吉薗周蔵手記(杉山茂丸伝1)


 更新日/2021(平成31→5.1日より栄和改元/栄和3).2.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2005.4.3日、2009.5.27日再編集 れんだいこ拝



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 (れんだいこのショートメッセージ)


 2005.4.3日、2009.5.27日再編集 れんだいこ拝


●『俗戦国策』 杉山茂丸(1)
                        俗戦国策_1
 


 ★80年前の記憶ぐらいは伝えていきたいものだ。

 1929(昭和4)年、「大恐慌」の年。

 次のような文章で始まる本が出版された。著者は杉山茂丸(夢野久作の父親)。

 悪しき歴史の繰り返しは「茶番劇」だと読んだが、如何。

 以下、『俗戦国策』 (杉山茂丸 原:1929(昭和4)年 講談社刊
 2006.4.30 「書肆心水」刊)より。  

 *************

 ・・この書は、青年の為めに書くのである。

 今の青年は、就学難と戦うて、夫(それ)だけで終る者もある。又、父兄も子弟の就学を以て、父兄たる義務が了えたかのように心得て居る者もある。又、千辛万苦して、ヤット得た免状は、其の父兄子弟共、衣食の通券でも得たかの心地をして大安堵をなす者もある。
 
 夫から又、就職難に入るのであるが、此の就職難と云う戦争で、大概は戦死者となるのである。

 夫から偶々就職して勝利者となったものは、此の多くの戦場の勇者であるようじゃが、一方、人間精神上の論功行賞から云えば、全部敗北者許り(ばかり)である。其の全身に充満する物は恐怖と杞憂許りで、天下国家は申すに及ばず、社会民衆の上に往来する、人類一人前の思想さえ維持するの力もなく、此の貴重の生涯を、又、生活難と云う戦場で、殆んど悉く全部敗北者となるのである。

 それではこの勝利者、成功者は、飯を喰うて、生きられる丈け生きて居たに過ぎぬ。他の動物と少しも選ぶ事の出来ぬ者許りとなるのである。斯る敗北者に限りて、勇気と云う者が少しも無い、為めに自己の生存以外に、智力も体力も、一切の活動が停止されるのである。
 随って自己以外、他に及ぼす力が無いのみならず、自己を制する勇気さえ全部消耗して仕舞うのである。

 人間、自己の慾望をさえ制する力がなくなるのであるから、真に獣類と少しの差もない事になるのである。

 ★社会を乱す者

 自分さえ喰えば他は餓死しても構わぬ。夫が亢進して他の食を奪うて喰う事になる。自己さえ着れば他は凍えても構わぬ。夫が亢進して他を剥いで着る事になる。
 斯くの如くなる時は、自分許り大厦高楼に住居し、自分許り錦衣玉食をなし、自分許り嗜好三昧を充たして、之を抑制するの能力を失い、他は飢寒凍たい、流離困頓するも、之に同情するの意識を亡失するのである。

 而して一たび時勢の非運に遭遇して、以上の慾望に欠陥を生ずる事になって来ると、秋毫も自己の行為を選択するの知識を失い、只だ見聞に随って、把掴掠奪しても此怨望を充たさんとするのである。

此場合を号して、生活難末期の戦場とするのである。元々此戦闘には、人類最大の貴重物たる恥辱観念と礼譲の意識とを失うた動物性となって居るから、取る事の出来ぬ物を取り、喰う事の出来ぬ物まで喰うのである。故に高貴の保管物でも侵し、松島遊廓の頭でも噛るのである。終に社会的位置を失墜する事になると、茲に昔日学び得た学問を悪的にアップライドして群衆心理を説き、社会問題を高唱するのである。曰く政治の圧制、富豪の暴横を喧言して、ストライキ、サボタージを煽動するのである。其上品な議論が、ヤレ天下の人心が悪化して来た、ヤレ人類の道義心が腐敗して来たと云う。

 一体何のたわ言を云うのであるか。世界の歴史を通じて、国家の興亡は、殆んど全部其の上流社会の腐敗如何にあるのである。民族や社会が全部腐敗して、国家を亡ぼした事は殆んどないのである。

 日本に於ても藤原氏腐敗の極に達して平氏興り、平氏21年の栄華に腐敗して源氏興り、源氏の非政三世に腐敗して北条興り、北条九世は舞楽闘犬の極まで腐敗して足利興り、足利腐敗十三世にして徳川興り、徳川腐敗十五世にして藩閥政府興り、藩闘の腐敗40年にして政党政治興り、政党の腐敗10年を出ずして、正に今、禽獣社会を現出せんとするのである。

支那5千年の歴史は、聖人政治が三世位から腐敗を始めて、易姓の政治が興る事を繰り返して居る。
仏国はルイ16世にして、腐敗の極に達して革命が興り、伊大利の亡ぶるや、何時でも羅馬の腐敗が前提ならざる事はないのである。

 今の日本は、政治の最上位の腐敗から、貴衆両院と富豪の腐敗が爛熟して来て、今日の危殆に瀕して居るのである。此の純良な国民の何処に腐敗があるか、其証拠は驚くなかれ無慮20億円の租税を、お上の御用と云うて正直に納めて居るではないか。斯の如く純正無比の国民に向って、人類腐敗の先登者ともいうべき上流種族が、人心悪化だの道義心の腐敗だのと云い得るのか、故に庵主は高唱す。

 国家の腐敗は何時でも上から先に腐って、下に及ぼす物である。日本では最下層まで腐りの透った事は一度もない。故に聖者、賢者、正義者の起こる時は、何時でも国民が決起する。その度毎に国家は善良に回復するのである。
 是を我国は3千年繰返して居る。現在に於ても、日本は上が腐って居る丈けで、下は決して腐って居らぬ。其証拠は、20億円に近い租税を納入して、昔ながらの家庭を守り、勤労して居るではないか。

●人道の自覚者

此に於て庵主は、青年達に向って云う。

 「能率なき学問に中毒して、能率なき行為をしてはならぬ。学問は前途に進歩発見を見越して居る全くの未製品である。正に以て人間が使用すべき物の一つが学問である。夫に人間が使われて溜るものでない」と。人道と云う者は、簡単明瞭な物である。

 「智者は愚者を導き、強者は弱者を助け、富者は貧者を賑わす」、僅かに此三つで足りるのである。
 然るに現世界に於ける学問中毒の大勢は、総て是が反対である。
 「智者は愚者を欺き、強者は弱者を凌ぎ、富者は貧者を虐げる」

これでは決して永続きするものではないと云う事を早く知った者が人道の自覚者で、直ちに勝利者となるのである。

庵主生れて64歳、17歳より輦穀下(れんこく)に居住し、言いたい三昧を云い、為たい三昧を為して茲に48ケ年、未だ一度も警察署と裁判所の御厄介になった事がない。未だ一度も松島事件や山林事件で手を縛られた事がない。未だ一度も会社の発起人と株主と重役と、役人と商人とになった事がない。そうして、此の聖天子治下の一民として一日も休止する事なく、只働いて、又、昭和3年の春を迎えんとするのは、抑も如何なる妙術があっての事であろう。

 或る時、庵主と同年の友人、亀井英三郎と云う警視総監が、専門の警官に命じて、庵主の裡面の生活を偵察した報告を見た事がある。曰く、
 「杉山茂丸、生活の裡面は、ドウしても解りませぬ、・・・併し、恐るべき犯罪が、永久的本人の心裡に潜んで居る事丈は、事実と思い升・・」
と、
総監曰く、
 「此報告を見給え、君はドウしても、一度は縛られるぞえ」
 「ムウ、夫は僕が17歳から覚悟し待って居るけれども、当局無能にして、マダー度も僕を縛らぬ、・・僕も同年の君と云う友人に縛らるれば、此上の本望はない。何時でも縛ってくれ、夫が年貢上げと思うて、僕の生存を諦めるから」
 と云うて居たが、亀井はモウ疾に死んで仕舞うて、其後の警察官は矢張り無能な役人ばかりで、庵主が64歳の今日まで一度も僕を縛りに来ぬ。

 ★庵主64年の秘策

 併しモウ庵主も何時死ぬか解らぬから、64年秘密にして居た処世の大秘事を、庵主の一番愛好する又、信頼する青年諸生に知らせて、此の庵主生存の謎を披露して置きたいと思う。

 先ず庵主が48年間、帝都に住居して、太平楽を為し通して生存した秘事は、コウである。
 「親切を以て我が本領とする事、其親切には差別がない事」、眼中素より、尊卑なく、強弱なく、貧富なく、貴賤なく、長幼なく、老若がない。而して夫が庵主の力を限度として、善悪がない。而して夫が何時も可能性なるべき事である。故に夫れの副産物として多くの青年が育った。夫が日本の本土内から朝鮮、満洲、シベリア、支那、南洋から英、米の諸州に散在して居る。

 其教育の本領は、「人間の最終目的は独立であるぞ、下駄の歯入をしても、紙屑を拾うても、独立をしたら、予は紳士の待遇をして汝等と交際する。依頼心は自殺以上の罪悪であるぞ、野犬でさえ、掃溜を漁って天寿を保って居る。汝等は野犬に劣ってはならぬぞ。夫は親に貰うた自己の全能を以て働く事と、予が教えを守る事であるぞ。人間は、大自然の創造に係る、宇宙間の善智善能(ママ)を以て結晶した最上無比の大宝器である。夫を理解せずして、其生存を粗末に取扱う者は、予の門下に居る事は出来ぬぞ」、と是丈けである。

・・・続く。
 



●「死もまた社会奉仕」
 ★山県有朋が死んだ時、石橋湛山は『死もまた社会奉仕』と言った。

 前にも紹介したが、ウイキペディア百科の山県有朋の項には、こうある。

 「・・・その死に際しては、当時、新聞記者だった石橋湛山(後の首相)は山縣の

 死を、<死もまた、社会奉仕>と評した。また、別の新聞では<民抜きの国葬>

 と揶揄された。

 以下で痛烈に批判される人々も一群の「社会奉仕派」だろう。

 『財界にっぽん』2001年7月号  より。
 ★新緑放談 日本は〝賎民資本主義〟から脱却せよ
  ―日本衰退の一因はジャーナリズムの堕落   国際コメンテーター 藤原肇

   最新著『夜明け前の朝日』(鹿砦社)で日本のジャーナリズムの堕落と、日本社会の退廃を鋭く指弾した米国在住の国際コメンテーター・藤原肇氏は、バブル経済以降の日本の資本主義は、裏と表が逆転した構造になっており、その実態はマックス・ウェーバーの言う〝賎民資本主義〟だと指摘し、二一世紀に日本が新生するには、その賎民資本主義からの脱却、ジャーナリズムの奮起が欠かせないと主張する。(文中敬称略)

 ●貧しくなってきた日本の中産階級

 私は年に数回ほど日本に戻って来るが、この春の帰国でとても強く感じたのは、この国がものすごい閉塞感に覆われていて、日本人がまるで元気がないという点である。
 しかも、いちばん驚いたのはハンバーガーやフライドチキンという、米国で〝ジャンク・フード〟と呼ばれている店が、半額セールをやっていたことだ。私はカナダやアメリカで三〇年ほど暮らしたが、ジャンク・フードの店で食べたのは二度で、それはこの種の安くて手軽なレストランの本質が、資本主義社会における〝炊き出し〟だと考えるからだ。
 もし、ジャンク・フードの食事処がなければ、アメリカ社会では暴動が起きるだろう。アメリカはキャピタリズムの本家だから、カネを払うことで安く食べさせてやれば下層階級も資本主義に参加している気分になり、暴動を起こさないだろうということで、ジャンク・フード制度が編み出されたし、巧妙なやり方でビジネスとしても成功している。
 つまり、最初は下層民むけの炊き出しのようなものが、ビジネスとして各地に普及したことで、中産階級の子供たちも食べ始めるようになった。日本にもジャンク・フードの店が進出して、フランチャイズを派手に展開しているが、日本には昔から蕎麦屋やラーメン屋があり、アメリカ風の炊き出しは必要としないのに、今や日本の街角はジャンク・フードに席捲され、不況のせいで価格破壊を実践している。
 このような米国式の炊き出しが流行するのは、日本の中産階級が貧しくなったためであり、四〇~五〇歳代の日本人に話を聞くと、住宅ローンや教育費に追われポケットマネーに乏しくなり、本を買う余裕もなくなったという。デフレによる価格破壊が進行しており、通年にわたって大安売りする時代性の中で、日本中がバッタ屋になったような感じだ。
 しかも、日本社会の老人化が進んでおり、全体的な活力の低下が目立っているが、都心で乗るバスの乗客の大半が老人だし、中曽根や宮沢が未だに影響力を行使している。老害が最も目立つのは政治の世界でもあるが、同じ番組に二〇年も出ている評論家など、マスメディアの世界にも共通しており、人材を育てる指導性の欠如を物語っている。


 ●日本人が知らない外国人の対日観

 老害大国は財界人の高齢化にも反映しており、長期にわたって財界団体の役職を務めることで、勲何等などという勲章がもらえるために、それを目指して居座る老人が多いが、官僚による民間人の買収という弊害面を持つ、生存者叙勲は廃止した方がよさそうだ。また、銀行が多くの相談役を抱えているが、巨額の不良債権を作った責任者も含んでおり、公的資金を受けている以上は犯罪的だから、経営刷新と合理化の断行が不可欠である。
 しかも、次代をになう人材が育っていないので、各界で人材が払底しているのは明白であり、さまざまな制度疲労がそれに加わって、昨今の酷い亡国現象となって現れている。自民党もコレといった人材がいないため、小渕の後に森喜朗のようなお粗末な男を首相にして、世界中から侮蔑と嘲笑を買った具体的な例は、『夜明け前の朝日』の中に報告して置いたが、世界から日本がどう見られているかに関して、日本人はあまりにも愚鈍であり過ぎるのではないか。
 香港の『ファー・イースタン・エコノミック・ルビュー』という英文経済誌は、記事の見出しに「MORIbund Giant」と書いていたが、このモリバンドという言葉は「くたばり損ない」を意味する。また、ボストンの「クリスチャン・サイエンス・モニター」紙は、辞任を控える森の訪米した日のコメントに、「ローマの町が燃えている時に、バイオリンを弾いていた暴君ネロと同じだ」と書き、緊急事態を放置したままノコノコ訪米した、無能な首相の恥さらし朝貢を潮笑していた。
 韓国の金大中より先にという面子に基づいた、森の表敬訪問はブッシュに迷惑だったが、愚鈍な政治家の恥さらし外交の出し物は、竹下の後を継ぐ出雲名物「安来節」であり、オカメとヒョットコの顔見世興行になった。アメリカ側はお調子者の麻生太郎を引っ張りだし、筋金入りの右翼政治家のプロモートを通じ、将来への布石まで打ち終えてしまった。
 国家主義的な麻生や単細胞の石原都知事を挑発して、日本がアジアから孤立する立場を強めれば、日本の混迷はさらに強まるだけであり、危機を操る上で有利になるというワシントンの戦法に対して、残念ながら日本人は誰も気づいていない。しかも、既得権と利権だけが政権維持の原動力であり、国際社会での役割を自覚しない自民党政治は、誰が新総裁になっても泥船政治が続くというのが、日本を見つめた冷徹な世界の認識である。
 身内の恥を日本のメディアは報道しないし、記者クラブで仕上げた提灯記事の氾濫の中で、日本人は外国での日本の評判を知らず、民族として感受性の劣化が進んでいる。しかも、かつての日本人は『菊と刀』の中でベネディクトが、「恥を知る民族だ」と敬意を持って指摘したのに、昨今の日本人は恥に対して鈍感になっている。

 ●日本社会を支配した賎民資本主義

 中曽根バブルで狂乱を演じた日本の資本主義は、マックス・ウェーバーの定義だと「パリア・キャピタリズム(賎民資本主義)」だが、それは社会の全域に営利と欲望が蔓延して、寄生する者が社会を食い物にする状態を指す。こうした社会の中心に位置を占める存在は、先ず第一に乞食や詐欺師が来るのであり、続いて盗みや横領を罪悪と感じないで、私益の蓄積に忙しい政治家や商人が並ぶが、談合で税金を分捕ったゼネコンを始め、最近の農民たちもきわめて日本的な寄生集団である。
 不良債権の山を築いたノンバンクの実態は、普通の銀行がカンバンを塗り替えてバブルに踊り、公的資金で尻拭いしたものであり、銀行自身が税金に寄生するという点で、賎民資本主義の中核的な役割を演じている。さらに、最近の大都市で流行っている金券ショップも、サラ金の滞納者のクレジット、力ード悪用や、企業がまとめ買いした切符や切手などを使った、横流し金融による賎民資本主義の一端である。
 私は『平成幕末のダイアグノシス』(東明社)の中で、日本のスキャンダルの核心に迫るためには、(1)暴力団人脈(2)同和集団(3)半島人脈(4)ホモ仲間||に注目して、この四つのタブーを下敷きにして解析しなければ、問題の中心に肉迫できないと指摘した。それらはかつて日本の闇社会を構成していたが、中曽根政権の時代に裏と表が逆転して、バブル炸裂の頃に多くのスキャンダルを生んでおり、その諸相は最新著の『夜明け前の朝日』の中に、具体的なケースを実名と共にレポートしてある。
 かつて自民党の幹事長を務めた野中広務は、水平社の全国大会に京都府副知事として出席し、自分が同和の出身だと明言した勇気ある人だが、数年前の『ロサンゼルス・タイムス』が全面を使って、野中の政治姿勢と役割について記事にした。「必勝」と書いた白鉢巻をした野中の写真と共に、記事の中に頻繁に「Buraku」の文字が並び、その日の私の電話は絶え問なく鳴り続けたが、英字新聞が日本のタブーを大々的に報道した。
 私はアメリカ人たちの質問に答える形で、同和や部落という言葉の意味を解説したが、野中が部落出身であることをバックに、永田町で大きな権力を握った経過に関しては、外国のジャーナリストに見透かされている。社会の下積み層が現世に救済を求め、政治力を通じて達成を試みる公明党と組んで、強引に政権の保持を狙う自民政治の実態が、世界中に暴露されるに至ったという真実は、考えて見れば実に恐ろしいことではないか。
 しかも、自民党の政務調査会長である亀井静香が、イトマン事件の主役だった許永中と義兄弟で、裏の世界と緊密なことは周知の事実であり、そんな人物が総裁候補に名乗りを上げたのだ。闇と結ぶ人物が表の世界に乗りこむ状況は、経済社会だけでなく永田町をも包み込み、それを日本人が放置していることに関して、外国のジャーナリズムは知っているのである。

 ●先物市場で消えた数十兆円と元首相の死

 ジャーナリズムが果たさなければならない使命は、権力者たちの逸脱と権力乱用の監視だが、四つのタブーを恐れて記事にしないために、それが堕落と腐敗の大きな原因になっている。タブーの壁に挑んで国民の知る権利に応えない限り、KSD事件のような犯罪は防げないし、信頼に基づいた明るい社会を築くために、税金を食い荒らす悪質な行為を断ち切って、賎民資本主義から脱却することは望めない。
 石油産業は二〇世紀を支配した最大の産業で、私はアメリカで石油ビジネスの中に生きたから、情報の取捨選択の面では鍛えられている。だから、訪日の機会を通じて外国の特派員と意見を交わすし、読者の多くが日本の新聞記者たちだから、五日もすれば情報交換による収穫のお陰で、ほとんどの分野に精通することが可能だ。
 一昨年の春の訪日の時の体験談になるが、元首相の竹下が埼玉医大病院に入院した後で、竹下は既に死亡しているという噂を耳にした。この死亡説はあり得る話だと感じたし、莫大な利権を整理して処分が終われば、タイミングを見て発表される予想したが、死亡の発表は皇太后の逝去の時期に重ねて、総選挙直前のどさくさ紛れの中で行われた。
 これに類似する奇妙な噂を聞いた経験があり、それは昭和天皇が崩御した時のことだが、東京に先物市場を開設することに関連して、天皇の死亡発表を遅らせたと言う人に会い、その時の首相が竹下登だったのは興味深い。連関分析は『夜明け前の朝日』の記事に譲るが、特派員にそれとなく真偽のほどを打診したら、「鋭いカンだが、他言は無用だ」と忠告を受けたので、不気味な印象を持ったことを覚えている。
 その後になって断片的な情報が活字になったが、その時に先物市場を使った操作によって、数十兆円のカネが日本から消えたために、それが現在に続く大不況を生んだと言うし、その真相は何十年かしないと分からないだろう。でも、最近の「新潮45』の誌上で東京女子医大の天野医師が、ロッキード事件の時に児玉誉士夫の国会証言を阻むために、上司の命令で薬物を注射したと告白して、口塞ぎの謀略が二〇年振りに明らかになった。

 ●迫力のある記者がいなくなった

 私の母方の郷里は島根県だし墓は松江にあり、親戚が教育者で教育委員長を始め教師が多く、竹下と同じ松江中学の同窓生もいるから、墓参りを兼ねて丹念な取材活動が可能になる。竹下登の墓所は掛合上町の浄土真宗・専正寺だが、竹下の死についてどの程度を知っているかと思って、地元の新聞記者に取材を試みた時のことだ。
 県庁のある松江には各紙の支局があるが、まともに取材に応じた支局長は皆無だし、県庁の記者クラブで記者に取材を試みても、「何も知りません」「それはちょっと…」と逃げ腰ばかりだった。自分たちが取材する時には強引にやるくせに、逆に取材される立場になると意気地がなくて、知らぬ存ぜぬで発言をしたがらないのだ。
 次に県警本部の記者クラブに取材に行ったら、どこの社の記者に会うかをいちいち聞かれるし、広報担当の警官がつきまとって監視した。
 かつてペパーダイン大学の総長顧問を務めた私は、世界各国の大学を訪ねて総長と議論した時に、中国の大学では政治委員が学長の隣に陣取って、自由な発言が阻害されたので迷惑したが、日本の警察は全体主義の共産中国と同じ感覚で、記者クラブ会員の番犬のつもりでいる。
 私の名刺の肩書きは「フリーランス・ジャーナリスト」であり、どこの国でも「大臣に会いたい、取材は一五分でいい」と言えば、それなりに対応してくれるというのに、日本の新聞は支局長でも面会の予約を要求し、役人根性に毒されて「病膏盲」で嘆かわしい。
 それでも掘り下げ取材ができないわけでなく、やる気があれば大手新聞の記者以上であり、『夜明け前の朝日』にも書いたように、竹下の最初の妻の政江の首つり自殺の原因は、義父に強姦されたことくらいは掘り出せる。
 また、家系図を縦に読む日本人の盲点を逆手に取れば、竹下登は古い造り酒屋の息子にしても、父親の勇造は出雲の印刷屋の武永家から、竹下家に婿養子で入った事実がある以上、もともとの出身が済州島だと検証するくらいは、地元ジャーナリストたちの義務ではないか。
 未だはっきり確認し終えたわけではないが、先物市場の開設と同時に巨額のカネが消え、そこに平成大不況の原因があるという説について、ジャーナリストたちが徹底的に取材を行い、真相がどこにあるか解明して欲しい。第四の権力と言われるジャーナリズムが、立法、司法、行政の三権を監視する役割を放棄すれば、日本は本格的な混乱と衰退に向かうだけであり、そんな具合に祖国の運命を損なってはいけない。

 ●衰退した日本人の評価能力

 平成日本を包む閉塞状況を打開するためには、根本的な教育改革が絶対に必要であり、低迷した大学を改革する上での決め手として、無能な九五%の教授たちのリストラを断行し、有能な五%の教授で大学を再構築することだ。大学がダメだと、その上で大学院大学を重ねても、それは屋上屋のムダな営みに過ぎなくて、大学院大学の教授が大学教授より偉いわけではないし、量よりも質の充実が優先のはずである。
 ヨーロッパでは幾つかの大学が共同作業の形で、大学院大学を開設しているのに対して、日本では各大学が競って屋上屋を積み重ねるが、枠組の再構築に改革の眼目があるはずだ。しかも、小学校、中学、高校、大学のそれぞれの次元で、教育の仕事は自己完結しているのであり、教師として上下の差別があるわけではない。
 勲章や文学賞にも似たような側面があり、勲何等という格付けは時代錯誤に他ならず、審査員の選抜基準の著しい劣化に問題がある。
 白川教授に文化勲章が慌てて授けられたが、ノーベル化学賞の受賞が功績の追認になり、外国の評価で初めて価値に気づくようでは、文化勲章の審査員の問題意識の低さと共に、節穴だった目を見事に証明したのである。
 芥川賞や直木賞も文学作品の質には無関係で、審査員がポルノ好きの時はポルノ小説に、賞が与えられも誰も不思議だと思わないし、審査員の質の悪さは疑問視されなかった。
 評価能力のない人たちが審査員になったり、実力がないまま指導者の椅子に座ることが、日本の社会全体の水準を大幅に低下させ、ひいては亡国現象を強める原因をつくっているのに、それに気づかないで権威を冒涜し続ければ、日本はニセモノの掃き溜めになってしまう。
 最近の日本はニセモノ天国の輸出大国だが、隣国に迷惑をかけた愚劣な事件に関して、台湾の新聞に寄稿した記事の結語を紹介する。
 「…現在の日本は前代未聞の大掃除の時期であり、時には粗大なゴミや汚物が海外に流出して、悪臭ふんぷんとした[台湾論]が漂着するにしても、その時は汚物入れに投げ捨てて始末し、美麗島の平和を保っていただきたいと切望する」
 日本周辺に位置するアジア諸国の人たちは、アメリカ人より日本のことを深く理解しており、彼らが反感や嫌悪観を持つ愚行を犯せば、日本の立場は悪化し孤立するばかりだ。
 本当の実力と尊敬に値する品性を誇り、正義感に燃える誠実な人がトップに立ち、文明を担う一員として責任を果たさない限りは、二一世紀の日本に活路は開かないだろうし、夜明けの明るい光輝に映えるのは困難である。

  4月11日・談

 ****************

 




●大杉暗殺  「『夜明け前の朝日』(鹿砦社)より。
 前記、「★「『夜明け前の朝日』(鹿砦社)の中に書いてあるが、・・・」の該当部分を下に引用しておきます。
 
 ★鹿砦社 2001年5月1日刊 だが、この記事=対談の初出は『創』誌1998年10月号
   であると、『夜明け前の朝日』巻末にある。

 **************

 第三章 朝日・講談社巻き込む「大激論」の欠落した部分
 [歴史の証言】 (その2)
 ●歴史の秘密と隠れた情報の点を線に結ぶ より。  


対談者の紹介は次の通りです。

 お互いが相手の記事や著書の読者として、30年も昔から名前を知り合っていながら、1度も会って話し合うことがなかったのに、雑誌・『創』(つくる)に掲載された私の記事が縁になり、鋭い分析で知られた評論家と対話の機会を得た、話の内容が多岐にわたって展開したので、多分にまとめるのが難しいお喋りになって、扱った事象や人物の説明を抜きにしては、言っている意味が分かり難い部分もあるが、ジャーナリズムの問題を考えるために、重要な示唆を含むので相手を*Lとして復元した。*Fは藤原肇氏。
 
 
  ****************
<以下、引用>
 ・・・ 
L: えっ、それは驚きです。そんなことは夢にも考えなかったし、あの松本清張でもそこまで推理したとは言えないが、地獄耳の私でも聞いたことがありません。竹下が幾ら自民党の日韓議員連盟の代表で、韓国と太いパイプを持っていたとはいえ、そんなタメにするような情報は信じられません。松本清張でもそれは言わなかったし、知っていたら絶対に書いていたはずだが、私は彼から片鱗もその話を聞いていません。

●情報の真偽を見破る眼識

F: さあ、どうでしょうか。絶対に正体を現わさない秘密もあります。
それに、清張の長編小説で読んだものは少なくて、『霧の会議』と遺作の『神々の乱心』くらいであり、多くの人から『深層海流』を読めと言われたが、どこの文庫本にもないので未だ読んでいません。『霧の会議』はバチカン銀行とフリーメーソンを扱ったが、その前にガーウィンの『誰が頭取を殺したか』を読んでいたので、清張がヨーロッパを舞台にしたものは迫力が乏しく、事件の掘り下げ方が通俗的だと思いました。
 ただ、高校生から大学生にかけての頃だったが、『日本の黒い霧』や『昭和史発掘』を読んだ印象では、彼は鋭い史限を持つ人だと思いました。

L: 彼の作品では短編に比較的いいものが多く、長編小説ではどうしても限界があるが、社会派の作家として国内問題に関しては、資料集めに力を注ぎいい仕事をしています。
 話題が変わりますが、石油ビジネスを専門にしている藤原さんの目で、石油業界を具合に安宅産業が潰れた事件を描いた、あの『空の城』をどう思われましたか。
F: 実は、未だ読んでないのです。

L: 日本で映画化されて大評判になりましたが、石油ビジネスをやったあなたが読んでいないのは、私には非常に不思議でならないのですが・・・。

F: 安宅事件に関しては経済記事を読みましたが、石油ビジネスの本質に迫ったものはなく、ジャーナリストの調査は実に告白的です。国際石油政治の掘り下げは簡単でないから、幾ら社会派の清張でもあまり期待できないので、それを小説で読むのはナンセンスでしょう。
 日本でオイルマンと称していろいろと書き散らす、落合信彦にしてもハッタリ屋の小説家で、石油開発をやって生きて来た私の目には、石油ビジネスのイロハも知らない人です。

L: ハッタリを書き散らすと言われたが、具体的にはどういうことを指しますか。

F: キリスト教について少し知っている人なら、カトリックは神父でプロテスタントは牧師と呼び、その世界での専門的な言葉遣いがあり、牧師が告解を受けるとは絶対に言いません。石油会社で石油の発見を担当する部門は、エクスプロレーションと言って探査とか開発と訳しますが、落合は商社のレベルの発想で調査部と書いたり、セメンティングをリグ(掘削装置)を固定するためだなんて、飛んでもないデタラメを書いています。

L: プロが使う用語をカタカナ英語で書けば、誤魔化せると思っているわけですか。

F: そんなレベルです。幾ら日本語が上手なアメリカ人でも、神社の神主とお寺の和尚さんを取り違えて、出雲大社の和尚さんと書けばお笑いで、日本人なら誰でも知識の浅さが分かるし、宗教のイロハも知らないと思うのと同じです。

L: そうですか。それでは落合はともかく松本清張ですが、彼は『神々の乱心』を非常に興味深く読んだので、あれについてのコメントはいかがですか。

F: 私も先生と同じでとても興味深く読みました。
冒頭にある天津アヘン密輸事件の密輸犯が、三島由紀夫の祖父の平岡錠太郎であり、吉薗周蔵という実在の人物を二人に分け、吉屋謙介と荻園泰之という主人公にして、筋を展開する清張の手腕はなかなかのものです。しかし、落合莞爾の『陸軍特務・古薗周蔵の手記』を読んでいるので、清張が小説の中では触れるに至らない、アヘン売人の中に若き日の牧口常三郎(創価学会初代会長)がいたり、大杉栄が後藤新平のスパイだった話との関連で、ちょっと物足りないという感じがします。

L: えっ、大杉栄が後藤新平のスパイだったのですか。そんな話は今までも聞いたことがないが、アナキストの大杉は後藤内相にとって、最も警戒すべき要注意人物だったはずです。それなのに、大杉が手下だったというのは奇想天外で、私にはとても信じることができないが、そんな奇妙なことがあり得るでしょうか。

F: だから、秘められた歴史の真相は興味深いのです。でも、この件に関しては『朝日と読売の火ダルマ事件』の中に、ちょっとほのめかして書いておいたのですが、先生はそれにお気づきにならなかったのですか。

●秘められた歴史のジグソーパズル

L: 後藤新兵のことは正力松太郎の話の中に、だいぶ出て来たのは記憶しておりますが、大杉が後藤のスパイだということに関しては、恥ずかしいが記憶に残っておりません。

F: 実は、大杉と同棲していた伊藤野枝がスパイで、彼女の祖父は玄洋杜の頭山満と親しく、後藤の親分だった児玉源太郎に私淑した、杉山茂丸と繋がりがあったのです。

L: そう言えば夢野久作の親父の杉山茂丸は、明治から昭和にかけて政界の巨大黒幕だが、彼は『児玉大将伝』という非常に痛快な、児玉源太郎の伝記を書いていましたな。

F: 児玉台湾総督の下で民政長官だったのが、後に内相に就任した後藤新平だったし、彼が名古屋時代に作った娘の静子の息子が、メキシコに渡った左翼演劇家の佐野碩です。静子が結婚した医者の佐野尨太の兄が佐野学で、野坂参三とは遠戚関係で繋がっており、野坂の身内は神戸のモロゾフ製菓の筋です。その周辺には警保局長や特高課長がいて、すべてが後藤に繋がっていることから、後藤が共産党を作ったと考えられるのです。

L: そんなバカな・・・。。どうして内務大臣が共産党など作りますか。

F: 共産党を作ってそこにシンパを集めれば、弾圧する時に手間があまりかからないし、世界的なスケールで展望して見るならば、情報収集をする上で非常に便利です。後藤新平は日本人離れした大型の政治家だったから、ソ連の外交官ヨッフェと親交を結び、英国流の帝国主義を手本に使いながら、日本の政治を改革しようと試みています。

L: 確かに満鉄の初代総裁として采配を揮い、関東大震災後の東京市長としても活躍して、日本の政治家の水準を越えていた人です。
 それにしても、あなたと喋って歴史の話をしていると、松本清張が文春に連載したイラン革命の話で、冒頭に出て来るイラン系ユダヤ人商人が、米国から祖国を遠望するのを思い出して、実に奇妙な感じがしてなりませんな。

F: 私は『文芸春秋』を定期購読していないし、松本清張の小説はあまり読んでないので、おっしゃっていることの意味がよく分かりませんが、清張はイラン革命を小説にしたのですか。

L: パーレビ皇帝が失脚した時のドキュメントです。

F: 残念ながら知りませんでした。それじゃあ、話を後藤新平が持つ実力に戻しますが、日本では本当に優れていたらダメであり、三流のものしかトップになれないのです。
 それは歴史書の場合においても同じであり、幕末のことを知る上で最良の本としては、マリアス・ジャンセンの『坂本竜馬と明治維新』で、その次に大仏次郎の『天皇の世紀』が来て、奈良本辰也の幕末物が続くと私は思います。小説は十番以下に来ることになり、子母沢寛から海音寺潮五郎に続いた後で、司馬遼太郎が来ると私は考えていて、日本人がなぜ司馬を持ち上げるのか不思議に思うが、彼が日本ではトップ扱いされていますね。

L: 今の日本では司馬遼太郎を国民文学と言って、財界人から政治家に至るまで愛読しており、藤原さんのような考え方は少数派です。
 この間も『文芸春秋』が人気投票をやって、誰が日本の作家で好まれるかを発表したが、一番は夏目漱石で二番が司馬遼太郎だった。不思議だったのは吉川英治がいるのに、20傑に松本清張が入っていなかった点です。私は司馬より松本の方が国民的だと思うが、小説は各人の好みが関係しているために、自分の趣味は押しつけられないのです。

●松本清張に見る幅広い取材ネットワーク

F: 司馬の小説の主人公は必ず売れるタイプで、いかにもヒーローになりそうな人が多く、判官贔屓の日本人によく受けるのは、新しい愛国主義が底流にあるためです。彼には小栗忠順は描けないだろと思うし、現代史の謎に挑む気はなかっただろうが、『街道を行く』は歴史が主人公だから好きです。ただ、『街道を行く』と『昭和史発掘』の比較になると、私は清張の歴史への冷めた視点の方が、司馬のロマン主義よりも強く惹かれます。
L: 松本の筆法はジャーナリスティックだし、推理小説のやり方で話を展開しているので、謎解きとしての興味が加わるからです。また、彼は非常に熱心に資料を集めていたし、取材力を誇る記者や情報マンたちを動かして、いろんな組織や会社から情報を集めた上で、老練な刑事がやるような緻密な調査を行い、事件の骨格や当事者の心理を分析してます。文春の嘱託だった大竹宗美も彼の情報マンであり、内調のレポ役の形で動き回っていたが、大竹は児玉誉士夫のアンテナ的な存在で、三矢事件は児玉が持っていた資料の山を使い、社会党の岡田春雄の所にそれを待ち込んで、国会で爆弾質問を仕掛けたということです。

F: 内調を通じて大竹と田中の関係が分かるし、文巻が事件として騒ぎ立てるとしたら、メディアとしてマッチポンプをしたのですね。

L: 松本清張の情報源として重要だったのは、文春と朝日が手配した優秀な調査マンで、当時のカネで月に百五十万円も遣っていたから、今の貨幣価値だと十倍以上に当たるので、文春が音を上げたのももっともでした。それに、松本自身が朝日の広告部門だったから、新聞社の内容について熟知していたので、『赤旗』の報道部長になった下里正樹までが、情報整理のために秘書として手伝っており、彼のネットワークは実に凄いものでした。

F: 彼の人脈からすれば当然でしょう。また、私は森鴎外の史伝に属す作品が好きだから、清張の歴史小説より初期の短編を評価するが、なんと言っても『昭和史発掘』が最高であり、あの現代史に対して挑戦した仕事は、彼にしかできない偉大な成果だと思う。
 『朝日と読売の火ダルマ時代』の「まえがき」に書いたが、過去10年間に読んで最も衝撃を受けた、鹿島昂の『裏切られた三人の天皇』を清張が読んだら、『幕末史発掘』をどんな具合に書くかと考えると、眠られなくなるほどの興奮を覚えてます。

L: 私は未だその本を読んでいないから、なんとも意見を言えないのが残念です。ただ、松本漬張は歴史感覚が優れているので、日記や古文書を懐疑して扱う精神を持ち、その背後にある動機や心理の分析を試みて、歴史の真相に迫って何かを発掘するのです。

F: シナの歴史は必ず前王朝が悪辣政治で、天命により王朝交替の革命が起きたから、今の支配者が正統だと書いてあるけれども、日本の歴史も支配者のために書き直しが行われ、史実を抹殺した現世賛美の作文です。だから、『古事記』や『日本書紀』が問題になるのは、藤原不比等が書き改めているからだし、書かれた歴史のほとんどが捏造に属すから、真相の解明には推理小説の手法が有効です。

L: そうなると司馬遼太郎より松本漬張が、推理発想の点で有利になるわけですね。

   <完>
 



●大杉栄暗殺
●前回、『杉山茂丸伝』を紹介したのは、主に「落合論文」との関連、
 
 =「・・・前月号(08年1月号)で、高島鞆之助・樺山資紀と児玉源太郎、後藤新平の関係を述べつつ、「ここまで書いて折よく、この見解を裏付ける資料に際会した」と書いた。その資料とは、平成十八年に発行された堀雅昭著『杉山茂丸伝〔アジア連邦の夢〕』である。内容は後稿で紹介するが、玄洋社総帥の頭山満の指南役だった杉山茂丸が、伊藤博文・山県有朋・桂太郎など長州派首脳や後藤新平を操縦していく経緯を、原資料に当たりながら解説したもので、御用史家や売文史家が従来全く気づかなかった杉山の本質を明らかにしている。この著の価値は長州派首脳に取り入った杉山が、独自の政治的価値観を以て国策を進めたことを立証した点にあるが、その一方、一介の浪人・杉山がそのような地歩に立ち得た理由については考察及ばず、また杉山が近侍した謎の貴公子・堀川辰吉郎に全く触れていないのも遺憾がある。・・・」=でした。
 

 そのうちの一点、大杉栄の暗殺について、『賢者のネジ』(藤原肇 たまいらぼ出版 2004.6.30)の当該部分を引用しておきます。

 第八章 大杉栄と甘粕正彦を巡る不思議な因縁

 対談者は、小串 正三 (元フランス三井物産総支配人)です。 
   
 
 ●後藤新平内務大臣のスパイだった大杉栄 
 ・・・
小串:松尾さんは大学もパリ生活も大先輩だが、それよりも古い時代のことだから私は良く知りません。しかし、辻の愛人だった伊藤野枝が目蔭茶屋にいた所に、神近市子がやって来て話がこじれてしまい、大杉が神近に刺されたのが葉山事件です。

藤原:刺される直前に大杉が後藤内務大臣の所を訪れて、300円の資金を内密に貰って来た話は、「自叙伝」の中に書いてあるから知られており、これが大杉スパイ説の根拠になっています。後藤新平は板垣退助が岐阜で演説している時に、襲撃されて「板垣死すとも自由は死なず」と叫んだ現場に駆けつけ、医師として治療をした経験の持ち主です。しかも、各地の県知事を歴任した安場保和の次女の和子を妻に持ち、愛知県病院に勤務していた若き日の後藤は、恩人で岳父の安場の引きで中央官界に出たのだし、この安場は横井小楠の弟子でもありました。また、福岡県知事だった安場を玄洋社の頭山満や杉山茂丸が尊敬し、しかも、後藤が民生長官として仕えた児玉源太郎総督に対して、政界の大黒幕だった杉山茂丸が私淑していたのです。

小串:じゃあ、後藤の人脈は高野長英だけでなく、横井小楠にまで広がるわけですね。

藤原:しかも、「夜明け前の朝日」(鹿砦社)の中に書いてあるが、★後藤が名古屋時代に作った娘の静子の息子が、メキシコに渡った左翼演劇家の佐野碩であり、彼は画家のシケイロスと組んでトロツキー暗殺に関連しスターリニストだったと考えられています。また、静子が結婚した医者の佐野彪太の兄が佐野学で、野坂参三とは遠戚関係で繋がっており、野坂の身内は神戸のモロゾフ製菓の筋でして、その周辺には警保局長や特高課長が多くいる。しかも、後藤新平は凄い国際感覚と政治手腕の持主だから、弾圧し易いようにシンパを結集するために、共産党を組織してスパイを潜り込ませたり、ソ連の外交官ヨッフェと親交を結ぶことで、英国流の帝国主義の実行を試みています。

小串: 後藤新平は初代の総裁として満鉄を育て、日本における東インド会社にしようと考えたのだし、その延長線の上に満州国が作られたのです。

●大杉栄の渡仏とパリに錯綜するスパイ人脈

藤原:そうです。ただ、当時の日本は軍事至上主義に毒されていたし、民主的な植民地経営を実現するためには、ソフトの分かる人材が不足していたために、秘密警察によるスパイエ作と思想統制によって、全体主義国家にと偏向してしまったのです。

小串:後藤新平が野坂参三や佐野学などを効果的に使い、共産党を作ったという藤原さんの仮説は、これまであなたが著書で強調していたから、ここでは素直に受け入れて置くとしましょう。そうなると、伊藤野枝が大杉栄の内妻になったのは、純然とした恋愛ではなくてスパイのためであり、「くの一忍法」であると考えるわけですか。

藤原:さあね、その辺は個人の内面問題に関係するので、本人以外がこうだと断定するわけには行かないし、大杉栄だってそこまで疑わなかったから、何人も子供を作って可愛がったのだと思います。また、金を渡すことで大杉の軟化を試みるように、後藤に入れ知恵したのは杉山茂丸だろうし、杉山ならそれくらいの工作は朝飯前に等しく、太っ腹の後藤なら一つ返事で了承したに違いありません。しかも、大杉のフランス行きの半年前に日本共産党が誕生しており、アナキストとはいえ大杉はボリシェビキと一緒に、協力してやっていけると信じていたことは、後藤が考える路線と共通していたから、スパイの秘密任務を引き受けていたかも知れません。

小串:後藤のスパイである伊藤野枝の影響もあり、大杉がフランスに特殊任務を帯びて渡ったとなれば、その目的はどんなものだったのでしょうか。

藤原: 今の段階ではあくまで仮定の推論だが、陸軍のシベリア出兵の背後関係を始め、フランスのフリーメーソン(大東社)の動きについて、調べることだったのではないかと思います。だが、脇が甘くじっとしていられない大杉は、ボルトーマイヨーに近い日本人会への出入りを始め、パリに住む多くの日本人画家とつき合い、持ち前の派手な行動を大胆な形でやったわけです。しかも、第一次大戦後の円高のお蔭で当時のパリには、二百人を超える日本人画家が住み着いていたし、その頂点に立つ藤田嗣治は陸軍に頼まれて、怪しい日本人に対しての監視をしていたのです。

小串:あの藤田画伯が陸軍のスパイ役とは不思議ですね。

藤原:ちょうどソ連邦が誕生したばかりであり、シベリア出兵がらみで後藤外相が動いたし、当時パリにいた佐藤紅緑は大杉に会った時に、後藤新平の支援で渡仏したのかと聞いたほど、国際関係は非常に流動的だったのです。だが、そんな微妙な情勢を無視する大杉の大胆な行動は、彼一流のスタンドプレーヤー的性格のせいで、メーデー集会で演説を試みて警察に捕まりパリの南のサンテ刑務所に拘留されてから、国外追放ということで放免になり帰国したわけです。また、大杉が日本に帰国して2ケ月後に関東大震災が起き、その時に彼は伊藤野枝や甥の橘宗一と共に、東京の麹町憲兵隊で虐殺されています。

小串:下手人は憲兵大尉の甘粕正彦だと言いますね。

藤原:ええ、そう言われています。ほとんどの歴史書には甘粕が殺したとあるが、彼が真の下手人だったかどうかは大いに疑問です。むしろ、甘柏大尉が殺人の罪を負って服役したので、陸軍全体に対して貸しを作ったことにより、その後の地歩を築いたような感じがします。だから、釈放されてから満州に渡った甘粕は、協和会の総務部長に就任することによって、新天地を築き上げる足場にしたと思います。

小串:甘粕が殺人犯ではなかったとすると、歴史を書き換えなければなりませんね。

●甘粕大尉が大杉栄たちを虐殺したという歴史の虚構

藤原:そうでしょう。特に満州国に対しての関東軍の支配において、甘粕正彦の果たした役割と軍事謀略については、もっと詳しく調べ直す必要があります。五族協和と王道楽土の建設を理想にして働いた、多くの真面目な人々の希望を砕いたのが、満州に新しい利権を築いた高級官僚や軍人たちであり、岸信介を筆頭にした植民地官僚を始め、板垣征四郎の狂信思想に毒された軍人たちは、亡国路線に大日本帝国を導いたのです。

小串:そうなると甘粕の位置づけはどうなりますか。

藤原:今の段階では未だ十分な事実分析がなされておらず、甘粕大尉が虐殺の下手人でないなら、なぜ責任を取って服役したのかという理由や、刑期の3年間を本当に刑務所の中にいたかは、徹底的に調べ直さなければいけません。当時は第一次世界大戦後の混乱の時期であり、ソ連の成立でコミンテルンが発足したので、陸軍のシベリア出兵の後始末のやり方を始め、満州国が成立するまでに至るプロセスが、どのようなものであったかについて、世界史的な視点で検討することが必要です。

小串:私か生まれたのが大正3年(1914)ですから、中学の途中までは大正時代に生きたわけで、殺される前の大杉栄も目撃できたのだし、時代の空気は子ども心にも良く覚えています。そして、大正時代というと白樺派や民本主義を考えて、直ぐに大正リベラリズムを思い浮かべますが、前半の日本は戦争景気で賑わったにしても、後半期は恐慌や関東大震災が起きて大変でした。だから、1980年代のバブル景気で沸き立った後で、10年以上も続いている大不況の日本の姿は、大正時代の生き写しに他ならないし、この数年間は既に昭和の大不況と重なっていて、大変な時代なのに誰も自覚していません。

藤原:ジャーナリズムが堕落して真実を伝えないから、日本人は自分たちが置かれている状況に対して、どれだけ危機的であるか気づかないのです。日本政府を始め銀行や企業も債務超過であり、破産状態に陥っているだけでなく、政治もまともに機能していないという意味では、今の日本は幕末よりも酷い状態です。・・・中略・・・


●権力者のしたい放題が罷り通る平成幕末の日本
 
・・・
小串:信頼関係が崩れたので将来が不安であり、身を守るために誰もが無駄な出費を控えるから、景気が一向に良くならないのは当然です。

藤原:そんな森政権を支えていたのが小泉であり、その小泉が首相になって人気稼ぎに明け暮れ、ことによると新たな情報の隠蔽が始まって、日本は更なる亡国の混乱で呻吟するのです。大震災があった大正の末期の日本で、大杉栄も甘粕正彦も刑務所に入っているが、甘粕の場合は本当に殺人者かどうか疑問であり、2人が共にいわれなき罪で服役したとしたら、日本が法治国家という幻想は空中分解です。

小串:しかし、大杉栄が後藤新平から金を受け取ったことが、スパイだという論法に従うならば、政治家は圧力団体や政商から献金を受けるので、一種のスパイ役をしていることになるから、金の動きには細心の注意が必要ですな。

●大杉栄の虐殺を巡る甘粕大尉の謎と大杉のフランス探訪旅行

藤原:懐柔目的に金を貰えばスパイと同類であり、復古主義を主張しているご用文化人たちは、権力に小遣いを貰って動いている点て、現代版のソフトなスパイに相当しています。藤田嗣治画伯だって陸軍に金を貰ったので、スパイだったと言う人もいるわけだし、名目はベルリンの「国際アナキスト大会」への出席だが、大杉栄がパリに行ったのは後藤新平に、調査を頼まれたとも言われています。どこまでがスパイ行為かは厳密に区別できないが、大杉は後藤新平の指示を受けて渡仏し、かつて甘粕がたどった足跡を探るために、フランスで行動したと言われています。

小串:でも、それは変です。甘粕大尉は大杉栄たちを殺した罪で服役し、関東大震災の4年ほど後に奥さんと一緒に、初めてフランスに渡ったのであれば、甘粕大尉の足跡を探るための旅行というのは、どう見たって辻棲が合わないと思います。

藤原:それは通説に従った甘粕の捉え方であり、彼の公式記録は1915年から18年にかけて、3年間にわたって記録の欠落があるから、1917年頃に最初の渡仏をした可能性があります。それを追及したのが落合莞爾であり、彼の「陸軍特務・吉薗周蔵の手記」によると、甘粕は1917年頃に最初の渡仏をして、フリーメーソン(大東会)に入会しています。だから、通説や角田房子の「甘粕大尉」(中公文庫)が言うような、出獄後9ケ月経った1927年2月に、初めて渡仏したという記述は疑問符付きであり、その辺のきちんとした検証が決め手でしょう。

小串: もしそれが事実であると証明されれば、大きな歴史の謎が解明されることになり、大正時代の日本史が書き換えられますね。

藤原:吉薗周蔵が残した手記の解読によると、甘粕は上原勇作元帥の忠実な手下であり、スパイとしての特殊任務でフランスに行き、ヨーロッパ工作を密かにやったようです。上原元帥はフォッシュやフォン・マッケンゼーと並んで、近代戦史における三大元帥と呼ばれていて、日本陸軍が生んだ異才だと言われています。
 彼は若い頃に野津道實少佐の玄関番をして、大学南校に学んでから陸士を首席で卒業し、フランスに留学した経歴の持ち主であり、陸軍が始まって以来の読書家だったそうです。

小串: 上原元帥がフランス派の鬼才であり、大読書家だとしたら油断できませんな。

藤原: そうですね。また、運命の不思議な巡り会わせになるが、彼は私が留学したグルノーブルの山岳師団に配属され、工兵隊の指揮をした後で日本に帰り、陸軍の要職を全てにわたり歴任しています。
 しかも、上原が留学中にフランス人との間に娘を作り、このハーフの娘が甘粕正彦の愛人になりまして、最初に渡仏した時に親密だったことが、落合莞爾の努力によって検証されているのです。

小串:歴史の謎を追うと奥行きが実に深いから、頭がくらくらするような気分に支配されるが、本当にそんなことがあるとすれば、隠れた真相の解明は興味が尽きませんね。

藤原: だから、われわれの行く手には未知の地平が広がり、困難を乗り越えてチャレンジすることによって、新しい歴史を書くことが可能になるのです。

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●『俗戦国策』 杉山茂丸 (2)
●まだ<目次>を紹介していなかったので、それから。

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<目次>

●我国上流の腐敗、下流の健全
●決闘介添え事件
●黒田清隆と初対面
●生首抵当事件
●背汗三斗
●雌伏して風雲を狙う新聞売り子
●帝国憲法発布
●東亜の大経綸と大官の密議
●血を以て彩る条約改正事件
●爆弾事件(大隈伯の片足が飛ぶ)
●星亨との強談判
●決死の苦諌、伊藤公に自決を迫る
★伊藤公、韓国統監となる
★伊藤、約を破る
★藤公と一騎打 
★決然!長船則光の短刀
           ノ
●ー億三千万弗借款事件

★総理大臣相手に経済論争
★頭山翁ビックリ仰天
★藤田伝三郎の霊に手向ける
★二万円転げ込む
★素裸で茶漬飯を喰う
★黄金王モルガンとの問答

●政府と三菱の大経済戦
●悪政党撲滅論
●児玉、後藤と台湾銀行問題
●日露開戦の魂胆
●公然たる賄賂収容銀行兼賄賂行使銀行
●古鉄責め事件
●伊藤公の霊に捧ぐ
●日露開戦
●牢記せよ国難に当たれる先輩の苦心
●戦後の大経綸―満鉄の創立
●反対党も陛下の忠臣
●電車市有問題
●大隈内閣、寺内内閣、政党の罪悪
●寺内、原、加藤、田中
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以下、●ー億三千万弗借款事件 から紹介していきます。

 ★藤田伝三郎の霊に手向ける

 
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 「・・前略・・道を開いて見たいと思います為め、東京を後にして態々(わざわざ)大阪の貴下に御相談を試みた訳であります」
 と云うたら、藤田(伝三郎)は暫く考えて居たが、斯く云うた、
 「私が五代友厚等と日本株式会社の創始を相談したのも、詰り我帝国の工業を盛んにしたいと思う趣旨に外ならないので、私は一言の御不同意を申す筋もありませぬ、成程、貴下の御咄の通り松方侯野経済論は、日本内地に限られた旧幕経済であります、日本が外国と通商条約をした以上は、外資の疎通をせねば、国は開ける鍵がありませぬ、世界の国々は、決して自国の経済丈けでは其経済が発展する訳あおりませぬ・・併し私は一言貴下に私の経験上の御注意を申して置きたいです・・・貴下が米国の資本家との御相談は、貴下が金を借りて来る事ではありませぬ、金の借りられるように、金が米国から貸される様にする事でありますぞ、夫から貴下は、決して金儲けをしてはいけませぬ、貴下が金儲けをしたら、其時から人が貴下の云う事を聞かぬようになる物と御承知になりたい、貴下が金儲けを為られたら、斯く云う私も貴下の云う事を聞ませぬぞ、故に私以外の誰でも聞ませぬ・・・貴下は現代の国家に対し、日米の間に立って大切な事を為る責任がある事を、決してお忘れになってはなりませぬ・・・此の種の事で若し費用等の御入用があったら、外間の何者にも知れぬようにさえ仕手下されば、私、今は極々の貧乏でございますが・・・ドウにも仕て御入用だけは、何時でも御用達致します」

 と云うた。庵主は此の藤田の咄を聞きつつある間に恍惚として、何だか宇宙の真理を絞り寄せた咄のような心地がして、庵主が経済界に一歩踏み入れんとする矢先に、生涯忘るる事の出来ぬ大教訓を得た思いがした事を茲に明記して、謹んで故藤田伝三郎氏の霊に手向けるのである。

それから晩餐の馳走になって帰京したが、その道々でも、3千円の借用金の事の感謝は何時の間にやら薄らかに忘れて、その藤田の無意識にスラスラと咄してくれた咄の方が忝なくて耐えられず、庵主はそれを生涯に通じて、此の日の一言を忘れず、藤田翁の死後、庵主64歳の今日まで、全く庵主の第2の性質のようになったのである。


★二万円転げ込む

 夫(それ)から横浜に行って「モールス」に面会して、洋行の決心を咄したら、彼(藤田)曰く、
 「貴下は日本の工業発達の事を思念して洋行せらるゝなら、先ず米国の工業と云う物を知らねばなりませぬ、工業を知らずに、工業の資本だけ出来る筈がありませぬ、私が今、米国の各工業家に紹介状を認めて差上ます」
 と云うから、庵主は又ギャフンと参ったのである、庵主は対松方候の開墾拓殖の資本一件と、工業発展の資本一件に対抗する事許りを考えて、先ず工業を知る事を忘れて居た所に「モールス」氏の一言にて言句も出ぬ事となって、惘然沈黙の儘「モールス」氏の云うが儘に従うたのである。
夫から、庵主は書生の時からの定宿たる、横浜停車場前の山崎屋と云うに休憩して居たら、3時間許りの後、「モールス」氏が来訪して、5通の手紙を持って来て、庵主に渡した夫を一々読み聞かせたが、通弁(通訳)は明細に之を庵主に伝えた。
曰く、第一が紐育(ニューヨーク)の本社社長「ウィリアム・スチーブン」宛、次は「チカゴ」市「イリノイス・スチールオーク」の社長宛、次は「フィラデルフィア」の「ボールドインロコモチーブ・オーク」の社長宛、次は「ダンカーク」の「コロ(ロコ)モチーブ・オーク」の社長宛、次は「バッフワロー」の「カーウィル・スチール・オーク」の社長「グリッフィン」宛である、其文面は、
 「此の手紙を携帯する○○氏は、日本に未だ一度も唱えられぬ、工業発達の実際を、実現せしめんと、夫(それ)を米国人と相談の為め渡航する人である、即ち米国の将来に対して、偉大なる好得意の代表者と見なして待遇せられん事を希望す、云々」
 等の事であったと思う、夫から「モールス」氏は「ポケット」から、金2万円を出して斯く言うた。

 「此の封金は、さきに仁川鉄道の事にて、貴下の尽力を煩わした事と、神戸水道布設の事に尽力をして戴いた事との二つに対して当時薄謝を呈したが、貴下が東洋『ヒロイズム』とか云うて受けられなかったが・・・実は本社から私の手許には支払い済みとなって居るのである、永久に私の手許に預って置く事にも行かぬから、幸い今回の用に使用して下さい・・台湾鉄道創設の事に付、重役松本直巳氏より申越された事を本社に報告して置いたから、貴下はドウカ台湾鉄道の事を充分に本社長に説明をして戴きたい、夫を願います」
 と云うて、懇々との話故、庵主はトウトウ其の2万円を受取った。
 
サア、是所が今時の青年達に庵主の一言して置きたい老婆心である、諸君は三千円入用の旅費を千辛万苦してヤット出来た所に、別に2万円立派な理由でどうしますか、今日から30年前の2万円は、今の20万円よりも使い力があるかも知れぬ、夫が庵主が金とも何とも思わず、一に藤田や「モールス」の箴言を真面目に考えて其使用方法を誤らなかったためにこそ、今日斯くして、太平楽を並べて威張っているのである。

 此の時過まって居たら、誰も疾うの昔、相手にする者はなくなったと思う、庵主は元々3千円の入用であるから、此の2万円は無くても好い物である。故に一文も之に手を付けず、頭山翁其他の親交ある恩人に幾らか分配した残りは、大軍のように押寄せて居る借金取と、九州に庵主の為に破産せんとしつつある幾多の人に塩を撒くように、少しずつ分配して仕舞うたのである

 此の心と行為が、人間味の通行券となって、幾多の不満足はあっても、一人も庵主を怨むる者がなく、先生々々と今日まで云うてくれる、即ち人間でない神の声と化して居るのである。今時の人間の有様はドウじゃ、筋悪き泥棒同様の、金をかっぱらうが早いか直ぐに銀行に入れて預金帳に書いて眺める、夫から夫を使い払う有様は、直ぐに家を建てる、芸者を受出す、別荘を構える、自動車を買う、紳士々々と云われて居る間はホンの瞬間で、直ぐに手が後へ廻る、夫から法廷に立っての言論は、大恩人が有罪になろうが、男の一分が廃たろうが、嘘八百を云うても罪さえ遁がるれば「青天白日」と云うて、泥棒の本体を大道にひけらかしている。

諸君よ、人間とは金を摑むだけが人間ではないぞ、有情共に恥辱を知るだけが人間と云う、他の禽獣と異なる者である。斯く云う庵主の行為も、決して威張る事は出来ぬ、唯禽獣でなかっただけである。ヤット人間の度外れを仕なかっただけである、其の剃刀の刃を渡るような危険な所を、よく注意して貰いたいのである、夫から東京に帰って、3日目に藤田から手紙が来た、夫は藤田の使であった、其文面は、

 「拝啓、此の間は久々振りに御来訪被下、結構なる御咄を承り、大慶此の事に存候、其節快哉に取紛れ、失念致し候間、在京の手代を以て御意を得候、其の節3千円の御入用との事故、それだけ御用達致置候が、御用途を承り、御用の事柄筋合としては、到底アノ金高にては大なる不足と存候間、取敢えず更らに金3千円、第三銀行小切手にて差上置候間、御落手被下度候、此の上とも金銭の事に就いては一層の御注意、更らに御用も有之候わば、電報を以て御申越し被下度候、海陸御無事、一入の御健康を為邦家祈上候、云々」
 と云うようの事であった。夫から直ぐに外務省の懇意な朋友に尋ねて見たれば、
 「通弁を連れて米国に行くのに、3千円位で行けるものか」
 と、事もなげに云われて、又ギャフン・・・貧窶(ひんる)なる庵主の書生魂性から、勝手に3千円もあればと速断した粗雑な考えで、又もや恥を掻いたのである。

●素裸で茶漬飯を喰う

 夫(それ)から、早速藤田へは其調査の顛末を報告して、厚く厚く親切を謝して、6千円を正金銀行に託して、米国に向って出発したのである、夫が何でも明治30年の6月3日の事であったと思う。
通弁には「モールス」氏の与えたる、店員の清水林吉という老功の人であった。横浜から乗った船は「オリエンタル・オキシデンタル・スチーム・シップ」会社の「チャイナ」号と云うのである。当時はこんな船齢40年も経った船が、一番良き船であった。

 此の時、官界日の出の働き人(て)である農商務次官藤田四郎氏及び大学教授箕作佳吉博士が「ベーリング・シー」の海豹(シール)の問題にて、華盛頓(ワシントン)大会議の為め官命を奉じて渡米するのと同伴したのである、其の外には米国政府の大蔵次官の「ハムソン」氏とかも一緒であったと思う。
夫から船中では、黒い洋服に着換えて食堂に出るのが面倒臭い為め、庵主は「ケビン」の中に閉じ籠り、海疫(シーシック)に罹ったと云うて、素ッ裸で3度の飯を食い、日本人の「ボーイ」に賄賂を遣って、何でも甘味い物を取寄せ、缶詰の沢庵などを出して茶漬飯などに舌鼓を鳴らすので、始めの程は、藤川、箕作の両紳士は庵主を野蛮的の杉山杉山と云うて居たが、段々布哇(ハワイ)近くなって暑気が増して来たら、トウトウ両氏とも庵主の「ケビン」に集合して、日本で仙人程厳格じゃと評された箕作氏が、庵主と藤田氏の真似をして素裸で茶潰飯を食出したので大笑いとなり、布哇の「ホノルルに着いたら、島村久氏(後に大阪の住友か鴻池の番頭に入った)が公使であったので、ドヤドヤと公使館に押込んで、日本的の御馳走を鱈腹食うて3人共舌鼓を鳴らしたのである、夫から桑港(サンフランシスコ)に着いたのが、何でも24日目であったと思う。
それから直ぐに「シカゴ」に往って「イリノイス・スチール・オーク」を視たが、茲に不思議な事は、庵主は少しも其の壮大に驚かなかった、ナゼなれば、総て経済的設備に注目し、其の「ミシガン」の湖水を応用して居る処を見て、日本では海とドンナ関係に仕ようとか、其燃料の石前輪送管を使用して居る処を見ては、何、金さえあれば其の30哩に対する資本償却法は何でもないと思うた。

人間は不思議な動物であって、其の思念と境遇が緊張すれば、決して驚く物ではない、日露戦争でも、外国の観戦武官が見ての驚きは大変な物であったが、戦争当事者の日本軍人は其の戦時の責任に当面して居るから、何をしても当然の事を仕て居ると外思わぬのである、庵主も当時は、全く渾身の精が其の視察に注がれて居た物と思う、夫が観光旅人ででもあったら、只だ驚いて少しも要領を掴む事は出来なかったのであろうが、庵主は其の社長の饗宴に往っても、色々の奇矯の言を吐いて其の社長を煽だて、色々と手に入れる事の出来ぬ書類まで貰うて来て、帰朝の上、時の農商務次官金子堅太郎氏に之を提出したが、何でも金子次官がそれらを何とかして、門司の製鉄所を創設せられたそうである。
時の農商務大臣・榎本武揚氏は庵主が前から懇意の人であったから、築地の柏屋と云うに招待して製鉄所創設の事を説いた事がある、此等は帰朝後の話である。

●黄金王モルガンとの問答 へ続く。

●『期待と回想』 鶴見俊輔
●『期待と回想』 鶴見俊輔 朝日文庫 2008.1.30

(原著は1997.8月刊 晶文社。) よりのメモ。


7。伝記のもつ意味  より。 p396~
 (質問者は小笠原信夫 日時は1994.4.30 )

*章頭の質問は次の通り。
 鶴見さんの仕事で伝記というスタイルの表現が多くありますが、人とその生きてきた時代を、いまという時代に置いてみようということではないかと思います。
 70年代に入り『高野長英』、それ以降『柳宗悦』『太夫才蔵伝』『夢野久作』『アメノウズメ伝』。こうした伝記を書こうというときに何を心がけていますか。
 *************


★『高野長英』は史料がものすごく多いという感じがしました

 江戸時代の史料というのは使ったことがなかったんです。本格的に史料調査をやる人だったらもっと楽々と書くのではないでしょうか。これを書こうという直感は、高野長英(1804一50)は悪党だということなんです。高野長英を美化しようとか、尊皇の志士という諸説から切り離したかった。それからもう一つある。「べ平連」での脱走兵援助があったことですね。高野長英は脱走囚となって逃げたでしょう。それです。

 高野長英自身は悪党なんだが、かれを助けた人は長英より逞かにえらい人なんだ。長英を助けている人たちが、あちこちにいて、いずれも立派な人たちだった。貧乏しているけど先祖が長英をかくまったことを今も愉快に思っているんだね。上州にいましたよ。このことな
んです。私か脱走兵援助をしていなかったら、これを書くモティーフは出てこなかったでしょう。長英が残した『蛮社遭厄小記』はすごい。牢屋に入れられるとふつうはあきらめるものなんだが、高野長英は金を小者にやって火をつけさせ逃げるでしょ。すごい知恵じゃないですか。「べ平連」で脱走兵援助を一所懸命やったが、それはいったん終わった。アメリカの基地から出てきた脱走兵を助けた人たちと同じ気分を、高野長英を助けた人たちはもっていたと思う。そのことを、ゴシップでもいい、嘘でもいい、集大成してみよう。そんな思いなんです。

 『夢野久作』は、京都で「家の会」(サークル)をつくったころに話したことがあるんですが、杉山茂丸と夢野久作という父親と息子の関係に興味をもっていたんですが、意外なことに夢野久作の長男の杉山龍丸さんという人物が現れて、私の家に何度もやってきたんです。私が夢野久作について20枚ほどの原稿を書いた(1962年)ことがきっかけなんです。手紙を送ってきて、それから来るときはかならず伊勢名物の「赤福」を持ってきたんですよ。京都駅で買ってきたのでしょ。

 三一書房が夢野久作の全集を出すというので、谷川雁が兄の谷川健一に頼まれ、私を巻きこもうとした。杉山龍丸は、この全集の編者に入ってくれるなという内容の電報を打ってきた。そのあとに手紙がきたんだけど、「あなたと私とのあいだに金を介在させたくない。あ
なたが編者に加われば、かならず金の問題について私は要求することになる。それがいやだ」と書いてあった。

 かれとしては、私との関係は「赤福」を持って訪問するだけにしたい。『声なき声のたより』という小さな通信に文章を書いて送ってくれたこともあった(鶴見著『夢野久作』に収録)。こうした関係性は右翼的なものなんです。

 あとでわかったんだが、かれは夢野久作から3万坪の土地を残されていた。その金で、インドのガンジーがつくった塾の生き残りを日本に連れて来たり、世界の砂漠の緑化をやったりと全部使いきっていた。全集を出した三一書房から多くの印税が入ったと思うが、それも使いきっちゃっていた。ほんとに何にもない、文なしで人生を終えた人なんです。

 私から見るとそれは壮挙だね。こういう人間が日本の高度成長という時代にいるんだね。私もそうありたいと願っている。一種の理想なんだ。それに感激して、『夢野久作』を書いた。はじめは「家の会」的に親と子という関係で書こうと思っていた。杉山茂丸から夢野久作へ。それはある程度アカデミックな構想なんです。しかし変わってしまった。杉山龍丸という人物の登場によって。私としては、この本は、杉山龍丸に対する供養という気持ちがつよい。高度成長のときに、こういう人間がいる。福岡で3万坪というのは大変なものでしょ。それを少しずつ売っていった。かれは弟にもほとんど金をやっていない。弟に家をたててはいるんですが、戦前の長子相続権を戦後になってもがんと守った。無茶な人ですがね。

 彼は、CDIのアンケート調査で、福岡にずっと住みつづけるつもりだ。どこか別のところに行くとしたら京都だ。あそこは友だちがいるし、いい学生たちがいる、と答えた。友だちというのは私のことで、いい学生たちというのは奈良でハンセン病患者でも泊まれる家(むすびの家)をつくった柴地則之といったワークキャンプの学生たち。私は胸をつかれた。かれは杉山茂丸の孫だということで、左翼から毛嫌いされ、右翼とも喧嘩ばかりしていた。こういう男はすごいなあと思う。光を放つ、そこのところがないと伝記は書けないでしょう。

★右翼といえば、鶴見さんは葦津珍彦さんとも親しいですね。
             
 葦津さんには感心しています。葦津さんを記念する本をつくりたいと思っているんですが、もう私には力がなくてね・・。葦津珍彦という人は市井三郎が連れてきたんです。葦津さんに、夢野久作の息子が生きているはずだけど紹介していただけないか、と頼んだことがあるんだが、それはできない、あの人はよく喧嘩する人です、といった。たしかにその助言は有効だったんです。しかし私は杉山龍丸とは喧嘩をしたことはないんですよ。かれは突如として来るけど、私が家を出る用事があるというと「赤福」だけを置いてすぐに帰っていく。お
互いのあいだに最後までお金をいっさい介在させなかったね。・・・以下略・・・

  <続く>
●『期待と回想』 鶴見俊輔
●『期待と回想』 鶴見俊輔 朝日文庫 2008.1.30
(原著は1997.8月刊 晶文社。) よりのメモ。

 4.転向について(質問者は北沢恒彦 日時は1993.9.25)

 ★転向よりも重要な問題  p216~


 いま自分は「転向」よりも重大な問題があると考えるようになった、と最初におっしゃいましたね。それはどういうことなんでしょう?

 転向論をやってるあいだは何でもかんでも転向と結びつけて解釈していたけど、30年たって、いまの私は、転向は人間のもっとも重要なテーマじゃない、という感じがしているなにがもっとも重要なテーマかというと、「生きていていいのか」「なぜ自殺しないのか」という問題なんですよ。哲学の問題としては、転向よりもこっちの方が重いんですね。
  
 この考え方に光を当てるために、『西田信春 書簡・追憶』(土筆社)という本を待ってきたんです。石堂清倫(社会思想研究家)、中野重治、原泉(女優。中野重治と結婚)の三人の共著。本のタイトルになってる西田信春という人は、戦前の日本共産党の九州地方委員長だったんだが、警察のスパイだという説があった。当時の共産党の資料は調べることができませんから、戦後もながくスパイだったと思われていた人なんです。

私がこの本と出会うのには因縁があってね、夢野久作(作家)の伝記を書いていたときに読んだ。夢野久作が福岡で秘書役に採用した紫村一重という人物がいるんです。当時、かれは共産党員ということで起訴されて裁判が進行中だった。にもかかわらず夢野はかれを自分の秘書にした。紫村は転向したんだけど、底の底までは転向してなかった。監獄で雑役をしていたとき、自分たちの指導者を売った西田信春のことを探って、とうとうかれの警察調書を発見するんです。それを読んで西田はスパイどころか、拷問にあっても自白をせず、警察署の階段をズルズルと何度も頭から落とされているうちに死んだということがわかった。逮捕されたのが1933年2月10日で、死んだのが翌日です。その事実を警察は嘱託医をごまかして、「職務熱心でこうなりました」といっている。

 そのことが戦後になって明らかにされた。それは西田と交渉のあった中野重治や石堂清倫にとってはたいへんなショックだったんです。それでこの本ができたんです。

 この本に西田の配下だった前田梅花の書簡がおさめられている。西田にはハウスキーパーがいた。北村律子というんです。この北村律子は笹倉栄というスパイと結婚していた。そのことで前田は、西田の疑いが晴れたあと、「なぜあんたは西田ではなく笹倉と結婚したのか」と律子を詰めるんです。それに対して、律子は「たとえかれがスパイであったとしても、私はかれを愛しているから離婚するつもりはない」と答えた。前田は、それはいやだな、と思うんですけども、ついに最後は気持ちの整理がついた。「笹倉は許さなくても律子は許してやらなくてはならないと思いました。西田が遠いところから、ああもういいよといっている気がしますね」。これが前田梅花の最終的な結論なんです。

 政治行動というのは表面のことのように私には思える。それに魂を奪われたくない。スパイと一緒に暮らすことは悪いことなのか。かならず離婚しなきやいけないのか。私は、政治思想を共にしなくても、旦那がスパイであっても一緒に暮らしていくのは一つの立場のよう  な気がします。前田梅花が最後に達した結論は私には理解できる。転向よりも裏切りよりも深い問題がある。転向者として同志を売るようなことをやって、どうして生きていったらいいだろう。そこで自殺するという考え方もあるでしょ、熊沢光子(てるこ)のように。生命のかたちはそれを否定するものとの葛藤なのであって、そこまで降りていくと政治的転向より深い問題に出会うと思いますね。

 生命のかたちはいつでも生命の否定とない合わせになっている。どうしたら生きていけるのか。いっそ自殺しようか。それが根本の問題なんです。転向研究から離れたあとの30年で、私の中に定着した考え方なんです。
 私の姉はアメリカに行ったときからマルクス主義者で、その後、離れた。そして親父が選挙戦に出て倒れたのち、ひとりで膨大な借財を整理して親父の面倒をを見ていたんです。ところがプリンストン大学で博士号を取るためにアメリカに行かなければならなくなった。姉のほかに私と妹、弟と三人いたけど、引き受け手がいなくて、結局、私が家にもどってしばらく世話をした。私は1951年から15年間、親父の家に足を踏み入れたことがなかったんですけどね。

 思想の表面だけを見れば、姉には一貫性がない。だけど彼女が親父の面倒を見ていたから、私はデモとか座りこみとか自由にやることができた。親父が倒れたあとだって一文も家に入れたことはありませんよ。もし姉がいなかったら私が親父の世話を引き受けなければならない。社会的、政治的な活動もしなかったでしょうね。家のこと、親父のことを考えると、姉に対して頭が上がらない。そういう問題があるんですよ。著作の上での一貫性とはちがう問題がある。転向だけを問題として他人を押しまくることはできやしない。それが現在の立場ですね。転向よりも重大なものがあるということなんです。

  <続く>
 






(私論.私見)

●夢野久作・『近世快人伝』
 ●奈良原到 (上)
 
 筑摩文庫版 夢野久作全集 11 より引用します。


 前掲の頭山、杉山両氏が、あまりにも有名なのに反して、同氏の親友で両氏以上の快人であった故・奈良原到翁があまりにも有名でないのは悲しい事実である。のみならず同翁の死後と雖も、同翁の生涯を誹謗し、侮蔑する人々が少なくないのは、更に更に情ない事実である。

 奈良原到翁はその極端な清廉潔白と、過激に近い直情径行が世に容れられず、明治以後の現金主義な社会の生存競争場裡に忘却されて、窮死した志士である。つまり戦国侍代と同様に滅亡した英雄の歴史は悪態に書かれる。劣敗者の死屍は土足にかけられ、唾せられても致方がないように考えられているようであるが、しかし斯様な人情の反覆の流行している現代は恥ずべき現代ではあるまいか。

 これは筆者が故奈良原翁と特別に懇意であったから云うのではない。又は筆者の偏屈から云うのでもない。

 志士としては成功、不成功なぞは徹頭徹尾問題にしていなかった翁の、徹底的に清廉、明快であった生涯に対して、今すこし幅広い寛容と、今すこし人間味の深い同情心とを以て、敬意を払い得る人の在りや無しやを問いたいために云うのである。

 その真黒く、物凄く輝く眼光は常に鉄壁をも貫く正義観念を凝視していた。その怒った鼻。一文字にギューと締った唇。殺気を横たえた太い眉。その間に凝結、磅礴(ほうはく)している凄愴の気魂はさながらに鉄と火と血の中を突破して来た志士の生涯の断面そのものであった。青黒い地獄色の皮膚、前額に乱れかかった縮れ毛。鎧の仮面に似た黄褐色の悠髭、乱髯(らんぜん)。それ等に直面して、その黒い瞳に凝視されたならば、如何なる天魔鬼神でも一縮みに縮み上ったであろう。況んやその老いて益々筋骨隆々たる、精悍そのもののような巨躯に、一刀を提げて出迎えられたならば、如何なる無法者と雖も、手足が突張って動けなくなったであろう。どうかした人間だったら、その翁の真黒い直視に会った瞬間に「斬られたツ」という錯覚を起して引っくり返ったかも知れない。

 事実、玄洋社の乱暴者の中ではこの奈良原翁ぐらい人を斬った人間は少かったであろう。そうしてその死骸を平気で蹴飛ばして瞬一つせずに立去り得る人間は殆んど居なかったであろう。奈良原到翁の風貌には、そうした冴え切った凄絶な性格が、ありのままに露出していた。微塵でも正義に背く奴は容赦なくタタキ斬り蹴飛ばして行く人という感じに、一眼で打たれてしまうのであった。

 この奈良僚翁の徹底した正義観念と、その戦慄に価する実行力が、世人の嫌忌を買ったのではあるまいか。そうしてその刀折れ矢尽きて現社会から敗退して行った翁の末路を見てホッとした連中が「それ見ろ。いい気味だ」といったような意味から、卑怯な嘲罵を翁の生涯に対して送ったのではあるまいか。
  実際・・・筆者は物心付いてから今日まで、これほどの怖い、物すごい風采をした人物に出会った事がない。同時に又、如何なる意味に於ても、これ程に時代離れのした性格に接した事は、未だ曾て一度もないのである。
そうだ。奈良原翁は時代を間違えて生れた英傑の一人なのだ。・・・
略・・・

 こうした事実は、奈良原翁と対等に膝を交えて談笑し、且つ、交際し得た人物が、前記頭山、杉山両氏のほかには、あまり居なかった。それ以外に奈良原翁の人格を云為(うんい)するものは皆、痩犬の遠吠えに過ぎなかった事実を見ても、容易に想像出来るであろう。

 明治もまだ若かりし頃、福岡市外(現在は市内)住吉の人参畑という処に、高場乱子(たかばらんこ*ママ)女史の漢学塾があった。塾の名前は忘れたが、タカが女の学問塾と思って軽侮すると大間違い、頭山満を初め後年、明治史の裏面に血と爆弾の異臭をコビリ付かせた玄洋社の諸豪傑は皆、この高場乱子女史と名乗る変り者の婆さんの門下であったというのだから恐ろしい。・・・略・・・
 (*奈良原少年もこの高場女史の薫陶をうけた。この塾に集う青少年が後に「健児社」を結成、時は西南戦争(事変)のころ。この「健児社」は「玄洋社」の前身をなす。)

・・・
そんな連中と健児社の箱田六輔氏等が落合って大事を密議している席上に、奈良原到以下14・5を頭くらいの少年連が16名ズラリと列席していたというのだから、その当時の密議なるものが如何に荒っぼいものであったかがわかる。密議の目的というのは薩摩の西郷さんに呼応する挙兵の時機の問題であったが、その謀議の最中に奈良原則少年が、突如として動議を提出した。
 「時機なぞはいつでも宜しい。とりあえず福岡鎮台をタクキ潰せばええのでしょう。そうすれば藩内の不平士族が一時に武器を執って集まって来ましょう」・・・
 これを聞いた少年連は皆、手を拍って奈良原の意見に賛成した。口々に、
「遣って下さい遣って下さい」
と連呼して詰め寄ったので並居る諸先輩は一人残らず泣かされたという。その中にも武部小四郎氏は、静かに涙を払って少年連を諌止した。
 「その志は忝ないが、日本の前途はまだ暗澹たるものがある。万一吾々が失敗したならば貴公達が、吾々のあとを継いでこの皇国廓清の任に当らねばならぬ。・・・間違うても今死ぬ事はなりませぬぞ」
 今度は少年連がシクシク泣出した。皆、武部先生のために死にたいが結局、小供たちは黙って引込んでおれというので折角の謀議から退けられて終った。

 かくして武部小四郎の乱、宮崎車之肋の乱等が相次いで起り、相次いで潰滅し去った訳であるが、後から伝えられているところに依ると、これ等の諸先輩の挙兵が皆、鎮台と、警察に先手を打たれて一敗地に塗れた原因は、皆奈良県少年の失策に起因していた。奈良県少年が破鐘のように大きいのでその家を取巻く密偵の耳に筒抜けに聞えたに違いないという事になった。それ以来「奈良県の奴は密議に加えられない」という事になって同志の人は事ある毎に奈良県少年を敬遠したというのだから痛快である。・・・略・・

 一方に盟主、武部小四郎は事敗れるや否や巧みに追捕の網を潜って逃れた。・・略・・とうとう大分まで逃げ延びた。ここまで来れば大丈夫。モウー足で目指す薩摩の国境という処まで来ていたが、そこで思いもかけぬ福岡の健児社の少年連が無法にも投獄拷問されているという事実を風聞すると天を仰いで浩嘆(こうたん)した。万事休すというので直に踵を返した。幾重にも張廻わしてある厳重を極めた警戒網を次から次に大手を振って突破して、一直線に福岡県庁に自首して出た時には、全県下の警察が舌を捲いて雲散したという。そこで武部小四郎は一切が自分の一存で決定した事である。健児社の連中は一人も謀議に参与していない事を明弁し、やはり兵営内に在る別棟の獄舎に繋がれた。
 健児社の連中は、広い営庭の遥か向うの獄舎に武部先生が繋がれている事をどこからともなく聞き知った。多分獄吏の中の誰かが、健気な少年連の態度に心を動かして同情していたのであろう。・・・略・・

武部先生が、死を決して自分達を救いに御座ったものである事を皆、無言の裡に察知したのであった。
 その翌日から、同じ獄舎に繋がれている少年達は、朝眼が醒めると直ぐに、その方向に向って礼拝した。「先生。お早よう御座います」と口の中で云っていたが、そのうちに武部先生が一切の罪を負って斬られさっしやる・・俺達はお蔭で助かる・・という事実がハッキリとわかると、流石に眠る者が一人もなくなった。毎日毎晩、今か今かとその時機を待ってい  るうちに或る朝の事、霜の真白い、月の白い営庭の向うの獄舎へ提灯が近付いてゴトゴト人声がし始めたので、素破こそと皆決起して正座し、その方向に向って両手を支えた。メソメソと泣出した少年も居た。

 そのうちに4・5人の人影が固まって向うの獄舎から出て来て広場の真中あたりまで来たと思うと、その中でも武部先生らしい一人がピッタリと立佇よって四方を見まわした。少年達のいる獄舎の位置を心探しにしている様子であったが、忽ち雄獅子の吼えるような颯爽たる声で、天も響けと絶叫した。
「行くぞオオー-一一オオオ--」
 健児社の健児16名。思わず獄舎の床に平伏して顔を上げ得なかった。オイオイ声を立てて泣出した者も在ったという。

「あれが先生の声の聞き納めじやったが、今でも骨の髄まで沁み透っていて、忘れようにも忘れられん。あの声は今日まで自分(わし)の臓俯(はらわた)の腐り止めになっている。
貧乏というものは辛労い(きつい)もので、妻子が飢え死によるのを見ると気に入らん奴の世話にでもなりとうなるものじゃ。
藩閥の犬畜生にでも頭を下げに行かねば遣り切れんようになるものじゃが、そげな時に、あの月と霜に冴え渡った爽快な声を思い出すと、
腸がグルグルグルとデングリ返って来る。何もかも要らん『行くぞオ』という気もちになる。貧乏が愉快になって来る。先生・・・先生と思うてなあ・・・」
 と云ううちに 奈良原翁の巨大な両眼から、熱い涙がポタポタと毀れ落ちるのを筆者は見た。

奈良原到少年の腸(はらわた)は、武部先生の「行くぞオーオ」を聞いて以来、死ぬが死ぬまで腐らなかった。
 
 奈良原到 (上) より。 略部あり。 

 




●『杉山茂丸伝』ー(3)
 『杉山茂丸伝』 第一章 自由民権の嵐 より。

  ***************
 ●吉田磯吉と珍山尼

 代々黒田藩士だった杉山茂丸の家が、住み慣れた福岡城下を離れて芦屋に移ったのは明治2(1869)年である。幕府が終われば侍は百姓に戻るべきであると茂丸の父・三郎平が「帰農在住」を藩主の黒田長溥(ながひろ)に進言し、明治4年の廃藩置県を待たずに自ら身分をなげうった結果だった。これにより杉山家は秩録公債という失業保険さえ貰えず、芦屋で苦しい生活を送ることになる。芦屋は遠賀川が玄海灘に注ぐ北九州の鄙びた海辺だった。

 杉山一家を迎えたのが★トンコロリンの妙薬で財を成した勤皇派薬商・塩田久右衛門であった。三郎平は久右衛門の庇護のもと昼間は海で漁をし、夜は近所の子弟を集めて私塾を開いた。また、妻の紫芽(重喜)も近所の娘たちに裁縫を教えた。このような生活を久右衛門が亡くなる明治9年までの約7年間、芦屋で続けるのである。6歳から13歳までの間、今でいう小学生の時期を茂丸は芦屋で過ごしたことになる。

 この土地で茂丸の身の回りに幾つかの出来事が起きた。第一が後に仁侠政治家として名を馳せる吉田磯吉との出会いである。3歳年下の磯吉との思い出を茂丸は次のように語る。*掲載写真(=磯吉の正装写真・略)の説明にはこうある。・・吉田磯吉。子分が神戸に流れ、山口組発足のきっかけを作った。また嗣子の敬太郎が初代若松市長となった(吉田淵世氏蔵)
・・・

 「その頃が私の餓鬼大将の最も盛んな時で、敵味方に別れて戦をやる。私が采配を振って〈進め!〉というと、吉田がいつも真先に飛んでいったものだ。その後、だんだん大きくなるにつれて、私はそのようなことをいつとはなしに忘れてしまっていたが。ずっと後になって吉田が私を訪ねてきた時、少年時代の私の餓鬼大将ぶりの話をして、二人で大いに笑ったことがある」(『吉田磯吉翁伝』「餓鬼大将の時代から」)

 磯吉はその後、遠賀川で筑豊の石炭を運ぶ川ヒラタの船頭となり、喧嘩で名を上げ、川筋者の顔役となる。つまり北九州任侠界の嚆矢だが、更に花柳界、炭鉱、興行界で力をつけ、大正4年に民政党から立候補して当選、侠客議員として中央政界に進出する。政界で手腕を発揮したのが大正10年に起きた郵船会社事件たった。それは国策会社の郵船会社の利権を政友会が一人占めしようとしたことで内紛が起き、このとき山県有朋が茂丸に相談したことで茂丸が磯吉を動かしたときである。結果、磯吉が手打ちを行い、事件は無事に解決した。

 話を芦屋時代に戻すと、茂丸は母・紫芽をこの土地で失った。生活の苦労が災いしての死で、明治5年7月、茂丸8歳の時だった。これにより父・三郎平は後妻として親戚筋の林家から友(とも)を迎える。天然痘の跡が顔にあることで後に杉山家で「ジャンコ婆さん」と呼ばれる人である。ジャンコとは福岡地方の方言で顔に痘痕(あばた)かあることをいったからだが、ともあれこのときから彼女が茂丸の継母となった。

 実母を亡くした失意の時期に、茂丸はもう一人別の女性と出会っていた。女医の珍山尼である。彼女は福岡藩の侍医であった青柳家に生まれ、本名を秀子といったが、祖父と父が長州勤皇派と関係したことで切腹させられ、その後、香月恕経(かつきひろつね)の叔父である小倉の医者・半田珍山に引き取られて養女になったことで珍山尼を名乗るようになった。このとき茂丸は彼女から歌の手ほどきを受け、勤皇思想の教えを受けた。

 面白いのは後に茂丸の盟友となる頭山満も同じ頃、福岡で興志塾(人参畑塾)を開いていた眼科女医の高場乱(たかばおさむ)を訪ね、彼女から勤皇主義を教えられていたことである。国権派の代表格となる二人が国
権思想の基礎を教わったのは、いずれも女医だった。また茂丸は水戸学派の学者だった父・三郎平から『大学』などを教わり、「民を親にするに存り」というような独特の民主的天皇観や社会観の基礎を学んだ。

 一方、書を習ったのが芦屋の海霊寺(天台宗)で、ここで和尚から法螺貝の吹き方を習ったことにより、後に「ホラ丸」の異名を持つようになったと『百魔続篇』で語っている。

●伊藤博文との出会い

「岩城山県立自然公園 伊藤公記念公園」。山口県大和町束荷(つかり)に、その公園はあった。周囲の田園風景を眺めながら坂道を上ると、二階建ての白亜の洋館が突然目の前に立ちふさがった。伊藤公記念館だ。清水組(現在の清水建設)が工事を請け負い、明治42年3月に着工したと入り口に書いてある。伊藤自らが基本設計をして、翌43年5月に完成したが、日韓併合前の同42年10月26日に彼自身は満洲国ハルビン駅頭で
安重根に暗殺された。つまり伊藤は、この洋館の完成を見ることなく死んだ。

 隣に建っていたのが生誕150年を記念して平成9年に開館した資料館で、裏手の丘に以前、伊藤神社があった。「故伊藤公爵遺跡保存会」が大正8年5月に建立した神社だが、今は跡地に椅子に座した伊藤の銅像が据えられているだけだ。これらの施設が整備されているのは、そこが伊藤の生誕地のためで、実際、敷地の片隅には茅葺平屋の生家が復元移築されていた。伊藤はここで天保12(1841)年に生まれたが、当時はまだ★林利助の名で(林家の本家は束荷村の庄屋)、14歳で萩の下級武士・伊藤家の養子に入ったのである。そして萩において吉田松陰の松下村塾で尊攘思想を学び、そこで知り合った高杉晋作らと維新運動に参画した後、文久3(1863)年に脱藩してイギリスに密航、岩倉遣外使節団参加(明治5~6年)を経て初代総理大臣に上り詰めるのだ。しかしその直前、伊藤は杉山茂丸に命を狙われた。

 それは朝鮮で起きた甲申事変の処理で李鴻章と交渉するため、天津に旅立つ矢先のことだ。明治18年2月で、伊藤は43歳、茂丸は22歳。そのときの茂丸の風貌といえば、フンドシを硬く締め上げ素肌に着物をまとい、羽織の下にタスキを掛けるという、いかにも怪しげなものだった。身の丈170センチを越える巨体ゆえ、素手で伊藤を殺せると思っていた茂丸だが、実際に伊藤に会ってみると想像とはかなり違っていた。そのときの印象を次のように語っている。
「写真で見たとは大違ひで、ソンナ堂々とした人物ではございませぬ。すこぶる貧乏らしき顔をした小男であります」(『其日庵叢書第一編』)

 それでも茂丸は激しく詰め寄った。しかし伊藤は驚いた様子もなく、子供をあやすかのように落ち着いて答えた。しかも★自分の若い頃とそっくりとまでいった。確かに伊藤も高槻藩士の宇野東桜や国学者の塙次郎を暗殺していたし、長井雅楽の暗殺未遂事件も起こしていた★元過激派だった。高杉晋作、久坂玄瑞、山田顕義たちと品川御殿山の英国公使館を焼き討ちしたこともある。攘夷から開国に転じたのは翌・文久3年に井上馨らとイギリス留学(密航)してからだ。そんな体験を語った伊藤は、自分を殺しても世の中は良くならないから、お互い国のために尽くそうと諭した。茂丸は納得した。実にこれが伊藤との初対面だった。

 *林利助―俊助・・など当時の名前は多種にわたる。山県なども同様で名前はもちろん、系図など貧農・最下級武士の彼らにあるはずもないが、維新後冗談半分、勝手放題に作り変えた。
山口県図書館に問い合わせれば、資料を郵送してくれます。
 *過激派というよりは、テロリスト、殺し屋のほうが実情に近い。
  「自分の若いころに・・・」というのはそれの自認の言。

●士族たちの最後の戦い

 明治維新の後、新政府の中枢部に上り詰めた長州人たちは萩町内会的というべき身内優先の政治に始終したため、各方面から憎まれた。福岡出身の杉山茂丸がそのシンボル的存在だった伊藤博文の暗殺を考えるに至ったのも、そのためだ。『俗戦国策』で、「水戸も筑前も、薩長藩閥の鳶に、尊王攘夷と云ふ油揚げを浚はれたと同じ事である」と語るように、茂丸の家をはじめとした筑前士族(筑前勤王派)が明治維新に貢猷したにもかかわらず、功績を薩摩と長州人脈が独り占めした怒りがあった。それは茂丸一人の憤慨ではなく、旧黒田藩士族の子弟たちに共通する憤りである。後に彼らが自由民権結社「玄洋社」を結成し、政府と妥協したかに見える国権伸長論を掲げた後も、反政府的な態度を裏に秘めた理由が、そこにある。
 
 *写真:前原一誠らが処刑されたとされる新獄跡。頭山たちもここにいたようである(萩市恵美須町)

彼らが新政府の中枢から外されたのは、西郷隆盛の西南戦争に呼応して明治10(1877)年3月に福岡の変を決起したのが直接のきっかけだった。前年秋から熊本で神風連の変、福岡で秋月の変、年末には山口で萩の変が起きており、福岡の変もその延長線上の出来事だった。これらはいずれも廃刀令など旧士族の冷遇に不満を持った面々が一団となり、新政府に反旗を翻した事件だが、わずか14歳の茂丸もこのとき福岡の変に参加していた。しかし、「成年未満で無罪で返へされた」(『其日庵叢書第一篇』)のである。
  そして全ての叛乱が鎮圧されると、残党たちはことごとく新政府の弾圧を受けた。もちろん茂丸の家も例外ではなく、一家をあげて筑前・山家宿(現福岡県筑紫野市に転居し、旧宿場医の加島家での居候生活となる。この加島家は山家に現存し、昭和38年に地元有志者たちが建てた「東洋国士 杉山茂丸遺蹟」の石碑が庭に残り、茂丸たちが暮らした部屋がわかる旧加島家の見取図も保存されている。それによると玄関脇の六畳と八畳間を間借りして、生活のために鍬や鎌の柄を作ったり、米の買い出しをしていたようである。
 
一方、福岡の変の痕跡は、福岡市郊外の平尾霊園で見ることができ、一郭に首謀者だった★武部小四郎の辞世の刻まれた「魂の碑」が建っている。事件後に再決起を考えていた武部であるが、少年たちが次々弾圧されていく様子を見兼ねて自首し、処刑されたのだ。その直前に武部が、「行くぞオオーオオオー」と絶叫したのを健児16名が床にひれ伏して聞いていたと夢野久作は『近世快人伝』で書いている。実に、この絶叫こそが、後の玄洋社を生み、茂丸が伊藤暗殺のために上京する原動力となった。
 この時期、茂丸より9歳年上の頭山は、萩の変の首謀者である前原一誠と連絡をとっていたことで萩で拘禁されていた。頭山とともに後に玄洋社を興す★箱田六輔(第四代・玄洋社社長)や進藤喜平太(第二、五代玄洋社社長)も皆、萩の獄舎にいた。皮肉にも彼らは萩の変に連座したために一命をとりとめたのだ。 


 *・・一方、福岡の変の痕跡は、福岡市郊外の平尾霊園で見ることができ、一郭に首謀者だった★武部小四郎の辞世の刻まれた「魂の碑」が建っている。事件後に再決起を考えていた武部であるが、少年たちが次々弾圧されていく様子を見兼ねて自首し、処刑されたのだ。その直前に武部が、「行くぞオオーオオオー」と絶叫したのを健児16名が床にひれ伏して聞いていたと夢野久作は『近世快人伝』で書いている。実に、この絶叫こそが、後の玄洋社を生み、茂丸が伊藤暗殺のために上京する原動力となった。・・
 

 以下、参考までにこの『近世快人伝』の印象的な一文を引用・紹介します。
 「近世快人伝」 ★奈良原到  より。 


 (続く)
 



●『杉山茂丸伝』ー(2)
★次は「おわりに」と題した興味深い文章です。

 違和感を感じる箇所(後ほど記す)もありますが、誠実さ(特に「附記」)は充分に伝わってきました。

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おわりに

 この作品を書くのに、ほぼ全力投球で五年を費やしたが、そのことは杉山茂丸の評伝に苦戦したことをそのまま物語っている。そして執筆の終盤においてソウルを取材する気になったのは、茂丸の大きな目標であった日韓合邦(日韓併合)のその後を、自分の目で確かめたかったからだ。
 ソウルには福岡国際空港から三時間で到着できた(仁川国際空港までは僅か一時間半)。まず、そのことが外国ではないという親近感を与えた。それに街の風景が日本と似ていたことで益々それを感じた。目の前に高層アパートが建ち並び、渋滞する自動車の排気ガスで霞がかった人ロ1000万人を越えるソウルの街は、出発地の福岡がそうであったように、日本のどこにでもある地方都市がそのまま肥大化した風情があった。自動車が左ハンドルで看板類がハングル語という以外、街そのものの空気はどこか懐かしい日本的な匂い示して、私の身体を拒絶するものは無いに等しい。
 この街の発展は、ここ20年ほどのもので、具体的には1988(昭和63)年のソウルオリンピック以来のものといわれるが、街を歩いて感じるのは短期間で近代化がうまく進んでいるという印象である。わずかの期間で発展できたのは、大日本帝国が近代化の基礎を築いていたからであり、どこか懐かしいという印象も、たぶんその辺りに起因するものだろう。しかし、それ以上に感じるのは、大日本帝国が朝鮮に恋慕を抱いていたのではないかということである。

昭和九年に京城蓮建洞(よんこんどん)の興亜堂書店から『京城遷都論』なる本が日本人の豊川善嘩により発行された。京城(現在のソウル)を日本の首都にすべきと主張する書物が出版されたこと自体、この街で暮らす日本人の朝鮮に対する恋愛感情を示していた。日本政府が皇民化政策で打ち出した官製の「内鮮一体」以外に、民衆の内から芽生えた朝鮮への愛があっても不思議はないというのが、ソウルを歩いた実感である。

 例えばソウル駅に隣接する赤レンガ造りの旧ソウル駅舎を見たときがそうだ。東京駅に匹敵する外観の美しさに、植民地主義以外の別モノを感じた。しかし韓国側にも似た心情があったようで、駅舎前の説明板に、「日本が中国大陸侵略の足場として、ソウルと新義州を結ぶ京義線と、ソウルと元山を結ぶ京元線を利用するために、1922年6月に着工、1925年9月に竣工した」と悪口風に書きつつも、実際には「史跡第ニ八四号」に指定して大切に保存していたからだ。日本国内でもそうであったように鉄道は軍事目的で敷設されながら、やがて近代化に大きな貢献を果たした。総工費94万5000円という当時としては膨大な予算を組み、朝鮮総督府が3年以上の歳月を費やして建設した豪華な駅舎は、この土地を愛した日本人のエ不ルギーが完成させた建造物という気がしてならない。
 同じことはソウル市庁舎にもいえた。大日本帝国が造った京城府庁が、今なおソウル市庁舎として使われ、偉容を誇っていたからだ。この建物には首都にふさわしい威厳がある。階段や壁の大理石は朝鮮総督府の建材が流用されたというが、洗練された美しさが建物内部に保たれた理由も、入口の警備員の監視が一躍(?)かっているように見える。

 市庁舎前の大通りは景福宮につながる世宗路である。景福宮は朝鮮を代表する宮殿だけあってこの道も近代的首都にふさわしい直線美を保っていた。しかしこの通りも日韓併合を成就させた大日本帝国が、パリ市街他計画を踏襲した拡張工事で建設したものであった。今、通りの中央分離帯に豊臣秀吉の朝鮮出兵を迎え撃った朝鮮側の英雄・李舜臣の巨像が建っているのが面白いが、いずれにしても今なおソウルを代表する通りで、朝鮮人たちが誇りとする道なのだ。ついでにいえば日本の統治が始まると景福宮の前庭に朝鮮総督府が建てられ、光化門が崩されることになった。ところが朝鮮人の発行する『朝鮮日報』や『東亜日報』は当時、これといった反対運動をしておらず、門を壊すのに最も強く反対したのは日本人の柳宗悦であった。
 他にもまだある。市庁舎の南に位置する東京上野のアメ横に似た南大門市場も、杉山茂丸の親友だった末秉峻が大正10(1921)年に朝鮮農業株式会社を設立したことで開場した市場だった。更に、南大門市場に続くソウル一の繁華街となった明洞も、日帝時代の日本人商人たちが伝統的な鐘路(ちょんの)商圏に対抗して開拓した地域だった。
 平成七(1995)年に、日本からの解放50周年記念として朝鮮総督府の建物が解体されたニュースを聞いた私は、うかつにも日帝時代の遺物は全て無くなったものと思い込んでいたのである。しかしソウルを歩くと、街の骨組みそのものが大日本帝国によりデザインされていたことが改めて理解できる。そして日本人が朝鮮を愛していたことも、だ。
 私は日本人観先客がほとんど足を踏み入れないという開妃が暗殺された景福宮の一番奥に向かった。そこには焼却された閔妃の遺体が投げ込まれたという池が残っていた。案内してくれたのは国立民俗博物館のボランティアガイドを務める金激さんという老人だった。昭和8年にソウルで生まれた金さんは日帝時代の小学校で日本語を勉強したというだけあり流暢な日本語で説明したが、言葉の端々に当時を懐かしむ雰囲気さえ感じられた。ソウル出身者の多くがそうであったように、金さんの家も貴族階級の「両班」だったが、「李王朝を潰しだのは日本ではなく、両班の制度でした」と断言した。学問ばかりして実利的なことを何もしなかった朝鮮王朝は、その怠慢により滅びるべくして滅びたというのである。しかも、このような考え方は日帝時代を経験した朝鮮人に多かれ少なかれ共通していることも教えてくれた。それを今さら全て日本の責任として押し付けるのは筋違いといい、「韓国に近代化を教えてくれたのは日本です」、と閔妃の暗殺現場で語ったのである。
 日本側が一方的に強行したという理由から、日韓併合が無効であるという主張を韓国政府は展開しているが、ソウル市庁舎の西にあった徳寿宮を見学したことで、私はそのことにも疑問を感じた。徳寿宮内の中和殿は第二次日韓協約が結ばれた舞台だが、同時にそこは国王の高宗が隠れ潜んだ場所であった。そしてこの宮殿は地下道を通じて近くのロシア公使館までつながっていた。このことは、日韓併合直前の高宗がロシアの手の中で政治を行っていたことを示していた。このとき早くも朝鮮王朝は独立国家の体を捨て、自国の統治能力を失っていたのである。日韓併合はこのような状況下で日韓双方から進められた朝鮮近代化の一手段に過ぎず、韓国政府がいうような一方的な併合ではなかったことになる。

 意外な印象を受けたことは他にもある。朝鮮人は日帝時代の「京城」の呼び方を嫌うと聞いていたが、茂丸が敷設に関わった京城と釜山を結ぶ京釜鉄道は、今なお「京釜線」と呼ばれ、人々に親しまれていた。同じく日帝時代の「朝鮮」の呼称を嫌悪しているにもかかわらず、抗日運動で部数を伸ばした『朝鮮日報』でさえ「朝鮮」を冠した漢字名を新聞上部に刻印し、駅の購買所で堂々と売られていた。
 歴史は後になって脚色され、その時々の政治体制に好都合な解釈をされるが、ソウルもまたそうだったのだろう。

 本書が茂丸と彼の生きた近代日本の全貌をとらえた作品であるとは思っていない。本書も多くの謎を残したままである。この謎は茂丸個人の謎というより、日本近代史の謎であり、更に広くアジア近代史の謎といえる。この疑問が解明されるには、なお多くの時間と研究が必要であり、読者の中から解明に挑む研究者が出てくるなら、私は本書における自らの責任を果たしたことになろう。
 
思い起こせば執筆に取りかかるのと時を同じくして、茂丸の生誕地である福岡市街をはじめ、筑豊炭鉱や門司港近辺を歩き回った。あるいは明治の元勲を生み出した山口県の各地や長崎、熊本、東京などを旅した。ずいぶん長い旅であったが、その途中で、茂丸の孫である三苫鉄児氏からお話を伺うことができたし、長年、茂丸の研究を続けてきた東筑紫短期太学副学長(当時)の室井廣一氏から研究紀要の全てと、茂丸の滞在先であるニューヨークでの取材結果を教えていただけた。夢野久作に詳しい西原和海氏からは、久作の父としての茂丸像を語ってもらい、茂丸の創刊した週刊誌『サンデー』や月刊誌『黒白』の実物を見せてもらった。最晩年の西尾陽太郎氏から日韓併合問題の核心を聞けたことも、今となっては貴重な収穫となった。他にも国立国会図書館や福岡県立図書館、山口県立図書館、宇部市立図書館、玄洋社記念館の職員の方々にお世話になったし、ソウルでも金氏をはじめとした親日派の方々のお世話になった。その人たち全てに、お礼を申し上げるのはいうまでもないが、何よりこの5年間、執筆に苦悩し、途中で何度も筆を折りかけた私を励まし続けてくれた小野静男編集長に感謝しなければならない。おそらく氏の励ましが無ければ、私は執筆を断念したことは間違いないからだ。最後になったが本書の出版を快く承諾して下さった三原浩良社長にも、心からのお礼を申し上げたい。

2005年晩夏、ソウルにて  堀 雅昭 



 〔付記-本書刊行までの経緯について〕

 本書は2005年11月末に刊行される予定だった。ところが印刷を終え、製本直前になって茂丸の曾孫にあたる杉山満丸氏より、いったんは出版社をまじえた協議の末に合意したはずの「杉山文庫」(福岡県立図書館に満丸氏が寄託)所収の諸資料・写真類の引用・使用をすべて許可しない旨の通告を受けた。
 理由は、本稿が杉山茂丸の清濁両面を描いたからだと思われる。満丸氏は「濁」の部分のみの削除を求めたが、著者は「濁の部分もあってはじめて茂丸の実像に迫ることが出来、本稿の存在意義もある」と主張して譲らなかったため、前記の不許可となった。
 氏が問題視したのは、条約改正をめぐる大隈重信への爆殺未遂事件及び金玉均、李鴻章、児玉源太郎、原敬、伊藤博文、大杉栄などの暗殺事件への茂丸の関与をうかがわせる“匂い”であった。
 そこでやむなく、すでに刷り上がっていたものを全面廃棄し、「杉山文庫」所収の諸資材を引用・使用した部分を削除するなど修正を施し、また杉山家所蔵の写真類は著者が独自に収集したものと差し替えたうえで刊行することにした。こうした一連の作業のため刊行が大幅に遅れたことを記し、読者の皆様に心よりお詫び申し上げる次第である。
                             著者識
 








(私論.私見)