているし、学者の研究書では未完ながら一又正雄の『杉山茂丸・明治大陸政策の源流』や室井廣一の「杉山茂丸論ノート」(東筑紫短期大学研究紀要)、血縁者が書いたものに野田美鴻(よしひろ)の『杉山茂丸伝・もぐらの記録』などがある。そこで私は、これらの資料を読み解き、茂丸の軌跡をたどることで、一人の魔人の視点から日本近代の舞台裏を眺めることにした。
 (続く)
 
 

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13)―2
  ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13)―2
 
  ●上原勇作、原敬激突「増師問題」の帰結と高島鞆之助

 
 その間の事情を『元帥上原勇作伝』(以下、単に伝記とする)に見れば、元年12月22日、二個師団増設案を閣議に提出した上原陸相は、行政整理を打ち出した西国寺首相と真っ向から対立するが、何としても引っ込めない。西園寺に同情した枢密顧問官・高島鞆之肋は自ら上原陸相を訪問して、増師案の撤回と辞職を勧告する。元帥・大山巌も同様の周旋をしたが、上原は受けようとしない(註:高島が上原を説得したのは、誰かの依頼を受けたものと思う。蓋し、当時上原を説得できるのは高島しか居なかったからで、高島に説得された上原は、増師案を撤回して辞職する決心をしたが、山県元帥の工作を受けて変心し、増師案を提出したのが真相である。山県は、西園寺に増師案を呑ますことで内閣の延命を図ったが、それを西園寺が拒否したものらしい)。上原は当時、某人に向かい「自分が西園寺と直接懇談していたら、増師案の解決も困難でなかった。山本達雄蔵相は、自分に西園寺との会見を約束しておきながら、終にその機会を作らなかった。しかもその実、内閣の実権者として増師延期論の中心となっていたのは、内相原敬に相違なかった」と語った。この意味において、増師案問題は、実に上原と原の対決であった、と伝記は謂う。原敬と上原はここに悪因縁を生じ、それが後年の大事に繋がるのである。

 閣議で増師案を否決された上原は、単身青山御所に参内し、陸相の辞表を提出した。これは、統帥権独立の下での帷幕上奏権によるもので、「閣僚辞職の場合は辞表を首相に預けるという従来の慣例を破る<暴挙>で、そのために西園寺内閣は、同月5日を以て倒壊するに至る。上原も自らこれを非立憲(ビリケン)的行動と称したほどで、暴挙を自覚していたが、陸軍内部では、軍のためなら内閣をも倒すという行動力が以後高く評価されることとなった。自然待命となった上原は、再び軍職に就かぬ覚悟をほのめかして都城に帰省、鹿児島の日高尚剛邸に静養し、翌年1月24日からは指宿温泉に逗留し、静養3週間に垂んとした。この間、陸軍中枢すなわち山県元帥、寺内朝鮮総督、楠瀬陸相らは上原の処遇について苦慮し、寺内大将が1月15日付書簡を以て、上原に軍職復帰を勧告する。寺内の手紙で心境一転した上原は、師団長への復職を希望し、政府も之を容れて名古屋の第三師団長を内定した。ところが、その通知がなかなか上原に届かない。山県元帥と政友会の原敬の意見が合わず、その調整に手間取っていたのである。ここにも原敬と上原の相剋が兆している。

 現存する2月18日付の井戸川辰三中佐(陸軍省副官兼陸相秘書官)宛て手紙で、上原は「今18日夜11時まで待つも何事も申し来らず、誠に待ち長く候」と苛々する心境を述べ、勇作身上の発表まで僅かに10日位しかないので、発表有り次第直ちに名古屋へ赴任するが、東京へは寄らず、旅行先から直接名古屋へ赴任する。都城は25日までに引上げる予定で、すでに当地の研究も済ませたので、志布志、福島、飫肥、宮崎方面に出向きたい、との所存を告げた。文面通り都城を発った上原は25日から福島に出て、飫肥、宮崎を経て小林駅から乗車したと伝記には記すが、道順としては不自然で、伝記編集者が上記井戸川宛て書簡を根拠に、適当に書き流したものと思う。

  続く。
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13)―3
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13)―3
 
 ●大正天皇も憂えた上原の急病と浅山丸の神効
 


 ところが上原は車中で熱病を発し、下関を過ぎるころ益々甚だしく、尋常一様の感冒ではあるまいと途中下車して広島か姫路の陸軍病院に入ろうかと迷うも、強いて名古屋に向かおうとした。しかし発熱が猛烈なため大阪で途中下車し、旅館で陸軍病院長の来診を受け、翌朝大阪赤十字病院に入院した。京都帝大の中西亀太郎博士が来院して診察したが病名すら分からず、疲労と腸の不調と判断し、強壮剤を与えただけであった。折しも千葉の陸軍歩兵学校に行幸された大正天皇から、侍従武官長に「上原の病状はどうか」とのご下問があった。前年、戸山学校から歩兵学校を分離して千葉に移転し歩兵学校とした、その実行者が上原陸相だったから、天皇は行幸先で上原を想起されて、その病気に思いを致されたのである。

 武官長が病状を奏上すると、「有栖川宮の病状を診察するため、青山胤通博士が須磨の別荘に行くから、上原の病状も診察させよ」との御言葉があった。青山胤通は3月29日、大阪赤十字病院で上原を診察し、肺壊疸と診断し、「3年ほどは劇職は無理」と楠瀬陸相に告げた。青山の診断を聞いた上原は、当分軍務を断念して第三師団長の辞表を提出、6月9日付で待命となった。この間、見舞いに西下した槙子夫人にすぐに帰京を命じた、との逸話に添え、「彼の武士的責任感の鋭敏なることに就いては、元帥(上原)と乃木大将と共通の点があった」など、些細なことでも上原を褒めそやす伝記ではあるが、興味深い記述もある。
それは、「また高島鞆之助は、東京より西下して病院に来たり、元帥(上原)を見舞ふたが、玉木看護婦に対し『浅山丸を呑んでゐるか』と問い、玉木が『一日十五粒である』と答ふるや、『それでは足らぬ。一回に三十粒やれ』と命じたので、玉木は其の通り、一回三十粒を与えた。然るに、脈は善く、浣腸注射もやめる位になったが、翌朝に至り、元帥(上原)の眼球に斑点が生じたので、再び減量したと云ふ珍談もあった」との記事で、浅山丸の神効を語って余りある。

 大阪日赤病院に飄然と現れた高島鞆之助は、当時枢密顧問官で、陸相を引退して15年経った当時も、決して世人に忘れられた存在ではなかった。陸相上原勇作の単独辞表提出を軍部の横暴と見た世論の憤激は、西園寺の後継首相に就いた桂太郎に向けられ、憲政擁護・閥族打破を主張する在野政党と、これに同調した院外団、言論界、一般民衆の、桂首相に対する攻撃はまことに凄まじいもので、第三次桂内閣は大正2年2月11日、わずか53日で倒壊し、戦前における民衆運動による倒閣の不完全ながら唯一の例となった。
桂内閣崩壊の後、組閣の大命を受けた山本権兵衛は、多数党の政友会の支持を条件にしたが、政党内閣実現の要求に湧く党員たちとの間で政策協定が結べず、政友会内部にも亀裂が生じたため、多数の確保が困難になる。世上では、護憲運動の先頭に立つ国民党の犬養毅を入閣させて、山本内閣を一気に成立させようとの動きがあり、また「山本が閥族で駄目というなら高島鞆之助でゆこう」と尾崎行雄が言いだした。高島も薩閥の一員には違いないが、政友会に入党して党員になるなら良いではないか、という理論で、高島人気がまだ裏えていなかった証拠である。
 
 単独辞職後の上原の病気は、伝記の詳しく記す所であるが、その裏側の真相を記した資料が別に見つかった。

 まず『周蔵手記・本紀』昭和十二年条で、「昨年十一月、牧野サンカラ女中ガ使ヒニ来ラルル」で始まる箇所を要約すると・・・昭和11年11月、淀橋の天真堂医院(牧野院長)に宇垣一成から連絡があり、伊豆長岡の自宅に来て貰いたいと周蔵に伝えよと言われたと、牧野の女中が連絡に来た。宇垣は、8月5日に朝鮮総督を辞めたばかりで狩野川の辺で静養していた。訪ねた周蔵に、宇垣は悠々自適をしきりに強調しながら、「君とは四度目だな」と切り出した。二回しか党えていない周蔵の怪訝な顔を察して、「大正二年、上原閣下が大阪の病院に入院していた時、あの折の病院の廊下で会った」と言いだす。それに驚いた周蔵が、当時を思い出すままに書き留めた。「・・・あの折は上原閣下から東京に呼ばれて、陸軍指定の旅館で待っていたが、連絡がなかなか来ず隠れて同行してくれた父・林次郎と大叔父・木場周助が随分心配した。結局、大阪赤十字病院に来いとの指令が届き、一行は大阪に移動した。閣下の病気は、ギンヅルから貰っていたケシ粉(阿片末)によって回復したが、閣下がそのような麻薬を用いていることにも、当時は驚いた」と記している。
 


 ●「先ノコト 閣下二任セテ心配ナヒヨ」
 

 いま一つ、『周蔵手記』別紙記載の中の「1945年(昭和20年)9月末ピ 敗戦カラノ記」と題する文中、周蔵が上原に「草」として仕え始めた大正元年から2年の頃を回想した箇所があり、そこに高島が出てくる。

 要約すると、大正元年8月2日、上原陸相の使いという前田治兵衛が周蔵宅に来て、千葉・一宮の上原別荘に会いに来い、との指令を伝えてきた。お目見えにも一人でゆく度胸のない周蔵は、前田治兵衛と大叔父の木場周助についてきて貰う。お目見えに合格して、その場で「草」を命じられた周蔵は、一旦帰郷して決心を固めるが、大正3年春、熊本に居た上原から、「前年からの事と今年からの将来の事を決めるために上京せよ」との指令を受ける。上原自身は広島に寄ってから上京するとの事であった。この時も、一人で行けない周蔵は、林次郎と周助に伴われて東京へ出て、指定の旅館で待っていたが、なかなか連絡が来ない。そのうち連絡があり、「閣下は病気になり、大阪で入院しておるので、大阪に移動せよ」との指令であった。「その時にそれ(ギンヅルの薬)を届けるように」と、親爺殿が持ってきてくれたのである。大阪に移動し、病院に軍人が屯しているなかを取り次いでもらうと、本人から頼まれたと称する高島なる人物が現れ、「薬を先に渡せ」と言った。閣下はその薬を待っていたようで、婆さんは二種類の薬を呉れたが、一つは一粒金丹と同種の丸薬で、もう一つは黒砂糖で固めた丸薬であった。後者を多く持参したことを告げると、高島さんは「さすがヲギンさんだ」と言われた。その折、高島さんから「先ノコト 閣下二任セテ心配ナヒヨ」とはっきり言われて自信が沸いた周蔵は、以後は父や大叔父に頼らなくなった。この薬は都城・島津藩の貴重薬で、ギンヅルが作り、藩主に届ける傍ら上原にも送っていたという。

 以上が「敗戦カラノ記」の該当部分の要約である。ギンヅルの二種類の薬のうち、高島が欲していたのはむろん後者、すなわち伝記にも出てくる浅山丸である。ところが、その薬が大阪赤十字病院の上原に届いた経路が、傍線部で分かるようにニュアンスが異なり、はっきりしないが、強いて追究すべき問題でもあるまい。むしろ、高島と周蔵の初会見が大正2年春の大阪日赤病院だったこと、その際、高島が上原の親代わりのように振る舞っていたことが見えて面白い。それを周蔵が戦後まで覚えていたことで、周蔵の高島に対する感情と、高島との親密な関係がしのばれる。
 


 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13)―4
 ●「(ギンヅルが)来タル目的ハ 高島サンニ・・」
 

 もう一つは『周蔵手記』の「別紙記載」で、「九月ニナルトハヤク婆サンガ上京出テ来タル」で始まる「京都探訪記」で、ここにも高島が出てくる。大正6年9月初頭から10月下旬にかけて、ギンヅルに同行して京都に行った周蔵が、祖父・提哲長の愛人だった渡辺ウメノを訪ね、その孫で外科医の渡辺政雄を東京に引き取った一件の記録に、高島の名が二箇所出てくる。まず冒頭部分に「(ギンヅルが上京し)来タル目的ハ 高島サンニ関フル事モアルヤフダシ、閣下二用モアルノデアラフガ、例ノ如クアノ人物ト同伴デアルニ 何カタクラム事デモ アルノデアラフ。閣下モ又マメニ ヨク手紙ヲ出スヤフデアルシ 婆サントニ人 薩摩ノ田舎ニオヒテ コノ國ノ情勢ヲ コマンカ事(細かなこと)マデ 手二取ッテヲラル・・・」とある。「アノ人物」とは日高尚剛で、日高を同伴してギンヅルが上京してきたことから、周蔵は、二人の用件が前年1月11日に死去した高島鞆之助の後始末、及び上原勇作との用件と察し、「上原閣下もまめに報告を欠かさないから、この二人は薩摩の田舎にいながら、この国の情勢を細かい事まで把握している」と記したのである。上原から中央の動向を報告させている事を以て、二人の行状の一端を想像すべきであろう。

 同じ文のなかで「トコロデ 三居(ギンヅルのこと)ハ、哲長トハ最後マデ 妾トハ云へ 暮ラシテ来テヲリ、自分ガコノ頃 閣下ヤ高島サンカラ聞クニハ・・・」とある。ギンヅルの過去のことを、この頃になって上原と高島から聞いたというわけだ。この高島が鞆之助か養子高島友武か未詳だが、前者は前年1月11日に死去していた。後者は吉井友実の次男で鞆之助の女婿だが、当時は陸軍少将で第十九旅団長であった。十九旅団は京都十六師団麾下で、本部が伏見区藤森にあり、今はその後に京都教育大学が置かれている。周蔵は10月に京都へ行くが、その折高島友武を訪ね、そこでギンヅルの噂を聞いたというのだろうか。そこまでは分からぬが、何しろ高島鞆之助は戊辰戦争以来のギンヅルの辱知、しかもビジネス・パートナーの仲であった。大正2年春、大阪日赤病院で初めて会った周蔵だが、ギンヅルの孫として粗略にしなかったのは当然で、その関係が養嗣子の友武にも引き継がれていたものと観てよい。

 余談ながら、明治から大正にかけて、東京新宿の淀橋に淀橋医院と称する個人医院があった。吉薗周蔵が大正六年以来、本願寺から預かっていた佐伯祐三の診療を頼んだ医院である。院長は日向・飫肥(おび)藩主・伊東家の血筋の人で、薬局部には遠藤与作という薬剤師がいた。伝承では、淀橋医院は高島鞆之助と川上操六が作ったもので、上原勇作が継承したという。特色はどうやら薬局部にあり、そこで阿片その他の薬学的研究を秘かに行っていたようである。

 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13)    <了>

 ************* 

 *以下、参考までに、
 天才佐伯祐三の真相 vol.4 より。 
 (★左下のリンク「佐伯祐三調査報告」からどうぞ)
  http://www.rogho.com/saeki/vol-4.html

  第三章  武生市発表「小林頼子報告書」なるもの
  第二節 小林報告書の要点と誤り  から
  
 ★B.周蔵と医学 を紹介しておきます。
    

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 B.周蔵と医学

 吉薗資料の内容

1.熊本高等工業を二年で中退し、山本権兵衛の紹介で帝国医専に裏口入学。「これを数ヶ月で中退して、ケルン大学へ留学」(小林氏の解釈)。      
2.帰国後、中野に救命院を開設する傍ら、淀橋の牧野天心堂で手伝う。
3.牧野は佐伯の結核の主治医であったが、不在の折りは、中村彝の主治医であった遠藤が佐伯を診ていた。
4.周蔵は医師免許を取るため、額田の研究室に通って、医学の研究を続けた。額田たちは大正十四年(小林氏の解釈・本当は大正六年)の段階で、周蔵が血液型を分離する作業をみて驚嘆した。

●小林報告
1.周蔵は東亜鉄道学校(熊本)に大正元年十月一日から三年九月二十五日で在学していた。上京したというのは疑わしい。     
2.帝国医学専門学校の存在は確認できない。
3.牧野の遺族は周蔵や佐伯の名前を知らなかった。
4.遠藤医師が、中村彝の主治医だった遠藤繁清のことだとすると、中村と知り合ったのは大正十年四月以後だから、大正六年十一月あたりに出てくる「救命院日誌」は怪しい。
5.淀橋病院は昭和七年の設立なのに、「救命院日誌」の大正六年十一月以降の条に出てくるのは、怪しい。
6.「救命院日誌」一九一六(本当は一九二六年)年四月三日の項に「額田兄弟の母(これは小林解釈)を大森に訪ねた」とあるが、額田医師の母上は前年九月十一日にすでに死亡しており、住居も大森ではなかった。
7.日本の血液型の研究は大正五年頃より、広範な分布調査がなされているのに、その九年も後で、額田が驚嘆したり、また「救命院日誌」一九二六年の条に「先月ノケルン大学カラノ雑誌デ、AB型ノ親カラO型ノ子供ハ生マレナイト知ッタ」とあるのは荒唐無稽である。ケルン大学へ問い合わせたが、当時雑誌を発行していた事実はない。

●落合報告
1.周蔵は飛び級で小学校を一年短縮し、都城中学に入るが、数日で退学し、その後、山本権兵衛の口利きで、熊本高等工業を裏口受験させて貰うが、試験をさぼった。その後、上京したが、大正元年八月、前陸軍大臣上原勇作中将の命令で、東亜鉄道学校へ入ったものである。
2.周蔵は、呉秀三医博の勧めで、大正九年十月から、帝国針灸漢方医学校へ通った。もとより実在の私塾で、校長は周居応という中国人であった。
3.牧野の娘は、周蔵の長男緑との恋に破れて、他家へ嫁いだとのことであるから、思い出したくないのではないか。
4.牧野の代診をしていた遠藤与作は、遠藤繁清の縁者で、当時もとより実在した淀橋医院の薬剤師であった。
5.牧野は確かに以前は中村画伯の主治医で、事情があって遠藤繁清に代わった。従来の中村の評伝は、これに関しては不正確なようである。
6.額田の兄の妾のいた大森の置屋の女将(養母かも知れぬ)のことを「額田ノ母サン」と「救命院日誌」に記したのを、小林頼子が誤解したものである。
7.額田らを驚嘆させたのは、周蔵がウイーンから帰国した直後の、大正六年秋のことである。小林頼子は吉薗資料に「帰国シタバカリ」とあるのを、強引に大正十四年のことにしている。
8.ケルン大学云々と「救命院日誌」にあるのは事実であるが、これを理解するには「救命院日誌」の本質を知らねばならない。「救命院日誌」は、裏で本願寺の諜者をしている佐伯祐三のアリバイ(バックグラウンド)作り目的の日誌であった。その内容は、佐伯が、事実に基づいて創作したものである。ケルン大学の雑誌の条は、佐伯の作文性が行き過ぎた例である。  


 ブロガー補記:2010.12.28 誤字・脱字訂正しました。  

 
●『俗戦国策』 杉山茂丸(1)
                        俗戦国策_1
 


 ★80年前の記憶ぐらいは伝えていきたいものだ。

 1929(昭和4)年、「大恐慌」の年。

 次のような文章で始まる本が出版された。著者は杉山茂丸(夢野久作の父親)。

 悪しき歴史の繰り返しは「茶番劇」だと読んだが、如何。

 以下、『俗戦国策』 (杉山茂丸 原:1929(昭和4)年 講談社刊
 2006.4.30 「書肆心水」刊)より。  

 *************

 ・・この書は、青年の為めに書くのである。

 今の青年は、就学難と戦うて、夫(それ)だけで終る者もある。又、父兄も子弟の就学を以て、父兄たる義務が了えたかのように心得て居る者もある。又、千辛万苦して、ヤット得た免状は、其の父兄子弟共、衣食の通券でも得たかの心地をして大安堵をなす者もある。
 
 夫から又、就職難に入るのであるが、此の就職難と云う戦争で、大概は戦死者となるのである。

 夫から偶々就職して勝利者となったものは、此の多くの戦場の勇者であるようじゃが、一方、人間精神上の論功行賞から云えば、全部敗北者許り(ばかり)である。其の全身に充満する物は恐怖と杞憂許りで、天下国家は申すに及ばず、社会民衆の上に往来する、人類一人前の思想さえ維持するの力もなく、此の貴重の生涯を、又、生活難と云う戦場で、殆んど悉く全部敗北者となるのである。

 それではこの勝利者、成功者は、飯を喰うて、生きられる丈け生きて居たに過ぎぬ。他の動物と少しも選ぶ事の出来ぬ者許りとなるのである。斯る敗北者に限りて、勇気と云う者が少しも無い、為めに自己の生存以外に、智力も体力も、一切の活動が停止されるのである。
 随って自己以外、他に及ぼす力が無いのみならず、自己を制する勇気さえ全部消耗して仕舞うのである。

 人間、自己の慾望をさえ制する力がなくなるのであるから、真に獣類と少しの差もない事になるのである。

 ★社会を乱す者

 自分さえ喰えば他は餓死しても構わぬ。夫が亢進して他の食を奪うて喰う事になる。自己さえ着れば他は凍えても構わぬ。夫が亢進して他を剥いで着る事になる。
 斯くの如くなる時は、自分許り大厦高楼に住居し、自分許り錦衣玉食をなし、自分許り嗜好三昧を充たして、之を抑制するの能力を失い、他は飢寒凍たい、流離困頓するも、之に同情するの意識を亡失するのである。

 而して一たび時勢の非運に遭遇して、以上の慾望に欠陥を生ずる事になって来ると、秋毫も自己の行為を選択するの知識を失い、只だ見聞に随って、把掴掠奪しても此怨望を充たさんとするのである。

此場合を号して、生活難末期の戦場とするのである。元々此戦闘には、人類最大の貴重物たる恥辱観念と礼譲の意識とを失うた動物性となって居るから、取る事の出来ぬ物を取り、喰う事の出来ぬ物まで喰うのである。故に高貴の保管物でも侵し、松島遊廓の頭でも噛るのである。終に社会的位置を失墜する事になると、茲に昔日学び得た学問を悪的にアップライドして群衆心理を説き、社会問題を高唱するのである。曰く政治の圧制、富豪の暴横を喧言して、ストライキ、サボタージを煽動するのである。其上品な議論が、ヤレ天下の人心が悪化して来た、ヤレ人類の道義心が腐敗して来たと云う。

 一体何のたわ言を云うのであるか。世界の歴史を通じて、国家の興亡は、殆んど全部其の上流社会の腐敗如何にあるのである。民族や社会が全部腐敗して、国家を亡ぼした事は殆んどないのである。

 日本に於ても藤原氏腐敗の極に達して平氏興り、平氏21年の栄華に腐敗して源氏興り、源氏の非政三世に腐敗して北条興り、北条九世は舞楽闘犬の極まで腐敗して足利興り、足利腐敗十三世にして徳川興り、徳川腐敗十五世にして藩閥政府興り、藩闘の腐敗40年にして政党政治興り、政党の腐敗10年を出ずして、正に今、禽獣社会を現出せんとするのである。

支那5千年の歴史は、聖人政治が三世位から腐敗を始めて、易姓の政治が興る事を繰り返して居る。
仏国はルイ16世にして、腐敗の極に達して革命が興り、伊大利の亡ぶるや、何時でも羅馬の腐敗が前提ならざる事はないのである。

 今の日本は、政治の最上位の腐敗から、貴衆両院と富豪の腐敗が爛熟して来て、今日の危殆に瀕して居るのである。此の純良な国民の何処に腐敗があるか、其証拠は驚くなかれ無慮20億円の租税を、お上の御用と云うて正直に納めて居るではないか。斯の如く純正無比の国民に向って、人類腐敗の先登者ともいうべき上流種族が、人心悪化だの道義心の腐敗だのと云い得るのか、故に庵主は高唱す。

 国家の腐敗は何時でも上から先に腐って、下に及ぼす物である。日本では最下層まで腐りの透った事は一度もない。故に聖者、賢者、正義者の起こる時は、何時でも国民が決起する。その度毎に国家は善良に回復するのである。
 是を我国は3千年繰返して居る。現在に於ても、日本は上が腐って居る丈けで、下は決して腐って居らぬ。其証拠は、20億円に近い租税を納入して、昔ながらの家庭を守り、勤労して居るではないか。

●人道の自覚者

此に於て庵主は、青年達に向って云う。

 「能率なき学問に中毒して、能率なき行為をしてはならぬ。学問は前途に進歩発見を見越して居る全くの未製品である。正に以て人間が使用すべき物の一つが学問である。夫に人間が使われて溜るものでない」と。人道と云う者は、簡単明瞭な物である。

 「智者は愚者を導き、強者は弱者を助け、富者は貧者を賑わす」、僅かに此三つで足りるのである。
 然るに現世界に於ける学問中毒の大勢は、総て是が反対である。
 「智者は愚者を欺き、強者は弱者を凌ぎ、富者は貧者を虐げる」

これでは決して永続きするものではないと云う事を早く知った者が人道の自覚者で、直ちに勝利者となるのである。

庵主生れて64歳、17歳より輦穀下(れんこく)に居住し、言いたい三昧を云い、為たい三昧を為して茲に48ケ年、未だ一度も警察署と裁判所の御厄介になった事がない。未だ一度も松島事件や山林事件で手を縛られた事がない。未だ一度も会社の発起人と株主と重役と、役人と商人とになった事がない。そうして、此の聖天子治下の一民として一日も休止する事なく、只働いて、又、昭和3年の春を迎えんとするのは、抑も如何なる妙術があっての事であろう。

 或る時、庵主と同年の友人、亀井英三郎と云う警視総監が、専門の警官に命じて、庵主の裡面の生活を偵察した報告を見た事がある。曰く、
 「杉山茂丸、生活の裡面は、ドウしても解りませぬ、・・・併し、恐るべき犯罪が、永久的本人の心裡に潜んで居る事丈は、事実と思い升・・」
と、
総監曰く、
 「此報告を見給え、君はドウしても、一度は縛られるぞえ」
 「ムウ、夫は僕が17歳から覚悟し待って居るけれども、当局無能にして、マダー度も僕を縛らぬ、・・僕も同年の君と云う友人に縛らるれば、此上の本望はない。何時でも縛ってくれ、夫が年貢上げと思うて、僕の生存を諦めるから」
 と云うて居たが、亀井はモウ疾に死んで仕舞うて、其後の警察官は矢張り無能な役人ばかりで、庵主が64歳の今日まで一度も僕を縛りに来ぬ。

 ★庵主64年の秘策

 併しモウ庵主も何時死ぬか解らぬから、64年秘密にして居た処世の大秘事を、庵主の一番愛好する又、信頼する青年諸生に知らせて、此の庵主生存の謎を披露して置きたいと思う。

 先ず庵主が48年間、帝都に住居して、太平楽を為し通して生存した秘事は、コウである。
 「親切を以て我が本領とする事、其親切には差別がない事」、眼中素より、尊卑なく、強弱なく、貧富なく、貴賤なく、長幼なく、老若がない。而して夫が庵主の力を限度として、善悪がない。而して夫が何時も可能性なるべき事である。故に夫れの副産物として多くの青年が育った。夫が日本の本土内から朝鮮、満洲、シベリア、支那、南洋から英、米の諸州に散在して居る。

 其教育の本領は、「人間の最終目的は独立であるぞ、下駄の歯入をしても、紙屑を拾うても、独立をしたら、予は紳士の待遇をして汝等と交際する。依頼心は自殺以上の罪悪であるぞ、野犬でさえ、掃溜を漁って天寿を保って居る。汝等は野犬に劣ってはならぬぞ。夫は親に貰うた自己の全能を以て働く事と、予が教えを守る事であるぞ。人間は、大自然の創造に係る、宇宙間の善智善能(ママ)を以て結晶した最上無比の大宝器である。夫を理解せずして、其生存を粗末に取扱う者は、予の門下に居る事は出来ぬぞ」、と是丈けである。

・・・続く。
 



●「死もまた社会奉仕」
 ★山県有朋が死んだ時、石橋湛山は『死もまた社会奉仕』と言った。

 前にも紹介したが、ウイキペディア百科の山県有朋の項には、こうある。

 「・・・その死に際しては、当時、新聞記者だった石橋湛山(後の首相)は山縣の

 死を、<死もまた、社会奉仕>と評した。また、別の新聞では<民抜きの国葬>

 と揶揄された。

 以下で痛烈に批判される人々も一群の「社会奉仕派」だろう。

 『財界にっぽん』2001年7月号  より。
 ★新緑放談 日本は〝賎民資本主義〟から脱却せよ
  ―日本衰退の一因はジャーナリズムの堕落   国際コメンテーター 藤原肇

   最新著『夜明け前の朝日』(鹿砦社)で日本のジャーナリズムの堕落と、日本社会の退廃を鋭く指弾した米国在住の国際コメンテーター・藤原肇氏は、バブル経済以降の日本の資本主義は、裏と表が逆転した構造になっており、その実態はマックス・ウェーバーの言う〝賎民資本主義〟だと指摘し、二一世紀に日本が新生するには、その賎民資本主義からの脱却、ジャーナリズムの奮起が欠かせないと主張する。(文中敬称略)

 ●貧しくなってきた日本の中産階級

 私は年に数回ほど日本に戻って来るが、この春の帰国でとても強く感じたのは、この国がものすごい閉塞感に覆われていて、日本人がまるで元気がないという点である。
 しかも、いちばん驚いたのはハンバーガーやフライドチキンという、米国で〝ジャンク・フード〟と呼ばれている店が、半額セールをやっていたことだ。私はカナダやアメリカで三〇年ほど暮らしたが、ジャンク・フードの店で食べたのは二度で、それはこの種の安くて手軽なレストランの本質が、資本主義社会における〝炊き出し〟だと考えるからだ。
 もし、ジャンク・フードの食事処がなければ、アメリカ社会では暴動が起きるだろう。アメリカはキャピタリズムの本家だから、カネを払うことで安く食べさせてやれば下層階級も資本主義に参加している気分になり、暴動を起こさないだろうということで、ジャンク・フード制度が編み出されたし、巧妙なやり方でビジネスとしても成功している。
 つまり、最初は下層民むけの炊き出しのようなものが、ビジネスとして各地に普及したことで、中産階級の子供たちも食べ始めるようになった。日本にもジャンク・フードの店が進出して、フランチャイズを派手に展開しているが、日本には昔から蕎麦屋やラーメン屋があり、アメリカ風の炊き出しは必要としないのに、今や日本の街角はジャンク・フードに席捲され、不況のせいで価格破壊を実践している。
 このような米国式の炊き出しが流行するのは、日本の中産階級が貧しくなったためであり、四〇~五〇歳代の日本人に話を聞くと、住宅ローンや教育費に追われポケットマネーに乏しくなり、本を買う余裕もなくなったという。デフレによる価格破壊が進行しており、通年にわたって大安売りする時代性の中で、日本中がバッタ屋になったような感じだ。
 しかも、日本社会の老人化が進んでおり、全体的な活力の低下が目立っているが、都心で乗るバスの乗客の大半が老人だし、中曽根や宮沢が未だに影響力を行使している。老害が最も目立つのは政治の世界でもあるが、同じ番組に二〇年も出ている評論家など、マスメディアの世界にも共通しており、人材を育てる指導性の欠如を物語っている。


 ●日本人が知らない外国人の対日観

 老害大国は財界人の高齢化にも反映しており、長期にわたって財界団体の役職を務めることで、勲何等などという勲章がもらえるために、それを目指して居座る老人が多いが、官僚による民間人の買収という弊害面を持つ、生存者叙勲は廃止した方がよさそうだ。また、銀行が多くの相談役を抱えているが、巨額の不良債権を作った責任者も含んでおり、公的資金を受けている以上は犯罪的だから、経営刷新と合理化の断行が不可欠である。
 しかも、次代をになう人材が育っていないので、各界で人材が払底しているのは明白であり、さまざまな制度疲労がそれに加わって、昨今の酷い亡国現象となって現れている。自民党もコレといった人材がいないため、小渕の後に森喜朗のようなお粗末な男を首相にして、世界中から侮蔑と嘲笑を買った具体的な例は、『夜明け前の朝日』の中に報告して置いたが、世界から日本がどう見られているかに関して、日本人はあまりにも愚鈍であり過ぎるのではないか。
 香港の『ファー・イースタン・エコノミック・ルビュー』という英文経済誌は、記事の見出しに「MORIbund Giant」と書いていたが、このモリバンドという言葉は「くたばり損ない」を意味する。また、ボストンの「クリスチャン・サイエンス・モニター」紙は、辞任を控える森の訪米した日のコメントに、「ローマの町が燃えている時に、バイオリンを弾いていた暴君ネロと同じだ」と書き、緊急事態を放置したままノコノコ訪米した、無能な首相の恥さらし朝貢を潮笑していた。
 韓国の金大中より先にという面子に基づいた、森の表敬訪問はブッシュに迷惑だったが、愚鈍な政治家の恥さらし外交の出し物は、竹下の後を継ぐ出雲名物「安来節」であり、オカメとヒョットコの顔見世興行になった。アメリカ側はお調子者の麻生太郎を引っ張りだし、筋金入りの右翼政治家のプロモートを通じ、将来への布石まで打ち終えてしまった。
 国家主義的な麻生や単細胞の石原都知事を挑発して、日本がアジアから孤立する立場を強めれば、日本の混迷はさらに強まるだけであり、危機を操る上で有利になるというワシントンの戦法に対して、残念ながら日本人は誰も気づいていない。しかも、既得権と利権だけが政権維持の原動力であり、国際社会での役割を自覚しない自民党政治は、誰が新総裁になっても泥船政治が続くというのが、日本を見つめた冷徹な世界の認識である。
 身内の恥を日本のメディアは報道しないし、記者クラブで仕上げた提灯記事の氾濫の中で、日本人は外国での日本の評判を知らず、民族として感受性の劣化が進んでいる。しかも、かつての日本人は『菊と刀』の中でベネディクトが、「恥を知る民族だ」と敬意を持って指摘したのに、昨今の日本人は恥に対して鈍感になっている。

 ●日本社会を支配した賎民資本主義

 中曽根バブルで狂乱を演じた日本の資本主義は、マックス・ウェーバーの定義だと「パリア・キャピタリズム(賎民資本主義)」だが、それは社会の全域に営利と欲望が蔓延して、寄生する者が社会を食い物にする状態を指す。こうした社会の中心に位置を占める存在は、先ず第一に乞食や詐欺師が来るのであり、続いて盗みや横領を罪悪と感じないで、私益の蓄積に忙しい政治家や商人が並ぶが、談合で税金を分捕ったゼネコンを始め、最近の農民たちもきわめて日本的な寄生集団である。
 不良債権の山を築いたノンバンクの実態は、普通の銀行がカンバンを塗り替えてバブルに踊り、公的資金で尻拭いしたものであり、銀行自身が税金に寄生するという点で、賎民資本主義の中核的な役割を演じている。さらに、最近の大都市で流行っている金券ショップも、サラ金の滞納者のクレジット、力ード悪用や、企業がまとめ買いした切符や切手などを使った、横流し金融による賎民資本主義の一端である。
 私は『平成幕末のダイアグノシス』(東明社)の中で、日本のスキャンダルの核心に迫るためには、(1)暴力団人脈(2)同和集団(3)半島人脈(4)ホモ仲間||に注目して、この四つのタブーを下敷きにして解析しなければ、問題の中心に肉迫できないと指摘した。それらはかつて日本の闇社会を構成していたが、中曽根政権の時代に裏と表が逆転して、バブル炸裂の頃に多くのスキャンダルを生んでおり、その諸相は最新著の『夜明け前の朝日』の中に、具体的なケースを実名と共にレポートしてある。
 かつて自民党の幹事長を務めた野中広務は、水平社の全国大会に京都府副知事として出席し、自分が同和の出身だと明言した勇気ある人だが、数年前の『ロサンゼルス・タイムス』が全面を使って、野中の政治姿勢と役割について記事にした。「必勝」と書いた白鉢巻をした野中の写真と共に、記事の中に頻繁に「Buraku」の文字が並び、その日の私の電話は絶え問なく鳴り続けたが、英字新聞が日本のタブーを大々的に報道した。
 私はアメリカ人たちの質問に答える形で、同和や部落という言葉の意味を解説したが、野中が部落出身であることをバックに、永田町で大きな権力を握った経過に関しては、外国のジャーナリストに見透かされている。社会の下積み層が現世に救済を求め、政治力を通じて達成を試みる公明党と組んで、強引に政権の保持を狙う自民政治の実態が、世界中に暴露されるに至ったという真実は、考えて見れば実に恐ろしいことではないか。
 しかも、自民党の政務調査会長である亀井静香が、イトマン事件の主役だった許永中と義兄弟で、裏の世界と緊密なことは周知の事実であり、そんな人物が総裁候補に名乗りを上げたのだ。闇と結ぶ人物が表の世界に乗りこむ状況は、経済社会だけでなく永田町をも包み込み、それを日本人が放置していることに関して、外国のジャーナリズムは知っているのである。

 ●先物市場で消えた数十兆円と元首相の死

 ジャーナリズムが果たさなければならない使命は、権力者たちの逸脱と権力乱用の監視だが、四つのタブーを恐れて記事にしないために、それが堕落と腐敗の大きな原因になっている。タブーの壁に挑んで国民の知る権利に応えない限り、KSD事件のような犯罪は防げないし、信頼に基づいた明るい社会を築くために、税金を食い荒らす悪質な行為を断ち切って、賎民資本主義から脱却することは望めない。
 石油産業は二〇世紀を支配した最大の産業で、私はアメリカで石油ビジネスの中に生きたから、情報の取捨選択の面では鍛えられている。だから、訪日の機会を通じて外国の特派員と意見を交わすし、読者の多くが日本の新聞記者たちだから、五日もすれば情報交換による収穫のお陰で、ほとんどの分野に精通することが可能だ。
 一昨年の春の訪日の時の体験談になるが、元首相の竹下が埼玉医大病院に入院した後で、竹下は既に死亡しているという噂を耳にした。この死亡説はあり得る話だと感じたし、莫大な利権を整理して処分が終われば、タイミングを見て発表される予想したが、死亡の発表は皇太后の逝去の時期に重ねて、総選挙直前のどさくさ紛れの中で行われた。
 これに類似する奇妙な噂を聞いた経験があり、それは昭和天皇が崩御した時のことだが、東京に先物市場を開設することに関連して、天皇の死亡発表を遅らせたと言う人に会い、その時の首相が竹下登だったのは興味深い。連関分析は『夜明け前の朝日』の記事に譲るが、特派員にそれとなく真偽のほどを打診したら、「鋭いカンだが、他言は無用だ」と忠告を受けたので、不気味な印象を持ったことを覚えている。
 その後になって断片的な情報が活字になったが、その時に先物市場を使った操作によって、数十兆円のカネが日本から消えたために、それが現在に続く大不況を生んだと言うし、その真相は何十年かしないと分からないだろう。でも、最近の「新潮45』の誌上で東京女子医大の天野医師が、ロッキード事件の時に児玉誉士夫の国会証言を阻むために、上司の命令で薬物を注射したと告白して、口塞ぎの謀略が二〇年振りに明らかになった。

 ●迫力のある記者がいなくなった

 私の母方の郷里は島根県だし墓は松江にあり、親戚が教育者で教育委員長を始め教師が多く、竹下と同じ松江中学の同窓生もいるから、墓参りを兼ねて丹念な取材活動が可能になる。竹下登の墓所は掛合上町の浄土真宗・専正寺だが、竹下の死についてどの程度を知っているかと思って、地元の新聞記者に取材を試みた時のことだ。
 県庁のある松江には各紙の支局があるが、まともに取材に応じた支局長は皆無だし、県庁の記者クラブで記者に取材を試みても、「何も知りません」「それはちょっと…」と逃げ腰ばかりだった。自分たちが取材する時には強引にやるくせに、逆に取材される立場になると意気地がなくて、知らぬ存ぜぬで発言をしたがらないのだ。
 次に県警本部の記者クラブに取材に行ったら、どこの社の記者に会うかをいちいち聞かれるし、広報担当の警官がつきまとって監視した。
 かつてペパーダイン大学の総長顧問を務めた私は、世界各国の大学を訪ねて総長と議論した時に、中国の大学では政治委員が学長の隣に陣取って、自由な発言が阻害されたので迷惑したが、日本の警察は全体主義の共産中国と同じ感覚で、記者クラブ会員の番犬のつもりでいる。
 私の名刺の肩書きは「フリーランス・ジャーナリスト」であり、どこの国でも「大臣に会いたい、取材は一五分でいい」と言えば、それなりに対応してくれるというのに、日本の新聞は支局長でも面会の予約を要求し、役人根性に毒されて「病膏盲」で嘆かわしい。
 それでも掘り下げ取材ができないわけでなく、やる気があれば大手新聞の記者以上であり、『夜明け前の朝日』にも書いたように、竹下の最初の妻の政江の首つり自殺の原因は、義父に強姦されたことくらいは掘り出せる。
 また、家系図を縦に読む日本人の盲点を逆手に取れば、竹下登は古い造り酒屋の息子にしても、父親の勇造は出雲の印刷屋の武永家から、竹下家に婿養子で入った事実がある以上、もともとの出身が済州島だと検証するくらいは、地元ジャーナリストたちの義務ではないか。
 未だはっきり確認し終えたわけではないが、先物市場の開設と同時に巨額のカネが消え、そこに平成大不況の原因があるという説について、ジャーナリストたちが徹底的に取材を行い、真相がどこにあるか解明して欲しい。第四の権力と言われるジャーナリズムが、立法、司法、行政の三権を監視する役割を放棄すれば、日本は本格的な混乱と衰退に向かうだけであり、そんな具合に祖国の運命を損なってはいけない。

 ●衰退した日本人の評価能力

 平成日本を包む閉塞状況を打開するためには、根本的な教育改革が絶対に必要であり、低迷した大学を改革する上での決め手として、無能な九五%の教授たちのリストラを断行し、有能な五%の教授で大学を再構築することだ。大学がダメだと、その上で大学院大学を重ねても、それは屋上屋のムダな営みに過ぎなくて、大学院大学の教授が大学教授より偉いわけではないし、量よりも質の充実が優先のはずである。
 ヨーロッパでは幾つかの大学が共同作業の形で、大学院大学を開設しているのに対して、日本では各大学が競って屋上屋を積み重ねるが、枠組の再構築に改革の眼目があるはずだ。しかも、小学校、中学、高校、大学のそれぞれの次元で、教育の仕事は自己完結しているのであり、教師として上下の差別があるわけではない。
 勲章や文学賞にも似たような側面があり、勲何等という格付けは時代錯誤に他ならず、審査員の選抜基準の著しい劣化に問題がある。
 白川教授に文化勲章が慌てて授けられたが、ノーベル化学賞の受賞が功績の追認になり、外国の評価で初めて価値に気づくようでは、文化勲章の審査員の問題意識の低さと共に、節穴だった目を見事に証明したのである。
 芥川賞や直木賞も文学作品の質には無関係で、審査員がポルノ好きの時はポルノ小説に、賞が与えられも誰も不思議だと思わないし、審査員の質の悪さは疑問視されなかった。
 評価能力のない人たちが審査員になったり、実力がないまま指導者の椅子に座ることが、日本の社会全体の水準を大幅に低下させ、ひいては亡国現象を強める原因をつくっているのに、それに気づかないで権威を冒涜し続ければ、日本はニセモノの掃き溜めになってしまう。
 最近の日本はニセモノ天国の輸出大国だが、隣国に迷惑をかけた愚劣な事件に関して、台湾の新聞に寄稿した記事の結語を紹介する。
 「…現在の日本は前代未聞の大掃除の時期であり、時には粗大なゴミや汚物が海外に流出して、悪臭ふんぷんとした[台湾論]が漂着するにしても、その時は汚物入れに投げ捨てて始末し、美麗島の平和を保っていただきたいと切望する」
 日本周辺に位置するアジア諸国の人たちは、アメリカ人より日本のことを深く理解しており、彼らが反感や嫌悪観を持つ愚行を犯せば、日本の立場は悪化し孤立するばかりだ。
 本当の実力と尊敬に値する品性を誇り、正義感に燃える誠実な人がトップに立ち、文明を担う一員として責任を果たさない限りは、二一世紀の日本に活路は開かないだろうし、夜明けの明るい光輝に映えるのは困難である。

  4月11日・談

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●大杉暗殺  「『夜明け前の朝日』(鹿砦社)より。
 前記、「★「『夜明け前の朝日』(鹿砦社)の中に書いてあるが、・・・」の該当部分を下に引用しておきます。
 
 ★鹿砦社 2001年5月1日刊 だが、この記事=対談の初出は『創』誌1998年10月号
   であると、『夜明け前の朝日』巻末にある。

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 第三章 朝日・講談社巻き込む「大激論」の欠落した部分
 [歴史の証言】 (その2)
 ●歴史の秘密と隠れた情報の点を線に結ぶ より。  


対談者の紹介は次の通りです。

 お互いが相手の記事や著書の読者として、30年も昔から名前を知り合っていながら、1度も会って話し合うことがなかったのに、雑誌・『創』(つくる)に掲載された私の記事が縁になり、鋭い分析で知られた評論家と対話の機会を得た、話の内容が多岐にわたって展開したので、多分にまとめるのが難しいお喋りになって、扱った事象や人物の説明を抜きにしては、言っている意味が分かり難い部分もあるが、ジャーナリズムの問題を考えるために、重要な示唆を含むので相手を*Lとして復元した。*Fは藤原肇氏。
 
 
  ****************
<以下、引用>
 ・・・ 
L: えっ、それは驚きです。そんなことは夢にも考えなかったし、あの松本清張でもそこまで推理したとは言えないが、地獄耳の私でも聞いたことがありません。竹下が幾ら自民党の日韓議員連盟の代表で、韓国と太いパイプを持っていたとはいえ、そんなタメにするような情報は信じられません。松本清張でもそれは言わなかったし、知っていたら絶対に書いていたはずだが、私は彼から片鱗もその話を聞いていません。

●情報の真偽を見破る眼識

F: さあ、どうでしょうか。絶対に正体を現わさない秘密もあります。
それに、清張の長編小説で読んだものは少なくて、『霧の会議』と遺作の『神々の乱心』くらいであり、多くの人から『深層海流』を読めと言われたが、どこの文庫本にもないので未だ読んでいません。『霧の会議』はバチカン銀行とフリーメーソンを扱ったが、その前にガーウィンの『誰が頭取を殺したか』を読んでいたので、清張がヨーロッパを舞台にしたものは迫力が乏しく、事件の掘り下げ方が通俗的だと思いました。
 ただ、高校生から大学生にかけての頃だったが、『日本の黒い霧』や『昭和史発掘』を読んだ印象では、彼は鋭い史限を持つ人だと思いました。

L: 彼の作品では短編に比較的いいものが多く、長編小説ではどうしても限界があるが、社会派の作家として国内問題に関しては、資料集めに力を注ぎいい仕事をしています。
 話題が変わりますが、石油ビジネスを専門にしている藤原さんの目で、石油業界を具合に安宅産業が潰れた事件を描いた、あの『空の城』をどう思われましたか。
F: 実は、未だ読んでないのです。

L: 日本で映画化されて大評判になりましたが、石油ビジネスをやったあなたが読んでいないのは、私には非常に不思議でならないのですが・・・。

F: 安宅事件に関しては経済記事を読みましたが、石油ビジネスの本質に迫ったものはなく、ジャーナリストの調査は実に告白的です。国際石油政治の掘り下げは簡単でないから、幾ら社会派の清張でもあまり期待できないので、それを小説で読むのはナンセンスでしょう。
 日本でオイルマンと称していろいろと書き散らす、落合信彦にしてもハッタリ屋の小説家で、石油開発をやって生きて来た私の目には、石油ビジネスのイロハも知らない人です。

L: ハッタリを書き散らすと言われたが、具体的にはどういうことを指しますか。

F: キリスト教について少し知っている人なら、カトリックは神父でプロテスタントは牧師と呼び、その世界での専門的な言葉遣いがあり、牧師が告解を受けるとは絶対に言いません。石油会社で石油の発見を担当する部門は、エクスプロレーションと言って探査とか開発と訳しますが、落合は商社のレベルの発想で調査部と書いたり、セメンティングをリグ(掘削装置)を固定するためだなんて、飛んでもないデタラメを書いています。

L: プロが使う用語をカタカナ英語で書けば、誤魔化せると思っているわけですか。

F: そんなレベルです。幾ら日本語が上手なアメリカ人でも、神社の神主とお寺の和尚さんを取り違えて、出雲大社の和尚さんと書けばお笑いで、日本人なら誰でも知識の浅さが分かるし、宗教のイロハも知らないと思うのと同じです。

L: そうですか。それでは落合はともかく松本清張ですが、彼は『神々の乱心』を非常に興味深く読んだので、あれについてのコメントはいかがですか。

F: 私も先生と同じでとても興味深く読みました。
冒頭にある天津アヘン密輸事件の密輸犯が、三島由紀夫の祖父の平岡錠太郎であり、吉薗周蔵という実在の人物を二人に分け、吉屋謙介と荻園泰之という主人公にして、筋を展開する清張の手腕はなかなかのものです。しかし、落合莞爾の『陸軍特務・古薗周蔵の手記』を読んでいるので、清張が小説の中では触れるに至らない、アヘン売人の中に若き日の牧口常三郎(創価学会初代会長)がいたり、大杉栄が後藤新平のスパイだった話との関連で、ちょっと物足りないという感じがします。

L: えっ、大杉栄が後藤新平のスパイだったのですか。そんな話は今までも聞いたことがないが、アナキストの大杉は後藤内相にとって、最も警戒すべき要注意人物だったはずです。それなのに、大杉が手下だったというのは奇想天外で、私にはとても信じることができないが、そんな奇妙なことがあり得るでしょうか。

F: だから、秘められた歴史の真相は興味深いのです。でも、この件に関しては『朝日と読売の火ダルマ事件』の中に、ちょっとほのめかして書いておいたのですが、先生はそれにお気づきにならなかったのですか。

●秘められた歴史のジグソーパズル

L: 後藤新兵のことは正力松太郎の話の中に、だいぶ出て来たのは記憶しておりますが、大杉が後藤のスパイだということに関しては、恥ずかしいが記憶に残っておりません。

F: 実は、大杉と同棲していた伊藤野枝がスパイで、彼女の祖父は玄洋杜の頭山満と親しく、後藤の親分だった児玉源太郎に私淑した、杉山茂丸と繋がりがあったのです。

L: そう言えば夢野久作の親父の杉山茂丸は、明治から昭和にかけて政界の巨大黒幕だが、彼は『児玉大将伝』という非常に痛快な、児玉源太郎の伝記を書いていましたな。

F: 児玉台湾総督の下で民政長官だったのが、後に内相に就任した後藤新平だったし、彼が名古屋時代に作った娘の静子の息子が、メキシコに渡った左翼演劇家の佐野碩です。静子が結婚した医者の佐野尨太の兄が佐野学で、野坂参三とは遠戚関係で繋がっており、野坂の身内は神戸のモロゾフ製菓の筋です。その周辺には警保局長や特高課長がいて、すべてが後藤に繋がっていることから、後藤が共産党を作ったと考えられるのです。

L: そんなバカな・・・。。どうして内務大臣が共産党など作りますか。

F: 共産党を作ってそこにシンパを集めれば、弾圧する時に手間があまりかからないし、世界的なスケールで展望して見るならば、情報収集をする上で非常に便利です。後藤新平は日本人離れした大型の政治家だったから、ソ連の外交官ヨッフェと親交を結び、英国流の帝国主義を手本に使いながら、日本の政治を改革しようと試みています。

L: 確かに満鉄の初代総裁として采配を揮い、関東大震災後の東京市長としても活躍して、日本の政治家の水準を越えていた人です。
 それにしても、あなたと喋って歴史の話をしていると、松本清張が文春に連載したイラン革命の話で、冒頭に出て来るイラン系ユダヤ人商人が、米国から祖国を遠望するのを思い出して、実に奇妙な感じがしてなりませんな。

F: 私は『文芸春秋』を定期購読していないし、松本清張の小説はあまり読んでないので、おっしゃっていることの意味がよく分かりませんが、清張はイラン革命を小説にしたのですか。

L: パーレビ皇帝が失脚した時のドキュメントです。

F: 残念ながら知りませんでした。それじゃあ、話を後藤新平が持つ実力に戻しますが、日本では本当に優れていたらダメであり、三流のものしかトップになれないのです。
 それは歴史書の場合においても同じであり、幕末のことを知る上で最良の本としては、マリアス・ジャンセンの『坂本竜馬と明治維新』で、その次に大仏次郎の『天皇の世紀』が来て、奈良本辰也の幕末物が続くと私は思います。小説は十番以下に来ることになり、子母沢寛から海音寺潮五郎に続いた後で、司馬遼太郎が来ると私は考えていて、日本人がなぜ司馬を持ち上げるのか不思議に思うが、彼が日本ではトップ扱いされていますね。

L: 今の日本では司馬遼太郎を国民文学と言って、財界人から政治家に至るまで愛読しており、藤原さんのような考え方は少数派です。
 この間も『文芸春秋』が人気投票をやって、誰が日本の作家で好まれるかを発表したが、一番は夏目漱石で二番が司馬遼太郎だった。不思議だったのは吉川英治がいるのに、20傑に松本清張が入っていなかった点です。私は司馬より松本の方が国民的だと思うが、小説は各人の好みが関係しているために、自分の趣味は押しつけられないのです。

●松本清張に見る幅広い取材ネットワーク

F: 司馬の小説の主人公は必ず売れるタイプで、いかにもヒーローになりそうな人が多く、判官贔屓の日本人によく受けるのは、新しい愛国主義が底流にあるためです。彼には小栗忠順は描けないだろと思うし、現代史の謎に挑む気はなかっただろうが、『街道を行く』は歴史が主人公だから好きです。ただ、『街道を行く』と『昭和史発掘』の比較になると、私は清張の歴史への冷めた視点の方が、司馬のロマン主義よりも強く惹かれます。
L: 松本の筆法はジャーナリスティックだし、推理小説のやり方で話を展開しているので、謎解きとしての興味が加わるからです。また、彼は非常に熱心に資料を集めていたし、取材力を誇る記者や情報マンたちを動かして、いろんな組織や会社から情報を集めた上で、老練な刑事がやるような緻密な調査を行い、事件の骨格や当事者の心理を分析してます。文春の嘱託だった大竹宗美も彼の情報マンであり、内調のレポ役の形で動き回っていたが、大竹は児玉誉士夫のアンテナ的な存在で、三矢事件は児玉が持っていた資料の山を使い、社会党の岡田春雄の所にそれを待ち込んで、国会で爆弾質問を仕掛けたということです。

F: 内調を通じて大竹と田中の関係が分かるし、文巻が事件として騒ぎ立てるとしたら、メディアとしてマッチポンプをしたのですね。

L: 松本清張の情報源として重要だったのは、文春と朝日が手配した優秀な調査マンで、当時のカネで月に百五十万円も遣っていたから、今の貨幣価値だと十倍以上に当たるので、文春が音を上げたのももっともでした。それに、松本自身が朝日の広告部門だったから、新聞社の内容について熟知していたので、『赤旗』の報道部長になった下里正樹までが、情報整理のために秘書として手伝っており、彼のネットワークは実に凄いものでした。

F: 彼の人脈からすれば当然でしょう。また、私は森鴎外の史伝に属す作品が好きだから、清張の歴史小説より初期の短編を評価するが、なんと言っても『昭和史発掘』が最高であり、あの現代史に対して挑戦した仕事は、彼にしかできない偉大な成果だと思う。
 『朝日と読売の火ダルマ時代』の「まえがき」に書いたが、過去10年間に読んで最も衝撃を受けた、鹿島昂の『裏切られた三人の天皇』を清張が読んだら、『幕末史発掘』をどんな具合に書くかと考えると、眠られなくなるほどの興奮を覚えてます。

L: 私は未だその本を読んでいないから、なんとも意見を言えないのが残念です。ただ、松本漬張は歴史感覚が優れているので、日記や古文書を懐疑して扱う精神を持ち、その背後にある動機や心理の分析を試みて、歴史の真相に迫って何かを発掘するのです。

F: シナの歴史は必ず前王朝が悪辣政治で、天命により王朝交替の革命が起きたから、今の支配者が正統だと書いてあるけれども、日本の歴史も支配者のために書き直しが行われ、史実を抹殺した現世賛美の作文です。だから、『古事記』や『日本書紀』が問題になるのは、藤原不比等が書き改めているからだし、書かれた歴史のほとんどが捏造に属すから、真相の解明には推理小説の手法が有効です。

L: そうなると司馬遼太郎より松本漬張が、推理発想の点で有利になるわけですね。

   <完>
 



●大杉栄暗殺
●前回、『杉山茂丸伝』を紹介したのは、主に「落合論文」との関連、
 
 =「・・・前月号(08年1月号)で、高島鞆之助・樺山資紀と児玉源太郎、後藤新平の関係を述べつつ、「ここまで書いて折よく、この見解を裏付ける資料に際会した」と書いた。その資料とは、平成十八年に発行された堀雅昭著『杉山茂丸伝〔アジア連邦の夢〕』である。内容は後稿で紹介するが、玄洋社総帥の頭山満の指南役だった杉山茂丸が、伊藤博文・山県有朋・桂太郎など長州派首脳や後藤新平を操縦していく経緯を、原資料に当たりながら解説したもので、御用史家や売文史家が従来全く気づかなかった杉山の本質を明らかにしている。この著の価値は長州派首脳に取り入った杉山が、独自の政治的価値観を以て国策を進めたことを立証した点にあるが、その一方、一介の浪人・杉山がそのような地歩に立ち得た理由については考察及ばず、また杉山が近侍した謎の貴公子・堀川辰吉郎に全く触れていないのも遺憾がある。・・・」=でした。
 

 そのうちの一点、大杉栄の暗殺について、『賢者のネジ』(藤原肇 たまいらぼ出版 2004.6.30)の当該部分を引用しておきます。

 第八章 大杉栄と甘粕正彦を巡る不思議な因縁

 対談者は、小串 正三 (元フランス三井物産総支配人)です。 
   
 
 ●後藤新平内務大臣のスパイだった大杉栄 
 ・・・
小串:松尾さんは大学もパリ生活も大先輩だが、それよりも古い時代のことだから私は良く知りません。しかし、辻の愛人だった伊藤野枝が目蔭茶屋にいた所に、神近市子がやって来て話がこじれてしまい、大杉が神近に刺されたのが葉山事件です。

藤原:刺される直前に大杉が後藤内務大臣の所を訪れて、300円の資金を内密に貰って来た話は、「自叙伝」の中に書いてあるから知られており、これが大杉スパイ説の根拠になっています。後藤新平は板垣退助が岐阜で演説している時に、襲撃されて「板垣死すとも自由は死なず」と叫んだ現場に駆けつけ、医師として治療をした経験の持ち主です。しかも、各地の県知事を歴任した安場保和の次女の和子を妻に持ち、愛知県病院に勤務していた若き日の後藤は、恩人で岳父の安場の引きで中央官界に出たのだし、この安場は横井小楠の弟子でもありました。また、福岡県知事だった安場を玄洋社の頭山満や杉山茂丸が尊敬し、しかも、後藤が民生長官として仕えた児玉源太郎総督に対して、政界の大黒幕だった杉山茂丸が私淑していたのです。

小串:じゃあ、後藤の人脈は高野長英だけでなく、横井小楠にまで広がるわけですね。

藤原:しかも、「夜明け前の朝日」(鹿砦社)の中に書いてあるが、★後藤が名古屋時代に作った娘の静子の息子が、メキシコに渡った左翼演劇家の佐野碩であり、彼は画家のシケイロスと組んでトロツキー暗殺に関連しスターリニストだったと考えられています。また、静子が結婚した医者の佐野彪太の兄が佐野学で、野坂参三とは遠戚関係で繋がっており、野坂の身内は神戸のモロゾフ製菓の筋でして、その周辺には警保局長や特高課長が多くいる。しかも、後藤新平は凄い国際感覚と政治手腕の持主だから、弾圧し易いようにシンパを結集するために、共産党を組織してスパイを潜り込ませたり、ソ連の外交官ヨッフェと親交を結ぶことで、英国流の帝国主義の実行を試みています。

小串: 後藤新平は初代の総裁として満鉄を育て、日本における東インド会社にしようと考えたのだし、その延長線の上に満州国が作られたのです。

●大杉栄の渡仏とパリに錯綜するスパイ人脈

藤原:そうです。ただ、当時の日本は軍事至上主義に毒されていたし、民主的な植民地経営を実現するためには、ソフトの分かる人材が不足していたために、秘密警察によるスパイエ作と思想統制によって、全体主義国家にと偏向してしまったのです。

小串:後藤新平が野坂参三や佐野学などを効果的に使い、共産党を作ったという藤原さんの仮説は、これまであなたが著書で強調していたから、ここでは素直に受け入れて置くとしましょう。そうなると、伊藤野枝が大杉栄の内妻になったのは、純然とした恋愛ではなくてスパイのためであり、「くの一忍法」であると考えるわけですか。

藤原:さあね、その辺は個人の内面問題に関係するので、本人以外がこうだと断定するわけには行かないし、大杉栄だってそこまで疑わなかったから、何人も子供を作って可愛がったのだと思います。また、金を渡すことで大杉の軟化を試みるように、後藤に入れ知恵したのは杉山茂丸だろうし、杉山ならそれくらいの工作は朝飯前に等しく、太っ腹の後藤なら一つ返事で了承したに違いありません。しかも、大杉のフランス行きの半年前に日本共産党が誕生しており、アナキストとはいえ大杉はボリシェビキと一緒に、協力してやっていけると信じていたことは、後藤が考える路線と共通していたから、スパイの秘密任務を引き受けていたかも知れません。

小串:後藤のスパイである伊藤野枝の影響もあり、大杉がフランスに特殊任務を帯びて渡ったとなれば、その目的はどんなものだったのでしょうか。

藤原: 今の段階ではあくまで仮定の推論だが、陸軍のシベリア出兵の背後関係を始め、フランスのフリーメーソン(大東社)の動きについて、調べることだったのではないかと思います。だが、脇が甘くじっとしていられない大杉は、ボルトーマイヨーに近い日本人会への出入りを始め、パリに住む多くの日本人画家とつき合い、持ち前の派手な行動を大胆な形でやったわけです。しかも、第一次大戦後の円高のお蔭で当時のパリには、二百人を超える日本人画家が住み着いていたし、その頂点に立つ藤田嗣治は陸軍に頼まれて、怪しい日本人に対しての監視をしていたのです。

小串:あの藤田画伯が陸軍のスパイ役とは不思議ですね。

藤原:ちょうどソ連邦が誕生したばかりであり、シベリア出兵がらみで後藤外相が動いたし、当時パリにいた佐藤紅緑は大杉に会った時に、後藤新平の支援で渡仏したのかと聞いたほど、国際関係は非常に流動的だったのです。だが、そんな微妙な情勢を無視する大杉の大胆な行動は、彼一流のスタンドプレーヤー的性格のせいで、メーデー集会で演説を試みて警察に捕まりパリの南のサンテ刑務所に拘留されてから、国外追放ということで放免になり帰国したわけです。また、大杉が日本に帰国して2ケ月後に関東大震災が起き、その時に彼は伊藤野枝や甥の橘宗一と共に、東京の麹町憲兵隊で虐殺されています。

小串:下手人は憲兵大尉の甘粕正彦だと言いますね。

藤原:ええ、そう言われています。ほとんどの歴史書には甘粕が殺したとあるが、彼が真の下手人だったかどうかは大いに疑問です。むしろ、甘柏大尉が殺人の罪を負って服役したので、陸軍全体に対して貸しを作ったことにより、その後の地歩を築いたような感じがします。だから、釈放されてから満州に渡った甘粕は、協和会の総務部長に就任することによって、新天地を築き上げる足場にしたと思います。

小串:甘粕が殺人犯ではなかったとすると、歴史を書き換えなければなりませんね。

●甘粕大尉が大杉栄たちを虐殺したという歴史の虚構

藤原:そうでしょう。特に満州国に対しての関東軍の支配において、甘粕正彦の果たした役割と軍事謀略については、もっと詳しく調べ直す必要があります。五族協和と王道楽土の建設を理想にして働いた、多くの真面目な人々の希望を砕いたのが、満州に新しい利権を築いた高級官僚や軍人たちであり、岸信介を筆頭にした植民地官僚を始め、板垣征四郎の狂信思想に毒された軍人たちは、亡国路線に大日本帝国を導いたのです。

小串:そうなると甘粕の位置づけはどうなりますか。

藤原:今の段階では未だ十分な事実分析がなされておらず、甘粕大尉が虐殺の下手人でないなら、なぜ責任を取って服役したのかという理由や、刑期の3年間を本当に刑務所の中にいたかは、徹底的に調べ直さなければいけません。当時は第一次世界大戦後の混乱の時期であり、ソ連の成立でコミンテルンが発足したので、陸軍のシベリア出兵の後始末のやり方を始め、満州国が成立するまでに至るプロセスが、どのようなものであったかについて、世界史的な視点で検討することが必要です。

小串:私か生まれたのが大正3年(1914)ですから、中学の途中までは大正時代に生きたわけで、殺される前の大杉栄も目撃できたのだし、時代の空気は子ども心にも良く覚えています。そして、大正時代というと白樺派や民本主義を考えて、直ぐに大正リベラリズムを思い浮かべますが、前半の日本は戦争景気で賑わったにしても、後半期は恐慌や関東大震災が起きて大変でした。だから、1980年代のバブル景気で沸き立った後で、10年以上も続いている大不況の日本の姿は、大正時代の生き写しに他ならないし、この数年間は既に昭和の大不況と重なっていて、大変な時代なのに誰も自覚していません。

藤原:ジャーナリズムが堕落して真実を伝えないから、日本人は自分たちが置かれている状況に対して、どれだけ危機的であるか気づかないのです。日本政府を始め銀行や企業も債務超過であり、破産状態に陥っているだけでなく、政治もまともに機能していないという意味では、今の日本は幕末よりも酷い状態です。・・・中略・・・


●権力者のしたい放題が罷り通る平成幕末の日本
 
・・・
小串:信頼関係が崩れたので将来が不安であり、身を守るために誰もが無駄な出費を控えるから、景気が一向に良くならないのは当然です。

藤原:そんな森政権を支えていたのが小泉であり、その小泉が首相になって人気稼ぎに明け暮れ、ことによると新たな情報の隠蔽が始まって、日本は更なる亡国の混乱で呻吟するのです。大震災があった大正の末期の日本で、大杉栄も甘粕正彦も刑務所に入っているが、甘粕の場合は本当に殺人者かどうか疑問であり、2人が共にいわれなき罪で服役したとしたら、日本が法治国家という幻想は空中分解です。

小串:しかし、大杉栄が後藤新平から金を受け取ったことが、スパイだという論法に従うならば、政治家は圧力団体や政商から献金を受けるので、一種のスパイ役をしていることになるから、金の動きには細心の注意が必要ですな。

●大杉栄の虐殺を巡る甘粕大尉の謎と大杉のフランス探訪旅行

藤原:懐柔目的に金を貰えばスパイと同類であり、復古主義を主張しているご用文化人たちは、権力に小遣いを貰って動いている点て、現代版のソフトなスパイに相当しています。藤田嗣治画伯だって陸軍に金を貰ったので、スパイだったと言う人もいるわけだし、名目はベルリンの「国際アナキスト大会」への出席だが、大杉栄がパリに行ったのは後藤新平に、調査を頼まれたとも言われています。どこまでがスパイ行為かは厳密に区別できないが、大杉は後藤新平の指示を受けて渡仏し、かつて甘粕がたどった足跡を探るために、フランスで行動したと言われています。

小串:でも、それは変です。甘粕大尉は大杉栄たちを殺した罪で服役し、関東大震災の4年ほど後に奥さんと一緒に、初めてフランスに渡ったのであれば、甘粕大尉の足跡を探るための旅行というのは、どう見たって辻棲が合わないと思います。

藤原:それは通説に従った甘粕の捉え方であり、彼の公式記録は1915年から18年にかけて、3年間にわたって記録の欠落があるから、1917年頃に最初の渡仏をした可能性があります。それを追及したのが落合莞爾であり、彼の「陸軍特務・吉薗周蔵の手記」によると、甘粕は1917年頃に最初の渡仏をして、フリーメーソン(大東会)に入会しています。だから、通説や角田房子の「甘粕大尉」(中公文庫)が言うような、出獄後9ケ月経った1927年2月に、初めて渡仏したという記述は疑問符付きであり、その辺のきちんとした検証が決め手でしょう。

小串: もしそれが事実であると証明されれば、大きな歴史の謎が解明されることになり、大正時代の日本史が書き換えられますね。

藤原:吉薗周蔵が残した手記の解読によると、甘粕は上原勇作元帥の忠実な手下であり、スパイとしての特殊任務でフランスに行き、ヨーロッパ工作を密かにやったようです。上原元帥はフォッシュやフォン・マッケンゼーと並んで、近代戦史における三大元帥と呼ばれていて、日本陸軍が生んだ異才だと言われています。
 彼は若い頃に野津道實少佐の玄関番をして、大学南校に学んでから陸士を首席で卒業し、フランスに留学した経歴の持ち主であり、陸軍が始まって以来の読書家だったそうです。

小串: 上原元帥がフランス派の鬼才であり、大読書家だとしたら油断できませんな。

藤原: そうですね。また、運命の不思議な巡り会わせになるが、彼は私が留学したグルノーブルの山岳師団に配属され、工兵隊の指揮をした後で日本に帰り、陸軍の要職を全てにわたり歴任しています。
 しかも、上原が留学中にフランス人との間に娘を作り、このハーフの娘が甘粕正彦の愛人になりまして、最初に渡仏した時に親密だったことが、落合莞爾の努力によって検証されているのです。

小串:歴史の謎を追うと奥行きが実に深いから、頭がくらくらするような気分に支配されるが、本当にそんなことがあるとすれば、隠れた真相の解明は興味が尽きませんね。

藤原: だから、われわれの行く手には未知の地平が広がり、困難を乗り越えてチャレンジすることによって、新しい歴史を書くことが可能になるのです。

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●『俗戦国策』 杉山茂丸 (2)
●まだ<目次>を紹介していなかったので、それから。

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<目次>

●我国上流の腐敗、下流の健全
●決闘介添え事件
●黒田清隆と初対面
●生首抵当事件
●背汗三斗
●雌伏して風雲を狙う新聞売り子
●帝国憲法発布
●東亜の大経綸と大官の密議
●血を以て彩る条約改正事件
●爆弾事件(大隈伯の片足が飛ぶ)
●星亨との強談判
●決死の苦諌、伊藤公に自決を迫る
★伊藤公、韓国統監となる
★伊藤、約を破る
★藤公と一騎打 
★決然!長船則光の短刀
           ノ
●ー億三千万弗借款事件

★総理大臣相手に経済論争
★頭山翁ビックリ仰天
★藤田伝三郎の霊に手向ける
★二万円転げ込む
★素裸で茶漬飯を喰う
★黄金王モルガンとの問答

●政府と三菱の大経済戦
●悪政党撲滅論
●児玉、後藤と台湾銀行問題
●日露開戦の魂胆
●公然たる賄賂収容銀行兼賄賂行使銀行
●古鉄責め事件
●伊藤公の霊に捧ぐ
●日露開戦
●牢記せよ国難に当たれる先輩の苦心
●戦後の大経綸―満鉄の創立
●反対党も陛下の忠臣
●電車市有問題
●大隈内閣、寺内内閣、政党の罪悪
●寺内、原、加藤、田中
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以下、●ー億三千万弗借款事件 から紹介していきます。

 ★藤田伝三郎の霊に手向ける

 
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 「・・前略・・道を開いて見たいと思います為め、東京を後にして態々(わざわざ)大阪の貴下に御相談を試みた訳であります」
 と云うたら、藤田(伝三郎)は暫く考えて居たが、斯く云うた、
 「私が五代友厚等と日本株式会社の創始を相談したのも、詰り我帝国の工業を盛んにしたいと思う趣旨に外ならないので、私は一言の御不同意を申す筋もありませぬ、成程、貴下の御咄の通り松方侯野経済論は、日本内地に限られた旧幕経済であります、日本が外国と通商条約をした以上は、外資の疎通をせねば、国は開ける鍵がありませぬ、世界の国々は、決して自国の経済丈けでは其経済が発展する訳あおりませぬ・・併し私は一言貴下に私の経験上の御注意を申して置きたいです・・・貴下が米国の資本家との御相談は、貴下が金を借りて来る事ではありませぬ、金の借りられるように、金が米国から貸される様にする事でありますぞ、夫から貴下は、決して金儲けをしてはいけませぬ、貴下が金儲けをしたら、其時から人が貴下の云う事を聞かぬようになる物と御承知になりたい、貴下が金儲けを為られたら、斯く云う私も貴下の云う事を聞ませぬぞ、故に私以外の誰でも聞ませぬ・・・貴下は現代の国家に対し、日米の間に立って大切な事を為る責任がある事を、決してお忘れになってはなりませぬ・・・此の種の事で若し費用等の御入用があったら、外間の何者にも知れぬようにさえ仕手下されば、私、今は極々の貧乏でございますが・・・ドウにも仕て御入用だけは、何時でも御用達致します」

 と云うた。庵主は此の藤田の咄を聞きつつある間に恍惚として、何だか宇宙の真理を絞り寄せた咄のような心地がして、庵主が経済界に一歩踏み入れんとする矢先に、生涯忘るる事の出来ぬ大教訓を得た思いがした事を茲に明記して、謹んで故藤田伝三郎氏の霊に手向けるのである。

それから晩餐の馳走になって帰京したが、その道々でも、3千円の借用金の事の感謝は何時の間にやら薄らかに忘れて、その藤田の無意識にスラスラと咄してくれた咄の方が忝なくて耐えられず、庵主はそれを生涯に通じて、此の日の一言を忘れず、藤田翁の死後、庵主64歳の今日まで、全く庵主の第2の性質のようになったのである。


★二万円転げ込む

 夫(それ)から横浜に行って「モールス」に面会して、洋行の決心を咄したら、彼(藤田)曰く、
 「貴下は日本の工業発達の事を思念して洋行せらるゝなら、先ず米国の工業と云う物を知らねばなりませぬ、工業を知らずに、工業の資本だけ出来る筈がありませぬ、私が今、米国の各工業家に紹介状を認めて差上ます」
 と云うから、庵主は又ギャフンと参ったのである、庵主は対松方候の開墾拓殖の資本一件と、工業発展の資本一件に対抗する事許りを考えて、先ず工業を知る事を忘れて居た所に「モールス」氏の一言にて言句も出ぬ事となって、惘然沈黙の儘「モールス」氏の云うが儘に従うたのである。
夫から、庵主は書生の時からの定宿たる、横浜停車場前の山崎屋と云うに休憩して居たら、3時間許りの後、「モールス」氏が来訪して、5通の手紙を持って来て、庵主に渡した夫を一々読み聞かせたが、通弁(通訳)は明細に之を庵主に伝えた。
曰く、第一が紐育(ニューヨーク)の本社社長「ウィリアム・スチーブン」宛、次は「チカゴ」市「イリノイス・スチールオーク」の社長宛、次は「フィラデルフィア」の「ボールドインロコモチーブ・オーク」の社長宛、次は「ダンカーク」の「コロ(ロコ)モチーブ・オーク」の社長宛、次は「バッフワロー」の「カーウィル・スチール・オーク」の社長「グリッフィン」宛である、其文面は、
 「此の手紙を携帯する○○氏は、日本に未だ一度も唱えられぬ、工業発達の実際を、実現せしめんと、夫(それ)を米国人と相談の為め渡航する人である、即ち米国の将来に対して、偉大なる好得意の代表者と見なして待遇せられん事を希望す、云々」
 等の事であったと思う、夫から「モールス」氏は「ポケット」から、金2万円を出して斯く言うた。

 「此の封金は、さきに仁川鉄道の事にて、貴下の尽力を煩わした事と、神戸水道布設の事に尽力をして戴いた事との二つに対して当時薄謝を呈したが、貴下が東洋『ヒロイズム』とか云うて受けられなかったが・・・実は本社から私の手許には支払い済みとなって居るのである、永久に私の手許に預って置く事にも行かぬから、幸い今回の用に使用して下さい・・台湾鉄道創設の事に付、重役松本直巳氏より申越された事を本社に報告して置いたから、貴下はドウカ台湾鉄道の事を充分に本社長に説明をして戴きたい、夫を願います」
 と云うて、懇々との話故、庵主はトウトウ其の2万円を受取った。
 
サア、是所が今時の青年達に庵主の一言して置きたい老婆心である、諸君は三千円入用の旅費を千辛万苦してヤット出来た所に、別に2万円立派な理由でどうしますか、今日から30年前の2万円は、今の20万円よりも使い力があるかも知れぬ、夫が庵主が金とも何とも思わず、一に藤田や「モールス」の箴言を真面目に考えて其使用方法を誤らなかったためにこそ、今日斯くして、太平楽を並べて威張っているのである。

 此の時過まって居たら、誰も疾うの昔、相手にする者はなくなったと思う、庵主は元々3千円の入用であるから、此の2万円は無くても好い物である。故に一文も之に手を付けず、頭山翁其他の親交ある恩人に幾らか分配した残りは、大軍のように押寄せて居る借金取と、九州に庵主の為に破産せんとしつつある幾多の人に塩を撒くように、少しずつ分配して仕舞うたのである

 此の心と行為が、人間味の通行券となって、幾多の不満足はあっても、一人も庵主を怨むる者がなく、先生々々と今日まで云うてくれる、即ち人間でない神の声と化して居るのである。今時の人間の有様はドウじゃ、筋悪き泥棒同様の、金をかっぱらうが早いか直ぐに銀行に入れて預金帳に書いて眺める、夫から夫を使い払う有様は、直ぐに家を建てる、芸者を受出す、別荘を構える、自動車を買う、紳士々々と云われて居る間はホンの瞬間で、直ぐに手が後へ廻る、夫から法廷に立っての言論は、大恩人が有罪になろうが、男の一分が廃たろうが、嘘八百を云うても罪さえ遁がるれば「青天白日」と云うて、泥棒の本体を大道にひけらかしている。

諸君よ、人間とは金を摑むだけが人間ではないぞ、有情共に恥辱を知るだけが人間と云う、他の禽獣と異なる者である。斯く云う庵主の行為も、決して威張る事は出来ぬ、唯禽獣でなかっただけである。ヤット人間の度外れを仕なかっただけである、其の剃刀の刃を渡るような危険な所を、よく注意して貰いたいのである、夫から東京に帰って、3日目に藤田から手紙が来た、夫は藤田の使であった、其文面は、

 「拝啓、此の間は久々振りに御来訪被下、結構なる御咄を承り、大慶此の事に存候、其節快哉に取紛れ、失念致し候間、在京の手代を以て御意を得候、其の節3千円の御入用との事故、それだけ御用達致置候が、御用途を承り、御用の事柄筋合としては、到底アノ金高にては大なる不足と存候間、取敢えず更らに金3千円、第三銀行小切手にて差上置候間、御落手被下度候、此の上とも金銭の事に就いては一層の御注意、更らに御用も有之候わば、電報を以て御申越し被下度候、海陸御無事、一入の御健康を為邦家祈上候、云々」
 と云うようの事であった。夫から直ぐに外務省の懇意な朋友に尋ねて見たれば、
 「通弁を連れて米国に行くのに、3千円位で行けるものか」
 と、事もなげに云われて、又ギャフン・・・貧窶(ひんる)なる庵主の書生魂性から、勝手に3千円もあればと速断した粗雑な考えで、又もや恥を掻いたのである。

●素裸で茶漬飯を喰う

 夫(それ)から、早速藤田へは其調査の顛末を報告して、厚く厚く親切を謝して、6千円を正金銀行に託して、米国に向って出発したのである、夫が何でも明治30年の6月3日の事であったと思う。
通弁には「モールス」氏の与えたる、店員の清水林吉という老功の人であった。横浜から乗った船は「オリエンタル・オキシデンタル・スチーム・シップ」会社の「チャイナ」号と云うのである。当時はこんな船齢40年も経った船が、一番良き船であった。

 此の時、官界日の出の働き人(て)である農商務次官藤田四郎氏及び大学教授箕作佳吉博士が「ベーリング・シー」の海豹(シール)の問題にて、華盛頓(ワシントン)大会議の為め官命を奉じて渡米するのと同伴したのである、其の外には米国政府の大蔵次官の「ハムソン」氏とかも一緒であったと思う。
夫から船中では、黒い洋服に着換えて食堂に出るのが面倒臭い為め、庵主は「ケビン」の中に閉じ籠り、海疫(シーシック)に罹ったと云うて、素ッ裸で3度の飯を食い、日本人の「ボーイ」に賄賂を遣って、何でも甘味い物を取寄せ、缶詰の沢庵などを出して茶漬飯などに舌鼓を鳴らすので、始めの程は、藤川、箕作の両紳士は庵主を野蛮的の杉山杉山と云うて居たが、段々布哇(ハワイ)近くなって暑気が増して来たら、トウトウ両氏とも庵主の「ケビン」に集合して、日本で仙人程厳格じゃと評された箕作氏が、庵主と藤田氏の真似をして素裸で茶潰飯を食出したので大笑いとなり、布哇の「ホノルルに着いたら、島村久氏(後に大阪の住友か鴻池の番頭に入った)が公使であったので、ドヤドヤと公使館に押込んで、日本的の御馳走を鱈腹食うて3人共舌鼓を鳴らしたのである、夫から桑港(サンフランシスコ)に着いたのが、何でも24日目であったと思う。
それから直ぐに「シカゴ」に往って「イリノイス・スチール・オーク」を視たが、茲に不思議な事は、庵主は少しも其の壮大に驚かなかった、ナゼなれば、総て経済的設備に注目し、其の「ミシガン」の湖水を応用して居る処を見て、日本では海とドンナ関係に仕ようとか、其燃料の石前輪送管を使用して居る処を見ては、何、金さえあれば其の30哩に対する資本償却法は何でもないと思うた。

人間は不思議な動物であって、其の思念と境遇が緊張すれば、決して驚く物ではない、日露戦争でも、外国の観戦武官が見ての驚きは大変な物であったが、戦争当事者の日本軍人は其の戦時の責任に当面して居るから、何をしても当然の事を仕て居ると外思わぬのである、庵主も当時は、全く渾身の精が其の視察に注がれて居た物と思う、夫が観光旅人ででもあったら、只だ驚いて少しも要領を掴む事は出来なかったのであろうが、庵主は其の社長の饗宴に往っても、色々の奇矯の言を吐いて其の社長を煽だて、色々と手に入れる事の出来ぬ書類まで貰うて来て、帰朝の上、時の農商務次官金子堅太郎氏に之を提出したが、何でも金子次官がそれらを何とかして、門司の製鉄所を創設せられたそうである。
時の農商務大臣・榎本武揚氏は庵主が前から懇意の人であったから、築地の柏屋と云うに招待して製鉄所創設の事を説いた事がある、此等は帰朝後の話である。

●黄金王モルガンとの問答 へ続く。

●『期待と回想』 鶴見俊輔
●『期待と回想』 鶴見俊輔 朝日文庫 2008.1.30

(原著は1997.8月刊 晶文社。) よりのメモ。


7。伝記のもつ意味  より。 p396~
 (質問者は小笠原信夫 日時は1994.4.30 )

*章頭の質問は次の通り。
 鶴見さんの仕事で伝記というスタイルの表現が多くありますが、人とその生きてきた時代を、いまという時代に置いてみようということではないかと思います。
 70年代に入り『高野長英』、それ以降『柳宗悦』『太夫才蔵伝』『夢野久作』『アメノウズメ伝』。こうした伝記を書こうというときに何を心がけていますか。
 *************


★『高野長英』は史料がものすごく多いという感じがしました

 江戸時代の史料というのは使ったことがなかったんです。本格的に史料調査をやる人だったらもっと楽々と書くのではないでしょうか。これを書こうという直感は、高野長英(1804一50)は悪党だということなんです。高野長英を美化しようとか、尊皇の志士という諸説から切り離したかった。それからもう一つある。「べ平連」での脱走兵援助があったことですね。高野長英は脱走囚となって逃げたでしょう。それです。

 高野長英自身は悪党なんだが、かれを助けた人は長英より逞かにえらい人なんだ。長英を助けている人たちが、あちこちにいて、いずれも立派な人たちだった。貧乏しているけど先祖が長英をかくまったことを今も愉快に思っているんだね。上州にいましたよ。このことな
んです。私か脱走兵援助をしていなかったら、これを書くモティーフは出てこなかったでしょう。長英が残した『蛮社遭厄小記』はすごい。牢屋に入れられるとふつうはあきらめるものなんだが、高野長英は金を小者にやって火をつけさせ逃げるでしょ。すごい知恵じゃないですか。「べ平連」で脱走兵援助を一所懸命やったが、それはいったん終わった。アメリカの基地から出てきた脱走兵を助けた人たちと同じ気分を、高野長英を助けた人たちはもっていたと思う。そのことを、ゴシップでもいい、嘘でもいい、集大成してみよう。そんな思いなんです。

 『夢野久作』は、京都で「家の会」(サークル)をつくったころに話したことがあるんですが、杉山茂丸と夢野久作という父親と息子の関係に興味をもっていたんですが、意外なことに夢野久作の長男の杉山龍丸さんという人物が現れて、私の家に何度もやってきたんです。私が夢野久作について20枚ほどの原稿を書いた(1962年)ことがきっかけなんです。手紙を送ってきて、それから来るときはかならず伊勢名物の「赤福」を持ってきたんですよ。京都駅で買ってきたのでしょ。

 三一書房が夢野久作の全集を出すというので、谷川雁が兄の谷川健一に頼まれ、私を巻きこもうとした。杉山龍丸は、この全集の編者に入ってくれるなという内容の電報を打ってきた。そのあとに手紙がきたんだけど、「あなたと私とのあいだに金を介在させたくない。あ
なたが編者に加われば、かならず金の問題について私は要求することになる。それがいやだ」と書いてあった。

 かれとしては、私との関係は「赤福」を持って訪問するだけにしたい。『声なき声のたより』という小さな通信に文章を書いて送ってくれたこともあった(鶴見著『夢野久作』に収録)。こうした関係性は右翼的なものなんです。

 あとでわかったんだが、かれは夢野久作から3万坪の土地を残されていた。その金で、インドのガンジーがつくった塾の生き残りを日本に連れて来たり、世界の砂漠の緑化をやったりと全部使いきっていた。全集を出した三一書房から多くの印税が入ったと思うが、それも使いきっちゃっていた。ほんとに何にもない、文なしで人生を終えた人なんです。

 私から見るとそれは壮挙だね。こういう人間が日本の高度成長という時代にいるんだね。私もそうありたいと願っている。一種の理想なんだ。それに感激して、『夢野久作』を書いた。はじめは「家の会」的に親と子という関係で書こうと思っていた。杉山茂丸から夢野久作へ。それはある程度アカデミックな構想なんです。しかし変わってしまった。杉山龍丸という人物の登場によって。私としては、この本は、杉山龍丸に対する供養という気持ちがつよい。高度成長のときに、こういう人間がいる。福岡で3万坪というのは大変なものでしょ。それを少しずつ売っていった。かれは弟にもほとんど金をやっていない。弟に家をたててはいるんですが、戦前の長子相続権を戦後になってもがんと守った。無茶な人ですがね。

 彼は、CDIのアンケート調査で、福岡にずっと住みつづけるつもりだ。どこか別のところに行くとしたら京都だ。あそこは友だちがいるし、いい学生たちがいる、と答えた。友だちというのは私のことで、いい学生たちというのは奈良でハンセン病患者でも泊まれる家(むすびの家)をつくった柴地則之といったワークキャンプの学生たち。私は胸をつかれた。かれは杉山茂丸の孫だということで、左翼から毛嫌いされ、右翼とも喧嘩ばかりしていた。こういう男はすごいなあと思う。光を放つ、そこのところがないと伝記は書けないでしょう。

★右翼といえば、鶴見さんは葦津珍彦さんとも親しいですね。
             
 葦津さんには感心しています。葦津さんを記念する本をつくりたいと思っているんですが、もう私には力がなくてね・・。葦津珍彦という人は市井三郎が連れてきたんです。葦津さんに、夢野久作の息子が生きているはずだけど紹介していただけないか、と頼んだことがあるんだが、それはできない、あの人はよく喧嘩する人です、といった。たしかにその助言は有効だったんです。しかし私は杉山龍丸とは喧嘩をしたことはないんですよ。かれは突如として来るけど、私が家を出る用事があるというと「赤福」だけを置いてすぐに帰っていく。お
互いのあいだに最後までお金をいっさい介在させなかったね。・・・以下略・・・

  <続く>
●『期待と回想』 鶴見俊輔
●『期待と回想』 鶴見俊輔 朝日文庫 2008.1.30
(原著は1997.8月刊 晶文社。) よりのメモ。

 4.転向について(質問者は北沢恒彦 日時は1993.9.25)

 ★転向よりも重要な問題  p216~


 いま自分は「転向」よりも重大な問題があると考えるようになった、と最初におっしゃいましたね。それはどういうことなんでしょう?

 転向論をやってるあいだは何でもかんでも転向と結びつけて解釈していたけど、30年たって、いまの私は、転向は人間のもっとも重要なテーマじゃない、という感じがしているなにがもっとも重要なテーマかというと、「生きていていいのか」「なぜ自殺しないのか」という問題なんですよ。哲学の問題としては、転向よりもこっちの方が重いんですね。
  
 この考え方に光を当てるために、『西田信春 書簡・追憶』(土筆社)という本を待ってきたんです。石堂清倫(社会思想研究家)、中野重治、原泉(女優。中野重治と結婚)の三人の共著。本のタイトルになってる西田信春という人は、戦前の日本共産党の九州地方委員長だったんだが、警察のスパイだという説があった。当時の共産党の資料は調べることができませんから、戦後もながくスパイだったと思われていた人なんです。

私がこの本と出会うのには因縁があってね、夢野久作(作家)の伝記を書いていたときに読んだ。夢野久作が福岡で秘書役に採用した紫村一重という人物がいるんです。当時、かれは共産党員ということで起訴されて裁判が進行中だった。にもかかわらず夢野はかれを自分の秘書にした。紫村は転向したんだけど、底の底までは転向してなかった。監獄で雑役をしていたとき、自分たちの指導者を売った西田信春のことを探って、とうとうかれの警察調書を発見するんです。それを読んで西田はスパイどころか、拷問にあっても自白をせず、警察署の階段をズルズルと何度も頭から落とされているうちに死んだということがわかった。逮捕されたのが1933年2月10日で、死んだのが翌日です。その事実を警察は嘱託医をごまかして、「職務熱心でこうなりました」といっている。

 そのことが戦後になって明らかにされた。それは西田と交渉のあった中野重治や石堂清倫にとってはたいへんなショックだったんです。それでこの本ができたんです。

 この本に西田の配下だった前田梅花の書簡がおさめられている。西田にはハウスキーパーがいた。北村律子というんです。この北村律子は笹倉栄というスパイと結婚していた。そのことで前田は、西田の疑いが晴れたあと、「なぜあんたは西田ではなく笹倉と結婚したのか」と律子を詰めるんです。それに対して、律子は「たとえかれがスパイであったとしても、私はかれを愛しているから離婚するつもりはない」と答えた。前田は、それはいやだな、と思うんですけども、ついに最後は気持ちの整理がついた。「笹倉は許さなくても律子は許してやらなくてはならないと思いました。西田が遠いところから、ああもういいよといっている気がしますね」。これが前田梅花の最終的な結論なんです。

 政治行動というのは表面のことのように私には思える。それに魂を奪われたくない。スパイと一緒に暮らすことは悪いことなのか。かならず離婚しなきやいけないのか。私は、政治思想を共にしなくても、旦那がスパイであっても一緒に暮らしていくのは一つの立場のよう  な気がします。前田梅花が最後に達した結論は私には理解できる。転向よりも裏切りよりも深い問題がある。転向者として同志を売るようなことをやって、どうして生きていったらいいだろう。そこで自殺するという考え方もあるでしょ、熊沢光子(てるこ)のように。生命のかたちはそれを否定するものとの葛藤なのであって、そこまで降りていくと政治的転向より深い問題に出会うと思いますね。

 生命のかたちはいつでも生命の否定とない合わせになっている。どうしたら生きていけるのか。いっそ自殺しようか。それが根本の問題なんです。転向研究から離れたあとの30年で、私の中に定着した考え方なんです。
 私の姉はアメリカに行ったときからマルクス主義者で、その後、離れた。そして親父が選挙戦に出て倒れたのち、ひとりで膨大な借財を整理して親父の面倒をを見ていたんです。ところがプリンストン大学で博士号を取るためにアメリカに行かなければならなくなった。姉のほかに私と妹、弟と三人いたけど、引き受け手がいなくて、結局、私が家にもどってしばらく世話をした。私は1951年から15年間、親父の家に足を踏み入れたことがなかったんですけどね。

 思想の表面だけを見れば、姉には一貫性がない。だけど彼女が親父の面倒を見ていたから、私はデモとか座りこみとか自由にやることができた。親父が倒れたあとだって一文も家に入れたことはありませんよ。もし姉がいなかったら私が親父の世話を引き受けなければならない。社会的、政治的な活動もしなかったでしょうね。家のこと、親父のことを考えると、姉に対して頭が上がらない。そういう問題があるんですよ。著作の上での一貫性とはちがう問題がある。転向だけを問題として他人を押しまくることはできやしない。それが現在の立場ですね。転向よりも重大なものがあるということなんです。

  <続く>
 






(私論.私見)