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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(11)ー(1) |
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(11) ―― 薩摩ワンワールドの特殊権力を継承した上原勇作
★周蔵も製糖王・藤山雷太も“大畑者”上原の」配下 吉薗周蔵は日頃、「上原元帥は横浜と鈴木商店に関わっていた。藤山雷太を大日本精糖の社長にしたのも上原閣下である」と語っていた。明治32(1899)年、鈴木商店 は台湾樟脳の販売権を獲得し、飛躍の切っ掛けを掴む。鈴木商店は世間的には未亡人ヨネを主人と仰ぎながら、この頃から実質的に高島鞆之助と日高尚剛の隷下に入ったのであろう。 弘化元(1844)年生まれの高島は明治31年1月12日、54歳を以て陸軍大臣を辞し予備役に編入明治45年4月の退役まで陸軍には関与しなかった。高島は予備役に方向を転じ、明治32年枢密顧問官に就任、大正5年1月11日の他界までの18年間その地位にあったが、その間砂糖、煙草、阿片、国際金融などの分野で隠れた権力を振るったものと思う。高島の特殊権力は薩摩ワンワールドの首脳吉井友実・松方正義が築いたものである。大正5年に高島が逝去するや上原が譲り受け、さらに昭和8年に上原の他界によって、荒木貞夫にその一部が移ったものらしい。 周蔵と藤山雷太との関係については、『周蔵手記・本紀』大正8年10月30日条には周蔵が若松事務所で藤山を紹介され、食事に招かれたと記す。若松安太郎は、青森県下北郡大畑港の回船屋六代目堺屋甚兵衛の長男で本名、堺誠太郎、後に七代目甚兵衛を襲名した。その長男が日本文芸協会事務局長を務めた堺誠一郎で、八代目甚兵衛を継いだ。通名・甚兵衛の由来は、芭蕉の『奥の細道』にも「庄司が館は云々」として出てくる信夫庄司・佐藤甚兵衛基治にある。基治は藤原秀衡の参謀で、その子継信、忠信の兄弟が源義経に仕えたことは有名である。甚兵衛を通名とする旧家は全国に数十家存在し、概して山林地主で、紀州串本の矢倉甚兵衛、千葉成田の石川甚兵衛、福島須賀川の石井甚兵衛、秩父の大館甚兵衛、木曽の山村甚兵衛などみなこれである。元首相佐藤栄作家が基治の正統を称するが、右(*上)の石川家や石井家の近親にも佐藤姓が存在するから、各地の甚兵衛は本来みな佐藤姓なのであろう。
海人の堺屋は海軍と関係が深かったが、六代目甚兵衛の弟・忠次郎は函館を本拠に北海道開発事業に専心し、開拓使の陸軍中将・黒田清隆、同永山武四郎に仕えた。陸軍と海軍は明治中期頃から出入りの者を峻別し、一人が両方に仕えることができなくなったので、忠次郎は海民を表す堺姓から若松に変え、今も函館市若松町としてその名を留めている。日露戦争の際、堺屋は陸軍とも関係が生じた。六代目長男誠太郎は上原勇作の諜者として働く時、叔父・忠次郎の長男になりすまし、若松安太郎と称した。表看板は長崎の水産業者島田商会の支配人で、その際には本名を名乗ったので、『大畑町史』には堺誠太郎の名で出てくる。周蔵は上原の部下として、大正3年から安太郎の後見下に置かれていたので、昭和に入るまで右の事実を知らず、ひたすら若松を本名と信じていた。ゆえに、手記の記載は生涯「若松安太郎氏」で通している。安太郎の弟を装い、若松安次郎と称したのは、屯田兵司令官男爵・永山武四郎中将の子息である。
ところが『周蔵手記』別紙記載の『敗戦カラノ記』にも、大正14年頃、平野勇造から藤山・中上川を紹介されたと記す。前に述べたように、日本一の建築家といわれた平野は、三井物産社長・益田孝の孫婿で、曽祖父が大畑港の回船屋「カド枡堺屋」の三代目伊兵衛である。堺屋甚兵衛とは別の家系だが、元は摂津和泉をまたぐ堺tから出た同族である。三代目伊兵衛の弟が三国屋を称し、その子(あるいは孫)が堺常五郎、その次男庄太郎が徴兵逃れのために分家した時、先祖の姓池田を称した。先祖の 池田亀麿は『菅江真澄遊覧記』に出てくる文人である。つまり、平野は二代目堺屋伊兵衛の四代孫で、池田庄太郎が同じく三、四代の孫だから、二人は七~八親等の血族であった。庄太郎の妻コトは若松忠次郎の姪で、安太郎には実のいとこにあたる。 庄太郎は大畑町で地方百貨店を営んだが、縁戚の安太郎と共同で時計や輸入雑貨の商売を行い、一糖に渡欧して、イギリスに滞在した。平野と池田と安太郎の三人は右のような親戚の関係で、極めて親しかった。 安太郎が東京築地の若松事務所で、製糖王・藤山雷太を周蔵に紹介したのは大正6年10月である。前年、血液型分離法の探索のためウィーン大学医学部ランドシュタイナー教室に潜入した周蔵は、6年6月に帰国した後、アヘン研究とその隠れ蓑として糖神カウンセラーの開設を上原大将に献策し、許可を得た。その秋は独立開業の時期で周蔵はいろんな人物に会う。偶然会った相手もいれば、上原の指令で引き合わされた相手も多かった。藤山雷太の紹介は多分上原の指令で、、周蔵にケシ研究を命じた関連で、配下の製糖王・藤山を紹介させたものと思う。藤山が初対面の周蔵を食事に招待したのも上原の配慮であろう。 8年後の大正14年ころ平野が周蔵に紹介した「藤山」なる人物は、息子の愛一郎(当時二十八歳)ではなく、親の雷太(当時63歳)と思える。平野の場合は縁者として周蔵を紹介したのだろうが、周蔵はあれ以来藤山と接触しておらず、改めての紹介となったわけだが、紹介者は両度とも大畑港の出身で、上原と大畑者との間は若松父子を介して極めて近かったから、結局は同じ意味になろう。 *************
★日本の金融王・松方正義、玄洋社・杉山茂丸の暗躍 へ<続>。
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●吉薗周蔵の手記11-(2)
★日本の金融王・松方正義、玄洋社・杉山茂丸の暗躍
枢密顧問官・高島鞆之助の裏には、上原勇作の叔母で周蔵の祖母にあたる吉薗ギンヅルがいた。上原が台湾の砂糖・樟脳政策に関して有した特殊な権力は、高島の遺産を引き継いだものだが、ギンヅルが甥の勇作に残したものともいえる。横浜正金銀行に関しても、上原は同様な権力を持っていたと伝わる。上原の大森鹿島谷の私邸と上総一ノ宮の別荘には、旧一宮領主加納久宜子爵が絡んでいるように思うが、その御曹司・加納久朗が横浜正金の取締役となったことにも、上原の影がちらつく。『周蔵手記』には、世界大戦の戦雲迫る中でフランスヘ帰る藤田嗣治と薩摩治郎ハが必要とした為替を、周蔵が荒木大将に頼んで手当てしてやったことを記す。昭和8年死去するに当たり、上原は荒木貞夫を後継者とした。日本の金融制度を創った松方正義は、世界金融皇帝・ロスチャイルドの分身として、日本金融王であった。安田善次郎のごとき金貸しでなく、第一銀行創立者の渋沢栄一や、明治財政・産業支配人井上馨でもなく、日銀の民営化と金本位制の創設に関わった松方正義こそ、日本金融王なのである。松方が培った国際金融権力は高島経由で上原が受け継ぎ、荒木に移ったわけだ。
国際金融には謎が多いが、杉山茂丸が関係したことは確かである。玄洋社の客将で生涯無冠の浪人だった杉山が明治30年に渡米してアメリカの工業事情を視察し、翌年再び渡米して米国金融王J・P・モルガンと単独面会し、借款を取り決めて銀行設立を討議した。それがいかなる地歩に立ったものか明快に説く史家はいない。ウイキペディアには、「杉山の興業銀行設立運動は、伊藤博文と井上馨の支持を得たが議会の混乱のためになかなか通過せず、明治33年になり日本興業銀行法は成立したが、モルガンからの外資導入は貴族院に否決された。同31年(1898)に第四代台湾総督に陸軍大将児玉源太郎が就任し、民政長官に後藤新平を就けると、杉山は両人に対して製糖業の振興による台湾経済の確立を献策し、自ら製糖会社の設立に携わった。また台湾銀行の創設や台湾縦断鉄道の建設にも関与したといわれる」との解説がある。 要するに、経済問題では伊藤・井上、台湾軍政では児玉と、何でもかんでも長州閥を持ち出さねば世間は納得しないが、その実は、先ず軌道を敷いた薩摩人が故意に表面から隠れ、あて馬に長州閥を持ってきたものと思える。ともかく杉山が台湾銀行の創立に深く関与したのは事実で、帝大法学部同期の平岡定太郎が樺太庁長官の時、その下で第一部長に甘んじていた中川小十郎を抜擢し、台湾銀行副総裁に据えたのも杉山である。杉山は、台湾砂糖政策や台湾銀行の設立、台湾縦断鉄道の敷設などに関して、児玉のみならず背後の伊藤・井上らの長州閥を工作していたわけで、その使命は、拓殖務相・高島鞆之助と台湾総督樺山資紀とが建てた台湾基本政策を、児玉・後藤に踏襲せしめることにあったと思われる。砂糖・樟脳などは第一薩摩藩の薬籠中の物資で、長州人が関与すべくもない。杉山が籍を置いた玄洋社自体、表面は旧黒田藩士の結社と見せながら、実は薩摩ワンワールド首脳の指導下にあり、その背後には謎の貴公子・堀川辰吉郎が見え隠れする。上原勇作が後年玄洋社を私的機関のごとく使いこなしたのも、吉井・松方に始まり高島・樺山が受け継いだ薩摩ワンワールドの特殊権力を引き継いだからであろう。尤も両者の関係は注意深く隠され、史家はこれに気づいていない。上原の政治的ライヴァル後藤新平も不思議な人物である。俗流史観は児玉と後藤の関係を濃厚な癒着の如く修飾するが、果たしてその通りならば後藤を帰化長州人と呼ぶもおかしくはないが、真相はどうか。後藤の岳父安場保和は、明治19年福岡県令となるや、県下の鉱区権を悉く玄洋社に与え、玄洋社はそれを炭坑主に売却して活動費とした。年来安場の恩を受け女婿にもなった後藤が、安場が財政面で育てた玄洋社を拠り所としたことを示唆する巷間の噂に、 ①後藤は満鉄総裁として自由に行動する目的で児玉を暗殺した、 ②後藤は玄洋社員を使唆して原敬を暗殺せしめた・・・というものがある。 |
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●吉薗周蔵の手記・11-(3)
★満洲の需要を外国資本から守るべく「東亜煙草」設立
鈴木商店のついでに東亜煙草について述べるのは、「東亜煙草は上原閣下が作り、最終的には周蔵がオーナーになった」と吉薗家に伝わるからである。その前に日本の煙草専売史を要約すると、専売制以前の煙草産業を支えたのは大小さまざまな煙草業者で、大手では天狗煙草の岩谷商会(薩摩川内市出身の岩谷松平)と、そのライヴァルでアメリカ・タバコと提携した村井兄弟商会(村井吉兵衛)が知られ、関西にはダルマ堂があった。政府は明治30年に葉煙草専売法を公布、翌年施行し、36年になると「煙草専売制度理由及施行順序」を公表し、翌年には猛反対を押し切って煙草専売法を施行した。日露戦の軍費に充てるためである。38年には台湾にも煙草専売法を施行し、 専売局が製造・販売を行い、民業は輸出業務だけとなった。
東亜煙草株式会社は、官煙の輪出・移出の特許に加え樺太全土の独占販売権を専売局から与えられた国策会社で、明治39年10月に創立、社長に佐々熊太郎が就任した。前年の日露戦争で日本の勢力圏となった満洲の煙草需要は大きかったが、BAT(英米煙草トラスト社)が前年に奉天工場を建設したことで内外業者による競争激化が予想された。専売局は、外国資本に対抗させるため、民製時代からの内地製煙草輸出業者を糾合して東亜煙草会社を設立せしめ、42年、同社に『朝日』『敷島』『ゴールデンバット』その他の官煙の製造を許可することとした。大正3年(1914)8月1日付の『京城日報』は「東亜煙草は朝鮮では巻煙草製造も行い、ソウルの製造所は建築広壮・設備完全で、職工3千人がいて、口つき両切り合計で日産5百万本を下らない。満洲でも各地に販売所を置き、英米煙草トラスト(BAT社)との角逐に備える」と報じている。
明治39年、第四軍参謀長・上原少将は1月17日を以て満洲から凱旋、2月6日付で本官の陸軍工兵監に復し、4月1日には軍功により功二級金鵄勲章と年金千円を賜わり、6月20日付で陸軍軍制調査委員を命ぜられ、7月6日付で陸軍中将に進級し、翌年の8月から第二師団ほか数個の師団の特命検閲使属員として地方に出張する。後に軍政家として知られた上原も軍令系統にいて専売局管轄の国策会社の設立に関与する機会はありえない。つまり、「上原が東亜煙草を作った」とは創立でなく「育成した」意味と解するほかはない。
★東亜煙草社長室に飾られていた佐伯祐三の代表作 へ<続>。 |
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●吉薗周蔵の手記11-(4) |
●吉薗周蔵の手記11-(4)
★東亜煙草社長室に飾られていた佐伯祐三の代表作

本稿の前身は平成8年から本誌に掲載された『陸軍特務吉薗周蔵の手記』で、タイトルの通り『周蔵手記』を解読・解説したものである。平成8年の4月号の第1回以来、ひたすら手記の解読を続け、成果は本誌に毎月掲載してきた。周蔵が上原元帥の命を受けて大連・奉天に出張した大正元年5月条の解説はその第34回で、平成11年1月号に掲載された。解読の対象は『周蔵手記』別紙記載の『私文・張作霖氏の美術品を写したる釈明』で、出だしは次のように始まる。「五月六日に家を発ち大連に来たるは、上原閣下の自分に対する親心のやふなものと心得ている。満洲東亜煙草なる会社の設立の権利を、自分にも分けて下さる手筈のための目的であった。大連にて室原重成と会ひ、すべてやっつけて来るやふにと言はれていたが、会ってみると室原さんは自分の先輩であった・・(中略)・・持参なる三万円を渡し、自分も一人前に東亜煙草なる会社の権利者となる・・」。
右(上)の文から、上原が東亜煙草および満洲東亜煙草なる会社に関与したことは疑いないが、それ以外に手掛かりもなく、第34回は結局『私文』を字義通りに解釈した内容に終わった。ところがその後の調べで、東亜煙草が同年に新会社を設立した事実はないと分かった。つまり満洲煙草は実在したが、東亜煙草が明治11年に設立した子会社であって、大正9年の周蔵の大連行とはまず関係がない。周蔵の義妹池田チヤ(明治41年生)に確かめると、周蔵が関与したのは商号「満洲煙草商店」とのことで、株式会社かどうかも疑わしい。結局、大正9年に東亜煙草の満洲進出計画はあったが、法人化はしなかったらしい。後日、城山三郎の著『鼠』を読み、「鈴木子会社整理方針大綱」が示す関係会社49社の表の中に、「関係密接だが支配株のないもの」として東亜煙草の社名を見つけた。チヤも、東亜煙草の社長室に佐伯祐三の『郵便配達夫』を飾っていたことを思い出してくれた。それは昭和3年、早春のパリで祐三が独力で仕上げた油彩で、佐伯の死後吉薗家に届いた絵の一つである。その絵は、寄贈者の周蔵が東亜煙草に深く関係した証拠となる。高島鞆之助とギンヅルが、日高をダミーーとして間接操縦した鈴木商店は、東亜煙草に対する権利を有していた。それが後年、周蔵に渡ったのである。周蔵が「上原閣下の資本家」と評した日高は、実妹に三軒茶屋に家を持たせ、独身時代の勇作にあてがった。日高妹は勇作の監視役が任務で、勇作の正妻は野津道貫の長女槙子の成長待ちと決まっていたから、入籍はしなかった。高島の姪でもある野津槙子と勇作の縁組は素より、勇作に日高妹をあてがったのも高島がギンヅルの依頼で果たしたもので、日高尚剛はなぜかギンヅルに頭が上がらず、ギンヅルの言うなりにダミーを務めたと『周蔵手記』は記している。 *なお、中ほどの佐伯・「郵便配達夫」の写真は、ブロガー手許の書籍 からの撮影で見づらいでしょうが、不悪。
★周蔵の「満洲煙草商店」はケシ栽培を扱う闇業者? へ<続>。
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●吉薗周蔵の手記 11-(5) |
●吉薗周蔵の手記 11-(5)
★周蔵の「満洲煙草商店」は、ケシ煙草を扱う闇業者?
さて大正9年5月、上原閣下の親心により、周蔵が大連で設立に参加した「満洲煙草商店」とは何だったか。仮称の段階で社名を「満洲東亜煙草」と称したので、東亜煙草の関連会社であることは確かである。『大阪毎日新聞』大正8年7月29日号によれば、朝鮮総督府の煙草専売制は韓国政府時代からの約束で、東亜煙草は本年を以て朝鮮における煙草製造販売権の一切を総督府に引継ぎ、今後は満洲・支那・シベリア・蒙古方面に雄飛する計画の下に「奉天に支店と製造所」「吉林付近で煙草栽培」のため姉妹会社を設立する予定とある。しかし、旧社員の回想録『東亜煙草社とともに』の年譜を見ても、大正8、9年には該当する動きがない。8年には、上海に本社を置き揚子江以南の東南アジア地域を活動地盤とする亜細亜煙草株式会社が創立されたが、同社は揚子江以北を東亜煙草、以南を亜細亜煙草に任せる専売局の二分案に基づく東亜煙草の対抗者だから、まず関係はあるまい。
東亜煙草の姉妹会社設立計画との関連すらはっきりしない「満洲煙草商店」だが、単なる煙草販売業ではないと思う。理由は、周蔵が常日頃、普通煙草を★「愚者の麻薬」として嘲笑していたからである。上原の指図で、煙草小売商・小山建一と名前を交換し、久原鉱業社内の煙草売店の売上金を小山名義で受け取ったが、これは久原房之助に売った★アヘン代金のロンダリングに過ぎない。つまり、満洲煙草商店とは、普通煙草業でなくケシ煙草業ではなかったか。 ケシ煙草は、アヘン採取後のケシのガラを細かく刻んで混ぜたもので、愛好者が多く利益率が高いから民業時代は多くの業者が関わり、その是非を巡って関係者の間で当時争いがあった。国内では非合法化のケシ煙草も、満洲など外地では製造販売が自由だったから、朝鮮で専売制実施のため満蒙への転進を余儀なくされた東亜煙草は、上原参謀総長の示唆により、ケシ煙草を扱う「満洲(東亜)煙草(会社)」の設立を一旦計画した。しかし、国際的にも微妙な問題があり、結局法人化を見送り、東亜煙草と無関係の闇業者「満洲煙草商店」を創立したものと思う。その経営者を室原重成と決めたのは上原である。周蔵が「自分の先輩である」と記した室原については、後日検討したい。
*吉薗周蔵の手記 (11) <完>。 ←左のリンク先から★<佐伯祐三調査報告>(落合莞爾)を クリックして、是非定期的にチェックしてください。
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