坂本竜馬 |
更新日/2021(平成31→5.1日より栄和改元/栄和3).2.1日
(れんだいこのショートメッセージ) |
坂本竜馬がなぜ我々の琴線を打つのか、その理由について愚考してみようと思う。れんだいこは相応の理由があると見る。以下記すが、恐らく盲点となってきた面に光を当てると思う。賛同、異論、疑問を廻って議論してみたい、坂本竜馬論はそれに値する教材だと思う。 思えば日本人は不思議な歴史を持つ民族である。史上の英雄、例えばシーザーもナポレオンもレーニンもスターリンもヒットラーも毛沢東も現出させていない。それでいて伝えられる限りの古書において、例えば邪馬台国時代よりこの方今日に至るまで、世界の進展趨勢にピタッと連れ添って歩んできている。この力は何なんだろうと感嘆調で思うのはれんだいこだけだろうか。 恐らく、日本には日本なりの宰相・指導者論が有って、全体としてそれがうまく機能して今日に至って来たのではなかろうか。もとより民草・草莽論を無視するつもりはない。相補関係で捉えてみたいと思う。 2003.5.10日 れんだいこ拝 |
【坂本龍馬(さかもと りょうま)の生涯履歴】 |
1835(天保6)~1867、享年歳。 |
1835(天保6)年.11.15日、生まれ。土佐藩郷士坂本八平の次男として誕生する。すぐ上の姉・乙女(おとめ)と生涯を通して親交する。 1853(嘉永6)年、江戸京橋桶町千葉定吉道場にて北辰一刀流を学ぶ。 1854(安政元)年、一旦、土佐へ帰国する。 1856(安政3)年、再び剣術修行に江戸へ。 以後、24歳になるまで龍馬の江戸滞在は続き、この間に多くの人々と知り合い、交友を深めてい。 1857(安政4)年、桶町・千葉道場の「塾頭」に任じられている。当時、長州の桂小五郎(1833~1877、のちの木戸孝允)は、1852(嘉永5)年に江戸へ遊学、上で見た斎藤弥九郎の道場に入門、塾頭となっている。武市半平太(1829~1865、号は瑞山)も1856(安政6)年に江戸に出で桃井春蔵の門下となり、一年足らずで塾頭になっている。 1861(文久元)年、土佐勤王党に9番目に加盟。 1862(文久2)年、土佐藩脱藩。江戸へ出て勝海舟と出会う。 1863(文久3)年、勝塾の塾頭になり、神戸海軍操練所の開設に奔走する。 1865(慶応元)年、薩摩藩等の出資により長崎亀山に「社中」を創立。 1866(慶応2)年、薩長同盟を中岡慎太郎と成立させる。伏見寺田屋で幕吏に襲われ、おりょうと鹿児島へ。 1867 (慶応3)年、瀬戸内海においていろは丸衝突事故起こる。4月、社中より海援隊と成る。 6.9日、船中八策の立案をする。土佐藩の藩船「夕顔」で長崎から京都に向けて出航。同じ船に乗り合わせていた土佐藩の後藤象二郎(1838~1897)に、「船中八策」として知られる回天案を示し、維新後の新社会の骨格を示す。 後藤は、この策を土佐藩藩主・山内容堂に説き、容堂は「大政奉還」は土佐藩の政論として取り上げることを許す。後藤たち土佐藩の重臣は10.13日、二条城で将軍に謁見、案の採用を強力に奏上した。その結果、慶喜は翌10.14日、朝廷に対して「大政奉還」を申し出ることになった。この、一連の動きを察知していた薩摩・長州の連合勢力が同じ日に「倒幕の密勅」を入手して鳥羽伏見の戦いへと発展していった。 1867(慶応3).11.15日、京都三条河原町の下宿・近江屋(京都河原町蛸薬師近江屋新助宅)で刺客に襲われ、龍馬と陸援隊の中岡慎太郎の両名が暗殺された(享年33歳)。劇的な生涯に幕を降ろした。一週間前に福井から帰った龍馬は風邪気味で近江屋に用意されていた隠れ家の蔵では、寒さがこたえると母屋二階で火鉢を抱え中岡慎太郎と語り合っていた。好物の軍鶏鍋でも食うかと使い走りの峰吉に四条小橋の「鳥新」まで軍鶏を買いにやらせた。そのわずかなスキに賊は押し入り下僕の藤吉も犠牲になった。犯人は今現在も不明。 墓は東山の霊山護国神社にある。毎年11月15日には京都で慰霊祭が行なわれ、全国から大勢の竜馬ファンが集まってくる。 |
【坂本龍馬の「四観論」】 |
平野氏が、坂本龍馬の「四観論」を知らせている。「龍馬は、(1)空観、(2)離観、(3)陰観、(4)光観、という見方で活躍した」と述べている。つまり、「鳥になって観ろ、離れて観ろ、影の部分を観ろ、そして光の当たる部分を観ろ」というわけである。「思うに、この「四観」を、坂本龍馬は、生涯、実践したのではあるまいか。彼の超俗的な非凡さや、その天才的言動や行動力は、そのような、ある種の没我的な“達観”なしには、成し遂げられなかったと思えるからだ」(植草一秀の『知られざる真実』の「2010年12月 4日、政治学者渡邉良明氏による『日本の独立』ご講評」)。 |
【「船中八策」考】 | ||||||||||||||||||||||||||
6.9日、坂本竜馬は京都に向かう途上の長崎から兵庫に向かう夕顔丸の船中で、「船中八策」を構想する。土佐藩の採るべき方針として後藤象二郎に提示したものであるが、これが「五箇条のご誓文」の下敷きになる。
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【竜馬の妻、お龍おりょう(1841~1906)】 |
出生には色々と説があるようだが、父の楢崎将作は安政の大獄に関与し病没。その後一家は離散。坂本龍馬と出会う。慶応2年の薩長同盟成立後に起きた伏見寺田屋事件では龍馬を助け、後に鹿児島へ西郷隆盛らの計らいで新婚旅行へ行く。龍馬死後の一時期は土佐の坂本家に世話となるが、義姉乙女と合わず去っている。その後も再婚をするが貧弱な中で終わったと言う。 |
【竜馬と横井小楠】 |
坂本竜馬と横井小楠は都合6回会っている。第1回は松平春獄の紹介で江戸で文久2年(1862)8月。文久3年(1863)5月19日、同年7月下旬は福井で。4回目は文久4年(1864)2月、勝海舟の遣いで、竜馬、小楠を訪ねる。対談した11畳の客間が四時軒に残っている。竜馬の話を聞き「海軍問答集」を執筆することなる。5回目は元治元年(1864)4月、横井太平ら3名を勝海舟に入門させる。
6回目は慶応元年(1865)5月、、二人は意見の対立をみた。小楠の構想には長州藩は念頭になかった。一方、竜馬は元治元年8月、西郷と意気投合、長州藩の薩摩不信を除去するよう仲立ちしていた。竜馬は小楠に「薩長同盟」(慶応2年1月成立)の推進に対し、見守り助言して欲しかったのだが、当時の小楠は沼山津蟄居中で、その構想を云々する国内事情に通じてなかった。そういう訳で、二人は訣別に至るが、生涯、竜馬は小楠を尊敬し明治維新政府の参議に推薦している。 この時話が人物論に及んだ。小楠が竜馬に「俺はどうだ」と尋ねると、竜馬は「先生は二階に座ってきれいな女どもに酌でもさせて、西郷や大久保がする芝居を見物なさるがようござる。大久保どもが行き詰まったらちょいと指図してやって下さるとよございましょう」と答えた。竜馬の「舟中八策」には、小楠の「国是七条」等の主義主張が多く取り入れられている。 |
【竜馬暗殺の下手人考】 | ||||
「坂本龍馬は薙刀の達人?」、小林久三氏著「龍馬暗殺に隠された恐るべき日本史」(青春出版社、1999.10.25日初版)その他を参照する。次のように伝えられている。 1867(慶応3).11.15日、京都三条河原町の下宿・近江屋で、刺客に襲われ龍馬と陸援隊の中岡慎太郎の両名は暗殺された。享年33歳。劇的な生涯に幕を降ろした。この時、近江屋には、土佐藩の岡本健三郎、書店菊屋の峰吉、龍馬の従僕の藤吉がいた。龍馬は、二階奥の8畳間で火鉢を囲んで中岡慎太郎と話し込んでいた。風邪気味だった龍馬がシャモ鍋が食べたいと云い出し、峰吉がシャモの仕入れに出かけた。それをきっかけに岡本健三郎も部屋を離れた。 この時、竜馬暗殺の刺客が店先に現われた。取次に出た使用人の藤吉に対し、「十津川の郷士、何々でござる。才谷先生にお取次ぎ願いたい」と名刺を差し出し、藤吉が龍馬に確認を取りに二階に向ったところ、刺客三、四名が後を追い、藤吉を斬りつけながら二階に駆け上がった。その気配に、龍馬は「ほたえな」(土佐弁で騒ぐなという意味)と叱責した声のする部屋に乱入し、背後から中岡に斬りつけ、龍馬にも襲い掛かった。龍馬は太刀を抜く間もなく鞘(さや)ごと受けたが、刺客の剣が鋭く額を真っ向から切り裂いた。これが致命傷の深手となった。中岡は脇差で応戦したが、11箇所傷つけられ動けなくなった。刺客は去り、龍馬は中岡に「俺は脳をやられた。もういかん」と述べた後絶命した。土佐藩の谷干城が駆けつけた時には時既に遅かった。中岡は二日後の17日まで生き続け息を引き取った。 瀕死の中岡は、暗殺者が「こなくそ」と叫んで太刀を振り下ろしたこと、中岡にトドメを刺そうとした時、もう一人の刺客が「もういい、もういい」と制して、部屋を立ち去ったことを証言している。部屋には二つの遺留品が残されていた。一つは、蝋色の鞘、もう一つはひょうたんの焼き印の入った下駄の片方であった。鞘は、新撰組の原田左之助のもので、下駄は新撰組の溜まり場にしていた先斗町(ぽんとちょう)の瓢亭(ひさごてい)のものであることが判明した。 この事件の首謀者を廻って諸説が入り乱れている。「合気揚げの基礎知識6」は次のように述べている。
谷干城は、新撰組の犯行と断定し、原田左之助と紀州藩の三浦休太郎による共同犯行と断定した。11.26日、近藤勇が、坂本・中岡暗殺について事情聴取されている。その朴訥さ・人柄にほれ込んだ龍馬が名刀一振りを贈ったほどの人で正真正銘十津川出身の中井庄五郎(1847~1867)が、海陸援隊士と共に下手人探索にいち早く乗り出し、龍馬暗殺は新撰組の仕業と考え、12.7日夜、京都の天満屋に新撰組隊士と紀州藩の要人がいることを突き止めた中井たち十数名が龍馬の仇討ちのため紀州藩士三浦休太郎を襲撃、斬り込みを敢行、その先鞭を務めた庄五郎は戦闘中に刀が折れたにもかかわらず奮闘し、弱冠二十歳の命を散らした。王政復古の大号令の二日前の出来事であった。 しかし、暗殺の状況からして、遺留品はわざわざ捨て置かれており工作された可能性が強い。その後の調査で、原田左之助の鞘は伊藤甲子太郎と一緒に新撰組を脱退した藤堂平助なる者にすり替えられたという事が確認されている。二人とも薩摩藩邸に出入りしている。下駄も、祇園の二軒茶屋(腰掛茶屋)の中村屋とかいかい堂のものであることが判明した。二つの料亭とも土佐藩がひいきにしている。事件から二年後、旧新撰組の大石鍬次郎が、薩摩藩邸で新撰組の犯行であることを自供した。 しかし、兵部省(後の陸軍省)に身柄が引き渡され、この時の取調べでは見廻組の犯行だと前言を翻した。具体的に海野、高橋、今井信郎の名前が挙げられ、兵部省は新撰組の生き残りの横倉甚五郎、相馬主殿も含めて審理した。今井は、暗殺は見廻組のリーダー佐々木唯三郎の指揮で行われ、佐々木、桂隼之助、渡辺吉太郎らの犯行であり、自身は見張り役に過ぎなかったと証言した。横倉は獄死した。審理の結果、今井は禁固刑に処せられ、大石は斬罪、相馬は流罪となった。但し、裁判記録は公表されず、闇に封じ込められた。 太田龍・氏は、「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」の中で次のように記している。
「合気揚げの基礎知識6」、「合気揚げの基礎知識7」は次のように述べている。
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【竜馬暗殺フリーメーソン論考】 | |
2008.9.1日、「龍馬暗殺と三菱財閥」(「フリーメーソン」)を転載しておく。
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坂本竜馬をけなす論が出回っているので名誉回復させておく。竜馬は剣術の達人で桶町・千葉道場の塾頭に任じられている。そのステータスは現代の東大首席卒かオリンピック金メダルの栄誉に匹敵する。竜馬はそのステータスの下に全国の人物と交わり堂々と議論しあい次第に時代の渦の只中に巻き込まれて行くことになった。その竜馬が幕末回天運動の青写真を構想し、外国勢の企図する内戦回避にも奔走した。これに烈火のごとく怒った勢力が竜馬を始末したと考えるのが本筋だろう。この功績を見ずにメーソン論で片づけるのは子供だましの類の論でしかなかろう。 |
【千葉さな子】 |
「ウィキペディア(Wikipedia)千葉さな子」参照。 |
千葉さな子(ちば さなこ、天保9年3月6日(1838年3月31日) - 明治29年(1896年)10月15日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての女性。 北辰一刀流桶町千葉道場主・千葉定吉の二女。北辰一刀流小太刀免許皆伝、長刀師範。学習院女子部舎監。漢字表記では坂本龍馬に与えた長刀目録に佐那と記述され、司馬遼太郎の小説でその表記を用いたため、この名称が一般化しているが、千葉家の位牌には佐奈と記されている。初名を乙女。 |
天保9年(1838年)、北辰一刀流桶町千葉道場主・千葉定吉の二女として誕生。兄に千葉重太郎がいる。 北辰一刀流の剣術を学び、特に小太刀に優れ、10代の頃に皆伝の腕前に達したという。また、美貌で知られ、「千葉の鬼小町」「小千葉小町」と呼ばれたという。宇和島藩8代藩主・伊達宗城が残した記録をまとめた『稿本藍山公記(こうほんらんざんこうき)』には、安政3年(1856年)に19歳だった佐那が伊達家の姫君の剣術師範として伊達屋敷に通っていたこと、後に9代藩主となる伊達宗徳(当時27歳)と立ち会って勝ったことが記されている。「左那ハ、容色モ、両御殿中、第一ニテ」(佐那は2つの伊達江戸屋敷に出入りする女性の中で一番美人である)という宗城の感想も残っている。 のちに坂本龍馬と知り合い、さな子の回想によると安政5年(1858年)頃に婚約したという。龍馬は姉・乙女宛ての手紙で「(佐那は)今年26歳で、馬によく乗り、剣もよほど強く、長刀もできて、力は並の男よりも強く、顔は平井(加尾)よりも少しよい」と評している。父・定吉は結婚のために坂本家の紋付を仕立てたが、龍馬の帰国後は疎遠になった。後に龍馬の死を知らされるとこの片袖を形見とした。維新後は学習院女子部に舎監として奉職した後、千住で家伝の灸を生業として過ごし、明治29年(1896年)に59歳でこの地で死去した。なお、龍馬の死後も彼を想い、一生を独身で過ごしたと伝えられるが、元鳥取藩士・山口菊次郎と明治7年(1874年)に結婚したとする明治の新聞記事が2010年に発見された記事では、山口菊次郎とは数年で離縁、その後は独身で過ごしたとされている。宮川禎一京都国立博物館考古室長は「事実だとすれば衝撃的な発見」と述べている。また、司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく 夜話』(朝日文庫)では、「謙明の死後、豊次はさな子を甲府の小田切家にひきとり、余生を送らせた」と、彼女が晩年を甲府で暮らしたとする記述がある。 |
墓所
山梨県の自由民権運動・小田切謙明とは生前から交友があったと考えられており、さな子は東京谷中で土葬されたが、身寄りがなく無縁仏になるところ、謙明の妻・豊次が哀れみ、小田切家の墓地のある山梨県甲府市朝日5丁目の日蓮宗妙清山清運寺に墓碑が建立されたという。墓石には「坂本龍馬室」と彫られている。戦後になってからは東京都立八柱霊園(千葉県松戸市)の無縁塚へ合葬されていたが、2016年8月、没後120年を機に、さなの妹であったはまの子孫が改葬を行い、千葉家縁の練馬区にある仁寿院にて命日の10月15日に法要を営むことが報じられ営われた。 坂本龍馬との関係 坂本龍馬との恋については、龍馬に関する最初の伝記小説である坂崎紫瀾『汗血千里駒』に書かれている。龍馬の許婚としてのさな子は、実家の坂本家からある程度認識されていたように思われる。龍馬が実家に宛てた書簡には、さな子に対する好意にあふれた表現が使われている。龍馬の妻となったおりょうによるさな子評が悪意に満ちていることからも、龍馬とさな子との関係は深かったと推定される。司馬遼太郎の小説などによると、さな子が龍馬に想いを告げた時、龍馬は自分の紋付の片袖を破り形見として渡したと描かれている。さな子が形見としていたこの紋付の袖についても諸説があり、龍馬が千葉家に婚約の証として渡したとする説もあるが、実は紋付は龍馬に渡すべく千葉家の方から準備したものであり、さな子がそれを龍馬の形見としていたとする説もある。 錦絵 2010年、さな子を描いたとみられる錦絵が宮川禎一によって発見されたと『歴史読本』に掲載され、朝日新聞でも2月に報じられたが、後に錦絵は千葉周作の孫の千葉貞(てい)であることが判明した。 |
【竜馬の妻おりょう】 |
ライター/あんじぇりか「坂本龍馬と結婚した「おりょう」を歴女が徹底わかりやすく解説」。 |
竜馬の妻となる楢崎龍(ならざきりょう)は、天保12年(1841年)、青蓮院宮の侍医であった楢崎将作と母貞の長女として京都富小路六角付近の家で誕生。兄弟は弟として太一郎と健吉、妹が中沢光枝と菅野起美(すがのきみ、海援隊の菅野覚兵衛と結婚)。尚、おりょうの実父は西陣織の商人という養女説もある。
おりょうの父楢崎将作(ならざきしょうさく)は、文化10年(1813年)生まれの医師で、諱は貺(たまう)、字は大蔵、号は東崦、繁杏など。楢崎家は元長州藩士で、おりょうの曾祖父源八郎の代に除籍処分となり京都に上って柳馬場三条南で医業を開業し、祖父大造もその跡を継いで、将作も内科、外科医を開業、青蓮院宮尊融法親王(後の久邇宮朝彦親王)の侍医も務めたためか、梁川星巌、頼三樹三郎ら尊王の志士たちと積極的に交流。そして安政5年(1858年)安政の大獄に連座して入獄、翌年釈放されるが、文久2年(1862年)に自宅で病死。 父楢崎将作の存命中は裕福で、おりょうは花道、香道、茶の湯などを嗜んでいる。しかし安政の大獄で父が捕らえられた後に病死後、おりょう一家の環境は一変した。家具や衣類を売って生活をするなど困窮したあげく、妹の起美が島原の舞妓に、光枝が大坂の女郎に売られるはめになる。21歳のお龍は妹二人を取り返すため、着物を売ったお金で大坂へ行き、刃物を懐に抱えて男2人を相手に、殺せ、殺せ、殺されにはるばる大坂に来たんだと、大立ち回りして妹を取り返している。のちに龍馬はこの話を乙女姉さんへの手紙に「珍しきことなり」と書いたいる。 おりょうは京都の七条新地の旅館、扇岩で働くことになり、おりょうの母と妹たちも土佐藩の志士達の隠れ家として知られる河原屋五兵衛の隠居所で住み込みで働いた。その縁で、龍馬とおりょうは、元治元年(1864年)頃、河原屋五兵衛の隠居所で出会う。後年、おりょうは、龍馬と初めて会ったとき、名前を聞かれて紙に書くと自分と一緒だと笑ったと回顧している。龍馬はおりょうに惚れて「まことにおもしろき女」と評している。龍馬は、おりょうの母貞に嫁にしたいと申し入れ、土佐脱藩の坂本龍馬30歳、おりょう24歳は、この年の8月1日に、金蔵寺の住職智息院を仲人として内祝言をあげた。 龍馬は、懇意の伏見寺田屋の女将お登勢におりょうを預け、お春の変名でお登勢の娘分に。おりょうは後になってこの頃、龍馬と2人で歩いていたときに新選組と遭遇して龍馬が慌てて隠れたとか、桐野利秋に寝床を襲われたとか、新選組局長近藤勇が櫛や簪を買っておりょうに言い寄って来たなどということを回想している。 慶応2年(1866年)1月22日、龍馬の仲介で薩長同盟が成立した翌日、寺田屋の2階に護衛役の長府藩士三吉慎蔵といた龍馬を、伏見奉行の林肥後守忠交の捕り方が襲撃し、捕り方に囲まれていることに入浴中のおりょうが気が付き、浴衣を羽織ったほぼ裸で裏階段を2階へ駆け上がって龍馬に知らせたため、龍馬たちは負傷したが応戦しておりょうとともに裏から脱出。その後は薩摩屋敷にかくまわれた。龍馬はこの事件について、兄権平への慶応2年(1866年)12月4日の手紙で詳しく報告、その際におりょうのことを妻と紹介し、乙女姉さんへの手紙には、おりょうがいたからこそ龍馬の命は助かったと感謝の気持ちをあらわしている。 龍馬は寺田屋遭難で両手の親指の重傷がなかなか治らず、小松帯刀、西郷隆盛の勧めで刀傷治療のために、3月4日に薩摩藩船「三国丸」で大坂を出帆、10日に鹿児島に到着。龍馬とおりょうには薩摩藩士吉井幸輔と日当山温泉、塩浸温泉に行って、犬飼滝を見物し、山で拳銃で鳥を撃ったりしている。そして霧島山の頂にある天の逆鉾を見るため高千穂峰に登山して、同行の田中吉兵衛が止めるのも聞かず逆鉾を引き抜いている。この薩摩旅行についても龍馬は乙女姉さんあての手紙に絵入りで詳しく書き送っている。 尚、おりょうの回想では、船上で龍馬は、天下が鎮まったら汽船を造って日本を巡ろうとかと言い、おりょうが家などいらない、船があれば十分だし、外国まで廻ってみたいと言う会話があり、龍馬は突飛な女だと笑ったそう。また、後でこの話を聞いた西郷が、突飛な女だからこそ君の命が助かったのでごわすと大笑いしたという。この龍馬とおりょうの旅行は、日本最初の新婚旅行とされているそうで、この頃、おりょうは鞆子(ともこ)と改名したそう。 慶応2年(1866年)6月、傷が癒えた龍馬は第二次長州征伐で幕府軍と戦う長州へ向かうことになり、おりょうは途中の長崎で下船、小曾根英四郎家に預けられ、翌慶応3年(1867年)2月10日、龍馬は下関の伊藤助太夫家を借りて亀山社中(後の海援隊)の拠点を置くことになり、おりょうはここで妹起美と過ごす。下関に滞在中の龍馬とおりょうは、巌流島で花火を打ち上げたり、歌会に出席したりしたが、 同年5月28日、龍馬はおりょうに対していろは丸事件の経過報告と、おりょうを気遣う手紙を送っているのが、現存するおりょう宛ての唯一の龍馬の手紙であるということ。尚、おりょうと龍馬が最後に会ったのは、慶応3年(1867年)9月に下関に寄港した際だったそう。 おりょうについて、海援隊士だった安岡金馬の子の重雄(秀峰)は、龍馬はぞっこん惚れこんでいたものの、海援隊の同志たちにの評判は悪く、おりょうは龍馬の妻であることを傘にきて同志たちを下風に見る傾向があったという。また土佐藩士だった佐々木高行は、おりょうは有名な美人だが、賢婦人なるや否やは知らず、善悪ともに兼ぬるように思われたりと、善悪定かならずと評している。司馬遼太郎氏も「竜馬がゆく」のなかで、「竜馬にはきらきらと輝いて見えたおりょうの性格は、他の冷静な目からは単に無知、大胆さは単に放埓なだけだったのでは、おりょうのおもしろさは龍馬の中だけにしか棲んでいない」と。 慶応3年(1867年)11月15日、龍馬は京都の近江屋で中岡慎太郎と共に暗殺されたが、その時下関にいたおりょうは、血だらけの竜馬の夢を見たという話。龍馬の訃報は12月2日に下関に伝えられ、覚悟していたものの、おりょうは髪を切って仏前に添えて号泣した。龍馬との間に子供はなし。龍馬は寺田屋で遭難しそうになった時から長府藩士三吉慎蔵に、もしものときはおりょうの面倒をみるように頼んでいたこともあり、また長府藩主からおりょうに扶持米が出たため、しばらくは下関で暮らしたが、海援隊でおりょうの今後のことを相談の結果、3か月後の慶応4年(1868年)3月、土佐の龍馬の実家の坂本家に送り届けられて暮らすことに。尚、三吉慎蔵には中島作太郎が正宗の短刀、後藤象二郎が国産の紙を贈ったそう。 |
おりょうは、龍馬の兄の権平夫妻とも、乙女姉さんともうまくいかず3か月ほどで龍馬の実家を去る。これについては折り合いが悪く険悪になって飛び出したというわけではないようで、乙女姉さんが一緒にあいさつ回りをしてくれたとおりょうは感謝して述懐している。そして菅野官兵衛と結婚していた妹の嫁ぎ先に身を寄せたが、そこでも居づらくなって、明治2年(1869年)中頃に土佐を出ていると。おりょうは土佐を出立する際、龍馬からの数多くの手紙を他人に見せずにすべて燃やすよう依頼したため、おりょう宛ての龍馬の手紙は1通を残して全て失われた。
次いでおりょうは寺田屋お登勢を頼って京都へ行き、霊山の龍馬の墓の墓守をした。が、京都でも居場所がなくなり、東京へ勝海舟や西郷隆盛を頼って行き、おりょうに同情した西郷が金20円を援助し世話を約束したものの、丁度征韓論に敗れて下野、帰ったら世話をすると約束したが西南戦争で自決。元薩摩藩士の吉井友実や元海援隊士の橋本久太夫の世話になったり、元海援隊士で龍馬の甥の坂本直には冷遇されたなど、転々とする生活に。 元海援隊士のおりょうの評判は悪く、彼女を援助する者は誰もいなかったといわれ、元陸援隊士で宮内大臣になった田中光顕の回顧でも、武市半平太瑞山ら土佐の殉難者を顕彰する瑞山会の会合で、おりょうの処遇が話題になったとき、おりょうの妹婿の菅野覚兵衛までが、品行が悪くて意見をしても聞き入れないために面倒はみられないと拒否されたとコメントしたという話が伝わるほど。おりょう自身も、親切だったのは西郷と勝と寺田屋お登勢だけだったと述懐している。 明治7年(1874年)頃からおりょうは勝海舟の紹介で、神奈川宿の料亭田中家で仲居として働き、横須賀の行商人(回操業)の西村松兵衛と知り合い、明治8年(1875年)34歳の頃、旧海援隊士安岡金馬の媒酌で再婚、西村ツルと名乗って横須賀に住むように。再婚相手の西村松兵衛は、寺田屋時代からの知り合いだったという説もあり。松兵衛との入籍後は母の貞を引き取り、妹の子を養子としたが、おりょうが50歳の頃、母と養子が相次いで亡くなったということ。おりょうは幸せとは言えず、貧乏長屋暮らしでアルコール依存症のようになったという。 明治16年(1883年)、土陽新聞に掲載の坂崎紫瀾著の「汗血千里駒」で、それまで忘れられていた坂本龍馬について、広く一般に知られるようになったが、伝記としては内容に事実誤認や創作が多く、おりょうも誤謬が多くてくやしいと語ったため、安岡秀峰や川田雪山がおりょうを訪ねて聞き書きを著したそう。また、日露戦争開戦直前の明治37年(1904年)、明治天皇の美子皇后の夢枕に坂本龍馬が立ったという新聞記事が出て話が広まったため、再び龍馬が注目を集め、おりょうの存在も世間に広く知られるようになり、 明治39年(1906年)1月にお龍が危篤に陥ると、元陸援隊士だった皇后大夫香川敬三からおりょうへの見舞電報が送られ、井上良馨大将が救護の募金を集めたが、同年1月15日におりょうは脳溢血のために66歳で死去。 おりょうの写真とされるものは、明治37年(1904年)12月15日の「東京二六新聞」掲載の晩年の写真のみ。この写真は、おりょうを訪ねて聞き書きの「反魂香」、「続反魂香」、「維新の残夢」を著した安岡秀峰が撮影したものだということ。安岡は、おりょうはおそらくはじめて写真撮影と述べていたため、若い頃のおりょうの写真は存在しないはずということだが、最近になって昭和54年(1979年)、近江屋井口新助家から発見された中井弘旧蔵写真アルバムのなかにあった若い女性の立ち姿の写真と、「セピア色の肖像 幕末明治名刺写真コレクション」に掲載の椅子に座った女性の写真が、若い頃のおりょうの写真とされたということ。この2枚の写真は同一人物のもので、浅草大代地の内田九一の写真館で撮影されたそう。晩年の写真と比較した結果、同一人物の可能性があると鑑定されたが、人物比較法に問題があることと、若い頃のおりょうとされた女性と同じ人物の写真が見つかり、裏書に土井奥方とあったため、若い頃のおりょうとして出まわっている写真はおりょうとは別人らしいということに。 |