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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(12)―1 ―台湾から満洲まで、政財軍を巻き込む「東亜煙草会社」の興亡 落合莞爾
★吉薗家伝承に登場する「東亜煙草」関係情報
平成11年の初夏、大手出版社の編集者が、作家Sを連れて紀州に私を訪ねたいと言ってきた。平成8年出版したSの著書で触れた東亜煙草会社と日本民族学会について真相を探りたく、未知の資料を求めて、吉薗周蔵の義妹・池田チヤを遠野に訪ねた。 しかし、チヤからは「落合を通じるように」と言われたらしい。両人来訪の直前、周蔵の娘・吉薗明子が、チヤから「Sに伝えよ」と命じられた内容をファクスしてきた。曰く「叔母は資料をまだ大分持っているが、叔母がいうに、この資料はまず落合さんに渡すべきものと考えている。落合さんは何年も前から周蔵に関心を持ち、それを書きたといわれたのでお渡しした。同じように書きたいという人が別にもう一人おられるという訳だが、それは順序として落合さんに断らなければならず、自分としては落合さんに、有る資料は、もし後で出て来てもすべてお渡ししますよ。貴方の好きなようになされて良いですよ、と約束している」ので、「落合さんからご自身でお借りしてほしい。落合さんにはご自由にしてほしいと申し上げたのだから、落合さんがどなたにお貸ししようと自由ですから・・・と言いなさい」とある。 チヤから一件を託された形の私は、知ることはすべて話す所存で応対したが、両人は短時間にして席を立った。発つ前にSが「周蔵さんは望月郁三という人と間係があったか、それを間いて下さい」と言うので、明子に尋ねると「一緒に東亜煙草の仕事をした人」とだけ返ってきた。
右(上)のファクスに次の文が続く。曰く 「昭和五十五年頃、水之江殿之という人が、東亜煙草のことで何か資料などお持ちでないか、と訪ねて来られたことがありますが、その折現在は兼松江商にいると言われたので、小佐野さんの関係だと思い、何も出してあげなかった、とファクスの中に加えなさいとのことでした」。
東亜煙草の元社員で、半生を捧げた煙草事業を通じて十四歳年上の周蔵と交誼があった水之江殿之は、自伝『東亜煙草社とともに』の著作を志し、周蔵の遺した資料を求めてチヤを訪ねたが、チヤは資料を渡さなかった。「現在兼松江商にいると関いて、小佐野さんの関係で来たと思ったから」と言う意味は分からないが、私はすぐに水産物輸入業者兼松通商を思い出した。証券界で一時評判になった仕手で、社主・佐々木秀美が小佐野賢治の養子と称していたが、平成十年二月に倒産した。総合商社兼松江商とは無関係と思っていたが、チヤの言からすると兼松江商、小佐野および佐々木の間には、実際何かの関係があったようだ。水之江の自伝『東亜煙草社とともに』は昭和五十七年五月七日に刊行されたが、当時の私はそれを知らない。
すると明子からまたファクスが入り、「叔母に東亜煙草のことを聞きましたら、発起人として、上原勇作の一族の一人で日高さんの母方の、安達という人が入っている。多分安達りゅう一郎というと思うとのこと」とある。東亜煙草の設立発起人は煙草業者に限られた筈で、日高尚剛の母方といえば薩摩人だろうから、安達は国分の煙草業者なのか。いずれにせよ、日高ないし安達が、明治三十九年の創業時から東亜煙草に関与していた証拠である。 ファクスの続きは「また、よく彦根の話の中に出てきた菅野(すがや)という人で、高島屋の仕事をしていたとか何とかという、訳のわからない話のことで(略)この人は周蔵が株を一緒に持った人物で、菅野盛太郎という人だそうです」とある。
以前明子から「周蔵と一緒に仕事をした人に、高島屋の社長か重役だった菅野盛太郎がいると聞き、学友が高島屋社員だったので歴代社長を調べて貰ったがその名は出てこず、訳の分からぬ話に終わった。その菅野に関する情報だが、文脈からして菅野は東亜煙草と無縁と感じた。しばらくして明子が「広瀬安太郎 住所△△△ 野村xxxx(社名と肩書き)」と書かれたファクスが来た。そのファクスの所在を見失った今は、住所の具体的地名、社名(野村生命保険?)と肩書(専務?)をここに記すことができないが、この広瀬も東亜煙草での周蔵の関係者ということである。こうして東亜煙草の関係情報が幾つか寄せられ、また『東亜煙草社とともに』の第三章以下しかない不完全なコピーも人手した。しかし本誌連載中の旧『吉薗周蔵の手記』を急いでいた私は、東亜煙草関係を後回しにして、、平成十八年暮に本誌連載を終えてやっと調査する気になり、そのコピーを取り出して見て驚いた。
第三章のタイトルが何と「菅野盛次郎社長時代」であった。ファクスの菅野盛太郎と菅野盛次郎は兄弟か、或いは同一人物を明子が聞き違えたのか。取りあえず同人物と見なすと、菅野盛次郎は、東京税務監督局長から大正六年に東亜煙草社長に就任、十一年まで在任した。察するに、天下り社長の菅野が体面上株を待つのに必要な資金を、周蔵が出したのだ。それだけでなく、コピーには私自身の字で、「藤田謙一は上原勇作の隠し玉」「荒木大将が上原の真似をして尻尾を出した」「最終的には周蔵が東亜煙草のオーナーだが、室原と望月を表に立てた」「株は越前松平の殿様の一族に預けた」などと、当時チヤから聞いたままを書き込んでいたのである。 |
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(12)―2 ―台湾から満洲まで、政財軍を巻き込む「東亜煙草会社」の興亡 落合莞爾
★初代日商会頭・藤田謙一と台湾基本政策の転変
水之江の『東亜煙草社とともに』他によって東亜煙草社史を要約すると、以下のようになる。 東亜煙草株を買い集めた鈴木商店は、大正二年十二月二十四日の東亜煙草株主総会で★藤田謙一を取締役に送り込む。『弘前商工会議所』編集発行の『藤田謙一』によれば、藤田は豊臣方の武将・明石掃部の末裔で、明治六(一八七三)年、弘前藩士・明石栄吉の次男として生まれ、藤田家に養子入りした。東奥義塾中退後、青森県属・給仕となったが、明治二十四年に辞職して上京し、明治法律専門学枚(現在の明治大学)に入学、創立者・熊野敬三(注:明治大のHPでは、創立者に熊野の名はない)書生となる。三十二年二月、栃木県属となった藤田は九月に大蔵省専売局属に転じ、煙草専売制度を担当し、この時、蔵相・曽根荒助の知人後藤勝造と相識る。折から日清戦後の財政増収を図るため葉煙草専売法を公布、栽培業者の猛反対を押し切って三十一年に施行した直後である。生産・製造・販売一貫の完全専売制の実施が迫る中、大小の製造業者が乱立して過当競争に陥っていた。業界トップの岩谷商会も経営危機に瀕しており、社主の岩谷松平は後藤が推薦した藤田に商会の一切を委ねた。三十四年六月に専売局を退職した藤田は、翌年支配人として岩谷商会に入り、会社組織に変更して専務理事となる。藤田が英米煙草トラストに対抗して国産品天狗煙草を売り込み大成功を収めたので、三十七年の専売制度の完全実施に際して、政府による岩谷商会の買収金額は巨額に上った。四十年、藤田はまたも後藤に招かれ、名古屋の豪商・小栗家の整理に当たることとなり、四十二年五月小栗系の東洋製塩の取締役に就任し、翌年台湾塩業と改称し、建て直しに成功した。藤田の前に小栗家の整理に手を出して失敗した鈴木商店の大番頭・金子直吉は、藤田の手腕を見込み、招いて参謀とし、関東所在の傘下会社を任せた。鈴木商店の関連事業本部長といったところである。鈴木商店は大正年間に急成長した企業集団で、その沿革は前月号で述べたが、金子直吉が台湾民政長官・後藤新平に協力し、 三十二年台湾産・樟脳油の六五%の販売権を得たことが発展のきっかけとなった。
台湾の樟脳、煙草、阿片に関する基本政策の起こりは二十八年四月一日、第二次伊藤内閣に置いた台湾事務局で、有名な阿片漸減政策はこの時、内務省衛生局長・後藤新平が建白し、軍医総監陸軍省医務局長・石黒忠 も支持したので、伊藤総裁(兼務)が採用を決定した。台湾事務局は二十九年四月一日付で新設の拓殖務省となり、初代大臣に高島鞆之助が就き、三十年九月まで、台湾政策の策定と総督府の監督に任じた。高島の立場でこの経緯を見ると、初代総督(二八年五月~二十年六月)の樺山資紀は高島の盟友で、高島のライヴァルで長州の寵児・桂太郎が二代総督になるが、四か月の腰掛けで実際には赴任しなかった。 三代総督(明治二十九年十月~三十一年二月)乃木希典も長州人だが大阪時代から高島に親暚し、媒酌も依頼した仲である。折しも二十九年四月から三十年九月まで台湾政策を総覧し総督府を監督した拓殖務大臣は高島自身なのだから、乃木総督が台湾産業政策について高島路線に忠実だったのは当然である。乃木の後任が児玉源太郎である。巷説は児玉総督と後藤民政長官のコンビを強調し、桂・乃木時代の台湾治績に、見るべきものはないと言うが、それは土匪跳梁を抑圧しきれなかったことで、 児玉時代に土匪が帰順した。 従来、巷説が言う台湾統治とは、治安問題と社会政策的観点から見た阿片漸禁政策に重きを置き、産業政策を軽視している。台湾専売制度は三十年に阿片、三十二年に樟脳・食塩について実施された。ゆえに鈴木商店が販売権を得たのは、児玉・後藤の時期であるが、その政策に専売制度の根幹を作った高島の意向が影響して当然である。
また★後藤新平が曲者で、桂・児玉の長州系に繋がると見えながら、岳父・安場保和の関係で玄洋社にも通じていた。黒田藩浪人の結社たる★玄洋社は、真相は薩摩のダミーで、この関係は黒田斎清の女婿になった島津重豪の九男斎溥が黒田家を継いだことから始まり、後年の上原元帥に至っては頭山や中野正剛を私兵として使っていた。後藤の右腕の中村是公(漱石の友人)が、上原元帥の嗣子・七之肋に息女を嫁がせていることも後藤の隠れた一面を物語る(ここまで書いて、折よくこの見解を裏付ける★資料に際会したから、次稿で詳述する)。 ともかく高島が陸相の座を追われた三十一年頃から、高島と組んだ吉薗ギンヅルが日高尚剛をダミーとして鈴木商店に深く関わり、鈴木を通じて東亜煙草との関係も深まったと見てよい。その利権は、高島(大正五年逝去)の遺産として上原勇作が引き継いだのである。 後に東京商工会議所の第五代会頭として日本商工会議所の創設に奔走し、初代会頭に就いた藤田謙一は後藤新平四天王の一人と呼ばれ、後藤内閣が実現していたら大蔵大臣になったと評される(『藤田謙一』)。 玄洋社の頭山満と親交があった藤田には後藤も一目置き、商人扱いを超えた交誼があったというが、藤田は★薩摩ワンワールドの密命を受けて杉山茂丸の役割を承継し、後藤や長州軍人間との間を周旋していたのだろう。孫文ら亡命要人を匿い、ユダヤ満洲共和国の建国計画に参画した藤田は、フリーメーソンの日本代表と噂されたが、当否はともかく、何時の頃にか日本ワンワールドの上席に就いたものであろう。 <続> |
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(12)―3 ―台湾から満洲まで、政財軍を巻き込む「東亜煙草会社」の興亡
★欧州大戦と安直戦争の波―高島=上原ラインの暗躍 話を元へ戻す。大正六(1917)年一月、東亜煙草は辞職する藤田謙一の後任取締役に鈴木系の長崎英造を選任した。同時に菅野盛次郎が社長に就任するが、周蔵は当時欧州探索中だから、東亜煙草株を菅野と共有したのはこの時でなく、大正八年の増資の際であろう。欧州大戦の影響で、満洲の経済界は好況に沸くが、英米煙草トラスト(BAT)の活動は朝鮮・満洲では消極的だったので、東亜煙草社の売上は急激に伸び、大正六年は前年同期比51%増にもなった。ロシア革命が起こり、翌七年八月のシベリア出兵も需要増加要因となり、上昇機運に乗じた東亜煙草は、上海のイタリア系オリエント煙草を買収し上海工場とした。八年の総会では長崎が取締役を辞め、後任に鈴木商店煙草部担当・岡田虎輔が就く。中華民国では日貨排斥が盛んになり、翌年の安直戦争で親英米の直隷派が親日政権の安徽派・段祺瑞に勝ったのを見て、BAT社は積極的姿勢に転じた。苦境に陥った東亜煙草は、十月には買収したばかりの上海工場を偽装運営することを余儀なくされ、翌年にはその名義を表面上外人に変更した。
『大阪毎日新聞』大正八年七月二十九日に増資の記事がある(概要は前月号にも述べた)。 「『東亜煙草開展』朝鮮煙草官営の結果、東亜煙草会社にては今回一千万円に増資する事となれるが、増資の内情に就いて聞くに、東亜の朝鮮における煙草製造販売権は本年限りを以て一切之を総督府に引継ぎ、進んで満洲・支那・シベリア・蒙古方面の煙草界に雄飛すべき目論見にて、奉天には支店及び製造所を設け、同時に吉林付近に一大煙草栽培業を経営せんため別に姉妹会社を建て、以て、英米トラスト等と対抗して其の勢に食い入るべく大計画を樹立するものの如く、既に総督府にては十分の了解を遂げおれりと伝えられ、総督府は東亜の進出と共にかつて韓国政府時代の約束に基づき、朝鮮内に於ける煙草の専売を愈々実行する 全鮮に亘る煙草製造会社或いは個人営工場二十八箇所を買収して、内地同様の制度を設けて煙草の製造・販売をなすべき計画の由なり」
この時の増資に際し、菅野が必要とした払い込み金を周蔵が立て替えたものか。東亜煙草は十年七月、鈴木商店と契約を交わし、同商店の海外販売力に期待するが、執拗な日貨排斥とBAT社の反攻により実績は上がらなかった。 同年、朝鮮に、いよいよ煙草専売制が実施され、最大の商圏を失う東亜煙草は朝鮮総督府に補償を要求する。東亜煙草は、朝鮮の煙草専売制に先行して、大小煙草業者を買収し、煙草事業の統一に努力したのに「専売制移行に対して総督府が引取る東亜煙草資産の評価と補償額が低過ぎる」と主張したのだが認められなかった。東亜煙草の経営危機が進むにつけて、鈴木色はますます強くなり、十一年五月二日の臨時株主総会では菅野社長を含む取締役全員が辞職し、補欠選挙で新取締役七人(鈴木系六人)、監査役三人(鈴水系二人。菅野は大蔵省出身ながら天下りの当初から上原勇作の隷下にあったことは間違いない。八年の増資に際して払込金を周蔵に仰いだのも、上原(その裏はギンヅル)の差し全で、周蔵は親方の命令に従っただけである。
東亜煙草の経営危機は更に進み、十一年の総会で菅野は辞職、取締役会は互選で新社長に南新吾、新専務に岡田虎補を選任するが、これは創立以来の「専務は専売局が推薦する専売局出身者に限る」という慣例を破るもので、「国益を担って国際市場でBAT社と戦っている国策会社の専務に鈴木商店子会社の社長が兼任するのはいかがなものか」と世間の批判を浴びたが、十四年に岡田専務が辞任して専売局出身の石原専務に代わったことで改善された。新社長・南新吾は元台湾銀行理事で、台湾銀行以来、南の側近たる松平慶猷(敬猷とも記す)も東亜煙草に入る。この松平こそ、チヤのいう★「越前松平の殿様の一族」と思われる。昭和金融恐慌の根源として日本近代史を揺るがせた★台湾銀行と鈴木商店の深い関係は、前者の実質的創業者が杉山茂丸、後者の実質的指導者が高島鞆之助→上原勇作と知れば、由来を容易に理解できるだろう。薩摩ワンワールド配下の台湾経済人から南と松平を選び、東亜煙草に入れたのは、上原勇作による人事であろう。ことほど左様に鈴木商店・東亜煙草は★高島鞆之助の遺産で、陰で上原勇作が牛耳っていたのである。
南社長の就任後も東亜煙草の経営難は続いた。朝鮮総督府に補償を請願するが捗らず、専売局からの支援もゴールデンバットの製造受託だけに止まり、活路を求めて昭和二年に競合会社の亜細亜煙草を合併した。昭和五年不況の進行で煙草需要も低迷して経営が困難を増す最中、南社長が急逝し(自殺とされる)、代わって大蔵省出身で鈴木商店幹部の金光傭男が社長となる。金光も大蔵省でなく、実質的に鈴木商店からの派遣で、背後にはやはり上原勇作がいた。 翌昭和六(1931)年、満洲事変(「9.18事変」)が勃発するや満洲の紙巻煙草需要は激増し、、東亜煙草の業容は一転して拡大気運となった。昭和十二年七月の支那事変(7・7盧溝橋)で華北の需要も増加したので、東亜煙草は同年11月の臨時株主総会で、関係会社として満洲東亜煙草・華北東亜煙草を新設する。前者の取締役の中に松平慶猷の名を見て、チヤの言「周蔵さんの株を越前松平の殿様の一族の人に預けた」を想起する。 松平は南の自殺後も東亜煙草に残り、十二年に満洲東亜煙草設立の際、役員になったのだ。八年に死去した上原の東亜煙草に関する権力は荒木貞夫が受け継ぎ、周蔵はその配下となる。関連会社設立を決めたのも荒木→周蔵のラインで、チヤの右の言は、満洲東亜煙草新設に際して、周蔵が自分の出資分の名義を新役員松平慶猷にしたことを意味するのではなかろうか。
<続> |
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>●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(12)―4 |
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(12)―4 ―台湾から満洲まで、政財軍を巻き込む「東亜煙草会社」の興亡
★「雨蛙が大蛇を呑んだ」 満洲煙草へ突然の身売り
金光社長の経営下にあった東亜煙草は昭和十四年、突然身売りする。満洲煙草社、すなわち昭和九年十二月設立の満洲煙草股扮有限公司(社長:長谷川太郎吉)であった。同社設立にあたり資金援助した大和銀行から広瀬安太郎が取締役に入り、十年に新京に小さい工場を建てて操業を始めたが東亜煙草とは比較にならぬ規模であった。ところが金光康夫は十四年八月、拓務相就任を機に所有の東亜煙草株全部を長谷川太郎吉に譲渡し、旧役員も全員辞職、新役員には長谷川新社長系の人々が、就任し、株主の大和銀行からも広瀬が取締役に入った。「雨蛙が大蛇を呑んだ」と言われたこの買収劇は東亜煙草の社員一同にとって青天の霹靂で、青島工場長水之江は独新で上京し、専売局出身の金光秀文専務に真相を質したが要を得ず、金光社長にも聞くも同様だったこの満洲こそ、大正九年の大連で周蔵が三万円を出資してスタートした「満州煙草裁商店」の後身と推断するが、いかがであろう。野村合名傘下の大和銀行から出向した広瀬が、前述ファクスの広瀬安太郎であることは間違いない。「設立に当たって大和銀行がした資金援助」とは、大和銀行が周蔵資金を自行名義に仮装して株金を払い込んだので、役員として出向した広瀬はダミーであった。要するに、大正年設立当初から周蔵の所有であった満洲煙草社の実質的創業はずっと古く、大正九年に周蔵の三万円を元金として大連で開業したが、法人化せず個人企業「満洲煙草商店」と称し、室原重成を営業責任者としてケシ煙草を販売してきたものであろう。『東亜煙草とともに』の第四章で、同社営業幹部の名を掲げ「これらの人々は東亜煙草社が苦難に耐えて地盤の維持に獣身の努力を続けてきた販売の老練家である」とする中に奉天駐在所長・室原重盛の名がある。この室原重盛は重盛の別名か、それとも家族か、とにかく室原一家を挙げて、社の内外から東亜煙草に関係していたのである。
この年、専売局は東亜煙草に対する特許の認可を廃止した。これについては、辞めていった水之江も「明治三十九年、東亜煙草社が国策会社として創立され、昭和十四年に至るまでの長い間、連綿として継承してきた専売局交付の許認可事項が確たる説明もなく水泡のように消えたことは全く理解に苦しむことであった」と嘆く。これについて、Sは前述の著書で次のように述べる。 「元東亜煙草青島工場長の水之江殿之にインタビューした記事のなかに、この事件の背景についてふれられた箇所がある。『・・・推測しうることは、日中戦争という戦時下で、軍部が占領地政策推進の一環として、たばこの財政収入および生活必需物資としての重要性に鑑み、東亜煙草を専売局の監督から軍の管理統制下に組み入れようとしたところに重大な鍵が隠されているのではなかろうか』この事件の真相をおそらく知っていたであろう水之江も、『あの身売りには深い事情があった。しかし、いまだそれを明かすべきではない』というだけで、とうとう死ぬまで、この事件の真相を明かすことはなかった」
右の水之江のインタビュー記事は、昭和五十五年に『たばこ日本』に掲載されたものである。自伝では「理解に苦しむ」と嘆いた水之江は、インタビューでは「深い事情があったが、いまだ明かすべきではない」と述べている。後者が本音で、★深い事情とはケシ煙草の関係である。東亜煙草の身売りの真相は、専売局が東亜煙草に対する特許・監督権を解消する外見を装い、実は大蔵省の課税権を外すことで陸軍の外郭として経営の自由を保障したもので、一年前から準備し、実行にこぎつけたのは★某皇族の計らいであった。以後東亜煙草社は破天荒な利益を上げたが、軍部の後押しのため税務当局を怖がる必要もなく、決算報告は単なる作り物だった。経緯は後稿に回すが渋沢敬三と親しくなった周蔵は、東亜煙草の膨大な利益を渋沢の関わる民族学研究所に注ぎ込むが、周蔵は表面に出ず、望月郁三を介して行った。 Sが著書のなかで怪人物としてしきりに強調する望月は、チヤの話では「甘粕正彦さんの乾分(こぶん)で、東亜煙草のオーナーとなった周蔵さんが、宮原とともに東亜煙草の表側に出した人物」という。Sの著書に、民俗学研究所設立者の一人岡正雄(あの柳田の言を書名にした『本屋風情』の著者、岡書店店主*ブロガー註)が渋沢敬三の思い出を回顧するくだりがあり、「望月君という後で民族学協会の理事になったが、しまいには非常なでたらめをやっていっちゃったけれども、これが東亜煙草から金を出してもらって財団(落合註:民族学協会)の資金を作った」と証言したと記す。これが期せずして周蔵が東亜煙草に関与したことの傍証をなしている。
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(12) <完>。
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