吉薗周蔵手記(杉山茂丸伝)


 更新日/2021(平成31→5.1日より栄和改元/栄和3).2.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2005.4.3日、2009.5.27日再編集 れんだいこ拝


●『杉山茂丸伝』ー(14)
 第六章 第二維新準備

 ●暗殺された原敬

 
 東京駅の改札近くの壁面に「原首相遭難現場」と記されたパネルがあり、足もとに一つだけ濃い色のタイルがはめ込まれている。そこが大正10(1921)年11月4日に原敬が刺殺された場所だった。

 原は京都で開かれる政友会京都支部大会に出発のため改札口に向かう途中で刃渡り5寸の短刀で襲われた。その場に倒れた原は駅長室に運ばれたが既に絶命。犯人は19歳の大塚駅の転轍手である中岡艮一(こんいち)だった。
 
原は藩閥に属さない日本初の政党政治家で、原の担ぎ出しに奔走した杉山茂丸は、当然ながら原内閣の成立を喜んでいた。そんな茂丸が、3年後の原の暗殺事件にも一枚かんでいたとすれば、これほど不思議な話もない。実は、茂丸と原の確執は早くも原内閣の成立直後からはじまっていた。原は政党主義者で、自分は天皇主義者だったために意見が合わず、遂に自分の意見は原に採用されることはなかったと茂丸は『俗戦国策』で語っている。茂丸は暗殺事件の前日にも原に面会を求めたが冷たく断られていた。その日、博多湾築港を視察するために田中義一と八代六郎とともに九州へ向かう予定になっていたので、「ここで少し心意の方針を改めねば、直ちに打殺されてしまうぞ」と言い残して、茂丸は田中や八代たちと汽車で九州に旅立った。原の暗殺を知らせる訃報が届いたのは、翌日、博多の常盤館で3人で酒を飲んでいたときである[*注]。事件を予見しながら博多に来たと疑われると困るから明朝には東京に戻るうと、茂丸は2人に伝えた。

 彼らは帰途の列車内で、犯人は9月28日に起きた朝日平吾による安田善次郎の刺殺事件に影響を受けた中岡艮一であることを知った。朝日が内田良平と関係があったのと同様、中岡の背後にも頭山満や内田と関係の深い五百木良三(いおぎりょうぞう)がいた。しかし茂丸は無関係を装った。中岡の原刺殺の動機は幾つかあったが、主なものは満鉄事件と尼港問題だったといわれる。前者は原の出身母体であった政友会の幹事長、森恪が経営する満洲の炭鉱を不当高値で満鉄に売りつけ、政友会の政治資金にした事件だった。両者の売買の仲立ちをしたのが原の推挙で満鉄副社長となった中西清一(前逓信次官)だったため、中岡は原への悪感を募らせたのだ。一方、後者は大正9年3月にシベリアのニコライエフスク(尼港)で出兵中の日本軍民600名以上がソ連のパルチザンによって虐殺され、このとき原が無責任な態度を見せたことについての不満であった。おそらくホルワット政権樹立を望んでいた茂丸も、後者の出来事には憤懣やるかたない思いを感じたに違いない。それにしても興味深いのは、暗殺事件の半年以上も前(大正10年2月)に、原が自らの暗殺を予見した遺書を書いていたことである。
  
*注 頭山満と同様、茂丸も酒を飲まなかったと伝えられるが、『俗戦国策』(「寺内・原・加藤」)では「三人で酒を飲んで居た」と自ら記している。また、友人の下村海南も茂丸没後に以下のような回想文を書いている。「庵主(茂丸)はいんぎんに下座からあいさつを申し上げると、汐時を見はからってノソリノソリと床の間近くへ乗り出す。
〈オイ後藤〔田中〕 一杯もらおうか〉とばかりドッコイショとエンコして、四本半になった指先をぐっとさしだす」(『東京朝日新聞』「杉山茂丸翁〔中〕」昭和10年7月28日号)

後藤は後藤新平、田中は田中義一のことであるが、これらのことから茂丸が酒を飲めなかったのではなかったことがわかる。一方、毒殺方法を知る革命家の護身術として有名なのが酒を飲まないことであった。茂丸も、その辺りの事情から人前で飲酒しなかったのかもしれない。なお、第四章「〈凱旋釜〉の石碑」で示したように、暗殺説があった児玉源太郎の死も、飲酒後の出来事であった。

 ●暗殺された原敬 了。
 

 
  ★原敬といえば茂丸よりも山県との確執が私などには印象深い。

 <参考>までに、あまりにも有名な「原敬日記」の一節を引用しておく

 明治41年  6月23日
  ・・・尚ほ本日参内し、親しく(徳大寺)侍従長と内談せしに。同人の内話によれば、山県が陛下に社会党取締の不完全なることを奏上せしに因り、陛下に於かせられてもご心配あり。何とか特別に厳重なる取締もありたきものなりとの思召もありたり。
  ・・・徳大寺も山県の処置を非難する語気あり。徳大寺の如き温厚なる人の口より此の如き言を聞くは意外なりき。・・・
 ★ 山県の陰険なること今更驚くにも足らざれども、畢竟現内閣を動かさんと欲して成功せざるに煩悶し、この奸手段に出でたるならん。其の癖余が一日大磯に赴くとき新橋より大磯まで同車し絶えず談話をなしたるに、一言も政事談をなさず、無論社会党に言及せず、彼の性行は常に斯くの如くなり。
   
 ************

 その他、メモ。(何れもウイキペディアより)

 山縣自身は生涯「自分は松陰先生門下である」と称し誇りにしていたが、現存する資料から山縣の在塾期間が極めて短かったことが判明しており、実際に松陰からどの程度の薫陶を受けたかは不明である。なお、松陰の文章における山縣の初出は、安政4年(1857年)9月26日付の岸御園宛書簡である。同書簡中、「有朋の如何なる人たるかを知らず」とその人物を岸に照会していることからも、来塾前の山縣が松陰と一面識もなかったことを知ることが出来る。

 その死に際しては、当時、新聞記者だった石橋湛山(後の首相)は山縣の死を「死もまた、社会奉仕」と評した。また、別の新聞では「民抜きの国葬」と揶揄された。

 皇室でも不人気だったらしく、明治天皇は山縣に「キリギリス」というあだ名をつけていた。明治天皇は、陰険な山縣よりも、明朗快活で冷静であった伊藤博文を信頼していた。また、大正天皇は、山縣が宮中に参内したとの知らせを聞くと、側近達に「何か、山縣にくれてやるものはないか?」と、尋ねることがしばしばであったという。言うまでもなく、何か参内の記念になるものをやって、さっさと帰らせようとしたのである。

 また山縣がもつ異常なほどの権力への執心、★勲章好きについて原敬は「あれは足軽だからだ」という一言で述べ、軽蔑の意を込めていた。

 加えて長州閥の代表格であったことから、戊辰戦争で敵対した旧幕諸藩の出身者からも評判が悪かった。明治期を通じて会津藩や南部藩出身者などを「朝敵風情が」と見下し、会津松平家出身の秩父宮勢津子妃の婚姻に反対するなど様々な妨害工作を行った。理不尽な仕打ちを受けた事による薩長閥への恨みは、負の遺産となって会津若松市民の山口県出身者へのわだかまりとして現在も残ってしまっている。

  第六章 第二維新の準備

 ●大杉栄と伊藤野枝


 佐賀県との県境近く、福岡市早良区内野の山間部に浄土真宗の西光寺がある。この寺には鐘楼の前に大杉栄と伊藤野枝の墓石が据えられていたが、二人の娘の伊藤ルイさんが人目につかない所に移し、既にルイさんも他界し、墓石がどこに移ったか不明となった。

 関東大震災は当時の新聞が伝えたように日露戦争を上回る死者を出した。それには震災直後に広まった朝鮮人暴動を煽動した咎で殺害された大杉栄と愛人の伊藤野枝まで含まれていた。アナーキストの大杉は大正12(1923)年9月16日の夜、麹町憲兵隊長の甘粕正彦大尉によって野枝と甥の橘宗一と共に殺害された。しかしそれより一週間前の9月9日に、東京から戻った久留米市議の岡本三郎が記者に対して大杉が日暮里駅で暗殺されたと語っていた。もちろん誤報だが、このエピソードは大杉暗殺の噂が事前に流れていたことを意味していた。しかも殺される直前まで、杉山茂丸と奇妙な行き来を大杉はくり返した。
 
 『大杉栄自叙伝』(「お化けを見た話」)が語るところでは、大正5年10月初旬頃に野枝が遠緑筋にあたる頭山満の所へ借金の申し込みに出向いたとき、頭山が玄洋社の金庫番の茂丸を紹介したことに二人の出会いは始まったということだ。彼女は茂丸のいる台華社に赴くが、話を聞くうちに茂丸は大杉本人に会いたくなり、大杉を呼び出す。そして参上した大杉に向かって、国家社会主義者になれば金は出してやるといった。樽井藤吉や山路愛山のようになれば良いと思っていたようだが、大杉は無視して台華社を出ると、会話中に茂丸が口にしていた後藤新平のところを訪ね、政府が自分たちを迫害するから金が無いとまくし立て、資金援助を仰いだ。大杉が要求したのは3、4、百円程で、後藤は要求をのみ、二人だけの秘密事項と釘を刺して金を出す。この金は今でいうところの機密費で、後藤からいえばアナーキストたちの地下情報を機密費で買ったことを意味した。

 一方、陸軍士官学校出身の末松太平(明治38年生まれ、2・26事件に連座入獄)は、茂丸の書生から戦後になって興味深い話を聞いたそうだ。茂丸主催の朝食会に大杉が度々顔を出し、フランス語の堪能な大杉からフランスの情報を入手し、それを茂丸が軍部の中枢に流していたというのである(「対談・右翼と左翼のあいだ」『第三文明』1977年8月号)。

 茂丸は震災直後に『黒白』をガリ版刷りで復刊した(12月号)が、その中でも甘粕の大杉殺害の行為について、誰も非難できないと遠回しに擁護している。同時にまた、「黒白評論」と題する本文では、街が破壊されたのを良いことに、新たな都市構想計画を提唱している。実際、震災から2カ月を経た11月22日に、茂丸はハワイホノルル在住のデリングハムの代理人C・F・クライと「東京湾築港契約」を結んだ。全部で10条からなる契約書で、末尾に茂丸とクライのサインが入っている正式な書類である
 大杉栄と伊藤野枝 了。 


 以上で『杉山茂丸伝』の紹介を終わります。
 



●『杉山茂丸伝』ー(13)
 第五章 アジア連邦の夢

 ●伊藤博文の韓国統監辞任

 
 伊藤博文が韓国統監を辞し、その地位を曽根荒肋に譲るのが明治42(1909)年6月である。辞任の発端は、伊藤が韓国駐在の各国総領事を官邸に招いた際、日韓併合(*注)の意志がないことを口にしたからだ。この発言に驚いた杉山茂丸は新調の着物と袴を身に付け、短刀を懐に忍ばせて京城の統監官邸に飛び込むと伊藤に詰め寄った。
 「東京でお約束を致しましたとおり、まず統監制をこしらえ、統監となって韓国にいどみ、内外政治権の全部を総覧し、そのうえにて日露の戦果に伴う、〈日本の永久把握すべき大権を収得する〉という日韓併合の方針はお止めになったのでございますか」
 伊藤は間接統治により、時間をかけて朝鮮をまとめようと考えていたのである。しかし性急な茂丸は納得せず、「ご辞職をなされませ」と続けた。伊藤が、「辞職をしなかつたら君はドウする」と切り返すと、茂丸は懐から短刀を取り出してテーブルに置き、「御自殺を願います・・私もこのままお伴を致します」(『俗戦国策』)と迫った。
 
茂丸は伊藤の顔を見据えると、荒尾精と日清貿易研究所の卒業生たちが日清戦争で犠牲になった話を続け、ここに及んで日韓併合を推進しなければ彼らの死が無駄になると毒づいた。更にまた、二度目の渡米で日本興業銀行の設立のためにJ・P・モルガンから外資導入の約束を取りつけて帰国したにもかかわらず、井上馨の増税案だけ通して外資案を握り潰した恨み(第三章)を述べ、ことあるごとに伊藤を殺そうと思っていたことを告白した。

 思い起こせば明治17年に再上京したのも伊藤暗殺のためだったし、日清戦争後の下関講和条約に際しても遼東半島割譲を巡って伊藤とは意見が対立した。その後、日露戦争に向けて政友会設立の手助けをしたが、肝心の日露戦争を巡っては伊藤と意見が合わず、伊藤の不在を作って桂と組んで日英同盟を締結させ、伊藤を政治的死に追いやった経緯がある。今度という今度は、目の前で死んでくれというのだ。これに対して伊藤は、「今ここで君と共に死ぬと、君は刺客となり、僕は君に暗殺された事になるぜ」と制したものの、暫く考えた後でテーブルの上にあったブランデーをコップで飲み干し、「杉山君、誠に以て親切の御忠告、僕は何の躊躇もなく君の説に従うて辞職する事にする」と答えたのだった。こうして伊藤の辞任は決まり、後任として同じく長州出身の曽根が統監に座る。しかし曽根もまた伊藤の意志を継ぎ、日韓併合には反対の立場をとった。
 
伊藤がハルビンで暗殺されるのは統監辞任から僅か4ヵ月後の10月26日のことだ。この事件を機に日緯併合は急加速した。同時に狙撃犯として逮捕されたのは韓国人の安重根だった。しかし伊藤暗殺事件は多くの謎を残した。
 *注 この頃は茂丸も現実路線として日韓併合として動いていたので、以後、この呼び方に統一する。
 
●安重根発射の弾丸
  
 明治43(1910)年10月26日に起きた伊藤博文暗殺事件の最大の謎が、誰が狙撃したかという真犯人についてである。逮捕された狙撃犯の安重根がハルビン駅のプラットホームで整列したロシア兵の間からブローニング銃を水平に引いたのだが、弾はなぜか上方から下方に向けて貫通していた。当時の伊藤の着衣は山口県立山口博物館に保管されており、残された弾丸跡から、その事実を確認できる。

 一方、発射された実物の弾は衆議院憲政記念館で目にした。平成13年春の「伊藤博文と大日本帝国憲法特別展」で展示されていたもので、直径8~9ミリ、長さが1.5センチ程の鉛色の小さな弾である。それは伊藤本人を直撃したものではなかった(随行の田中清次郎から摘出された)にせよ、確かに「安重根発射の弾丸」と明記されていた。

 伊藤の暗殺は日英同盟締結による第一の死(政治的死)に続く第二の死(肉体的死)という見方が当初からあった。いうまでもなく日英同盟は杉山茂丸が桂太郎と画策したものだ(第四章参照)。そして実際、山県邸で伊藤の死を知らされた茂丸は、「それではやはり伊藤公はとうとうやられましたか」と口を滑らせたことで、「やはりとは何じゃ。とうとうとは何ということか。それでは君は知っておられたのか」と山県から叱責された場面があった(『山県元帥』)。
 不思議なことに、この事件で損をした人は1人もいない。韓国人に暗殺された伊藤は日本側の英雄となり、日韓併合に弾みがついた。狙撃犯の安重根も韓国の愛国者として祭られた。更に伊藤が死んだことで、以後、山県は元老として君臨することにもなった。
 
ここで狙撃犯の安重根であるが、彼は明治12年に黄海道海州府で朝鮮の貴族階級である両班の家に生まれ、東学党の乱に際して彼らに抵抗して戦い、そのことでフランス人の教会に落ち延び、キリスト教に帰依した人物だった。にもかかわらず伊藤の狙撃後に獄中で書いた「東洋平和論」(未刊)は、東アジアを侵す勢力は欧米列強の白人に他ならず、アジアは連携してこれと戦うべきであるという、かねてより茂丸たちの提唱していた大東合邦論(後に日韓併合を用意する)に近い理想を待っていたことがわかっている。もしかすると安と茂丸たちとは、どこかで繋がっていたのかもしれない〔*注〕。そういえば伊藤の死も、金玉均が暗殺されたことで日清戦争へ突人した状況(第二章参照)と似ていた。金が日清戦争の人柱になったように、伊藤が日韓併合の人柱になったようにも見える。実際、そのような見方で安重根以外に実行犯がいたとして、茂丸を中心とした玄洋社人脈(内田良平、明石元二郎、山座円次郎たち)と軍との画策で伊藤が暗殺されたと推論したのが上垣外憲一の『暗殺・伊藤博文』だった。それと似た視点で大野芳も『伊藤博文暗殺事件』を書いている。なお、昭和9年に茂丸は『涙を垂れて伊藤公の霊に捧ぐ』という小冊子を出している。表題とは裏腹に伊藤が死ぬのを待ち詫びていたかのような内容は非常に興味深い。
 *注 日帝時代に日本が建立した朝鮮神宮の境内の一部であった南山中腹(ソウル市内)に、安重根を記念した「安義士記念館」が建っている。館の前庭に安重根の書を刻んだ大きな石碑がいくつも据えられ、入口に高さ4.4メートルの安の銅像がある。館内には安の家系略図や写真パネル、獄中遺墨などが展示されているが、興味深いのは父である安泰勲が金玉均や朴泳孝らの甲申事変に連座して官職を追われていたことだ。また、安の左手の指は茂丸と同じように切断されていたが、これは1909(明治42)年に国権回復のために命をかける同志11名と「断指血盟」を行った結果だった。







(私論.私見)