16代/徳川家達(いえさと)考

 (最新見直し2015.07.05日)

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 2015.07.05日 れんだいこ拝


 「Home  」の2014.11.17日付ブログ「日本の歴史上重要な日英同盟を調印したのはフリーメーソンだったのです」、「「日露戦争からロシア革命の真相、それらの裏舞台に“貢献”したフリーメーソン・工作員の正体を暴く」」を転載しておく。
 セオドア・ルーズベルトは、日露戦争の当初に、「アメリカは日本の勝利を望んでいる。日本はわれわれのゲームを戦っているのだ」と言ったそうである。この言葉は「日露戦争が「彼ら」によって操られた八百長戦争であった」という真相を明らかにしている。もう少し、日露“八百長”戦争の真相を解明していこうと思う。それにはまず、日英同盟に触れなければならない。

 日英同盟(ウィキより抜粋)
 日英同盟(にちえいどうめい、Anglo-Japanese Alliance)は、日本とイギリス(グレートブリテン及びアイルランド連合王国)との間の軍事同盟。1902年1月30日調印発効、1923年8月17日失効。第一次日英同盟は、1902(明治35)年1月30日に調印され即時に発効した。その後、第二次(1905年)、第三次(1911年)と継続更新され、1923年8月17日に失効した。第一次世界大戦までの間、日本の外交政策の基盤となった。日英同盟は、イギリスのロンドンのランズダウン侯爵邸(現The Lansdowne Club 地図)において、林董駐英公使とイギリスのランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス外相により調印された[1]。イギリスは義和団の乱以来満州から撤兵しないロシアを牽制したいと考えていたが、イギリス単独ではイギリスの中国における利権の維持にあたるには限界があった。そこで、それまでの「栄光ある孤立」政策を捨て[2]、まずドイツとの交渉を試みるも、ドイツはロシアと手を結んだため失敗し、その後義和団の乱で活躍した日本に接近した。日本では、伊藤博文や井上馨らがロシアとの妥協の道を探っていたが、山縣有朋や桂太郎や西郷従道や松方正義や加藤高明らはロシアとの対立はいずれ避けられないと判断してイギリスとの同盟論を唱えた。結果、日露協商交渉は失敗し、外相小村寿太郎の交渉により日英同盟が締結された。調印時の日本側代表は林董特命全権公使、イギリス側代表はペティ=フィッツモーリス外務大臣であった。第一次日英同盟の内容は、締結国が他国(1国)の侵略的行動(対象地域は中国・朝鮮)に対応して交戦に至った場合は、同盟国は中立を守ることで、それ以上の他国の参戦を防止すること、さらに2国以上との交戦となった場合には同盟国は締結国を助けて参戦することを義務づけたものである。また、秘密交渉では、日本は単独で対露戦争に臨む方針が伝えられ、イギリスは好意的中立を約束した。条約締結から2年後の1904年には日露戦争が勃発した。イギリスは表面的には中立を装いつつ、諜報活動やロシア海軍へのサボタージュ等で日本を大いに助けた。日本にとって、当時、世界一の超大国であったロシア帝国の脅威は国家存亡の問題であった。それは、日本側は日清戦争勝利による中国大陸への影響力の増加、ロシア帝国側は外交政策による三国干渉後の旅順・大連租借権・満州鉄道利権の獲得により顕著になった。両国の世論も開戦の機運を高めていった。しかし、日本の勝算は非常に低く、資金調達に苦労していた。日英同盟はこの状況に少なからず日本にとって良い影響を与えた。当時のロシア帝国は対ドイツ政策としてフランス共和国と同盟関係(露仏同盟)になっていた。日露開戦となると、当然軍事同盟である露仏同盟が発動し、日本は対露・対仏戦となってしまう危険性を孕んでいた。以上の状況に牽制として結ばれた日英同盟は、1対1の戦争の場合は中立を、1対複数の場合に参戦を義務づけるという特殊な条約であった(これは戦況の拡大を抑止する効果だと思われる)。結果、日英同盟は露仏同盟にとって強力な抑止力となった。上記の条約内容からフランスは対日戦に踏み込むことができなくなったばかりか、軍事・非軍事を問わず対露協力ができなくなった。当時、世界の重要な拠点はイギリス・フランスの植民地になっており、主要港も同様であった。日本海海戦により壊滅したバルチック艦隊は極東への回航に際して港に入ることができず、スエズ運河等の主要航路も制限を受けた。また、イギリスの諜報により逐一本国へ情報を流されていた。日本にとって日英同盟は、軍事資金調達の後ろ盾・フランス参戦の回避・軍事的なイギリスからの援助・対露妨害の強化といった側面を持つことになった


 簡単に言うと、当時ロシアはフランスと同盟関係にあったため、日露戦争となると日本はフランスとも戦わなければならなくなるところだった。そこで日英同盟が結ばれることによってフランスが参戦できなくなることになり、イギリスは日露戦争を後方から推し進めることになったのである。ちなみに、この日英同盟の関係から1906年に明治天皇はガーター勲章を授けられている。その後、歴代天皇は全てガーター勲章を授けられている。天皇はエリザベスの臣下に過ぎないのだ。次に、日英同盟を調印した林 董を見てみる。

 林 董(ウィキより)
 林 董(はやし ただす、1850年4月11日(嘉永3年2月29日) - 1913年(大正2年)7月20日)は幕末の幕臣。明治期の日本の外交官、政治家。伯爵。初代陸軍軍医総監・男爵の松本良順は実兄。下総国佐倉藩(のち千葉県佐倉市)の蘭医佐藤泰然の五男として生まれ、後に幕府御典医林洞海の養子となる。養母・つるは泰然の長女・董の実姉である。ヘボン塾(のちの明治学院大学)で学んだ後、幕府の留学生としてイギリスへ行った後、榎本武揚率いる脱走艦隊に身を投じ、箱館戦争時には佐藤東三郎と名乗った。敗戦後、香川・兵庫の県知事、ロシア・イギリスの駐在公使、外務大臣、逓信大臣などを務めた。
董の孫・忠雄は三菱財閥の4代目総帥・岩崎小弥太の養嗣子となった。忠雄の妻・淑子は旭硝子の創業者・岩崎俊弥の次女として生まれ、伯父・小弥太の養女となった。忠雄が小弥太の婿養子となったことにより、林家は三菱の創業者一族・岩崎家と姻戚関係となる。また、董の娘・菊は福澤諭吉の次男・捨次郎に嫁ぐ。1902年(明治35年)1月30日に、在英日本公使としてロンドンで日英同盟を調印した。このときの英国代表は外務大臣の第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスであった。1903年5月、イギリスのエンパイア・ロッジにてフリーメイソンに入会[1]。日露戦争後の1905年(明治38年)12月2日、ロンドンの在英日本公使館が昇格して大使館となった。林董は初代駐英大使に任命され、日本の外交官としては初めての大使となった。


 はい、フリーメーソンでした(笑)。それにしてもウィキは正直ですね(笑)。日本の歴史上重要な日英同盟を調印したのはフリーメーソンだったのです。これでも皆さんは、「陰謀など存在しない」と言い切りますか? 次に、日本政府は戦費の調達をどうやったのかを述べます。これはズバリ、ロスチャイルドの米代理人であるジェイコブ・シフが用立ててくれました。「日露戦争で「日本が勝利した」理由は、ロスチャイルドの代理人であるジェイコブ・シフが高橋是清に戦費を融資してくれたことである」というのは有名な話です。「ロスチャイルドは日本人のことを思って融資してくれたのでしょうか?」。そんな訳はありません。
「当時、ロシア政府にポグロムという弾圧を受けていた同胞であるユダヤ人を助けるためだったのでしょうか?」。これも間違いです。ロスチャイルド(=「彼ら」)の本当の目的は、ロシアを日露戦争勃発によって弱体化し、その後にロシア革命を起こさせることにありました。「彼ら」の行動計画である共産主義国家を成立させるために・・・。日露戦争の真相は、「彼ら」の目的を遂行する手段として、日本を傭兵として利用するために日本に戦費を“融資”し、日本を勝利に導いたということなのです。日露戦争に勝利した日本はその後どうなったのでしょう。勝利したはずの日本は、得たものといえば南満洲鉄道を獲得するなど満洲における権益と南樺太を得ることとなったぐらいで、8万を越える戦死者を出し、何ら賠償金を得ることもできなかったため、日比谷焼打事件をはじめとして各地で暴動が起こったのです。さらには、ジェイコブ・シフのクーン・ローブに対して金利を払い続けることとなったのです。その屈辱のポーツマス条約を仕切ったのがセオドア・ルーズベルトなのです。セオドア・ルーズベルトが、「日本はわれわれのゲームを戦っているのだ」と言った理由がよく理解できるでしょう。日本は「彼ら」の「ゲームの駒」として、踊らされていたのに過ぎなかったのです。そして、そのゲームの仕上げとしてロシア革命の成功に“貢献”した日本人スパイがいました。その名は明石 元二郎といいます。


 明石 元二郎(ウィキより抜粋)
 明石 元二郎(あかし もとじろう、元治元年8月1日(1864年9月1日) - 大正8年(1919年)10月26日)は明治・大正期の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功三級男爵。第7代台湾総督。福岡藩出身。ドイツ留学、仏印出張、米西戦争のマニラ観戦武官を経て、明治34年(1901年)にフランス公使館付陸軍武官となる。明治35年(1902年)にロシア帝国公使館付陸軍武官に転任する。首都サンクトペテルブルクのロシア公使館に着任後、日英同盟に基づいた情報協力により、イギリス秘密情報部のスパイであるシドニー・ライリーと知り合い、友人となった。明石の依頼により、ライリーは明治36年(1903年)から建築用木材の貿易商に偽装して戦略的要衝である旅順に移住し材木会社を開業、ロシア軍司令部の信頼を得て、ロシア軍の動向に関する情報や、旅順要塞の図面などをイギリスおよび日本にもたらしている。日露戦争が開戦すると中立国スウェーデンに移り、以後この地を本拠として活動する。明石(当時の階級は大佐)は日露戦争中に、当時の国家予算は2億3,000万円程であった中、山縣有朋の英断により参謀本部から当時の金額で100万円(今の価値では400億円以上)を工作資金として支給されロシア革命支援工作を画策した。この点について2013年に西部邁(評論家)は次のように述べた。「日露戦争のときには、日本にも明石元二郎という立派なスパイがいました。彼が使った工作資金はいまの標準でいうと数百億円ですってね。一兆円という話も聞いたことがある。それで第一次ロシア革命を煽り立てるわけです。これにはさすがのツアーも参ってしまった。」[1]主にヨーロッパ全土の反帝政組織にばら撒き日本陸軍最大の謀略戦を行った。後に、明石の手になる『落花流水』を通して巷間伝えられるようになった具体的な工作活動としては、情報の収集やストライキ、サボタージュ、武力蜂起などであり、明石の工作が進むにつれてロシア国内が不穏となり、厭戦気分が増大したとされていた。明石の著した『落花流水』や司馬遼太郎が執筆した小説『坂の上の雲』においては、次のような粗筋がベースになっており、明石の工作は成功したものとして描かれ、著名な外国人(日本人から見て)が登場している。明治37年(1904年)、明石はジュネーヴにあったレーニン自宅で会談し、レーニンが率いる社会主義運動に日本政府が資金援助することを申し出た。レーニンは、当初これは祖国を裏切る行為であると言って拒否したが、明石は「タタール人の君がタタールを支配しているロシア人の大首長であるロマノフを倒すのに日本の力を借りたからといって何が裏切りなのだ」といって説き伏せ、レーニンをロシアに送り込むことに成功した。その他にも内務大臣プレーヴェの暗殺、血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの叛乱等に関与した。これらの明石の工作が、後のロシア革命の成功へと繋がっていく。後にレーニンは次のように語っている。「日本の明石大佐には本当に感謝している。感謝状を出したいほどである。」と。明治43年(1910年)7月、寺内正毅韓国統監の下で憲兵司令官と警務総長を兼務し、韓国併合の過程で武断政治を推し進めた。その後、大正4年(1915年)10月に第6師団長を経て、同7年(1918年)7月に第7代台湾総督に就任、陸軍大将に進級する。総督在任中は台湾電力を設立し水力発電事業を推進したほか、鉄道貨物輸送の停滞を消解するため新たに海岸線を敷設したり、日本人と台湾人が均等に教育を受けられるよう法を改正して台湾人にも帝国大学進学への道を開いたり[9]、今日でも台湾最大の銀行である華南銀行を設立したりしている。関ヶ原の戦い(1600年)や、大坂の陣(1614-1615年)で戦ったキリシタン武将、明石全登の末裔と言われている。


 「彼ら」の工作員と思われる○馬遼太郎も、けっこう真実を語っていたようです。それにしても、「当時の金額で100万円(今の価値では400億円以上)を工作資金として支給されロシア革命支援工作を画策した。」とはすごすぎる。明石にこれだけの大金を支給した山縣 有朋とは一体何者なのでしょうか?

 山縣 有朋(ウィキより抜粋)
 山縣 有朋[1](やまがた ありとも、天保9年閏4月22日(1838年6月14日) - 大正11年(1922年)2月1日)は、日本の武士(長州藩士)、陸軍軍人、政治家。階級は元帥陸軍大将。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功一級。爵位は公爵。内務大臣(初・第2・第3代)、内閣総理大臣(第3・9代)、元老、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)などを歴任した。自身が得た最高位の階級は陸軍大将だが、元帥府に列せられ元帥の称号を得ており、元帥陸軍大将と呼称された。各国でも大英帝国のメリット勲章等勲章を多数受章している。天保9年(1838年)、萩城下近郊の阿武郡川島村(現在の山口県萩市川島)に、長州藩の中間・山縣有稔(ありとし)の長男として生まれる。足軽以下の中間身分ながら将来は槍術で身を立てようとして少年時代から槍の稽古に励んでいた。このころ友人・杉山松助らに松下村塾への入塾をすすめられるも、「吾は文学の士ならず」として辞退したともいわれる[5]。安政5年(1858年)7月、長州藩が京都へ諜報活動要員として派遣した6人のうちの一人として、杉山松助・伊藤俊輔らとともに上京し、尊皇攘夷派の大物であった久坂玄瑞・梁川星巌・梅田雲浜らに感化を受け9月に帰藩後に久坂の紹介で吉田松陰の松下村塾に入塾したとされる。文久3年(1863年)、高杉晋作の奇兵隊創設とともにこれに参加し、武芸や兵法の素養を活かして頭角を現す。高杉は身分にとらわれずに有能な人材を登用したため、低い身分であった伊藤や山縣などが世に出るきっかけを与えた。松下村塾と奇兵隊の存在により、幕末の長州藩からは伊藤や山縣のように、足軽以下の平民と大差ない身分の志士が多く出ている[6]。慶応元年(1866年)に四代目総管に就任し、長州征討で高杉と共に活躍、戊辰戦争では北陸道鎮撫総督・会津征討総督の参謀となった明治2年(1869年)に渡欧し、各国の軍事制度を視察する。翌年アメリカ経由で帰国。その後は大村益次郎の実質的な後継者として西郷隆盛の協力を得ることで軍制改革を断行、徴兵制を取り入れた(徴兵令)。明治10年(1877年)に勃発した西南戦争では参軍として官軍の事実上の総指揮を執ったため、さながら薩摩閥と長州閥の直接対決の様相を呈した。錬度や士気で優る薩軍に対し、装備と物量・兵力で対抗して鎮圧した。9月に最後の城山の戦いでは、西郷へ自決を勧める書状を送った[7]。明治21年(1888年)12月2日よりヨーロッパ各地へ視察旅行に出る


 足軽以下の身分でありながら、伊藤博文と共にこれだけ“出世”できたのは、「彼ら」の援助が相当あったことは疑いようがないでしょう。しっかりと、「大英帝国のメリット勲章等勲章を多数受章している」ようだし、「ヨーロッパ各地へ視察旅行に行っている」ようである。悪名高き会津征討総督の参謀でもあり、西郷隆盛を自決に追いやった西南戦争の総指揮をとっていたようだから、相当「彼ら」に気に入られていたのでしょう。明石 元二郎に資金を渡したのは、実際は「彼ら」であったのは間違いないでしょう。当時の国家予算は2億3,000万円程であったのに、400億円もの大金を当時の日本が出せるはずもないし、日本がそこまでしてロシア革命を起こさせる動機も存在しないだろう。「彼ら」が「彼ら」の“ゲームの駒”である山縣 有朋や明石 元二郎を利用したという訳ですナ。2014年の現在、「彼ら」は新たな“ゲームの駒”を利用して、新たな“八百長”戦争をひき起こそうとしています。「彼ら」の陰謀に嵌められないためにも「正しい歴史の勉強」が必要なのである。
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 「Home  」の2014.11.21日付ブログ「明治維新こそ「彼ら」の「彼ら」による「彼ら」のための日本支配体制が確立された「日本転覆クーデター」なのです」、「「幕末・明治維新の真相、歴史の裏舞台に“貢献”したフリーメーソン・工作員の正体を暴く①(坂本龍馬編)」
」を転載する。
 前回に続き、今回は「幕末・明治維新の真相」に関する記事を書いていこうと思います。皆さんは「幕末・明治維新」というとどういったイメージを思い浮かべるでしょうか?「坂本龍馬に代表される幕末の英雄による壮大な国家大改革」、「文明開化、日本の近代化の幕開け」、「身分制度の撤廃による民主主義の台頭」等々、肯定的な印象が強いのではないでしょうか?結論から言いますと、こういった大多数の人が思い描いている明治維新の観念は嘘八百であります。事実は全くの正反対であり、明治維新こそ「彼ら」の「彼ら」による「彼ら」のための日本支配体制が確立された「日本転覆クーデター」なのです。「彼ら」にとって大変喜ばしい「日本転覆クーデター」を、さも「日本人にとって素晴らしい善なる民主主義革命であった」と日本人を洗脳するために、学校教育やマスゴミや御用作家による歴史小説等が使われて来たのです。こういった洗脳媒体を通して大多数の日本人が、「坂本龍馬は日本を改革した偉大な英雄だ」、「明治維新のおかげで日本は世界に誇る近代国家になれたんだ」と思い込んでいます。全く真実が分っていないバカが多すぎます。そういった人間は、「自分が洗脳されている事実にも全く気付いていない」から救いようがないのです。実際問題、皆さん少し考えても見てください。地方の一介の下級武士がいくら弁舌がうまくても、いくら頭が切れて行動力があったとしても、いくら人望があったとしても、個人のこういった能力・才覚のみで薩長を結びつけ徳川幕府を倒すことが出来たと思いますか?
そんなことが出来るわけがないでしょう。龍馬のバックには龍馬を操る勢力が蠢いていたのです。その代表となるのがジャーディン・マセソン商会の代理人であり、武器商人であるトーマス・グラバーです。長崎に行かれた方なら誰もが訪れる観光名所であるグラバー園には隠しもしないでフリーメーソンのマークが刻まれた門柱があります。龍馬はグラバーの代理人に過ぎなかったのです。龍馬とグラバーの武器売買に関わっていたのが日本初の株式会社である亀山社中です。亀山社中を見てみます。


 亀山社中(海援隊)(ウィキより抜粋)
 海援隊(かいえんたい)は、江戸時代後期の幕末に、土佐藩脱藩の浪士である坂本龍馬が中心となり結成した組織である。1865年から1868年まで3年余りに亘り、私設海軍・貿易など、薩摩藩などからの資金援助も受け、近代的な株式会社に類似した組織、商社活動としても評価されている。運輸、開拓、本藩の応援、射利、投機、 教育(修行科目 政法・火技・航海・汽機・語学等)等、隊の自活運営、政治・商事活動を行った。出版も手掛け和英通韻伊呂波便覧、閑愁録、藩論などがある。中岡慎太郎が隊長となった陸援隊と併せて翔天隊と呼ばれる。1865年閏5月、幕府機関である神戸海軍操練所の解散に伴い、薩摩藩や商人(長崎商人小曽根家など)の援助を得て長崎の亀山(現在の長崎市伊良林地区・ 北緯32度44分55.52秒 東経129度53分12.53秒北緯32.7487556度 東経129.8868139度)において前身となる亀山社中(かめやましゃちゅう)が結成され、当初は、貿易を行い、交易の仲介や物資の運搬等で利益を得ながら、海軍、航海術の習得に努め、その一方で国事に奔走していた。神戸海軍操練所時代に考えていた実践でもあり、目的はこれらの活動を通じて薩長の手を握らせることにもあった。 グラバー商会などと取引し、武器や軍艦などの兵器を薩摩藩名義で購入、長州へ渡すなどの斡旋を行い、険悪であった薩摩と長州の関係修復を仲介する。1866年3月、薩摩の西郷隆盛(吉之助)・長州の木戸孝允(桂小五郎)を代表とする薩長同盟の締結に大きな役割を果たす。1866年6月の第二次幕長戦争(第二次長州征伐)においては長州藩の軍艦ユニオン号で、下関海戦に参加、幕府軍を相手に戦い、長州の勝利に大きく貢献する。

 倒幕運動に奔走するが大政奉還、内戦回避の坂本と薩摩・長州の武力倒幕では意見が相違した。 同年11月15日(12月10日)、京都・近江屋で坂本が陸援隊隊長の中岡とともに暗殺されると求心力を失って分裂し戊辰戦争が始まると長岡謙吉らの一派は天領である小豆島などを占領し菅野覚兵衛らは佐々木高行とともに長崎奉行所を占領し、また小豆島も治めた。長岡兼吉が慶応4年4月土佐藩より海援隊長に任命されたが、同年閏4月27日(6月17日)には藩命により解散される。土佐藩士の後藤象二郎は海援隊を土佐商会として、岩崎弥太郎が九十九商会・三菱商会・郵便汽船三菱会社(後の日本郵船株式会社)・三菱商事などに発展させる。


 武器商人グラバーと龍馬・薩長の関わりがよく分かりますよね。そして忘れてはいけないのが、これらの関係から三菱が誕生した、という事実ですね。龍馬が個人の能力のみで明治維新を成し遂げたのではないのと同様に、岩崎弥太郎個人のビジネス才覚のみで三菱が誕生したのではないことは言うまでもないことです。そして龍馬を操ったグラバーはスコットランドの出身で、長崎に着いた時はまだ21歳でした。21歳の若造が個人の考えで遠く離れた外国の政治体制を転覆させることが出来ると思いますか?グラバーも所詮「彼ら」の使用人に過ぎないのです。グラバーを見てみます。

 トーマス・ブレーク・グラバー
 トーマス・ブレーク・グラバー(英: Thomas Blake Glover、1838年6月6日 - 1911年12月16日)はスコットランド出身の商人。武器商人として幕末の日本で活躍した。スコットランド・アバディーンシャイアで沿岸警備隊の1等航海士トーマス・ベリー・グラバー(Thomas Berry Glover)とメアリー(Mary)の間に8人兄弟姉妹の5人目として生まれる。ギムナジウムを卒業した後、1859年に上海へ渡り「ジャーディン・マセソン商会」に入社。同年9月19日(安政6年8月23日)、開港後まもない長崎に移り、2年後には「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店(グラバーの肩書きは「マセソン商会・長崎代理人」)として「グラバー商会」を設立し、貿易業を営む。当初は生糸や茶の輸出を中心として扱ったが八月十八日の政変後の政治的混乱に着目して薩摩・長州・土佐ら討幕派を支援し、武器や弾薬を販売。亀山社中とも取引を行った。また、薩摩藩の五代友厚・森有礼・寺島宗則、長澤鼎らの海外留学、長州五傑のイギリス渡航の手引きもしている。明治維新後も造幣寮の機械輸入に関わるなど明治政府との関係を深めたが、武器が売れなくなったことや諸藩からの資金回収が滞ったことなどで1870年(明治3年)、グラバー商会は破産。グラバー自身は高島炭鉱(のち官営になる)の実質的経営者として日本に留まった。1881年(明治14年)、官営事業払い下げで三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱を買収してからも所長として経営に当たった。また1885年(明治18年)以後は三菱財閥の相談役としても活躍し、経営危機に陥ったスプリング・バレー・ブルワリーの再建参画を岩崎に勧めて後の麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)の基礎を築いた。

 長州ファイブのイギリス渡航の手引きもしてますね。三菱とキリンにも関わっていますね。そして、造幣寮(今の造幣局)に関わっているのも見逃せませんね。グラバーを操ったジャーデン・マセソン商会を見てみます。

 ジャーデン・マセソン商会(ウィキより抜粋)
 ジャーディン・マセソン(Jardine Matheson Holdings Limited, 怡和控股有限公司)は、香港にヘッドオフィス(登記上の本社はバミューダ諸島・ハミルトン)を置くイギリス系企業グループの持株会社。ロスチャイルド系であり、米誌フォーチュン誌の世界企業番付上位500社のランキング「フォーチュン・グローバル500」(2009年度版)では世界411位。創設から170年たった今日でも、アジアを基盤に世界最大級の国際コングロマリット(複合企業)として影響力を持っている。

 前身は東インド会社で、元は貿易商社。1832年、スコットランド出身のイギリス東インド会社元船医で貿易商人のウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンにより、中国の広州(沙面島)に設立された。設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出。同じロスチャイルド系の香港上海銀行(HSBC)は、ジャーディン・マセソンなどが香港で稼いだ資金をイギリス本国に送金するために設立された銀行である。清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われたアヘン戦争に深く関わっている。アヘンの輸入を規制しようとする清朝政府とイギリスの争いが起こった際に、当時のアヘン商人の一つであるジャーディン・マセソン商会のロビー活動により、イギリス本国の国会は9票という僅差で軍の派遣を決定した。1859年(安政6年)、上海支店にいたイギリス人ウィリアム・ケズィック(ウィリアム・ジャーディンの姉の子)が横浜(旧山下町居留地1番館、現山下町一番地)に「ジャーディン・マセソン商会」横浜支店を設立。日本に進出した外資第1号としても知られる。後に吉田茂の養父・吉田健三が一時期、同社横浜支店長を勤めていた。鹿島によって建設された横浜初の外国商館である社屋は、地元民から「英一番館」と呼ばれた。跡地には現在シルクセンター(国際貿易観光会館)が建っている。1863年(文久3年)、ウィリアム・ケズウィックは井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉、伊藤博文の長州五傑のイギリス留学を支援する。彼らの英国滞在は、ジェームス・マセソンの甥にあたるヒュー・マセソン(ジャーディン・マセソン商会・ロンドン社長)が世話した。一方長崎でも、1859年9月19日(安政6年8月23日)に幕末・明治期の重要人物であるトーマス・ブレーク・グラバーが「ジャーディン・マセソン商会」長崎代理店として「グラバー商会」を設立。現在はグラバー園として公開されている。グラバーは、五代友厚(薩摩)、坂本龍馬(海援隊)、岩崎弥太郎(三菱財閥)等を支援した。


 ジャーデン・マセソン商会はアヘン貿易をしており、ロスチャイルド系です。そして、「前身は東インド会社である」というのが最大のポイントである。ジョン・コールマンは、「世界を支配している闇の勢力「300人委員会」の前身は東インド会社だ」と述べている。ということは、「東インド会社=300人委員会=ジャーデン・マセソン商会=ロスチャイルド=「彼ら」」ちゅーわけですナ。はい!これで皆さんもご理解いただけたのではないかと思います。「明治維新を操っていた黒幕は誰なのか」ということを。その黒幕がやっていた“商売”はアヘン貿易であり、武器売買であったということを。「そんなヤバイ“商売”をしている勢力が裏で操っていた「明治維新」というものが「善良なる民主主義革命」であるわけがない」ということは、善悪の判断がつくようになった子供でも理解できることでしょう。そして、「吉田茂の養父・吉田健三が一時期、ジャーディン・マセソン商会横浜支店長を勤めていた。」という事実を我々は覚えておく必要があるでしょう。吉田茂は言うまでもなく麻生太郎の祖父であり、側近がCIAに情報提供していたことが暴かれている人物である。この「どす黒い血脈」が現在も続いていることは偶然でしょうか?必然でしょうか?外国人である「彼ら」が直接日本の政財界のトップとして君臨しだしたら、さすがに“洗脳されやすい”日本人も「彼ら」に支配されていることに気付き、次第に暴動が起きるでしょう。しかし一般の日本人を装った、出自の怪しい特殊な地域出身者を中心とした傀儡を「彼ら」の代わりにトップに据え置くことで、「彼ら」は日本を秘かに間接支配することが出来るのです。「彼ら」の間接支配が明治維新から平成の現代まで続いていることを、しっかりと理解しておいて下さい。最後に、「彼ら」の傀儡は維新勢力だけではなかったことを述べておきます。このことは次回書こうと思います。

 「幻の徳川家16代将軍」 を転載する。都市伝説テラー・オリエンタルラジオ・中田敦彦が、幻の徳川家16代将軍について語る。
 こちらで書き起こしをしてくれています。
 http://www.telejirou.com/archives/12299
 徳川の将軍と言うと、15代将軍の徳川慶喜で終わったと、教えられてきた。ところが、幻の16代将軍・徳川家達(とくがわいえさと)という存在があった。本来、徳川家達が15代将軍になるはずだったが、14代将軍の徳川家茂が死んだ時、徳川家達はまた幼かったという事もあり、徳川慶喜が15代将軍になったのである。結局、徳川家達が将軍にならなかった理由は、大政奉還が行われて、明治政府に政権を明け渡したからである。その事によって、徳川慶喜は大政奉還をした最後の将軍という事で、歴史に名を名を残した。しかし徳川家達は歴史に名を残す手前で、なれずに、歴史から名を消しているまさに悲劇の人物であるが、徳川家達の悲劇は始まりに過ぎなかった。その後、徳川家はどうなったかと言えば、家が取り潰される事もなく、一貴族として存続はする。そこで、徳川家達は歴史に名を残そうと政治家になる。そして、徳川家達は、30代になり大きなチャンスがやってくる。それが、初代東京市長(現・東京都知事)である。東京都知事に徳川家達になるという事は、江戸を治めていた徳川が再び、江戸を治める事になる。しかし、内定直前にまでなったが、徳川家の当時のお目付け役であった、勝海舟の反対にあう。勝海舟からすれば、国を背負って欲しいので、江戸だけで満足してほしくないという意見を受け、徳川家達は泣く泣く東京市長を辞退した。その後、50代になった徳川家達に再びチャンスが訪れる。今度は総理大臣である。時の山本権兵衛内閣がスキャンダルで潰れる。どうにか次の候補を探さなければいけないという事で、陛下から指名があったのが、徳川家達であった。しかし、今度は、徳川一族から反対にあった。徳川一族は、政治のトップに立って失敗したら、徳川の立場がないと非常にネガティブに反対された。この徳川一族の反対にあい、徳川家達は、またもや泣く泣くチャンスを奪われた。

 德川 家達(ウィキより抜粋)

 德川 家達(とくがわ いえさと)は、徳川宗家16代当主。もとは田安徳川家7代当主。静岡藩初代藩主。幼名は亀之助。号は静岳。位階、勲等、爵位は従一位大勲位公爵。世間からは「十六代様」と呼ばれた。第4代から第8代までの貴族院議長、ワシントン軍縮会議首席全権大使1940年東京オリンピックの組織委員会の委員長第6代日本赤十字社社長などを歴任した。大正期には組閣の大命も受けた(拝辞)。

 明治10年(1877年)、イギリスのイートン・カレッジに留学する。同校では、寄宿舎での学生による模擬議会に大きな感銘を受けたと回顧している。明治15年(1882年)10月に帰国する。家達は海軍大臣の加藤友三郎や駐米大使の幣原喜重郎などとともにワシントン軍縮会議首席全権を務め、イギリス・アメリカ・日本の海軍主力艦保有比率を10:10:6にする条約を締結した。この決定は欧米列強の軍事的緊張を是正して国際関係を安定化させることが目的だったが、国内では海軍軍令部や右翼から「軟弱外交」との批判を受けた。
大正2年(1913年)に恩賜財団済生会会長、大正4年(1915年)に明治神宮奉賛会会長に就任。大正10年(1921年)には大日本蹴球協会(現在の日本サッカー協会)の名誉会長として、その発足に立ち会っている[1]。昭和4年(1929年)11月、第6代日本赤十字社社長に就任した。昭和9年(1934年)には、日本におけるアジア初の国際会議となった第15回赤十字・赤新月国際会議の東京開催に尽力した。さらに昭和11年(1936年)12月には、1940年の東京オリンピック招致成功を受けて、東京市や大日本体育会などを中心として設立された「第十二回オリンピック東京大会組織委員会」の委員長に就任した。昭和15年(1940年)死去、享年78。大勲位菊花大綬章受章。


 德川 家達については以前にも書いたが、改めて気付いたことも多い。テレビでは德川 家達は「悲劇の主人公」といった話になっているが、1940年東京オリンピック委員長、第六代日本赤十字社社長を歴任するなど実に輝かしい経歴の持ち主である。とても倒された過去の大名の末裔とは思えない待遇である。そして、あのフリーメーソンであることが発覚した幣原喜重郎などとともにワシントン軍縮会議首席全権を務め、イギリス・アメリカ・日本の海軍主力艦保有比率を10:10:6にする条約を締結した、とのことである。この日本の歴史における重大事件が、日本を太平洋“八百長”戦争に押しやる要因となったことは以前書いた通りである。この重大事件にも德川 家達は関わっていたのである・・・。イギリス留学もしており、どう考えても「彼ら」指示で動いていたとしか思えないのである。

 現在の徳川家の末裔たちはどうされているのだろうか?


 http://matome.naver.jp/odai/2136859473149571501
 徳川家のまつえいたちは今なにをやっているのか?


 皆さん、ご立派な経歴をお持ちの方ばかりのようです・・・。

 ところで、こういったブログ記事がある。

 bakumatuseihenco/tokugawakeco.htm
 (れんだいこ)さん

 【徳川家から見た幕末維新考】


 「太田龍の時事評論」の2,006.8.25日付け№1783「徳川宗家第十九代後継者、徳川家広氏の重大な発言(『ボイス』九月号)」を紹介する。(れんだいこ編集) 「ボイス」平成十八年九月号、二百二十八頁以下に、「徳川家から見た近代日本―幕府と長州の『戦い』は今日まで連綿とつづいている」、と言う座談会が掲載されて居る。座談会の出席者は、徳川家広(徳川宗家十九代後継者)、他二人。

 平成十八年七、八月は、日本歴史に残る重要な時期と成るであろう。この時期に筆者の見るところでは、次の四つの画期的事件があった。即ち、

 (1)鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」(七月、成甲書房、上下二巻)の出版。
 (2)いはゆる富田メモの報道(七月二十日、日経新聞、そして各紙)
 (3)「徳富蘇峰終戦後日記」の出版(講談社)。
 (4)「ボイス」、九月号。前出座談会。

 天皇家の血統継承に、今、大きな問題が生じて居るが、徳川家の血統はどうなのか。筆者はこの問題について、「週刊日本新聞」四五一号、四、五頁で論じた。十五代将軍徳川慶喜が、いはゆる大政奉還したあと、英国(イルミナティサタニスト世界権力)の走狗と化した売国奴長州賊は、売国奴岩倉、三條らの一部公卿を手なずけて、徳川幕府を倒して、イルミナティの手先としてのニセ日本国をデッチ上げた。このことについては、「天皇破壊史」「長州の天皇征伐」(成甲書房)参照。

 しかし、この長州岩倉の売国奴一味は、徳川の血統を根絶やしにしなければならなかったにも拘わらず、それに失敗した。徳川慶喜が引退したあと、徳川宗家は十六代家達が継承、十七代家正、十八代恒孝に至って居り、十九代後継者が徳川家広、だと言う。徳川の血統は、今、御三家、御三卿を含めて七系統。徳川の現存者子孫は、現在、約三百人、と聞いたことがある。

 「徳川と長州の戦いは、なを、継続中」(徳川家広)と言う。これは重大な発言である。「長州の天皇征伐」の熱心な読者には、そのことがただちに理解されるであろう。公式イデオロギーに毒されて居る普通の日本人には、このことの意味がまるで通じないかも知れないか。

 「長州」こそ、「大日本帝国」の主体であり、その真の創設者である。従って、敗戦と共にこの「大日本帝国」が崩壊したとき、蜷川新先生のような徳川幕府陣営の人物は、「長州」も、そして「長州天皇」も、当然、退陣するものと考えた。しかし、徳川家広によれば、敗戦後も長州勢力は、うまく立ち廻って主導権を握った、と言う。ここに、現代日本史の核心が存在する。(了)

 「ボイス」(平成18.9月号)の「徳川家から見た近代日本―幕府と長州の『戦い』は今日まで連綿とつづいている」(237P) 

 北康利(作家)  徳川家に對して、長州閥の人々はごく最近まで、”色々仕掛けてきてゐた”やうですね。
徳川家廣(飜譯家)  (笑)。例へば「三百年のベール」。徳川家康の出自の謎を「解き明かした」明治のトンデモ本「史疑」の内容を紹介し、また其の本が世に出なかつた經緯を書いたものです。此の著者の南條範夫氏は、一高、東大と進み、商工省から滿州國に行つて、戰後には時代小説の大家と成つてゐるのは、皆さんご存知のとほりですが、實は舊制山口中學卒でもあります。詰り、岸信介と物凄く近い人なのですね。

 兔に角、長州藩閥人脈の方達は、大日本帝國の歴史を正確に記述される事を非常に恐れてゐる筈です。英吉利のバックアップを得て國を造り、シベリア出兵の失敗によつて中樞から一時追ひ出されるものの、其の後、滿州事變を畫策する事で強引に權力を奪還して、最後は大日本帝國の領土を失はせてしまつた。

 終戰時の日本の領土は明治維新時よりも狹く成つてゐました。一人當たりのGNPでいつても、低く成つてゐたのではないか。此の樣な事實から國民の目を逸らし、責任逃れするには、前任者に罪を擦り附ける ― 江戸時代が暗黒時代だつたと喧傳するしかない譯ですね。

 谷澤永一 (關西大學名譽教授)  成る程。近世の研究をしてゐても、未だ分からない事が澤山有りますが、近代に至つては、まだまだ時代を動かした本當の事實が明らかに成つてゐないと云ふ事ですね。此れは一寸、歴史學の埒内では書きやうがないですね。


 ブログ主さんは気付いていないようですが、この記事は意図せずに「徳川家と長州は現在も対立している。徳川はあくまでも長州に敗れた過去の勢力である。」という間違った情報を拡散してしまっています。あの慧眼の持ち主である太田龍氏も、すっかり騙されていたようですね。

 次のブログ記事は、なかなか真に迫っておられます。


 (Electronic Journal)さん
 http://electronic-journal.seesaa.net/article/173536220.html
 ●「幕府にもいたフリーメーソン」(EJ第2960号)

 グラバーは、一貫して長州藩や薩摩藩などの雄藩を支援し、倒幕の動きを加速させていたように思えます。しかし、グラバーは幕府にも手を伸ばしていたのです。それも徳川慶喜の側近に手を打っていたのです。それは西周(にしあまね)という人物です。 西周は、江戸の蕃書調所の教授をやっていたのです。蕃書調所というのは、安政3年(1856年)に発足した江戸幕府直轄の洋学教育研究機関です。開成所の前身で、東京大学の源流諸機関のひとつであり、現代でいうと、西は東京大学の教授といったところです。西は文久3年(1862年)に幕府の研修生としてオランダに留学しています。留学先はライデン大学です。学んだのは、自然科学、国際法、国内法、政治学および統計学です。その西周は、ライデン大学から近くにある「ラ・ベルトゥ・ロッジ ナンバー7」に加盟し、フリーメーソンになっています。現在記録に残っているという意味では、日本人最初のフリーメーソンということになります。同ロッジに残されている入会記録は次のようになっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1864年、10月20日。第一階級として入会。日本国、津和野生まれ、35歳、日本国官吏としてライデンに在住の西周助(本名)署名・──加治将一著の前掲書より
――――――――――――――――――――――――――――-
 この西周とグラバーとの接点を示す記録は何もありませんが、何らかの交流があった可能性があるのです。というのは、このライデン大学には、若きグラバーの写真が残されているからです。ということは、ライデン大学とグラバーとは何らかのつながりがあったことを示しています。この大学の日本学科には今でも多くの学生が在籍し、日本語研究にかけては、ヨーロッパでもトップクラスの力の入れようなのです。当時日本のことを熟知していたグラバーと関わりがあっても不思議はないのです。おそらく西はグラバーと面識があったと思われます。蘭学を志していた西が、長崎のオランダ人を通じて西と知り合う可能性は高いと思われるからです。推測ですが、事前にグラバーは西と会い、フリーメーソンの基礎知識を教えたのではないかと考えられます。そして、グラバーは、ライデン大学のフィッセリング教授を紹介したと思われるのです。まフィッセリング教授はもちろんグラバーとフリーメーソン仲間なのです。グラバーとしては、幕府の中枢にいる前途有望な若手スタッフが同じフリーメーソン仲間になけば、何かと気脈を通じやすくなるので、フリーメーソンに入会することは歓迎なのです。 それからもう一人西よりも一ヵ月遅れてフリーメーソンに入会した幕臣がいたのです。津田真道がそうです。西と同じロッジに入会したのです。このあたりのことはほとんど知られていない出来事です。     ――――― [新視点からの龍馬論/51]

 西周(ウィキより抜粋)
 西 周 (にし あまね、文政12年2月3日(1829年3月7日) - 明治30年(1897年)1月31日) は江戸時代後期から明治時代初期の幕臣、官僚、啓蒙思想家、教育者。貴族院議員、男爵、錦鶏間祗候。勲一等瑞宝章(1897年)。周助ともいう。石見国津和野藩(現、島根県津和野町)の御典医の家柄。父・西時義(旧名・森覚馬)は森高亮の次男で、川向いには西周の従甥(森高亮の曾孫)にあたる森鷗外の生家がある。西の生家では、彼がこもって勉学に励んだという蔵が保存されている。漢学の素養を身につける他、天保12年(1841年)に藩校・養老館で蘭学を学んだ。安政4年(1857年)には蕃書調所の教授並手伝となり津田真道と知り合い、哲学ほか西欧の学問を研究。文久2年(1862年)には幕命で津田真道・榎本武揚らとともにオランダに留学し、フィセリングに法学を、またカント哲学・経済学・国際法などを学ぶオランダ留学中の1864年にライデンでフリーメイソンリーに入会している。慶応元年(1865年)に帰国した後、目付に就任[1]、徳川慶喜の側近として活動する。王政復古を経た慶応4年(1868年)、徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任。同年、『万国公法』を訳刊。明治3年(1870年)には乞われて明治政府に出仕、以後兵部省・文部省・宮内省などの官僚を歴任し、軍人勅諭・軍人訓戒の起草に関係する等、軍政の整備とその精神の確立につとめた。明治6年(1873年)には森有礼・福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西村茂樹・津田真道らと共に明六社を結成し、翌年から機関紙『明六雑誌』を発行。啓蒙家として、西洋哲学の翻訳・紹介等、哲学の基礎を築くことに尽力した。東京学士会院(現在の日本学士院)第2代及び第4代会長[2]、獨逸学協会学校(現在の獨協学園)の初代校長を務めた。明治30年(1897年)、明治天皇は西の功績に対し勲一等瑞宝章、男爵の位を授けた。同年1月31日に死去。享年68。

 津田 真道(ウィキより抜粋)
 津田 真道(つだ まみち、文政12年6月25日(1829年7月25日) - 明治36年(1903年)9月3日)は、日本の武士(幕臣)、官僚、政治家、啓蒙学者。福澤諭吉、森有礼、西周、中村正直、加藤弘之、西村茂樹らと明六社を結成。岡山県出身。美作国津山藩上之町(現:岡山県津山市)の生まれ。幼名は喜久治。後に真一郎、行彦とも名乗った。嘉永3年(1850年)に江戸に出て箕作阮甫と伊東玄朴に蘭学を、佐久間象山に兵学を学ぶ。藩籍を脱して苦学したが、安政4年(1857年)蕃書調所に雇用されて、文久2年(1862年)には西周とオランダに留学しライデン大学のシモン・フィセリング(ドイツ語版)に学ぶ。オランダ留学中の1864年(元治元年)にフリーメイソンリーに入会している。4年後に帰国する。その講義録を慶応2年(1866年)に『泰西国法論』と題して訳出する。これは日本初の西洋法学の紹介となる。その後、幕府陸軍の騎兵差図役頭取を経て、目付に就任、大政奉還に際しては徳川家中心の憲法案を構想した(『日本国総制度』)。

 大政奉還(ウィキより抜粋)
 大政奉還(たいせいほうかん)とは、江戸時代末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に上奏し、翌15日に天皇がこれを勅許した政治的事件である。

 雄藩の政治参加を伴う公武合体を構想していた薩摩藩は、参預会議(1864年)の崩壊により一橋慶喜(当時将軍後見職)や幕閣との対立を深め、また切り札と考えた四侯会議(1867年)でも15代将軍に就任した慶喜の政治力により無力化されたため、慶喜を前提とした諸侯会議路線を断念し、長州藩とともに武力倒幕路線に傾斜していった。このような状況の中、土佐藩の後藤象二郎は、慶応3年(1867年)坂本龍馬から大政奉還論を聞いて感銘を受ける。坂本の船中八策にも影響され、在京土佐藩幹部である寺村道成、真辺正心、福岡孝弟らに大政奉還論の採用を主張した。これに薩摩藩の小松清廉らも同意し、6月22日薩土盟約が締結された。これは幕府が朝廷に大政を奉還して権力を一元化し、新たに朝廷に議事堂を設置して国是を決定すべきとするもので、その議員は公卿から諸侯・陪臣・庶民に至るまで「正義の者」を選挙するものとされていた。大政奉還論はいわば平和裏に政体変革をなす構想であったが、薩摩藩がこれに同意したのは、慶喜が大政奉還を拒否することを見越し、これを討幕の口実にすることにあったといわれる。そのため、盟約には土佐藩の上京出兵、将軍職の廃止を建白書に明記することが約束された。
後藤はすぐに帰国して土佐藩兵を引率してくる予定であったが、山内容堂(前土佐藩主)は大政奉還を藩論とすることには同意したものの、上京出兵には反対し、建白書の条文から将軍職廃止の条項を削除した。薩摩側は長州・芸州との間で武力倒幕路線も進めており、結局9月7日に薩土盟約は解消された。10月3日、土佐藩は単独で大政奉還の建白書を藩主・山内豊範を通じ将軍・徳川慶喜に提出した。土佐藩の建白を受け、10月13日、徳川慶喜は京都・二条城に上洛中の40藩の重臣を招集し、大政奉還を諮問した。10月14日(11月9日)に「大政奉還上表」を朝廷に提出すると共に、上表の受理を強く求めた。摂政・二条斉敬ら朝廷の上層部はこれに困惑したが、薩摩藩の小松帯刀、土佐藩の後藤象二郎らの強い働きかけにより、翌15日に慶喜を加えて開催された朝議で勅許が決定した。慶喜に大政奉還勅許の沙汰書を授けられ、大政奉還が成立した。

 大政奉還上表の前日の10月13日、徳川慶喜は開成所教授職を務めた幕臣の西周に対し、英国の議院制度等に関して諮問を行っている。大政奉還成立後の11月、西は意見書として「議題草案」を慶喜側近の平山敬忠に提出している(他にも慶喜周辺に存在した構想として、津田真道の「日本国総制度」(同年9月)などが知られている)。西はこの中で、徳川家中心の具体的な政権構想を示している。西洋の官制に倣う三権分立が形式的にではあるが取り入れられ、行政権を公府が(暫定的に司法権を兼ねる)、立法権を各藩大名および藩士により構成される議政院がもつこととしており、天皇は象徴的地位に置かれている。公府の元首は「大君」と呼ばれ、徳川家当主(すなわち慶喜)が就任し、上院議長を兼ね、下院の解散権を持つものとされていた。軍事については、当面各藩にその保有を認めるが、数年後には中央に統合するものとされた。その他、従来の諸大名領を現状のままとし、公府の機構は幕府のそれとの関連が意識されているなど、極めて現実的な計画であった[2]。


 はい!これまたフリーメーソンです(笑)。ウィキは本当に正直ですね(笑)グラバーと慶喜の間に入っていたのが、日本初のフリーメーソンとして有名な西周と津田真道だったのでしょう。大政奉還にも二人は関わっていたようですね。グラバーは維新側と幕府側の両サイドを操っていた「ダブルスパイ」だったようです。敵対しているはずの両勢力を結びつけるキーワードは「フリーメーソン」であるようですナ。西周、津田真道とともにオランダに留学した榎本 武揚という人物がいます。

 榎本 武揚(ウィキより抜粋)
 榎本 武揚(えのもと たけあき、天保7年8月25日(1836年10月5日) - 明治41年(1908年)10月26日)は、日本の武士(幕臣)、外交官、政治家。海軍中将、正二位勲一等子爵。通称は釜次郎、号は梁川。名は「ぶよう」と故実読みされることもある。幼少の頃から昌平坂学問所で儒学・漢学、ジョン万次郎の私塾で英語を学ぶ

 ジョン万次郎を調べてみます。

 ジョン万次郎(ウィキより抜粋)
 ジョン万次郎(ジョン まんじろう、文政10年1月1日(1827年1月27日) - 明治31年(1898年)11月12日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての人物。日米和親条約の締結に尽力し、その後通訳・教師などとして活躍した。ジョン・マン(John Mung)とも呼ばれた。本名は中濱 萬次郎(なかはま まんじろう)。天保12年(1841年)、手伝いで漁に出て嵐に遭い、漁師仲間4人と共に遭難、5日半の漂流後奇跡的に伊豆諸島の無人島鳥島に漂着し143日間生活した。そこでアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に仲間と共に救助される。日本はその頃鎖国していたため、漂流者のうち年配の者達は寄港先のハワイで降ろされるが、船長のホイットフィールドに頭の良さを気に入られた万次郎は本人の希望からそのまま一緒に航海に出る。生まれて初めて世界地図を目にし、世界における日本の小ささに驚いた。この時、船名にちなみジョン・マン(John Mung)の愛称をアメリカ人からつけられた。同年、アメリカ本土に渡った万次郎は、ホイットフィールド船長の養子となって一緒に暮らし、1843年(天保15年)にはオックスフォード学校、1844年(弘化元年)にはバーレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ。彼は寝る間を惜しんで熱心に勉強し、首席となった。民主主義や男女平等など、日本人には新鮮な概念に触れる一方、人種差別も経験した。嘉永4年(1851年)2月2日、薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られた。海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩の取調べを受ける。薩摩藩では万次郎一行を厚遇し、開明家で西洋文物に興味のあった藩主・島津斉彬は自ら万次郎に海外の情勢や文化等について質問した。斉彬の命により、藩士や船大工らに洋式の造船術や航海術について教示、その後、薩摩藩はその情報を元に和洋折衷船の越通船を建造した。斉彬は万次郎の英語・造船知識に注目し、後に薩摩藩の洋学校(開成所)の英語講師として招いている。帰郷後すぐに、万次郎は土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命された。この際、後藤象二郎、岩崎弥太郎などを教えている。万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使節団の1人として、咸臨丸に乗りアメリカに渡る。船長の勝海舟が船酔いがひどくまともな指揮を執れなかったため、万次郎は代わって船内の秩序保持に努めた(彼はアメリカ人との対等な交友を日本人船員にそねまれることを恐れ、付き合い方には注意していたとされる)。サンフランシスコに到着後、使節の通訳として活躍。帰国時に同行の福澤諭吉と共にウェブスターの英語辞書を購入し持ち帰る。坂本龍馬も万次郎から聞いた世界観に影響を受けたと言われ、激動の幕末における影の重要人物である。


 どうやら、こんがらがった糸が解れてきたように思います。幕府側の榎本 武揚に英語を教えたジョン万次郎は、敵対するはずの坂本龍馬の「世界観」にも影響を与えているようです。どういった「世界観」でしょうか?私には「邪悪な世界観」にしか思えません。昨年私は足摺岬に行きましたが、明らかにジョン万次郎の銅像は「フリーメーソンのコンパス」を連想させる三角の定規を持っていました(笑)。ジョン万次郎がフリーメーソンだったことは間違いないでしょう。私は以前、「坂本龍馬の介入で徳川慶喜が大政奉還を上奏し、内戦を避けようとした(実際は鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争が起きた)が、日本を血みどろの内戦状態にしたかった「彼ら」がこの事実に怒り、龍馬暗殺を起こした」と見ていましたが、どうやらこの大政奉還も「彼ら」の想定内であり、龍馬暗殺は「知りすぎていた男」に対する単なる“とかげの尻尾きり”だった、というのが真相なのではないかと感じるようになりました。「薩長と徳川の対立」というのも、全てが仕組まれた“出来レース”だったのでしょう。だからこそ大政奉還後の明治になっても、徳川家の末裔たちは“ご立派な名誉と地位”を授けられているのでしょう。徳川幕府から明治へと移行する日本の重要な転換期に、ここに述べたようなフリーメーソン人脈が蠢いていたことは疑いようがありません。その一環として、例の孝明天皇弑逆事件・明治天皇すり替えがあったことは言うまでもないことです。この事件の主犯と思われる伊藤博文や岩倉具視がフリーメーソンであったか否かは分りませんが、「彼ら」のエージェントであったことは疑いようがないでしょう。どうやら日本が「彼ら」の“ゲームの駒”として戦わされていたのは、日露戦争の時からではなく、幕末の時代からだったようです・・・。いや、それよりずっと前の太古の時代からかもしれません・・・。

 最後に、これらの「幕末・明治維新の真相」を証明する事例として、徳川家とロスチャイルド家が2014年の現在も交流しているという記事を紹介します。ただ気になったのは、徳川家広氏が「一番好きな歌手がアンジェリーク・キジョーだ」と答えている箇所です。私は大変複雑な心境です(笑)。徳川家広氏の音楽に関する素養がどれだけあるのか私は知りませんが、アンジェリーク・キジョーのことは「彼ら」に教えてもらったとしか私には思えません(笑)。キリスト教(実際はユダヤ・カバラ教)を禁止して国を守った家康も、今の徳川家の現状を見て、草葉の陰で泣いていることでしょう。私には家康の心の声が聞こえてきます。「たとえ徳川家が滅亡に追いやられても、武士の魂だけは決して忘れてはならない」と。


 http://bylines.news.yahoo.co.jp/kataokahidehiko/20140501-00034967/
 徳川家と英国ロスチャイルド家による日本史と世界史がリンクする奇跡の対談が実現
-シャーロット:私は、世界がより平和になると良いと、つくづく思います。誰かが魔法のようにしてくれれば良いのですが、残念ながらそれは不可能です。もし世界で人種や宗教に拘わらず、皆が仲良く暮らせたら、世界はもっと平和になるのです。それには文化の力が大切だと思います。私は音楽家なので、音楽が人々に人間本来持つ優しさをもたらすことを信じて、それに貢献できたら幸せだと思います。-徳川:一番重要なのは、貧困をどうやってなくしていくか、ということだと思います。日本国内に関しては、若年者の雇用状態が悪いですね。先が全く見えない若い人達が増えている。ですから、どうやって国内の富を均平にさせるか、これが一番重要だと思います。それから文化ですが、戦争が長期化しているソマリア等アフリカ全体や犯罪が多いラテンアメリカでも音楽は社会を癒す力を持っています。私が一番好きなのは南アフリカワールドカップ開会式で歌ったアンジェリーク・キジョーですが、こんな素晴らしい歌手が生まれること、そういう力を信じたいと思います


 あんたら、よく言うわ(爆)












(私論.私見)