横井小楠



 (最新見直し2007.5.7日)

横井小楠
 1809〜1869年、享年61歳。
 熊本藩士の家に生まれ、10歳で藩校「時習舘」に入学。29歳で塾長となった。31歳で江戸に留学した後、熊本で私塾を開いた。50歳で越前藩主、松平春嶽の要請に由り藩の「賓師」となり、幕府の政事総裁職となった春嶽のブレーンとして国の指針「国是7か条」を建言した。だが、政府の参与に就いた翌年、61歳で旧体制の過激派に暗殺された。

 吉田松陰が私淑し、勝海舟が称賛、トルストイが驚嘆した人物。朱子学をベースにした仁政の理想を根本に据え、行動した。福井越前藩の政治顧問を務め、維新後の新政府で西郷隆盛や木戸孝允、大久保利通らと共に参与の地位に就いた。薩摩、長州藩出身者を中心とする新政府の若きリーダーたちにとって、小木南は別格の庁論的存在であった。参与の中で肥後藩出身というのも異例であった。その実力の程が知れる。

 小楠の残した言葉。米国留学に旅立つ甥に送った詩。「尭舜孔子の道を明らかにし、西洋器械の術を尽す。なんぞ富国に止まらん。なんぞ強兵に止まらん。大義を四海に布かんのみ」。「富国有徳」の思想。小渕恵三首相が所信表明演説で触れた。(2003.11.17日付け日経新聞文化欄、徳永洋「先覚者『小木南』魂は死なず」参照)












(私論.私見)