【武市半平太】(瑞山、たけち はんぺいた) |
1829〜1865、享年37歳。 |
土佐国長岡郡仁井田郷吹井村の土佐上級郷士の家に生まれる。幼少のころより文武に励み、国学、書画を嗜んだ。特に絵画が巧みであった。14歳から剣術を学び、文武両道を極めた。嘉永三(1850)年高知城下新町に移り、安政元(1854)年、27歳で高知城下に道場を開き中岡慎太郎、岡田以蔵などに教えた。
1856(安政3)年、江戸へ出て鏡新明智流の桃井春蔵門に入り、翌年塾頭となる。この頃、剣客になるということはステータスであり、まして塾頭になり得た人物は一目も二目も置かれた。案外見落とされているが、この流れを正確に掴まないと「幕末志士」の交流の様が見えてこない。
帰郷後、道場の経営に尽力。1858(安政5)年、剣道の功により藩から終身二人扶持を給せられた。1859年の安政の大獄、1860年の桜田門外の変など、情勢の変化に伴い、尊攘運動が激化するや、1860(万延元)年の秋、藩から剣術修行の許可を得て門弟2名を従え北九州の諸藩を巡歴する。
1861(文久元)年、文武修業のため再び江戸に出て諸藩の尊攘派の志士と交わり、政事を研鑽した。修学のため江戸にきた同郷の大石弥太郎から勤王論勃興の情勢を聞き、その紹介により住谷寅之助・岩間金平・樺山三円・桂小五郎・久坂玄瑞ら水戸、薩摩、長州藩の尊攘派志士と時勢を論ずる。
深く感ずるところがあって、大石、島村衛吉、池内蔵太(いけくらた)、河野敏鎌(とがま)らと土佐藩尊攘派の組織化を決意して帰国する。
文久元年8月、下級武士・郷士・村役人層を中心とする土佐勤王党を結成し、その首領となった。盟約に応ずるもの200余名に及び、藩体制に大きな影響を与えた。この時、坂本竜馬も中心的指導者の一人として参画している。
当時、藩の参政吉田東洋が佐幕的公武合体を堅持しており、一藩勤王を念願とする瑞山は東洋に「挙藩勤王論」を進言したが容れられず、勤王諸藩の京都結集に遅れることを恐れた末、遂に1862(文久2).4月、東洋を党員の手で暗殺して吉田派を退け、藩論を一変させた。
ついで藩主山内豊範に従って入京し、土佐藩の尊皇攘夷運動をアピールした。他藩応接役として諸藩の有志と交わりつつ一藩勤王を目指しつつ天誅路線を敷くことで土佐勤皇党の力を誇示した。
公卿の三条実美・姉小路公知が攘夷督促の勅使として東下するにあたっては姉小路の雑掌となり、柳川左門と変称して10.12日、京都を出発した。このころが瑞山と勤王党の最も華やかな活躍時代で、年末に留守居組に列せられて上士格に進み、1863(文久3)年正月、京都留守居役となる。
京都で「8.18の政変」が勃発する。これによって尊攘運動は後退し、機を捉えた旧吉田東洋派が容堂の意向を得て勤王党弾圧が始まった。瑞山は志士たちが相次いで脱藩する中にあって動かず、4月、藩命により帰国。9月、投獄され、在獄1年半余、慶応元年切腹を命ぜられ、自刃した。享年37歳。
妻富子の内助の功は有名。瑞山の獄中の詠に「ふたたひと返らぬ歳をはかなくも今は惜しまぬ身となりにけり」がある。瑞山は天皇と聞いただけでも涙したという真の勤王主義者であった。 |
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