●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13)―2 |
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13)―2 ●上原勇作、原敬激突「増師問題」の帰結と高島鞆之助
その間の事情を『元帥上原勇作伝』(以下、単に伝記とする)に見れば、元年12月22日、二個師団増設案を閣議に提出した上原陸相は、行政整理を打ち出した西国寺首相と真っ向から対立するが、何としても引っ込めない。西園寺に同情した枢密顧問官・高島鞆之肋は自ら上原陸相を訪問して、増師案の撤回と辞職を勧告する。元帥・大山巌も同様の周旋をしたが、上原は受けようとしない(註:高島が上原を説得したのは、誰かの依頼を受けたものと思う。蓋し、当時上原を説得できるのは高島しか居なかったからで、高島に説得された上原は、増師案を撤回して辞職する決心をしたが、山県元帥の工作を受けて変心し、増師案を提出したのが真相である。山県は、西園寺に増師案を呑ますことで内閣の延命を図ったが、それを西園寺が拒否したものらしい)。上原は当時、某人に向かい「自分が西園寺と直接懇談していたら、増師案の解決も困難でなかった。山本達雄蔵相は、自分に西園寺との会見を約束しておきながら、終にその機会を作らなかった。しかもその実、内閣の実権者として増師延期論の中心となっていたのは、内相原敬に相違なかった」と語った。この意味において、増師案問題は、実に上原と原の対決であった、と伝記は謂う。原敬と上原はここに悪因縁を生じ、それが後年の大事に繋がるのである。
閣議で増師案を否決された上原は、単身青山御所に参内し、陸相の辞表を提出した。これは、統帥権独立の下での帷幕上奏権によるもので、「閣僚辞職の場合は辞表を首相に預けるという従来の慣例を破る<暴挙>で、そのために西園寺内閣は、同月5日を以て倒壊するに至る。上原も自らこれを非立憲(ビリケン)的行動と称したほどで、暴挙を自覚していたが、陸軍内部では、軍のためなら内閣をも倒すという行動力が以後高く評価されることとなった。自然待命となった上原は、再び軍職に就かぬ覚悟をほのめかして都城に帰省、鹿児島の日高尚剛邸に静養し、翌年1月24日からは指宿温泉に逗留し、静養3週間に垂んとした。この間、陸軍中枢すなわち山県元帥、寺内朝鮮総督、楠瀬陸相らは上原の処遇について苦慮し、寺内大将が1月15日付書簡を以て、上原に軍職復帰を勧告する。寺内の手紙で心境一転した上原は、師団長への復職を希望し、政府も之を容れて名古屋の第三師団長を内定した。ところが、その通知がなかなか上原に届かない。山県元帥と政友会の原敬の意見が合わず、その調整に手間取っていたのである。ここにも原敬と上原の相剋が兆している。
現存する2月18日付の井戸川辰三中佐(陸軍省副官兼陸相秘書官)宛て手紙で、上原は「今18日夜11時まで待つも何事も申し来らず、誠に待ち長く候」と苛々する心境を述べ、勇作身上の発表まで僅かに10日位しかないので、発表有り次第直ちに名古屋へ赴任するが、東京へは寄らず、旅行先から直接名古屋へ赴任する。都城は25日までに引上げる予定で、すでに当地の研究も済ませたので、志布志、福島、飫肥、宮崎方面に出向きたい、との所存を告げた。文面通り都城を発った上原は25日から福島に出て、飫肥、宮崎を経て小林駅から乗車したと伝記には記すが、道順としては不自然で、伝記編集者が上記井戸川宛て書簡を根拠に、適当に書き流したものと思う。
続く。 |
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13)―3 |
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13)―3 ●大正天皇も憂えた上原の急病と浅山丸の神効
ところが上原は車中で熱病を発し、下関を過ぎるころ益々甚だしく、尋常一様の感冒ではあるまいと途中下車して広島か姫路の陸軍病院に入ろうかと迷うも、強いて名古屋に向かおうとした。しかし発熱が猛烈なため大阪で途中下車し、旅館で陸軍病院長の来診を受け、翌朝大阪赤十字病院に入院した。京都帝大の中西亀太郎博士が来院して診察したが病名すら分からず、疲労と腸の不調と判断し、強壮剤を与えただけであった。折しも千葉の陸軍歩兵学校に行幸された大正天皇から、侍従武官長に「上原の病状はどうか」とのご下問があった。前年、戸山学校から歩兵学校を分離して千葉に移転し歩兵学校とした、その実行者が上原陸相だったから、天皇は行幸先で上原を想起されて、その病気に思いを致されたのである。
武官長が病状を奏上すると、「有栖川宮の病状を診察するため、青山胤通博士が須磨の別荘に行くから、上原の病状も診察させよ」との御言葉があった。青山胤通は3月29日、大阪赤十字病院で上原を診察し、肺壊疸と診断し、「3年ほどは劇職は無理」と楠瀬陸相に告げた。青山の診断を聞いた上原は、当分軍務を断念して第三師団長の辞表を提出、6月9日付で待命となった。この間、見舞いに西下した槙子夫人にすぐに帰京を命じた、との逸話に添え、「彼の武士的責任感の鋭敏なることに就いては、元帥(上原)と乃木大将と共通の点があった」など、些細なことでも上原を褒めそやす伝記ではあるが、興味深い記述もある。 それは、「また高島鞆之助は、東京より西下して病院に来たり、元帥(上原)を見舞ふたが、玉木看護婦に対し『浅山丸を呑んでゐるか』と問い、玉木が『一日十五粒である』と答ふるや、『それでは足らぬ。一回に三十粒やれ』と命じたので、玉木は其の通り、一回三十粒を与えた。然るに、脈は善く、浣腸注射もやめる位になったが、翌朝に至り、元帥(上原)の眼球に斑点が生じたので、再び減量したと云ふ珍談もあった」との記事で、浅山丸の神効を語って余りある。
大阪日赤病院に飄然と現れた高島鞆之助は、当時枢密顧問官で、陸相を引退して15年経った当時も、決して世人に忘れられた存在ではなかった。陸相上原勇作の単独辞表提出を軍部の横暴と見た世論の憤激は、西園寺の後継首相に就いた桂太郎に向けられ、憲政擁護・閥族打破を主張する在野政党と、これに同調した院外団、言論界、一般民衆の、桂首相に対する攻撃はまことに凄まじいもので、第三次桂内閣は大正2年2月11日、わずか53日で倒壊し、戦前における民衆運動による倒閣の不完全ながら唯一の例となった。 桂内閣崩壊の後、組閣の大命を受けた山本権兵衛は、多数党の政友会の支持を条件にしたが、政党内閣実現の要求に湧く党員たちとの間で政策協定が結べず、政友会内部にも亀裂が生じたため、多数の確保が困難になる。世上では、護憲運動の先頭に立つ国民党の犬養毅を入閣させて、山本内閣を一気に成立させようとの動きがあり、また「山本が閥族で駄目というなら高島鞆之助でゆこう」と尾崎行雄が言いだした。高島も薩閥の一員には違いないが、政友会に入党して党員になるなら良いではないか、という理論で、高島人気がまだ裏えていなかった証拠である。 単独辞職後の上原の病気は、伝記の詳しく記す所であるが、その裏側の真相を記した資料が別に見つかった。
まず『周蔵手記・本紀』昭和十二年条で、「昨年十一月、牧野サンカラ女中ガ使ヒニ来ラルル」で始まる箇所を要約すると・・・昭和11年11月、淀橋の天真堂医院(牧野院長)に宇垣一成から連絡があり、伊豆長岡の自宅に来て貰いたいと周蔵に伝えよと言われたと、牧野の女中が連絡に来た。宇垣は、8月5日に朝鮮総督を辞めたばかりで狩野川の辺で静養していた。訪ねた周蔵に、宇垣は悠々自適をしきりに強調しながら、「君とは四度目だな」と切り出した。二回しか党えていない周蔵の怪訝な顔を察して、「大正二年、上原閣下が大阪の病院に入院していた時、あの折の病院の廊下で会った」と言いだす。それに驚いた周蔵が、当時を思い出すままに書き留めた。「・・・あの折は上原閣下から東京に呼ばれて、陸軍指定の旅館で待っていたが、連絡がなかなか来ず隠れて同行してくれた父・林次郎と大叔父・木場周助が随分心配した。結局、大阪赤十字病院に来いとの指令が届き、一行は大阪に移動した。閣下の病気は、ギンヅルから貰っていたケシ粉(阿片末)によって回復したが、閣下がそのような麻薬を用いていることにも、当時は驚いた」と記している。
●「先ノコト 閣下二任セテ心配ナヒヨ」
いま一つ、『周蔵手記』別紙記載の中の「1945年(昭和20年)9月末ピ 敗戦カラノ記」と題する文中、周蔵が上原に「草」として仕え始めた大正元年から2年の頃を回想した箇所があり、そこに高島が出てくる。
要約すると、大正元年8月2日、上原陸相の使いという前田治兵衛が周蔵宅に来て、千葉・一宮の上原別荘に会いに来い、との指令を伝えてきた。お目見えにも一人でゆく度胸のない周蔵は、前田治兵衛と大叔父の木場周助についてきて貰う。お目見えに合格して、その場で「草」を命じられた周蔵は、一旦帰郷して決心を固めるが、大正3年春、熊本に居た上原から、「前年からの事と今年からの将来の事を決めるために上京せよ」との指令を受ける。上原自身は広島に寄ってから上京するとの事であった。この時も、一人で行けない周蔵は、林次郎と周助に伴われて東京へ出て、指定の旅館で待っていたが、なかなか連絡が来ない。そのうち連絡があり、「閣下は病気になり、大阪で入院しておるので、大阪に移動せよ」との指令であった。「その時にそれ(ギンヅルの薬)を届けるように」と、親爺殿が持ってきてくれたのである。大阪に移動し、病院に軍人が屯しているなかを取り次いでもらうと、本人から頼まれたと称する高島なる人物が現れ、「薬を先に渡せ」と言った。閣下はその薬を待っていたようで、婆さんは二種類の薬を呉れたが、一つは一粒金丹と同種の丸薬で、もう一つは黒砂糖で固めた丸薬であった。後者を多く持参したことを告げると、高島さんは「さすがヲギンさんだ」と言われた。その折、高島さんから「先ノコト 閣下二任セテ心配ナヒヨ」とはっきり言われて自信が沸いた周蔵は、以後は父や大叔父に頼らなくなった。この薬は都城・島津藩の貴重薬で、ギンヅルが作り、藩主に届ける傍ら上原にも送っていたという。
以上が「敗戦カラノ記」の該当部分の要約である。ギンヅルの二種類の薬のうち、高島が欲していたのはむろん後者、すなわち伝記にも出てくる浅山丸である。ところが、その薬が大阪赤十字病院の上原に届いた経路が、傍線部で分かるようにニュアンスが異なり、はっきりしないが、強いて追究すべき問題でもあるまい。むしろ、高島と周蔵の初会見が大正2年春の大阪日赤病院だったこと、その際、高島が上原の親代わりのように振る舞っていたことが見えて面白い。それを周蔵が戦後まで覚えていたことで、周蔵の高島に対する感情と、高島との親密な関係がしのばれる。
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13)―4 |
●「(ギンヅルが)来タル目的ハ 高島サンニ・・」 もう一つは『周蔵手記』の「別紙記載」で、「九月ニナルトハヤク婆サンガ上京出テ来タル」で始まる「京都探訪記」で、ここにも高島が出てくる。大正6年9月初頭から10月下旬にかけて、ギンヅルに同行して京都に行った周蔵が、祖父・提哲長の愛人だった渡辺ウメノを訪ね、その孫で外科医の渡辺政雄を東京に引き取った一件の記録に、高島の名が二箇所出てくる。まず冒頭部分に「(ギンヅルが上京し)来タル目的ハ 高島サンニ関フル事モアルヤフダシ、閣下二用モアルノデアラフガ、例ノ如クアノ人物ト同伴デアルニ 何カタクラム事デモ アルノデアラフ。閣下モ又マメニ ヨク手紙ヲ出スヤフデアルシ 婆サントニ人 薩摩ノ田舎ニオヒテ コノ國ノ情勢ヲ コマンカ事(細かなこと)マデ 手二取ッテヲラル・・・」とある。「アノ人物」とは日高尚剛で、日高を同伴してギンヅルが上京してきたことから、周蔵は、二人の用件が前年1月11日に死去した高島鞆之助の後始末、及び上原勇作との用件と察し、「上原閣下もまめに報告を欠かさないから、この二人は薩摩の田舎にいながら、この国の情勢を細かい事まで把握している」と記したのである。上原から中央の動向を報告させている事を以て、二人の行状の一端を想像すべきであろう。
同じ文のなかで「トコロデ 三居(ギンヅルのこと)ハ、哲長トハ最後マデ 妾トハ云へ 暮ラシテ来テヲリ、自分ガコノ頃 閣下ヤ高島サンカラ聞クニハ・・・」とある。ギンヅルの過去のことを、この頃になって上原と高島から聞いたというわけだ。この高島が鞆之助か養子高島友武か未詳だが、前者は前年1月11日に死去していた。後者は吉井友実の次男で鞆之助の女婿だが、当時は陸軍少将で第十九旅団長であった。十九旅団は京都十六師団麾下で、本部が伏見区藤森にあり、今はその後に京都教育大学が置かれている。周蔵は10月に京都へ行くが、その折高島友武を訪ね、そこでギンヅルの噂を聞いたというのだろうか。そこまでは分からぬが、何しろ高島鞆之助は戊辰戦争以来のギンヅルの辱知、しかもビジネス・パートナーの仲であった。大正2年春、大阪日赤病院で初めて会った周蔵だが、ギンヅルの孫として粗略にしなかったのは当然で、その関係が養嗣子の友武にも引き継がれていたものと観てよい。
余談ながら、明治から大正にかけて、東京新宿の淀橋に淀橋医院と称する個人医院があった。吉薗周蔵が大正六年以来、本願寺から預かっていた佐伯祐三の診療を頼んだ医院である。院長は日向・飫肥(おび)藩主・伊東家の血筋の人で、薬局部には遠藤与作という薬剤師がいた。伝承では、淀橋医院は高島鞆之助と川上操六が作ったもので、上原勇作が継承したという。特色はどうやら薬局部にあり、そこで阿片その他の薬学的研究を秘かに行っていたようである。 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13) <了>
************* *以下、参考までに、 天才佐伯祐三の真相 vol.4 より。 (★左下のリンク「佐伯祐三調査報告」からどうぞ) http://www.rogho.com/saeki/vol-4.html
第三章 武生市発表「小林頼子報告書」なるもの 第二節 小林報告書の要点と誤り から ★B.周蔵と医学 を紹介しておきます。
************** B.周蔵と医学
吉薗資料の内容
1.熊本高等工業を二年で中退し、山本権兵衛の紹介で帝国医専に裏口入学。「これを数ヶ月で中退して、ケルン大学へ留学」(小林氏の解釈)。 2.帰国後、中野に救命院を開設する傍ら、淀橋の牧野天心堂で手伝う。 3.牧野は佐伯の結核の主治医であったが、不在の折りは、中村彝の主治医であった遠藤が佐伯を診ていた。 4.周蔵は医師免許を取るため、額田の研究室に通って、医学の研究を続けた。額田たちは大正十四年(小林氏の解釈・本当は大正六年)の段階で、周蔵が血液型を分離する作業をみて驚嘆した。
●小林報告 1.周蔵は東亜鉄道学校(熊本)に大正元年十月一日から三年九月二十五日で在学していた。上京したというのは疑わしい。 2.帝国医学専門学校の存在は確認できない。 3.牧野の遺族は周蔵や佐伯の名前を知らなかった。 4.遠藤医師が、中村彝の主治医だった遠藤繁清のことだとすると、中村と知り合ったのは大正十年四月以後だから、大正六年十一月あたりに出てくる「救命院日誌」は怪しい。 5.淀橋病院は昭和七年の設立なのに、「救命院日誌」の大正六年十一月以降の条に出てくるのは、怪しい。 6.「救命院日誌」一九一六(本当は一九二六年)年四月三日の項に「額田兄弟の母(これは小林解釈)を大森に訪ねた」とあるが、額田医師の母上は前年九月十一日にすでに死亡しており、住居も大森ではなかった。 7.日本の血液型の研究は大正五年頃より、広範な分布調査がなされているのに、その九年も後で、額田が驚嘆したり、また「救命院日誌」一九二六年の条に「先月ノケルン大学カラノ雑誌デ、AB型ノ親カラO型ノ子供ハ生マレナイト知ッタ」とあるのは荒唐無稽である。ケルン大学へ問い合わせたが、当時雑誌を発行していた事実はない。
●落合報告 1.周蔵は飛び級で小学校を一年短縮し、都城中学に入るが、数日で退学し、その後、山本権兵衛の口利きで、熊本高等工業を裏口受験させて貰うが、試験をさぼった。その後、上京したが、大正元年八月、前陸軍大臣上原勇作中将の命令で、東亜鉄道学校へ入ったものである。 2.周蔵は、呉秀三医博の勧めで、大正九年十月から、帝国針灸漢方医学校へ通った。もとより実在の私塾で、校長は周居応という中国人であった。 3.牧野の娘は、周蔵の長男緑との恋に破れて、他家へ嫁いだとのことであるから、思い出したくないのではないか。 4.牧野の代診をしていた遠藤与作は、遠藤繁清の縁者で、当時もとより実在した淀橋医院の薬剤師であった。 5.牧野は確かに以前は中村画伯の主治医で、事情があって遠藤繁清に代わった。従来の中村の評伝は、これに関しては不正確なようである。 6.額田の兄の妾のいた大森の置屋の女将(養母かも知れぬ)のことを「額田ノ母サン」と「救命院日誌」に記したのを、小林頼子が誤解したものである。 7.額田らを驚嘆させたのは、周蔵がウイーンから帰国した直後の、大正六年秋のことである。小林頼子は吉薗資料に「帰国シタバカリ」とあるのを、強引に大正十四年のことにしている。 8.ケルン大学云々と「救命院日誌」にあるのは事実であるが、これを理解するには「救命院日誌」の本質を知らねばならない。「救命院日誌」は、裏で本願寺の諜者をしている佐伯祐三のアリバイ(バックグラウンド)作り目的の日誌であった。その内容は、佐伯が、事実に基づいて創作したものである。ケルン大学の雑誌の条は、佐伯の作文性が行き過ぎた例である。
ブロガー補記:2010.12.28 誤字・脱字訂正しました。
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