1861(文久元)年3月、海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦「丙辰丸」に乗船、江戸へ渡る。但し、軍艦教授所の入所を勝手に取り消す。神道無念流練兵館道場で剣術稽古。8月、北関東、東北、北陸を回る旅に出て笠間の加藤有隣、松代の佐久間象山、福井の横井小楠などの名士に会い、佐久間象山や横井小楠と交友する。この旅を「試撃行(しげきこう)」と名付けている。小楠の印象を、「横井なかなかの英物、一ありて二なしの士と存じ奉り候」と記している。翌年、小楠を学頭兼兵制相談役として長州藩に招聘したいという意見を述べている。
1861(文久元)年、晋作は長州藩主・毛利敬親のあと取り定広の小姓役(こしょうやく)を命じられた。これを機会に本格的に藩政に関わるようになる。この頃、長州藩士の長井雅楽(ながいうた)が意見書「航海遠略策」を提出した。「航海遠略策」は、尊皇攘夷に反対し、幕府と朝廷が一緒になって(公武合体)、開国を進めることを建策していた。
1862(文久2)年5月、藩命で、五代友厚らとともに幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航する。上海視察の際、清国がアヘン戦争に負けた影響でイギリスの植民地と化している状況を見て日本の危機を感じ、太平天国の乱を見聞して7月に帰国する。日記の「遊清五録」によれば大きな影響を受けたとされる。高杉の渡航中に守旧派の長井雅楽らが失脚、尊王攘夷(尊攘)派が台頭しており、高杉も桂小五郎(木戸孝允)や久坂義助(久坂玄瑞)たちと共に尊攘運動に加わる。江戸や京師(京都)で勤皇・破約攘夷の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流した。高杉は「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば……」と論じている。
晋作が上海視察から帰国した頃、長井雅楽の「航海遠略策」は朝廷により却下され、長井雅楽は失脚した(長井は翌年2月、自刃を命ぜられた)。これにより、長州藩の方針は、「公武合体」から「即今攘夷」に転換された。折りしも、外国公使がしばしば武州金澤(金澤八景)で遊ぶからそこで刺殺しようと同志(高杉晋作、
久坂玄瑞、
大和弥八郎、
長嶺内蔵太、
志道聞多、
松島剛蔵、
寺島忠三郎、
有吉熊次郎、
赤禰幹之丞、
山尾庸三、
品川弥二郎)が相談した。しかし久坂が土佐藩の武市半平太に話したことから、これが土佐前藩主・山内容堂を通して長州藩世子・毛利定広に伝わり、無謀であると制止され実行に到らず、櫻田邸内に謹慎を命ぜられる。
謹慎中の同志は久坂玄瑞が盟主となり、久坂血盟書「
気節文章」の下、急進的尊攘結社「御楯組」を結成する。結成メンバーは高杉晋作、久坂玄瑞、志道聞多(井上聞多・井上馨)、赤根武人、松島剛蔵(水長盟約の当事者ですね)、山尾庸三、大和弥八郎、寺島忠三郎、品川弥二郎、長嶺内蔵太、有吉熊次郎ら11名。この過程で、長州藩と朝廷や他藩との提携交渉は、専ら桂や久坂が担当することとなる。
12.12日、「御楯組」が品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行う。過激な行いが幕府を刺激する事を恐れた藩は晋作らを江戸から召還する。帰藩後、晋作は周布政之助に対して、今こそ倒幕に向けて動くべきだと提言している。周布政之助は、「それには10年早い、その時期が来るまで待ったほうがいい」と返事したところ、「それならば、10年間、暇を頂きます」と藩に休暇願を提出し、これが認めらた。晋作は、髪を切って坊主になり、吉田松陰の生誕地、松本村の近くで草庵を結び隠遁生活に入った。この頃、晋作は、尊敬していた歌人の西行にちなんで東行(とうぎょう)と名乗っている。