高杉晋作



 (最新見直し2012.7.5日)

【高杉晋作(たかすぎ しんさく)】(「ウィキペディア高杉晋作」その他を参照する)
 1839(天保10)年~1867(慶応3)年。長州藩に籍を置く倒幕運動の指導者。享年29歳。
 1839(天保10)年、萩城下菊屋横丁に長州藩士・高杉小忠太(大組・200石)と道(みち)夫婦の長男として生まれる。武(たけ)、栄(はえ)、光(みつ)という三人の妹が誕生するが、晋作は高杉家のあと取りとして大事に育てられた。高杉家は戦国時代より毛利家に仕えてきた長州藩の名家である。

 10歳の頃に疱瘡を患う。漢学塾で習う。1852(嘉永5)年、14歳の時、藩校明倫館に入学したが、その講義に失望し、むしろ剣術に熱中し、内藤作兵衛に柳生新陰流剣術も学び、のち免許を皆伝される。

 1857(安政4)年、19歳の時、幼なじみの久坂玄瑞に誘われ、吉田松陰の松下村塾に入塾する。夜中でも塾に通い熱心に勉学に励んだ。吉田松陰門下の逸材となり、1歳下の久坂玄瑞と並ぶ双璧と称された。「松下村塾 四天王」は、高杉晋作は、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一。次のように評されている。
 「師である吉田松陰は高杉の非凡さを逸早く見抜き、剣術ばかりであまり学業に本腰を入れない高杉を奮起させるためあえて、同門で幼馴染でもある優秀な久坂ばかりをべた褒めしたという。高杉は悔しさをバネに自身の非凡さを発揮。久坂と肩を並べお互いを切磋琢磨しあうなどとても優秀であったという」(「ウィキペディア高杉晋作」)。

 1858(安政5)年、藩命で江戸遊学。これにつき、吉田松陰が藩の重職の周布政之助に根回しし、晋作の江戸遊学が認められたと云う経緯がある。晋作は江戸に到着すると、まず、大橋訥庵(おおはしとつあん)の大橋塾に入門した。続いて昌平坂学問所に入門している。

 この間、師の吉田松陰は、1858年より始まった安政の大獄の指揮者である幕府の大老・井伊直弼、老中・間部詮勝に対し、水戸藩などの同士たちと共に暗殺計画を立てていた。これが発覚し、長州藩は吉田松陰を萩の野山獄へ投獄、松下村塾を閉鎖した。その後、吉田松陰は梅田雲浜(うめだうんぴん)とのつながりを疑われ、幕府の命令により江戸の伝馬町獄へ投獄された。

 1859(安政6)年、昌平黌で学んでいた晋作は、師の松陰が安政の大獄で捕らえられるとその獄を見舞い、獄中の吉田松陰の世話役として精力的に尽くした。これを案じた藩は晋作を萩に呼び戻した。10月、江戸からの帰国途中に松陰の処刑を聞かされる。

 1860(万延元)年春、柳生新陰流免許皆伝を授かり、秋、関東北陸東北を遊歴し、加藤有隣、佐久間象山、横井小南ら先覚者を訪ねている。11月、帰郷。父・小忠太の斡旋で、防長一の美人と言われた山口町奉行・井上平右衛門(大組・500石)の次女・まさと結婚する。激動の人生を生き抜いた晋作ゆえ、二人が一緒に過ごすことができた期間は6年間の結婚生活の中でわずか2年ほどとなった。

 1861(文久元)年3月、海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦「丙辰丸」に乗船、江戸へ渡る。但し、軍艦教授所の入所を勝手に取り消す。神道無念流練兵館道場で剣術稽古。8月、北関東、東北、北陸を回る旅に出て笠間の加藤有隣、松代の佐久間象山、福井の横井小楠などの名士に会い、佐久間象山や横井小楠と交友する。この旅を「試撃行(しげきこう)」と名付けている。小楠の印象を、「横井なかなかの英物、一ありて二なしの士と存じ奉り候」と記している。翌年、小楠を学頭兼兵制相談役として長州藩に招聘したいという意見を述べている。

 1861(文久元)年、晋作は長州藩主・毛利敬親のあと取り定広の小姓役(こしょうやく)を命じられた。これを機会に本格的に藩政に関わるようになる。この頃、長州藩士の長井雅楽(ながいうた)が意見書「航海遠略策」を提出した。「航海遠略策」は、尊皇攘夷に反対し、幕府と朝廷が一緒になって(公武合体)、開国を進めることを建策していた。

 1862(文久2)年5月、藩命で、五代友厚らとともに幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航する。上海視察の際、清国がアヘン戦争に負けた影響でイギリスの植民地と化している状況を見て日本の危機を感じ、太平天国の乱を見聞して7月に帰国する。日記の「遊清五録」によれば大きな影響を受けたとされる。高杉の渡航中に守旧派の長井雅楽らが失脚、尊王攘夷(尊攘)派が台頭しており、高杉も桂小五郎(木戸孝允)や久坂義助(久坂玄瑞)たちと共に尊攘運動に加わる。江戸や京師(京都)で勤皇・破約攘夷の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流した。高杉は「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば……」と論じている。

 晋作が上海視察から帰国した頃、長井雅楽の「航海遠略策」は朝廷により却下され、長井雅楽は失脚した(長井は翌年2月、自刃を命ぜられた)。これにより、長州藩の方針は、「公武合体」から「即今攘夷」に転換された。折りしも、外国公使がしばしば武州金澤(金澤八景)で遊ぶからそこで刺殺しようと同志(高杉晋作、久坂玄瑞大和弥八郎長嶺内蔵太志道聞多松島剛蔵寺島忠三郎有吉熊次郎赤禰幹之丞山尾庸三品川弥二郎)が相談した。しかし久坂が土佐藩の武市半平太に話したことから、これが土佐前藩主・山内容堂を通して長州藩世子・毛利定広に伝わり、無謀であると制止され実行に到らず、櫻田邸内に謹慎を命ぜられる。

 謹慎中の同志は久坂玄瑞が盟主となり、久坂血盟書「気節文章」の下、急進的尊攘結社「御楯組」を結成する。結成メンバーは高杉晋作、久坂玄瑞、志道聞多(井上聞多・井上馨)、赤根武人、松島剛蔵(水長盟約の当事者ですね)、山尾庸三、大和弥八郎、寺島忠三郎、品川弥二郎、長嶺内蔵太、有吉熊次郎ら11名。この過程で、長州藩と朝廷や他藩との提携交渉は、専ら桂や久坂が担当することとなる。

 12.12日、「御楯組」が品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行う。過激な行いが幕府を刺激する事を恐れた藩は晋作らを江戸から召還する。帰藩後、晋作は周布政之助に対して、今こそ倒幕に向けて動くべきだと提言している。周布政之助は、「それには10年早い、その時期が来るまで待ったほうがいい」と返事したところ、「それならば、10年間、暇を頂きます」と藩に休暇願を提出し、これが認めらた。晋作は、髪を切って坊主になり、吉田松陰の生誕地、松本村の近くで草庵を結び隠遁生活に入った。この頃、晋作は、尊敬していた歌人の西行にちなんで東行(とうぎょう)と名乗っている。


 1863(文久3)年、大橋訥庵を幕府に売ったとのことで高槻藩士・宇野八郎を密殺したと、語られている。晋作が隠遁生活を送っていた頃、幕府は朝廷の圧力により攘夷決行方針を打ち出した。5.10日、幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限が過ぎると、長州藩は関門海峡において外国船砲撃を行うが、逆に米仏の報復に逢い惨敗する(下関戦争)。この難局を乗り切るため、長州藩主・毛利敬親は、隠遁中の晋作を呼び出し、関門海峡の防衛についての対応策をたずねたところ、晋作は「奇を以って虚をつき敵を制する兵をつくりたい」との提案をし、敬親はこれを承認し、下関の防衛を晋作に任せることにした。これにより、10年の予定だった晋作の隠遁生活は僅か2ヶ月で終わった。こうして高杉は下関の防衛を任せられた。

 6月、廻船問屋の白石正一郎邸において、吉田松陰の教えの中のひとつ、「草莽崛起(そうもうくっき)」という考え方による士農工商の身分制度に拘らない志願兵による奇兵隊を結成し、阿弥陀寺(赤間神宮の隣)を本拠とした。こうして民兵組織「奇兵隊」が結成され、初代総督に就任した。「奇兵隊」は、長州藩正規軍と事あるごとに衝突していくことになった。遂に、奇兵隊が正規軍先鋒隊の宿舎に押し入って、隊士を斬り殺すという事件が発生した(教法寺事件)。9月、教法寺事件の責任を問われ総監を罷免される。

 長州藩で教法寺事件が起こったこの頃、京都で、薩摩藩と会津藩が結託したクーデター「八月十八日政変」が発生し攘夷派である長州藩が追放された。長州藩では、遊撃隊の総督を務めていた来島又兵衛らによる武力対抗派と周布政之助や高杉晋作らによる慎重対応派が対立し始めた。晋作は、藩主の命令により来島又兵衛の説得を行ったが不調に終わった。1864(文久4).1月、高杉は脱藩して京都へ潜伏する。2月、桂小五郎の説得で帰郷する。脱藩の罪でかって吉田松陰も投獄されていた野山獄に約三ヶ月間、投獄される。6月、出所して謹慎処分となる。

 この間、長州藩は大きな危機を迎えた。京都の池田屋で新撰組との乱闘の末、吉田稔麿を失った(池田屋事変)。7月、京都蛤御門付近で長州藩士と、会津藩、桑名藩、薩摩藩の諸隊との衝突(禁門の変)で敗北して朝敵となる。来島又兵衛、入江久一が戦死、久坂玄瑞は自害する。松下村塾四天王のうち残ったのは高杉晋作だけとなった。幕府は、禁門の変で長州藩兵が発砲した銃弾が御所へ向けて飛んだという理由で責任を問い、従わなければ長州に攻撃をしかけると脅してきていた。

 8月、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠された。この時、奇兵隊も応戦したが近代兵器の威力には敵わなかった。長州藩は戦いをやめ、講和の道を選ぶこととなり、野山獄を出た後、自宅で謹慎中だった晋作を呼び出し、晋作は赦免されて和議交渉を任されることになった。時に高杉晋作、24歳であった。欧米側は、「賠償金300万ドルの支払い」、「長州藩の領地である彦島の租借」を要求した。晋作は、何度かの話し合いで講和談判をまとめあげた。長州藩は危機を脱出した。この講和談判をきっかけに、長州藩は尊王攘夷から尊王討幕に転換した。

 四国連合艦隊との講和交渉の席で通訳を務めた伊藤博文の後年の回想によると、この講和会議において、連合国は数多の条件とともに「彦島の租借」を要求してきた。高杉はほぼ全ての提示条件を受け入れたが、この「領土の租借」についてのみ頑として受け入れようとせず、結局は取り下げさせることに成功した。これは清国の見聞を経た高杉が「領土の期限付租借」の意味するところ(植民地化)を深く見抜いていたからで、もしこの要求を受け入れていれば日本の歴史は大きく変わっていたであろうと伊藤は自伝で記している。後に、伊藤博文は彦島の前を船で通過した際、「あのとき高杉が租借問題をうやむやにしていなければ、彦島は香港になり、下関は九龍半島になっていただろう」と語っている。

 連合軍との講和談判を終えたものの、幕府による第一次長州征伐が迫り、長州藩では幕藩体制下でのの政治を推し進めようとする俗論派が台頭した。これにより討幕派が次々に排除されていくことになった。井上門多は襲われ瀕死の重傷を負い、高杉晋作も身の危険を感じはじめた。10月、高杉は福岡へ逃れ平尾山荘に匿われる。野村望東尼(のむらもとに)のもとに潜伏し、長州の情勢を見守った。正義派家老の周布政之助が藩政を窮地に追い込んだ責任をとり自決させられた。長州藩がどんどん幕府寄りになっていく様子を見ていた晋作は今こそ行動をおこすときだと判断し下関に戻る決意を固めた。

 晋作は下関に着くとすぐ諸隊をまわり、「兵を挙げて幕府寄りの俗論党と闘おう」と説得してまわった。すぐにその説得に応じたのは石川小五郎率いる遊撃隊50名と伊藤俊輔(博文)率いる力士隊30名の84名であった。12.15日夜半、力士隊、遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて長府の功山寺で挙兵する(「功山寺の挙兵」)。死を覚悟した高杉は白石正一郎の末弟である大庭伝七に遺書を託して、功山寺の三条実美ら五卿に「是よりは長州男児の腕前お目に懸け申すべく」と挨拶をし、この挙兵が私利私欲からなるものでないと断っている。「真(まこと)があるなら今月今宵、あけて正月たれも来る~」、 晋作が挙兵する前に隊士たちとの酒宴の席で歌った都々逸として伝えられている。

 後に奇兵隊ら諸隊も加わる。まずは下関で長州藩の奉行所を襲撃、そして、三田尻で奇襲攻撃をしかけ、藩の軍艦3艇を強奪した。この活躍に他の諸隊も次々に同調、兵力はどんどん増えていき2千名規模となった。大田絵堂の戦いを皮切りに、次々に正規軍と交戦し、勝利していった。約2ヶ月もの戦いの末、俗論党政権は追放され、藩政は討幕へと踏み出すことになった。


 1865(元治2)年3月、俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握り、藩論を倒幕論で統一する。同月、海外渡航を試みて長崎でイギリス商人グラバーと接触するが反対される。4月には、下関開港を推し進めたことにより、攘夷・俗論両派に命を狙われたため、愛妾・おうの(後の梅処尼)とともに四国へ逃れ、日柳燕石を頼る。6月、桂小五郎の斡旋により帰郷。

 1865(慶応元)年1.11日、晋作は高杉家を廃嫡されて「育(はぐくみ)」扱いとされる。同年9.29日、藩命により谷潜蔵と改名する。晋作は再度の長州征討に備えて、防衛態勢の強化を進める。

 1866(慶応2)年1.21日(一説には1.22日)、土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元を仲介として、晋作も桂小五郎・井上聞多・伊藤俊輔たちと共に進めていた薩長盟約が京都薩摩藩邸で結ばれる(「薩長同盟」)。 5月、伊藤俊輔とともに薩摩行きを命じられ、長崎で蒸気船「丙寅丸」(オテントサマ丸)を購入する。

 6月、第二次長州征伐始まる。幕府征長軍が、長州藩領を四方から取り囲み攻撃を仕掛けた。長州藩の藩境は4ヶ所あり、芸州口、大島口、石州口、小倉口の、それぞれの藩境で戦いが行われたため「四境戦争」とも云われる。晋作は海軍総督として「丙寅丸」に乗り込み、周防大島沖に停泊する幕府艦隊を夜襲してこれを退け、林半七率いる第二奇兵隊等と連絡して周防大島を奪還した。芸州口では井上聞多、石州口では大村益次郎の活躍により勝利した。小倉口では、大島口から戻った晋作が指揮をとり、まず軍艦で門司・田ノ浦の沿岸を砲撃させた。その援護のもと奇兵隊・報国隊を上陸させ、幕軍の砲台、火薬庫を破壊し幕府軍を敗走させた。その後さらに攻勢に出るも小倉城手前で肥後藩細川家の猛反撃に合い、一時小康状態となる。こうして幕府への忠誠心が強い小倉藩との戦いが繰り広げられたが、途中、坂本龍馬率いる海援隊の応援もあり、小倉城奈落という形で長州藩の勝利で幕を閉じた。この時、晋作は肺結核におかされてえり、小倉口の戦いの頃には立てなくなるほどに悪化していた。無理をして陣頭指揮をとろうとする晋作に対し長州藩は療養に専念するよう命令している。

 7月、将軍・徳川家茂の死去の報を受けた小笠原がこれ幸いと小倉城に放火し戦線を離脱したため幕府敗北は決定的となり、この敗北によって幕府の権威は大きく失墜し、翌1687(慶応3)年11月の大政奉還への大きな転換点となった。

 その後、晋作自身は、肺結核のため桜山で療養生活を余儀なくされる。1867(慶応3)年3.29日、新知100石が与えられ、谷家を創設して初代当主となる(明治20年、晋作の遺児・谷梅之進が高杉東一と改名し現在に至る)。高杉本家は義兄の春棋が継いだ。


 4.14日(西暦1867.5.17日)、生没する(享年29歳)。臨終には、父・母・妻と息子がかけつけ、野村望東尼と山県狂介、田中顕助が立ち会ったとされる(田中の残した日記によれば、彼はその日京におり詳細は定かではない)。

 辞世の句は、「おもしろきこともなき世に(を)おもしろく」。死の床にあった高杉が詠み、彼を看病していた野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」という下の句をつけた。それを聞いて「おもしろいのぉ」と言ったあと息を引き取ったと云われている。近年の研究によればこの句は死の前年にすでに詠まれていたという記録があり、正確には辞世ではないという説が有力である(ただし死の間際に詠んだ句でなくとも、人生最後に詠んだ句は辞世と扱われる事もある)。師の吉田松陰の死生観を表す言葉「死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらばいつでも生くべし」の教え通り、数々の命の危険をおかしながらの人生であった。

 墓所は山口県下関市吉田の清水山。なお、木戸孝允・大村益次郎らによって、現在の靖国神社に東京招魂社時代の始めから吉田松陰・久坂玄瑞・坂本龍馬・中岡慎太郎たちと共に表彰・鎮魂され、祀られている。顕彰碑には「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや…」 とある。これは伊藤博文が高杉晋作を評した言葉である。
 晋作は薩長同盟の影の推進者と言われている。理由は京行きをしぶる木戸孝允を決意させたのが晋作だったからである。坂本龍馬との出会いは不明だが、第2次長州征伐で坂本龍馬の協力の下、海戦に臨み勝利した。また龍馬が数々の遭難から逃れたのは、晋介から貰い受けたピストルのおかげだったとも言われている。晋作は龍馬と並ぶ豪傑な男だった。


 高杉晋作が挙兵する前に隊士たちとの酒宴の席で歌った都々逸「真(まこと)があるなら今月今宵、あけて正月たれも来る~」、遺書「これよりは長州男児の腕前お目に懸け申すべく」で知られている「功山寺の挙兵」に応じたのは遊撃隊と力士隊の84名だった。何やら意味深ですね。歴史は廻るとも云う。












(私論.私見)