第五章 アジア連邦の夢
●伊藤博文の韓国統監辞任
伊藤博文が韓国統監を辞し、その地位を曽根荒肋に譲るのが明治42(1909)年6月である。辞任の発端は、伊藤が韓国駐在の各国総領事を官邸に招いた際、日韓併合(*注)の意志がないことを口にしたからだ。この発言に驚いた杉山茂丸は新調の着物と袴を身に付け、短刀を懐に忍ばせて京城の統監官邸に飛び込むと伊藤に詰め寄った。 「東京でお約束を致しましたとおり、まず統監制をこしらえ、統監となって韓国にいどみ、内外政治権の全部を総覧し、そのうえにて日露の戦果に伴う、〈日本の永久把握すべき大権を収得する〉という日韓併合の方針はお止めになったのでございますか」 伊藤は間接統治により、時間をかけて朝鮮をまとめようと考えていたのである。しかし性急な茂丸は納得せず、「ご辞職をなされませ」と続けた。伊藤が、「辞職をしなかつたら君はドウする」と切り返すと、茂丸は懐から短刀を取り出してテーブルに置き、「御自殺を願います・・私もこのままお伴を致します」(『俗戦国策』)と迫った。 茂丸は伊藤の顔を見据えると、荒尾精と日清貿易研究所の卒業生たちが日清戦争で犠牲になった話を続け、ここに及んで日韓併合を推進しなければ彼らの死が無駄になると毒づいた。更にまた、二度目の渡米で日本興業銀行の設立のためにJ・P・モルガンから外資導入の約束を取りつけて帰国したにもかかわらず、井上馨の増税案だけ通して外資案を握り潰した恨み(第三章)を述べ、ことあるごとに伊藤を殺そうと思っていたことを告白した。
思い起こせば明治17年に再上京したのも伊藤暗殺のためだったし、日清戦争後の下関講和条約に際しても遼東半島割譲を巡って伊藤とは意見が対立した。その後、日露戦争に向けて政友会設立の手助けをしたが、肝心の日露戦争を巡っては伊藤と意見が合わず、伊藤の不在を作って桂と組んで日英同盟を締結させ、伊藤を政治的死に追いやった経緯がある。今度という今度は、目の前で死んでくれというのだ。これに対して伊藤は、「今ここで君と共に死ぬと、君は刺客となり、僕は君に暗殺された事になるぜ」と制したものの、暫く考えた後でテーブルの上にあったブランデーをコップで飲み干し、「杉山君、誠に以て親切の御忠告、僕は何の躊躇もなく君の説に従うて辞職する事にする」と答えたのだった。こうして伊藤の辞任は決まり、後任として同じく長州出身の曽根が統監に座る。しかし曽根もまた伊藤の意志を継ぎ、日韓併合には反対の立場をとった。 伊藤がハルビンで暗殺されるのは統監辞任から僅か4ヵ月後の10月26日のことだ。この事件を機に日緯併合は急加速した。同時に狙撃犯として逮捕されたのは韓国人の安重根だった。しかし伊藤暗殺事件は多くの謎を残した。 *注 この頃は茂丸も現実路線として日韓併合として動いていたので、以後、この呼び方に統一する。
●安重根発射の弾丸 明治43(1910)年10月26日に起きた伊藤博文暗殺事件の最大の謎が、誰が狙撃したかという真犯人についてである。逮捕された狙撃犯の安重根がハルビン駅のプラットホームで整列したロシア兵の間からブローニング銃を水平に引いたのだが、弾はなぜか上方から下方に向けて貫通していた。当時の伊藤の着衣は山口県立山口博物館に保管されており、残された弾丸跡から、その事実を確認できる。
一方、発射された実物の弾は衆議院憲政記念館で目にした。平成13年春の「伊藤博文と大日本帝国憲法特別展」で展示されていたもので、直径8~9ミリ、長さが1.5センチ程の鉛色の小さな弾である。それは伊藤本人を直撃したものではなかった(随行の田中清次郎から摘出された)にせよ、確かに「安重根発射の弾丸」と明記されていた。
伊藤の暗殺は日英同盟締結による第一の死(政治的死)に続く第二の死(肉体的死)という見方が当初からあった。いうまでもなく日英同盟は杉山茂丸が桂太郎と画策したものだ(第四章参照)。そして実際、山県邸で伊藤の死を知らされた茂丸は、「それではやはり伊藤公はとうとうやられましたか」と口を滑らせたことで、「やはりとは何じゃ。とうとうとは何ということか。それでは君は知っておられたのか」と山県から叱責された場面があった(『山県元帥』)。 不思議なことに、この事件で損をした人は1人もいない。韓国人に暗殺された伊藤は日本側の英雄となり、日韓併合に弾みがついた。狙撃犯の安重根も韓国の愛国者として祭られた。更に伊藤が死んだことで、以後、山県は元老として君臨することにもなった。 ここで狙撃犯の安重根であるが、彼は明治12年に黄海道海州府で朝鮮の貴族階級である両班の家に生まれ、東学党の乱に際して彼らに抵抗して戦い、そのことでフランス人の教会に落ち延び、キリスト教に帰依した人物だった。にもかかわらず伊藤の狙撃後に獄中で書いた「東洋平和論」(未刊)は、東アジアを侵す勢力は欧米列強の白人に他ならず、アジアは連携してこれと戦うべきであるという、かねてより茂丸たちの提唱していた大東合邦論(後に日韓併合を用意する)に近い理想を待っていたことがわかっている。もしかすると安と茂丸たちとは、どこかで繋がっていたのかもしれない〔*注〕。そういえば伊藤の死も、金玉均が暗殺されたことで日清戦争へ突人した状況(第二章参照)と似ていた。金が日清戦争の人柱になったように、伊藤が日韓併合の人柱になったようにも見える。実際、そのような見方で安重根以外に実行犯がいたとして、茂丸を中心とした玄洋社人脈(内田良平、明石元二郎、山座円次郎たち)と軍との画策で伊藤が暗殺されたと推論したのが上垣外憲一の『暗殺・伊藤博文』だった。それと似た視点で大野芳も『伊藤博文暗殺事件』を書いている。なお、昭和9年に茂丸は『涙を垂れて伊藤公の霊に捧ぐ』という小冊子を出している。表題とは裏腹に伊藤が死ぬのを待ち詫びていたかのような内容は非常に興味深い。 *注 日帝時代に日本が建立した朝鮮神宮の境内の一部であった南山中腹(ソウル市内)に、安重根を記念した「安義士記念館」が建っている。館の前庭に安重根の書を刻んだ大きな石碑がいくつも据えられ、入口に高さ4.4メートルの安の銅像がある。館内には安の家系略図や写真パネル、獄中遺墨などが展示されているが、興味深いのは父である安泰勲が金玉均や朴泳孝らの甲申事変に連座して官職を追われていたことだ。また、安の左手の指は茂丸と同じように切断されていたが、これは1909(明治42)年に国権回復のために命をかける同志11名と「断指血盟」を行った結果だった。
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