吉薗周蔵手記(10)
更新日/2021(平成31→5.1日より栄和改元/栄和3).2.1日
(れんだいこのショートメッセージ)
2005.4.3日、2009.5.27日再編集 れんだいこ拝
【
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(10)
】
落合論文(10)1
上原勇作応援団の華麗なる面々とその運命 落合莞爾
★忘れられた大物 伯爵・吉井友実
明治四年十二月、単身上京した上原(当時は龍岡姓)勇作は、野津道貫邸に下宿しながら南校へ通った。
東京大学の前身である南校は、★宣教師・フルベッキが教頭として実質的に運営しており、陸海軍の士官養成学校と並ぶ、★ワンワールド高級人材の養成機関であった。
勇作の学業資金を供給していたのは吉薗ギンヅルで、宮崎県西諸県郡小林村の吉薗家に常住し、周蔵によれば「村で今の保健婦のような」仕事をしていたが、裏では鹿児島市山下町に住む実業家日高尚剛を看板にして、自家薬の製造・販売事業を展開していた。
男を表面に立てながら裏面で操縦するのは島津家の側室お山羅、徳川家定の御台所天璋院篤姫、さらには島津家から各豪家に嫁いだ貴婦人の面々に共通する、★島津女の在り方と評される。
学業資金といっても学資や生活費だけでなく、ギンヅルは上原応援団の銘々にも献金した。団長格の高鳥鞆之助(一八八四生)は長閥の桂太郎(一八四七生)に匹敵する薩閥の寵児であった。桂に木戸・山県の引きがあったのと同様、高島は薩摩三傑の贔屓を受け、西郷・大久保の亡き後は、生き残った吉井友実(一八二八生)に加え松方正養(一八三五生)の支援を受けた。
世に西郷・大久保・木戸を維新の三傑と称えるが、島津図に限れば西郷・大久保・吉井を島津三傑と謂う。今は忘れられた吉井ほそれほどの傑物で、仮に維新の四傑を選べば、四人目は吉井か長州の広沢兵助になる。
維新政府の軍務局判事となった吉井は、明治四年から宮内省に移り、ひたすら宮中政革に取り組み、時に侍講となって天皇親政への動きにも関係した。十二年から三年間、工部大輔と日本鉄道社長に就いたほかほほとんど世間に姿を表さなかったのは、宮中で明治王朝の基礎固めに腐心していたからである。
日本鉄道社長桂は唐突の感があるが、財政難から華族資金に頼らざるを得ない鉄道事業の重責を担える者が他に居なかったからで、加えて日本の鉄道整備を急ぐワンワールドの強い要請を受けたこともあろう。
伯爵に叙された程の吉井だが、職位は次宮・局長級に過ぎず、一度も参議・卿・大臣に就かなかった。これは新時代に適合しなかったのではなく、世の注目を避けるために本人が望んだものと思われる。
高島が吉井の次男友武を長女多嘉の婿養子とし、高島子爵家を継がせたことに両人の深い関係が窺われる。吉井と並んで高島を応援した松方正義は、吉井の上を行く傑物で二度首相になり、財政畑に君臨した。松方デフレを敢行し、日銀を創設し、金本位制を確立した業績は、すべて金融皇帝ロスチャイルドの意を受けたもので、★松方がワンワールドに属したことほぼ疑う余地がない。財政家松方と武官高島との深い関係は、地縁・血縁に始まりワンワールド内部で強化されたものだろう。蓋し、★宗教・金融と軍事がワンワールドの三大部門である。
高島を脇から支えた二人の副団長が野津道貫(一八四一生)と樺山資紀(一八三七生)である。高島の義弟(妹婿)に当たる野津の長女槙子(一八七三生)を上原は娶る。つまり上原の正室は野津の長女にして高島の姪でもあり、三家は縁戚として固く結ばれた。野津は生来の武弁で、政治性に欠けたが日清・日露の功績で大勲位、元帥、侯爵に昇り、軍人の栄位を極めた。樺山資紀は陸軍から警視総監を経て海軍に転じ、海相・軍令部長から初代台湾総督になり、高島副総督に助けられた後、一転して高島拓殖務相の監督を受ける立場になる。活動分野を陸と海に分けたこの二人が、陰に陽に相互扶助したのは、★「陸軍と海軍は人的に隔絶する」人事原則を逸脱した希有な事例である。(続)
落合論文(10)2
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記
★上原応援団「第二世代」 ワンワールドの逸材たち
上原応援団の第二世代も上原勇作(一八五六生)と関係が深い。上原より一歳年長が吉井の長男・幸蔵(一八五五生)で、これが第二世代の頭と覚しい。男性は吉井の次男で高島の養嗣子・友武(一八六七生)、その義弟に当たる高島の次女球磨子の夫樺山資英(一八六八生)、樺山資紀の長・男愛輔(一八六五生)が並ぶ。女性では、野津道貰の長女で上原の妻・槙子(一八七三生)、高島の長女で友武の妻・多嘉(一八七三生)、高島の次女で資英の妻・球磨子(一八八一生)、以上が第ニ世代の主たる処だが男女別に互いの年齢が極めて接近しており、意思疎通が極めて円滑だったと想像される。
直系子女ではないがこれに準ずる樺出資英は、薩摩藩士で各所の知事を歴任した樺山資雄の次男である。姓名からして資紀と同族と分かるが、資紀自身は橋口家からの養子である。資英の実兄の阿多壮五郎は戊辰役で戦功あり、明治四年将兵創設に応じて上京、初任陸軍大尉。征韓論の破裂に際しては西郷に従って薩摩に帰り、西南役で奮戦死したが、今日まで伝わるその勇壮さから、西南役に巻き込まれていなかったら軍人として出世し、男爵くらいにはなったと思う。父の樺出資雄は、内務省にいたため西南役に巻き込まれずに済み、当時少年だった資英も西南役を免れて、明治二十一(一八八八)年に渡米、コロンビア大学からエ-ル大学に移り法学士、同大学院で法学修士と法学博士の学位を得た。この経歴で●資英がワンワールドの逸材ということは分かるが、学費は誰が支弁したのか不思議である。明治二十六年に帰朝した資英は、二十八年五月に台湾総督府が設置されるや陸軍省雇員・大本営付通訳官、更に台湾総督府参事官となるが、樺山総督の特命であろう。明治二十九年四月、拓殖務省が新設されるや同省に転じた資英は、大臣秘書官兼・官房秘書課長として初代大臣の高島に仕え、高島の次女・球磨子(一八八一生)を娶り、高島友武(旧吉井)と義兄弟となった。三十年八月、行政整理のために柘殖務省が廃止されるや、資英は第二次松方内閣の首相秘書官に転じるが、
★吉井・高島・樺山の閨閥は金融ワンワールドの日本総帥たる松方正義とも近かった。
明治三十一年一月、第三次伊藤内閣が成立するや辞官した資英は、六月の大隈内閣には仕官せず、十一月の第二次山県内閣で樺山資紀が文部大臣に就くのを待って大臣秘書官となる。三十三年十月の第四次伊藤内閣の成立により辞官した資英の、その後の十数年は未詳だが、大正三年から五年間を満鉄理事として過ごした後、大正十二年の山本権兵衛内閣で内閣書記長に挙げられた。以後、大正十三年から昭和十六年の逝去時まで十七年にわたり貴族院議員を勤めた。授爵にはいたらなかったが相当の大物である。その余の第二世代の人物については、後で述べよう。(続)
落合論文(10)3
●陸相時代の高島鞆之助とその後の「伸び悩み」の謎
明治十三年三月、一年にわたる仏独視察から帰国した陸軍少将高島鞆之助は、四月に熊本鎮台司令官に就き、翌年二月に大阪鎮台司令官に転じた。次いで西部監軍部長心得を経て、十六(一八八三)年二月に四十歳を以て中将に進級、西武監軍部長となった。以後は十八年九月に大阪鎮台司令官、二十一年五月に第四師団長となる。つまり明治二十四(一八九一)年に陸軍大臣に就くまでの十年間、ずっと大阪に駐在し、関西在住の陸軍トップとして諸般の事業に携わった。なかでも大阪鎮台指令官時代の二十一年四月、陸軍軍人の社交団体たる財団法人大阪偕行社に附属小学校を創設したことはよく知られている。現在追手門学院に発展した大阪偕行社附属小学校は、薩摩の郷中教育を建学の精神とし、さらに高島が外遊中に覚った外国語教育の必要性から、英語教育を行い国際感覚の研磨を目指し、西の学習院とも呼ばれた。
内閣制度の発足以来、八年間にわたり陸相を独占した大山巌(一八四二生)の後、第二代陸相を高島が継いだのは明治二四年五月十七日成立の第一次松方内閣である。海軍でも大山の海陸相兼任の時期を除き、西郷従道(一八四三生)が海相を独占していたが、二三年五月十七日に樺山資紀(一八三七生)に交替した。こうして第一次松方内閣の軍部大臣には高島と樺山が揃って就いたが、十一月から始まった第二国会において政府の軍拡予算案が否定され、これに対して樺山が打った蛮勇演説で議会が荒れたので、松方は衆議院を解散する。続く第二回総選挙で、松方内閣は歴史的な選挙大干渉を行うが、それでも民党が勝利した、選挙後内相に就いた河野敏鎌の善後処置は、干渉の最も激しかった佐賀・高知両県の知事すなわち樺山資雄と調所広丈の更迭であった。閣内で選挙干渉を叫んだ高島・樺山の両大臣は、これに反対して辞表を提出したので、明治二十五(一八九二)年八月八日を以て第一次松方内閣は倒壊した。
高島は予備役に編入、樺山も現役を退き共に枢密顧問官となる。時に高島は四十九歳、上原勇作の時代ならば陸軍少将が相当で、当然現役である。予備役入り後も陰の陸軍首脳だった高島が、日清間に戦雲渦巻く中で一体何をしていたのか、不思議である。
二十八年八月、日清講和が済んだ後、政府は予備中将・高島鞆之助を急遽台湾副総督に任じ、追って現役に復帰せしめた。樺山総督を支援する「土匪」平定の任務で、樺山の強い要請によるものである。南進司令官として土匪討伐を果たし、十二月凱旋した高島は、翌年四月に第三次伊藤内閲が新設した拓殖務省の初代大臣として台湾総督府の監督に当たる。九月に第二次松方内開が成立するや、再び陸相(兼職)となり、三十年九月行政整理で拓殖務省が廃された後は、陸相を本官として翌年一月までその職にあった。つまり、二十五年八月を以て予備役に編入した高島は、三年後に起用されて台湾副総督となり現役復帰、その後拓殖務省さらに陸相と、二年半にわたり最重職を歴任し来るべき日露戦に備うべく軍政の重責に任じた。こうして観るに、日清戦争の直前並びに戦中において、高島が一体何をしていたのか、やはり不思議である。日清戦役の前後において、右(*上)の重責を果たした高島が位階勲等の昇叙に全く与らなかったのも不思議である。日清戦役中は予備役だったし、現役復帰後の台湾掃討の軍功は大将進級には不足だったらしい。既に十七年に子爵に叙爵、二十年に勲一等旭日大綬章を授かっていたが、勲一等桐花大綬章の沙汰もなかった。つまり、すでに達していた勲等が高過ぎて昇叙の余地がなかったことになる。結局、恩賞の沙汰といえば、大正五年逝去に際して賜わる旭日桐花大綬章と正二位(首相級の位で、追贈と思う)だけでは世間の不審が偲ばれる。
高島は明治三十一年一月十二日陸相を辞し、長州閥の寵児桂太郎が後を継いだ。五十五歳で将官として最も油の乗る年頃での予備役編入は桂太郎による人事とされ、「その筋に大きな衝撃をもたらした出来事であった」(『日本陸軍とアジア政策』)とされる。同時に、陸軍参謀総長も小松宮彰仁親王から川上操六中将(一八四七生)に代わる。川上は薩摩藩士で、幕末に京の薩摩屋敷でギンヅルと知り合い、維新後に親密な仲になったという。桂と川上は同年の生まれで大佐進級も同日付、以後ずっと同日付で進級してきた好敵手で、軍政家の桂を陸軍大臣、軍略家の川上を参謀総長に配したのである。対露戦争計画を一身に委任された川上は、同年九月桂と並んで大将に進級したものの、翌年五月五十三歳で急逝してしまう。後任がいないので、陸軍は大変な騒ぎになるが、折しも一年半前まで陸相だった高島が予備役中将・枢密顧問官の閑職にいた。陸軍の最高首脳は高島を措いてなく、薩摩閥がその参謀総長の就任を図ったことは当然で、新発見の『宇都宮太郎日記』がその経緯を記しているが後稿で論じたい。結局参謀総長の選考から外れた高島は、四十五年四月の退役まで二度と現役に復帰せず一切の軍務に関わらず、大正五年逝去までの十八年間を枢密顧問官として過ごした。なぜ参謀総長になれなかったのか。世間は晩年の高島を評するに直情径行と才能の伸び悩みを以てするが、真相はそんな所にない。いずれ後稿で明らかにしたい。 (続)
落合論文(10)4
●鈴木商店と台湾樟脳 「実質は上原の会社」
日清戦役後、台湾副総督と拓殖務相を歴任した高島が最も意を用いたのは、台湾特産の砂糖・樟脳に加え、台湾で需要の多い阿片と煙草に処する政策であった。樟脳については、神戸の商人・鈴木商店を最大手業者に育て、その実際の経営を日高尚剛に任せたのは高島の処置と思う。なお、台湾阿片政策につき、★巷説は総督府民政長官・後藤新平の功績にすべてを帰すが、それは一面に過ぎず、★日本の阿片事業の発端には児玉・後藤系と高島・上原勇作系が並立していたのである。
鈴木商店とは大正時代、驚異的に発展した総合商社で、現在は双日となった日商の前身である。主人は「お家はん」と呼ばれた未亡人鈴木ヨネ(嘉永五・一八五三年生}で、父の西田忠右衛門は元来丹波の漆掻であったが、得意先の姫路米田町の塗師福田惣平の勧めで米田町に移り、塗り師に転じた。ヨネは当初福田の次男に嫁ぐが、やがて離婚、明治十(一八七七)年に二十六歳で神戸の砂糖商・鈴木岩次郎と再婚した。岩次郎の父は川越藩の足軽の次男で、飛脚をしていたが、貧乏のため岩次郎を奉公に出す。砂糖・菓子を扱う小商人になった岩次郎は、店舗を親族に与えて長崎に往き、菓子職人の修業を積んだ。神戸に帰ってきた岩次郎は、弁天浜の砂糖商・辰巳屋松原恒七の下で働くうち、商才を認められて店を譲られ、カネ辰・鈴木岩次郎商店と改称した。明治七年頃、すでに洋糖引取商・鈴木岩次郎商店の記録がある。進取の精神に富んだ岩次郎は十五年ころ神戸石油商会を設立し、取扱品目として砂糖のほか樟脳・薄荷(ハッカ)にも進出した。十九年、土佐国名野川村の貧家の伜、金子直吉が丁稚として入り、前年に入店した柳田富士松が砂糖、金子が樟脳と分担して、鈴木商店の業績は上がった。二十七年に主人岩次郎が急逝し、親族が廃業を取り沙汰するが、ヨネは決然と存続を唱えた(『黎明の女たち』より抜粋)。しかし、ながら、後年の急拡入につながる要素は、この時点の鈴木商店には全く存在しない。★ヨネに存続を唱えさせた者が背後に居た筈と思う。
平成八年ころ「鈴木商店は日高尚剛の手の者が経営陣に入っていた。実質は上原の会社だった]と仄聞した私(落合)だが、まさかと思い、今日まで調べなかった。しかし十年あまりの間に、これに関わる情報を得た。作家★O氏との雑談中、以前帝入系の会社に勤めていたと聞き、思わず「帝入は人も知る鈴木商店の子会社だが、その鈴木商店が★実は上原元帥の持物だった」と言ったところ、O氏は「そういえば上原元帥の孫の尚作さんはウチの重役で、私らの仲人をお願いしました」と言いだし、続けて「どこかヨソの会社から突然来て超特急で昇進、あっという間に重役です」と加えた。言われてみれば、「尚作」は「勇作」と「尚剛」の融合のように見える。勇作の長男・七之助の子息上原尚作は大正十五年生まれ、昭和二十年五月一日に上原子爵家を継承した。ご存命なら、何を差し置いても教わりたいのは、大正九年吉薗周蔵が上原の親書を張作霖に届けた時、張作霖から金五百円で譲ってもらった壷が現在どこにあるのか、である。鉄袖で楚々とした秋草を描くその壺は、乾隆皇帝が秘宝として奉天北陵に秘蔵した焼物の一つで、陶磁学者上田恭輔が汝窯青磁と鑑定した。周蔵が奉天みやげとして上原閣下に献呈すると、非常に喜ばれ、後日大森邸に伺ったら家宝として応接室に飾っていた、と 『周蔵手記』にあるからだ。
結局、上原は高島の利権というか、事業を引き継いだわけである。防虫剤として知られる★天然樟脳はクスノキから採れるが、その生産技術は元禄年間に琉球から伝わったとの説と、正徳年間に朝鮮人から薩摩に伝わったとの説がある。★薩摩藩は樟脳を特許品として藩が独占的に買い上げ、一部を小売店に卸す以外は長崎に回し、オランダ・清国に輸出していた。明治二年頃、新素材の「セルロイド」が発明されると、その可塑剤として不可欠な天然樟脳は合成品が出来る大正後期まで、極めて重要な物資とされた。
江戸時代から輸出品だった樟脳の輸出は、明治初年から神戸港が中心で、鈴木商店も主要扱い品目とした。明治二十八年、日本領土となった台湾は世界的な樟脳の産地である。薩摩藩の樟脳専売制による利益を知っていた樺山総督と高島副総督は、樟脳製造事業に注目し、早くも同年十月「官有林野及樟脳製造業取締規則」を作り、樟脳製造に官許の制限を加えた。
翌二十九年から三十一年まで、初代拓殖務相として台湾経営の最高責任者なった高島は、台湾財政の柱として各種の官業政策を練る。二代目総督桂太郎は二十九年六月から十月まで短期間の腰掛けで実際には赴任せず、後を継いだ陸軍大将・乃木希典が三十一年二月まで総督であった。
★専売制度は三十年に阿片、三十二年に樟脳と食塩について実施されるが、右の経緯と時期を見ても、専売政策の根幹が高島によることは自明である。総督を監督する拓殖務相は、大阪偕行社以来の乃木の上司で媒酌までした高島である。乃木は高島の指揮を受け、高島の樟脳等官業路線に忠実に従った。
三十一年二月、児玉源太郎が第四代台湾総督となる。児玉がその後、総督の地位に固執したのはアヘンの価値を知悉していだからである。児玉は参謀次長や文部大臣を兼職しつつ、八年も総督に在任、民政長官に就けた後藤新平も八年間在職した。 その期間の長さのため、巷説では児玉・後藤コンビが強調され、桂・乃木時代の台湾行政に見るべきものはないと謂うが、★台湾の樟脳、煙草、阿片に関する基本政策は、実は高島拓殖務相・樺山総督時代に決まったものと観るしかない。
落合論文(10)完。
(私論.私見)